無意識日記
宇多田光 word:i_
 



へぇ〜、一月に日テレでエヴァ序破急もといQが三連続放送か。終わった翌日(数十分後?)にシンエヴァが観れる、という流れを作る気かな。

なかなか主題歌が流れてくれないのでそこは毎度テンションが下がっている、ようだ。私は観た人のツイートからそう判断しているだけだが、今はサブスクの時代なのでテレビで曲が流れたらストリーミングがずどんと動く。やっぱりレーベルとしては地上波で流れて欲しいわねぇ。

どうやら世界の中でも日本の地上波テレビ放送網というのは独特らしく。まず、1億人レベルの人口に対して同じ番組を一斉に送り届けられるというのが稀有なんだと。アメリカなんかは国土が広過ぎてそんなことは出来ず20世紀はケーブルテレビが主体だったらしい。従って、日本は民主主義国家なのに放送統制的には中央集権的となった。インターネットが日常になった今もその放送網の強さは折り紙付きだ。故にレーベルにとっては地上波テレビで名前が出るだけでも嬉しいのであった。曲が流れるとなったら、もう、ねぇ。

テレビの強さといえば、特に日本代表のスポーツイベントになると視聴率が凄まじい事になるのは皆さんもご存知だろう。なので例えばヒカルが何かの開幕試合で歌ってくれないかなとか、五輪の開会式に出てくれないかなとかそういう要望が毎回出てくる。それも現地で観たいというより、それをテレビで観たいという要望のように思える。

そういう、「影響力」を背景にした特別なイベント感の許で歌ってくれたら、というのは未だに衰えない地上波テレビの力が無意識のうちに信じられているというかなんというか。紅白歌合戦なんかは出て欲しいという要望は勿論出て欲しくないなんて意見まで出てきてそれが結構な数だったりしてね。オーソリティというか、権威としての地上波テレビってな相当なものなのだと感じ入っている。アンチが着くのは権威だからだわさ。


という風に散々テレビの威力に参らされてきた世代の私だが、次にヒカルに期待するのは90%以上インスタライブだったりする。テレビに出てる暇があるならインスタライブやってくれよというのが紛うことなき本音である。Mステに出たって精々10分位だろうが、インスタライブならヒカルの所要時間が同じだとしても(メイクとか移動とか準備とかね)1時間は観れるからね。ずっと顔のアップだし。

今考えると今年の5月の5回は劇薬過ぎた気がする。昔はテレビで御姿を拝見出来て平伏していたんだけどねぇ。今までお世話になったからその恩義もあってまた出るのはいいんだけども、余っ程面白い企画なりステージセットなりがないとインスタライブにインパクトで敵わない。別にテレビの価値が下がったのではなく、インターネットのストリーミングが良過ぎるだけなのですが、何せもうやってしまったものだから後には退けない。自宅でピアノ弾き語りとか最高じゃんね。

無論、大きな撮影収録スタジオだからこそ得られるパフォーマンスもあるのでテレビにも出てくれればいいんだけど、何だろう、特別なイベント感ていうのの価値が再編されていくのは最早仕方がないんじゃないかなーと。最初のライブストリーミングから17年経った今それを言うのは今更過ぎるのですがね。嗚呼、またやってくんないかな……。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




また欧州で感染症禍が増しているらしく、独仏は再度ロックダウン状態になったとか。このままだと英国、ロンドンも時間の問題だろうかな。

ヒカル&ダヌパ親子への影響は如何程のものなのか。さっぱりわからないが、ヒカルは自らの工房(だよね自宅の仕事部屋って)である程度制作を続けられるので限定的になるかな。

自宅のお布団の中に潜り込んで鼻歌をMDで録音してでも曲作りは出来る人なので、感染症禍下でもそのまま続ければいいだけ、というのはまさにその通りなのだが、ピンチをチャンスに変えるという意味でも、ここで更にコラボレーションを増やすという手もある。

というのも、ロックダウンになると、自宅に居るミュージシャンが増えるからだ。となると、オンラインミーティングでとっ捕まえられる可能性が増している筈である。普段ならば夜な夜な飲み歩いている人達も今なら一緒に仕事がし易いかもしれない。ロックダウンでコラボレーションが増えたら逆説的でなかなかにこそばゆい。

ここ10〜20年くらいでアメリカのヒットチャートで「共作」が随分増えたのもインターネット環境の整備と無縁ではあるまい。当のヒカルも2009年にリリースした『This Is The One』をリリースした時にプロデューサーのSTARGATEの二人とは殆ど会っていないと言っていた。そんな状況でもアルバム一枚出来上がるのだから、今ならもっと期待出来るだろう。

一方で、気分の面。皆が巣籠り状態の時に響く曲調や歌詞は何なのかという点でなにか特徴が浮上するのかというのも気に掛る。この点、特にロンドンから出られないヒカルが日本のリスナーに向けて何かを書く時にどう影響するのか。空気を読み切れるのか、或いは、読まなくても共感できる世界を描くか。何しろ今の日本はGo to travelにGo to eatでみんなで出掛けて経済を回しましょうモードになっている所。またゴーストタウンが復活しそうな独仏とは違い過ぎる状況だ。ロンドンがどうなるかはこれからだが、やはり似た状況になっていくだろうから、どうせなら……そういう、インターネットを通じて見えてくる各地の温度感の違いをそのまま反映させた歌詞を書くのがいちばんいいかもわからない。まぁネットに限定しなくても、既に『日曜の朝』で『お祝いだ お葬式だ ゆっくり過ごす日曜の朝だ』と三者三様の断絶を描いた事のあるヒカルなので、そういうのもお手のものなのでしょうけれども。


まぁそんな事より何より、ヒカルが感染しないよう、しても快復するよう祈るのがまず第一だ。健康第一安全第一。歌手ということで、喉の健康を保つノウハウをひとより携えてるのが心強い。緑茶でうがいするの、確かに効き目抜群なんだよね……。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




2006年発売の宇多田ヒカル名義4thアルバム『ULTRA BLUE』のシングル曲のリリース順は独特だった。

2003年に『COLORS』、2004年に『誰かの願いが叶うころ』をリリースしたあとUTADA期で暫し間が空く。そして2005年に1年5ヶ月ぶりに出した曲『Be My Last』がまぁなんとも荒々しい曲で、更にそのあとに出た『Passion』も捉えどころのない楽曲だったから、有り体に言えば宇多田ヒカル人気は冷え込んだ。が、その翌年2006年に出した『Keep Trying』がかなりポップでキャッチーな曲で皆が「ん?」となったところですかさずアルバム先行曲として『This Is Love』がリリースされて「おぉっ!」となってアルバムが結構受け容れられたのだ。聴いてみれば他にも『BLUE』や『Making Love』のようなわかりやすい曲があり、一体『Be My Last』と『Passion』の実験性は何だったのよ、となった。最初にわかりにくい曲が立て続けにリリースされて、そこから徐々に受け容れ易い楽曲がやってきた、という順序だった。

14年後の今、来るべき次のアルバムに向けて着々とシングルがリリースされている。が、その順序は『ULTRA BLUE』の時とは反対のように思える。『Face My Fears』と『Time』という如何にも宇多田ヒカルらしいリリカルでシリアスでエモーショナルでわかりやすい曲が続いた(と言ってもかなり間が空きましたけどね)後で、『誰にも言わない』という、『Passion』以上に捉えどころのない楽曲がリリースされたからだ。

リリースの順序というのはタイアップの事情に左右される為そうそうコントロールできる事ではない。ヒカルも作った順番通りにリリース出来なかった事があるかもしれない(『光』とかそうじゃないっけ?)。なので、アーティストとしての意図を勘繰るのは難しい。寧ろ、そういう順序になったことでリスナーたちがどういう反応をしたかという事を後追いでみながら流れを把握していくという感じじゃなかろうか。

そして次は、恐らくだが、シンエヴァの主題歌が来る。ある意味、『誰にも言わない』のお陰で、どうという身の振り方も出来る展開になった気がする。仮に『誰にも言わない』のポジションにまたもキャッチーでエモーショナルな曲が来ていたとしたら、シンエヴァでもそういう曲が期待されていただろう。宇多田ヒカルならやってくれる、と。しかし、『誰にも言わない』を挟んだ事で、ある種の“不気味さ”みたいなものが漂っている。次にどんな曲をリリースしてくるか、どんな曲調を期待すればいいかがわからなくなっているというか。こうなったらヒカルが主導権を握れる。やりたいようにやれるだろう。もっともこれまた、シンエヴァの制作過程からすると、もしかしたら主題歌は『Time』はおろか『Face My Fears』より前に作られているのかもしれず、それならリリースの順序とかどうしようもない話になりかねない訳だが、今の空気は、少なくともリリース側の躊躇いを減じてくれてはいるだろう。修正や差し替えの可能性を勘案する不安に苛まれる事から解放してくれる。そういう意味でも『誰にも言わない』は偉大な曲だ。セールス的にも再生回数的にも大したことが無い割に楽曲としてのクォリティは非常に高いので、これからリリースされる曲たちの安心感が違ってくる。なんだか、次のアルバムのあらゆる楽曲を優しく見守る立場に就くように感じてきた。この曲をあんまり気に入っていないファンも、たまには聴いておいた方がいいかもしれない。ラス前とかインスト後とか、そんな曲順でアルバムに収録される気がしています。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




尾田栄一郎の体調が心配でね。感染症禍下で月一回休載に加えて最近は体調不良で休む事もある。何より、絵に高揚感が薄いのが気になる。結構無理してるのではないか。新世界編に入る前に1ヶ月ほど休んだけど、ここらで1年くらい纏めて休んだらいいのに。もう記念すべき第1000回も目前だし。

ほんに、こういう20年勤続してるクリエイターが疲弊しているのを見ると、2011年から思い切って音楽職から離れたヒカルはええことしたなぁと思う。6年半は流石に結構長いけど(笑)、今後も折を見てこういう長期の休みを挟んでいってもいいような。

少子高齢化を見据えて、老齢世代の労働能力や機会が問われる社会になっている。若い頃に無理して働いて早めに老後を迎えて介護のお世話になるよりは、細々とでもいいからQOLを維持して末永く元気に暮らした方が……。

安室奈美恵のファンはどう思っているのかなぁ。何しろダンスと歌で押し切るスタイルなので、実働25年で引退と言われればそれはそれで理にかなってたとも言えるし、結構難しい。

ヒカルが気にすべきは寧ろ、ファンが死んでいく事の方かもしれない。死ぬ迄に一度でいいから生のヒカルが観たいという人は結構まだまだ居るのではないか。抽選でしか観れないコンサートも多かったし。それを考えると、ある程度長期間に亘って定期的に……5年に1回くらいはツアーが出来ればいいかなぁと。

勿論本人の生活と健康が第一でね。寧ろ、社会の方が変わらないといけないのかもしれない。コンサートともなれば気軽に仕事が休めるような社会に。それが定着すれば、貴重な機会を逃す事も減るだろう。アーティストにばかりあれしろこれしろと言うのもバランスに欠ける。リスナーの方も変えれる所は変えていくべきだろうな。

少子高齢化社会ということで、昔からヒカルのコンサートには託児所が設けられていてそれが嬉しかったという声も聞かれたが、今後は老齢世代の方々にも利用出来るようなコーナーが必要になってくるかもね。コンサート自体も、二時間立ちっぱなしや座りっぱなしを改善できるようなプログラムにしていくべきかもしれないしな。まぁ、二部構成にして合間に休憩を入れる、くらいしか思いつかないけど。

アルバムの内容やコンサートの音量が激しいものになったとしても、活動ペース自体はのんびりぼちぼちほどほどでいい気がする。というか、コンサートが激しいものになるなら余計に休みは必要だよね。若いファンも着実に増えている一方で長年のファンは確実に齢を重ねている訳で、そういう声も届けていく時期なのかもしれないな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




そういえばうっかり触れるのを忘れていたが、『Time』のミュージック・ビデオが200万回再生を突破していた。100万回に至ってから二ヶ月ちょいってとこか。一日あたり二万回弱再生されてる事になるかな。これを多いとみるべきか少ないとみるべきか。

本来なら有料サブスクのストリーミング再生回数が公開されてればいいんだけど、SpotifyやらAppleMusicやらを総括したチャートってどっかにあるのかな。あたしが知らないだけなのかな。ビルボード・ジャパンでストリーミング再生回数が累計で「紅蓮華が二億回突破、マリーゴールドが三億回突破、Pretenderが四億回突破」とかのニュースを読みながら、今のヒットってこういうスケールの数字を相手にしてるんだよねぇと溜息を吐くのだった。

CDアルバムで日本史上最高記録、ダウンロードで(一時的にだが)世界最高記録を叩き出した宇多田ヒカルブランドにはストリーミング世代でも一丁ド派手な数字を叩き出してみて欲しい、なんて思ってるリスナーも在るかもしれないねぇ。この感じだと10億回再生行かないといけないけど、そうなると国際展開できるメリットを最大限利用することになるかなー……


……いかん、今はそこまでこの話題に興味が無い感じがついつい出てしまった。あクマまでも、“相対的に”ですがね。全く興味が無い訳ではなく、『Laughter In The Dark Tour 2018』で観たパフォーマンスが圧巻で、新曲も出す曲出す曲何れも素晴らしいのであんまり数字にプライドを補完して貰う意義が見い出せていないのかもしれない。自宅で作業出来てるし、いいトラック録音出来てるしな。


でも、そういう個人的な今の関心の傾向を度外視すると、やはり基本的には次から次へと新しいファンを開拓していかないと活動が先細りになっていく危険性が出てくる訳で。特にヒカルは音楽を仕事として、家業としてみているので、商売にならないのなら廃業してしまうかもしれない。もっとも、自分ちで音楽に取り組む作業自体は変わらず営み続けていそう。もしそうだとしても、こちらに対して音楽を紹介してくれなくなる。市場での価値が失われたとしたら。そうなってからでは遅いので、ある程度売れてては欲しい。でも売れ過ぎるとチケットが取りづらくなるのでほどほどがいいやね。

そう、宇多田ヒカルがどれくらいの認知度と人気でやっていくのが私がいちばん幸せでいられるのか。それはしっかり考えてみないといけないかもわかんないね。いや、私だけではなく皆さんもなんですが、こんなワガママな問題設定をもないなと思ったので。いやはや、どこまでも勝手なお年頃ですわ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




とかなんとか言ってたら「若者の死因1位が自殺」という情報がTwitterのトレンドになっていたり。他の死因の絶対数が少ない為相対的に自殺が浮上している面もあるになあるが、国際比較で単純に自殺率が高いのであんまり慰めにもならないな。前回指摘したように、社会全体で「自殺はあり」だという認識が共有されている、のだろう。

ヒカルは、考えられ得る限りで最も残酷に自殺と向き合わねばならなかった立場だが、今までそこまで自殺について積極的に発言してきた訳でもない。遺された者の悲しみをそれこそ死ぬ程知っているのだろうが、一方で、その選択に対して責めるような心持ちでもないのだろう。優し過ぎるのかもしれない。

とはいえ、嘗て『精神障害に苦しむ人やその家族のサポートになることを何かしたい。』というような事を発言した事はある。そこに助けが必要なのだとは痛い程に痛感している。何もしなくていい訳ないじゃない、と。自殺には様々な原因や事情があるが、それに対する態度は宗教観や治世感も交わってそれはそれは多岐に渡る。少なくとも、他殺ほどコンセンサスが取られている感じはない。

そこで鍵になる一つが輪廻転生の世界観なのだが、これについては歌詞でも何度となく取り上げられている。「生まれ変わり」を信じて自殺していく人が居るとすればなんとも居た堪れないが、一方でそれを希望に現世に踏み留まろうとする人も居て。『ぼくはくま』の素朴な『前世』という概念や『愛のアンセム』での『生まれ変わってもあなたを愛したい』での強い愛情表現の比喩ともとれる使い方など、基本的な世界観の主軸として転生観のあるヒカルからすると、自殺というもののイメージもまたどこかそれに根差したものかまあるのかもしれない。声高じゃあ、ないもんな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




都会で電車に乗っているとたまに人身事故の車内放送がある。大抵は飛び込み自殺だ。こういう時に実際に口に出して「迷惑だ。誰も居ない所で死ねばいいのに。」と言う人が居る。言わなくてもそう思っている人は多いのだろう。

こちらとしてはそんなの「死ぬなよ」だけでいいと思うのだが、なぜか自殺という手段は「あり」なのだという認識があるらしく。その中で、世間に迷惑をかける死に方を選ぶよりは、例えば樹海にでも赴いて静かに死ねばいいのに、みたいな事を言う訳だ。

見知らぬ人が一人死ぬという意味では他殺だろうが自殺だろうがその点では同じな筈なのだが、これが駅のホームから他人を突き落として殺した場合は様相が変わる。そうなった際は自殺と同じように人身事故で電車が止まるのだがこの時に「どうせ殺すなら俺たちに迷惑をかけずに殺してくれないかなぁ?」などと発言したらかなり危ない人間だと認定されるだろう。先程の「どうせ自殺するなら樹海で静かに死んでくれないかな?」とは多分周りの反応も大違いだ。この差よ。

確かに、他殺の場合は自殺と違い「殺す奴」がまだ生きていてそれが怖いというのもあるのだが、それ以前にやはり自殺という手段は個人が勝手にとる分には容認される、という文化がこの国にはあるように感じる。実際、国際比較でも日本は自殺の多い国として知られているしな。


2013年の夏の話を蒸し返す気は余りないのだが、『真夏の通り雨』で歌われている『自由になる自由がある 立ち尽くす 見送り人の影』の一節を(2016年に)初めて聴いた時は「ここまで踏み込むか」と恐れ慄いたのをよく覚えている。生きている時に心を患い苦悩に苛まれ続けた母が自ら選ぶ事で漸くその苦しみと痛みから解放されたのだと、彼女の選択がそこに存在したのだと、ヒカルが言い切る一節。斯くも生きるとは不自由なのか。

ヒカルがここで、死を選ぶ事を『自由になる自由』と表現したのは、ある意味で究極的な自由への忌避なのだとも言える。『テイク5』で自らに生きたいという意志を再発見したヒカルにとって、自由を重ねることの先には死が待っているということなのだ。だから縛られたい、囚われたい、そう願う。それが生きたいという意志の表明となるのだろう。

ここまで踏み込まれてしまうとぐうの音もでない。私からすると、死に追い込まれるのは究極の視野狭窄であって、あらゆる自由な発想や気づきから隔絶されてしまって、生きながらに永遠の闇に閉じ込められてしまった状態にあるように思える。発想とは閃きであり、閃きとは輝く光だ。光そのものであるヒカルに自由こそ死だと言われると、貴方に見出す閃きの輝きは一体何なのかと問いたくなってくる。泡沫のように、泡が飛沫となって消えていくように、それらはただ仮初の夢に過ぎないのかと。なんか、その割に私の今まで書いた字数ってかなり多くて読み通すにはすんごい時間が掛かると思うんですけどどうなんでしょうねそこのところは。このひつこさが夢だったらなんかすんごいグダグダな気がするんですが。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨今のLGBTQイシューに加え今年はBLM運動も話題に上った事でとりわけ男女差別や人種差別についての関心が(なんだかまとめて)高まっている。ヒカルもそういった話をツイートする機会があった。全体のツイート頻度からすればかなりの関心度だとも言える。言いたいこときっといっぱいあるんだろうな。

しかし、個々のアイデンティティ意識と紐付けて考察しないと事態は改善されないだろう。男女差別への糾弾は「男であること」や「女であること」をアイデンティティとして生きている人間の根幹を揺るがす。

人種差別や国籍差別も同様で、「白人だから」とか「日本人だから」とかいう事に誇りを持っている事と、「だから白人以外は差別する」や「だから日本人でないなら差別する」は表裏一体だ。

ここをクリアせずにマイノリティ側が押し通そうとしても難しい。性別や人種や国籍をアイデンティティにしている人は、あからさまに言ってしまえば個人としての拠り所が何も無いのだ。自分に他に誇るものがないから生得的な性別であったり国籍であったり血統であったりを誇る。

自らの努力や実績を誇る人は特にそうでない人を差別する事は無い。アイデンティティとは自信だからだ。生得的なものをアイデンティティとして抱える人はそれは不安の根源そのものである。自分が何者でもない事を示しているようなものだからだ。であるから、そうでない人を差別するのに忙しい。わざわざ他人を嫌がらせする為に時間を割くくらいなら自分に対して時間を使えばいいのにとついつい思ってしまうが、そもそも時間を費やせる自分自身がどこにも見当たらないのである。

そしてそれは、殆どの人にとってそうなのだ。自分が一端(いっぱし)の何者かであると胸を張って言える人なんてそうそう居ない。

しかし、程度の問題ではある。社会情勢が不安定になれば差別は増す。人々の不安が根源なのだから自然な帰結であって、つまり、差別を解消するには他人ではなく自己を相手にするのがいちばん大事なのだが、マスメディアであれインターネットであれ、当然ながら、他者を相手にするから発信する訳で、自己を相手に生きている人は他人の目になかなかとまらない。この、本来の意味での「内向的な人々」と、メディアを使ったコミュニケーションなどで知られる「外向的な人々」との間の溝は相当深い。どうすりゃいいかわかんないな、この問題に関しては。


昔に較べて格段にインターネットでの発言が減ったヒカルさんだが、自分の時間を大事にしているという事であればそれは喜ばしい事だ。実際、昔に較べてファンの方もメッセの更新があるかないかと毎日チェックするようなことも減ってきて……あれ?どうなんだろうなそれは? スマートフォンの普及でますますチェック頻度が増えてたりするのだろうか。十数年前まではインターネットで情報を得る為にパソコンを立ち上げたりしていたが、今はそれこそ5秒でチェックできるもんねぇ。でもそれはヒカルも同じだから、発言が減っているのは……えぇっと、子育てが相変わらず楽しいということにしておきましょうか。はい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ラノベや漫画アニメに「俺TUEEEE」系というジャンル(?)がある。主人公が物凄く強くてどんな敵が現れようとたちまちのうちに勝利を収めてしまうような、そんな内容だ。バトル作品好きからすればどちらが勝つか予めわかっていてはつまらないとか、リアリズム持ち込みたい勢からすれば普段の生活での鬱屈を読み手がハイスペックな主人公に感情移入して擬似的なカタルシスを得ているだけだとか、そんな風に散々に言われがちなジャンルなのだが、あたしが思うに「俺TUEEEE」(ちゃんと変換出るのよねこれ……)のメインの面白さというの「発想の自由度の高さ」こそが魅力なのだと思うのだ。

腕力でも財力でもなんでもいいけれど、力があり過ぎると普段の想像力では考えつかないような事を考えついて実行に移せてしまう。端的に言えば「船ごと持ち上げればいい」とか「店を丸ごと買い取ればいい」みたいなことだ(詳細略)。そういう奇想天外な展開を読んだり観たりして「その発想はなかったわ」と呆れるのが俺TUEEEEの楽しみ方なんだと思う。

「貧すれば鈍する」というように、お金がないとついつい行動の発想が狭くなってしまう。もしお金がとんでもなくあったら、というifにおいて思いもよらないアイデアが考えついたら……こういうのを他愛もない空想癖とか言っていては真理を見失う。例えば、極端な例を挙げれば、そもそもアインシュタインが何故相対性理論に辿り着いたかといえば「光ってめちゃめちゃ速いんやな……せやけど、もし自分も光と同じ速さになったら光も止まって見えるんやろか? んな、アホな! そもそも光が止まってしもたらなんも見えへんようになるやないか!」という人類史上最も奇想天外且つ荒唐無稽な空想(思考実験)を始めたからだ。「自分が光と同じ速さになれたら」とか、もう究極の「俺TUEEEE」的発想である。こういうのを“面白い”って言うんだろ!

裏を返せば、まぁ別に発想が豊かになるのなら腕力や財力に恵まれている必要もないんだけどね。お話として作りやすいってことなんだろうよ。


で。前回の最初の設問に戻る。これだけ創造的で多くの独創的な楽曲を作ってきたヒカルさんがなぜその発想を担保する自由より、束縛する愛を求めるのか。恐らくだが、ヒカルは想像力/創造力が強過ぎるのではないか。もし自分の想像力に自由の翼を与え切ってしまったら、その想像力の爆発にヒカル自身が耐えられなくなるのではないだろうか。発想の発散で自壊する─常人には想像し難いが、こと音楽やら創作に関して宇多田ヒカルは常人ではない。だからこそフィクションの「俺TUEEEE」的な考え方で捉える必要がある。アインシュタインが自らを光の速さに仮想したように、宇多田ヒカルが自身の創造性が強過ぎて押し潰される様子を……うわぁ、考えたくないなぁ……(苦笑)。

……そのヒカルの、過ぎ過ぎた創造性を落ち着かせてくれるのが音楽なのだろう。音楽によって初めて、無限ともいえるヒカルの想像力を現世に縛り付けられるのだともいえる。母を喪った無限の悲しみ(『降り止まぬ真夏の通り雨』)をも囚われ得るその「歌」という世界の強さ。それに対する愛情や感謝がヒカルの創造の原動力になっているとすると、なんだかウロボロスみたいな絵が思い浮かぶな。あるいはもっとシンプルに、鶏が先か卵が先かというか。その陰陽図から生まれ出でるのが「光」なのだとすると、アルバートの思考実験同様、世界の真理がそこに見えてくるような気がする。そこに至る程にヒカルの想像力はTUEEEEんだよきっと。

コメント ( 3 ) | Trackback ( 0 )




『予期せぬ愛に自由奪われたいね』だとか『自由でもヨユウでも一人じゃ虚しいわ』だとか歌って自由より愛を重んじるヒカルさん。その性格だと他人に時間を取られる子育てに向いてるんじゃないかと思うし母親になれてよかったねぇとも思うが、どうしてここまで自由の方を「目の敵」にしたいのだろうか? 自由を勝ち取る為には闘争が必須だからか? 結構わからん。

自由の何が大切かって、発想の自由だと思うのだ。やりたいことが何でも好き勝手できるという状態より、寧ろ、精神自体が自由で何にも左右されないという事。

自由を侵すのは抑圧であったり暴力であったり束縛であったりする。そこに生まれる恐怖と不安の感情が精神を萎縮させるのが元凶だ。何が出来るか何が出来ないかというのは物理的な諸条件が整わないと無理なのであって、幾ら君は自由だからといっても自力で時速100kmで走れる訳でもないし空を自力で飛べる訳でもない。一方で、何を思えて何を思えないかは精神の諸条件が整わないと無理な話なのだ。勿論、非常に強靭な精神を持っている人はどんな状況に陥っても精神の自由を奪われる事はないけれど、殆どの人の心は中途半端で弱い。しっかりとした環境を得ないと自由な精神は得られない。

我々は知らず知らずのうちに発想の自由に制限を設けている。そのことに気づかずに日々を送っている事も多い。それに気づかない事自体、精神の自由を奪われている証左なのだ。

恐怖と不安の感情は人の心を萎縮させる。そうして精神から自由を奪い新しい発想が生まれるのを防ぐ。酷い目に遭った人に対して「どうして逃げなかったのか」と問う人がいるけれど、その人もどこかで想像力を抑制されている。恐怖に苛まれた精神にとっては逃げるとか抗うとかいう発想そのものが到れない境地であることに想像が及ばない。人を暴力で抑圧してまず精神の自由を奪えば、身体的拘束に頼らなくても逃げ出されはしない。発想を奪うことが自由を奪うことだ。


ヒカルさんは、そこのところをどう思ってはるのかな。愛の尊さを説くのが主軸なのは『First Love』という名のアルバムでデビューしてきた以上間違いのない所なのだけれど、精神の自由が無ければそもそも新しい音楽を創造しようという力も生まれてこない。どんな状況にあっても新しい発想や着眼点を発見できるのは落し物シリーズでみられる通りなんだけど、人の心や、時には脳自体を物理的に萎縮させる恐怖の感情についてどう思っているのかは少し訊いてみたい気がしている。あんまりそういうテーマについて歌わないんだよね。何かにつけて精神の自由を希求する歌詞を歌いたがるメタラーとしてはそこらへんが気になっているのでありましたとさ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




R&Rという音楽は1955年あたりに米国を中心として流行した音楽ジャンルだが、特段その音楽性が当時目新しかった訳では無い。1940年代のリズム・アンド・ブルースの中でアップテンポなものを聴いてみるとそれはほぼほぼロックンロールと大差無いのだ。

そういう、特に目新しくもなかった音楽が、何故世界中の、とりわけ英国の若者(それがザ・ビートルズやザ・ローリング・ストーンズだった)を熱狂させたかといえば、勿論タイミングもあるが、早い話がそれまで若者に向けて作られていなかった音楽を若者に向けて作ったからだ。その最たる例がこの前触れた『Animato』に出てきたエルヴィス・プレスリーで、彼はPTAの皆さんから罵倒されつつ反抗的な若者たちを男女問わず魅了した。その彼が主に歌っていたのがロックンロールだったのだ。バラードの代表曲も多いけどね。

つまり、音楽は、その音楽性に見合ったターゲット層に的を絞らないとウケない。裏を返せば、やってる音楽をひとつも変える事無くプロモーション体制次第でガラリとファン層を変えることが出来るかもしれないのだ。


ヒカルさんは老若男女問わずファンがついていて、今更新しいレイヤーを開拓することなんて出来ないように思われている。せいぜい、新しく生まれ育ってきた若い、いや幼い世代に刺さったら嬉しいなぁ、程度の話だろう。でも果たしてそうなのかね?

宇多田ヒカルの顔と名前と『Automatic』と『First Love』位は知っている人達が、果たしてヒカルが『海路』や『Kremlin Dusk』も作って歌っていると知っているだろうか? 甚だ疑問だ。自分も昔、余りにも有名過ぎるミュージシャンは改めて聴かれない、という現象に何度も出会った。というか自分がそうだもんね。メタリカのアルバムを全部聴くのに何年掛かった事やら……有名過ぎると、知っている気になってくるのだ。宇多田ヒカルはその最たる例の一人であろうよ。

ただ、だからといって「覆面歌手として、或いは名を伏せてタイアップを受けてみたら?」みたいな提案にヒカルがノってくるとは、どうしても思えないのである。あれだけ毎回オリジナル・アルバムのジャケットに自分のドアップを使い続ける人だ。ジャケットに書かれる「宇多田ヒカル」の文字のバランスにも気を遣う人だ。自分の書いた曲は自分が書いたのだと必ず示していたい筈なんだわ。どうにも、そういう局面でヒカルがふざけてみたりお茶目になったりはしそうにない。とことんシリアスなのだ。歌と名前に関しては。

ロックンロールの世界なんて顔を隠してばっかりだというのに。KISSは歌舞伎のクマドリに触発されて顔を白塗りにして何十年もスタジアムツアーに繰り出したし、スリップノットは九人全員が仮面と覆面をつけて自らの名を冠するメタル・フェスで全世界を熱狂させ続けた。人前に出て人々を楽しませる以上、ピエロになるのもひとつ必要だったりするのだ。そういう、ターゲットのニーズに応える為に何かを偽ったりまでするのがショウビジネスだったりもする。

そういうのが苦手な人こそ、宇多田ヒカルにピッタリなんだが、人によっては宇多田ヒカルこそショウビジネスの頂点のひとつだと思ってたりして、なかなかそこらへんの(恐らく最後に残された)ミスマッチは解消されない。文芸誌で随筆でも連載したら少しは変わるかもしれないけどねぇ。梶さんそんな仕事とってこれないかな??

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




コリー・テイラー初のソロアルバム「CMFT」を聴きながら「こういうのでいいんだよ」と膝を打つ。何の変哲もない普遍的なハードR&Rアルバムなのだが、サウンドも演奏も、何より歌唱がとても優れている。これだけ巧いとあれやこれやと手を出したくなるものだが、コリーの手練手管のどれもこれもがきっちりR&Rらしいグルーヴに帰結していて気軽に気楽に楽しめる。そうそう、難しい事しなくていいんだよなぁ……いやこのアルバムのパフォーマンスを成し遂げる事自体は難しいんだけど、リスナーを小難しい顔にさせることはない、という意味でね……

……という話をしようとして小難しくなったのが前回の日記で。反省。


どうしても最近のアメリカさんの流行り歌というのは感染症禍を背景とした重々しい歌詞が目立つのだが、ミュージシャンてのは悲喜何れだろうとエモーショナルな体験を動機として創作活動に打ち込むので、メディアがそういう色合いだとそちらに傾くのは仕方がないわね。大統領選を背景に政治的な関心も高まっているし、そういうテーマも多いわな。

日本ではなるべく音楽活動に政治を持ち込まない態度が得策とされているが、ひとつには、この国では政治的な話題が感情や情緒に訴えかけないからではないか。それが常に権力闘争で、個々のアイデンティティとの係わりが薄く、基本的にドライな利潤追求の場であるからだろう。何か自己実現とか前向きな要素がないのかもしれない。

日本のヒットチャートにはなかなか喜怒哀楽の「怒」を前面に押し出した楽曲が現れない。そもそも今の日本にヒットチャートがあるのかと言われたらわからないけど、米津玄師が世の中に憤るシングル曲を発表してもウケないだろうなぁというのは何となく雰囲気でわかる。昔忌野清志郎がテレビで怒った曲を歌ったら発禁になっていたなぁ。


ヒカルさんは、作ってる最中は色んな事に怒ってばかりだが、出来た歌が怒りに満ちているという曲はなかなかない。寧ろ、そう、怒りを収めるだけの作業を総て経て初めて曲が完成する訳なので、その時点で怒りの感情は消え失せている。怒の感情がドライヴィング・フォースとなってはいても、それは手段であって目的ではないのだ。

怒りを総て自分の作業に向けていては、他者を怒っている場合ではなくなる。他者に憤り他者を仕向け他者から搾取し他者を操るのが政治であるのなら、なるほど音楽に政治的な何かを持ち込むのは違うのかもしれない。ヒカルは他者を励まし時に与える事すらあっても、それで何かをしようという感じではないからな。

この特質が、偶然なのか必然なのか政治を忌避する日本の市場にフィットして何曲も大ヒットを送り込む事になった……という纏め方は流石に少し違う気もするが、そういう要素もひとつにはあったのかもしれない。引き続き考えとくかなそういう話は。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




折角精魂込めて栄養のバランスも考えて丁寧に献立を作った時にはどうにもこどもたちの反応は思わしくなく、一方で面倒だからとインスタントラーメンで済ませた時には頗るいい反応をされてやや複雑な気分になる─という体験をした事がある人も多いだろう。

これは恐らく音楽にも当て嵌る事で。色んな技巧を凝らして新境地を開拓した自信作への反応は芳しくなく、殆ど手癖で寝てても作れるような楽曲が大ヒット、なんてことは一流の作曲家ならきっとある。「あぁ、こんなのでよかったの?」みたいなね。只今まだまだ大ヒット中の「鬼滅の刃」だって一流の漫画家の中には「え、こんなんでいいの?」と思ってる人が居るに違いない。消費者のニーズってのは作り手の拘りからは遠く離れた所にある。それに気づけるか、そして、臆面もなく喜ばれる事に徹せれるか。一流の作曲家といえども、いや、一流の作曲家だからこその葛藤みたいなものがあるのだろう。消費者だけでなく同業者からの尊敬も集めたい人は尚更だ。


ヒカルさんの場合、なんだかどれにも当てはまらなくてな。というか、例えば『Time』は狙ってオールドファンにウケるサウンドを作ってきたのかと言われると、悩んでしまう。難しい事に、消費者は音楽の難しい事はわからなくても、作り手の「どうせこんなのがいいんでしょ?」みたいな態度にはやたら敏感なのだ。なぜだか鼻につく。どこがどう転んでそんなことを読み取れてるのかサッパリわからないが、経験則として、リスナーを侮ると売れないんだよねぇ。

作曲者も、自身をリスナーに徹すれば消費者のニーズに合った曲が書ける。今書きたい曲ではなく、今聴きたい曲を自分で書く。同じ料理でもひとに作って貰ったものの方が美味しいみたいな事はあるのだけれど、それでもやっぱり誰も作ってくれなかったら自分で作るしかなくて。自分の聴きたい音楽を自分で作れたらそれはそれで嬉しい。そして、作ってみたい料理と食べたい料理はまた別だったりするのでした。

ヒカルは、しかしながら、ここにも当て嵌らない。いつまで経っても「出来た曲は聴かない」といってきかないのだから。音楽職人宇多田ヒカルは宇多田ヒカルの作品の消費者ではないのである。お菓子作りの名人が「私甘いもの食べないので」と言ってるようで、何だかいつまでも落ち着かない。そうやってもう20年以上過ごしてるんだけども。

「意図しない」事の尊さみたいなものは確かにある。あざとさと正反対の、無意識でそうなる領域が。ヒカルは、自分をそういう状態にもっていくのがうまいのかもしれない。そうして、あざとくならずに他者の期待に応える事が出来るのだ。自我を出したり引っ込めたりしながら歌は出来上がっていく。今でもヒカルのアルバムのジャケットは本人の顔面のどアップである。自意識無しでこんなことは出来まい。透明になるだけでも、欲望に塗れるだけでもなく、そのどちらにもいつでもスイッチ出来る。昔より更に進化してるかも。それでも「自由自在」とかと程遠いのは、そんだけ愛が深いんだろうねぇ。縛られたり囚われたり──未だにそう歌ってるもんね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『Animato』には三人(三組)のロックレジェンドの固有名詞が出てくる。

『DVD's of Elvis Presley
 BBC Sessions of LED ZEPPELIN
 Singing along to F. Mercury
 Wishing he was still performing』

常々「歌詞を歌手の日記が何かと勘違いしてる人がいる」と憤慨していたヒカルさんですが、これ明らかに「最近聴いてた作品」をそのまま歌詞にしてますよね? 日記みたいなものなのでは? ──いや勿論、大変少ないケースのうちのひとつなんですけれども。

この三組、エルヴィス・プレスリー、レッド・ツェッペリン、フレディ・マーキュリー(クイーン)はそれぞれ1954年、1969年、1974年デビューの、それぞれに売上の世界記録を持つスーパースター達だ。

我々からみればそれこそスーパースターのヒカルパイセンがそこから更に憧れる男達の名がここに並んでいる。語呂で選んだ人選とかでないのは、歌詞の言いづらさやフレディを『F.』にせざるを得なかった尺の都合からも明らか。この人選でなくてはならなかったのだ。

男ばっかりだね。憧れるなら同性歌手もとか思うが、そもそも元々フレディ・マーキュリー大好き人間なのは昔からで、「きゃーフレディ!」とか今のノリでは考えられない程のファン気質を見せていた。歌詞の尺が合おうが合うまいが歌に捩じ込んできた事からもその思い入れの深さが窺える。そもそも最後の『Wishing he was still performing』〜「彼がまだ歌ってくれていたならと願う」というのはフレディを指しているのだろう。レッド・ツェッペリンのメンバーは4人中3人ご存命だしね。

それぞれに対する接し方も興味深い。プレスリーがDVDなのは、彼のステージ上での立ち居振る舞いやら映画での演技やら、音楽のみならずそのアピアランス、存在自体が超ウルトラスーパースターだったからだろうし(実際、単独の人間としては人類史上最高最大のスターのひとりだろう。マイケル・ジャクソンですら霞む程の。)、レッド・ツェッペリンがライブ・アルバムなのは、彼らが史上最高のライブバンドだったからだろうし、フレディと一緒に歌うのは、彼の事が好き過ぎて、更に嗚呼彼みたいに歌えたらなぁと思っているからだろうし。『Bohemian Summer 2000』では彼のソロ曲から『Living on My Own』もカバーしてるしな。

この曲がリリースされたのは2004年。となるとこの歌詞は20歳とか21歳とかで書かれていそうで、今こういう風に「自分の好きなアーティスト」を歌詞に綴るとすれば誰を取り上げるかも気に掛る。PJハーヴェイなのかトレント・レズナーなのか、はたまたまだまだフレディなのか。『Automatic』だってPart IIを作ったんだから『Animato』もPart IIを作っていいんだからね。今だと「Andante」とか「Adagio」とかになってたりして……(※ 両方とも音楽用語でゆっくり落ち着いてみたいな指示)。いや、今こそ「Allegro」(速く)なところを見せてくれるのもいいかもしれんな。夢は広がるぜ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ダーティ・プロジェクターズの2分の曲を聴いた後にはイ・プーの「パルシファル」を聴く。10分の曲だ。ポップソングが大体3〜5分である事を考えるとまぁ大作主義の範疇に入るかな。兎に角後半メロディーの流れが途切れない。この長さになってしまうのも仕方ないかなと納得させられてしまう。

大作主義というときに、自分の場合は単純に曲の長さの事は指さない。主題が複数あって優劣が決まらない曲をそう呼ぶ事が多い。

なので、例えば『Kremlin Dusk』や『桜流し』は5分前後の長さの楽曲だが自分にとっては大作主義の範疇に入る。

まず単純に、曲が始まった時の雰囲気と後半の雰囲気がまるで異むているのが大きな特徴だろう。『Kremlin Dusk』の場合はテンポまで変わる。ヒカルの曲では極めて珍しい。あとは『Passion - after the battle -』くらいだろうか。

『桜流し』も、静かに始まって暫く静かに歌っているのに、新しい主題として地の底から突き上げてくるようなベースラインが加わる事で曲調が俄に激しくなっていく。前半と後半で、歌メロは共通していてもその激情の発露ぶりはまるで別の曲のようだ。やはりこういうのは大作主義と呼びたくなるのよ。

こういった曲調の元祖はレッド・ツェッペリンの「幻惑されて」と「ゴナ・リーヴ・ユー」の二曲だと相場が決まっているのだが、ヒカルが一番好きなツェッペリンの曲は「貴方を愛しつづけて」なんだそうな。こちらは7分半の長い曲だがテンポがゆっくりだからそうなってるだけであたしが今言った大作主義の曲ではないわな。やっぱりメインの趣味という訳では無いのね。余談だがヒカルが「貴方を愛しつづけて」をカバーしたらとんでもないことになるだろうねぇ。

そんな諦念を抱いていた私にいきなり放り込まれてきたのが5つのパートからなる『誰にも言わない』でね。この曲を大作主義と呼ぶ人は世の中に誰一人居ないと思うけど、私の趣味にはドンピシャにハマった。こういうのなんですよ、えぇ。ホントにこの曲はPreciousだわ……いやcubic Uじゃなくってよ……プレシャス、大切ってことね。この曲があるだけで次作は既に大名盤確定なので大船に乗ったつもりで今居るところなのですよ。あぁ、アルバムはいつになるんでしょうねぇ。楽しみだわ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ