無意識日記
宇多田光 word:i_
 



毎度溜め息を吐いてる気がするが、アメリカのチャートが羨ましい。私好みの音楽性を持つアーティストはひとつも入ってないし、売上だって昔に較べれば落ちているのだが、それでも元気だ。ひとつひとつの曲が「ヒットを目指して」作られている事がよくわかる。故に私好みの音楽性なんて無いのだが、昔のまんまの活気と活況があって、ビルボードでの枚数というかポイントはそんなでもないのにこれは未だに「ヒット・チャート」である。市場って、規模の大小とそんなに関係ないのかもな。

で、今のビルボードに入っている曲はアレンジがシンプルで、歌声が非常にクリアーに録音・加工されていて、非常に聞きやすい。やたら音を詰める傾向のある今の邦楽(ってどこらへんを指すんだろ)とは対照的である。ヒットチャートは大衆に阿りまくって故にラップ/ヒップホップにメイン・ストリームは収束していったのだろうが、ここまで徹底されていると天晴れである。

UtadaがThis Is The Oneをリリースしたのはもう6年も前の話だ。私は詳しくないので触れないが、きっともうサウンドの流行も移り変わっているのだろう。EDMなんてポップスのジャンルも無かった頃だ。それでも、そのサウンドは、ややシンプルで、ボーカルをクリアーに録音する手法も交えて、今のヒット・チャートにも通じれるサウンドを出せてたと思う。確かに、それを実現させたプロダクション・チームStargateは今年も元気にチャートにヒット・ソングを送り込んでいる。

つまり、何が言いたいかといえば、当時のHikaruの人選も方向性の選択も、米国で活動していくには間違ってなかったのだろうな、という事だ。当時もそれでいいんじゃないかと思っていたし(当時の日記にそう書いてある)、今振り返ってみてもそれでよかったんだと思う。ただ、その先を中断したというだけだ。

だから、恐らく、今Hikaruが復帰して米国で活動を始めても違和感はきっとないのだろう。ツアーから数えてももう5年半も経っているけれど、市場の空気を読む能力がそのブランクで衰えているとは思えない。寧ろ問題は、いつもの通り、Hikaruが米国で大ヒットを出したいとかそういう風な気になるかどうかだ。それ次第、という状況は、もう10年以上変わってないだろう。

EXODUSはプロモーションの事をまるで考えていないアーティスティックなアルバムだった。私はこのアルバムを当時「一曲々々はアルバムを200万枚クラスの大ヒットに導くだけの力を持っている」と表現した。しかし、それと同時に、どのマーケットに対してもプロモーションが困難だとも言及した。

アルバムが本当にヒットするには2曲連続でシングルがヒットしなければならない。Easy Breezyは素晴らしいポップ・ソングであり、実際日本のFM局で驚異的なオンエアを叩き出したが、じゃあそれに続く“同系統の”ポップソングがアルバムに入っているかというと、無い。Kremlin Duskの様式美は衝撃的だが、ではあの路線の曲がアルバムにあるかというと、無い。確かに、これではどのマーケットでも売りにくい。

余談だが、EXODUSがプロモーションされなかったのは同時のUMGのCEOの交代劇の他に、制作費が高騰しなかった為日本での売上だけでペイできてしまい(何しろ100万枚以上である)リスクをおかして予算をかけて宣伝するモチベーションが生まれなかったのでは、という仮説を昔立てたな。いや本当に余談じゃんこれ。

This Is The OneはEXODUSの反省の上に作られ、iTunes全米総合チャート18位という記録まで作った(瞬間風速だけどな)。次にHikaruがやる時はもっとうまくやれる。まだまだ今をときめいているStargateと再コラボレーションするのもアリだろう。あとはそれをHikaruがしたいかどうかだけだ。こればっかりは、本人に実際に訊いてみないと、わからない。松浦さんに頼んどけば訊いてくれるのだろうか。悩ましい。

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海外進出、という事を盛んに言われたUtadaだったが、基本的には全米デビューという事で、「もうひとつの母国での国内デビュー」という解釈も出来なくはなかった。寧ろ、翌年のMercuryからの英欧デビューの方が海外進出というに相応しかったのかもしれない。

そして今。ロンドン在住というのなら英国でのリリースもまた「国内発売」という感覚もあるかもしれない。婚家のあるイタリアとなれば、居住していない分また別かもしれないが。

ここらへんまでくると、Hikaruは大体“自分の国”からのリリースという事になるか。感覚的な話ね。日英米3ヶ国でリリースしてもドメスティック。

それはまた、どの国でもアウトサイダーな感覚が拭えない裏返しとなるかもしれないが、10代の頃ならともかくバツイチ再婚子持ちの30代おっかさんともなればそんな細かい事は…いや、本人は大丈夫でもこどもの方は気にするかな。それはあるかもな。

うまくいけばどこでもドメスティック・サクセス、うまくいかなければ多国籍進出失敗、みたいな風に、結果はどうとでも解釈できる。意味がないとはいえないが、色々遊べてしまうという事で意義は薄い。

iTunes Storeも現在のところ「各国版」であり、アメリカでなら買えるアイテムも日本では買えない、みたいな事態が存在していて、そうシンプルにはいかない。世界のどこからでも買えるようになるのが理想だとは思うんだけれども。

Hikaruには力まずに、ただリスナーの居る所で頑張ってくれれば、と思う。国籍や人種を問わずにファンを集める事が出来る能力は、In The Flesh 2010で見られる通りだ。

しかし、今までは、日本での圧倒的なセールスを背景にしてレコード会社に対する発言力を確保してきた。日本を重視すべきなのはそういった観点からなのだが、もし仮にHikaruがそんな発言力は不要だと言うのなら、日本にこだわる必要はなくなる。ファンは全世界的に平等だ。日本だけ特別という事はない。今まではそうだったかもしれないが、これからもそうである必然性はない。Hikaruも、そっちの方が気楽なんじゃねーの。気楽である事に価値を見いだすかどうかは、わかんないけどね。

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普段ロック/ポップスのコンサートに行き慣れていない人は十中八九、その音量の大きさに戸惑う。勿論、その殆どが悪い印象しかもたない。慣れてくればまぁいいかとなるのだけど、マイナスの値の絶対値が小さくなるだけで印象が悪い事には変わらない。

前にも触れたように、音量とは解像度の事だから(ダイナミック・レンジってそういう意味なんだけど、ちゃんと理解してる人の方が珍しいよね)、ロック/ポップスに携わる人にとって大音量は“いい音”なのだ。一言で言えば感覚が麻痺している。

普段はそれでいい。相手をしている客層の最大多数はロック/ポップスのライブ・コンサートに慣れた連中なのだから。

しかし、宇多田ヒカルのコンサートがそれでいいのだろうか。普段コンサートに行かないような人の割合が増えるんじゃない?

復帰後にそれがどうなっているかに興味がある。遠慮無く大音量を出すべきなのか否か。あのラウドネスが異常である事を、彼らはわかっていない。いや、わかっていても止められないのだ。

我々メタラーはその点恵まれている。音楽的な要請そのものが大迫力の大音量ななだから。MOTORHEADやMANOWARは、その大音量によってかつて「世界で最もラウドなバンド」としてギネス・ブックに登録された。ギネスに載る為にはそれなりの費用がかかる訳で、それを費やしてでも手に入れる称号は、そういった音楽を聴く人たちにとって大きなプラスなのだ。最も、流石に音量世界一を競うような項目は健康に多大な悪影響があるとしてこの項目は今やもう消滅してしまっているそうだが。

だから、アレンジにこだわるべきなのである。大音量でいきたければ、ガンガンにハードなロック・サウンドや、どんしゃり目一杯のダンス・サウンドに振り切ればいい。ストリングスを導入したりピアノで弾き語りしたりするんなら音量は極力抑えるべきだ。

確かに、クラシックのコンサートではないので聴衆が皆徹底的な集中力を発揮してピアニッシモのクレッシェンドすら聞き逃すものかと構えてくれている訳ではないので、後ろの方でお喋りが始まってしまわない程度の音量は必要かと思うが、あんなに極端でなくても、いいだろう。

WILD LIFEはかなり適切な音量だったのではないかと思っていたが、他の人に感想を聞くと必ずしもそうではなかった模様。私の耳はやはり参考にならない。だって「大音量は正義!」のメタラーだもんね。あれでも音が大きいのだから、次のツアーでは更に音量を抑えるべきなのだろう。なぁに、音が小さくったって、歌うのは宇多田ヒカルである。聞こえてさえいればその圧倒的な歌唱力で皆引き込まれていく筈だ。ギリギリまで音量は落としてもよい。初めてコンサートというもの自体に来たというような人に「コンサートっていいもんだな」と思ってもらう為に持って帰って貰うお土産は翌朝の耳鳴りではなく、美しく繊細なサウンドの思い出である。取り敢えずクラシックのコンサートに行って、音量はあれくらいで十分だと確認しておいてほしいぜ。

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昨日福山雅治の結婚のニュースと千原弟の結婚のニュースがほぼ同時に報じられたらしく。それに対してとり・みき(だったかな?)が「福山とジュニアが結婚したのか」と呟いたのがこちらに回ってきた。元の真意はわからないが、これが冗談として通用しているとすれば、そうだよなぁと言うしかないかな。

同性婚が市民権を完全に得た場合、これは冗談として通じない。2人のファンでない限り、「へぇ、その2人って付き合ってたんだ。おめでとう。」で終わりである。芸能人の誰と誰が付き合うてるかやなんて知らんがな。同性婚が一般化すれば、男女の組み合わせはフリーになる。挙げ句には、性異の区別が意味を成さなくなるだろう。つまり、ヘテロかホモかを宣言する必要もなくなる。個人がどちらに転んでもよいのだから構わない。

現実には、そこまで行くかというと立ち止まらざるを得ないが、もしそうなったとしても、あんまり支障は感じない。結婚は家族登録制度になるだろうし、それが2人である必要もない。養子とか里子とかいうのもそこに吸収される。法律は沢山改正しなきゃいけないけど、それは現状との差異からであって、いちから作るなら多分こっちの方がシンプルで簡単である。

この国がどちらに向かうかは知らない。当事者の皆さん頑張って、としか。いつ自分が当事者になるかもわからないのに呑気なもんだけど。

自分が思いつくシリアスな問題は、トイレや更衣室だろうか。三つ目にジェンダーフリーのトイレを作れば解決かもしれないが、確かにこれは大変だ。それに、それだけで問題が解決する訳ではないけれどな。

コンサート会場がそうなったら、結構便利かなとは思う。ジャニーズのコンサートと秋元康プロジェクトのコンサートではトイレの混み具合が真逆なんだろうから、その都度切り替えて配分出来るなら合理的だろう。女子トイレの渋滞はいつだってコンサート会場の悩みの種である。

くまちゃんがどう思うか、というのは少し気になる、かな。年齢設定がサザエさん時空なのかどうなのかよくわからんが、くまちゃんが大人になるってのもちょっと想像がつかないなぁ。ヒカルがおばあちゃんになっても今のまんまだとしたら、少し不思議(SF)ちっくではあるけれど。その頃になっても美少年にときめいているのだろうか。それは若いというのか何なのか。

家族登録制度が実現したら、次はそこにペットが入るかどうかだろう。即ち、人間以外。大富豪が相続相手にペットを指名するなんていうニュースは昔からちらほら見掛けたから、そう荒唐無稽な話でもあるまい。しかしこれがぬいぐるみとなると相当ハードルが高い。ただ、例えば相続権のシンボルとして継承されていく、なんて事になったら少しは現実的に有用かもしれない。こういうのも、時代を経ればわからない。

それはそれとして。現実は今こんな感じである。それの良い悪いは知らない。ただの紙切れの話だが、そこにあらゆる現実を投影する人も居るという事だ。ひかるがくまちゃんと「家族」とやらになれたら、どんな気持ちになるんだろうね。必要ないか。もう家族なんだし。

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ヒカルが次のEVAに関わっているとして、関心があるのはその主題歌を発表するタイミングである。

2007年のBeautiful Worldは、最初は6月下旬に解禁された45秒のサンプルだったように思う。その45秒に対して5500字ほど綴った覚えがある。映画の公開は9月。CDシングルが発売された更に後だった。

2009年のBeautiful World PLANiTb Acoustica Mix は封切り日当日の解禁だった。僅かに前にヒカルが主題歌を歌う事が明かされたが曲名は当日まで伏せられた。Beautiful Worldのリミックスだという事も知らされなかった。

私はもともと「新劇版EVAの主題歌はずっとBeautiful Worldでいい」と言っていたのだが、その変則的な情報の出し方に戸惑い、封切り日前一週間は「もしヒカルが新曲を書いていたら」という仮定のもとに日記を綴っていた。Utadaもあったんだからそんな暇は無かったのは明白だったんだが、あらゆる可能性を排除したくなかったのだ。

そんななので、2012年にまっさらな新曲“桜流し”が聴けた時には大変な衝撃だった。「日本人が日本語でこんな曲を書けるの!?」という驚き。更にそれが人間活動中だったヒカルから齎された。この曲に私が如何に入れ込んできたか。当時の日記を振り返るまでもないだろう。

桜流しもまた、封切り日当日の解禁だった。午前零時からPVのフルバージョンが72時間解禁され、配信販売も始まった。最速上映に赴いた人はそこで初めて桜流しを聴いた筈だ。一部では先にロビーで流れていて云々という話もあったみたいだが。


という訳で、この8年の流れ(3回だけだけどな)からすれば、次もまた封切り日に主題歌解禁かなとなるところだが、少し冷静に考えてみようか。

序の終幕を飾ったBeautiful Worldは確かに新劇版EVAの為に書き下ろされた楽曲だったが、それと共に、J-popアーティスト(と呼ばれていた事をヒカルがどう思っていたかは、そういえば知らない)である宇多田ヒカルの新曲でもあった。つまり、アニメ映画の主題歌のみならず、ただのPopソングでもあった訳だ。EVAに何の思い入れもない人でもこの曲は好きという人はわんさか居る筈である。2007年の年間売上でもTop20に入っていた。ヒット・メイカー宇多田ヒカルの面目躍如だった。

一方2009年のBWPbAMは完全に「映画の為のリミックス・バージョン」だった。CDシングルは発売されず、当時は配信音源のみ、ヒカルも当然(というのは実は結果論だったのかもしれないが)一切プロモーションをしなかった。そういう意味では2007年とは随分違っていた。

そして桜流し。そもそも人間活動中に新曲を書き下ろしている時点で「EVAの為に特別に」なのは明白だった。一方でミュージック・ビデオには一切EVAの匂い(いや別にオレンジ色の液体は関係ないぞ)は皆無で、それに伴ったDVDシングルも発売するなど、きっちり「アーティスト・宇多田ヒカルの新曲」としての側面もアピールしていた。


となると。次の曲についても、要はバランスなのだ。EVAの為にとどまらずヒカルの新曲としての側面が強いのであれば、例えば映画の方の封切りが遅れるのなら当日解禁の計画を外す、とか柔軟な対応をとる可能性もある。アルバム収録曲であるなら尚更だ。ユニバーサルからしてみれば、系列でもなんでもない映画制作会社のスケジュールに振り回されて「宇多田ヒカルのニュー・アルバム」の発売時期やプロモーションのタイミングを変える事は難しい。

恐らく、幾つかのプランが用意されているのだろう。もしEVAが何年何月までに公開できるならAプラン、それが無理ならBプラン、という風に。それに合わせヒカルのシングルカットの順序が変わったりするのかもしれない。ここらへんからは、誰か調整能力に長けた人物の登場を待ちたいところだ。

今のところ、公開時期未定の現時点では、2007年のようなやり方も2009年のようなやり方も2012年のようなやり方もどれも可能性があるとしかいえない。即ち、意味のある事は何も言えない。予想がつかない。ただ、今まではそういうパターンだったという頭の整理は必要である。来たるべき名曲の登場に向けて、万全の準備で臨みましょうぞ。

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CDシングルが果たしてリリースされるか、はオールド・ファンにとってヒカル復帰時の関心のひとつだと思うが、現実としておまけ(食玩なみにどっちが主役かわからないヤツ)のついてないCDシングルを買う層は演歌のカセットテープを買う層と厚さの上で大差なくなってきているのが現状で、確かに今CDシングルをリリースしてもFL15の売上累計程度の枚数しか出ないのではないか。

そんな中、おまけに頼らずにCDシングルを確実に売る方法はないかと考えたら、「ライブ会場限定販売」が思い浮かんだ。「GLAYは新曲のCDシングル全国分の初動一週間売上枚数以上の人数を一晩で集める事ができる」と何度か書いてきたが、ベテランになってくると新曲に関心はなくてもライブに来てくれる人は沢山居る訳だ。

ヒカルの場合、すぐには無理かもしれないが、全国ツアーをすれば20万人くらいの動員は可能ではないか。そこにツアー限定のCDシングルが関連グッズと共に売られていたらこれは数万枚単位で売れる気がする。特に、現実にはそんなタイミングは有り得ないかもしれないが、その新曲をライブで初披露ともなれば、終演後の購入者続出だろう。

と、かなり"都合のいい"仮定で考えてみたが、しかし、実際の所、“ライブ会場の空気”はかなりの影響力がある。その場でないと買わないものを沢山買う。ライブ関連グッズは冷静にみれば大抵非常に高価だ。所謂お祭り価格である。しかし人々はその高揚感を求めて会場に来るのだからそれでいいのだ。そこで限定シングルが売っていたら、そりゃあ手を出すですよ。

今の子は昔の人たちがこぞってCDシングルを購入していたのが信じられないみたいだが、あの頃(90年代後半)はいわば日本列島全域が「ライブ会場の中」にあるみたいな雰囲気だったのだ。ひとたびCDショップに足を踏み入れれば夥しいほどの新曲の数々。あれも欲しいこれもいいかもという中で「今週はこれ」という感じでレジに足を運んだ。なんでそんなもの買ってたんだと外野は思うかもしれないが、ライブ会場の雰囲気を味わった事のある人なら「あんな雰囲気」といえばそれが伝わるのではないか。

逆からいえば、CDシングルを売りたかったらまたああいった空気をCDショップに、街中に作らなければいけない。もうそんな時代ではないと言い切っておけば楽なんだけど、宇多田ヒカルがどう出るか。そういった戦略面でも要注目である…と思うんだが如何。

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アートワークに限らず、ヒカルは多才過ぎるのだから、「おひとりさまメディア・ミックス」が可能である。多分、完遂するのに25年とかかかると思うけど。

まず原作小説を日本語で書き下ろす。更にそれを英語で翻訳する。両方出来てしまう。苦難は想像を絶するが。

次に小説をもとにしたストーリー・コンセプト・アルバムを作る。ラジオ番組名やコンサート・ツアー・タイトルを“ボヘミアン・ラプソディ”からとった人だ、華麗なロック・オペラを書き下ろせるに違いない。これも必要とあらば日本語版と英語版を作ろう。必要に応じてメロディーやアレンジを両国版で違える必要があるが、ヒカルなら出来てしまう。問題ない。

次にアートワークも自分で描いてしまおう。どうせなら12曲全部のイメージ・カットを描き下ろす。絵本仕立てでもいいだろう。初回限定版CDに画集か絵本をつけよう。いやいや、ヒカルなら出来る。

Goodbye HappinessでPV監督も務めた人だ。PVも撮ってしまおう。アイデアがあるなら12曲全曲PVを制作しても構わない。纏めて初回限定版CDにDVD/Blurayとして付属してしまおう。段々雲行きが怪しくなってきた気がするが、なぁに、ヒカルなら出来る。

ヒカルは漫画も書ける。原作小説を漫画化して貰おう。流石にそのまんまではつらいので、キャラをSD化した4コマ漫画なんかでどうだろう。CDの発売まで短期間、ビッグコミックスピリッツで連載してかっちりプロモーションしよう。面白いものが出来る筈だ。

漫画ときたらアニメ化だが、流石にヒカルはアニメーションは作った事ないだろう。だが声優の経験はある。いや、あるんだってば。SDキャラ4コマ漫画なら今流行りの5分枠アニメでいいだろう。ヒカルに声を当てて貰おう。なぁに、出来る出来る出来る。

アニメ化まで行けば今度は実写ドラマ化である。PVは撮れてもドラマの撮影は流石に無理か。しかし、ヒカルは演技経験がある。無愛想なウェイトレスを演じさせれば天下逸品である。キプトラPVでやったようにコスプレもお手のものだ。いやはや、声をあてるだけでは飽き足らないとは見上げた根性だぜ。

実写ドラマ化までくれば当然劇場版だ。流石に映画は撮れないかもしれないが、劇伴のサウンド・トラックの作編曲なら、チャレンジしてみる価値はあるのではないか。なんかやってみたらできちゃったとかヒカルなら言いそうだ。これは本気で出来るかもしれない。

で、そこまで来たらゲーム化待った無しなんだけどそもそもヒカルがゲームに興味があるかどうかわからない。トルネコ、シレン、どうぶつの森、テトリス等々プレイしたと発言したゲームは幾つかあるのだが、ゲームに貢献できるかというとちょっとよくわからないよね。



…ふむ。冒頭の私は間違っていたかもしれない。こんなん25年じゃ無理だろ。50年くらいかかるんじゃないの。

だとすると、「おひとりさまメディアミックス」が実際に実現する可能性が出てくるかどうかは、ヒカルが半世紀ずっと付き合っていきたいテーマが見つかるかどうかに掛かってくる。今のところその条件に適合する可能性を秘めているのはくまちゃんしかいない。しかし、既にくまちゃんは歌にぬりえに合唱コンテストにグッズにとかなりメディア展開をしているのだ。ならば…そうね、例えばくまちゃんが世界中を旅して世界中を総てくまちゃんにしてしまう物語なんかどうだろう。ヒカルがいちばんやりたい事なのではないだろうか。

元の歌のタイトルが“ぼくはくま”なので、世界中をくまちゃんにしてしまう物語のタイトルは…そうだな、“ぼくらはくま”かな。或いは、“ぼくもくま”なんかどうだろう…


いや、私としては多芸だからって色々やらずに、作詞作曲に専念して貰うのがいちばんじゃないかと、思っているのですがね。どないやねん。

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ヒカルには音楽を書く才能や文章を書く才能に加え、絵を描く才能もある。引退したら欧州の片田舎に居を構えて絵を描いて過ごしたい、なんて言ってた事もあったっけか。表現活動のかなりの部分を占めている。

その割にその画力を自らのアートワークに活用した例は数える程しかない。パッと今思いつくのはFor Youのシングル盤ジャケットくらいなのだが、それとて基本的には在り物の流用だったようだから、となると、SC2のデザインを手掛けた、くらいしかないのかな。それも画力を発揮したというものでもないだろう。

恐らく、いや、十中八九、単純に、音楽作品を完成させた後に余力が残ってあないのだろう。そこからもう一度パンプアップしてアートワークに取り掛かるなんざ確かに無理があるかもしれない。

そんな中でもいちばん頑張ったのはぼくはくまの絵本であろう。簡単な線画の作品だが、リアルなデザインの親子熊と、ぬいぐるみのデザインのままのクマチャンとの対比など、当たり前だが十分に凝った意匠が施されていた。やはり作品に対するこだわりと愛情が桁外れなのだろう。〆切との戦いだった。

CDが買われなくなって、それでも買って貰おうというのなら画集なり絵本なりを付属させれば効果はあるだろう。しかし、ヒカルがそんなものを用意し始めると、もう一枚アルバムを作れる位の手間暇がかかるんじゃあないか。現実的ではない。

ストーリーアルバムやコンセプトアルバムの類なら別である。アートワークまで含めた一品だからだ。アルバムが、一方で、ただの“曲の寄せ集め”になっているなら、わざわざアートワークにヒカル自らがこだわる必要もない。確かに、結局、現実的ではない。


今回は違うだろうが、逆のパターンも考えられる。ヒカルが絵を描いて、その絵に自らがインスパイアされて楽曲が出来上がる、という順序だ。それならアートワークはそのまま「キッカケの絵」としてその絵を採用すればいい。

もっとも、アルバムに関しては、ヒカルの顔をそのまま写したものが大半を占めている。今はアイコン/GUI全盛期、アルバムジャケットもアイコンサイズになる事を覚悟した上でデザインを決めなければならないが、顔のどアップはそういう今の時代にちょうど合っている。

あら、じゃあとるべき方法は「自画像」になるかな。鏡を使って。でもそれはまぁ、今回ではなさそうだ。遠い未来に一度あるかないかじゃあないかな。

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ヒカルの最大の特徴のひとつとして、基本単独で創作に取り掛かるシンガー・ソングライターであるにも関わらず、活動形態にエゴイスティックな側面が極端に少ない事が挙げられる。平たく言えば、あれがしたいこれがしたいとあんまり言わない。大体、レコード会社からの要請、タイアップ相手からの要望、ファンからの希望などを勘案して、それらのパズルの解として活動様態を決めていく。

ある意味プロフェッショナルに徹しているとも言えるが、一方で要請や要望や希望の中にかなりの割合で「宇多田ヒカルらしく」という要素が含まれている為、そこで自分を表現してしまえばよく、自分からは求めていないのに自己の表現欲求を満たす機会を得られるようになっている。ならばまぁいいのかな、と思える。

だからこそ弱い、とも言える。昔書いたが、「私はこれこれこういうことがしたいから、こういう協力をしてくれ」というような事を、特にファンに対して言わない。なのに毎度ファンを満足させ続けてきた品質の高さは驚嘆に値するが、だからこそファンはヒカルに対して卑屈になるか無関心になるかしかない。なかなか偉そうになれない。

私などはその精神構造が骨の髄まで染み付いているから、もしヒカルが今後ワガママを言うような局面に立ち会ったなら思いっ切り戸惑うだろう。「活動してくれてありがとう」は1000回言っても噛みそうにないが、「応援してやる」は最早「る」に辿り着く自信が無い。…ちょっと病気かもしれない。

でも、それでいいのかどうかは、よくわからない。何というか、ファンとして精神的に優位に立ちたいという願望があっても何らおかしくはない。「応援してやってるんだからもっと頑張れ」と"言いたい"人は結構居る気がする。「こっちから頼んだ覚えはないわ」と切り返すのは格好いいのだが、経済市場での振る舞いとしては禁じ手である。

そんなドM上等(ヒカルに対しては、だが)自分でも、ヒカルに感謝されたなら嬉しいだろうな、とは思う。なんだろう、お姫様に「よく頑張りました」と褒められるような感じか。向こうが精神的に優位にあるのは揺るぎない(普通そういうのを「惚れた弱み」という)が、その中で少し緩められたら、効くなぁ。


…よくわからない妄想は置いておいて。卑屈になり過ぎるのもよくない。ヒカルの方も困惑するからである。出来れば、「何があっても」とか「いつまでも」とか力まずに…無理か。無理だな。

ヒカルのアティテュードだと「浅い付き合い」が求められているのは間違いがない。他方、我々は、ものによってはヒカル自身よりエピソードを覚えていたりして、まるで小さい頃から知ってる親戚のおじちゃんおばちゃんみたいになってる事もある。これは、重いまではいかないまでも「あの連中にずっと見られているんだな」というプレッシャーには、なる。

要はヒカルの人生の一部になってしまえばいい。あの人のリアクションがないと何か寂しいな、と。でもそれ一介のファンには無理かなぁ。50年も続ければそう思ってくれるようになるだろうか。それを楽しみにできれば、卑屈な態度だって正当化できる。気の長い話だ。

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「シン・ゴジラ」の「シン」には神や真や新などがあてられるという話だ。いつも通りの言葉遊びという感じだが、これが「シン・エヴァ」とも絡んできたりこなかったりとなると途端にややこしくなる。いや、そうなる事でよりシンプルになれる視点を探し当ててる事で庵野総監督の"意図"に近づける、と言った方がいいか。

「シン」という読みの漢字は多い。あとづけでどうとでもなる。だから、本来この名前に事前にこだわっても仕方無かったのだが、ゴジラのように他の作品も絡んでくるとなるとそうもいかない。明確で、あとづけではない意味を付与しておかねばなるまいて。

私はゴジラに詳しくないので(EVAだってよくわかってないけれど)、一般論で言うなら、タイトルが連関する、或いは譲渡されるという事態は、作家の作家性が作品より優先されている、とみるべきか。作家自身の私小説を複数のメディアで展開するようなものだ。これもメディアミックスと呼べるのかな。

どちらの作品も、監督1人の作家性に飲み込まれるような小さな作品ではない。宇多田ヒカルですら、その歯車のうちのひとつでしかないのだから。そういう意味ではチャレンジングであろう。

作品が巨大な故に、ウルトラCも想定され得る。つまり、庵野総監督がEVAから実質的に手を引く、というパターンだ。「シン」の冠をゴジラに託した時点で彼の作家性の表現は足りてしまった、と。EVAの巨大さは計り知れない。作家が誰であるか、必ずしも気にする必要は無い。動き出せば、樋口監督であれ誰であれ、完成してしまう。評価を受けられるかどうかは別にして。

一方、ゴジラもEVAも自らのうちに取り込んだとなると、周囲の人々は彼のストーリーに巻き込まれる事になる。ストーリーは、スクリーンの中だけでなく、現実にも存在する。いや、もっと言えば、銀幕と現実の間に境界がなくなるだろう。「そこまでして…!?」とも思うが、作家が命を賭けて取り組むとなると、そういうことになる。総てを巻き込んでストーリーは展開していく。


うーん、現時点で、わかることは、ないな。もう暫く様子見を、しておこう。

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ほう。新しいゴジラは「シン・ゴジラ」というのか。うちの兄の小さい頃のあだ名を思い起こさせる字面である。いやそれは関係ないんだが。

これからどうなるか。EVAの続編は「シン・エヴァンゲリオン」であった筈だ。うむ、まずは勿論2択であるよな庵野総監督。

ひとつは、「シン・ゴジラ」と共に、EVAの方も「シン・エヴァ」のまま、というセン。

そしてもうひとつは、「シン・ゴジラ」に対して「シン」を冠としないEVAになる、というセン。

ここまでは誰でもわかるだろう。
ここからがわかりにくい。

つまり、ゴジラとEVAは絡むのか絡まないのかという話だ。

この話をここから進めるのは難しい。ここはひとつ、ステップ・バックして考えてみよう。

庵野総監督は、EVAQの前座に巨神兵を起用した。10分程度の特撮短編映画であった。巨神兵は、宮崎駿監督の(ジブリ以前の)長編映画作品「風の谷のナウシカ」に出てくるキャラクターである。そして、多くの方がご存知なように、この長編映画の巨神兵の登場場面を、庵野さん(当時、アニメーター)が担当していた。因縁浅からぬキャラクターである。

EVAQに巨神兵とは、どういう取り合わせだったのだろうか。すぐさま、私も含めて、多くの人々が想像した筈だ。庵野総監督は、EVAの世界を、ナウシカの世界と繋げたいのではないかと。

庵野さんが「風の谷のナウシカ」を完全映画化したがっているであろう感触は、端々に見てとれた。いや、とれはしないかもしれない。私がそう思いたがっているだけの可能性もある。取り敢えずそうであると仮定しよう。漫画版は全7巻であり、1984年のその映画化はそのうちの2割程を強引に纏めたに過ぎない。ならば、完全に、と。第7巻だけでも、と庵野さんは熱望していただろう。

宮崎駿氏も今は長編アニメーションから引退した身だ。庵野さんにナウシカの権利を与えてもよいと思う。しかしそれが叶わないのであれば、せめて自分が担当した巨神兵だけでも“生き返らせ”て、自らの作品に取り込んでいきたい。そういう布石だったのではないかと思えてくる。

その2つを繋げるとなると、技術的な問題が出てくる。EVAはアニメーション、庵野さんの(3年前の)巨神兵は特撮である。果たして、アニメーションと特撮の融合は可能なのか。或いは、また1984年のように、自ら筆を執って巨神兵をアニメーション化するのか。そうなったとしたら、どんな手を使ってくるだろう。


そこに、この「シン・ゴジラ」である。このゴジラ・シリーズは、伝統的に特撮である。これがどう絡んでくるか。次回に続く…かな? わからない。

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月曜日にラジオ曲の生放送公開収録(っていう呼び方でいいんだっけ)に行ってきた。あれ、おいらそういうの初めてだっけ。行ける所は狭く制限されていたのでどういう場所かはよくわからなかったけれど、あぁ、これが放送局かと思った。

昔ヒカルがテレビ局について「何か冷たい感じがして好きじゃない」と言っていた。冷たいってどういう比喩なのだろう(別に空調の事を言っているのではなかろうて)、たぶんこういう事なんじゃないかな、と妄想していたが、なるほど、こういう事かと体験してきた。すーっと、身体の真ん中に冷気が次々と溜まっていくのが感じられた。

いや勿論空調の事ではない(大事な事なので2回)。環境に対する応答の感覚的な比喩表現である。ふむ、確かにこれは「冷たい」と形容するなぁとその点は合点がいった。ラジオ局だからテレビ局は違う筈…とも思ったがどうやらすぐそばにはテレビ局もあるらしかった。その区別は定かではないが、次々と溜まっていく"冷気"の際限無さは、うん、ちょっと怖い。

自分としてはその"冷気"は、好きでもなければ積極的に嫌うほどでもない、“あぁ、そういうもんなのね”という感触だったのだけれど、若い頃のヒカルがこの空気に触れたら…あぁ、そうか、もしかしたらこの"冷気"が全部ヒカルに向けて集まってきていたとしたら、怖かったろうな。見にきた人と出演する人では扱いが違うのかもしれない。

私が感じたものとヒカルが感じたものが同じかどうかはわからないし、知らないし、知る術もない。どう足掻いても。でも、以後折り合いをつけてテレビに出続けたヒカルだからよくも悪くも慣れているだろう。今度は「久しぶり」で戻ってくる事になる。暫くは慣れないかもしれないが、同じように折り合いをつけてくれるだろう、かな。

冷気の正体みたいなものが何かについては、わからない。特に知りたいと今は思っていないのが理由だ。知りたくなったら、感覚の冷凍庫から取り出して分析してみる事にするけれど、知ったからと言ってどうにかなる類いのものでもなさそうなので。放送局に行かなければいいんだろうけれど、そういう訳にもいくまい。それなりに頑張れー、くらいしか、言う事もなさそうである。


…ややオカルトチックな内容になってしまったが、まぁいいか。何かを強弁したい訳でも、何かを主張したい訳でもない。ただ感じたままを記しておくのみである。それ以上の事は、何もない。

よく晴れてるねぇ。

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そういや週刊誌の年齢、数え年で書かれていたような。厳重に抗議差し上げてもいいような気もしますねんけど。

年齢の話をするとどうしても評判が宜しくない、のかな。私が最近気にしているだけかもしれないから許しておくれ。

曲による、タイアップによる、としか言いようがないが、ヒカルの次の客層がどうなるか。この話題は度々触れてきた。

具体的に確定しているのはEVAとKHの固定ファンのうちの何%かだが、これらのコンテンツももう随分Old-fashionedというかOld-schoolというか大御所感が出てきていてファン層も少しずつ高齢化している。光を提供したのが13年前、Beautiful Worldを提供したのが8年前である。こういうのは3年毎に小さく世代交代、10~12年毎に大きく世代交代なので、いずれもかなりファンが減っている或いは入れ替わっているという恐れが強い。特にゲーム業界はハードの移り変わりが激しい為世代交代というのも変則的になるのだが例によってこちらの業界は詳しくないので私は書かない。誰か書いてくれんかね。

EVAの方はまだ暫くは劇場版アニメーションというジャンルが元気なので全体の年齢が上がった、という風に捉えておけばよいかと思う。ただ、EVAQがどこまで継続的な関心を惹起し続ける事に貢献しているかが計りかねる。たとえEVAQ自体の作品としての評価を低く見積もっているとしても慣性で「どう完結するのかは知りたい」という層が相当数居る。ここらへんのこだわり加減は宇宙戦艦ヤマトの世代から徹底しているので、10年単位くらいの世代交代は新世代の流入で大体補充できるとみていい。ガンダムなんてFIRSTしか知らない人も沢山居たのにもう四十年近くシリーズが続いているのだから。まだストーリー自体が繋がっている現時点のEVAは全然大丈夫。

裏を返せば、8年前のような内容では観客を納得させるのは難しいかもしれない、という事だ。観客層の入れ替わりが少ないのなら皆そのまま歳をとっている。それ相応の内容にしないと「それでは物足りない」と言われかねない。

ただ、ここも実は難しい。アニメファンは年齢層が高ければ高いほど保守的で、アニメとしての様式美にこだわりを持っている。その枠組みから逸脱するものに関しては手厳しい。

更に捻れる。そもそもEVAは、その旧態依然とした様式を破壊しにかかった作品だった。「夕方6時になんつーことやっとるんだ」という内容が、若い層を捉えたのだ。しかし、当時若かった層も30代40代である。人によっては「蛇足」と(未だに)とらえかねない新劇場版EVAに対して今、或いは公開されるかもしれない2016年とか2017年とかの時点でどういう心境を抱いているのか。かなり動的な問題である。

このパズルを解かねばならない庵野総監督の心中を是非察してあげてうただきたい。そりゃあ鬱にもなるだろう。実際の所の彼の心境は勿論わからないのだが、こちらとしては、彼が怠けていたとかそういう事は一切なかったのではないかと解釈している。

その解釈が幾らか妥当であると仮定して。さぁヒカルがその苦悩に対してどのような答えを返したかという話になる。Beautiful Worldは順風満帆の象徴であった。序から破へと支持層を拡大し、新たな局面を切り開く力強さは新しい希望に満ちていた。それが一転、EVAQで混沌への原点回帰を見せた。それはまるで震災以後の日本人の心象風景を描いているようで、その無気力と絶望から立ち直る為のエネルギーを、アスカと桜流しが牽引して示しているかのような描写であった。

次が最終局面かどうかはわからない。ここから更に何部作かに別れる可能性もある。しかしいずれ、作品の終局を“出迎える”楽曲を、ヒカルは書かねばならない。それは恐らく、本当に母になったヒカルが描く「”新たな“嵐の女神」になるのではないか。もしかしたら、ヒカルが母になり、EVAという作品が帰ってきて"結び"を迎える準備が出来るまで、時を待たねばならなかったのかもしれない。それは最早、商業的成功や社会的地位といったものを超越した、作品と作品、才能と才能の対話の結実となるだろう。結末は、未だわからず。しかし、結ばれるはずの約束は既に我々の前に、たとえそれだと気づけなくても示されている筈だ。後は、それを見届けるだけである。願わくば、そこからまた新しい生命が生まれると信じて。



あれ? それだとゴジラの主題歌もヒカルに頼む事にならない? そうなったらもっと詳しい人に、この先の物語は任せましょうか。人にはわかる範囲というものがあるのだから。

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誰なんだ音楽関係者やけに詳しいじゃないか(笑)。

こういう記事を定期的に出してもらってもちつもたれつなのはいいけれど、さてねぇ。日本昔話のDVDというのがリアルだな。ヒカルはBLUE+の音源ちゃんと持ってるのだろうか。

共演できる人とは迷わず共演しておいた方がいい。モタモタしてると皆死んでゆく。

誰と共演しておいて欲しいというのはこちらからはない。あるようなないようなだが、これもいつもどおり「ヒカルの望むように」がいちばんだ。それ以外はほぼない。

大体、アルバム制作が終盤に入ってくると何かしら変化を与えたくてゲストを募ったりする。EXODUSのティンバランドがその最たる例だが、これ、特にミュージシャンでなくてもよいのではないか。ナレーターに語りを入れて貰ってもいいし、コピーライターに作詞を手伝って貰ってもいい。或いは、アートワークの作業に移行してみるとか。気分転換というと本業の方に申し訳ないが、何か別の事をしながら制作終盤の出涸らし感を乗り切っていきたいところ。

その為には環境も大事である。どのスタジオでレコーディングするか。その土地でどんな友達に会えるか。どんな場所に行けるか。ヒカルが昔、NYのアパートメントは先住者の特質も相俟ってアーティスティックな雰囲気に溢れていると言っていたが、レコーディング時こそそういった外的要因を整えるべきだろう。

ここに来て子育てがどんな立ち位置に来ているか。息子と戯れていたら疲れるのか癒やされるのか。人それぞれだからどちらがどうというのはないがヒカルにとって新しい局面である事は間違いがない。ベビーシッターを雇っているのか、義母に頼っているのか。しかし母乳で育ててるというのならもしかしてスタジオまで連れてきていたり…? いや勿論自由なのだがそんな英才教育しちゃっていいのか。また「スタジオで昼寝するのがいちばん落ち着く」みたいな人間が育ってしまうぞ。こちらは望む所だが。

親バカと言われようが、彼の声をアルバムに収録するのもアリである。レコード・デビューが0歳の時。業界では芸歴こそ総てというのなら皆に敬語で話してもらえるぞ。大したメリットじゃないな。いやでも、もしいいアイデアがあるなら使ってしまわない手はない。赤ん坊の声というのはなかなかに万国共通で、誰もがそれとわかる希有なサウンドなのだ。全世界に発信する立場ならローカルなシグナルだけでは伝わらない。グローバルなシグナルでヒカルの歌声に注目して貰う事もまた重要である。

何か小難しい話になってしまった。ただ「この親バカが(笑)」と笑ってツッコミを入れたいだけだ。それが幸せというものではなかろうか。いつも冷静なヒカルが母親に対してだけはバランスを失い、バカになった。ならば母として、息子に対してバカになって何が悪かろう。そういうものなのだ、と素直に思わされるのを期待しておきたい。でも待て。本当にダヌパは、最初どこの国の言語で喋り始めるんだろうな…。おしえて、くまちゃん。

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「結婚観が異なる」という話と「永続性に対する比喩」を混ぜて話したので混乱してしまった。主眼は後者の方である。私にとって(いや自分がした事ないからわかんないんだけど)人間が自らの意志で"永く続けると決める"代表格として真っ先に思い浮かぶのが結婚生活だという事だ。勉強や練習の生活は年限が決まっていてすぐに巣立つものだし、仕事や職業は世の中のニーズ次第なので変遷するのが自然だ。特にコンピューターの発達途上では次々と「人間のやること」は否応無しに変化していくので転職もまた普通だろう。公務員のように40年間ずっとというケースもあるがそれはそれな気がする。

その点、結婚生活は関わる人数が少数なので自分の意志の占める割合が遥かに大きい。ならば、という事だ。

まぁそんな比喩を持ち出したのも他でもない、ヒカルはどれくらい続ける意志があるのかというのが気になっているからだろう。

もしかしたら、“言うまでもない”のかもしれない。ヒカルの両親の結婚生活はあったりなかったりを繰り返していて安定や永続のイメージとは程遠い一方、どちらか一方は必ず音楽活動に携わっていて文字通り"家業"のイメージだったのかも。つまり、ヒカルにとって比喩は「結婚生活=脆く崩れ易いもの」「仕事=車を売ってでも続けなければいけないもの」という構成になっているのかもしれない。それなら、、、わかるかな。

ただの比喩の違いなら、それでいいか。時折「やめたい」と思うのも風邪を引くようなもので、治ればまたすぐにいつも通りに戻るのなら、ヒカルに辞める理由なんて何もないかもしれない。この5年間は、登校日を挟んだ長い長い夏休みだったという程度だろうか。

そういう意味では、今のヒカルが、昔好きだったものを今どう思っているか述べてくれる事に興味がある。フレディー・マーキュリーやスティング、尾崎豊はどうなのか。映画「タイタニック」は泣けるのか。あの小説やこの物語はどうか。日本昔話はテンションが上がるのか。次の復帰時にはいよいよProfile欄が改訂されるかもしれない。今のうちに保存しておいた方が賢明か。オトガイワールドって今も在るんだろうか訪れているんだろうか…。

そういった趣味嗜好の永続性についてはよくわからない。移ろいゆくものでもいいし相変わらずでも構わない。ただ、常にアップデートしておかないと受け手との認識の乖離が始まるから、できるだけ"現状に忠実"である事が望ましい。次にどう書き換えてくるか、そんな欄がオフィシャルにある事を忘れてやしないかまで含めて楽しみにしておきましょうぞ。

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