無意識日記
宇多田光 word:i_
 



渋谷カフェトーク帰り。嗚呼楽しかった。

ちょうど時間となったので、最後に話題になっていたネタの続き。読者にとっては「知らんがな」というしかないヤツ。

今回の『Fantome』のサウンドは時流との距離感が絶妙で、という話から私が出したキーワードは「ポップ・ミュージック・ファンの為のあんまりポップでもない音楽」。更にそこに付け加えると、「ポップミュージックが好きじゃない人たちの為のポップミュージック」。

普通、ポップ・ミュージックのファンはポップスを聴きたがるし、アンチ・ポップ・ミュージックの人は流行や尻軽を軽蔑して頑として流行りの歌なんか聴きたがらない。敬遠さえしてしまう。その溝は思っている以上に深い。

思うに、『Fantome』はその間を揺らめいているようにみえる。ポップからもアンチ・ポップからも当距離にある…なんていう単純なものにとどまらない、もっと幽玄な感じがする。

ポップミュージックファンからみれば、あんまりポップには思えないんだけど、かといってコアなジャズやソウルほどとっつきづらくなく、聴いてみると意外と印象に残る。カッコよすぎてついていけるかついていけないかという中できっちり「ポップスファンとして聴ける」範疇にあるわかりやすさと親しみやすさがある。

一方、アンチ・ポップ・ミュージックな人たちは、『Fantome』に対して「ポップスの癖になかなか聴かせるじゃないか」と一目置いてくれる気がする。確かに、彼らが普段聴いている音楽と較べてもコアな訳でもないし徹底している訳でもないのだが、楽器編成にしろ曲展開にしろ普通のポップスにはない独特の特徴があるし、その割に聴きやすい。今の旬を感じさせる音ではあるけれど、流行を追い掛け回しているような尻軽さは感じられず好感が持てる。勿論中にはライトな曲調やありきたりなコード進行も聴かれるが、どこにも皮肉やウィットが効いていて唸らされる場面が少なからずある。結果、「ポップスにも聴ける音があるじゃないか」と見直される、という寸法である。

即ち、ポップミュージックファンからすれば「そんなにポップじゃないけど聴ける音楽」だし、アンチポップな人々からすれば「ポップスだけど聴ける音楽」なのではないか。『Fantome』は、そんな立ち位置に居る気がするのだ。


…と言い切りたいところだが、それは流石に理想論と願望が若干含まれている。現実には、そんな"欲張り"なサウンドを目指して作ったとしても、ポップスファンからは「ポップじゃない」と切り捨てられ、アンチポップ勢からは「ポップスじゃないか」と一瞥すら貰えない、という結果が関の山である。『Fantome』がそうならないとは、正直言い切れない。

しかし、ヒカルの事だから、嗅覚で、本能レベルでそこらへんのサウンドスタイルを探り当てている可能性がある。そういう"根っこ"があるのならば、上記の話はただの願望から現実となりうる。『Fantome』にはその可能性を感じる。

特に、今回の作品は(カフェでも話に出ていたのだが)、ロンドンで生活しロンドンで(小森くんを呼び寄せてまで)録音したのが大きいのではないか。未だにロンドンが"世界中から今の音楽が集まる場所"であるのなら、好むと好まざるとにかかわらず、音楽家は街からそういった気っ風を受けるように思う。環境に敏感なHikaruが影響されないとは言い切れない。

ただ、その分、『Fantome』のサウンドは英欧米のファンに好評である一方で、世界の大衆音楽の流れと比較的無縁な日本やフランスといった国では相対的に評価が低くなる恐れがある。皮肉にも、収録曲で用いられている言語は日本語とフランス語なのだが。これが不運だったとなるか、英欧米ではサウンドが評価され日仏では歌詞が評価されてどこでも高評価となるか、さてどちらに転ぶか私もわからない。しかし、そういった視点からみれば、世界各国のiTunesチャートの動きも幾分か興味を惹くものになるのではないか。

日本語で勝負する作品、という事で正直事前には『Fantome』の国際展開についてはまともな考察をしてこなかったし、全世界のポップスファンのみならずアンチポップピープルにまで訴求するようなチャレンジングなサウンドを垣間見せていようとまでも思っていなかった。まずは、純粋に、日本で売れるかどうかばかり考えていた。しかし、iTunesチャートで全米3位にまで上り詰めた今となってはそうも言ってられなくなった。『Fantome』から先のHikaruの物語は、今後思わぬ展開を見せるかもしれない。引き続き注視していきたいぞ。

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この感情は多分、次のアルバムに『Fantome』という名の楽曲が収録される事で解決する気がする。いや、次は流石に早過ぎるかな。いつか、にしとこ。

全米6位というのはインパクトが強い。全世界でも6位だそうな。単純に考えて、「Utadaのニュー・アルバム」と捉えられているのだろう。

最初、『Fantome』のサウンドプロダクションに触れた時、やけにモダンだなと思ったものだ。今のアメリカのヒットチャートに並べても違和感が無い、というそこまで積極的でもない意味に於いて、ではあるが。しかし歌詞は今まででいちばん日本語。プロモーションも日本オンリー。そういう場合、こういうサウンドは不利と思っていた。ぶっちゃけ、宇多田リスナーの9割は毎週全米チャートチェックしたりしてないでしょ? 俺もだ。いやでも時折AFNがBGMになってるので多少耳にはしているか。兎も角、そんな"平均的な日本人"にとって、海外チャート寄りのサウンドは親しみ難くとっつきづらいだけでは、と懸念していたのだ。しかし、全米で売れているとなると話が違う。Top10に入ってしまうと試聴してみようというレイヤーがかなり出てくる事が予想される。そうなった時に、『Fantome』のサウンドはアメリカの皆さんに大変耳馴染みが宜しい。案外暫くiTunesチャートに残ってるんじゃないかという気がしてきた。はてさて、
どうなりますやら。

そいや、梶さんもこのチャートインの話題ツイートしてたけども、アメリカでのプロモーションて今回誰か何かやってるのかな。ゼロ?

余談だが、フィンランドでは1位をとったらしい。流石世界一メタルが盛んな国である。耳が肥えている。あと、歌詞を気にしないんだな(笑…デスメタルバンド幾つも在るからねぇ…)。


なんでこんなサウンドになったのかはサンレコとクレジットをみてからにするとして(まだ両方読んでない)。ヒカルがロンドンに住んでたのはやっぱり大きかったのかな、と思う。私は行った事が無いので何も言えないのだが、やはり彼の地には世界中から音楽が集まってきて常にアップデートされたサウンドに身を委ねる事になっているのだろうか。ヒカルが殊更意識しなくても、音づくりの段で自然に今様なサウンドが表れてきたのかもしれない。そういう話も、インタビューの未読部分で触れてくれてると有り難いなぁ。

今回はよく「久々にCDを買った」という話が出ているが、極端に言えば「『SCv2』以来の新譜CD購入」という人も結構居るのではないか。そういう人にとっては、「随分宇多田ヒカルのサウンドも空気が変わったなぁ」と思えるかもしれない。いや、そう思っちゃうよねやっぱ。

それはかなり極端にしても(いや広い世の中「『First Love』以来のCD購入」という人も在り得る)、多かれ少なかれ似たような印象を持つ人は多いだろう。ここで2つクッションが必要だった。ひとつはUtadaのサウンドに親しんでいたかどうか。特に、『This Is The One』に触れていれば大分印象は違ったであろう。もうひとつは、『Kuma Power Hour』だ。あの番組を一年間聴いてた人とそれ以外では、『Fantome』への親和性、耳馴染みはかなり異なったものになっている。あの番組は、番組中に流したのだから当然なんだが「『桜流し』以降の宇多田ヒカルの音楽に対する感性」に触れられる貴重な機会だった。あそこで「へ〜ヒカルちゃんこういうの聴いてるんだ」と思った人と通過しなかった人で『Fantome』の感想がかなり変わる。そう見ている。


もっとも、いつも言っているように、高い参照性を求める音楽なんてPopsとは呼べない。Popsとは、いきなりスピーカーから鳴らして「お」と思わせられるかが総てだ。その点、『Fantome』に収録されている楽曲陣は…

…ちと長くなり過ぎたな。続きはまた次回だね。

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iTunes Store USで6位やてか…なんじゃそら。国や言語を超えて、プロモーションほぼゼロの地域でここまでの成績を残す事自体驚異的じゃないか。米国の人たちも「これ誰?」って今頃驚いてる事だろう。西海岸ならまだ夕飯時だ。勿論、アジア諸国では第1位を連発している。日本では初日のデイリーオリコンチャートで87088枚と、これまたなかなかの数字だ。もっと少ないかと思ってたよ。

初週300万枚とか言ってた時期とは隔世の感がある。その頃を知ってか知らずか、レコードショップの押し出し具合はもう常軌を逸していた。どの店舗でも『Fantome』がお出迎え。渋谷TSUTAYAなんか一階のフロア中に『Fantome』のポスター両面版が吊されていた。どれだけ賭けられてるんだか。

採算分岐点高そうだなー、なんて野暮な事は言うまい。『Fantome』で久々にCDを買う人も珍しくなさそうだ。この"祭り"に参加するテンションが、どこまで持続するか。

しかし、もう買ってしまった身には、案外この後に続くものがなかったりする。明日と来週アタマの地上波テレビ出演を見て、更に次の週にラジオを聴いたら〆か。ローカルだが、渋谷のコラボカフェも6日までという話。

どうにも、これが勿体無いというか。幾ら日本のCDが初動型だからといって、アルバムを買って貰ったらはいおしまい、というのは呆気ないなと。

CDの売れなくなった時代、そこから先が重要なように思う。CD最盛期の90年代は、あるアーティストの発売日を過ぎたら別のアーティストが次週に控えていて、という風に次々目移りする位に次へ次へと買うべきアイテムが襲ってきていたが、さて、この2日間で『Fantome』のCDを買ったうちの何%が次週も他のCDを買うのか。甚だ心許ない。

ここまでの二週間は情報の洪水だった。このあと台風一過でまた静けさが来るのだろうか。先の事を考えていても仕方がない。まずは、差し当たって明日夜のテレビ出演を楽しみに待つとしますかね。あ、SSTVの特集番組は今夜だっけ。そういうのもある。一々、丁寧に確認しないとね。

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では、『Fantome』が所謂"問題作"かというと、それもしっくり来ない。楽曲集としてみれば、最高傑作とまでは言わないまでも、相変わらず素晴らしい。これだけ曲があれば一年間は日記のネタに困らない。普段も懸念は自分の気分と体調だけで、ネタに困った事ないんだけどね。アルバムというひとつの作品としてみた時に、という話だ。

SCv2は新曲と旧曲のコントラストと連続性の両方が鮮やかだったし、TiTOはA面B面のアナログ盤的感覚で"米国と世界で売る"為の狙いが明白だったし、Hステの曲順の見事さは今更言う迄もない。いずれも、曲を単独で聴く以外に、アルバムとして聴いた時にまた別の独自の価値があった。『Fantome』の場合、それがない訳ではない。あるように思えるのにそれが何なのかハッキリしないから掴めない、そういう感覚なのだ今。

前回はそれを「タイトル・トラックの不在」という"名前の話"に求めた。今回は音楽面で考えてみる。

色々考えた。ズバリ、『荒野の狼』が原因だと思われる。

前の曲の『真夏の通り雨』は、永遠に癒えない悲しみの無限ループに落ちていく救いようのない楽曲だ。だから、この曲を自分で勝手に他曲と繋げて聴く場合、『Fantome』以前であれば、そこから『花束を君に』に繋げて未来へのはなむけとするか、或いは『桜流し』に繋げて「静の慟哭」から「動の慟哭」の流れからカタルシスと勇気を貰うか、が常であった。いずれも、感情の起伏に沿った選択だ。

しかし、『真夏の通り雨』の次に『荒野の狼』が来た場合はどうか。初めて聴いた時、まるでテレビでシリアスなドラマを見ていたら急にCMが入ってさっき劇中で悲しく死んでいった女優さんが明るく笑顔で洗剤の宣伝をしているのに出くわしてしまったような、「あ、一旦リセットね」感を感じてしまったのだ。ここでアルバムの流れが一度途切れた。

それだけなら「そういう曲順だから」で諦めもついたのだが『荒野の狼』はBメロからいきなり変わる。ハッキリ言ってこの曲のBメロからサビへの泣きメロの扇情力は過去最高クラスである。宇多田ヒカルにしかこんなメロディーと詞は書けない、と言い切れる素晴らしい展開と構成。もしこの曲がこのテンションのまま、というかサビのコードを下敷きにしたイントロから始まっていたら『真夏の通り雨』からの繋ぎも最高でこの7曲目から8曲目の流れは掛け値無しに「神」と呼ばれるものになっていただろう。そんな想像が頭を駆け巡った。

更にそこから『忘却』『桜流し』と繋げてアルバムを終えていたら間違いなく「宇多田ヒカル最高傑作」になっていたのではないか。『人生最高の日』は、そうなったら、『ともだち』の前あたりがいいかな。兎も角、アルバム終盤の流れとしては珠玉となっていた筈である。

しかし、それは、あクマでアルバムとしてみた時の話。単独の曲としてみた時、『荒野の狼』のイントロがサビと同じコードだったりするベタなパターンより、現在の形の方がずっと興味深くて、個性的だ。だから、それは全く間違っていない。ただ、その個性が強過ぎて、楽曲単一での起伏はスケールが大きくなっていても、アルバムに"dedicate"する結果にはならなかった。それだけだ。どちらをとるかというだけの話。まぁ、ヒカルなら…(黙)。


なお、『荒野の狼』。歌詞はヘッセの『Steppenwolf』とほぼ関係が無い。わざわざ読まなくてもいいですよと、この間日本語訳を全編読んだ者として進言しておく。

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結局の所、「タイトル・トラックが無い」、これに尽きると思う。曲はいいのにアルバムとして幻なのは。

『First Love』には『First Love』が、『Distance』には『DISTANCE』が、『DEEP RIVER』には『Deep River』が、『EXODUS』には『Exodus '04』が、『ULTRA BLUE』には『BLUE 』が、『HEART STATION』には『HEART STATION』が、『This Is The One』には『The One (Crying Like A Child)』が、それぞれあった。『Fantome』には『Fantome』も『FANTOME』も『ファントーム』も、『Super Fantome』も『Fantome Hour』も『Kumantome』もない。

強いて挙げるなら、フランス語の出てくる『俺の彼女』が近いかもしれないが、歌詞カードを見る限り『Fantome』やそれに似た単語は歌詞に出てこない。や、もしアルバム・タイトルが『俺の彼女』だったらインパクトは抜群だったろうがな。

この『俺の彼女』の素晴らしさ、もう最初のイントロから心を鷲掴みにされてしまった…という話は後に回そう。今は、まだいい。恐らくこれから私は、いつものように各曲について「この曲のここが凄い」という話を、全曲延々続けるだろう。恐らく、『HEART STATION』アルバムあたりと似たようなテンションで。それを読んだら、「一体、何が気に入らなかったんだ!?』と読者は思うに相違ない。だからこそ、今のうちに言っておきたいのだ、このアルバムに物足りなさを感じているという事実があったのを。

タイトルトラックがない、というのは、アルバム全体にわたって「これだ」と言い切れるテーマを持った曲が存在しない事を意味する。自然に考えれば、アルバムタイトル候補は『桜流し』と『道』に絞られる。最初に歌詞を書いた曲と、最後の方に『言いたい事が言えた』曲と。しかし、このどちらかに決めるには『俺の彼女』や『真夏の通り雨』の求心力が強すぎる。後ろには『荒野の狼』も控えているし…という風にどの曲も存在感がありすぎていつまで経っても決まらない。『HEART STATION』も似たような状況だった気がするが、この時は恐らく、「じゃあ中心(Heart)になるような中庸な曲をタイトルにしよう」となったのだと推測している。突き詰めていえば、「この17ヶ月間の宇多田ヒカルは結局何だったのか」をシンプルに表現された曲がタイトル曲になる、とそう私は解釈している。

同じような「中心となる曲」を『Fantome』に探しても、さて、何とも定まらない。やはり『桜流し』が最後を陣取るのだから…と言って『桜流し』をアルバムタイトルにしても、他の10曲を"代表する"感じがしない。少し色に偏りがありすぎる。『道』は逆に、イメージが定まらな過ぎる。何を言っているのか(タイトルだけでは)わからない。終始、こんな感じなのである。

つまり、『道』を『道』という名にしてしまったのが原因な気がする。せめて副題をつけて『道 - you are every song -』とでもしておけば、アルバムタイトルを『道 - you are every songs -』に出来たのに。Flowers For Algernon のsだな。

まぁ、言っていても仕方がない。このアルバムは『Fantome』、『幻』、『気配』なのだ。その幻影を、どこまでも追い掛けていってみましょうぞ。

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「チーム打率3割なのに4番バッター不在」。これが『Fantome』の第一印象だ。

個々の楽曲は本当に素晴らしい。アレンジも凝っている。要所々々で独特の日本語が切り込んでくる。心に直接言葉を放り込んでくる。手を変え品を変え、最後まで全く飽きさせない。つまらない曲はひとつもなかった。それぞれの曲をそれぞれに楽しんだ。で、最後の『桜流し』に辿り着いた時にこう思うのだ、「え、もう終わり?」

決して中身が薄い訳ではない。新鮮なアイデアが満載である。モダンなサウンドとレトロなサウンドが自然な体裁で同居している。ボトムを効かせたサウンド・プロダクションは過去最高のクォリティーで、特にヴォーカルの録音に関してはそのリアルさ、身近さに思わず「小森くん、ぐっちょぶ!!」と喝采を贈りたくなる。花束を君に。

つまり、呆気ない訳ではない。濃密だ。しかし、最後の最後まで何かを掴んだ感触がない。曲はいいのに、ひとつの作品として、一枚のアルバムとして捉えどころが無さ過ぎる。嗚呼、まさにタイトル通りの『ファントーム』、幻のようなアルバムである。

野球に親しくないファンに対して物凄く詳細をぶったぎって乱暴に形容すれば、「『First Love』アルバムから『First Love』を抜いて聴いたような感じ」か。単純に「決め手に欠ける」と言うには楽曲が充実している。『俺の彼女』は5分間唸りっ放しだし、『人魚』の調べは美しい。『荒野の狼』はこれぞヒカルとしか言えないフック満載の歌メロで、『忘却』のモダンで圧倒的な存在感は他の追随を許さない。『人生最高の日』の3分で切り上げる潔さは新境地だ。どこをとってもカブる曲は無く印象の薄い曲もない。アレンジやプロダクションも含めると、『First Love』と『Fantome』では文字通りこどもと大人くらいのクォリティーの差がある。

しかし、リスナーが求めるのはそういう事かというと違うんじゃないか。極端に言えば、他の曲がダラダラであろうが『First Love』みたいなわかりやすい名曲がどーん!と真ん中に鎮座していればそれで総て許される、みたいなところがあると思う。密度とか多様性とかより、一瞬でも「これ! これこれ!」と腑に落ちる、しっくり来る、真ん中に当たる感覚を得たいのではないか。

『Fantome』の曲は、それぞれに単独で聴く分にはどれも唸らされる。しかし、連続で聴いて何かを求めていくと、それは手に入らない。何とも不思議なアルバムだ。

思うに、ヒカルは、まだ自分の事を赦せないところがあるのかもしれない。『母の顔に泥を塗らない』という気合いはヒシヒシと感じる。どの曲も妥協なく練り込まれていて、「ああ、プロの仕事だな」と思わせる。パッと弾ける『人生最高の日』までも、非常に丁寧に作り込まれている。誰も泥を塗ろうなんて思わないだろう。

しかし、それもどこか「作られた多様性」で…って朝からちと長くなったな。続きはまた次回にしておきます。またもう一度聴いたら印象が変わるかもしれない。まだ一回しか聴いていないのでね。

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折角なので昨日から丸一日新曲を聴かないようにしているのだが、何だかもう随分聴いていないような気がしてくるんだから依存症とは恐ろしい。特に『道』のサビはもう勝手にアタマの中をグルグル回っている。回り道である。(ちゃうわい)

まぁもう肩の力の抜けたもので、明日から日記のネタが劇的に増えるんだなぁ、楽になるのか苦になるのかよくわかんないなぁという気分。もう6曲知っている訳だけど、ひとまず、「『Fantome」を知らない自分」や「『Fantome』の無い時代」とはこれでお別れを告げる事になる。嗚呼、長かったな。

別に昨今始まった事ではないが、毎日新しい曲に触れる生活をしていれば、それが1日5曲だって恐れるに足らず。勿論、思い入れも思い出も深い相手なので感慨はあるし、何より、これからの人生であと何回ヒカルの新作を迎えられるかを考えると、とても貴重な日なんだなぁと嘆息する。

実際、吉良(知彦)さんには、オフレコで次回作の話を伺うなどして、変な話、彼が次に作る筈だったニュー・アルバムを自分が聴く事を疑っていなかった。LIVEでは少しずつ新しい曲も聴いていた(次のアルバムに入れるかどうかは明言していなかった気がするが)。そういうの、本人がある日死んだら総ておじゃん。僕達は、そういう世界に生きている。今私が考えている事は、まず安全に帰宅する事。それだけだ。今電車が転覆したらそれでおしまいなんだな、と。電気代払い忘れてないよなー、とか、家の鍵落としてないかなー、とか、そんな実際的な心配ばかり。でもまずは、いつもいつも、生きていなければ話にならない。浮かれる気にはならない。

アルバムの中身に不安は全く無い。ヒカルなら必ずやってくれる、というのもあるにはあるが、本人が出来を誇っているのだからもうそれがいちばん間違いはない。出来の悪い作品を糊塗して絶賛する事こそ、あの誇り高き歌手であった母の顔に泥を塗る行為だろう。ヒカルが自ら「二度と作れない」とまでいう作品に、何の不安も無い。

そこは、本当に正直で居て欲しい。勿論、商業音楽である以上、ネガティヴな発言は避けるべきだが、うまくいかなかった部分があるのならそうわかるように言って欲しいのである。素直な感想でいい。親バカと言えばいいのだろうか、生みの親である以上、曲をいちばん高く評価しているのが自分であっても何ら構わない。でも、自分の気持ちに嘘はつかないで欲しい。「出来は悪いけど無茶苦茶かわいい」とかでもいいじゃないのさ。親なんて、それでいいよ。

私は親ではないので辛辣だが、多分売上以外に難癖をつける予定は無い。それが信頼だ。繰り返しになるが、制作してみた結果、クォリティーが上がりきらなかったらそれでもいいのだ。作品なんて、自分の自由にゃできないよ。でもそこにかける声に嘘は要らん。そここそ、自分の自由に出来る最大の事でしょう。

私的に鑑賞するにあたって売上の話は雑音だ。ノイズもまた音楽たりえるが、それは純音がどこかで奏でられた後の話。まずは、歌に耳を傾けよう。耳が健康でありますように。イヤホンやヘッドフォンやスピーカーが全部故障しませんように。停電しませんように。結局、当日に考えるのはそんな事。慌てない。急がない。怠らない。ワクワクやドキドキより、足元をよくみて躓かないように気をつける方に遥かに心が行っている。あぁ、つまり、私は生きたいと思っているのだな。新しいヒカルの歌に出会いたくて。それは、何にも変えられない程の強い強い強い力だ。生きるのは、安全に歩くとか、健康に呼吸するとか、身体の自由を侵食されない、とかそういう事だ。今の私は、聴覚や社会や呼吸において、自由である。ここに居れて感謝する。誰に感謝すればいいかわからない時、人は神を生み出すのだ。生きたいと思う人の前に、神様は現れるのでした。それこそが幻、気配の正体なのかもね。

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『おでん屋の開店時間まで

 外で立って待ってたら

 いっぱい蚊にさされた



 宇多田ヒカル』

Music Station Ultraフェス、同番組恒例の「書き置き」である。いや、『置き手紙』かな。

何だろう、復帰後いちばん共感した。ホッとした。意味わからん。おでん屋なんぞ行かないし待たないし蚊にも刺されないのだが。余談だが「蚊に刺される」「蚊に喰われる」「蚊に噛まれる」の3つのうち貴方が使うのはどれ? 私は「刺される」が多いな。

そもそもおでん屋の開店時間ていつなんだ。朝なのか昼なのか夕方なのか。なぜ開店時間を待つ必要のある時間帯に赴いたのか。不可抗力なのか。不可解な事ばかりだが、これを読んで安心した。ニュー・アルバムを迎える心の準備がこれで整った、という位。何なんだろうね。

疎外感? アウトサイダー?? フランス語でいえば「エトランジェ」かな。いやそれだと英語のストレンジャー、見知らぬ人か。旅の客人、みたいな意味もあるか。でも、そういう感覚。番組スタッフも狙ってなのかいちばん下に持ってきてるし。皆ここに辿り着くまでにブラウザ閉じてそうだけど。


という感じでニューアルバム『Fantome』の店出し日を迎えましたね。未だに『6th アルバム』という表記は釈然としない。『Single Collection Vol.2』を入れないのは違和感が有り過ぎる。かといって、それなら名前上『Single Collection Vol.1』もカウントしないとマズい、という話になる。こちらは新録音曲が無しなので、逆に4thアルバム扱いされると首を傾げる。難しいもんだな、確かに。そうして"6th"という表記を受け入れると『8年半ぶり』という枕詞もついてまわる。果たして、うちらの実感と乖離した感覚ばかりが溢れ返る事になる。そんなに待ってへんっちゅうねん。

と、そんな気分の時におでん屋の前に立たれた。蚊に刺された。一安心。て謎の展開だが、落ち着いて、自然体で受け入れればいいかと肩の力が抜けた。売ろうと力むのは売る方でいい。買う方は、出来る気軽に、買う。買い過ぎたら売ればいいし。

という訳で楽しみである。今夜にはもう聴ける。ただ、確かにファースト・コンタクトは大事だが、今までのアルバムがそうであったように、これから何十年と続いてゆく『ファントームのある暮らし』の方がいちばん大切だ。新しい親友が増えるような、そんな感じ。という訳でこれからは、よろしくね☆ミ

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間際になって凄いのぶっこんできたな。確かに、101局で同じ番組を流すだなんて前代未聞だわ。もしかしたらギネスに登録出来るんじゃないの? 更に「シェア・ラジオ」なるサービスの皮切りにもなるらしい。『サントリー天然水 presents 宇多田ヒカルのファントーム・アワー』。歴史に残る番組になるか。

いやね、勿論『トレボヘ特別編』か『帰ってきたクマ・パワー・アワー』くらいはやるんじゃないかとは思ってたの。今回もラジオ重視だし。でもそれじゃあ全国5局ネットかInterFM1局かでしょ。101局パワープレイには相応しくないように思ってたのよ。そこでまさかの全局1時間ジャック。こっちが本当のパワープレイだよ全く。

これが大規模メジャー・レーベルの力かと唖然とさせられる。日本の民放ラジオ各局は一枚岩ではない。複数の系列に分かれている(だからトレボヘは一部の局でしか放送されない)。それを説き伏せて纏め上げるとは。短波局まで含めてだよ。気の遠くなるような規模だ。だってメール一回送るだけで101通だよ? LINEで連絡取れるようにするのもSkype会議開くのも一苦労。一体何をどうやって全体をオーガナイズしたのか。梶さんは魔法でも使ったのか?

もう随分と生活の中でラジオの割合がテレビより大きくなっている私のような人間にとっては大きな朗報以外の何物でもないが、しかし、普段ラジオを聴く習慣のある人間はそんなに居るのか?というのが正直な疑問である。いや寧ろ、これをキッカケにしてラジオを聴くようになる人が増えればいいのか。

鍵となるのは、本来なら、Earpodsだ。iphoneは今回の7/7plusからイヤホンジャックが廃止になった。ライトニングケーブルのアダプターの音質は随分酷いらしい。音楽ファンからすればけしからんとしか言いようがなさそうなところだが、これは勿論無線イヤホン普及への布石である。ライトニングケーブルアダプターに気合いが入っていないのも、有線イヤホンに愛想を尽かせる為である。無理矢理にでもEarpodsを使うように、と。

そのタイミングでラジオのニーズが浮上してくる。スマートフォン全盛時代だ。スマートフォンを弄っていられる時間に如何にして食い込むか。どうやって音楽が付け入るか。その時にラジコやシェアラジオといったツールのニーズがどうなるかだ。無線になるとイヤホンを身に付けている時間が格段に増える。問題はBluetooth規格の諸問題だ。充電・遅延・断絶等々。そこをクリアーできていればEarpodsは次の時代を捉える事が出来るだろう。現時点での記事を読む限り「まだ無理」一択のようだが。

話が逸れた。ヒカルのラジオをまた聴けて嬉しいという話だ。惜しむらくは、その放送が今週だったらなという事だが、シェアラジオと足並みを揃える事を優先したのだろう。宇多田陣営は、今や初動売上がどうのという狭い世界の話ではなく、日本という国の中でどうやって大衆音楽という文化を育んでいこうかというスケールのドデカい所に焦点を当てている。最早、来週発表される初動売上枚数に対してあーだこーだと野暮な事は言うまい。ヒカルの歌を通じて、日本人がまた歌を愛して歌に親しみ直せるかどうか、そこの所が肝心なのだ。その大きな"夢"の先陣として、『Fantome』は位置付けられている。長いスパンで眺めて、その真の影響力の度合いを計っていきたい。

それにしても、『クマ・パワー・アワー』に引き続きヒカルが全プロデュースだなんて、そんな手作り感満載な音楽番組が10月11日から17日の一週間日本中で流れるかと思うとわくわくするねぇ。楽しみ。

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はい来ました『Fantome』発売週。待ちに待ってもう興奮が抑え切れない、と書ければよいのだが、実際は真逆で、毎日ほどにやってくる新しい情報が消化しきれずに「ちょちょちょちょっと待って、もう発売日なの!?」というのが偽らざる心境。密度濃過ぎですよ。

だから、先行して『桜流し』『花束を君に』『真夏の通り雨』『道』『二時間だけのバカンス』『ともだち』の6曲が聴けているのは本当に有り難い。『Fantome』を初聴きしながら、こな6曲でほっと一息吐ける事だろう。それでもまだ『俺の彼女』『人魚』『荒野の狼』『人生最高の日』の5曲をいっぺをに耳にする事になる訳で、きっと何度も深呼吸が必要になるだろう。いやはや、人騒がせなヤツだ。

昨夜、マイアミ・マーリンズのホセ・フェルナンデス投手が亡くなった。24歳だった。イチローが出てる試合で投げているのを「へ〜若いのに大したもんだねぇ」とチラ見した事がある、という程度で個人的には彼に何の思い入れもない。しかし、マーリンズは今日の主催試合を中止までして追悼している。よっぽどショッキングな出来事だったのだろう。強烈に慕われていたイチローもさぞやショックに違いない。

唐突にこんな話を出したのは、相変わらず、僕が、彼がシーズン中に死ぬだなんてこれっぽっちも思ってなかったからだ。「人は死ぬぞ。」―相変わらないモンキー・D・ルフィの名言だが、兎に角、まずは明日明後日も生き残る事。それが『Fantome』に触れる為の普通の必要条件だ。触れれさえすればどうにかなる。それ以上の事を高望みしても仕方がない。それと、聞こえてる耳を大切にする事、かな。浮かれないように、きちんと足元を見よう。新しい音楽に触れるだなんて、普段から毎日やっている事。何も特別な事はない。新体験は、平常心で臨みたい。

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『道』を聴いた時は本当に安堵した。いの一番に「合格点」と書いたのは偽らざる本音そのものである。こういう曲が無いと作品がヒカルのアルバムとして成り立たないからだ。

その曲調は、『This Is The One』のA面のそれに近い。ヴォーカルに焦点を当て、切ないメロディーとシンプルなリズム、そしてシンプルなリフレイン。言わばヒカルの得意中の得意。サウンドをシンプルにし過ぎて物足りなさすら感じさせるところも『This Is The One』に似ている。あれだけ何度も『日本語で勝負する(英語に逃げない)アルバム』を作ったと言っておきながら一曲目からリフレインが英語なのは、制作の終盤に作詞しただけあって、それだけ他の曲の日本語詞に自信があったというのもあるだろうが、何より『lonely but not alone』というコンセプトが、そのまま英語の"叫び"となって心に響いたのだろう。ただただシンプルに、日本語で「淋しいけどひとりじゃない」というよりハマったのだ。それは今言った『This Is The One』での経験も大きかったのだろうし、この曲のもつグルーヴに呼応した結果でもあろう。実際、昨今の洋楽の中に放り込んでも違和感のないサウンドだ。ここらへんも『This Is The One』当
時の戦略に相似する。勿論、具体的なサウンド自体は、同作とは7年の隔たりの分だけの違いはあるが。

そして、王道かつシンプルなこの曲は、間違いなくLIVEに強い。シンプルさというのは特にビッグ・アーティストのLIVEにとっては重要である。アリーナ・クラスやスタジアム・クラスの会場だと、どうしたって音量が大きくなり出音が太くなる。テクニカルでゴチャゴチャしたサウンドはなかなか判別しにくい。太い音を明確に鳴らせる隙間のある位にシンプルなサウンドの方が、聴衆席の隅々にまで届くのだ。それが強いビートとなると尚更である。

更に、そこにヒカルの歌声で繰り返されるシンプルなリフレイン。『It's a lonely, It's a lonely, It's a lonely, It's a lonely, It's a lonely, ,,,』と繰り返されていくうちに、聴衆の心が歌声に巻き込まれていく様が(今のままでも)手にとるように妄想できる。どれだけこのリフレインを力強く歌い切れるかが肝だが、それは、ヒカルがこの歌詞にどれだけ気持ちを入れているかで決まってくる。思いをぶつけられる言葉。その選択は正しかったと遥か未来のLIVEを夢想しながらここに断言しておこう。

「SONGS」でのパフォーマンスを聴く限り、単線のヴォーカルでも十二分に渡り合えそうな予感がする。ブレスがストレートに難しい曲だが、今のパワフルになったヒカルならウォーミングアップ代わりにオープニングで歌っとくか位に頼もしい事を言ってくれそうな気がする。あとは、テレビではそもそも居なかった満員の聴衆に対して求心力或いは訴求力をどれだけ持てるかだ。その際に、あのユーモア溢れる『(road!)』の部分をどうするかが見もの、課題である。

果たしてマイクをこちらに向けて聴衆に歌わせるのか、或いはバンドのメンバーの誰かが合いの手のように切り込んでくるのか。一回々々の公演で持ち回るのもいいかもしれない。『今夜の『(road!)』は小森くんだからね〜!(笑)』「いやヒカルさん僕ステージに居ないっすよ!(泣)」みたいな感じでひとつ。何しろこの曲『道』にとって『(road!)』は"タイトル・コール"なんだから重要っすよ。

しかし、最初歌詞のない状態で聴いた時は全然聞き取れなくってね、『(road!)』。確かに『Its a』って不定冠詞aが入ってるように聞こえるのに後に続く名詞が見当たらないなぁと思ってたのよね。あんなに小さく『(road!)』って言ってたとは。全く小さく前に倣えじゃないんだからもっと目立っといてくれよそこは。(意味不明なツッコミ)

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昨夜の「NHK SONGS」の放送が終わって、いよいよアルバムリリースを待つばかりとなった。日曜日には先行試聴会があるのでそこからグッと解禁ムードが高まるだろうか。これで『桜流し』『花束を君に』『真夏の通り雨』『道』『二時間だけのバカンス』『ともだち』とアルバムの半分以上の楽曲が露わになった。アルバムの全貌とは言わないまでも、後ろ姿、いや横顔くらいは見えてきた気がする。

しかしそこは宇多田ヒカル、残りがアルバム曲だからといって埋め合わせのトラックなのかというとそんな事がある筈もなく。先行公開された楽曲たちはティザーとして優れていると判断されただけで、クォリティーの面では、少なくともこの日記を読みにくるような酔狂なファンにとっては区別をつける理由などないだろう。

特に、もうひとつのフィーチャリング曲である『忘却』とヒカル自身が最も誇らしいと言い放つ『人魚』が未公開なのは大きい。いずれも、昔でいえばアルバム発売後のシングルカット候補曲になるのだろうか。楽しみである。更に『俺の彼女』は『The Workout』くらいにはセンセーショナルだろうし、『人生最高の日』はもうタイトルからして期待を煽られずにいられない。個人的には、長編小説を読んでしっかり準備して聴く『荒野の狼』も楽しみだ。どうやら、相変わらず隙のないアルバムに仕上がっていそう。

だが、正直なところバカ売れする予感は無い。例えば雑誌「MUSICA」には三者レビューが載っていたが、手放しで絶賛する内容はひとつもなかった。かといって内容に苦言を呈するようなものもなく、全体の印象は「最高傑作ではないが、ブランドの名に恥じない手堅い新作」という程度の評価を匂わせている。

そこを切り込んで「いや、この楽曲にはこういう魅力があるんで」とひとつひとつ薙ぎ倒していくのが無意識日記の芸風だが、残念ながら宇多田ヒカルはPop Musicianだ。そんな注釈はなしに、聴いた瞬間から恋に落ちるような即興性のある歌を書かなければならない。周囲からそう期待されているし、本人もその期待に応えようとしている。無意識日記のように、「別にPopsじゃなくていいんですけど」と言って出迎えるのは反主流派なのだ、その人数の多寡にかかわらず。それを残念ととるかだから宇多田ヒカルなんだと前向きに捉えるかはまた別の問題になるけれど、相変わらずそれが一対一の関係性に還元されるというのであれば特に気にする必要もない。これからの二週間くらいをしのげばまた静かな日々が来るかもわからない。ツアーが始まったらそんな事言っていられなくなるけども!

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『道』はテンポ感のある、前向きな、でも切なさを湛えた如何にもヒカルらしい楽曲なのだが、この曲だけがもつなんとも言えないかわいらしさ、キュートさは一体どこから来るのだろう、と考えた時に思い当たったのは、この曲が「少し無理をしているから」なのではないかという事だった。

無理、というと語弊があるかもしれないな。この曲の歌詞は、最初に書いた通り、どこまでも消えない悲しみを感じさせている。のだが、何ていうんだろう、このコは本当は悲しいんだけど、こちらに語り掛ける今の段になった時には気を取り直して笑顔を作って「私、元気だから!」と言ってくれているように思えてならないのだ。悲しさは癒えないけれど、だからってずっと落ち込んでいる訳じゃない、ほら、こうして前を向いて歩み始めてるよ!と、そんな風に無理にでも笑ってくれているようなな。そこから来るなんとも言えないいじらしさみたいなものが楽曲の端々から滲み出ているのが感じられて、切なくなるというよりキュンとなる。キュートで、スイートで、チャーミング。

だからなのか何なのか、トラックのサウンドはどうにもスケール感みたいなものが足りない。いや、何か予兆や前兆のような"気配"が感じられてこの『Fantome』アルバムのオープニングとしてはこの上ないものなのだが、頼もしさみたいなものは、あんまりない。この歌を聴いて、「そうか、このコは悲しくてもこんなにも気丈に振る舞って笑顔をこちらに向けてくれてる(もしかしたらひとりになったらまた泣き崩れるかもしれないのに)んだな、俺も頑張らなくっちゃ」とは強く強く思わせてくれるが、このコに頼ろうとか甘えようとかは思わない。スケール感が足りないというのは、そういう所だ。その代わりに、他の曲にはないキュートさスイートさが出ているんだと思う。

例えば『traveling』や『This Is Love』なんかはイントロが流れ始めたもうその瞬間に引き込まれる。どこか新しい世界に連れて行ってくれるような頼もしさを感じさせる。しかし、シンプルなリズムから始まる『道』は、未来への気配は感じさせるがインパクトはない。必死さを笑顔で覆い隠したような、今までにない切なさが作られた軽やかさで紡ぎ出されてゆく。

技術的には、歌はしっかりしてるんだがバックのサウンドが地味、という事だ。『DISTANCE』にしろ『COLORS』にしろ、キャッチーな歌メロとともにシンプルですぐに入り込んでくるインストのテーマ・メロディー(キーボード・リフ)が楽曲の骨格を形作っていた。そのサウンドが我々を宇多田ヒカルの世界に引き込んでいた。

『道』に限らず、『Fantome』の楽曲は、このまま揃っていけば『歌メロと歌詞は充実しているが、インストとサウンドはイマイチ』という評価に落ち着いていく気がしてならない。それは、ヒカルのリフを書く才能が枯渇したとかいうのではなく、単純に、歌と詞で表現される"私"の心が、この世界の今どこに居るのか見えていないからではないだろうか。

歌モノの作品において、バックのインストは「その世界に引き込む」という重要な役割を果たす。『Fantome』は、『道』のあのシンプルなイントロによっていわば「ぬるっと」始まってしまう。もしあなたが彼女の歌に耳を傾けるつもりが最初からあるならそれでもいいだろうが、そうでない人にとってまず『道』はいつの間にか始まっていつの間にか終わる曲でしかない。歌自体は凄くPopでキャッチーなのにね。

だからどうこう、というつもりもない。極端に言えば、器楽演奏でがっちり音世界を作り込んでしまわなかったからこその『気配』なのかもしれないし、聴く耳を持つ者にとっては余計な雑音に邪魔されずにそのままヒカルの心と言葉に触れる事ができていいかもしれない。しかし、だからこそ、打ち込みであろうがなかろうが、ここにあるのは剥き出しの、"場所を選ばない"宇多田ヒカルの心である。『道』のイントロは、だから、正直で、故に生々しい。敢えて言おう。本来ならこういうレアなサウンドをこそ"Rock"と言ったのだ。

だから、『道』は間違いなくライブで化ける。その生々しさは率直さとなってあなたの心をグイグイ引っ張ってゆく。そのシンプルさは楽しみに来ている貴方を魅了して離さない。まだピンと来ていない人も、暫しの間、コンサートまで待ってみて欲しい。もう気に入っている人は、各位が書くコンサートレポートを楽しみにしてみよう。『Fantome』の物語は、思いの外長くなっていきそうな気配だ。

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テレビ出演というのは難しいもので、特に今回の形態の収録だと聴衆もそこからの反応もなく、その場に居合わせた番組制作者たちの評価しか無い。どう歌えばいいのか、なかなかに掴みづらいだろう。

今回のヒカルは、歌唱という面では合格点だったが、パフォーマンス全体としてみるとやはりやや物足りない。そこは流石にブランクがあったろう。スタンドマイクで立ち位置も固定なのにパフォーマンスも何もあったものじゃない、と思われそうだが、これはどちらかというと意識の問題だ。今のヒカルは「聞かせる」面も「見られる」面もまだ意識が足りていない。「歌う」だけで手一杯だ。本来ならそこから更に進んで「見せる」から「魅せる」にまでもっていかなければいけない。

番組に出ていた他のアイドルたちは、歌唱力では較べるのも暇な話だったが、この「見せる」意識は流石に皆高かった。そりゃもう年がら年中「見られ」続けているのだから当然といえば当然なのだが、当然だからこそ差が出る。人前に出続けるというのはそれだけでひとつのスキルに成り得るのだ。

しかしまぁ、取り敢えずは「聞かせる」ところからだろうか。順序としてはまず「自分の歌を唄う」ところからな訳で、ヒカルは何も間違ってはいない。ただ物事の手順として今その段階に居るというだけだ。他の番組出演の収録はどうやら終わっていてその時系列も判然としない為そこからヒカルの意識の変化と推移を読み取るのは難しそうだが、少なくとも全体として大体の位置取りはわかるだろう。

流石にまだ「聴衆/リスナー/オーディエンス」の顔が見えていないか。それが覗かせられれば、少しずつ変わっていくだろう。

しかし、今は『Fantome』のセッションである。ヒカルの意識として総ての歌を「母に捧げる」心づもりで挑んでいるかもわからない。となると、確かに、こちらに対して「聞かせる」「見せる」意識も希薄だろうし、どのように「見られて」いようがさほど影響はないだろう。コンサートツアーが始まる前までなら、それでいい。

ニュー・アルバムをリリースしてそこからのリアクションを貰って、初めてヒカルは自分がPop Musician"である"事を思い出すのかもしれない。だとすると事前に『二時間だけのバカンス』のような楽曲を書けたのは驚異的というしかないが、これももしかしたら「ゆみちんに聴かせたい」という企み心がそうさせたのかもしれない。母に次ぐ2人目のリスナーだ。母はもうヒカルの(そしてその他の皆の)心の中にしか存在しないが、椎名林檎嬢はバリバリ生きている。生きて外側に在る生物に気に入って貰えるように作るのがPop Musicなのだから、2人目以降のリスナーが決定的に重要である。可能性は薄いが、生の歌唱もまず林檎嬢に聞かせるシチュエーションからもっていければ、うまく流れに乗れるかもしれないなぁ。

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人の喉というのは不思議なもので、筋肉の癖に、休ませたら衰える事もあればパワフルに復活する事もある、何とも不思議な器官である。ヒカルは6年間歌っていなかったらしいが、どうやらそれは衰弱の契機ではなく心地良い休息となったようだ。野球投手の肩が消耗品で、極端な話一生で投げられる球数が決まっているかのような扱いをされる訳だが、喉も時に使い過ぎれば衰える。ファンの殆どは、無理なスケジュールで喉を潰す位ならゆったりした日程で末永く歌って欲しいと思っているのではないか。今のところ、ヒカルの喉は健在で、何よりだ。

『桜流し』は4年前、即ち過去の曲だ。以前であればアルバム2枚分昔ということも出来、必然、もう既に歌い方が変わってしまっている、とも解釈出来る。初披露の時点で過去の曲、という取り合わせが何とも奇妙な状況を生んでいる。iTunes Storeでは既に『Fantome』のうちの1曲として『桜流し』が売られていて、しっかり"Mastered for iTunes"のマークがみえる。もっとも、iTunes Storeの音源管理は笊みたいなものなので(だってねぇ、解禁一時間前に買えるようになってるだなんてなぁ…これが初めてじゃないんだよ)、実際は従前の音源でした、なんて事があっても一切驚かないが、先述の通り、しっかり音質が改善されているのが聞いてとれるのでご安心を。

音質が変わったが、しかし、パフォーマンスは過去のままだ。それを考えると、昨日のMusic Stationでの歌唱は現在の解釈での『桜流し』という事で、より『Fantome』らしい、ともいえる。『桜流し』のトラックだって11分の1を担っているのだからおかしな言い方なんだがね。

2006年6月に発売になった『ULTRT BLUE』であっても、2003年1月リリースの『COLORS』がフィーチャーされていて、アルバム曲に数年単位の時間幅があるのはこれが初めてという訳ではないが、こうやって"6年間歌っていなかった"と言い切る条件下で11曲並べられると、流石に歌い片の差異、違和感は出てくる。実際、現在の5曲を並べてみても、『桜流し』はやはりヴォーカルの雰囲気が違う。1曲だけスタジオもマイクも大きく違うのだしミックスだって別物だから、というのも勿論理由のうちだが、やはり声自体がか細い。今のヒカルの歌声は、野太いとはまた違った意味で太くなっている。いや、発声の許容量が大きくなっていて、より言葉を明確に発音出来…早い話が、ダイナミックレンジが大きくなっている予感がする。抑揚の幅と精度の微細さが上がったのだ。過去最高の歌唱をみせた『桜流し』でさえ、何かそこだけ小さな箱に収められたような印象を受ける。

ただ、まだヒカルはこの自分の声の"新しいポテンシャル"を使い切っていない。少なくとも今まで聴けた5曲の中では。今後6曲に更なる新境地がみれるのかはたまたそれは次作に持ち越しか今の時点ではわからないが、ともあれ今回の11曲で聴ける歌いっぷりは間違いなく過去最高のクォリティーに、なるだろう。パフォーマンスもサウンドプロダクションも。まさかこんなに歌手としての未来が拓けてしまうとは以前は思ってもみなかった事なので、嬉しい驚きなんですよ。

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