無意識日記
宇多田光 word:i_
 



アルバム『BADモード』の凄まじい点の一つに「同じ曲構成がどれひとつとして一切登場しない」というのがある。普通のPopsの構成である「ABCABCBC」みたいなのが全くみられない。何れの楽曲もここでしか聴けないドラマティックな展開を見せてくれるのだ。

中でもやはり代表格はタイトルトラックである『BADモード』だろう。先行公開ショートVer.MVのワンコーラスの時点で流れるようなヴァース~ブリッジ~コーラス(Aメロ~Bメロ~サビ)を聴かせてくれて「大好物な展開!」と既にテンションMAXだと思っていたんだ私は。しかし、アルバムが配信されてフルコーラスを聴く段になって愕然とすることになる。1番のサビのあとにラップ風パートでフォローアップ?? 2番でサビに行かずにいきなりアンビエントモードに!? そのあとサビでメロウにスロウダウン!!?? でテンポアップしてきたと思ったらそこに更に新しいメロディを投入してくるとか…っ!!! 初聴時もう唖然茫然としちゃっていやもうそこからすかさず『君に夢中』のピアノのイントロでしょ!? 完ッ全にノックアウトでしたね!

で、これだけの展開を見せておきながらランニング・タイムは5:03というヒカルとしては平均的、最近だとやや長めかな?という程度。あたしだったらこれだけアイデアあったら15分の曲にするよ…。


…という感じの『BADモード』の曲構成をまとめてみよう。

A:『いつも優しくていい子な~』
B:『そっと見守ろうか?』(「伊藤美誠も老化?」ってなんなんだよAndroid!)
C:『わかんないけど~』
C:『I can't let you go~』
R:『Here's a diazepam~』
A:『メール無視してネトフリ~』
B:『何度自問自答した?~』
X:(1分間の間奏)
C:『今よりも良い状況を~』
C:『I can't let you go~』
D:『You know I'm bad at~』
E:『エンドロールの最後の~』
F:『Hope I don't ~』

という風に区切ればこの曲は「ABCCRABXCDEF」という構成を持つ曲だと書ける。たった5分の曲の癖にABCDEFRXの8つのパートを持っているのだ! イントロとアウトロまで加えたら10である。たったの303秒で!

なんという楽曲だろうか。そんな中でやはり白眉は、スロウダウンしたサビメロ(『今よりも良い状況を~』)を聴かせた後にそこからギアをもう一段上げてくる所だろう。先程も触れたとおり、ショートVer.の時にサビメロを聴いた時点で「これは最高のフックラインだ!」と盛り上がったのにそこから更に畳み掛けてくるのもうホント息も絶え絶えでしたわよ。


で、だ。この、曲構成をアルファベットで書き下すパターンは、ここ数年来この日記を読んでる人には既視感があるかもしれない。そうなのよねぇ、この『BADモード』の曲構成のヒントとなった、或いは下地になっているのは、2020年5月に発表され今回のアルバムでは7曲目に鎮座しておられる『誰にも言わない』なのよね。そこらへんの話からまた次回。

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いつまで『BADモード』モードなのだろう。いつもならチェックしてる筈のラジオ番組やポッドキャストや新譜の数々を悉く放置してずっとライナーボイスを聴いてる始末。ヒカルの喋りとヒカルの楽曲が交互に襲ってくるなんて逃げおおせるとも思えません。

2016年の『ファントーム・アワー』も2018年の『トレビアン・ボヘミアン・スペシャル』も素晴らしかったが今回は乾燥機をバックに時間無制限。あれもこれもとまぁよう喋ってくれること。これひとつひとつひとことひとことアタマに叩き込んでおきたい。

何しろこの日記には「こうじゃないかな?ああじゃないかな?」と毎日妄想と推測が綴られているものだから、なかなか現実との接点が無い。そこにこうやってヒカルが「本当のこと」をたっぷり話して聞かせてくれる時間を作ってくれたのだから誰よりも食いついてしまうのは致し方なし。いわば大学受験のために何年も頑張ってきた人が本番の受験を終えて自己採点をしている時のようなそんな気分……? いやいや、推測が間違っていたとしても別にそれで落ち込む事は無いので、もっと切実に人生を賭けている受験生の皆さんと較べるのは失礼だな。そんな一発の試験だけで落ち込まなきゃいけないシステムの是非はまた別として。現実こうなっちゃってるからね。

そんな中で今回「推測がハズレててよかった」と心底思わせてくれたのがノンバイナリ発言と資生堂との関係。どうしても企業の姿勢上資生堂は(…駄洒落のつもりはない…)伝統的に“女性性”の強調からは逃れられない中、タイアップとCM出演を目前に控えた宇多田ヒカルがノンバイナリ発言をするというのはどういう戦略上の意図があるのか、ひょっとしたら両者に確執めいた内情でもあるのか??とかなり訝った事を私は書いてきていた訳だが、それらは杞憂も杞憂、私の勘違いでしかなかったのでした。

というのも、ヒカルさん、今回のライナーボイスの英語版で「ノンバイナリ発言するときに資生堂のことすっかり忘れてて焦った」旨の発言をしているのですよ。意図的でも戦略的でもなく、単にアタマになかったのだと。

勿論、プロなのでこの発言が嘘という事もあり得る。ヒカルがそういう私のような疑いを見越してそれを収める為に方便を使った、というね。でももしそうだとしても、それをそのまま受け容れるのがこちらのあるべき姿だろう。それが真実かどうかより、ヒカルが受け手にそう受け取って欲しいと願っている事の方が大事なのだから私は勿論その意図に従う。だから言ったことはいつでもそのまま受け取ってるのですよ。例えばスタッフが「あそこが“あるきたに”に聞こえたのは楽器の干渉が原因」と言うのだからそれはそうであるのだ。なのでそう受け取っておこう。うむうむ。

という訳でこの資生堂とノンバイナリ発言の件に関しては今後特にツッコまない。人によっては不満もあるかもしれないけどね。…ってこれ、そのライナーボイスの部分も書き起こして翻訳しなきゃいけなくないか私が。いやはや、ちょっと時間のかかる作業になるので暫く時間を下さいねっと。

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今回の『BADモード』アルバムで、宇多田ヒカルのクリエイティビティとセレンディピティがもっとも反映されたのが『気分じゃないの(Not In The Mood)』だろう。『Liner Voice+』の英語版を聴いて、ますますその思いは強くなった。

時は2022年12月28日。恐らく締切当日に、まだ最後の曲の歌詞が出来上がっていないヒカルは出掛けた先のカフェやパブで目についた風景をそのまま歌詞に起こすという荒業に出た。どう考えても苦し紛れとしか思えないこの手法で、しかし、この名曲の素晴らしい(私にとっては過去最高に大好きな)歌詞は(締切の)崖っぷちで生まれたのだ。

夜にパブで実際に体験した事をもとにしてヒカルはこう歌う。

『杖を片手にかけて
 タバコに火をつけてる老女を横目に
 スコッチを呑んで作詞しているとそこへ
 クリアファイルを抱えた人がやってきて
 こう言った

 「私のポエム買ってくれませんか?
  今夜シェルターに泊まるためのお金が
  必要なんです。」

 ロエベの財布から出したお札で
 買った詩を読んだ』

もう初めてここを聴いた時は謎のゾクゾクが止まらなかったが、ヒカルは『Liner Voice+』の英語版でこういう主旨の発言をした。

「この曲はサビの歌詞とメロディーが最初に出来ていた」

のだと。

このパートのことである。

『Rain, rain go away
 Fall on me another day
 Rain, rain go away
 I'm not in the mood today』

日本語にすると…ってそれそのまんま歌ってるんだよな。こちらのパートになる。

『雨、雨、どっか行け
 また今度にして
 今日は気分じゃないの』

ほんと、英語の日本語訳をそのまま歌っただけなのですわここ。

で。雨というのは落ち込みや悲しみの比喩ということのようだが、それについてはまた今度語るとして、ヒカルはこれらを踏まえてこう語った。(※ 私による要約です)


「雨を嫌がる歌の詞を書いていたら
 雨風をしのぐために今夜シェルターに泊まりたいからと
 詩を売ってくる人に話し掛けられた」

のだと。なんなのだこれは。

ヒカルはそういう風には言わなかったが、これは、予め既に書かれていた歌詞(『雨、雨、どっか行け…)に描かれた感情を持つ人間が、作詞の締切日の夜にヒカルの前に現れて、あろうことか向こうから話し掛けてきた事になる。ヒカルがそういう人を見つけて声をかけたんじゃない。そうであってもとんでもないが、これはもっと凄い、凄まじい事態だ。私ならこう言う、「運命が向こうから歩いてきたのだ。」と。

どう考えても普通じゃない。いや、通常の意味での天才でもこんな事は出来ない。起こらない。

セレンディピティとは通常創作や発見の上での話だ。それこそベースを入れ忘れたからとか、パンを放置してたらカビが生えたとか、宇宙に望遠鏡を向けたらノイズが取れなかったとか、そういうアクシデントの中に意味を見出す事を指す。それは、創作や発見の意志、或いはそこに意味を見出せる知識や洞察力があって初めて可能な事なのだ。

そう、今回のように向こうから歩いて話し掛けてきたりはしないのだよ創作や発見は。宇多田ヒカルは、セレンディピティ以上の何かを以てして今回『気分じゃないの(Not In The Mood)』の作詞を完結させた。ズバリ、まだ人類はこの現象に対する言葉をまだ持ち合わせていないのだ。

私がヒカルを過小評価するなというのはこういうことを指して言っている。欧米のトップアーティストたちと較べて引けを取らないとか遜色ないとかそんな矮小なレベルに評価を落ち着けないで貰いたい。これは人類の最前線、或いは最早ただの人外の所業なのである。


なのに、なのにである。ヒカルはこの歌をこの歌詞で締めるのだ。

『It's just one of them days』

そう、「そんな日もあるさ」と。
(DeepLさん、ぴったりの訳をどうもありがとう)

こんな奇跡すら陳腐化するマジック・モーメント満載の日を終えるにあたって、「長い人生、そういうツイてない日もあるもんだ」とか、日常感満載の呟きで歌を終えるとか、一体どういうことなん!? ──……いや、きっとそうなのだろう、ヒカルにとって、2021年12月28日のような日は、歌を作り続けている限りまた出逢うだろうということだ。そう、まだまだヒカルはここから成長していくんじゃないか。そう予感させるとんでもない2022年初頭なのだった。ほんと、1日でも長生きしてヒカルがどこまで行くのかを見届けたいものですよ。でも、高みへ昇れば昇るほど、今までのように、僕らにはきっと更により身近に感じさせてくれる。不安に思うことは何もないのだ。兎に角、生きよう。生きたいわ。

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一昨日『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』が各レビューにて絶賛される事に同意する旨を示したが、それはそれでいいとして、相対的にこのトラックに重きを置かれている状況は、どうにも「あんたら宇多田ヒカルのしてることを過小評価してないか?」という疑念が拭えない。

それだけサムのネームバリューが大きいということなんだろうか。私は彼のこれまでの業績については知らないけれども、「Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー」を聴く限り、これは、元々彼のリスナーだった人たちからすれば「彼が本気を出して取り組めばこれくらいのトラックは作ってくるだろう」という“予想の範疇内”の内容だったのではないかと推測する。確かに、彼におざなりでなく真正面から真剣に向き合わせるだけのデモを持ち込んだヒカルが凄い、という見方をしたくなるのもわかるが、宇多田ヒカルってのはそういう見られ方で満足できる人ではない。

ヒカルの凄いのは、そういった「予測可能な範囲」から常に逸脱する能力を持っていることだ。『One Last Kiss』でA.G.Cookがベースを入れ忘れることでエレクトロサウンドと生楽器のベース音の融合を達成したような、失敗を糧に元々の想定よりよい結果を出す事態について「よくあること」と笑って済ます、そういう人なのである。そう、『FINAL DISTANCE』以降、ヒカルはセレンディピティがあることを前提に作曲を続けてきているのだ。(セレンディピティという語句については知らない人はぐぐってね☆(手抜き))

裏を返せばそれは、Floating Pointsのような、豊富な音楽的知識と鋭敏な感覚で理詰め且つロジカルな曲作りを進めるスタイルとは距離があるからこそ彼のような人のインプットはヒカルにとって非常に有難い、という見方も出来るわけだ。だが、真にリスナーにインパクトを与えるのは、既に確立された手法の披瀝ではなく、作り手側でさえも驚くような作り方で得られた音楽である。

そういうヒカルのクリエイティビティからくる楽曲群達の中では「Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー」は寧ろ安全策ですらあろう。いや勿論、作ってる最中の2人は「なんてエキサイティングなコラボレーションなんだ!」と興奮していたかと思うが、このアルバムの創作の核としてのヒカルの営み以上にサムの仕事を持て囃すのはアルバム『BADモード』のレビューとしては些かバランスに欠ける。どちらを重視するか(ロジックがセレンディピティか)については好みがあって然るべきだが、そういった創作のバランスに対する視点を欠いては宇多田作品の真価には迫れまい。もう20年以上そういう曲作りなのだ。プロの音楽評論家の皆さんもそろそろ慣れてくれていいんじゃないかな。勝手な願望ですけれども。

単なるリスナーにとっては、そういう面倒な区別云々は置いておけばいいけれど、作品を通して感じ取られる感覚をどこかで言語化しておいて貰えると色々と有難いのもまた事実。なので私もこうやって、毎度プロに対しては厳しめな論調も厭わず記すのでありました。耳が痛かった人がいたら、ごめんなさい。んでもそれは、確信犯でっす!

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この話はどこかでしておかないと。なので今ここで。


先般から話に出しているように、現代は「空間オーディオ」普及前夜の段階にある。この夜が現実に明けるかどうかはわからないが、そういう期待を持つのは構わないだろう。

要は、映画館のように、前&左右からだけでなく後方からも音が聞こえてくる(ような)サウンドを、貴女のお部屋で、なんだったらイヤホンとスマホだけで実現しようという試みだ。

今まではスピーカー(orイヤホン)は1組(2つセット)で、音は左右の拡がりだけだったがこれが前後にも上下にも拡がる。SONYの360RやAppleのドルビーアトモスなどが有名だ。

このサウンドシステムがこのまま普及していくと、何が変わるかって作り手側の都合、即ち作編曲の方法論だ。その昔、再生機器がモノラルからステレオに入れ替わっていった時期、ハードロックバンドはそれまでのギター&ベース&ドラムスのスリーピースから、そこにキーボードやもう1台のギターを加えた4ピースや5ピースのサウンドに変化していった。それまでひとつのスピーカーでアンサンブルを強調する時には音域を上下に分けることが得策だったのが、同じ音域でも左右にパンを振ることでアレンジの幅を拡げることが可能になったのだ。(レコードの話になりますが)

それが空間オーディオでも起こるだろう。今までは何が何だかわからなくなりがちだったビッグバンドの複雑なアンサンブルも、左右だけでなく前後にも配置することで途端に見通しがよくなり、更に複雑なアレンジが加えられていくだろうことが予想される。今までの5.1chや7.1chは、各家庭に専用のシステムが必要だった為影響が限定的だったが、今度の空間オーディオはスマホとイヤホンだけで実現させるつもりだから普及度の面で少し様相が異なる訳だ。なので作り手側もチャレンジがし易くなる。


そうね、例えばヒカルの『PINK BLOOD』などは、空間オーディオによる編曲術の予感を感じさせてくれている。もし冒頭の『キレイなものはキレイ』のあの神々しいコーラスラインが、僕らの頭上の左右斜め上から聞こえてきたらどうだろう? 神々しさが3割増しくらいになりそうだ。あの左右に鏤められたギターのアドリブが、まるで天球の星の瞬きのように四方八方から聞こえてきたらどうだろう? 左右にソニックするヒカルの『PINK BLOOD~♪』のバックコーラスが、実際に自分のアタマの回りを回っているように感じられたらどうだろう? 結構ワクワクしてきませんか?

斯様に、空間オーディオはリスナーを「どこか別の世界の中に連れて行ってくれる」効果を、これまで以上に持つことになる。より一層音楽の世界に没入出来そうだ。周囲360°音楽に囲まれるのだから。我々はそこに音の世界の拡がりを感じるだろう。

技術が発達していくとどんどん凄いことになっていくねぇ。既に今のサウンドでも把握が難しいのに、これ以上音が増えたらとても手に負えそうにない…そんな弱音もちょっと吐きたくなっては、くる。確かに、そんな不安もあるのよねぇ。あと、自分が音の違いをわかるかどうかという耳に対する不安なんかもありますわね。新しい話が出てくると、どうしても何某かの不安と対話しないといけなくなる。

でも、そんなに心配しなくていいのかもしれない。「音楽の世界に没入する」とか「別世界へのトラベル」とか、そういうのを我々は既に体験している。歌、だ。

歌には歌詞がある。優れた歌詞は、そこにありありとリアルな景色を描くことが出来る。例えばヒカルの『気分じゃないの(Not In The Mood)』は、歌に耳を傾けているとヒカルの見たロンドンの風景に囲まれていくような感覚に陥れる。ひとの体験を追体験するかのような。つまりは、空間オーディオがやろうとしているのはそれに似た話なのだ。歌によって生じるイマジネーションを、サウンドで構築してやろうという事なのである。それを私は勝手に「音の歌化(おとの、うた・か)」と呼んでいる。音楽が、歌の歌詞がするように、イマジネーションをそこに描写する手段として進化していく最中なのだ。が、それは、恐らく優れた作詞家によって、モノラルの一声の歌声で達成されるものと同じものを目指す営みになるだろう。それが私の予想であり、恐らく宇多田ヒカルの今後の進化もそのような方向性をとるように思われる。即ち『PINK BLOOD』のように球形の音像に取り込まれてトリップしたり、『気分じゃないの(Not In The Mood)』のように歌の力/歌詞の力で僕らの心を遠く離れた世界に連れて行ってくれたり…どちらの手法も研ぎ澄まされていって、どんどん融合していくだろう。ますます人間離れした所業になるだろうが、『BADモード』アルバムからしてもう既に常人の仕業じゃない。ここはもう観念して、遠慮なく新しい世界を見せて貰うことにしときましょ。そういう意味での諦めも、肝心よ☆

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『One Last Kiss』の総ストリーミング再生回数が1億回を突破したのだと。あなめでたや。

内訳にYouTubeは入ってるんだろうか? よく知らないけど、有料ストリーミングだけで1億となるとなんか凄いな。若い子達のアーティストは最初からサブスク一択なとこあるけど、宇多田ヒカルはCD世代だからねぇ。

昔から記録との関わり合いは深い。アルバム『First Love』は国内だけで760万枚。1億回に較べれば小さな数だがこちらは単価が3000円だからね。230億円という規模になるから正に桁外れ。他にも『Flavor Of Life』のダウンロード総数が一時的に世界記録を出すなどそういった話題には事欠かなかった。

流石に昨今はそういう話題も落ち着いていたが、今回の1億回のインパクトはなかなかだわね。「シンエヴァンゲリオン劇場版:||」も昨年の国内映画でNo.1だったというし、ダブルでめでたいぜ。

という嬉しいニュースではあるが、自分の中では『One Last Kiss』は単曲としての役割を見事に果たし、2022年からはアルバム『BADモード』の3曲目としての立場が大きくなっている、という位置付けに遷移した。そして、LSAS2022でみたように、これは間違いなくライブで爆発的に盛り上がる曲だよね。

言い方は過激になるが、『One Last Kiss』のもつあの喚起力、煽情力はあのスタジオの狭い空間にはとても収まりそうになかった。窮屈であるとすらいえた。まぁそれは『BADモード』なんかにも言えたことだけど。真価を発揮するのはやはり広いライブコンサート会場で爆音で鳴らした時になるだろう。

アルバムで3曲目に配され『君に夢中』と『PINK BLOOD』に挟まれた事で『Beautiful World(Da Capo Version)』とのメドレーになる先入観は払拭された。これ、不思議なことに初めて聴いた1周目から何の違和感もなかったのよね。新しいマスタリングが巧みだったのだろうけど、やはり『BADモード』マジックなのだろうと思ってしまうな。

これによってライブでの選曲、曲順の選択肢もぐっと拡がった。オープニングでもアンコールでもどこでもいいだろうな。勿論、EPの通りのお馴染みの順序でもいいし。それは、ここから皆がEPで聴く量が多いかアルバムで聴く量が多いかで判断されていくかもしれない。ストリーミングになると、こからへんの傾向が把握出来るのが強い…って法人にはそこらへんのデータ提供されてるんだよね?(よく知らないで言ってます)

いずれにせよ、このニュースでまた更に再生回数は上がっていくだろう。人口1億人レベルの国で1億再生回数という数字はひとつ強烈である。来月のフィジカル発売に向けてまたひとつ追い風が吹いたといったところか。いや、向かい風が吹いてもチャンスでしかないんだけどね宇多田ヒカルにとっては!

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アルバム『BADモード』の本編最後を飾るのは『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』。『BADモード』や『気分じゃないの(Not In The Mood)』同様Floating Pointsことサム・シェパードとヒカルの、最早“共作”と言っていいだろう、2人の力量が遺憾なく発揮された1曲である。12分弱に及ぶ、リミックスを含めてもヒカル史上最もランニングタイムの長いトラックとなった。

この曲の評判の高いこと高いこと。どのレビューを読んでも大体絶賛である。私も同感だ。よくもまぁこれだけ次から次へと次のアイデアが出てくるものだなと。

恐らく、これはかなりの部分サムの力に依っている。というのは、ヒカルは普段こういう“逐次的”な曲作りをしないからだ。このトラックは「こう来たら次はこう、そう来たら次は…」の繰り返しで出来ているように思える。恐らく、アタマから順番に作っていったのではなかろうか。

ヒカルは、全体の構成を決めてから細部を詰めていくやり方をとるのが通常だ。特に作詞面においては、例えば『COLORS』の時のこのメッセを参照してみよう。

『ついにおととい!本格的なスタジオ生活が始まった途端、作詞が急進して、なんと5分くらい前に(多分)書き終わった(と言いつつ歌入れする直前までちっちゃーなことでウダウダウタダダ悩むだろうけどさ)(だって3Cの頭に2小節足して盛り上げることにしたからその分つめこめる字数が増えたのはありがたいけどそこは1Cと2Cの冒頭と同じモチーフでキレイにひねった方が詩的にまとまって良いのかそれともせっかく2小節足て最後の大きな転機となる場所なんだからアクセントがもっとつくような、それまで登場していなかった新鮮な表現を使った方が印象的で歌の世界が広がるかな、それって私のよく使う手なんだよね、うーーーーんやっぱり最初に考えた言葉にしようかな、いや!!いいの! さっき決めた方でいいの!!だってこれなら1Aから1A'にかけての問題提起に対する答えみたいになるし、全体の構造としてはきれいにまとまるじゃない
か!←みたいなことを延々と、、、)』

https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_84.html


……と、こんな風に全体を眺めながら細部を詰めていくやり方をするのがヒカルだ。これは作詞の話だが、ヒカルの作曲は常に歌詞と連動しているから曲についてもある程度そういう俯瞰的な目線で構成を決めている筈である。したがってこの『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』にみられる、まるでジャムセッションがどんどん盛り上がっていくような展開は、サムの個性が出たとみるべきだろう。今までに無い新鮮な作風でアルバムの最後を占めるだなんて、ほんと徹底的にチャレンジングな作品だなーもー。大好きぃぃ。何度聴き返しても楽しいぜっ。




余談だが、英語版の『Liner Voice+』によると最初地名はマルセイユではなくてそこからほど近いフランスのカシ(カシス/Cassis)という港町だったらしい。しかし、「メロディの尺に合わない」とかいった理由でマルセイユに変更したんだと。マルセイユってのは行きやすいだけじゃなくて言いやすくもあった訳ですね。ちゃんちゃん☆

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アルバム『BADモード』はSkrillex&Pooh Bear/小袋成彬/A.G.Cook/Floating Pointsといった強力な共同制作陣による最新鋭のサウンド・メイキングが話題になりがちだ。特にそれを際立たせるミキシングの技術は、ハイレゾや空間オーディオへ至ろうという昨今の機運の高まりと連動して過去最高のクォリティを誇っている。

となってくると、アルバムの評価の内一体どれほどが彼らの仕事に依っているのか?というのが気になった。ので早速いつものようにモノラルで聴いてみることにした。Spotifyでも「アプリ内設定>再生>モノラルオーディオ」でモノラル再生できるのね。iPhone等のiOSには「設定>アクセシビリティ>モノラルオーディオ」という項目がある。例えば片耳で聴く人に左右両方のイヤホンから鳴る音を1個のイヤホンで聴かせられるってことだね。それはさておき。


結論から言うと、ハイレゾステレオで聴いた時と、圧縮音源モノラルで聴いたときのアルバムの印象&迫力は殆ど変わらなかった。過去最高にスペイシャルな、空間的なオーディオ・ミックスとなっていて様々な電子音と生演奏が飛び交う凝りに凝りまくったこのアルバムのサウンドプロダクションってそこまで作品の評価に影響していなかった。それほどまでに──いやもう言うの当たり前過ぎるんだけどそういう当たり前のことを73分間かけて再確認したんですよ──、宇多田ヒカルがその豪華な音像のど真ん中で披露し続けるヴォーカルの説得力が圧倒的だった。いやもうそのまんまですよ、圧倒されました。

昨今、先程から述べているように、SONYの360RやAppleのドルビーアトモスなど、「空間オーディオ」と呼ばれる分野がリスナーにも訴求し始めている。それまでのステレオが左右への音像の拡がりだったのが、これからは上下左右前後に拡がるようになり、まるでリスナーが音楽の取り囲まれるような体験が出来るようになる、と。

そういうのが宇多田ヒカルで実現したら素敵!という声と同じくらい、えぇ、なんかまた新しいの出てくるの、よくわかんないな、また機械を買い増さなくちゃいけないの?と面倒がる人も多いような気がする。確かに、億劫な面もあるだろう。(実際には360Rもドルビーアトモスも新しい機材は出来るだけ不要になるようアプリレベルで工夫しているんだけども)

だが、そういう心配や不安は無用杞憂といえるなぁと、心底そう思った。ヒカルの歌が聞こえるスピーカー1個、片耳イヤホン1つあれば十分なのだ。このヴォーカルがあれば『BADモード』アルバムの魅力の98パーセント位は堪能できる。99パーセント堪能したい人はステレオで、99.5パーセント堪能したい人はハイレゾロスレスでどうぞ。100パーセント以上はライブ生演奏完全再現をその場で体験、ですかね。

なので、新しい機械とかアプリとかシステムとかなんとかいうのは気にしなくていい。手持ちのスマホなどでいつも通り聴いてくれれば十分なのだ今回の作品も。

ただ、モノラルであっても彼ら共同制作陣の編曲術には目を見張る耳を惹くものが多々あった事は記しておかねばなるまい。モノラルで聴くと、空間的に配置されていた時には余り意識していなかったのだが、意外にオーソドックスに基本に忠実なアレンジが主軸になっていることがわかった。しっかりとボトムを支える楽曲毎に独自なリズムパターンや、メインヴォーカルを脇から支える伴奏の堅実さなど、なるほどこれは5ピースくらいのバンド編成で演奏してもかなりいい感じに聴かせられるようになっているんだなと。完全再現を目指せば鍵盤楽器奏者4人同時投入みたいな事態にはなっちゃうけどね。楽曲の骨組みそのものは意外にシンプルで堅実だった。

ともすればそのサウンドの新鮮さや時代性に耳を奪われがちになり、故にスクリレックスの聴き慣れた手法を時代遅れだと揶揄する声なんかも上がってくるのだろうが、実際のアルバム全体のサウンドはどの時代でも通じる普遍的な骨格を形成している。今は今でその新しさを楽しむとして、長い目で見れば『BADモード』アルバムはいつの時代でもインパクトを与えられるタイムレスな名盤なんだなと、サウンドの拡がりに頼れないモノラルでの14曲を聴き終えて思ったのでありましたとさ。当たり前じゃないかって? いや、うん、繰り返すけど、全く以てそうですよ!

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ブラッドリィ・スターンによるビルボード・インタビューでヒカルがノンバイナリ発言に至るまでの葛藤が語られていた。やはりこの話題の注目度は大きい。

ノンバイナリ/Non-binaryという語、要は「二分しない/二分できない」という意味である。今や確かにジェンダー用語だが、もっと一般的に、ただ“二項対立にしない”という意味でここでは使わせて貰おう。アルバム『BADモード』には次の3つの「ノン-バイナリ」があると思う。

1.日本語と英語
2.オリジナルとリミックス
3.人と人

1と2は解説不要な気がするが一応語る。

今回の『BADモード』は日本語曲と英語曲が入り乱れているのが特徴である。嘗ての宇多田光は、宇多田ヒカルとUTADAとして日本語曲と英語曲を分けて発表していたのは御存知の通り。ただアルバムを別々に作るのみならず、別名義にし、その上レコード会社まで分けるという徹底ぶりだった。お陰で『Sanctuary』の音源化が大幅に遅れるなど弊害も多かった。

それが今やどうだ。勿論、もともと日本語主体の楽曲でも英語を自然に混ぜてきていた人だったが、日本語曲と英語曲をここまで自然に繋ぎ合わせてアルバムを作るだなんてね。ナチュラル過ぎて1周目はその事実を忘れていた位だ。実際、『Find Love』は英語バージョンが、『Face My Fears』は日本語バージョンが、アルバム本編にはそれぞれ収録されているっていのは何故そういう配分になったのかよくわからない。日本国内と海外で入れ換えられているということもないようだが、多分逆でもそんなに印象は変わらない。今や混ぜこぜでどちらを選んでも大丈夫になった感じだ。日本語と英語の二項対立は大体無くなったと言っていいのではなかろうか。

2もアルバム『BADモード』の特徴だろう。その昔2004年の『EXODUS』には初手からティンバランドによるリミックスとして『Wonder 'Bout』が収録されていた(よって、この曲の“オリジナル・バージョン”は未だ未発表である…存在するとして、だが!)事があるが、今回はそれに近い事態の楽曲が幾つか存在する。

代表的なのは『Face My Fears』だろう。どう聴いてもヒカルのサウンドではない。スクリレックス独特の音遣いだ。これは最初っからヒカルのメロディをスクリレックスがリミックスしたものだと捉えた方がいい。切り貼りしまくってたからアルキタニ問題が発生したのだろうし。直せてよかったね。

他にも、『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』も初手からリミックスみたいなものだ。サム・シェパードが「クラブミックスみたいになっちゃうけどいいの?」と訊いてきたのだからね。ヒカルの元々のデモは4、5分だったのだろうが、遠慮なく12分近くまでストレッチされている。これがリミックスでなくてなんだというのか。20年経ったらデモバージョンとしてオリジナル音源が発表されるかもしれんぞ。

『One Last Kiss』もそれに近い。前にも書いたが、恐らくこの曲は後半がA.G.Cookによるリミックスのようなものなのだ。オリジナルとリミックスがシームレスに繋がっているトラックになっている。オリジナルとリミックスのハイブリッドとでも言えばいいかな。

何が言いたいかというと、今のヒカルは、そんなに自分のサウンドに拘っていないのだと。素材を人に任せて弄くり回して貰っても、いいモノが出来ればそれで行こうという姿勢。行けるとこまで行けるとこまで自分の音で埋め尽くそうとした『EXODUS』などとは対照的なアティテュードである。

1にせよ2にせよ、二項対立を持ち込まない、ボーダーレスに混じり合わせる態度が今のヒカルなのだ。自覚的ではないのかもしれないが、性自認にノンバイナリな感覚を持ち込めた事と、言語やサウンドにも区別をつけなくなってきた態度は、どこか奥の方で繋がっているように思える。何もかも「私」の何かなのだから、2つに分ける必要がない。それが今の宇多田ヒカルなのではないか。

それが更に押し進められているのが3の話なのだが…長くなりそうだから、次回と言わずまたいつか触れたいと思いますですよ。歌詞をもうちょっと聴き込んでからの方がいいかもだわ。

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アルバム『BADモード』で気に入っている曲間は幾つもあるが、とりわけインパクトが強かったのが『気分じゃないの(Not In The Mood)』と『誰にも言わない』の曲間だ。目の覚める思いだった。

NITM(っていう略語を使うのはまだ早いか)、『気分じゃないの(Not In The Mood)』は7分半と長尺な曲で、特に終盤は重厚で陰鬱なトーンが続くのだがそれがいきなりカットアウトされて『誰にも言わない』のあの静謐なイントロダクションが始まる。その落差たるや空から落ちたかのよう…いや寧ろ、雲を突き抜けた瞬間のよう、かな?

どうにもこの感覚、既視感があると思ったら、あれですよ、『HEART STATION』アルバムの『テイク5』と『ぼくはくま』の曲間ですよ。あれもまた『テイク5』のテンションの高い演奏がいきなりブツッと途切れてのんきなまでに平和を感じさせる『ぼくはくま』のイントロがのほほんと始まっていた。なんか似てる。

特に自分にとって『誰にも言わない』は、発売当時「すわ最高傑作か??」とまでこの日記に書いた非常にお気に入りで特別な楽曲。それが、ヒカル自身『最高傑作かも』と自賛した『ぼくはくま』と同じような扱いを受けているのだから感動した。

また、『気分じゃないの(Not In The Mood)』も『テイク5』と相似点がある。昨夕からSpotifyでも配信が始まった「Liner Voice +」で語られている通り、『気分じゃないの(Not In The Mood)』は歌詞が全く埋まらずギリギリまで粘った結果、いつもの言葉でグルーヴ感を出していくヒカルのリリックスタイルがとれず、音韻も構成も等閑にした、ただひたすら言葉を載せただけのスタイルになった。一方『テイク5』も、ヒカル自身これには通常の意味での歌詞を載せる事は難しいとしてただ“詩”を
書いて歌ったと述べている。これもまた、音韻や構成といった音声的要素を鑑みず、文章としての意味、言葉としての在り方の方にフォーカスしたアプローチだったのだと。

両者に共通しているのは、ヒカルが追い詰められた余裕の無さである。『道』の『調子に乗ってた時期もあると思います』や『BADモード』の『ネトフリでも観て』などの一節に現れているように、歌詞で遊べるのはヒカルが余裕綽々モードのときだ。翻って『テイク5』や『気分じゃないの(Not In The Mood)』でのヒカルの作詞には全く余裕がなかったように思われる。幾らか原因は考えられるが、トラックが音楽として非常に強く、かつイマジネーションを甚だしく喚起させるタイプの曲調だったことが大きいのではないか。歌詞もそれに応じた、意味内容としての言葉の際立ちを求められたのだと。言葉で遊んでられる場合じゃなかったというか。

これらが示唆するのは、2曲に通じるあの急峻なカットアウトは、その時点でのヒカルの、個人として感じる“限界”のようなものが表現しているのではないだろうか。そして、その先に置かれる楽曲というのは、何か(その時点での)自分の限界以上のものが宿ったトラックが置かれていると。この曲順で聴くことによってますます『誰にも言わない』の神聖性みたいなものが強調されたように思う。曲順マジックの妙が最も印象的な瞬間だった。

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ボーナストラックを含めた『BADモード』のラストを飾る『Face My Fears (A.G. Cook Remix)』が兎に角素晴らしい。オリジナル・バージョンのスクリレックス&ジェイソン・ボイド(プー・ベアさんね)によるトラックがコテコテのEDMで好き嫌いが別れるところだと思うが、このアレクサンダー・ガイ・クック氏の作るトラックは、『One Last Kiss』の時もそう思ったのだが、兎にも角にも品がいいのだ。欧米の味付けというのはどうしても脂っぽくてくどくもたれがちになるところなのだが、彼の上品な筆遣い(そう言いたくなるよね)は日本人の詫び寂びとか引き算の美学だとかと大変相性がいい。

特筆すべきは、ワンコーラスめの編曲はほぼそのままLSAS2022でリューベン・ジェイムズを迎えた編成で演奏したものとほぼ同じであることだ。いやオリジナルでもちゃんとピアノが複数鳴ってはいるのだがベースの後ろに隠れちゃったりしてて聞き取りづらいのよね。リューベンのサウンドの押し出し方と全体のバランスはこのクック先生によるリミックスが下敷きになっていた。

つまり、ヒカル達もこのクック氏リミックスを気に入っているのだろう。いやま、スクリレックスのサウンドが人力に向かないというのが大前提ではあるんだけど。

そんなワンコーラスめの品格高い叙情性から一転、激しいリズムで攻め立てるツーコーラスめもやはり抑制が利いていて聴きやすい。いやもう、このリミックスをメインにして欲しかった。ボーナストラック扱いなのが至極残念。

本編のオリジナルも素晴らしいのよ? 聴く前までは私もスクリレックスのサウンドが古臭く響くのではないかと危惧していたが、実際に通して聴いてみるとマスタリングの方向性から察するに、ヒカル自身はサム・シェパード(Floating Pointsさんね。同姓同名の俳優さんがいるから芸名使ってんのかな?)の最新のサウンドも、スクリレックスのコテコテも、ほぼ等距離で同等に眺めていて、流れの中で違和感なく響いている。これを古臭いと感じた人はそもそも先入観が強いか、或いはサムやクックの(サム・クックじゃないよ?w)アップデートされたサウンドに印象を引っ張られているかだろうから、もう3年経ってからこのアルバムを聴き直してくれれば印象も感想も違っているだろうことを期待したい。


話を戻そう。このクックリミックスの白眉は、なんといっても3:33以降の大胆な展開だ。ひたすらヒカルの歌をサンプリングして貼り付けまくって構成されている。Apple Musicで歌詞を見てみると、しっかりもれなくリフレインを書き起こしていたIので吃驚した。なのであたしも全部書き下してみたぞ。3:33以降の歌詞だ。



"Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face LET ME FACE


Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my fears

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my fears

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face LET ME FACE


Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my fears

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my fears

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face LET ME FACE


Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face my

Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face Let me face
Let me face LET ME FACE ..."



いやぁ、凄い。都合『Let me face』をここだけで116回繰り返すのだ(曲全体でなら合計140回に及ぶ)。7回繰り返すのを4回繰り返すのを更に大きく4回繰り返して112回なのだが、その大きく4回繰り返す最後に"my fears"に行かずに更に『LET ME FACE』を畳み掛けるアイデアがめちゃめちゃ利いてる。結果『Let me face』がその部分では15回連続で繰り返される事になるのだがこれによって物凄くドラマティックでダイナミックな情感が引き起こされるのだ。いやぁ、泣けたぜ。

「キングダムハーツ」はどこかで絶対にこのリミックスを使った方がいいと思う。冒険が極まったエンディング一歩手前でこのリミックスが流れてきたらあたしなら号泣不可避だね。いや、未だに一作としてプレイしたことないんですけどね……で、でも、想像できるよっ!?


このリミックスによって『BADモード』の73分にわたる長大な音楽の旅が終局を迎えられるのは大変な僥倖である。惜しむらくは、曲順の悲しさか、英語バージョンと13曲目14曲目で連続になってしまったことがね。悔やまれる。日本語バージョンと合わせてアルバム全体に3曲鏤(ちりば)めて欲しかったな。その瑕疵を差し引いても、やはりこのアルバムにはマストなトラックだと思います!

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ふぅ~~~、デビュー以来最も濃いヒカル誕生日となった2022年1月19日水曜日を含む週が終わって、今週は少しは落ち着くかな。今日夕方16時からの『Liner Voice+ 完全版(日本語版/英語版)』の配信が一旦の〆になる。まぁ札幌の放送が終わるのを待ってというタイミングでしかないんだが。タイムフリーで聴く人が多い昨今だとギリギリの譲歩じゃないかね? まぁいいんだけど。

兎に角読み切れないほどの『BADモード』関連記事。ひたすら続く絶賛の言葉、言葉、言葉。復帰からの藤圭子追悼ムードから完全に離れ、今漸く音楽的な中身の話が中心の議題に上がっているな。とてもよいことだ。

ただ、若干『One Last Kiss』の大ヒットに引っ張られている感は否めない。Floating Pointsへの高い評価もそうだが、まだまだ音楽自体以外の情報を伴った評価が多いなと感じる。商業音楽だからそれでいいんだけどね。職業音楽評論家の皆さんはそれが仕事になってるんだし。更に消費する方までそういう切り取り方をして楽しんでるし。『rockin' on』が作り上げた伝統は凄いよ渋谷さん。

ただ、こちらとしてはそればかりというのも気になる。というのも、当然ながら今回の『BADモード』を気に入らないファンやリスナーも沢山居るだろうから、ね。そこをこんな風にコラボレーターの力量や売上で押さえ込みにかかられると「そこまでよくなくない?」とはなかなか言い出せないよな。それ以前に、聴いてみてピンと来なかった作品にわざわざ時間をかけてコメントしない、という人が大半だろうし。そこまでして絶賛充満の空気を切り裂きに行く気にはならんだろう。

私がアルバム『BADモード』を初めて聴いた時、今までの印象を塗り替えるほどの情感を2曲目からの『君に夢中』~『One Last Kiss』~『PINK BLOOD』の流れに於いて感じながら呆けていた所に流れてきた5曲目の『Time』。これを耳にして妙に安心している自分が居ることに気がついて驚いた。ああそうだ、この曲は、例えば『Prisoner Of Love』みたいな正調宇多田ヒカル節で彩られた1曲で、昔ながらの歌謡曲~演歌由来の日本語メロディの薫りを残した作風だったのよな…昔からのファンはこういうのが好きなのよね…と思いながら、「あれ?じゃあ今私自身が感じた“安心”は誰のもの?」という疑問が湧いてきた。

ここを長く読む方なら御存知のように、あたしは『Passion』や『誰にも言わない』といった抽象的な感触が強い楽曲を高く評価する傾向にある。それらが売上や再生回数で他に劣っていたから余計に力を入れていた側面もあるが、単純にそういうのが好きな人間なのだった。だから『Time』のような歌は、「これはみんな好きだろう」と油断してそこまで大袈裟にプッシュしない傾向があった。

そんな人間が感じた「安心」。あたしの中にも、深化を続けるヒカルの新しい頼もしさに、どこか置いて行かれる不安があったのだろうかな。確かに、現代的なサウンドに、宇多田ヒカルにしか書けない歌詞、強いフックライン、奇跡のようなタイアップ力──市場の最前線で依然、いや、以前にも増して力を発揮する眩しさは、少しずつ老いて現代的な感性についていけてないと感じるリスナーにとっては少々輝度がキツすぎるのかもしれない。

幸い、若いファンが大量に流入してきてくれてるお陰でそれによって支持が目減りするようなことにはなってないけれども、自分たちが気づいてないうちに、昔からのファンやリスナーがそっと離れていっている事も頭に入れておきたいかなと。勿論一方で、特にエヴァファンなんかは映画を契機にリスナーとして戻ってきてくれてるタイミングなので、出戻り組も充実しているだろう。私としても、去る者は追わずでもないけれど、ヒカルに興味を失った人に関心を払うとこまではいかないし、いけない。ただ、絶賛と興奮の渦にあっても、そういう人たちが存在するだろう事を、アルバム1周目の『Time』が教えてくれた。こういう風に時を戻す呪文が唱えられる事も、あるんだなぁとヒカルの仕掛けておいた時限装置の存在を感じているのでした。

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いや、すぐ書くよ(笑)。

前回綴りかけた、何故そこまで私が『気分じゃないの(Not In The Mood)』の歌詞を気に入っているかという話のことね。

最初この曲を聴いた時に「まるで映画の一場面のようにありありと情景が浮かんで…」──と、思いかけて、やめた。いや、これは映画よりも更なる何かの筈だ、と。絵が思い浮かぶだけではない。それはミスリードですらある。この歌詞は、もっとこう、“文学的”、な筈なのだ。

クオリアという概念がある。「貴方の見ている赤色と私の見ている赤色は果たして同じ赤なのか?」というやつだ。全く異なる色を見ているとしても同じ赤という名前で呼んでいる為お互い区別のしようもない、という。

文学とはそのクオリアが同じか違うかを表現する、伝え合う方法だと思っている。それは、言葉にしか出来ないことだ。小説とは、或いは文学とは、映像を撮るための技術や資金や時間がないからとられる表現ではない。少なくとも、そこには留まらない。ハリウッドを顎先一つで動かせる権力者大富豪になろうともカメラで捉えられない事を捉えて記すのが文学だ。それは、このやり方でしか、出来ない。少なくとも、他よりは、得手だろう。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』には、その匂いがする。そう思いかけて思考を整理している最中に、ラジオでヒカルからヒントが与えられた。曰く、締切ギリギリの2021年12月28日火曜日のロンドンで、歌詞を書くアテが全くなく、あとはもう目に入ったままをそのまま書くくらいしかやれることがなくなってこの歌詞を書いたのだと。幾ら何でもギリギリ過ぎだろアンタ。

しかし、お陰で、ヒカルの素直な「世界の見方」「世界の見え方・見聞きの仕方」「世界の捉え方」…どの言い方でもいいけれど、その感覚が歌詞の中に湛えられる事になった。怪我の功名どころではない奇跡だったといえる。

この歌からは、ヒカルのクオリアが伝わってくる。ヒカルには世界がこんな風に見えている…その感覚が歌を通して伝わってくる。錯覚かもしれないが、それは錯誤が本質なのだから合っている。後は信じるかどうか、つまり、騙される気があるかどうかだけなのだ。(言ってることが我ながら難しい)

確かに、この歌の歌詞には何の技巧も無い。奇抜な言葉の乗せ方もめくるめくような音韻の踏襲もない。本当に、ありのままを呟いただけだ。しかし、どんなありのままもその人ならではのものでしかありえない。これは、だから、「宇多田ヒカルのありのまま」が歌の中に描かれているのだ。

「貴方という存在は、何が出来るからとか、何を知っているからとか、見た目がどうとが声や財産がどうとか、そんな事で価値があるのではない。ただそこに居て、たった今そこから世界を眺めている。世界を感じ取っている。その事自体に途方も無い価値がある。それは途轍もなく尊く、堪らなく愛しいことなのだ。ヒカルさん、貴方はやっとそのことを、歌を通じて描けたのですよ。」

私はそう結論づけた。だからこの歌の歌詞は今まででいちばん好きなのよ。『WINGS』や『日曜の朝』なんかも近いものがあったけど、これは何かひとつ突き抜けた感じがするんよこの『気分じゃないの(Not In The Mood)』に関しては。

んでも、ですよ。つまりそれって、ヒカルさん、この期に及んでもまだ自分が愛されてる理由を把握し切れてなかったってことでは? あれだけ今回のアルバムで「自分自身との関係性をみつめて、自らを愛せるように」と言い聞かせて歌詞を沢山書いてきたというのに、いちばん大切な「あなたがそこにいるから」という根源的なポイントをずっと見逃してたってことじゃない? 最後の最後に締切に追い詰めれて漸くそこに、恐らく巧まずして望まずして無意識のうちに辿り着いた。それって、まだまだ自分自身を愛し切れてなかったってことなのではないでしょうか。そしてこうやって無事アルバムを完成させた今振り返って、やっとそこに気づいてくれていればこちらとしても嬉しいぞっと。

つまりだ。恐ろしいことに、ここまでのアルバムを仕上げておいて宇多田ヒカルさん、まだスタート地点に立ったとこなのよ。ヒカルさん自身がまだまだ自分の魅力を掘り下げ切るとこまでいけてなかったのに、この出来映えなんですよ。気が早過ぎるのはわかりきっているけれど、次回作にはそこらへんのところの追究がより顕著になるのではないでしょうか。この歌で歌われているとおり、「また今度」がまだまだあるのですよ貴女には! 嗚呼、恐ろしい!

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ラジオを聴いてふと思った。

「あれ、俺この子のこと好きじゃね?」

何を今更と言われそうだが、いやね、もし仮にあたしがフィジーかどっかの人で日本語がわかってそれでも何の予備知識も無くこの喋りを聴いたとしても局を回す手を止めてただろうなと。記憶喪失になって出会い直してもまたこの時からファンになってたろうなと。音楽的に卓越してるとか頭がいいとがそういうのもあるんだけど、単純にこの話し声が心地いい。

あたしがこんなところに居るのも元々この喋りをテレビで見て惹かれたのが切っ掛けだったので、つまり、あれだわ、ヒカルの魅力のエッセンスはあの頃から変わらないまんまなんだなと妙に安心したところがあり。

だって音楽の方はもう完全に化け物になっるんだものね。そこに宇宙を作る事に関しては最早神にも引けを取らないというか。そんな人外魔境な音楽家に成長しても宇多田ヒカルは宇多田ヒカルのままというか宇多田光は宇多田光のままというか。久々に本名書いたな。あんまり触れない方がいいかな、商業音楽家として商品について語る方がいいかな、と最近思いがちだったので書いてなかったな。でも私「好きな四字熟語は?」って訊かれたら「“宇多田光”です。」って答える人だった。商品を超える商品を提供されて思い出しちゃったよ。

一方でますますその音楽に込められるパーソナリティは深化を続けていて。「宇多田ヒカルのニューアルバム発売!」となると音楽評論家の皆さんが「シーンに与える影響」を語ってくれて、それについては楽しく読ませて貰っているのだが、こちらとしてはそれはメインではなくてな。「宇多田ヒカルがシーンにこれだけのことをしてくれた」という切り口は、ヒカルを市場に対して従属的或いは奉仕的?な立場に置いた見方だけれど、私の方はといえば邦楽市場いやさ世界市場がぶっ壊れてもヒカルが無事ならそっちの方がいい。ヒカルに貢献しない市場なら潰れても構わない。明日から自分が路頭に迷うとしてもそこに迷いはないのです。

こういう考え方に興味が無いとリークに怒る気持ちも共感して貰えないのかもしれないな。ほんと、ヒカルを悲しませないでくれるかな。ラジオを聴いていてもやっぱり第一印象は「なんて優しい子なんだ」ですもの。昔に較べればはしゃぐこともおちゃらけることも控えめになって随分落ち着いたけどね。でも若い頃だって疲れてダルくなるとこんな態度だったんじゃないかな。今は仕事や子育てやプライベートで、どこにどうエネルギーを使うか自分で決めているのかもしれない。

なんだろうな、そういうことに興味や関心があるから、『気分じゃないの(Not In The Mood)』が心の奥底まで染み渡ったのかもしれないな。今までのヒカルの書いてきた歌詞の中でこれがいちばん好き。これから何十回とそう書く事になりそうだけど、ほんと好き過ぎてもう。寧ろ何故今までこういう歌詞を書いてこなかったのかと。ここには………って、あぁ、長くなるな。続きはまた今度だな。ラジオを聴いていろいろとしっくり来たなという話さ。

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情報量が多いねぇ。いつも何か無いか何か無いかと口をあんぐり開けてパクチーパクパク・パクチーパクパクさせてるのが嘘みたいなくらいにあれもこれもある。うたひかマガジンには普段毎度「こんなネタまで拾ってきてくれるなんて!」と感謝しきりなんだけど、こういう期間は逆に何かを捨てないといけない訳で、大変だなぁと思うよ。1日5通までの制限があるからなんだけど。

あたしの方も平日1日2回何か書く、というペースを、この情報の洪水の中でも変えていなくて。なんていうんだろ、こうやって沢山の人がヒカルの新譜と新曲とライブとラジオに関心を寄せてくれていてそれはとっても嬉しい事なのだけど、これもまたそのうち過ぎ去る喧騒なんだろうなぁと思うと、まぁじゃあ自分はいつも通りでいいか、となり。特に力まなくてもいいのかなぁと。なので無意識日記として何か特集を組んだりはしませんよっと。いつも通りで。


アルバムばかり聴いてる。


いやね、既発曲が多いから、聴く前は新しい曲を重点的に選んで聴くだろうなと思っていたのよ。全然違った。兎に角ひたすら全14曲を順番通りにエンドレスリピート中。最初に書いた通り、曲と曲の繋ぎがどこもかしこも素晴らしい。曲間を聴く為に曲を聴いてるまである。

アルバムを聴くまではどの曲をいちばん気に入るだろう?とか思ってたけど、いちばん気に入ったのはアルバムだった。これが私のユニタリティ。

ユニタリティ…極一部の人たちを除いて全く聴き慣れない単語だろうとは思うけど、私なりに曲解して訳せば「1であること」。何かをひとつの単位としてみなし、確かにそれはひとつとしてあって、それ以外ではないという意味。ユニット、ユニタリ、ユニタリティ、だね。(unit/unitary/unitarity)


いや、英語の話なんてどうでもいいのよ。要は…よし、言い切ろう。宇多田ヒカルが初めてアルバムを作ったんだと思う。今までは曲をひとつずつ作っていて、それを集めたものがアルバムと呼ばれていたけど、だったらそれはシングル・コレクションでよくない?とあたしなんかは言っていた。でも、アルバム『BADモード』はまぎれもなく「ひとつの作品」だよ。そこにはユニタリティがある。それが言いたい。

ヒカル自身も掴み切れてない事かもしれない。だって完成させたばかりなんだから。2021年12月28日に完成してなかったのに2022年1月19日には世界中の人が聴けた。出来たてホヤホヤ。まだまだ客観的に捉えるだなんて、作った方も聴いてる方も無理だよ。そんなのこれからの話さ。

なので、今感じてる事をそのまま書く。本当に不思議。このアルバムの流れの中で聴くと、『君に夢中』も『One Last Kiss』も『PINK BLOOD』もどれもこれも切なさ3割増し。『Face My Fears』ってこんなにもドラマティックで感慨深い曲だったっけ? ずっとそんな感想を、それこそ着古したパジャマ並みに去年一昨年一昨々年聴いてきた馴染み深い楽曲達から授かっている。単純に、今まで私がこの子達の魅力を捉え切れていなかっただけなのかもしれないが、『BADモード』というアルバムが、その彼女の抱くユニタリティが、鈍い私に丁寧に優しく教えてくれた。感性のチャンネルが新しく開かれた気がする。本当にとんでもない一作になったと思う。新しい次元ってこういうことなのね。

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