無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『DISTANCE』の伸びやかなメロディを聴いているとあー確かにこれはバラード向けだわと今なら思えるが当時は全くそんな事考えてなんてなくて、勿論『FINAL DISTANCE』という“アルバムタイトル曲をシングルカットかと思いきや全く違う何か”に触れた時は驚愕したものだった。6曲入りEPというパッケージで聴いた時確かにこれは『DISTANCE』の方がカップリング曲だなと妙な納得をした覚えがある──当時の最新アルバムのタイトル・トラックなのに。「主役交代」なんだと思った。更にまさかその『FINAL DISTANCE』が次のアルバムに収録されるだなんてこれまた夢にも思わなかったが実際に『DEEP RIVER』アルバムを聴くと「そりゃここに『FINAL DISTANCE』がなくっちゃね」と痛感したのだから、いやはや、当時のヒカルのセンスと思い切りの良さには脱帽でしたよ。…なんていう思い出話。


以後もヒカルはアップテンポの曲とそのバラード・バージョンと呼べる組み合わせを幾つか手掛けている。いちばん有名なのは『Flavor Of Life』だろうがその前に『Passion -after the battle-』もあったし、その後に出た続編、姉妹曲ともいえる『Prisoner Of Love』も『Prisoner Of Love -Quiet Version-』とのカップリングが少しそういう風合いだ。何れもただのリミックスとか思っていると人生に絶望的な後悔を齎すであろう必聴のバージョンとなっている。

今後もそういった展開があるだろうか。最近の別バージョンといえば『Too Proud』か。ツアー開始とともに『L1 Remix』を公開しすわ国際色豊かなコラボレーションを幾つも実現させる気かと思わせておいて実際のツアーではスタジオバージョンでゲストのJevonに歌わせていたラップパートをヒカル自身の日本語で塗り潰しにかかった。本来であればゲストが無しになったら落胆するもんなんだけどファンはヒカルが歌ってくれて大喜び。なかなか心憎い持っていき方だったね。

……それくらいかなぁ。『誓い』/『Don't Think Twice』も『Face My Fears』も、別バージョンを作った訳では無い。というか、別バージョンを作る代わりに2曲作った訳だ。『Face My Fears』なんかフルアコースティックのバラードバージョンにしたらどうなるだろうという興味は尽きないがツアーでそういう装いを添えるのもいいのかもしれない。

逆に、バラード曲をアップテンポに持っていくのはないのかな。『Flavor Of Life』に関しては先にバラードバージョンが発表された為あとからアップテンポになったケースなのだが自分の印象としてはそこまで鮮烈に変わったという感じはしなかった。寧ろやっと楽曲本来の“意図”がよくわかって喜んだという感じだった。

『誓い』のリズムを入れ替えて少しアップテンポ風味にしたり、『Forevermore』や『Play A Love Song』をバラードにしたり、というのはわかりやすいかもしれない。そういうのがまた聴いてみたい。

こうやっていると諸々アイデアが次々に出てきそうなので、あれですよ、来年でいいから20年ぶりにアンブラグドショウをやってくれんかね。スナックひかるの復活。いやはや、でも、相変わらず凄い倍率になるだろうな。音漏れのある会場を希望したいぜ。

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ヒカルがダボス会議で歌ったのは確か青天の霹靂でなんの前触れもなかったのではなかったかな。当時はファンサイトに出入りしてなくて誰とも会話していなかったので記憶があやふやだわ。なんかいきなりあの謎メイクの映像が飛び込んできたような。いつの間にそんなことになってたんや、という。

あれから18年か。当時はその時歌った『Fly Me To The Moon』がその後エヴァンゲリオン劇場版に参画する事で再び注目を集めるだなんて思いもよらなかった。アニメシリーズざ90年代にテレビ放映された当時エンディングに毎週金曜週替わりで違う人の歌う「Fly Me To The Moon」がオンエアされていた。その流れで「そういやHikkiも歌ってたよね」と『Fly Me To The Moon 2007』が制作された訳だが、そこから数えても13年。そろそろまた新録の「Fly Me To The Moon」をリリースしてもよいのではないだろうか。「少年時代」だって17年振りに新録(ヒカルからすると初録音)したんだし。

あの歌の日本語訳詞が『Wait & See 〜リスク〜』のブックレットに載っているのだが、今読み返すとかなりかわいらしい。リリース当時は17歳だったからOKだったが37歳の今同じ心境で歌えるかというと……って「また女性の年齢の話してる」って言われそうだな……。

ということで、録音自体を新しくというのも勿論なのだがブックレットに載せる─というか今ならスマホに表示される、か─日本語訳詞もまた新たに書いてみて欲しいかな、なんて。新しい訳をつけて新しい今の解釈で新しく歌った『Fly Me To The Moon』、聴いてみたいと思いませんか。

アプローチとしても新しいのではないか。歌う歌詞自体は全く同じなのに添える訳詞を変化させる事で歌に新しい解釈を授けるというのは。チャレンジングだし、やってみてもいいのではないかしらん。俺今回何回“新しい”って言ったんだこれ。

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SARSやMERSに続くかとコロナウイルスの新型が話題になっている。今後の展開はわからないが今のところインフルエンザの方がずっと危険なようだ。メディアの騒ぎ方が面倒臭いといったところか。

数日前、オランダ首相がナチスの大虐殺に加担?した咎を史上初めて謝罪したとのニュースがあった。少なくとも600万人以上が犠牲になった歴史。どんな感染症も斯様な短期間でこの人数の人類を葬り去る事は出来ないのではないか。疫病より差別や偏見・無知の方が余程怖いのだ。国籍や人種で名誉毀損を繰り返す人に疫病で騒いで欲しくないのだが、なんだろう、重なってそうな気がするなぁ。


きな臭い話はその位にして。


映像商品『Laughter In The Dark Tour 2018』が第12回「日本ブルーレイ大賞」のカテゴリー別で音楽賞を受賞したそうな。めでたい。と言っても12回もやってはるそうなのに私初耳なの何なの。無知でごめんなさい。

他にも沢山音楽ブルーレイが発売される中……というか、フィジカルの世界に関してはCDよりDVD/Blu-rayの方が好調な訳で、これは実質昨年の音楽フィジカルナンバーワンだと言われたに等しい(言い切る)。私も普段はついつい配信で観て/聴いてしまっているが、確かに『Laughter In The Dark Tour 2018』のBlu-rayは音質が抜群だった。もうBlu-rayオーディオで出して欲しい、と言いたくなる位。ヒカルはライブ・アルバムという体裁を取らないのでハイレゾライブ音源というのもなかなか出ないしな。Blu-rayの高品質サウンドは貴重なのだ。

賞の権威自体はこの際置いておいて、こうやってニュースになって名前が出て「どれ、観てみよう」という人が出る事が大事だよね。もう昨年の映像賞品で、つまりライブ自体は一昨年なのだが(うわほんまか)、まだまだこうやって名前を出して貰えればそのクォリティーを知らない人にまた訴求する。特にNetflixで観られるのはデカい。ネトフリが頑張れば頑張るほどヒカルの歌が聴かれる訳だ。

でも、折角だしBlu-rayが欲しい人の為に通常盤を出し直すタイミングがあってもいいかもしれないねぇ。ライブフォトブックは要らないから円盤1枚だけで、っていう。まぁ、そんなの出たらまた買い直してしまうんですけれども。VRの『光』と『誓い』の非VRテイクをボーナス・トラックとしてですね……欲しいなぁ、なんてな。わがままですみません。無知でわがままだなんてほんまどうしようもあらへんねぇ。

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そうか、今日は『traveling』のDVDシングル発売記念日か。18年前。後にも先にもDVDシングルでこれだけ話題になった作品もない。楽曲もバカ売れしたが、映像の印象度としてはキャリア中最高だ。デビュー曲の中腰ダンスも皆の記憶に刻まれているが、コスチュームとしての個性を考えると『traveling』になるのだろう、宇多田ヒカルの存在を記号化し尚且つ唯一無二となるとこれを選ぶしかない。ミラクルひかるがモノマネでテレビに出る時この衣装を採用したのが何よりの証拠だろう。


最近、余りヒカルのミュージック・ビデオが話題になっていない気がする。SUNTORYのTVCMが流れた時の反応の多さを考えると皆決してヒカルのビジュアル&見た目に興味が無くなったとは思えず、寧ろ女子中高生がかわいいかわいいと色めき立つのをみていると健在というかなんというか……あんたらの倍の歳なんですけどねぇ。『traveling』発売当時生まれてないでしょ。いい子たちだよ全く。

確かに紀里谷和明の作品は、というか彼の存在自体、激しく好みが分かれていた。しかし、彼の作った作品は結局どれも話題を巻き起こしていたのだ。合間に挟まれた彼の作品ではない『COLORS』のミュージック・ビデオなんか、あんまり話題にならなかったしな。箸にも棒にもかからないとはこのことかと……。

最近のMVも少し近い感じがする。『忘却』のMVなんて、リリース当時リアルタイムでファンやってた人でも今言われるまで忘れてたんでないか。それは言い過ぎとしても、楽曲自体ではなく、映像そのものが話題に上る作品がそろそろ出てきてもいいんじゃないかな。

シンエヴァで主題歌を担当した暁には早々にアニメ映像(できればアウトテイク)を使用したMVを配信して欲しい、なんて話を前に書いた気がするけど、それはそれで他力本願というか、シンエヴァの動画には力があるに決まってるじゃないかと言われて終わりそうだわね。そうじゃなくて、映像が話題になってそのお陰で楽曲にも注目が集まる、くらいの力強さが欲しい。

とか言ってる私は、そもそもミュージック・ビデオというものにご執心ではないので「なきゃないで別に」というスタンスだったり。お気に入りのMVは『光』と『Goodbye Happiness』で理由は「ヒカルが映りっぱなしだから」ですからねぇ。でも、作るんだったら効果的なものを期待したくなるってもんですよ。YouTubeのアクセスって今やマスメディア級ですし。

一方で、構造的な問題として、それこそサブスクが普及してきたせいで、新曲がリリースされてもYouTubeにMVを観に行くことなく直接音源にアクセスする層が増えているのかしらん。そうであればレーベルの収入に直結するので喜ばしいことだが、それが押し進まるとそのうちミュージック・ビデオというもの自体が作られなくなっていくのかな? はてさてどうなりますやらですねぇ。テレビで新曲宣伝してるうちはないと思うけどね。全ては気分次第だよ。

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先日のグラミー賞は主要4部門をビリーアイリッシュが独占するというクリストファークロス以来38年振りの快挙を成し遂げたんだとか。ふーん。

ビリーといえば昨年環境問題を取り上げた楽曲とMVが話題になっていた。10代の少女がそういったイシューに触れると日本で大人気ない大人がムキになるのをしこたま見られるのだがそれはあんまり笑い事でもない。流石にこどもに政治的なアレコレを指摘するとなると末期症状だと思う。(被)選挙権無かったりする人にそんな風に当たったりするのはねぇ。

となると、こどもですらそうなのだから、大人だと全く容赦無い。日本では益々政治的な歌は歌いづらくなっている。まぁ、RCサクセションの「サマータイムブルース」のエピソードを持ち出すまでもなく昔から日本はそういうの難しいんだけどね。インターネットの普及した現在では尚更どころの話ではなくなっている。

環境問題、といえるかどうかはわからないが(一応管轄は環境省だろうかな)、ヒカルが昔日本熊森協会に興味を示していた事もあった。地球温暖化や原発問題に較べると傍流というか斜め上過ぎるというか兎に角個性的なチョイスではあったが、くまを通せば政治も宗教も語れるようになる、というのがくまのこ教とくまちゃんの肌触りは世界一党の教えるところだ。どこまでが冗談でどこまでが本気なのかよくわからないところがいい。匙加減次第でどうとでもなる。

私としては科学の問題でしかないものを敢えて“政治化”する人達は中世に還ってくれとしか思えないのだが現実は斯くの如しでな。歌詞を伴う「歌」に宗教色と政治性は切っても切れない関係にある。バッハの受難曲だって宗教音楽だ。でも出来れば、いちリスナーとしては、そういう俗世のなんやかんやを忘れさせてくれるようなロマンチックな歌を聴いていたい方なので、危ない橋は渡ってくれるなとついつい思ってしまう。でもいざヒカルが何かどこかで踏み込んできたら、それはそれで面白がってしまうんだろうな自分は。業が深いぜ。ファンが増えたり離れたりすんのかなー。あーあ。

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10代の頃のヒカルは女性の社会進出と権利に関する私見を臆面無く述べる傾向にあった。先日触れた『B&C』の「アダ&イブとボニー&グライド」」のエピソードもそうだ。キリスト教全体に対するとまではいかないものの、そこにある女性蔑視観についてハッキリと嫌いと明言していた。

今はそこまで強い言葉は使わない。他方、思いの強さは変わらないどころか、という感じがしている。昨年春頃の「Vagina a reeducation」についてのインスタもそうだし、女性天皇についてのツイートもそうだ。思想的には全く変わらないどころか更に踏み込んでいる。感心するのは、それを受け取る側への配慮だ。英語の書籍について英語でインスタ、とか「驚く」で呟きを締める技法とか、参考になる点がとても多い。

さっき“思想”と言ったが、自分としてはそもそもここから違和感がある。所謂フェミニズムと呼ばれるものは他の思想達と相対化して並べるようなものだろうか。男女という性別自体妄想の類、弱い社会の為の導入概念だとしか捉えていない向きとしてはそもそも権利に性別なんてものを適用する事自体が疑問である。だが現状がそうなっていないことも知っている。ヒカルが“語気を強めて”そのような主張をするより他無い事もよくよくわかる。

今のところ、それが作詞にまで影響を及ぼしている例は……ないような気がするな。90年代などは「同世代の女性への応援歌」とかが巷を賑わせていた気がするが、リスナーの性別を選ばない作詞傾向にあるヒカルはそれとは違っていた。『ともだち』も性別明言されてないしなぁ。『Too Proud』は、こういう内容を女性が歌う事自体が主張だと捉えられなくもないがややメタ過ぎるか。

LGBTという言葉ですら使い古されてきた感がある(続くかもしれないしまた新しい言葉が生まれるかもしれないし)昨今今更フェミニズムでもないでしょう、と言いたくなりそうだが現状は国際的にみてもまだまだなのだろう。そのうち歌詞のテーマとしても取り上げられるかもしれない。その時に慌てふためかぬよう、しっかりヒカルの考え方をフォローしておくようにしとくわぃ。

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去年のヒカルの呟きを思い起こすと、仕事を匂わせる発言もあった。実際、椎名林檎とのデュエットや井上陽水トリビュートなどがあったのでそれで問題なかったといえばなかったのだが、例えばこの3月のツイートなどはどうだろう。


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@utadahikaru : 曲のプログラミング作業に熱中し過ぎて息子のためのバナナブレッド焼いてたことすっかり忘れちゃって、今慌ててオーブンから取り出したんだけど底がめっちゃ焦げててショーーーックそして危ない…気をつけないと… 午後10:46 · 2019年3月25日



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これは何の仕事だったのだろうか? 浪漫算盤や少年時代の仕事にしては少し早すぎるような? レコーディング9月とかだしね。

ヒカルの仕事は基本的に作ったら出すの繰り返しで、そうそうストックがある訳では無い。長い20年のキャリアでボツ曲2曲だと言っているし、それだってまたFor Youやテイク5のように何年かしたら日の目をみるかもしれない。なので、この時プログラミングしていた曲もいつかお目見えするだろう。

ヒカルのキャリアで“とってだし”でなかった曲といえば、そう、『桜流し』がある。タイアップ相手の公開に合わせて完成してから一年以上経過してから発表された訳だが、となると、この2019年3月の作業は2020年6月公開予定の映画の主題歌の為のものだった可能性もある。「シン・エヴァンゲリオン劇場版 :Ⅱ」だ。


あとから答え合わせ出来たらいいんだけどそれをパイセン宛に聞いたら答えてくれるのだろうか?とまたチクリと書いたら意地が悪いと不興を買いそうなので書きたくないんだけど書いてしまった。なんかパイセン問答のせいでヒカルが呟きづらくなってしまっているとしたら本末転倒なので何とかしたいわね。ヒカルの言葉が聞きたくてパイセン回答第二弾を待ってるんだもの。何かいい手はないものだろうかねぇ。

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今日はCubic Uのアルバムデビュー22周年記念日。アメリカではインディーズだったが日本ではしっかり東芝EMIという大手からリリースされているのだから普通にヒカルはプロになって22年と言っていいかと思われる。人生の3分の2か……。

ところがこのCubic Uへのファンの反応が薄い。そもそもなかなか売っていないから知らないというのもあるだろう。今後はストリーミング配信に乗ってないという理由で"不馴染み"になっていくかな。しかし、Utadaの活動が始まった時の「宇多田が海の向こうでなんかしてる」感を思い出すと、更にガチ洋楽でしかないCubic Uに関心が向かないのも仕方がないかなとも思われる。

何より、ヒカルが触れない。オフィシャル・ディスコグラフィにも記載が無い。どういう契約だったのかもわからないが、黒歴史という程ではないものの「触れてくれるな」感が出ている風にも取れる。

なお当日記では、昔書いたように(あれ?書いたっけな?あやふやだわ)、日記を始めた当初から「もし書くネタが無くなってきたらCubic U特集をして凌ごう」という計画でやってきた為本文でも極力触れないようにしている。上記のようにオフィシャルも積極的に取り上げないという事もある。契約の事情かもしれないとはいえ気を遣いすぎる事も無いのだが(こんな遠慮の無い日記が気を遣う筈も無い。今直ぐ無遠慮日記に改名しても全く違和感が無い。)、取り敢えず回避しても案外作風の変化とか記述するのに不都合はないんだよね。Utadaとも別物だしな。

ただ、未来に目を向けると日本のファンのドメスティック志向はどうなんだろうというのはある。ヒカル自身は、例えば宇多田ヒカル名義の楽曲である『Stay Gold』のライブ初披露の場に『In The Flesh 2010』を選ぶなど垣根を設けているつもりはないらしい。いや、もっと踏み込んでいえば、世界中で日本という国だけが、ヒカルの活動を日本語のみに限定させてしまっているのである。

いや確かに『Utada United 2006』にはUtadaパートはあった。が、映像商品でもみられるように(わかるかなぁ?)聴衆の反応がイマイチなのだ。あれではなかなかその後の英語曲披露に積極的になれないのもわかる。せめて任天堂のコマーシャルでもFM局でも流れまくった『Easy Breezy』ならもうちょっと反応はよかったかもしれないが……って14年前の事反省してもしゃあないか。

世代が変わって2016年以降にファンになった人達は英語曲に対するアティテュードは異なっているのだろうか。『Don't Think Twice』や『Face My Fears (English Version)』への反応をもっとチェックしときゃよかったなと1年前の事も反省しつつ今後に活かしていきたいと思います。

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大衆が相対的な概念、対象である事に前回触れた。構成員の含不含はテーマに対する専門性や興味の有無であることも。

一方で、タイミングや立場というものもある。

卑近な例でいえば、例えば新年の親戚同士の集まりであったり同窓会であったり。……と例を出した途端に嫌〜な顔をする方々も多かろう。そういう時には不躾な人が必ず居て、ひとりひとりに“世間的な評価”を無遠慮に付与していったりする。どうにも社会的成功に無縁な人間にとっては苦痛な時間だ。

自分はそれを「世間の言葉」と呼んでいる。実を言えば、それを言う方も怯えているのだ。勿論、自分は成功したんだという自負もあるのだが、それ以上の圧力が掛かっている。第一、本当に成功している人はそういう場での自慢は負の効果しか無い事をよくよく知っている。金持ち喧嘩せずではないが、宝くじか高額当選したら周囲に黙るべきなのと同じように、極端な成功者は大抵黙って聞き耳役だ。

それでも、「親戚の無粋なおっちゃん」や「クラスの噂話好きな子」というのは“世間の言葉”を発せずにはいられない。その人達にとってもよくよく聞けば不本意なのかもしれないが、多くの場合自覚は薄い。まるで誰かに操られているかのように。

「世間」のイメージは、故に、そういった“世間の言葉”によって構成されていく。最近自分も観る機会がないので的外れかもしれないが、ワイドショーというのはアナウンサーとコメンテイターがその“世間の言葉”を探り当てる番組だろう。出ている誰も本音で語りはしない。次の週から出られなくなるからね。それを積み重ねていっていつの間にか世間の言葉は定着していく。

このプロセスの中には、どこにも誰かの本音や生の感情が含まれていない。最初から最後まで探り合いなのだ。だが社会的弱者─経済的にも情報的にも─にとってはそうではない。その“世間の言葉”はあからさまな重圧となって降りかかる。故に無粋なおっちゃんや噂話好きなクラスメイトの一言は彼らの本来の言葉の強さより遥かに強いストレスを齎す。あれは彼らの言葉ではない。誰の本音でもない、世間の言葉なのだから。


さてPop Music、大衆音楽の歌詞とはその世間の言葉との押し引き駆け引きで出来ている。迎合するのも無視するのも反目するのも、結局は意識しているからなのだ。ヒカルさんは世間の言葉に対してどのようなアプローチをとってきたのだろうか。

そもそも、今までの実績でヒカルは「世間の言葉」を味方につけている。恐らくそこには「宇多田ヒカルは歌の上手いバカ売れした歌手で称えるのがベター」という誰のものでもない計算がはたらいている。そういう前提が無いと『調子に乗ってた時期もあると思います』なんて『道』で歌えない。『嫉妬されるべき人生』で『人の期待に応えるだけの生き方はもうやめる』と歌えるのも、それまでヒカルが周囲の期待に応える結果を出てきたからだ。

一方でこれらの歌詞を共感をもって受け止める我々の意識は少し違う。「人の期待に応えようとする人生」に疲れた人はこの歌詞を聞いて「だよねぇ」と溜息をつく。そう言ってみたいと憧れる。世間の言葉を味方につけたヒカルに守られる形で私たちは歌詞の中に自分たちの本音を見つけ出す。途轍もない強さの庇護の下で。

勿論、ヒカル自身は絶え間なく世間の言葉との駆け引きに晒され続けている。何度も繰り返すようにそれは誰の本音でもない。探り合いの中から生まれる亡霊のような存在だ。しかしそれは大衆一人一人の生殺与奪を権を持っている。大衆音楽の歌詞の多くが世間の言葉への迎合だが、宇多田ヒカルはそこから優しく守る言葉で歌を彩っている。感謝を越えた感動がそこにはある。稀有とか奇跡とかいう言葉では言い表せない大衆音楽を我々はリアルタイムで聴いているのである。

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ヒカルは常々自分はPop Musicを作っていると公言してきた。故にこちらも文脈上「一般人」とか「皆」とか「世間は」とかデカめな主語を持ち出して話すことが多い。その度に「(それって誰のこと?)」と付け加えてきたのだが今回はそれについての話。

大衆というのは人の集まりの事だがその様態は不定型だ。しかも、時により所属構成員が変化する。もっといえば、その社会の全員が大衆になることもありならない事もあり、なのだ。テーマの設定とそのタイミング次第なのである。

要は、その時上がっているテーマに関して専門的に詳しい少数派に対して、それにあたらない全員の事を指す訳だ。つまり例えばあたしは宇多田ヒカルに関して“大衆”の構成員にはなり得ない。一方で、例えばどこぞの芸能人のスキャンダル記事のスレッドに行けば「そもそも誰なのこの人?」から始まるので大衆になるだろう。「知っている人の方が多数派」となるほどの超有名人のスキャンダルならまた事情は異なるが、それも含めてしまってもよい。

“衆愚政治”なんて言葉もある。これは事の本質を突いている。ひとつひとつ特定のテーマに関して専門的な知識を持つ人間の数は限られる。衆愚というのは、故に、誰と誰と誰が衆愚と呼ばれて誰が呼ばれないかはその都度テーマによる。そうやって構成員が入れ替わっていく中で都度衆愚は定義され得る。政治は常に複数のテーマを抱えるものなので、その統合体は全体統計として衆愚政治となるだろう。「失政は政治の本質だ」とは私の好きなヴ王の至言である。頻出。


私は大衆をその様に捉えているので、自分が時として呑気で無知な大衆だったり、或いは専門的な知識を得ていて他の人達の振る舞いが愚かしく見えていたりもする。裏を返せば、私が大衆である時は他の専門的な誰かが私の振る舞いを見て愚かしいと溜息をついているのだろう。斯くも大衆とは相対的なものなのだ。

故に、いつもヒカルが相手をする層について興味をもって接せねばならない。こうやって宇多田ヒカル中毒患者になってその事実すら麻痺して鈍痛になっている状態で最も認識しづらいのは「大衆からみた宇多田ヒカルの姿かたち」だ。これは常に大きな想像力と観察力をもって接せねばならない。「シングルの発売日なんて全部覚えてるもんじゃないの?」とか素で言ってしまうのは異常だと早く気づけ。いやまぁ結構な確率でフラゲ日と間違えて覚えているので偉そうなことは実は言えないのだがそれはいいとして。

そんななのでいつもこの日記では、ヒカルのリスナーに関して探り探りだ。言ってしまえば自分のような極端な人間はヒカルにとってリスナーではない。リスナーとして想定されていない。曲の感想を書いても参考になってないのかもしれない。そう考えるとちょびっと虚しいのかもしんないが、宿命みたいなもんだろうな。同じくリスナー想定外のコアめなファンがここの読者だろうから怯んでいる暇もない。ヒカルの話以外でなら自分は大衆に帰属するだろうからその時の感覚を頼りにやっていくとしますかね。

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昨年末のM-1グランプリ、ミルクボーイが史上最高得点で優勝したのは記憶に新し……いのかな。おっさんの感覚だと1ヶ月前って“ついこないだ”なんだわ。

「コーンフレーク」と「もなか」のネタ自体の強力さも然る事乍ら、大きく印象に残ったのは立ち位置右の内海崇の大らなな喋り口調と滑舌の良さだった。M-1グランプリといえば持ち時間が4分と決まっていて手数で爆笑連鎖を起こすのが優勝への王道とあって皆基本的に凄まじい早口になるものだったのだがその傾向に一石を投じたといえる。スリムクラブのような単発タイプではないのに凄いよね。わかりやすく伝わりやすい。芸事、表現活動の基本中の基本だ。


昨年大ブレイクを果たした漫画/アニメといえば「鬼滅の刃」。最近漸く観始めたところなのだがとにかくこのアニメがわかりやすい。ありとあらゆる点で親切設計なのだ。よくわからないアクション・シーンも全部主人公が“心の声”で解説してくれるので結構ボーッと観ていても置いてきぼりを喰らわない。また、場面場面での音楽の挿入が本当に的確で、今がどんなテンションのシーンなのかいきなりチャンネルを合わせてもすぐに感じ取れる作りになっている。ほとほと感心しながら観始めてるところだ。ネタバレ厳禁でお願い致しますよ。

ミルクボーイにしろ鬼滅の刃にしろ際立っているのは、「わかりやすさ」を技術の粋を集めて結晶化している点だ。単に中身が薄いから提示する情報が少なくてわかりやすくなっているのではなく、どの情報をどう提示すればより伝わりやすいかを吟味し尽くした上でのわかりやすさなので印象が「浅薄」でなく「誠実」なのだ。鍛えに鍛え抜かれた親切設計、とでも言おうか。結果作品全体の印象がブライトで軽くない。丁寧な作り込みの成果をわかりやすさで結実に持ち込む手法は娯楽技法の爛熟を感じさせる。


ヒカルさんに今足りないのはそれかもしれない、とふと思った。いや、最近の歌も十二分にキャッチーなのだが、『traveling』や『COLORS』のような、1回聴いただけで、いや、1回CMを通り過ぎただけで「それか!」と注意を惹き付けるようなブライトな明快さに欠けるというか。『花束を君に』などはじっくりとメロディと歌詞を味わって漸く「……ふぅむ、いい曲だねぇ」と嘆息するみたいなイメージがある。もっと『道』のような聴いた瞬間いやさ鳴った瞬間に「キタ!」と叫べる曲が沢山欲しい。いや、既に『道』あんねんやん、といってしまえばそうやねんけど、こう、もっと贅沢になってみよかなー、なんてね。

そうなのだ。ヒカルはそういう曲を書けなくなったのではなくて、たまたま最近少なくなっているだけなのだ。もしヒカルが2019年のトレンドであった(のだろう)「鍛え抜かれた親切設計」に興味を持てたこなら、きっとブライトにわかりやすい曲を書いてくれるだろう。期待しよう。


なお、あたしは『Passion』大好きっ子なので、ラジオフレンドリーでないわかりにくい新曲がやってきてもそれはそれで存分に楽しませてうただきますので「この裏切り者っ!」とか謗られませぬよう。いえ謗られても素知らぬ顔で素通りしますけどねっ!

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自分の場合ライブ会場では舞台上のパフォーマンス以上にオーディエンス、観客、聴衆の方に注意が向いている。やはり、ひとつところに一定の傾向をもった人間たちが集まるのは興味深いもので。コンサート前後は勿論、コンサート中もひとつひとつのパフォーマンスに対してどのようなリアクションが起こっているかをよくよく観ている。そんな人間なので席はいちばん後ろでもよかったりするからもし代わって欲しい人が居たら申し出てくれれば。顔認証でも会場入ってから席交換するのはなんとかセーフのような……アウトかな? それはさておき。


ライブの主役は観客であると言ってもいい。特に、会場の規模&人数というファクターは大きい。舞台上の演じ手、演奏者たちは観客席が何人だろうとベストのパフォーマンスを心掛けるだけかもしれないが、観客は違う。人数によって高揚感が変わる。もっといえばイベントとしての意義が変わる。

全く同じ演目でも会場が変われば印象は変わる。例えばドーム公演は、音楽を楽しみに行く場所ではなく、それくらいの人間を集められるほどに人気があるのですよと周囲に知らしめ、観客達に自覚させる示威行為みたいなものだ。故に観客はそのうちのひとりである事に酔うというか埋没するというか。5万人てひとつの街の人口だからね。スケールが違う。

アリーナ公演は晴れの舞台。音楽もギリギリ聴こえ、姿も小さいが確認できる。コンサートとして成立する限界の人数だろう。

ホール公演はイベントとして音楽を楽しむ王道のサイズ。生楽器・生歌の響きがマイク・スピーカー/PA無しで届く最大の距離だろう。ある程度は正装したり、前後に外食したりとアミューズメントのメインとなりえる催しだ。

ライブハウスとなると親密さが出てくる。各アーティストのこだわりが前面に出る。目の届く範囲でコアなファンが集まるのだから基本は「熱気」だ。やや内輪の集まりでカジュアルで、マニアックなジョークも笑って貰える。


ヒカルさんは、千葉マリンスタジアムをドーム公演規模だというのなら総てのスケールで公演を行っている。だが、だからといって演目に大幅な違いがあるかというとそうでもない。MCにもやや違いがあるかなーと思うのはそれこそ件の千葉マリンくらいで、他はどこでだろうがあのマイペースぶりだ。

ただ、『In The Flesh 2010』に関しては、単純にファンの書いたボードが読める距離だったのもあって、聴衆に対するリアクションが多めだった。本人もそこはご満悦。


なので、変わるとすれば我々の意識の方。特に、ヒカルファンは憧れというより「あの人と仲良くなりたい」とか「私のことをわかってくれるのはあの人だけ」という感情が強いので、近ければ近いほどいい。まぁそれはどのアイドルも同じかもしれないが、ヒカルさん自身は規模の大きさを誇る事より「1万人居てもひとりひとりの顔がちゃんと見えてる」ことを重視する人なので、親密さは双方向での願望だ。


であたしはその様子を最後列で眺めてられれば満足なのだが、それは変か。まぁいいか。


残念ながらヒカルさんがこの先日本国内でライブハウスツアーをやれる可能性は低い。1発限りのスペシャルイベントならあるかもしれないが、抽選確率は相変わらずだろう。でも、なんだろうな、あんま関係ないかもよ。ヒカルはひとりひとりの顔を見てるんだから。今年はコンサートの発表ありますかねー?

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という訳で日記に現れている通り今週は小室哲哉のサウンドを沢山聴いている。やっぱいいなぁ。

小室哲哉本人はヒカルが出てきた時に負けたと感じたらしいが、単純に書いた楽曲の数と総売上に関してはヒカルは全く及ばない。『First Love』や『Flavor Of Life』でドカンととんでもない売上を記録して色んなものを抜き去るスタイルで来たけれど、90年代の量産型小室ミュージックの物量作戦には敵わなかった。いや勿論、彼が引退しているのでこれからヒカルが追い越す可能性はあるのですが。

と、売上の話をしておいて何なんだが、歌の価値って他の歌に勝った負けたではなくて、単にそれぞれの曲があたしらの人生の瞬間々々にどれだけ寄り添ってくれたかの方に重点があると思う。あたしゃそうだ。その観点からいえば、粗製濫造と謗られようとも「数」の面で圧倒的だった小室ミュージックにはそれはそれで価値があった。その時々で思い出の歌が幾つも嵌るからだ。

ヒカルは寡作とまではいかないまでも非常に1曲々々を丁寧に仕上げるので時間が掛かる。お陰で1曲々々がとても重い。ただ、本人が作り終えたら聴かないスタイルなので、なんだろう、1曲々々が独立し過ぎているきらいはある。宇多田サウンドを浴びるとか浸るとかいうより、1曲ずつ輪郭を堪能するというか。

それがひとつ、孤独の表現なのかもしれないな、とも思った。ひとつひとつの楽曲の完成度が高くその中でそれぞれで完結している為、他の楽曲との繋がりが薄い。勿論、幾つかそうとは言えない例もある。『Automatic』〜『Movin' on without you』〜『First Love』と『Be My Last』〜『Passion』〜『Keep Trying』はそれぞれ三部作と呼ばれているし、Utadaの曲には『Automatic Part II』なんてのもある。『DISTANCE』と『FINAL DISTANCE』の関係も特別だ。しかし、ある意味、弱さが無いという点は突出している。どの曲も自立していて、曲として大人なのだ。

ヒカルはしっかりと大人になるまで育て上げてから曲をリリースする。小室哲哉はいちばん忙しい時期は殆どの曲を見切り発車で仕上げていっていたように思う。優劣ではなく、それぞれに思い出を彩る名曲をそれぞれのペースで僕らに与えてくれてきたのだ。ただ、本人が負けたと言っていたので、彼のサウンドを聴きながら「そんなことないのになぁ」と言いたくなっただけのこと。そういうのが気にならなくなったら引退撤回する気になりそうな気もしますが、まぁ今更って言われるのかもだけど。60過ぎても名曲作ってるソングライターはいっぱい居ますよぉ。ヒカルに曲書いてくれてもいいんだしね。

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ヒカルが『B&C』の歌詞を書いた時のエピソードを大昔にメッセで語っている。


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1999.07.04

「有名なカップルをテーマにした曲書いてみない?」ってプロデューサーさんが言い出して、彼はアダムとイブをプッシュしてたのね。でもそれってちょっと私っぽくない感じ??それに、西洋の男女差別を象徴する話だから私は嫌いだし。(だってあれ、女は夫のイイナリになるって神様に約束させられるんだよ??)んで!Bonnie&Clydeにしちゃったのさ。


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このメッセを読んだ時、従来からのTM NETWORKファンはこう叫んだのではないか。「それなんてSelf Control?」と。


彼らの1987年の4thオリジナルフルアルバムのタイトルトラック「Self Control」にはこんな一節が出てくる。

「しばられたアダムとイブ
 走り抜けたボニー&クライド
 大切なあの子の目を
 それ以上曇らせないで」

ヒカルがこの曲の影響を受けたとは言わない。「Get Wild」が好きと言ってもそれはアニメ「CITY HUNTER」の主題歌として、だ。当時5歳。家にない邦楽のアーティストのレコードを深堀りして他の曲までリーチしようということはなかったと思われる。

この歌詞が表しているのは、欧米では、或いは日本でもある程度は、そもそも「アダムとイブ」と「ボニー&クライド」は対比されやすいカップルなのだということだ。そして、その対比の特徴を「しばられた」と「走り抜けた」の2語で表現しているのである。束縛と自由。作詞は小室みつ子。作曲の小室哲哉とは血縁関係にない。なんで全くの赤の他人が同じ(しかも結構珍しい)苗字で作詞作曲を担当するのかと不当に憤っていたのが懐かしい。ヤな小学生だな俺。

ヒカルも、上記の通り、しばられたアダムとイブより走り抜けたボニー&クライドの方を選んだ。走り抜けた挙句の結末についても、同じ日のメッセでヒカルはこう、解説してくれている。


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Bonnie&Clydeはアメリカでは年齢を問わずジッチャンバッチャンにも誰にでも知られている、1930年代のアメリカを大混乱におとしいれた非常にラブリーなカップルです。Adam&Eveに次ぐ有名カップルかな?

Bonnieはテキサスの小さなホコリっぽい町で、詩人と歌手になることを夢見るおとなしくて成績優秀な女のコだったが、無法者のClydeと恋に落ち、二人で銀行強盗を繰り返すことになる。10人もの警官が殉死し、アメリカ中がパニックに陥る。警察がBonnieに「自由にしてやる代わりにClydeを引き渡さないか」という話を持ち掛け、Clyde自身も彼女が取引に応じ自由になることを願うにも関わらず、Bonnieは「彼が死ぬ時は私も死ぬ時」と言って拒否する。そして2年間の逃亡生活の末、二人は警官に銃殺される。彼女はまだ23歳だった。

とまぁ、ストーリーだけだとヘヴィーな感じだけど、本当にかっこいい伝説的カップルなのです。


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最後銃殺される場面は『B&C』のスタジオバージョンでもラストの効果音で再現されている。仮タイトルにもなっていた『何があっても』という一言は生命を賭けた叫びであった。ボニーとクライドの生き方は現在のニッポンでは「迷惑だなぁ」の一言で片付けられるかもしれないが、『Self Control』の曲調の如く焦燥感と疾走感に溢れた2人の生き様は、『B&C』を通して我々に訴えかけてくる。一児の母となったヒカルが今この歌についてどう感じているかも訊いてみたいところですね。

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今朝の【今日は何の日宇多田ヒカル】では5年前のこんなツイートを取り上げている。


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ちょっと遅くなっちゃったけど、誕生日を祝うメッセージ送ってくれたみんなありがとう(^0^)「人生ってけっこう長ぇな…」と思った32才の誕生日でした。バースデーケーキならぬバースデーインドカレー食ったどーーー!


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32歳の誕生日はインドカレーを食べた、と。

今これを読み返すと即座に『パクチーの唄』のあの一節を思い出すよね。

『今日はお日様の誕生日かも
 カレーを作って「おめでとう」』

ヒカルの歌詞では時々あからさまにルーツが推測されるケースがある。『Celebrate』がまさにそれで、『不思議ね 触れていないのに感じる』はくまちゃんに触れてないのに感じるメッセの言葉そのまんまだし、『ドンペリ開けて肺までコールドに染まったら』の一節は丁度『Celebrate』の作詞をしている時期に誕生日祝いにアジエンスさんからドンペリをぶっさした大きな花カゴが届いていたのがルーツだろう。アジエンスのボトルは金色なのだ。時々ほんまにそのまんまなのよね。


だから、この『パクチーの唄』の一節もこの時のツイートで書かれている通り実際に誕生日にカレーを食べたから生まれたのだと思われる。単純っちゃ単純だが中々に味わい深い。


深いついでに一つだけ深掘りしてみておく。ヒカルの歌詞で太陽が出てきたらそれは多くの場合お母さんの比喩である。故にこの『お日様の誕生日』もまた、母・藤圭子さんの誕生日を指していると推測することも出来よう。2015年といえば彼女が亡くなってから1年以上が経過しているが、もしかしたらヒカルは、小さい頃圭子さんの誕生日を祝う時にケーキじゃなくてカレーを食べた事があったのかもしれない。或いは、もしかしたらそれが毎年の恒例だったのかもしれない。そんな記憶を思い出しながら、じゃあ今度は自分の誕生日の時にカレーを食べてみるかと思い立ってインドカレーをチョイスしたのだとしたら、『パクチーの唄』に込められたお母さんへの思いの深さが感じられて、より味わい深いかなぁ、と。なおヒカルは、藤圭子さんが32歳になる年に生まれている。32歳の誕生日を迎えて、「嗚呼、私もお母さんが私を生んだ歳になったんだな」と思いながら「人生ってけっこう長ぇな…」と呟きつつ彼女の好物だったカレーを食べていた─5年前のツイートと2年前の歌を組み合わせる事で見えてくるものもあるんじゃないかなと1人で勝手に合点してましたとさ。

なお、圭子さんがカレーが好物だったかどうかは私は知らないです。でも検索してみると前の旦那の前川清と一緒にカレー食ってる話が出てきたので、少なくとも嫌いではないんでしょうね。

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