無意識日記
宇多田光 word:i_
 



WILD LIFEでのメッセージ、『自分自身を大切に』。出来ているかな? 出来てないなぁ。戻ってきてくれても、合わせる顔が無い。

桜の季節だ。ヒカルは、と言っても、桜が散る歌と流れる歌しか歌っていない。まぁそれはそれでよいか。昨日桜流しについて検索していたら希美まゆが桜流しを絶賛していた。三年前にも、一年前にも。どうってことないが、妙に嬉しかった。え、それ誰って? 未成年者は検索しないように。

桜流しが震災を幾らか意識して書かれたのは間違いないだろう。11年3月以降、日本人の意識は幾らか変わった。あれから4年経ったけれど、傷跡はまだ残っている。廃炉作業などはまだまだこれからがといった所だろうか。先は長い。それでも、いや、だからこそ桜流しの響きは重い。こちらの地方ではとても良い夜桜が眺められるが、桜はいつか散って流れてゆく。抗う事は無い。

EVAQがもし無かったら、或いはもっと延期されていたら。いや、もし一年早かったら。様々なifが頭に浮かぶが、現実はこうなった。2012年11月。タイミングとしては、どうだったのだろうか。

ヒカルがLIVEで歌う日も、来るだろう。どんな思いを託せばいいのか。歌が続編でなくても、映画が続きである限り、Beautiful Worldと、次の曲との繋がりを無視する訳にはいかない。

ここまで、2つの曲は同じテーマを扱っている。

『Beautiful boy 自分の美しさ まだ知らないの』
『あなたはとてもきれいだった』

『言いたい事なんかない ただもう一度会いたい』
『もう二度と会えないなんて信じられない まだ何も伝えてない』

あなたは美しく、会いたくても会えず、もう何も伝えられない。

次のEVAの歌は、上記のそれぞれに一行足せる歌詞を含んでいる筈だ。美しいあなた、会えないあなた。次は、どうなる。


ただ、庵野監督の事だから本当に"続き"を描いてくるかが疑問だ。Qからして突如14年後だし、極端な話シンジやアスカが出てくるかさえあやふやだ。予告編なんて詐欺だというのはもう皆わかっているだろう。白紙。それ位の気持ちで待ち受けなければならない。

歌の求心力は、寧ろ、エヴァンゲリオンを踏みとどまらせるだろうか。Qのエンディングが『私たちの続きの足音』に見えたのは偶然なのか故意なのか。『君の側で眠らせて』は明らかに引用だろう。監督は想像以上に歌を聴いている。次の歌をヒカルがどのタイミングで完成させてくるかで、EVAも変わる可能性がある。身内贔屓ではない。いや別にヒカルは身内ちゃうけども、主題歌なんて本来添え物である筈が、作品内のコンセプトにまで影響を与えるならばやはり稀有ではあるだろう。

となると、EVAの過去を掬った(『あなたが守った街の』)桜流しが次の映画の内容を示唆するとすればどこだろう。『健やかな産声』か。きっとそうだな。やってくれるよ、庵野監督ならばね。2015年はEVAにとって、特別な年なんだしな。まさかこの年まで続けてるだなんて、思ってなかったんだろうなぁ…。

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Single Collection Vol.1の発売から11年。時代の一区切りを印象づける作品だった。"ベスト・アルバム"扱いとはいえ、年間1位を獲得した最後の1枚としての輝きは色褪せない。というか、宇多田ヒカル史上最大のロングセラー作品である。昨年分だったか、新古書店での売上データで図抜けた成績を残していたとの情報もあった。宇多田ヒカルなら取り敢えずこれ、というのは言うに及ばず、「J-popで何か1枚というなら取り敢えずこれ」の域にまで達したアルバムだ。iTunes Storeでも"延々ダラダラ"ランクインし続けている。史上に残る化け物アルバムである。

本人はそういうキャラクターではなかったが、その余りのクォリティーに"一時代を築いてしまった"事は疑いが無く、一方で、ほぼ全く同じ事を成し遂げた母親がその知名度の呪いが如何に厄介なのかを表現し続けた事もあってかなくてかいずれにせよ母親同様その負の面に苦悩し続けた最初の5年をこのアルバムで一旦総括した感がある。

今から振り返ってみると、Vol.2との作品の質の違いは思った以上に大きい。新曲5曲に本人肝いりの装丁など気合いの入りまくったVol.2と、ただ一筆"思春期"とだけ記して殆どタッチしていないVol.1では最早正反対の性質すらある。Utada The Best発売の際同作に「誠意のない作品」という言葉をヒカルは投げかけていたが、それを言うならVol.1だってシングル曲を発売順に並べただけの安直な作品だ、と言う事だって出来る。COLORSは"アルバム"初収録曲ではあったが。

それを考えてしまうと極端に濡れ手に粟なのかとなってしまいそうだが勿論違う。一曲々々を精魂込めて作ってきたから、というただそれだけの事だ。その中で、楽曲をピックアップできる対象期間が他のどのアルバムよりも長かった、だからVol.1は充実した作品になった。それを言うならVol.2は更に充実した作品だが、やはり"思い出とリンクする"という点でVol.1に劣る。いや、そこのところをVol.1がせき止めてしまったと言った方がいいか。

Pop Musicはそこである。如何にヒカルがこの5年でアイデアを書きためていようと、それによって出来上がってくる楽曲のクォリティーが凄まじいものであっても、数多くのリスナーが"その歌のある時代"を長く長く共有できる時間を提供できなければ、Vol.1のような"現象"は起こらない。一度起こせたなら十分過ぎるのだが、長く生きていればまた何度目かの"黄金期"を迎えてしまわないとも限らない。後はもうヒカルのスタンス次第だ。望んだからといって手に入る訳でもなく、望んでもいないのに手に入れてしまう事もある。人生ままならないけれど、それはもう、Vol.1の表紙に書いてある通りなのだった。「点」に本人による訳が載ってるよ。

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Hikaruが「出来た曲を聴く事は少ない」と言うのは恐らく2つ理由があって、更にその2つは緩く関連付けられる。

1つには、制作の過程で何度も聴き返し、楽曲の隅々まで理解し、考え抜き、もうこれ以上直す所のない領域まで突き詰めてしまう為、"聴く"という行為が"残る"事は即ち、まだ直すべき/修正すべき箇所が存在する事を比喩してしまうので、完成即ち聴かなくなる事、という等式が成立してしまっている為だ。

そしてもう1つは、本人がハッキリと言っている通り、「作品とは創造過程の結果に過ぎない」と考えている為、だ。Hikaru自身は音楽を聴く事よりは、何かを創造するという行為自体に価値を見いだしている、或いは好んでいる、若しくはそういった衝動に突き動かされてどうしようもなくそうしてしまう、といった所か。Hikaruが真に"したい"行為は創造であって鑑賞ではない、と。ならば確かに、出来上がった作品にはもう興味は無いだろう。

今言った2つには緩く関連性がある。いや人によっては「同じ事言ってない?」と捉えてくれるかな。それでもいいのだが、ここに論点を提供しよう。「では作品(曲)はいつ完成するのか?」或いは「いつ誰が曲はもう完成したと言えるのか?」である。

ここが難しい。2つめの言い方に立ち返ってみよう。創造という過程が好きなのであれば、或いはそうしているのであれば、曲は完成する必要は無い。延々作り続けても何の問題もない。どこまでも編曲を修正し続け、パートを継ぎ足し、或いは間引きし、どこまでもどこまでも"創造的な行為"を続ける事が出来る。その結果使う楽曲や声部は何十何百と膨れ上がり、ミックスは熾烈を極め、何十時間にも連なった演奏時間は……さて、何故そうならないのだろう? どこかで彼女は"飽きる"のだろうか?

1つめに立ち返ってみる。何度も何度も聴き直して、もう直す所が無い、となれば完成である。果たして、その瞬間は実際にやってくるのか? そんな保証はどこにあるだろう? 永遠とは空間的無限に頼らない。ただ輪をぐるぐる回るだけで時間は永遠を手に入れる。そして、時間もまた輪になればよい。何が言いたいかといえば、選択肢が2つ以上あり、それらの間で優劣が決まらなければ、永遠に楽曲は完成しない。或いは、例えば選択肢が3つならば3つの(とてもよく似た)楽曲が出来上がる。それは始末のいい方で、選択肢に対する優柔不断が組み合わせ爆発を生めば瞬く間に何万というバージョンをこの世に生み出すだろう。それは果たして「完成」と言えるのか?


ほぼ同じ意味の話を2つに分けた意義の雰囲気が何となく伝わり始めただろうか。1つめの言い方では、創作者に浮かび上がってくる感情は"苦悩"であり、2つめの方は"享楽"であろう。嬉々として楽譜や楽器と戯れ続けユートピアに住み続けるような感覚と、どこまでも選択肢に苛まれ続ける感覚と。

Hikaruがプロフェッショナルな音楽家として向かい合うのは1つめの方だ。最後には「納期」や「締切」に救われる仕組みだが、眉の溝が埋まる事は無いだろう。

この4年間、もしかしたらHikaruは2つめの方を存分に堪能したかもしれない。完成や納期や締切に囚われる事なくいつまでも創造の過程を楽しめる。どうだったのだろうか。


1つめと2つめのいちばん大きな違いは、深く考えずに「あなたは自分の曲を聴くの?」と訊いた時、前者はNoと、後者はYesと答える事、だろう。何しろ2つめは永遠に完成しないかもしれないのだから、作曲者は生きてる間ずっと自分の曲を、自分の未完成な曲を聴き続ける事になるのだから。完成へのこだわりや強制力の有無が、Hikaruを「自分の曲を聴く人」にしたり「自分の曲を聴かない人」にしたりする。はてさて、今のHikaruはどちらなのだろうか?

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年度末となると、昔は様々なリリースがあったなぁと感慨深くなる。今思えば、FIRST LOVEアルバムが3月10日発売だったのは、まだヒカルがレコード会社の主力と思われていなかったからなんだわな。それも当然の話で、アルバム制作が終わる1月中旬時点ではAutomatic/time will tellが売り出し中の新人で、リリース・デートを遅らせれる立場にはなかった。2月に入る頃には話題沸騰、Movin' on without youを初登場1位に送り込むのだが、流石にそこまでの盛り上がりを事前に予測するのは無理だった。年度末の主力リリースなんて半年前、いや1年前から決まっていてそこから逆算してプロモーション活動を行う訳なので、ヒカルがその立場に立つのは2001年の事になる。

「Distance」アルバムが発売になったのもこの時期だ。浜崎あゆみとの売上対決は記憶に新しい…いや、もう14年前だから新しい訳ないんだけど、印象が鮮烈という意味で記憶に残っている。CDの売上が頂点に達したのは市場的には1998年だが、2001年のあの時が、人々が売上に一喜一憂したピークだった気がする。もしかしたら、「なんだ、1stの半分しか売れてないじゃん」と理不尽な落胆を投げかけられていたのかもしれない。

他にも、2002年の「光」の発売や2003年の「20代はイケイケ!」、2004年の「Single Collection Vol.1」、2008年の「HEART STATION」アルバムなど、年度末に発売されたものは多い。それだけ大きな売上を見込まれていたのだろう。特に2004年のシンコレ1は、英国本社EMIのプレスリリースに、2003年度の売上に貢献する作品の1つとして半年前から期待されていたのが印象深い。その時点ではまだそのアルバムがシングル・コレクションになるかどうかの明記はなかった為、「ま、まさかオリジナル・アルバムってこたぁないよね!?」と訝ったものだ。当時はUniversal Music傘下で「EXODUS」制作真っ最中。EMIからのリリースがあるとすればLIVE盤かコンピレーションしかない状況だったのだが、後にHikaruはほぼ同時進行で二枚のアルバムの制作に取り組み、2008年3月に「HEART STATION」アルバム、2009年3月に「点」「線」「This Is The On
e」の連続リリースを行うなどリリース・ラッシュを見せつけた。

今にして思えば完全にオーバー・ワークだったのだが、次に復帰する時は今度こそ体調管理には気をつけて貰いたいものだ。もう年度末にエースとして駆り出される事も、ないかもしれないからね。Universal Musicは、それくらい大きな会社なのですよ、えぇ。

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ヒカルといえば当初は抜群のリズム感が賞賛されたものだ。ブラック・ミュージック寄りのコテコテのサウンドでもグルーヴを外さずについてこれる日本人女性歌手となると、確かに今でも稀少かもしれない。

どちらかというと、そういうグルーヴィな楽曲は英語曲に集中している。Blow My WhistleとかWonder 'Boutとかね。勿論、日本語でどこまでグルーヴを出せるかという実験にもチャレンジして欲しい所だが、さしあたっては普通に英語曲で歌って、Utada Hikaruは違うのだよという所を見せて欲しい。

グルーヴというのも世代に左右される。例えば、メタルという音楽は90年代以降、デスメタルだグルーヴメタルだニューメタルだメタルコアだデスコアだと名前を変えてきたけれど、基本的な音楽性は同じながらやはり世代毎に特徴的なメロディーとリズムを持っている。

Hikaruの場合、ロック・ミュージックも勿論好きだっただろうが、ソウル・ミュージック/ブラック・ミュージックにも造詣が深い。現在32歳の彼女は、90年代にそちらのサウンドに傾倒したのだから、ソウルの中でも所謂"ヒップホップ・ソウル"の世代になるだろうか。60年代まではリズム&ブルースと呼ばれていたサウンドがR&B(アール・アンド・ビー)となり、それが更にヒップホップ・カルチャーやラップ・ミュージックとミクスチャーされて生まれてきた世代。平たく言えばメアリーJ.ブライジ登場以降という事だ。

この世代のソウルは、リズム・セクションも遠慮なく打ち込みである事が多く、その中でキョーレツなグルーヴわ叩き出してくる。片足ダンス・ミュージックに足を突っ込んでいる感じに。Hikaruの書くリズムセクションは、どちらかといえばそこらへんをルーツに持つように思う。

だが、先程挙げた2曲などは、Hikaruの手によるグルーヴ・パターンではない。BMWに至っては「私の望んでいたサウンドと違う」とハッキリ言ってしまっている。そうなると、実は、Hikaru単独ではコテコテのグルーヴィ・チューンは書かないのかもしれない。

そこで、生演奏のバンドとの相互作用があるとどうなるか。ソウル・ミュージックとはいっても、どちらかといえばジャズ寄りのサウンドになるのではないかと踏んでいる。それで今の話の流れになっている。Hikaruがジャズというと多分、スタンダード・ナンバーのバラードをしっとり歌う方向で皆想像を働かせると思うが、私はどちらかというと、随分昔のリズム&ブルースがジャズに接近したようなサウンドを思い描いている。さぁどうなるか。当然誰にもわからないが、あれだけ多種多様な曲を書いてきたHikaruにもまだまだやっていないサウンドは控えているのだ。もう若くないんだし、遠慮している場合ではない。時は、あっと言う間に過ぎていくのだからね…。

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生演奏重視といえばひとつエピソードを思い出した。80年代、ZABADAKの上野洋子と吉良知彦はアイルランドのダブリンを訪れ、音楽が生活の中に溶け込んでいるのをみて衝撃を受けたのだそうな。パブを覗いても誰かが楽器を奏で皆が歌っているんだと。以後ZABADAKは打ち込み系の音を減らし生演奏に力を入れ始めライブ・バンド/ユニットへと変貌を遂げていったという。

ヒカルが「もしかしたらルーツといえるかもしれない」と語っていたのはアイルランドではなくお隣のスコットランドだが、ロンドンを拠点にしているらしいとはいえスコットランドには実際に行ってみたのだろうか。否、行ってみていないと考える方がおかしいか。その中で、スコットランドでの音楽の在り方みたいなものに直に触れる機会があれば、やはり生演奏重視に拍車が掛かる展開も考えられる。人の演奏は人を動かす。それだけのことなんだけど。

ただ、やはりヒカルは単独のソングライターであって、自身1人の手によって築き上げられる世界を大切にしたい筈だ。コンピューターの発達は、バンドをクマなくても一通りの演奏を、体裁の整った楽曲を提供する事を可能にした。それで10年以上やってきたのだからある程度自負はある筈である。

なお、演奏も、人数が増えれば増えるほど、逆説的だが、たった1人の作曲者の意向が反映されていく結果となる。人が増えると収拾がつかなくなるからだが、シンプルにいえば指揮者が必要になってくる人数以降は作曲家1人の世界観に頼る事になる。指揮者は作曲者の代理であるのだ。

そういう眺めを前提にすれば、まぁ2~9人くらいまでの編成は"バンド"と呼べるのかもしれない。正確な定義は知らないが、これより多いとビッグ・バンドと言って指揮者が登場しそうな気がする。

いや具体的な人数とかはいいんだ。今、つまり、考えている生演奏とは、十数人数十人居て指揮者が必要なオーケストラの類いではなく、そういった少人数編成の、一人々々が作編曲に携わる、そういった創造過程を含むものである。その時、各パートは各パートに責任を持ち、その人が別の人と入れ替われば楽曲の一部も入れ替わるような、そんな個々人の存在感を重視した上での生演奏、そして、バンドでの作編曲。これがヒカルに可能であるか否かを考えてみたい訳だ。次回の話はそこをもうちょい掘り下げてみる。

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さて曲作りにおける期待だが。今回は共作にスポットを当ててみたい。

ヒカルの場合シンガー・ソングライターなので、共作といっても手法が限定される。作曲はピアノ/キーボードが主体、とはいえ、ジャム・セッションでという訳にはいかないだろう。今なら多分、インターネットを通じたデータのやりとりによる方法が主体になりそうだ。6年前STARGATEが「なんて未来的なんだ!」と言っていたのが思い出される。

ただ、しかし、長いスパンで、ではあるが徐々にデータのやりとり以上のものが薫るようになってはきている。愛のアンセムはシャンソンのスタンダードナンバーにジャズのスタンダードナンバーをマッシュアップするという手法で度肝を抜いてくれたが、これなどはジャズだけあって生演奏のニュアンスがだいぶ大きい。また、Show Me Love も名のあるロック・ミュージシャンたちを集めたロック・チューンになっていて、ヒカルがコンピューターで打ち込みをしただけではこんな生々しいサウンドにはならなかっただろう。

また、桜流しではThisisbenbrick、ポール・カーターとの共作となった。彼によるYouTubeの動画からすれば、ピアノのアイデアのうち幾つかは彼のものなのだろう。演奏も生だし、ここでも打ち込みからは距離を置いている。

ヒカルがもし、生演奏を意識した曲作りをするとしたらどんな方法があるだろうか。何度も書いている通り、ヒカルは曲作りに打ち込みのリズムによるあの四つ打ちパターンから切り込んでくる傾向があった。それが近年(て2~5年のスパンだけどな)生演奏に近いサウンドになってきたのは、IvoryIIなどにみられるように、コンピューターのサンプリング・サウンドがかなり生音に近くなった(たぶん、私の耳では聴き分けられない程度に)のが大きい、というのが私の見立てであった。パソコンひとつで随分とリアルなサウンドが出来上がるんだなと。

そうやって生演奏的サウンドに親しんでいく中で曲作りも生演奏に近いサウンドを想定したものになっていったと推察するのが自然ではないか。で、そこからバンドとのジャム・セッションをプロデュースするようになっていったらどうか。要は、殆ど生演奏みたいなサウンドのデモ・テープを携えていってそれを実際に演奏してもらいその中で創造的なアイデアの密度を高めていく、といった具合だ。

特に、こういうのはジャズ・ミュージシャンが強い。ロック・ミュージシャンはどちらかといえば生真面目で、デモテープや楽譜に沿った事をやりたがるものだが、ジャズ系の人たちは「気がついたら即興演奏していた」くらいの、いわば呼吸するのと同じ感覚で新しいアイデアを生み出してくる。

せっかくだから、女子だらけのジャズ・バンドを作ってみてはどうか。ジャズ・ベースのサウンドを基調にした宇多田ヒカル流Popsを女子で固める。何か意味があるのかといわれれば話題性とか華やかさとか色々あるけれど、ジャムを通した曲作りの中でヒカルの女性的な感性が遺憾無く発揮されるのはそういう状況なんじゃないかと思ったので。全員年下、とかだったら更にいいかもしれん。ジャズ・ミュージシャンには女性も結構多いので、各パートで一流の女子ミュージシャンを見つけるのも難しくはないのではないか。見つかってもOKを出してくれるかどうかの方が遥かに難しいし。

勿論ジャズではなくロックでもいいし、ヒカルの曲にジャンルなんか無いのだが、ジャズと敢えて限定する事でヒカルのソウルフルなヴォーカルがより一層引き立つのではないかと思ったので。

後は人脈なのだがそれがいちばん難しいわな。どうせなら公開オーディションでもいいけどね。「宇多田ヒカルのバックで演奏してみたい!」というテンションになる女子は、世界にどれ位居るのだろう。千載一遇のチャンスである事は間違いない。そりゃあ、でも、ヒカルの事だから人と人との繋がりを重視するだろうから、知人を介して紹介してもらう、というのが基本路線だろうなぁ。

兎に角、そろそろそういう事をしてもいいような気はしているのだ。東京事変みたいな感じになるんじゃ、とか、じゃあこの間の記事は嘘じゃなかったのねとか色々云われるだろうが、まぁそういう雑音を闇に葬り去るくらいのクォリティーを、ヒカルなら達成できるだろう。実現したら凄いよね、きっと。

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タイアップのバリエーションとなるとヒカルはかなり広い。先述の連続TVドラマや映画のみならず、CMではSONYやDoCoMo、TOYOTAなどからシャンプーや菓子など、ジャンルを全く問わない。ゲームでもNINTENDO DSの口火を切ったのはUTADAだったし、Kingdom Heartsは言うまでもないだろう。あぁ、ニュースショーのテーマ曲とかもあったな。This Is LoveやKiss & Cryはアニメーションとカップヌードル両方とのタイアップだったともいえる。

さて、こうなってくるとあとはどんなタイアップがあるだろうか。ヒカル本人の年齢が上がっている事からイメージチェンジとはいかないまでも年齢層を意識したものが出てくるかな? 既婚者という点もポイントだが離婚歴とか昔みたいには気にしなくなっているのかな。どうなんだろ。照實さんに待望のお孫さんが出来れば…いや寧ろざねっちをCMに引っ張り出す!? 流石に断るかな。

それこそ、住宅やら保険やら投資やら年齢層高め向けのCMも沢山流れてるけど、どれもヒカルと関係なさそう。寧ろ航空会社あたりがありそうかもしれない。イメージはきっといまだに「NYと東京を行ったり来たり」の筈なんだから。CMに出るようになったらファーストクラス優待券とかないのかな(笑)。そういうのは嫌がるかな~ヒカルが。

一方で本命であるべきなのが"新世代デバイス"のCMだ。NINTENDO DSやLISMOなど、新しいデバイスやサービスの口火を切る役割もまたヒカルのイメージに合うだろう。ソシャゲとかはもう一周回ってしまってるし無いだろうな。

もっとこう、キャンペーン的なものもあるかもしれない。UNICEFとか赤十字とか。TVCMではないかもしれないけれど。そういうのはヒカル自身も興味があるだろう。オードリー・ヘプバーンとか黒柳徹子みたいなポジション。案外似合うと思うのだが。

いちばん面白いのは自転車・マウンテンバイクとかだろうな。「あたしでも乗れる!」「よかったねヒカルちゃん」…ファンにしかウケないネタかもしれん。

いずれにせよ、たとえ売上が落ちても知名度は落ちない人だからオファーが途切れる事はないだろう。でもいちばんは、やっぱり、そういうマス・メディア的な目線よりは、人と人、個人と個人の繋がりを大事にしたコラボレーションだと思う。この人の作品とだから、とか、そういう理由でのタイアップなら意味があるだろうが。知名度があります、CMに起用されます、というのは悪い訳ではないけど物足りない。何らかの発展を見込めるジョイントが増えるのを希望したいところであります。

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見落としていたというか気づいてなかったというべきか、そういえばヒカルはまだ「連続テレビアニメ」の主題歌を担当した事がない、のかな? 連続テレビドラマは幾つか担当した。First Love、Can You Keep A Secret?、SAKURAドロップス、Flavor Of Life、Prisoner Of Love、Eternally…並べてみると結構あるな。アニメーションの歌となると、実はEVAだけかな。Casshernもあしたのジョーも元は兎も角両方実写だし。

EVAも元々は全26回2クール半年の連続テレビアニメだったが、ヒカルはあクマで"劇場版"の担当である。彼女が影響を受けた邦楽曲Top3のうちの2つ、ベルサイユのばらとGet Wildのように毎週聴ける訳ではなかった。

次の新しいタイアップとして、連続テレビアニメの可能性はあるか? 寄生獣の噂なんかがまことしやかに流れていたらしいが、そんな深夜アニメに宇多田ヒカルなんて起用するかね?

いや、ヒカルが原作を気に入っている作品なら有り得るか。本人のこだわり次第だろうかな。

そういえば、あれだけ昨年アナ雪でメジャーな地位と評価を確立した神田沙也加が、今季嬉々としてある深夜アニメの主題歌を歌っている。その深夜アニメというのがまぁ今季一、二を争う低クォリティーで、多分円盤も殆ど売れない(数百枚とかいうレベルじゃないかな)作品だろうに、彼女からすれば「やっと念願叶って深夜アニメの主題歌が歌えた!」という事らしい。その年を代表するドメジャーな作品の主要キャラとして歌っていた癖にこれである。勿論彼女は本気らしく、もう早速来季4月からの深夜アニメの主題歌も決まっている。本人の夢が叶ったかどうかとメジャー・マイナー/クォリティーの高低は関係ないのだ。なんというか、本当に嬉しそうで「よかったねぇ」と声をかけてあげたくなる。まぁ言うてる私もこの低クォリティーアニメが好きで、特に主題歌は今季屈指のお気に入りなのだが、神田沙也加本人が作詞作曲してると知って吃驚してしまった。オリジナリティは皆無だが、ここまで最近のアニソンらしいアニソンが書ける人だったとはねぇ。まぁそれは余談です
が。


という訳で、ヒカルも神田沙也加と同じノリで深夜アニメの主題歌を受けてしまう可能性は十分あり得る。寧ろレコード会社が「格というものがあるだろう」と止めに入る心配の方が大きいかな。くどいようだがこういうのはどこまでも「作品次第」だ。例えばヒカルに弐瓶勉の過去作の主題歌を、というオファーが来たらどうなるか。シドニアの騎士では厳しいかな。劇場版主題歌やってたら笑えるんだけどあそこの音楽の傾向からして起用は無いわな。

そうそう、主題歌とかを担当するなら劇伴音楽との相性も大事である。EVAQでは鷺巣詩郎のピアノ曲と桜流しの相性が抜群だった事は見逃せないポイントだ。そういったファクターも加味しなくてはいけない。

いずれにせよ、ヒカルが今どんな作品を好んでいるか、それを知らないと妄想も捗らない。そういうツイートなりメッセなりがあるといいんだけどねぇ。いつまたキッカケになるかわかんないんだし、ね。

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世の中、「死にたい人」或いは「死にたいと言う人」は幾らか居るような感じだけど、「死にたくなりたい人」ってなると一気に数が減る気がする。それだけ本音では「生きたい人」が多いんだろうなぁ。

『今日という日を素直に生きたい』と歌うのはテイク5だが、この歌詞を書いてヒカルは「なんだ、私生きたいんじゃん」と気付いたという。歌詞の要諦としては『今日という日を素直に』というところに重点が置かれていて、生きたいというのは無意識というか文章上の必然として余りに自然に置かれてしまっていた為、そこに込められた感情、願いや祈りに気がつくのが後になった、のだろう。つまり、生きたいという前提でじゃあどんな生き方をしたいのかという段階で『今日という日を素直に』という方法論を選択する、という意図で書かれた歌詞だったから、その前の段階、「そもそも、生きたいのか?」という問いと向き合っていなかったと。

ここはここで不思議というか、「なんだ、私生きたいんじゃん」という気づきは、自分が生きたがっている事に気がついていなかったから言われた訳で、となると、テイク5の制作時にヒカルは口癖のように「死にたい」と口走っていたのだろうか。或いは、もっと達観的か諦観的に「生きてても死んでても変わらんなぁ」という気分でいたのだろうか。いずれにせよそれらは打ち砕かれた訳だ、『生きたい』という一言によって。

そんな制作時のヒカルでも、「死にたくなりたいですか?」と訊かれればNoと答えたんじゃないか。その時点でもうその人は本音では生きたがっている。ただ、今の状況が苦しくて、でも逃げる術がなくてどうしようもなくなっている、そんな時の心情を象徴的に「死にたい」の言葉に託しているだけで、この言葉自体は、どうしようもなさから出て来ているとみるべきだ。

「死にたくなりたいですか?」という問いは、つまり、「あなたがもし自由であったとして、それでも死を選びますか?」という問いである。「死にたい」という人は、自由を奪われているだけのおそれが強い。

ヒカルの場合は、自分の意志でレコード契約を結んでいる訳で、「生きたいという感情に後から気づく」ほど追い詰められていたのは、自分でそう追い詰めたからだ。アルバムの締切が不服だというのなら、制作自体を請け負わないという選択肢もあった筈である。

勿論現実はそんな単純ではなく、多くの人たちの期待を前にして自分の気分なり何なりを優先するのは気が引ける。かといって制作はやっぱりキツい。そんなジレンマを背負うのは原理的な話であって、そこから逃れるなら総てから逃げる以外ない。大体、そのスペクトルのどこかに人は納まる。要は納め方次第だ。

ヒカルが気づいたのは、いつだったのだろう。制作途中なのか、完成して世に出た後なのか。いずれにせよ、少なくとも、ヒカルは「死にたいと時々言うかもしれない人」ではあるかもしれないが、「死にたくなりたい人」である事はない、と断言しちゃってよさそうな気がする。プロとしての創作活動はキツい。テイク5を聴き直して、復帰に備えて欲しいものである。

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アプローチの仕方は、両極端の2つを考える。どの世代に対しても同じ商品を提供するか、きめ細かくそれぞれのメディアに対応するか、どちらかだ。

昨年、アナ雪の売り場を見に行ったら、一種類の製品しかなかった。DVDとBlurayの同梱盤だった。なるほど、DVDを買うかBlurayを買うか迷う位だったら、両方入ってるこれをどうぞという事か。間違って購入して見れないと苦情が来る事もない。200万枚ともなると、そういうスケール感になる。私は実際にアナ雪が何種類リリースされたか知らないが、それとは別に、この、購入時のわかりやすさはいいなと思った。自分は結構迷う方だからだ。配信で済ませるかCDを買うか、DVDにするかBlurayにするか。音質や画質をとるか、1000円以上の価格差をとるか。結局、その時買うコンテンツ次第で選択するのだが、いちいち迷うのが煩わしいなとも思う。色んな買い方が出来るというのは、煩わしさも出てくるのである。

沖田さんはハイレゾ音源と圧縮音源の差を、「コンサートを観る時にS席で観るかA席で観るかの差だ」と語っていた。わかりやすい。しかし、買う時に迷ったり悩んだりするのも事実である。価値観が定まっているのなら選択にコストはかからないが、そうでないケースも考えた方がいいかもしれない。

ヒカルが次に作品をリリースする時に"一本化"が現実的であるかというと、やはり難しいだろう。CDと配信は大体が音質と利便性と価格のトレードオフの中で選択される。素朴に推測すれば、どちらかに一本化してしまうより選択肢があった方がトータルでは売れるだろう。 

となると、もうひとつの極端、あらゆるメディアでのリリースという事になる。それこそ、配信も音質と価格を比例させてハイレゾから圧縮まで取り揃えたらいい。CDもSHMやらBluray Audioやら、何種類も出せばいい。マニアは全種類買ってしまうだろう。何とも怖い話だ。そんなことされたら聴き較べが捗ってしまうがな。

しかし、悪くはない気がする。複数枚商法ってどうにも印象が宜しくないけれど、中身が違うんだったら構わないんじゃないか。CD、SHM-CD、プラチナSHM、Bluray Audio、DVD-Audioなどなど何種類もリリースして、それらが総てジャケット違いだったりすればこれはかなり。それは阿漕と言われそうだが、ジャケット変えとかないと買い間違いを誘発するからそれは必要だと思うぞ。悪くない手法な気がする。カセットテープでも出しちゃえ。まだ工場稼働してるからね。アナログは勿論でしょそりゃ。何か妄想するだけで楽しくなってきた。



逆に"一本化"で現実味のある方法はないか。考えてみたのだが、全曲PVつきでニューアルバムをリリースするのはどうか。つまり、オーディオトラックのみのCDと、PVが全曲分入ったDVDを同梱し、更にプラグエアとかダウンロードコードとかも同封し、購入者は配信購入もそのまま可能、というシステム。まさに全部入り。DVD付きにしたのは、配信では音質よりも画質への要求が高いからだ。ならそこはいっそBlurayに…となりそうだが、それならCD+DVD+Blurayにしてしまうか…流石に値段が上がってしまうな…。


本当は、プレイボタンの進化形みたいなのが"一本化"には一番なんだが。あれだ、買ったらイヤフォンを繋ぐだけですぐ聴けるヤツな。浜崎あゆみとかがリリースしたこともある、ノベルティ向けの缶バッヂ型プレイヤー(アルバムが一枚プリインストールされてて3000円)だ。

まぁ、今ならみんなスマートフォンを持ってるからプラグエアの方がいいかもしれない。スマートフォンのイヤフォンジャックに差したらアルバムがダウンロードされるヤツな。まぁ、どっちでもいいよ。

CDでないと聴けない層、少なくともCD以上の音質で聴きたい人にも、となると…うーん、やっぱり一本化は難しいか。どっちも無茶だが、どちらかといえば「あらゆるメディアでリリースする」極端の方がまだ現実味がある気がするなぁ。まぁ妄想は楽しいですよ、えぇ。

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60年代生まれといえば今40~50代か。80年代に20代だった世代だが、この年代は案外レコードを買っていない。どこまで正確に比較出来るかはわからないが、80年代は松任谷由実の"復活"まで長らくミリオンセラーアルバムが出なかった。CDの登場以降、音楽の購買が盛んになるのだ。

50年代生まれとなると50代~60代。ザ・ビートルズやグループ・サウンズの洗礼を受けた時代だが、ここもそこまでレコードが売れた訳ではない。しかし、当時の物価を考えるとレコードの値段は相当なもので、かなりの高級品だったと思われる。寧ろこの世代はかなり積極的にレコードを買っていたといえるかもしれない。

40年代生まれとなると60~70歳。戦後生まれとなるだろうか。ヒカルの両親より更に上となると沖縄が外国だった時代を知っている世代だ。ここから上に関しては私もようわからん。


こうしてみてみると、今の90~00年代生まれは60年代生まれと相似な事に気付く。と、いうのは、ここらへんから「生まれた頃からテレビが存在する世代」になり、「生まれた頃からインターネットが存在する世代」と気質が似てくるからだ。つまり、ボタンひとつで無料で娯楽が手に入る事が当たり前になっていた時期である。こうなると、確かにお金を出してコンテンツを買うという習慣は身に付き難い。

違いもある。テレビが「娯楽の王様」として君臨していた頃は、チャンネル数の少なさもあって流行歌のヒット曲が一局集中する傾向があった。「泳げ!タイヤキくん」(表記忘れた)のヒットは70年代後半だが、まさに、この曲のように「それだけが突出して売れる」という現象があった。その為、よく、「昔は老若男女誰でも知ってる流行歌があった」という懐古は真実だけれども、一方で、レコードはそんなに買わないというのが当時の状況だったのだ。皆テレビやラジオで満足(?)していたのだ。歌番組も多かったし。

今はテレビの代わりにインターネットだから、大ヒット曲はない一方、激しく好みが分散されている。誰もが知ってる大ヒット曲はなくなった(でも去年のアナ雪は凄かったねぇ)一方、クラスタ毎にブームが移り変わる状態になった。コミュニティーとクラスタ単位で話題が推移し、歌や音楽もその中でハイパーリンクのひとつとして相対化された。ツイートやらコメントやら画像や動画と音楽は今や同じ土俵で選別の対象である。コミュニティーのハブとしていちばん有能なのはゲームであって、それらを中心にコンテンツが広がっている。テレビ世代よりずっと複雑である。



…とざざっと概観をみてきたが、何が言いたかったかというと、各世代毎に歌や音楽に対してのリーチの仕方、即ちマスメディアの在り方と使い方が異なり、それに伴って端末(再生メディア)の扱いも異なっているという事だ。そして、今のインターネットがインフラになった時代は、テレビが登場して旧来の娯楽消費の在り方を過去のものとした状況との相似と相違をそれぞれに持ち、従って、歴史から学ぶならば、またここから新しいコンテンツ供給の在り方やら発展やら勃興やらが見込まれなくもない、と解釈され得る訳である。


こういう概観の許に、さてではどんなアプローチがあるかというのが本題。次回また。

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今うだうだと"売り方"について私が考えているのは、特に建設的な理由がある訳ではなく、ただ単にテーマとして興味があるからだ。昨年の宇多うたの、「最初は“こんなん売れるの?”と懐疑的なところから始まったのに気が付いてみたらオリコン5位まで漕ぎ着けていた」hikki_staffの皆さんの見事な手腕を見せつけられては、不安になれというのは無理な相談である。時代としては厳しいかもしれないが、きっとその中で結果を残してくれるだろう。期待している。

だからそれについて横槍を入れたい訳ではない。考察を通して自分たちの立ち位置を確認したいだけである。

で、だが。考えれば考える程、宣伝の為のメディア(マス・メディア)と、音楽に直接触れる為のメディア(CDとかipodとか、兎に角再生演奏に必要な機械や装置や何やかや)を統合して捉えないといけないなぁ、という気になってくる。しかも、それがたぶん世代毎にバラバラなのだ。


私個人は70年代生まれで、世代的にはテレビっ子世代後期という感じだが、毎度書いているようにリスナーとしてはかなりラジオ重視、CD重視というタイプで、そこまで多数派ではない。まずこの世代(今30~40代)にアクセスするには、テレビドラマやアニメの主題歌が有効だ。キャッツアイやGet Wild、ラブストーリーは突然にやらSAY YESやらの世代だといえば伝わるか。そして、世代的にもお財布的にもCDを買う事に抵抗がない、が、その習慣が失われてしまっている世代でもある。ともあれ、この世代は全国ネットの地上波テレビや映画なんかで歌にアクセスしてきた世代である。

80年代生まれ、今20代~30代の人たちは、90年代、最も音楽ソフトが日本で売れた時代に十代だった人たちだ。毎週新曲をチェックし、カラオケに通い、新作CDを買い…Mr.Childrenやスピッツ、小室ファミリーからモーニング娘。のブレイクあたりまでだろうか。バンドブームやヴィジュアル系の生き残り、また、電波少年や浅ヤンで"バック・ストーリーを伴って歌に触れる"事で購買に寄与してきた。この世代がいちばん歌を中心にものを見て育ってきている。更に、フジロック以降のフェスティバル形式を牽引してきた世代でもある。CDも買いライブにも行く。宇多田ヒカルをいちばん支持してる層はここの生き残りだろう。しかし、70年代生まれ同様に最早CDを買う習慣を失いながら社会人になってしまったので、ビッグネームのコンサートには行くけど新譜は買わないなぁ、という感じになっている。なので、この世代を直撃するには、もう一度ストーリー性のあるアーティストをあてる必要があるだろう。これはなかなか
難しい。

90年代生まれ、今なら10~20代だろうか。物心ついた時からインターネットがある世代。最早CDを買う習慣は元々ない。辛うじて、10代の頃は着うたとか買ってたかなという世代。それも、ガラケーからスマホに買い替えたら失ってしまった。つまり、もうここらへんから音楽やアーティストに愛着がなくなってくる。夢中になるのは嵐や秋元康などのアイドルで、歌は彼らの活動の一部でしかなく、それにすら"本業の音楽家"たちは売上でかなわない。"ヒットチャート"という概念が失われ、音楽がおまけになった世代だ。ここに売り込むには、歌を"何かに紛れ込ませる"しかないだろう。

00年代はまだ10代になったかどうか。小学校に上がる頃にはスマホが普及していたのだから、もうここらへんになってくると音楽は動画サイトで観るだけのものだろう。ボカロ文化は大体無料で体験できるのだから。歌は買うものではなくなっている。既に、この世代にとって歌は産業や商売の対象という意識は薄く、何かの宣伝の為にくっついてくるものなんじゃあなかろうか。音楽を買った事があるか訊いてみたくなる世代だ。


自分より下の世代を書いたので、次回は上の世代だな。

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深夜アニメが擬似クラウド・ファンディングでローテーション出来ているといっても、それは結局全国ネットのテレビ放送の影響力を頼ってのものであり、それは即ち、深夜ではなくゴールデン・タイムのコンテンツが高い視聴率を得る事によってテレビの影響力を維持してくれているから、というのが前提にあるし、円盤の収益も、熱心なマニアを相手にしたものより一桁も二桁も売り上げるディズニーやジブリといった大衆受けする(した)コンテンツ抜きには語れない。

毎度"大衆"という言葉を無批判に使用しているが、これは相対的な概念であって固定化されたものではない。私のような、端から見て"熱心なファン"は宇多田ヒカルリスナーとしてはその"大衆"になり得ないが、例えばコンビニでカップラーメンを買う、なんていう自分にとって何のこだわりもない行動に関しては"無責任な大衆の一部"なのだと思う。深く考えず、CMや報道のイメージに左右されて気軽に消費したりしなかったりする、そういう人間であるかどうかは、ひとりひとり、その時の着眼点によって異なる。相対的というのはそういう事だ。

宇多田ヒカルは、その、"無責任な大衆"の方を相手にする事でその資産を築いてきた。だから我々は無視されるべき存在なのだというのが前回の論旨だった訳だ。

そして、先程取り上げたアニメのローテーションのようにわかりやすくはないが、音楽業界もまた"無責任な大衆"を相手にしたビッグ・アーティストたちによって支えられている。サザンやミスチルみたいなな。金額ベースだと、更にアイドルやらEXILEグループやらの影響力も大きい。彼らの収益によって、細々とした専門レーベルもリリースを続けられている面がある。

もっとも、それも実際は錯覚かもしれない。大規模レコード会社が潰れても、例えばCDを100円200円値上げすれば専門レーベルも独立採算でやっていけるのかもしれない。こういうのはやってみないとわからない。

だが取り敢えずは、大衆に波及出来る影響力をもった"ビッグ・アーティスト"が必要で、ヒカルはそのうちの一人に数えられていて、我々はそれを見守っている。ただそれだけだ。


その影響力を支えるのがレコード会社の宣伝力であり、全国規模の出版や放送メディアである。この構図を踏まえた上で、じゃあどうすればいいのか、海外に拠点を移すとかインディーズ・レーベルを立ち上げるとか以外のアイデアがないか、ちょっと考えてみたい今週なのです。

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2011年3月以降、時々枕が長すぎて「本編はまた次回」みたいな事になるケースが多々あるのだが、これって案外枕の方が読者受けがいいんじゃないかと自分で何となく判断してしまっているからかもしれない。まぁ特段リアクションを何人からも貰った事がある訳ではないので"感覚"の話に過ぎないのだが。

毎度、「Pop Musicは市場との相互作用で生まれる」という論を展開している。音楽はPop Musicである必要はない。自主制作で作ったアルバムを通販やライブ会場での直売でのみ売るような形態もあり、そんなやり方で売ったアルバムがとんでもない名作で、普段メジャー・レーベルから出ている音楽を山ほど聴いているような人間にも感銘を与えるなんて事もある。ZABADAKの「夏秋冬春」の事なんだけれども。

だから、別にHikaruが音楽を作るのに"市場と向き合う"必要があるとも思ってないし、そうして欲しいとも思っていない。また、そうして欲しくないとも思っていない。ただ、ヒカルが今まで(といってももう2年も5年も前以前の話になるんだけど)そうしてきたからこれからもそうするんじゃないか、だとしたら…という話をしているに過ぎない。Hikaruに期待する事といえば健康であって欲しいとか幸せであって欲しいとかそっちになるので、それの邪魔をしなければ音楽性は何でもいい。

で。Pop Musicを成立させる為にはメディアの力が必要で、それが今や頼りないんだけどHikaruどすっぺ?…という話の順序である。日本で活動するならマスメディアは、とか、或いはもう海外を拠点に、とかは、そういった"外部環境の変化"によるものを勘案した上での提案だ。なので、環境が改善されれば、或いは、私が推測している程実態が悪化していないなら、今まで通りの活動形態でいいんじゃないかという結論になる。肝心なのは、誰に伝えたくて、何を使えばよいか、誰とやっていけばいいか、だ。

例えば深夜アニメを継続する為にはいちもにもなくファンが円盤を買う事だ。半年間毎月出る5000円も6000円もするDVD/Blurayを5000人以上の人がコンプリートしてくれれば2期、3期と継続していける。だから、極端な話、作り手はその5000人とかの期待に応えられるものを作ればいいのだし、作らなければならない。勿論いい面ばかりじゃないけれど、誰に対してクリエイティブであればいいかがかなり明確である。「あなたたちの為に作りました」と胸を張れるのだ。それだけじゃあいけないと、どちらもわかってはいるけれど、取り敢えずな。

Hikaruみたいなポジションだとそういう"みえる顔"みたいなものを何処に設定するかが難しい。スタンスが独特だから、極端な話、アニメで円盤を買うような"熱心なファン"の意見は寧ろ黙殺しなければならない。自分で言うのも何だけど、全然音楽活動していないアーティストに対して毎日々々「まだかな、まだかな」と言っているような人間は異常であり少数派であり、こんな奴らの"偏った"意見を聴き入れていたらPopsなんて作れない。しかし、実際にHikaruが何をリリースしても買う、コンサートのチケットを買い漁る、などをして収入のベースを作っているのは我々だ。未発表音源のひとつも入っていないくまちゃんUSBを買うような酔狂な人間がここにはわんさといる。「2個まで買えるのなら」という理由で2個買ったヤツまで居る。もうね、アホかと。…すみません私です。

ここの"ミスマッチ"を、我々は覚悟しておこう。深夜アニメ・ファンとは違い、我々がどれだけ貢いでもヒカルがみるべきは、マスメディアを通した"大衆"であり、また、Pop Musicianであろうとするなら、そうでなければならない。くまちゃんUSBを買ったバカ者たちは、苦笑して一瞥一例して目も呉れぬべきである。まぁヒカルのこったから実際はそうしないんだが、だからこそ覚悟の話をしているのだ。見返りを求めるな、冷笑を受け止めろと。それ位のつもりで、毎日働いて稼いでヒカルにいそいそと送金するのです。深夜アニメ・ファンのように、イベントに優先的に参加できて「我々が買い支えているんだ」と誇りをもつような事は出来ない。我々からの送金でたとえ次作を作れる資金が得られたとしてもきっと何のモチベーションにもならないだろう。しかし、気にしないことだ。ただそうしたくてそうしているのだから。マニアの愛情なんていつの時代も空回りである。だからこそ、たまに期待に応えてくれたら嬉しいのです。それがヒカルの
自由を作るのだから。

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