無意識日記
宇多田光 word:i_
 



起きてる間中ずっと何か鳴らしているような人間(私)にも、年に数回「音楽を聴いても何も感じない時間帯」というのがやってくる。まぁ大抵極度の疲労や寝不足の場合が多いんだが、いうなればそれは"メロディーのゲシュタルト崩壊"であり、ほんの短時間であっても、普段自然に、それこそ呼吸や睡眠の次に自然に(実際、トータルでみれば食事時間より音と戯れている時間の方が遥かに長いからな)営んでいる"音楽に耳を傾ける"という行為が、まるで何の意味もないような、"何で私は再生ボタンを押すのだろう"という気分になってゆく。

そうなったら音楽の種類に関わらず何を聴いても何も感じない筈なのだが、ヒカルの曲、とりわけ今年の場合はSC2の5曲を耳にすると、全く漏れなく心が潤ってくるのを感じた。メロディーがゲシュタルト崩壊している筈なのに、である。

特に歌メロに重点を置いているGoodbye HappinessとCan't Wait 'Til Christmasには本当にお世話になった。歌詞に重点を置いた嵐の女神は言葉の方がゲシュタルト崩壊していなければ素直に感動できるし、Show Me Loveはサウンド重視のスタイルだから音そのもののインパクトに感銘を受けておけばよい。しかしGBHとCWTCは完全にメロディー勝負の歌である。私がメロディー不感症に陥っている時ですらその症状を完治させてしまう強さがこの2曲にはあった。これは私にとって途方もない事だ。

確かに、もう数百回ずつ聴いている両曲だが、聴く度にまるでたった今初めて聴いたかのような元気のよさで「いい曲だねぇ」と呟きたくなる。夜道でホントにそう呟いてしまったのも1度や2度ではない。危ない人だな私。

これだけ威力があると、発売から1年以上経過していても殆ど関係がない。マニアだから無理してでも聴いているんだろう、と思われるかもしれないが、本当にに好きでついつい再生ボタンに手が伸びるのだ。

実際、今携帯プレイヤーを観たら再生回数1位がCWTC、2位嵐の女神、3位GBH、4位愛のアンセム、5位がShow Me Loveだった。嵐の女神が伸びたのは今年中盤に集中的にこの曲を取り上げた時に何度も聴いたのが大きかったようだ。この5曲は結局の所僅差であるし。

ちな!みに6位はHeart Station、7位はBeautiful World…って宇多田ヒカルばかりじゃないか…他のアーティストの新譜もちゃんと買って聴いてんだけどな。Dream Theaterとか。彼らの場合1曲が長い為回数はさほどでないが総再生時間だと結構行くかもしれない。あ、余談でした。

この、メロディーのゲシュタルト崩壊を食い止めてくれる魔力は、いつまで続くのだろう。もしかしたら、一生この輝きは持続するのだろうか。それなら、いいんだけど。次の光は大変である。これ以上の曲を復帰後すぐに、というのは無謀だろう。でも、光ならやっちゃってくれるかもね。


っていう期待の言葉を来年の今日も再来年の今日も呟いてそうで、怖い。まぁなんとかなるか。以上で、今年の無意識日記の定時更新を終わります~。ま、多分不規則な時間帯にまだ書くだろうから納めの一言は今回は省略しますわねーw

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――ただ、愛したと思った世界の姿が、「実はそうではなかった」と気がついた時の感情は、一体何なのだろうと想像するとそれは空恐ろしいな。考えたくもない。@i_k5:2011/12/28/1:14

"考えたくない"だなんてあんまりにも私らしくないので考えてみる。

反対側から見てみれば、その"世界の姿"は確かに私の心にあったもので、そして世界になかったものだ。この落胆と絶望は、絶好の創造の契機でもある。落ち込んでいる場合ではない。新しい局面を迎えられるのだから。

しかし、でも、だからといって世界に一度び"手を出して"みると、あれだけ心の中で明快だった世界の理想の姿が途端に消え失せる。確かに知っていた筈なのに、あれだけ鮮やかだった筈なのに、描いてみせようとすれば筆が止まる、声が途切れる。こんなことなら、手を出すんじゃなかった。

こんなことなら、手を出すんじゃなかった―そう思ってまた手を引っ込める。誰にも通じない、自分だけの言葉の世界、自分だけが見る風景にまた戻る。今ココにある世界からまた離れる。

しかし、それが現実なのだ。誰しもが感じるこの「表現の壁」は、誰も壊せないし誰もよじ登れない。ただ、最初から壁がない、世界とずっと仲良しのひともいれば、壁の切れ目や裂け目を見つけてすらりと通り抜けるひとも居る。その差は何なのかわからない。ただ運だともいえるし、運命だともいえるし、ただの運動に過ぎないのかもしれない。わからない。

世界と仲良しから更に進んで、世界に愛されるようになると、自分の心の中の風景を壊された上で、もっともっと大きなものを世界から背負わされるようになる。

宇多田ヒカルは、DEEP RIVERアルバムで、自分の心の中にある風景をほぼ完璧に表現し切った。それで終わりでもよかった筈だ。しかし彼女は、その所為で選ばれたのだ。世界に愛され、より大きな世界をその唇と指先から描けるようになってしまった。翻弄される運命。Sanctuary/PassionやPrisoner Of Loveは最早光の手の届かない世界ですら光の手によって表現されてしまっている。向こうからやってきたからだ。

偉大としかいいようがないが、それでもなお私たちの心には、世界の姿と心の風景の食い違いと、その2つが触れ合った時にいともあっけなく消え去る"私たちの方の弱さ"に、どこまでも臆病になる。それでも世界は待ってくれているのだ。生きてるうちに、出会えるだけ出会いたい。

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