無意識日記
宇多田光 word:i_
 



EVAQ円盤の初動数字が出たようだ。破と較べるとBDは横ばい、DVDは半減、といった所なのかな。詳しい数字はわからないが、BDを買うようなマニアは懲りずに付き合い、DVDを買うライト層はごっそりと離れた、という構図かな。まぁそこらへんの分析はここでやる必要も能力もないからいいか。

前回からの続き。要は、EVAというコンテンツは、前世紀からグダグダで来ている、という話なのだ"LIVE感"というのは。制作現場の混乱と苦悩が透けて見えるような破天荒な作品をリリースし続けてきていて、そこらへんのグダグダっぷりが新劇版では影を潜め、安心して楽しめる一流のエンターテインメント作品へと変貌を遂げていた…筈が、その前世紀のグダグダ感を想起させるQを発表した事で旧劇版からのファンが溜飲を下げる、という展開だった。

このQのグダグダ感は、"作られた"ものである。作画が崩壊した訳でもなければ、封切りに間に合わなかった訳でもない。映画としての体裁は万全にした上で、その枠の中で前世紀にはあったテーマ―衒学的で幻惑的、且つ混沌と疑問に溢れた作風を"再現"してみせた。ここらへんが肝であろう。ある意味、あの頃の「ホンモノの"LIVE感"」はもう戻って来ないのだ。

宇多田ヒカルの作風というのは、兎に角逃げない。真っ向からテーマと向き合って取り組んで完成品を作り出す。お蔭で、ヒカルは弱さを人と共有する為により強くなってきた、という経緯を辿る。弱さを作品に昇華する為によりサウンドを強靭に、しなやかに洗練させてきた。ある意味、そこまでして守るものがなくなったからサウンド作りに興味のない時期もやってきたのかもしれない。まぁそれはさておき。

つまりヒカルは、弱いものや不完全なものをそのままこちらに放り出してきた事がないのだ。どうしたってプロフェッショナルな、完成した音楽によってしか表現を許さないのである。だからこそEVAは新劇版からの登板になったとみる。旧劇はそりゃ実際には年齢的に無理だったろうが、そういう話ではなくて、新劇版が旧劇のまんまの制作体制だったらヒカルは仕事を受けていなかった、或いはどこかの段階で断っていたかもしれない、という事だ。

VAN HALENのデイヴ・リー・ロスは「スポンテニアスであるかのようにみせる技術」がステージでは大切なんだ、と語っていた(というかそういうステージングを心掛けていた)らしいが、"LIVE感"をエンターテインメント作品に封じ込めるには熟達の技が必要であると共に、当たり前だが"LIVE感溢れる物作り"自体の経験がないと無理だろう。ヒカルの場合その影がない。ただ、不思議な事に、そういった弱さや緩さやだらしなさや情けなさやずるさや怯みや怠惰や愚鈍や何やかんやを、ヒカルの曲は受け入れ許してくれる。ヒカルが音楽に最も求めるものである「慈悲」が、そこには在る。寧ろ、その総てを通過した結晶だから曲がそうなる、のかな。

EVAがQを経て最終的に慈悲にまで辿り着くのか、それとも、アニメーションという媒体は音楽とは異なる地平に居を構え大輪の花を咲かせるのか。まだまだ話はこれからだろうな。

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今日は火曜日なのになぁ、という妙な溜め息を吐くのが毎週の習慣になりつつある今日この頃、皆様如何お過ごしでしょうか。やれやれ。

本来なら週末に観たEVAQ円盤やサントラの感想を書く予定だった気がするが、どうにも手がつかない。最終興行収入52億、今日にも円盤の初動が判明するビッグコンテンツなんだが、やっぱりEVAQはどこまでも"途中"であって、それ単体で評価できるようなものではない。桜流しとて同じであって、ヒカルが過去にとっつきやすい楽曲を幾つも書いてきているから桜流しがこうであっても手放しに絶賛できるのだ。いや、なくたって絶賛してた気もするけれどね。

EVAQは「わざとこうした」感が強い。序破をああいう娯楽性の強いものに仕上げられたのだからQをそう"できなかった"とは考え難い。総監督が何らかのスランプに陥った風でもないし、そうそう心変わりしたようにも捉えられない。しかし、Qは単体でみた時娯楽性が低いのもまた事実である。これだけ観た人は"何をやっているかわからない"のだから。

バージョン表記が3.00から3.33に移行したこの円盤版、まだしっかり観た訳ではないので即断は出来ないがそこまで劇的な変化はないようだ。EVAの特徴はその"LIVE感"にある。制作を続けながら作品がどんどん変化していく。上映中の作品のカットを途中で差し替えるとか大胆にも程がある。

実は、この点が宇多田ヒカルとは相容れない。彼女は根っからの完璧主義者で、常に完成品だけをリリースして過去を振り返らない。勿論、FINAL DISTANCEのような例もあるが、だからといってDISTANCEが未完成或いは不完全かといえば否だ。もしFINAL DISTANCEがこの世に生まれなかったとしても何の違和感もなかっただろうし、こうやって実際にFINAL DISTANCEの存在する世界線に立っても、DISTANCEが劣っているという風にはみえない。それはまるで、時を隔てて生まれた男女の双子のようであり、どちらがどうという事ではないのである。そう、FINAL DISTANCEのミュージック・ビデオに描写されていたように。

そこが、何か"巻き込む力"の差になっているようにも思われる。FINAL DISTANCE以降、"自分自身をさらけ出す"事を重要なテーマとして突き進んでいた宇多田ヒカルだが、今振り返ってみると…という話からまた次回。

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桜流しを聴いていると、とても「映画館ぽい」なぁ、と思う。映画館で映画を観るというのは、映画を楽しむと同時に映画館という空間を楽しむ、という事も含意している。あの、どことなくよそよそしい、しかしゆったりとした空間に充満する期待感。あの中で流れる桜流し、というのがまた格別だった。私はこの週末に円盤でQを観てみる予定だが、映画館ではない場所でエンディングに流れる桜流しの色合いはどうなるか。ちょっとそこに期待、ワクワクしている。

それにしてもヒカルはその点についてどこまで考えていたのだろう。有名人という性質上、なかなか映画館という施設を利用するタイミングはないだろうに、この桜流しの壮大なサウンドは、映画館で最大限その効果を発揮する。イヤフォンやヘッドフォンで聴くと物足りなく感じるあのミックスも、映画館では滞りなく響いた。プロデューサーとしてのその辺りの感覚、嗅覚はどんな感じなのだろうか。

映画館で映画を観るという文脈は独特なものだ。昔私は小津映画をぶっ続けで3本オールナイトで観た事があるが、何だろう、トリップとも違う、こう言っていいかどうかわからないが、映画人の呼吸みたいなものを感じたような気がする。嘗てヒカルが春の雪の行定監督と対談した際、映画の現場と音楽の現場の体質の違いについて語り合っていた事があったが、あの時にヒカルが"映画業界の空気"に対して向けられていた視線が、今桜流しのサウンドに活かされているのではないか、とまで考えるのは流石に穿ち過ぎだろうか。Be My Last, Beautiful Worldときて今回はBlossom Falling, 或いはBlossom's Streamingかもしれない、桜流しに至るに当たって、その"業界の違い"みたいなものの匂いを感じ取ってサウンドに反映させていたとすれば大したもんだと思うんだけど如何だろうかな。

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何で朝からラジオでtravelingなんだ、と思ったらそういえば今日は金曜日か。そしてこの歌は春の歌とも言えるんだな。『春の夜の夢の如し』。発売時期が冬だっからそんなイメージとんとなかったけれども。

歌はいつどこで楽しまれるかで記憶の色合いが変わる。いつリリースされるか、いつ人の耳に届くかを逆算して曲作りとプロモーションが行われねばならない。夏の気分を反映させる為に夏に作曲してレコーディングしていたら発売は冬になってしまう。ここらへんが難しい。

ヒカルの歌はその点、季節感が希薄なのでそこまで気にする必要はない。ドラマやCMの歌だって別にナマで当てる訳じゃないから事前の打ち合わせでイメージを掴めばよいだろう。出来た歌をその都度発表すれば大丈夫。

今は、音楽制作のスピードが上がったし、アマチュアであれば完成即ネットで公開、が出来るがメジャーレーベルでは難しい。広告宣伝にはどうしたって時間が掛かる。ここらへんが難しい所で、こちらの意識としては、耳にした時にすぐ配信で購入出来ないと一気に冷めてしまう。何だかモッタイナイ。昔はラジオで解禁日があり、wktkしながら発売日まで待っていたものだが今はそういう感覚は薄い。解禁と同時に手元で購入出来ないとタイミングを逸してしまう。もう6年も前になるけれど、花より男子2で即日Flavor Of Lifeの着うたを買わせたのは見事だったなぁ。あのリズムが大事。でも今に至ってはそれすらも薄れているような。時代のサイクルは早い。それ以上に、音楽を購入するという行為自体にリアリティがない。

90年代はカラオケが隆盛を極めた時期だ。コミュニケーションツールとしても重宝されていたから、新曲がシングルCDが出たらカラオケのレパートリーの為にも購入する必要があった。音楽を買う理由にリアリティがあった。それが良いか悪いかは別にして、カラオケボックスが幾つかある社交場というか遊び場のひとつだったから、そこでは歌に詳しくなければならなかった。

今は、カラオケボックス自体はまだまだ健在だが、使われ方が変わっている。我々がまさにその当事者なんだが、オフ会会場としての役割が増している。というかそればっか? 自分らがオフ会会場として利用しといて何なんだが、あちらこちらの部屋の扉にオフ会会場の看板が出ているのは笑うしかなかった。まぁそれでもなにがしかは歌っているもので、うちらみたいに全く歌わないのも極端だけど。

これが、コミュニケーション、交流のリアリティの変化なんだろうなぁ、と思う。カラオケボックスでの歌の役割の変化は、そのままインターネットが普及して皆が歌を買わなくなった変化をそのまま反映している。コミュニケーション・ツールとしての歌の役割は相対化されたのだ。完全に歌が主役になるしかないはずのカラオケボックスにおいてすらそうなのだから他の場所では推して知るべし、だ。travelingの発売からまもなく干支が一巡するが、金曜の午後に歌いに繰り出す人々はその頃から較べるとやはり減っているのかな。というか、歌える歌が12年間変わってない、という大人が大半かもしれんわね…。

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曲のクオリティというのは、ある程度の高さまで来るとなかなか上がり難い。大抵は、そこまで到達すれば後は下り坂。緩いか急かの違いしかない。

今のところヒカルの曲のクオリティは下り坂に入った感じはない。桜流しに関していえば、First Loveやtravelingのようなわかりやすいエンターテインメント性は薄いが、その代わりサウンドの深みと広がり、言葉の重さは過去最高だろう。要は、Be My LastやPassionの時と同じで、今回はこういうコンセプトだったというだけの話。そして、その決まった方向性を突き詰めるという点に関してはそろそろ"年の功"とでも言いたくなるくらいに熟達してきている。うむ、聴いていて楽しい。曲調の重苦しさに対する感銘とは別のレベルで、そう感じる。

Show Me Loveで、『山は登ったら下りるもの』と歌ってたもんだから、てっきり暫くは実験性が先行して楽曲の出来はイマイチの時期が続くのかなと思っていたが、そんな事はなかったぜ。それも、まだ本格復帰前である。またもこう言おう、かっこわらいつきで。「気合い入り過ぎ(笑)。」

EVAQ円盤が届いたり届かなかったりで、あらためてエンディングに流れる桜流しの意味、つまり如何にEVAQのテーマ性にマッチしているか、という点に関して再検証する機会を皆得たり得なかったりであるかと思う。私はといえば、EVAQは観る前に終わっていた、というか桜流しを先に聴いてしまっていたので、そっちのインパクトが強すぎて、多分改めて観ても細部の拘りににやつく位の楽しみ方しかできなかろうなのだが。神が細部に宿るのなら、それこそが本番かもしれないが。

Beautiful Worldの時はそんな事はなかった。映画は映画として楽しんで、歌はなんとも見事に期待に応えたというか期待以上だったというか。そういう風だったのだが、こと桜流しについては、観てもいない映画の存在感を霞ませる程のインパクトがあった。後世の人がどう感じるかは知らないが、私にとってはCasshernと誰かの願いが叶うころの関係性に近いものを感じる。姐さん、スケールデカくなりすぎでござるよ。

なので、実はEVAQの円盤が出たというのにまだ私は気持ちが盛り上がっていない。案外、下り坂というか一旦登った山を下りた状態のヒカルが曲を書いていても似合っていたのかもしれないな、なんて事は思う。

しかし、EVAシリーズの神通力を私は信じているので、桜流しに励まされて、最終的には見事に結実してくれる事だろう。あたしゃ週末にBlu-rayを取りに行く予定なので(悠長)、もし円盤に関する考察が出てくるとすれば来週以降になる。

一応まとめておくと、EVAQは素晴らしい作品である。ただ、桜流しが常軌を逸しているだけである。ライバルはベートーベンか?と昔思いついて没にしたフレーズをここに落としておいて、週末を楽しみにしておく事にしよう。いやっはっは。げほっ、げほ。

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音楽性の変化、という面では「生楽器が増えた」というのはある。サンプルが少なすぎてどうしようもないが、桜流しは生楽器主体だし、SCv2でも嵐の女神はフォーク、愛のアンセムはジャズ、キャンクリはピアノバラードだ。SML(NAD)はロックという事でこれを生楽器と言うかはわからないが、少なくとも打ち込み主体ではない。GBHだけは伝統的な、という程過去の楽曲に似ている訳ではないが打ち込み主体のダンサブルなトラックである。尤も、生コーラスと生ストリングスが鍵っなってはいるんだが。

その前の作品、This Is The Oneではトラックメイキングを外注していたので、この流れはもしかしたら5年単位くらいでのものなのかもしれない。ヒカルの音楽は徐々に生演奏主体に移行しているのだろうか。

にしても、先程述べた通りサンプルが少なすぎる。これではなかなか展望が読めない。そんな中、熊泡での選曲は何か参考になる事があるかもしれない。

冒頭を飾ったAtoms For Peaceの曲は、コメントにもあったようにフリー(人の名前ね)のベースラインが鍵となっている。こういう曲は、ヒカルの音楽に影響が反映されるのか。

ヒカルの曲は、まず打ち込みパーカッションの構図から入る為、ベースラインは二次的な役割を果たす事が多い。というか大抵よく聞こえない。フリーのように縦横無尽に曲の中で動き回るベースラインはなかなか出て来ない。どちらかといえば生バンドの発想に近い。ただ、Atomsの曲はかなりシステマティックに楽曲が構築されているので、ヒカルが惹かれたのはそういう面の方かもしれない。同じひとつの楽曲であっても、どこをみているかで受ける影響は変わる。なかなか読めないもんだ。

ただ、愛のアンセムは(もう二年半前の曲だが)かなり布石になるかもしれない。ああいった編曲は、カバーだったからこそ冒険できた、という捉え方も出来る。自作曲ではないから、何か冒険せざるを得なかった、ともいえる。ジャズのスタンダードをトラックに用いていた訳だが、そのムードは熊泡全体の色調にもなかなか符合する。そこらへんから紐解いていけば2013年現在のヒカルの傾向というものもみえてくるかもしれない。新曲が出る予定も、ないんだけれど。

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このままでは無意識日記に書く事がなくなってしまう、というのは言い方が悪いか、それはないもんな、言葉が出て来なくなってしまうので、音楽の話をしよう、そうしよう。

光について語る言葉が途切れても(千切れても、と言いたい所だが)、音楽について語る言葉なら途切れない。何故だかはよくわからない。そういうものだと思っておく。

つまり、そういう事なのかもしれない。ヒカルの音楽に対するモチベーションは、無いのではないか。モチベーションがなくても携わり続ける、いや、共に在り続けるものである、というのは何だろう、何かをやるにあたって最強である。仕事として音楽に携わり続けるか否かは定かではなく今後も予断を許さないが、光はずっと歌と共に在る。ならば、確かにモチベーションなんて要らない。再度言おう、ならば最強である。

今のご時世、インターネットのお陰で誰かが成した音は必ず聴ける、聴く事の出来る可能性を保持し続けられる。勿論、隠遁して全くインターネットに繋がらず驚愕の音楽を成す人間は、今という時代だからこそ世界中に居る気がするが、音さえ鳴るならそれを誰かがマイクで録音してインターネットで放流する可能性はある。中身によっちゃ、それで金だって取れてしまう。

極端だが、光が何か歌を成せば、幾らかは聴けるだろう。聴かせたい歌があるならエンドレスリピートなのだから。あとはメジャーレーベルと契約するか否かだ。

そこが問題といえば問題だ。過酷な仕事環境は、純粋に疲弊する。ただそれだけなのだ。歌う元気もない状態まで追い詰められる。無駄である。無いのがいちばんだ。

光は在れば歌うのだから歌は光自身にとても近い。喉が衰えても、歌を生み出すなら歌えると言い切ろう。勝手。あとは耳が聞こえ続ける事を祈るのみだ。

ノー・モチベーション。そちらの方が長持ちかもしれない。やる気、やる理由、やる元気。気も理由もなくてもやる、在る。ならば後は生きていく元気だけだ。

出来れば、それを自らの音楽から得てくれないかな、とはちょっと思った。出来上がった音をヒカルが聴かないのは何なのだろう。いわば、家で養豚してるのにベジタリアンという感じか。ならばLIVEという事になる。16歳のヒカルが言った「歌を取り戻す」儀式。大事、大事。人前で、歌う。歌う。


ここまでくれば、あまり考える必要はない。いや、最初からここに居るんだから、元々必要なんてなかった。

そこでラジオである。ヒカルが自分の曲をかける時、他人の曲と同じように掛ける事が出来るか。何だろう、ここに矛盾をみてもいい。総てをそこで表現し切ったのであれば、曲は巣立つ。もう自分だけのものではない。自立した、成人のような。旅立った我が子と再会した折、1人の大人と1人の大人として相対する。そんな風に自分の書いた曲をみれないか。

照實さんが言うように、幾つになっても娘は娘、なのか。つまり、ヒカルが自分の作った曲を聴かないのは、子離れ出来ていない、という風にもとれる。意識し過ぎる。他人の曲と同じようになんてとてもみれない。心をこめて育て上げたのだから。それは、宇多田家の親子観なのかもしれない。

何故そんな事を言うかというと、一度聴いてみたいのである。宇多田ヒカルが宇多田ヒカルの歌をどう思っているのか。「今回のは自信作なんだよね」。よく云う台詞。しかし、これは送り手として。完全に受け手として宇多田ヒカルの音楽を聴いた時、どんな風に思うのか。ラジオでは、ヒカルが最近好きな曲やアーティストを楽しそうに紹介していた。あの中に宇多田ヒカルを組み込む。無理かな、無理かな。

例えば2012年に聴いた曲の中で、桜流しがいちばん好き、と本人が言ってくれたら、何だろう、物凄く嬉しい。何故嬉しいのか、ようわからん。当たり前なのかな、変なのかな。それ位本人が率先して肯定してくれないかな、という期待が私の中にとても強いのだなと今し方気付いた、という具合。


音楽の話だったのかな、これ。でもどちらでも構わないか。第2回以降、自分の歌をかけるかどうか、それについて何と言うか。期待、期待。

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朝から二日酔いツイートするような奴は一日20呟きくらいするべきだッ

…とどうでもいい事を書きたくなる程@utadahikaruからのツイートがあると脱力する。そして唐突にエントリーの傾向が切り換わる(笑)。毎度の事なので慣れたけども。しかし朝7時台は珍しい、のかな。日本に居るという風にとってもよいのだろうか。全く神出鬼没でござるよにんにん。

さて、毎日クイズを出すにあたって出来るだけ時系列をバラバラにしようと心掛けているのだけれど、バラバラにしてもあんまり全体としての印象が変わらない。それだけ一貫して変わらない人だともいえるし、一貫してバラバラな人だともいえる。

それでも勿論、年齢と共に変化している事も多い。熊泡で大人っぽい喋りに驚いた、という評は裏を返せば昔は今よりこどもっぽかったという意味だ。年相応に落ち着いて…という決まり文句も、よぉく当てはまりはする。

一体、何が一貫していて何がバラバラで、何が年相応なのかを一度整理してみたいのだが、どこからどう見たらいいのかよくわからない。童顔か。童顔のせいなのか。

バラバラ、という感想は、こちらが楽曲を、音楽を視野に入れて考えるから出てくるものだ。それに付随する発言、インタビューも伴ってあっちに行ったりこっちに行ったり。

そんな中で明らかにターニングポイントとなっているのがくまちゃんの出現である。2006年1月19日。この日を境に宇多田光は"変わった"と言ってもいいかもしれない。本人からすりゃ"見つけた"という感覚かもしれないけれど。ここで紀元前紀元後と分けたい位に。

昨日の『めっちゃかわいくない?スワロフスキーくま~!』のツイートは、否応無しにいのいちばんの最初のツイートを想起させた。やっべーこの壁紙まじかわいくないっすかとかなんかそんなん。まるで一周廻って元に戻ってきたみたいな。光からすりゃいつもどおり、という事でしかないかもしれないが、口に出して実際に言う・書く事をしてくれたその時に、私達は反応する。バラバラの感覚というのは、その時に何に言及したかの違いに基づいてるだけかもしれない。しかし口はひとつしかないから、その度に振り回される。やれやれだぜ。

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「なんで"休みます"って普通に言わずに"人間活動宣言"だったの?」という疑問がある以外は、私は非常に満足している。あれだけ長期の休みが欲しいと言い続けて漸く手に入れた自由な時間。2年でも5年でも10年でも満喫してくれと願わずにいられない。なのにEVAQの為に新曲書き下ろして月一のラジオまで始めて完全に至れり尽くせりだ。気の早い奴は挙って復帰への布石だと騒ぎ立てるが、早過ぎるだろうに。1998年~2010年の間にコイツが何曲名曲の名に相応しい歌を書いてきたと思ってるんだよ。あれだけ出し尽くしてきたんだから年単位でゆっくり休んで充電を…

…って毎回書きたくなるのにいっつもここで筆が止まるんだよ! 何で休みじゃないんだこれが! …という謎の憤りで今週は(というかこの2年余りは)来ているのである。現状への不満ではなく、当時の言動に未だに合点がいかないのだ。

ヒカルは言葉遊びを弄する人間ではない。意味もなく造語したりしない。何でもかんでも隅々までチェックされては息苦しくなるばかり、というのもよくわかるが(←本日のお前が言うなスレはここでござるよ)、一大決心の一大宣言に対して、未だに私はしっくり来る使い方がわからないのだ。ただ、それだけの事。

なんと言っても現状を激しく肯定したくなる要素といえば「桜流し」の存在である。明日EVAQBDDVD発売日という事で手元にサントラが届いた向きも多かろう。こんな曲を今書ける人間の生き方が間違っている筈がない。いや音楽家は音楽的成果をあげられるからといって本人が幸福であるとは必ずしも言えないからここは"アーティストとして間違った生き方は一切していない"と言えばよいか。エモーショナルでどこまでも美しく力強く人の心の奥深くに突き刺さるこの威力。こんな曲が書けるんなら一生人間活動期間でもよいよ。いやまぢで…さ、流石に寂しいかな、まぁいいのだ、作曲家としての技量とセンスは衰えるどころかますます前進している。ここまでの曲を書ける現役作曲家って、少なくとも日本には他に居ないんじゃなかろうか。サントラで鷺巣サウンドと較べてみて欲しい。彼も一流の作曲家だし技術や知識はヒカルのそれを遥かに上回るだろうが、音楽の存在感ではとても敵わないだろう。格が違うのだ。

だから、私がグダグダ言っているのは、現状への不満ではなく現状の説明への不満であって、物事は至極順調に進んでいるのだ。それについて語ろうとする時に先程のようにすぐ躓いてしまう状況を何とかしたい。まるで、語られるのを拒むようなこの感触…それが人間活動宣言の狙いだとしたらどうだ? 宇多田ヒカルという名前自体を眠らせておきたいという願いを託された人間活動宣言だとしたら、無意識日記が存続の危機に立たされるなぁ。うぅむ。

それにしても今夜は火曜日の夜。「今週はないんだよなぁ」と呟く贅沢。エンディングテーマを歌った映画の円盤発売。親娘揃ってのツイート。照實さんお馴染みの出す出す詐欺(笑)。このままIn The Fleshがリリースされちゃったら益々…


…何を足掻いているのやら、相変わらずわからない。ただ、ただ諸手をあげて現状を賞賛する"だけ"に陥らないように、という警告音だけが、常にけたたましく鳴り響いている。ヒカルは、まだ、もっとよくなれる。多分それが信念なのだろう。そして後はもうそれしかない。よくわからんわ、相も変わらず。

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前回は『休養でも充電でもない』発言に拘ってみたが、話が余り面白くならない事を自覚しつつ引き続き今回も拘ってみたい。

アーティスト活動に対して人間活動が休養でも充電でもない、と2010年8月の時点で書きたくなったのは、つまり「さーこれからお休みだゆっくりするぞー」ではなく「さーこれからも気合い入れて頑張るか」という気持ちだったからと推測される。派手にメディアに登場しないけれど私が頑張る事には変わりない、私にとってはアーティスト活動も人間活動もそれぞれに重要、という意思表示。であるならば、今後も度々アーティスト活動と人間活動が入れ替わる時期が挟まれるのだろうか。それぞれに重要、だからといって別に時間配分が50/50になる必要はないが、そうなったとしても不思議はない。そういう"左右対称"な活動としてアーティスト活動と人間活動を捉えているならこれが休養でも充電でもない、と言うのは理解出来る。お馴染みの「二足の草鞋」最新版というヤツだ。今までは、例えば学生とミュージシャン、宇多田とUtada、みたいな感じだったが今度はアーティストと人間という…

…しかし、だとすれば難しい。15歳からアーティスト活動をしてきて人として大事なところが成長せずに来た、という話だったが、そこまで互いに相反するのであるならば、人間活動中はアーティストとしての成長が止まる筈である。どちらもそれぞれに重要、というのであれば、常に片方を犠牲にしてもう片方を育む、という形をとらざるを得ない。

それこそが、人間として破綻した形であると思うのだ。

人は誰でも葛藤を抱えて生きている。学生であれば勉強と部活と交友のバランスとか、職業人であれば家族と仕事をどう大事にするかとか。しかし、だからといってそれらを切り離してしまうなんて事はしない。常にごちゃ混ぜの中であっちこっちしながらどうにかやりくりをして生きている。毎度自分で使ってて変な言い方だなぁと呆れるが、それが"普通の生き方"なんだと思う。

つまり、人間活動宣言をしている時点でまるで普通ではない。"人として大事な部分"は恐らく日常生活の中では些細な表現形態をとるだろう。今も光は着々とそれを進めているに違いない。だとすれば、アーティストとしての成長を止めてまで(止めているかもしれない可能性を孕んだまま)"人間"として成長した挙げ句に、何になっているのだろう。こちらからみれば、ただ宇多田ヒカルが、去った時のままで帰ってくるだけだ。何の不満もない。そしてヒカルは、"マネージャーなしでは何もできないおばさん"を回避し、何食わぬ顔で仕事に打ち込む…

…として、その間に止まる"人間としての成長"は、どうなる? やはり難しい。何がどうなってるんだろうこれ。次回も続くのかよこれ。ちょっと憂鬱だな。(笑)

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ヒカルの音楽活動に対するモチベーションは一体どこから来ているのか。何だか延々論じてきている気がするが未だによくわからない。今回はそのわからなさ加減をつらつら書いてみる。

私は、ヒカルは別に音楽にこだわらなくてもよい、と常々考えてきた。例えばレオナルド・ダヴィンチのようにあらゆる分野で創造的な仕事をすればよいと。小説を書きたくなったら書けばよいし、漫画を書きたくなったら書けばよい。研究に没頭するもよし、映画を撮影するもよし、芝居に打ち込むもよし。仲居さんや本屋さんに挑戦してみるのもアリだろう。ただひとつ、Message from Hikkiだけ堅持してくれれば後は好きにしなはれ、とそう思ってきた。

しかし、現実はこれでもかと音楽に偏った活動をしている。編集長もやったし映像監督もやったが何れも"音楽家"宇多田ヒカルを補佐する役割のものである。点線に至っては、あそこまで大分な書物を2冊仕上げながらきっちりニューアルバムを隣で出していた。何もそこまでしなくても…と思いつつ当時はニヤニヤと心配が止まらなかった。懐かしい。もう4年前の話か。

何より音楽が本当にメインなんだな、と思ったのは、今回の人間活動である。言わば、"宇多田ヒカル"から離れた活動を宇多田光(と書けば彼女本人の事だと昔は決まっていたのだが今やこれは映像監督の名義と同じだからとてもややこしい)が行う期間な訳だが、この間の動向は一切と言っていいほど触れられていない。もしかしたら、社会に対して大々的に自分の名前を出す活動は音楽とその周辺に関するものと決めているのかもしれない。いや、わからないが。

予めそんな風には決めていないだろう、とは思う。ただ、なぜそれなら人間活動を『休養でも充電期間でもない』と言ったのか。ここがわからない。何が言いたいかといえば、もしアーティスト活動をしないだけでそれが休養ではないのなら、今の活動に自分の知名度を利用しない手はないからだ。今何やってるか知らんけど。そうしていない、という事は、自分の知名度はミュージシャンとしてのキャリアと共にあり、それ以外の事に「宇多田ヒカル」という看板は使わない、という線引きをしていると見てとれる。誤解を恐れずにハッキリ言えば、休養でも充電期間でもないのなら今やってる事を開けっぴろげに公表し続けてもよかったんじゃないかという事だ。そして実際はそうしていない。人間活動の実態は相変わらず我々には謎のままだ。如何に彼女が実際に精力的に活動していようが、それを公表しない以上こちらからみれば「休養」であり「充電期間」である。

今書いている事はただの言葉遊びに見えるかもしれないが、案外重要だと思う。勿論、今携わっている活動が知名度が邪魔をするものだというのならわかる。であるならば、今後の人間活動の中で、自身の知名度を最大限に活用できるものが出てくれば、その期間音楽を放り出して、バンバンメディアに露出をだな…

…しないよな。ポイントはここなのだ。つまり、有名人としての宇多田ヒカルは音楽家なのである。今のままなら。人間活動が休養でも充電期間でもない、人としてフルスロットルな、それでいてアーティスト活動とは違うものであるならば、種類によっては宇多田ヒカルの名前を前面に押し出して活動すればよい。休養ではないのなら最大限の成果をあげようと目論むのが自然だろう。取り敢えず、今まではそうした事はしてこなかった。そして、今後もそうしなかったとするならば、復帰した時の宇多田ヒカルの看板は音楽家としてのものである。

ただの有名人、というキャラクターはことのほか効能が強い。わかりやすくいえば、ヒカルの場合、命懸けで新曲を作って歌ってシングルCDをリリースするより、TVCMに出て15秒ニッコリ笑っていた方が儲かるかもしれないのだ。英語の教材とかどうだろう。いやそれはどうでもいいが、ヒカルの社会的価値は、音楽家である事よりも有名人である事の方かもしれないのだ。うぅむ。

そこを今は一緒に切り離している。有名人であり音楽家である宇多田ヒカルはやっぱりお休みしているのだ。だとすれば今は明らかに宇多田ヒカルの休養期間であり充電期間だという事になる。嗚呼、ややこしい。どっちなんだ。


はっきり言ってどっちでもいい。


考えれば考えるほど、この2年間書き続けてきた通り「何かが書かれていない、語られていない」と感じる。この圧倒的な不足感。ラジオ番組が始まって、益々その感触が増した。まぁいいや、多分、考えてもわからないのだろう。冒頭で述べた通り、今回はその確認作業なのだった。

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熊泡が始まったキッカケはピーターバラカン氏からの依頼だった、とヒカル本人の口から語られたが、これはまぁ当然というか他には有り得なかった。もしEMIやU3主導でラジオをやるならWebで配信すればいいだけの事だったからだ。いや勿論、放送局のもつ著作権の包括契約を利用出来るか否かというのは大きいのだが。

したらば、そのもう一つ前の段階。ピーターバラカン氏は、何もない所からヒカルへのオファーを出したのだろうか。4年前の共演でその才能を見いだしていたとはいえ、4年前である。新たにInterFMの執行役員になったからには改編期に目玉となる番組が欲しい、ダメ元でアプローチしてみよう、となった―まぁ、それでよいだろう。しかしそれでも、"アーティスト活動無期限休止中"をうたう人に対して月一とはいえ単発でない番組をいきなり依頼するというのは、それなりに唐突であるような気もしてくる。

ここに、桜流しの影響を考慮する必要もあろう。如何に人間活動中とはいえ、意義のあるオファーなら受け入れてくれるのだ、という前例を作った事は大きい。E VAが如何に特別か、という点についてバラカン氏はピンと来ていなかったかもしれない。オファーを受け入れる可能性を示唆している、という事実だけあれば十分だった、ともいえる。

それでもまだ弱いか? 或いは、彼に助言をした人間が居るかもしれない。踏み込んで言えば、バラカン氏とヒカルとの4年前の共演を知っていて、且つ今のヒカルならラジオ番組のオファーを受ける可能性がある事を把握している人物。そして、そうなった時にメリットのある人物。即ちバラカン氏にわざわざアプローチしてヒカルに仕事をさせよう、と思い立つような人物―それは、…と言って具体的な名前を出せればカッコいいのだが私は業界人ではないのでそんなのは無理。ただ、もしかしたら誰か居たかもしれない、と考える位は構わないのではないか。もしかしたら、ヒカルですらそんな事があったとは知らないのかもしれないのだから。あったとすれば、ですがね。

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熊泡を聴いてみていちばん私の中で気持ちが変わった所といえば「俺もラジオ番組やってみてぇ」という欲望が発生した事だ。

たぶん、自分の好きな曲をかけてるヒカルが楽しそうだからだろうな。正直、リスナーにそう思わせるっていちばんの正解である。これを以てして「いい番組だ」と断じてしまってもいいくらい。

これは、新しい局面かもしれない。他にも私のような気分になった人が居れば、だが。

何が新しいかというと、宇多田ヒカルという人はどうしても別格扱いというか別枠扱いされていて、例えば歌の上手さは異次元レベルだよねぇ、で止まってしまう。ヒカルのように歌いたい、とはなかなかならない。「そりゃあれだけ歌えればいいだろうけれど、ねぇ」と溜め息を吐くのが関の山だ。

そこは、違うのである。積極性を目覚めさせる、って凄く大事なのだ。チャック・ベリーやAC/DCが偉大なのは、「簡単じゃん、あれだったら俺にも出来るよ」と若者に楽器をとらせた事である。事実、彼らの曲は簡単で、楽器を覚えたてでも一曲しっかり演奏できるよという敷居の低さ。これが大事だ。そしてそれより更に大事なのは、その簡単な楽曲たちが、演奏するに値するクオリティを備えている事だ。「やってみたい」と思わせる質の高さと「あれなら俺にでも出来る」と思わせる敷居の低さ。これが積極性を生み出す。

私が「こんなラジオ番組やってみたい」と思ったのは、喋れるかどうかはともかく、選曲してそれについてのコメントを並べる"だけ"なら、俺にも出来るかもしれないと感じさせた事と、何よりヒカルが楽しそうだった事だ。好きな曲を好きなだけ流しそれについて語る、というシンプルさを実行するヒカルの楽しそさ。もしかしたらこれがKUMA POWER HOURのいちばんの魅力かもしれない。

それにしても、今のご時世、インターネットラジオならば今すぐにでも始められるよな…ラジオやってみてぇなぁ、、、すぐにやる予定はありませんし、人前で喋るだなんてとんでもない事である。

それより、楽しそさである。大人っぽくなった、落ち着いた、色気がある、などなどとニューヒカルを形容する言葉が踊っているが、私にとっていちばん印象的だったのは「音楽の話をしている時のヒカルは何とも楽しそうだな」、という伝統的な一点だ。これがあった。熊泡にも。

変な話だが、作詞作曲中やテレビやステージで歌っているヒカルは「あんまり楽しそうじゃない」。これが気掛かりだった。どんなに辛く苦しい事があってもそれを上回る楽しそさがあればそれは常に望ましい。裏を返せば、そこまで自分を追い込む位なら休めば?と言いたくなるのがヒカルの本業に対してのいつもの私の、我々の態度だ。事実、それは現実のものとなりヒカルはアーティスト活動を休止している。

しかし、ラジオで音楽の話をするヒカルには一切の無理がない。第1回は多少緊張していたがそれも何の事はない。ヒカルが楽しそうで、無理なくずっと続けられる、こちらが遠慮なくずっと続けてくれと頼める楽しい仕事。それがラジオ番組。ならば人間活動もアーティスト活動も関係ない。ヒカルが生きている限りラジオはずっと続ければいい。作詞作曲やライブに対して遠慮ゼロでそう言うのは難しいが、ラジオは違うのだ。とても嬉しいポイントである。

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熊泡はまぁ当たり前だが各所(っつったってネットサーフィンするだけなんだけど)で大好評のようだ。その時間帯のRadiko占有率35%とは恐れ入った。というか、Radikoなら占有率を簡単に吐き出せるわなそりゃそうだ。今まで関心がなくて考えた事もなかったわ。

ラジオ局が10以上居並ぶRadikoの中で35%、3分の1以上を占有するとなるとこれはかなり突出している。こうなればLismo Waveの数字も知りたいところだが、有料となるとぐっと分母が下がりそうだな。ともあれ、なかなかの注目度だったようだ。

あとは、来月の回に向けてどう告知していくかである。InterFMがツイート等でコンスタントにお知らせするのは勿論だが、やはりフォロワー123万の@utadahikaru自身が何度もツイートするのがいちばんだろう。初物でなくなったという事で、注目度はぐっと下がるだろう。なかなか記事にもならない。極端な話、幾ら評価が高くても聴いてもらえなければ始まらない。音楽ファンに好評な選曲眼、というのが「やっぱり宇多田は違うな」という声だけに終わらせないようにしたい。

ここを、どう判断するかだ。「かっこいい番組」と思われる事は決して人気にすぐ繋がるものではない。寧ろ、少しくらいダサい方が日本人にはウケがいい。その最前線でやってきたヒカルには釈迦に説法なんだけど。

問題は、案外システムにある。ヒカルは、InterFMで番組をやるという事で(とはいえどこまで意図的かは知らないけれど)どこよりも"InterFMらしい"番組を作り上げた。普段からInterFMを聴いている層には好評であるはずだ。しかし、今やラジオはインターネットと和解しつつある。RadikoやLismo Waveでアクセスしてきた層とは、つまり普段InterFMを聴かない(聴けない)層である。そこの中に潜在的に存在していたであろう"InterFMを気に入る性向のあった層"は、また聴こうとなってくれるだろうが、それ以外の、宇多田だからという理由でチャンネルを合わせてきた層には「かっこよさ」はそのまま「とっつきにくさ」に繋がるだろう。結局は、ここである。システムの変化によってリスナーの可能性が広がったのだ。InterFMファンだけを相手にする感覚は、地上波オンリー時代に置いてくるべきなのだ。

だからといってヒカルが第2回から大きくスタイルを変えてくる事はないだろう。酒は飲んでるかもしれないが。自然体は、デビュー当時から一貫して変わらないのだからね。

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15歳でデビューして今30歳なのだからそりゃ大人になる訳だけど、それをこんなに取り上げられるってのはどう考えたらいいものやら。皆16歳のイメージが強いままなのかしらん。

でも、番組名は「クマパワーアワー」。いいんだろうかこれで。名は体を表すというが、いや中身さえよければ名前なんても何でもよくなっていくパターンなのか、やっぱり合ってないよねーと言われ続け…あれ、そう言ってるの俺だけじゃね? なら別にいーかー。

ただ単純に、こんな番組をやり続けてると普段くまくま言ってたのがリアリティがなくなっていくというか…大丈夫か。お馴染みの杞憂だな。


さて、ではもっとシンプルなネタを書いておくか。何故番組の最後にT-REXの"Ballrooms Of Mars"を掛けたのか。ギターソロが気に入ってるから…というのがいちばんの理由だと思うが二番目以降の理由を考えてみる。

タイトルに"Mars"がついているからにはマーク・ボランの親友であるデヴィッド・ボウイの事を意識しているのだろうし、歌詞の中にはボブ・ディランとジョン・レノンの名前も出てくる。レノンの名前については皆あのWild Lifeでカバーした"Across The Universe"の作曲者という事で反応する向きも多いだろう。

しかし、ここで注目したいのは、もう一人、ディランやレノンのようによく歌の歌詞に出てくるような事はたぶん滅多にない人の名前が出てくる。その名はアラン・フリード。余り名を知られているとは思わないが、全世界に"ロックン・ロール"というキーワード(キラー・ワード、かな)を広めた事で知られるアメリカの伝説的白人DJである。

彼の名が歌詞に出てくる事が重要なのではないか、アラン・フリードのように、人種や差別の壁を乗り越えて愛する音楽を世に広める精神に共感してこの番組をやっていきますよ、という控えめな所信表明代わりの選曲だったのではないか―とそう考えてみるのはどうだろう。

考え過ぎか。だな。

しかし、第1回からセクシャル・マイノリティのカミングアウト話をするなど、そこらへんは意識して取り上げているようにも思う。私自身にもこの間、波打つラジオ話の中に唐突に同性愛者に関するエントリーを連載した経緯がある。特にヒカルが番組でこういった話題を取り上げると予測していた訳でもないのだが、例によって奇妙な符合ではあるし、そこに何らかの連関を想像しても罪ではなく罰も当たらないだろう。

しかし、あのリラックスした番組の裏側というか内側というかに、そのような"静かな精神"が宿っている、と想像するだけで番組に対する態度がほんの少しばかり引き締まるようにも思う。黒人差別と戦い続け疲弊していったアラン・フリードのようになって欲しいとは一切思わないが、マイノリティに対する優しく強い眼差しをそこに感じながら番組を聴いた方が、ほんのちょっぴり幸せ感が増す気がする。


…でも次からは一杯飲みながら番組やろうかとか言ってたわなぁ…やぱ穿ち過ぎかな…。

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