無意識日記
宇多田光 word:i_
 



総てをぶち壊したいっていう衝動がなければ曲作りなんて出来ないのかもしれない。

…いや、独り言。私達の事でもない。と信じたい。

さて、宇多田ヒカルの人生は唯一無二であり、他の誰とも似ていない、とはいつも書いている事だ。母がいちばん近いが、最早別の道を歩んでいてそろそろ余り参考にならないのではないか。参考と愛情は無関係だろうし。

ところが私自身、"物語"という言葉を使う時、ほぼほぼ必ず誰かと誰かを対比している事に気が付いた。いやもっといえば、パノラマ的世界の中での悲喜交々、あちらが立てばこちらが立たず、捨てる神あれば拾う神あり、といった様々な人々の人生の対比をもって"物語"と呼んでいる気がする。群雄割拠といってもいいし群像劇といってもいい。一人称の物語があると言っても、そういえば登場人物がひとりだけの作品ってあんまり記憶にない。星新一の掌編にあったようななかったような…。兎に角、ちらっと挨拶程度にしか登場しない人にもその人なりの人生があり、私と同じだけの厚みをもった一年を年齢分だけ積み重ねていて、それらが混じり合う中に物語が紡がれていく。対比なしで物語を描くのは難しい。

となれば、誰の人生とも較べられないヒカルの生き様に私が物語を見いだせないのは当然かもしれない。この場合の物語とは秩序とか法則とかと言ってもいい。勝者が居れば敗者が居る、儲かる人と損をする人、笑う人泣く人起こる人、グーを出す人チョキを出す人パーを出す人、紫を選ぶ人青を選ぶ人緑を選ぶ人黄を選ぶ人赤を選ぶ人黒を選ぶ人白を選ぶ人…そういった総てを内包して宇宙は回っている。そのパノラマを眺めて世界を感じる。それが哲学であり思想であり、精神である。心の成り立ち。

しかし、宇多田光の存在はそれを破る。彼女を統べる法則も秩序も存在しない。彼女が何かもっと大きなものの一部であるようなものの見方を、私はする事が出来ないのだ。言ってる事のどこまでがフィクションなのか書いてる自分がいちばんよくわからないが、確かに、彼女が「何かの為に」頑張って生きているのなら、その「何か」は彼女より上位の存在であるかもしれず、従って私はそれに付き従えばいいことになる。光はその為の"道具"に過ぎない…と言えるのならば、彼女もまたこのパノラマの一員として秩序を保つ作用に加担してくれることだろう。

しかし、それがない。例えば彼女を犠牲にしてまで守りたい"大きなもの"があるだろうか。ない。困った。いや困ってないか。自分でも何を言っているのかわからないが、つまりそう思っている以上私は宇多田光に物語を見いだせない。人によっては自明にみえることも私にはみえない。悩むべきことなのか幸せなヤツなのか。自分でもよくわからない。

光が、光自身の思う「自分より大きなもの」に触れ合っている瞬間に、いちど立ち会ってみたいものである。クマチャン出してきそうだな。ああ、それでいいのか。それでいいんだ。なぁんだ。

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ヒカルのルーツを辿る時、必ず最初の一歩は母親である。そして、ここから還ってくるのがいちばん難しい。

Wikipediaによると藤圭子さんの両親は浪曲歌手と三味線弾きらしい。いわば、三代続けての音楽一家。普段からヒカルは世代をどう繋ぐかというテーマについて語っているが、こう取り出してみれば、核家族化と産業の工業化が進んで親の職業と無関係に生業を選んでいく世代とは一線を画す、ある意味伝統的な生き方ともいえるかもしれない。

ただ、そこにあるのは"生き方"である。継承する地盤も看板も人脈もない。実際、ヒカルがデビューするにあたってあの藤圭子の娘である、という事実は殆ど影響を及ぼさなかった事だろう。デビュー後にその世代へのプロモーションにはなっただろうが。

かといって全く断絶していた訳では勿論ない。U3MUSICの役員として長年ヒカルに付き添っていたし、ボヘサマの北海道公演では僅かとはいえ舞台にも立っている。そして年齢を考えれば、現時点で表舞台から姿を消していてもさほど不自然ではない。ある意味、普通にヒカルと関わり合ってきていたといえるだろう。

地盤や看板や人脈ではなく生き方を受け継ぐ、というのはどんな感じなのだろう。一つ所に留まらない生活、というのも受け継いでいる。それは宇多田ヒカルのイメージ自体にも影響を与えている。話題が途絶えたというだけで「あの人は今アメリカに居る」と思い込んでしまう人が後を絶たない。こちらに居なければあちらに居るだろう、という発想。普通ならなかなかない。母方の祖父母からして旅回りの生活を送っていたらしいから、そのイメージすら継承していると思えてくる。直接はそのイメージ作りに干渉していないだろうが。

しかし、こうやって"家業"を継いできたといっても、宇多田ヒカルを二代目藤圭子と捉える人は殆ど居ない。コロムビアローズじゃあるまいに。それはそれで世代間の断絶ともいえるし、早期にヒカルが自分の看板を確立した為だともいえる。二世の弊害はよく謳われるがヒカルをそう思う人はまず居まい。

こう考えていくと…という話からまた次回。

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一方ヒカル本人はといえば、最近はどうやら能楽を楽しんでいるようで、恐らく、これは勝手な想像だが、「日本語の歌」のルーツを探る一環なのではないかと思われる。前も書いたように「日本の心」と呼ばれる演歌も演奏は基本的に洋楽がルーツにある。純粋にただひたすら日本語と向き合ってきた、いやもっと言えば"日本語から生まれた音楽"とはどういうものかを知る事によって、歌詞の書き方と、それに合うメロディーを探っているのではないか。

人間活動中にどれだけ音楽的な側面に触れているかは不明だが、ここまでドップリ浸かっていると離れている方が不自然だろう。漫画家でも、仕事の合間をぬって休憩中に何をするかといえば気ままに落書きしたりしている。絵を描く仕事の息抜きが絵を描く事だなんて常人からは理解し難いが、そこまで染まれば天晴れである。なので、たまにヒカルが音楽に触れている事を匂わせる呟きをしているが、だからといってそれが即復帰とは限らない。仕事か否かとは全く別次元と捉えるべきだろう。

日本語の歌のルーツを探って能楽にまで辿り着いた、と言っても別にヒカルの書く歌詞がいきなり和風になったりする訳ではない。ルーツを辿るだけ辿ったら、そこからまた現代に辿り返してくる事だろう。前にオリジナリティとは「辿れる事」だと書いたが、そういうルーツを現代に向けて辿っていった今という時代にこうして生きる宇多田ヒカルの存在こそ個性なのだ。ルーツを辿るとは、そこから何かネタを拝借してくるとかいう事ではなくて、世界の中で自分はどこらへんに居て、どういう存在であるかを知る事なのだ。知っただけでは、自らの個性に変化はない。しかし、今ココからどっちにどういう風に歩んでいくかの指針は与えてくれる事だろう。それはまさに、Single Collection Vol.1の表紙詩に書かれている通りだ。過去からの歌声が、或いは愛のアンセムを引くなら名も無い魂の歌が、ヒカルを在るべき場所へと導くのだ。今のありのままは変わらなくとも、次の私がどうなるかは、誰にもわからない。

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ヒカルが15歳の頃から業界を背負ってきた事実をどう捉えるか。少しネガティブに考えてみる。

ヒカルは、周りに育ててもらったという感触が薄い。いや本人に訊いたらそんなことはないと言うに決まっているけれど、師匠や先生と呼べそうな人が母以外に見当たらないのは確かではないか。父は先生なのかというとどちらかといえば保護者とでもいうべきか…。兎に角、ヒカルの歩み始めた道は最初から前人未踏なので、切り開いてきたのはヒカルである。

今や時代は流れ、小学生の頃ヒカルを聴いていたという世代がプロの歌手としてデビューするようになった。元々高校生歌手なのでさほど年齢の離れていない人たちからも憧れられていたが、いよいよ本当に"次の世代"への影響力を発揮する段階に来ている。

しかし、毎度指摘しているように、ではそういった"フォロワー"な彼女たちと共演したりするかといえばどうだろう。そもそも今までのヒカルの共演は単発ばかりである。大黒摩季椎名林檎くずTheBackHorn…以後継続的に連絡を取り合っているのかといえばわからない。"ファミリー"の中でポジションをみつけその中で生きていくというスタイルをヒカルはとらない。

横の繋がりとしてそうなのなら、縦―といっても時間軸方向だが―の繋がりはどうなるか。同じ事だと思う。

これに関しては構造上の問題というか、上記のようにヒカルは誰かにじっくり育てられた経験が薄い為、次の世代をじっくり見守り育てるといわれてもピンと来ないのではないか。もし共感できるとするならば、同じように誰からも育てられず自ら道を切り開いてきた孤高の存在たち、という事になるだろう。そして、彼らは互いに孤立している為に群れる事はない。それは、前の世代に対してもそうだし、次の世代に対してもそうかもしれない。

この、世代のバトンを受け渡していく感覚に乏しい、という点をどう捉えるか。本当にネガティブな捉え方なのだろうか。ここは、難しい。アーティストであるのなら、その個性は歓迎すべきことであろうが、その"一世一代"である事に対しての淋しさみたいなもんはないのかな。ないのであれば、これはこれでいいのかもしれない。結論は出ない。

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毎度諄々と書いている事だが、ヒカルの曲は1曲々々が独自のジャンルの楽曲で、かつそのジャンルの最高傑作をいの一番に出してきてしまい、それで話が終わってしまう。その為、「あの名曲の二番煎じ」といったダウングレード版の楽曲や、「あの名曲を更にパワーアップさせたような」といったアップグレード版の楽曲が、ない。普通は結構あるものなのだ、というか、ミュージシャンは大抵そんな感じである。そういった形容が出来るからこその個性だし、そういった楽曲を時系列順に並べる事で落ち目になったり上げ潮になったりといった人生の浮き沈みがどんぶらこっこと描かれるのだ。前と似た曲を(劣化版であれ成長版であれ)書いてくれれば、こちらは物語を語りやすくなるのだ。

ところが、ヒカルにはそういう曲がない。昔述べたように、新しい楽曲をそれより以前の楽曲の特徴を引用して描写しようとすると、必ず3曲以上必要となる。それ位煩雑になってくるのなら、結局「その新曲風」でいいじゃないかという心境になる。普通travelingみたいな曲書いて大ヒットさせたらtraveling part 2 書きたくなるんだけどな…Automatic Part 2 は書いたけど似ても似つかぬ曲だったし…。

という訳でヒカルの音楽性を元にストーリーを語るのは至難の業だ。ならば一体、普通のミュージシャンになら付与できる物語性をヒカルはどこらへんに内包しているのか。それは、曲作りの過程そのものである。何しろ、そこにひとつのジャンルが生まれ、一個々々のアイデアがどんどんと精錬されていってやがてひとつの楽曲として纏まっていき、最終的にはそのジャンルにおける最高傑作を産み落とす。その過程は千差万別だ。ぼくはくまのように、クマチャンと戯れていた時にただ何気なく口遊んだメロディーがそのままヒカルが自身で最高傑作と称する楽曲になったような例もあれば、For Youのように2年間歌詞が出てくるまで待った曲もある。こういったそれやこれやがドラマティックでなくて何だと言うのか。ヒカルの曲作りは、それ自体が、ある時は壮大な、ある時は小気味よい物語そのものであるに違いない。

しかし。作曲家というのは自身の作曲過程を必ずしも披露したがるものではない。寧ろ、途中の姿はひた隠しに隠したいと願うのではないか。中途半端な状態で人の目に曝すのはイヤで仕方がないのだ。例えるなら、14歳の愛娘を嫁に出すようなものだ。ちょっと待ってくれまだ準備は出来ていないまだ大人になろうとしているところなんだ。大袈裟に聞こえるかもしれないが、そんなもんだと思うのだ。

ならば恐らく、ヒカルはなかなか自身の作曲過程を、断片的に事後に話す事はあれど、リアルタイムで今こんな事になってるんだけどなどとは絶対に言わないだろう。もしそれを逐一報告してくれていたら、それはそれはとても面白い物語になると思う。いちばん叶わぬ夢だが…私が追い求める「宇多田光の物語」は、きっとそこにこそある筈なのだ。

その物語をリアルタイムで共有するには、ヒカルと楽曲を共作するしかないだろう。やるしかないな。では、さて、どこから始めたらいいものか…。

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先週末はヘヴィミュージックフェスティバルLoud Park 2012に行っていた。例年にも増して大好評だったようだが、恒例となる位年を重ねてきていると、ただ目の前のプレイを楽しむだけではなく、以前のパフォーマンスと比較してどう、という楽しみ方も加わってくる。中には最初に見てから10年以上、下手をしたら20年近く経っているバンドも居る訳で、その「成長と変化」に触れる度に感慨深くなる。

アーティストに関する"物語"とはそういった時系列順に沿った「成長と変化」の記録である。その間に、バンドであればメンバーが入れ替わったり、プロデューサーの交替、レコード会社の移籍、バンド名変更なんてのもある。今目の前で演奏されている音の"由来"を、そういった物語の要素から探る事が出来るのだ。ヴォーカリストであれば、前任者と現任者であそこの歌い回しが違うな、それは何故なら…と今のサウンドの理由づけが為されていくのである。プロなんだからそういった文脈性なしで今鳴ってる音だけで楽しませて貰わないと困る訳だが、長年観てる方からするとそういった面に加えて文脈を読む楽しみが増える訳だ。

そうなってくると、時として"現在の未熟さ"にも魅力を感じるようになってくる。例えば今回のLoud ParkはDragonforceが大絶賛を浴びている筈だが、初来日時は学芸会バンドと揶揄される程に稚拙だった。私はといえば当時から彼らの事を高く買っていたので「彼らは必ず巧くなる」と確信を持って疑わなかった。私と同じように考えた人たちが以後も彼らをサポートし続ける事で彼らは順調に成長し、今や同じジャンルの他を圧倒する程の存在となったのだ。感慨深い。

つまり、幾らプロといえどもその時点での未熟さを論らうばかりでなく、その成長の余白まで見極めて支援していかないと面白い事にはならないという教訓である。その余白を愛でる事で長年の間の成長や変化も楽しめるというものだ。アーティストに物語性を求めるとはそういう事である。

翻って宇多田ヒカルにはそういう面が実に乏しい。成長や変化がなかったという方の意味ではない。日本デビュー作にして頂点に立ち所属レコード会社はおろかレコード業界全体を支える立場に立ってしまったからだ。これでは「成長の余白を愛でる」だなんて悠長な事は言ってられない。年度末の決算を支える為に今すぐ目の前で結果を出さなければいけない。現場のスタッフレベルでは寧ろ「まだこんなに若いのに」という意識はあったかもしれないがヒカル自身が誰よりもプロフェッショナルであった為その「毎回完成品を」という要求に対して真っ向から挑む事になっていったのだった。続く。

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光からツイートのリプライが来て嬉しいです。舞い上がっております。舞い上がらないように自重するなんてどだい無理な話なので今宵は遠慮なく舞い上がっておきます。嬉しい。

今回のツイートでわかった事は、光がなぁんにも変わっていない、という事。そんなのは毎日のツイートを見れば明らか過ぎる位明らかなんだけどね。

もっと言えば、10代の頃にきゃぴきゃび飛び跳ねていた頃と、可愛らしさの質がまるで変わっていない。もしかしたら、『寄る年並には勝てぬ』と言った本人も勘違いしているかもしれないが、あの若い頃からの悪戯っぽく目をクリクリさせる所は本当にそのまんまだ。昔みたいに跳んだり跳ねたりきゃぴきゃびしたりはしないけど、そうやって伝わってきた魅力と同じ魅力を、今はちょっと違うやり方で表現しているだけなんだ。なんか、今の輝きのせいでノスタルジックな気分になるなんて、こっちの方こそちょっと歳をとったかな。ここでBGMがWINGS。完璧である。光はなぁんにも変わっていない。変わっていくのは僕たちの方かもしれない。いつまで愛させてくれるのだろう。


これだけ長い間ファンをやっていると、ヒカルに興味を失っていくファンを多数見る事になる。いや、正確には目の前から居なくなるので「多数見なくなる事になる」になるのか。ややこし。

それを特に咎めようとは思えない。そりゃそうだ。残念に思うかというと、でも、それも実は難しい。それが自然な事なのだ、と受け入れる度に、どこかでどうにかならなかったのかと…思わなくなる。何がしたかったのかわからなくなる。特に悩む事もない。寂しい訳でもない。ただ時が流れていくだけだ。そう言う以外にない。

それでも光は変わらない。本当の光のように時間を感じていないのだろうか。生物としては確実におばあちゃんになっていくだろうに、多分これはこうなったらこのままなのだろう。光の当たる角度が変われば変わる横顔のように年齢という年輪はその都度形を変えながら積み重なっていくのだが、光を当てられた顔自体はひたすらずっとそこにあっただけだ。何やら、宇宙を感じる話である。

回文の話も出来やしないや。

光が変わらないように、僕たちも変わらず居る事が出来るだろうか。そもそもそうしたいかどうか。難しい。

眠い。

ただ、変わらない事は難しくても、今こうして私がそう感じたように、変わらない光に気づいてあげる事は、出来るかもしれない。ずっとそうしていられたら、どんなによいことか。わからない。

切ない。

今日は美味しいものを食べよう。いつも食べてるけど。何がいいかな。冷めたエビフライの尻尾の欠片かな、Bioの裏蓋かな。やっぱり納豆かな。何でもいいかな。平和に食べられている事に感謝。戦争や飢餓に直面しているひとたちは、豊かな私たちを恨むのだろうか。不公平かもしれないが、公平とは人間の発明なのだから当たり前だ。

だからって、ねぇ。


何も考えられなくなるな。

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作品というひとまとまり、もっといえば作品とは単位に成り得るものであり他者との相互作用によって成り立つものでそこでは社会性、流通性といったものが問題になってくる。

卑近な例を出そう。新世紀エヴァンゲリオンは当初その無茶苦茶な制作体制も話題になった。スケジュールが破綻し、テレビ版の第25話、26話は"あんなこと"になってしまった。今ニコニコ生放送で今一度テレビ版の放送が始まっているから気になる人はチェックしてみて欲しい。で、映画もまたすったもんだの末というドタバタ感。作品の内容にしろ制作体制にしろ"青い"感じが特色であった。

しかし新劇版になってこういった評価は一変。相変わらずギリギリまで作業はしているらしいが総てのスケジュールが順調に進んでいる。随分と"大人"になったなぁという印象を受ける。

こうなってくると周りものっかりやすい。テレビ放映時からは考えられなかったような大手たちが宣伝に携わるようになり、知名度はグンと広がった。作品体制の健全さと作品内容の健全さ(と言い切れるかどうかは今後の展開次第だが)がリンクし合いながら、作品の流通性と社会性を高めていったのである。

宇多田ヒカルの場合はその点非常にプロフェッショナルに進んできている。残り数時間というギリギリで間に合わせてきたとはいえ締め切りをオーバーし発売日をずらした事は一度もない。あるのは、体調不良によるコンサートやテレビ出演やプロモーション活動の中止である。長くやっていればこういった突発的な"キャンセル"は幾らでもある。確かに周辺に迷惑をかけたかもわからないが、それは"計画が破綻する"といったレベルではない。宇多田ヒカルはアーティストであると共に社会人としてもキッチリ振る舞ってきている。

人間活動とは、そちらとは逆に、そういった流通性や社会性を、個としてのあり方を蔑ろにしてまで保証してきた事の補償期間、とみる事も出来る。社会生活とは対局にある"野生生活"風味。一個の生命体としての自然さを取り戻す作業。

で、前回の話の続きである。社会的存在としての"宇多田ヒカル"の流通度は桁外れで、ツイートで熊の子どう?いや違う、熊野古道の名前を出す出さない程度の事でも悩まなければいけないレベルなのだが、昔指摘したように、そういった"表向き"が変わらないように維持する為に、人間的な、ひとつの生命としての鼓動をリフレッシュしているのだとすれば、まるでそれは、同じストーリーをなぞっているようでいて全く違う方向に進みつつある新劇版新世紀ヱヴァンゲリヲンのように、いつか違いが表に出てくるものなのかもしれない…

…って結局EVAの名前出しちゃってるな。触れない、って言ったのに。次回軌道修正しないと。果たして出来るか!?

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宇多田ヒカルの音楽性のパースペクティヴは、ジグソーパズルのようなもので、今は向きも場所もわからないひとつひとつのピースが目の前にバラまかれているだけなのかもしれない、と最近思うようになった。

もしそうだとすると、ひとまず今目の前にあるピースたちは組み合わせると1枚の絵になるのだろうか? だから心置きなく人間活動に入れた? 私にはそうは思えない。楽曲のクオリティーとは裏腹に、音楽性のパースペクティヴはまだまだ足りていないように思う。光の物語は未完なのだ。

いや、この「物語」というパラダイム自体が、違うのだ。一時期このblogでも「物語を、物語をくれ」と盛んに吼え立ててみていたが泣き犬の遠吠えに過ぎなかった。負け犬ならまだいいのだが勝負の土俵にすら上がれずペソをかいている意気地なしだ。いやそれは言い過ぎかもしれないが、光に"物語"という時間軸に沿った作品性を求める事自体が間違っていたのだ。

そう、作品性。物語という言葉よりもっと一般性の高いこの言葉。つまりは「ひとまとまりのなにか」、要するに「1」である。作品性とは1なのだ。光がUtaDAの2ndアルバムに「This Is The One」とつけたのはそういう事だったのか、と今頃合点がいっている次第。

私が作品性という言葉を使う時のイメージ、ひとまとまりの何か。もっと言えば名前で呼べるという事だ。だから人は既にそれだけで作品である…という風に作品性という言葉を使う訳だ。「ひとつになりたい」「1になりたい」という願望は人間にとって根源的なものだが、既に1人の人なのに人は「一人前になりたがる」。こどもは人ではないのだろうか。或いは、一人ではないのだろうか。

ここに、ひとつのテーマが立ち上がる。「人は一人ではない」という時、普通であれば「他にも人が居るよ」という事を言う。2人、3人、4人、5人、、、という訳だ。関係ないがラジオのニュースを聞いてると時々「ごにんたいほ」を「誤認逮捕」でなく「5人逮捕」と一瞬聞き間違える事がある。汚職事件とお食事券みたいなもんか。それはさておき。

もうひとつの「一人ではない」とは「一人前ではない」という意味だ。1人、2人、3人、、、ならば1より大きい数の話だがこれは「1未満」の話。人として"ひとりだち"できるとは何なのか。

これは、現代人には難しい問題だ。何故なら、社会に出て働いて自立するという事は100%他者と協力して生きるという意味だからだ。世の中には幾らでも本当に自活して生きている人は居そうだが、だからといって現代人の生き方は真に自活している人間と較べて"劣って"いるのだろうか。

これがヒトのジレンマである。社会に役に立てば立つほど専門性は高くなり、人として偏ってくる。社会が高度に発達すればする程、専門職は先鋭化する。事実、今の都会に暮らしている人は洗濯板も使わないし調理器具だって要らない。洗濯も炊事も出来なくても生きていけるのだ。そして、それが推奨されているのである。何も出来なければ出来ないほど、洗濯機も乾燥機も食洗機も電子レンジも売れる。それで社会は活性化する。山奥でひとりで自活している人とどちらが"豊かな生き方"なのかは意見が別れるだろうが、生きていく為には社会を高度化した方が確率が高いのは事実だ。山奥で破傷風にでも罹ったらどうするんだ。現代人には医者が居る…

…って話が無駄に長くなった。要は「Wild Lifeと人間活動と作品性」について語りたいのだ。以下次回。

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宇多田共和国のツイッターアカウント@hikkicomが始動し、毎朝【今日は何の日宇多田ヒカル】を呟いている。今日は2年前の例の「ベスト盤騒動」について[今の気持ち]を語ったメッセの日なのか。当時はSCv2を発売するちょうど1ヶ月前。この発言は様々なメディアで取り上げられた。

皮肉な事に、今やこれだけ意志疎通が出来ていなかったレコード会社相手に、新しく世界契約を結んだEMIが吸収されてしまっている。ヒカルが『残念』とまで言い切った人たちと、これから仕事をしていかなければならないのだろうか?

結論から言うと、わからない。EMIグループを傘下に入れたと言っても、誰がお金を持っているかという違いしか生まれないかもしれない。書面上では話が変わっていても、わざわざ現場のオフィスを改造する訳でもない。特に今までうまくいっていたレーベルの体制を変える必要はない。寧ろすげかえられるのはヒカルの言う『上層部』の面々であるかもしれないのだ。特に、Utada The Bestに関する決断は中長期的にみれば明らかに失態だ。短期でみれば件のメッセですら「しめしめ、話題になった」とほくそ笑んでいた位かもしれないが、そういう短期的な業績を追い求めている人はそんなに長く居座れないだろう。この会社の人事異動をチェックしている訳ではないから実際の所はどうなっているのか知らないが、今度ヒカルがEMIレーベルで活動を始める時、そういった"上層部"の人たちと顔を合わせる可能性は低い。流石にそれ位は親会社(と言うのかな)の連中もわかっているだろう。特に宇多田ヒカルというビッグネーム相手では。日本国
内に限ればあらゆるレコード会社が移籍先として手を挙げてくれる筈だ。

とは思っているものの、見方を変えればヒカルのCDの売上は総体的には落ちている訳で、SCv2の枚数だと、逆に"テコ入れ"をしよう、という力作用がはたらくかもしれない。50万枚も売ってそう思うのは贅沢な話だが、それ位にネームバリューが大きい人なのである。

気の早い話だが、もしEMI内レーベルで業績不振な部門があれば、遠慮なく解体されるだろう事は目に見えている。そういう離合集散が仕掛けやすいのが大会社グループの特徴だろう。今までのチームで仕事を続ける為には、「新しい上層部」の皆さんに納得して貰える"結果"が必要になってくる。果たしてどこまで"売りに"くるのか。

でも、今はヒカルさんはそんな余計な事は考えず人間活動を満喫してくださいね~。まる。

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EVAQの見所のひとつに、新劇版と旧劇版の関係が描かれるかどうか、描かれるのなら両者はどういった関係なのか、という点がある。

いちばんの注目は、アスカ・ラングレーの存在だ。昔惣流今式波だが、EVAQの予告編に登場したアスカは惣流の方ではないかという推測が当初から出ていた。タイムループする世界なのかタイムリープする世界なのかパラレルワールドなのか…。勿論まだまだわからない。

となると、例えば新劇版主題歌と旧劇版主題歌が激突する事はあるのか?という浅はかな妄想が頭を過ぎる。余程工夫を凝らさないとそんな事は無理だろうが、ここまで来たら何でもありだろう、という開き直りも大事かもしれない。

ヒカルが自分の事をEVAのキャラでいちばん近いのはアスカ、と言っていたのはいつどこでの話であったか。今、序破を経て同じ質問をヒカルに投げかけてみたいものだ。惣流さんと式波さんでは性格も行動も随分と違う。ヒカルが似ていると言ったのは惣流さんの方だろうが、式波さんにはどれ位共感するか。はたまた、流石にもう30歳近くにもなると14歳のこどもの心境とは距離が出てきているのか。

と言ってもBeautiful Worldをリリースした時点で既に24歳だったのだから関係ないかもしれない。それにしても長い。序から既に5年が経過しているのにまだ少なくとも2作品を残しているのだ。一大プロジェクトである。これだけの時間を掛けていても、ファンの大勢を占める意見は「時間が掛かってもいいから納得のいくクォリティーを」というものだ。これだけ信頼されている作品も珍しいが、それだけ皆序破を楽しんできたという事か。

しかし、それだけにこの膨らみきった期待の大きさを裏切る事は出来ない。少しでも納得のいかない内容であれば鬼のような不満の数々が噴出するだろう。そんな針のムシロのような状況で、ヒカル以外の人が歌っていたらそれはもう酷い事になる。有り得んだろそんなこと。

それだけにヒカルにはプレッシャーだ。よくもまぁ破ではあれだけの好評を得られたものだ。何しろあの時はThis Is The Oneと点線を並行して仕上げていて、リミックス作業に携わる時間なんてなかったハズである。なのにあの出来あの評価。元の楽曲の強さが際立っているとはいえ、やはり何か「流れを掴んでいる」という感触が捨て切れない。ヒカルは次もやってくれるだろう。根拠薄弱だが強固な信頼がそこにはある。

最初にBeautiful Worldを作った時点では式波さんの事はまだ知らなかったハズだ。今、そういった"変化"も踏まえた上でBeautiful Worldを生まれ変わらせたなら、どういったサウンドになるのか、今までさんざ語り倒してきた。後3週間余り、そろそろこの話題は封印して頭をカラッポにして映画を観に行こうかな。どうしようかな。ちょっと考えておきますね。

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EVAQ公開1ヶ月前となって大体のスタッフクレジットが明らかになったが主題歌についてだけはまだ何の情報が掲載されていない。その癖に今のEVA公式サイトのトップ絵は2人がひとつのプレイヤーとイヤフォンで音楽を聴いている図だ。先行映像もピアノ押しだったし、ここまで音楽重視の姿勢を打ち出されては何かあると勘ぐらざるを得ない。一体どういうつもりなのだろうか。

それにしてもこの絵は示唆的である。含意については恐らく既にマニア達が挙って解釈論を展開してくれている事だろう。見方によってはこれは同じ歌を2人が同時に聴いている、と捉えてもいいし、同じ歌の左側と右側、それぞれ違う音を聴いている、とも捉えられる。2人がやや背中合わせなのも想像をかき立てる。自分の美しさを知らないのはシンジの方だろうかカヲルの方だろうか。確か、Beautiful Worldでは歌詞カードはBeautiful Boyと単数だが実際にはBeautiful Boysと複数形で歌っているようにも聞こえていたハズだ。もしかしたらレコーディングする段になってシンジの事だけでなくカヲルの事もまたヒカルの頭を過ぎったのかもしれない。

更に、携帯プレイヤーといえば序で25曲目と26曲目のループから27曲目に漸く飛び出す場面が想起されるだろう。未完に終わったテレビ版25話26話の再構成はその後旧劇版で挑まれたが、更にそれをどう展開させてくるか。遂に破においてそれはいよいよ露わになってきていた訳だが、シンジとカヲルの2人が27曲目の左側と右側をシェアし合っていると考えると興味深い。そもそも「Q」という記号の図柄そのものが「円環の内側から何かが飛び出す」或いは「円環の中に何かが飛び込む」さまを示唆しており、ループからの脱出を演出した携帯プレイヤーがQを目前にしたキービジュアル(とは言わんか)の主役となっているのは自然といえよう。

ここまで「歌」を取り巻く環境が整っていて宇多田ヒカルが出てこなかったらタチが悪い。旧劇版からのファンの声がWebでは大きい為忘れがちだが、今や大半のファンは序破からEVAに飛び込んだのだ。EVAの主題歌といえば宇多田ヒカルのBeautiful Worldなのである。あとはそれを3作目にしてどう新しく見せてくるかだけだ。なのに、公開日まで何の情報解禁もないのだろうか。酷な話だなぁ。

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「楽曲の質を上げる」という透明な目標・意図・意志・傾向・性向を押し進め続けるのは難儀に過ぎる。だから今人間活動を通じて一旦登った山を下り、次にもっと高く登れる山を探している所だと思う。確かに、SCv2より質の高い楽曲を作るのは最早無理だったろう。

しかし、となると次に復活するタイミングというのは難しい。今までは富士山を登っていた。今度はエベレストを登ろうという事なのだが、ならば人前に姿を現すのはいつ頃がいいのだろうか。エベレストを登り始めるところからだと、富士山の山頂からの景色を見慣れた我々には退屈に映るだろう。贅沢な話だが。かといっていきなりエベレストの中腹の"富士山の山頂より高い地点"で姿を現すというのも何だか現実味が薄いような。そんなにパワーアップ出来るものなのかな。

歌手としてのパワーは、肉体的にはいつかは衰えてしまうものだろうが、果たして作曲家というのはどこまで成長を続けられるのだろう。クリエイターとして一番遅咲きなのは一般的に映画監督で、こちらは70歳80歳になってから最高傑作を撮る人も居そうな感じである。具体例は思い浮かばないんだけども。

若さを要求する芸術もあるだろう。体操や新体操は20代前半までの女子を要求したりする。フィギュアスケートなんかもそういう雰囲気があるだろう。まぁそれを言ったら大抵のスポーツは25歳位が体力的にはピークになるのだが。

エステティックな領域では数学者だ。こちらもスポーツ同様、大抵の大物は25歳までに結果を出す。ワイエルシュトラスが40歳になってから…なんて事をわざわざ言われがちなのは、それが珍しいからである。

作曲家は数学者に近い印象もある。モーツァルトやベートーベンといった大作曲家たちは早熟も早熟だ。その上、作風は幼少の頃に確立している。クラシックの作曲家たちも、有名どころは早咲きが多い。

昔とは状況が変わっているとみる事もできる。栄養状態や治安が改善され、健康に長く生きられる時間が長くなった現代人はそれだけ力を発揮できる機会が多い。昔の天才が早熟だったのは、なかなか健康に歳をとれる人が少なかっただけかもしれない。今の時代なら、作曲の質を生きている間中増し続けられるのかもしれない。

実際、今年の2月に紹介したように、御大サー・ポール・マッカートニーは御歳69,70歳にしてThe Beatlesの全盛期と較べても何ら遜色ない名曲を書いている。結局はやる気の問題かもしれない。

果たして、ヒカルは今まで以上に楽曲の質を上げる事が出来るだろうか。エベレストの中腹から富士山を見下ろす日がいつか来るのだろうか。ファンは無責任な存在だなぁと思う。期待するだくしておいて、自分からは何もしない。いや、実際見守ってる位しかやれる事ないんだけどね。あとはヒカルのやる気次第。いちばんの問題はやっぱりそこなのだが、相変わらずそのいちばん大事なところに当て嵌められる答を持ち合わせていない。どうやったらヒカルに「もっといい曲を書きたい」ともっと思わせられるだろうか。この日記の目的はそれ一点に集中していると言ってもいい。それこそが私にとっていちばんの希望なのである。

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日本のアニメは国際展開が著しいが、なかなかその実態の情報は門外漢に入ってこない。恐らく、この文化を最も支えているのが海外の違法公開サイトだからだろう。有料ではなかなか購入する機会がない中、物凄いスピードで各国の言語に翻訳された字幕をつけて次々と公開されている。あのスピードをオフィシャルで出そうと思ったら難しいだろう。ボランティアの強さとでもいおうか、こういうのは多数の利用者の中からひとりでも出てくればよい。"志願者"というのは必ずといっていいほど居るものだ。

果たしてEVAの国際的人気は如何程のものなのか。ゲームのキングダムハーツはヒカルが日本語版と英語版の両方を歌った。最初からそういう国際展開を睨んだ構図だったか。EVAは今独自企業が牽引する所に大手の宣伝媒体が乗っかる形で動いている。海外でも同じように展開したがるエージェントが現れるかどうか。

つまり、その際主題歌の扱いはどうなるだろうという話だ。J-popファンもそうだが、ジャパニメーションファンもそれが"日本製"である事に価値を見いだしている節がある。無理に自国語で歌詞のわかる歌を歌ってくれなくても、寧ろ日本語の歌である事に価値を見いだす。それなら無理に差し替える必要はない。

キングダムハーツの場合は相手にするマーケットの大きさが違う。ライト層を取り込む事、日本がどうのというのを気にしない人たちも相手にするのが条件である。EVAが将来そのレベルのコンテンツになるならば、Beautiful Worldの英語版も作られるかもしれない。その時の機運、タイミング次第だが。

そう考えると、もしEVAQでBeautiful Worldが英語バージョンで披露されるような事があれば、逆にそれは映画自体の国際展開も示唆する事になる。そうなったら序破はどないすんねん、となるけれどそこは後から差し替えても大丈夫な構造になっている。BWPbAMは特にオリジナルより洋楽寄りなので英語で歌ったらハマるだろうね。

とはいえ。ヒカルからしたら光やPassionと違い英語版を全く想定していなかった楽曲に英語詞をつけるのは技術的にも心情的にも難しそうだ。それなりの必然的な理由がみつからない限り、英語版BWの登場は妄想の域に留まりそうである。

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SWVの音を聴いてみて、即座にCubic Uのサウンドを思い起こした人も多かろう…って書いてはみたものの、RT数が合わせて400ちょっとでは心もとないというか…多くはないの、かな。どうなんだろう。

昨日の共和国のリツイートによればヒカルからツイートがあった時に偶然SWVを聴いていた人も居たらしい。100万フォロワーの為せる業であろうか、それとも私が思っているよりSWVのファンは日本にも多いのか。15年ぶりの新譜ということだが(てことは4thアルバムになるのだろうか?)、ビルボードでは初登場25位と「お、おう…」な成績である。失敗でもないし大成功でもない、何とも言えないまずまず感。尤も、前回も言ったように私聴いてないので数字だけで話しても仕方ないよね。

話を戻す。実はCubic Uについては無意識日記では取り上げるのを意図的に避けていた。音楽的にどうの、というのではなく「書くネタが尽きた時の為にPreciousはまるごと取っておこう」という6年前からの作戦だったのだ。いやホンマやで。この朝夜連載が始まった時は「40回分位は書くネタあるんだけどその先はどうしよう…」と思っていたのだ。いやいやホンマやって。そういう不安を抱えていたので、兎に角どうしようもなくなるまでCubic Uの話はなるべくしないでとっておこう、いざとなったらPrecious特集組もうと画策してたんだよ。

でもお陰様というべきか何なのか、人間活動に入って以降ですらPrecious特集に入ろうという気配は私の中にはない。ここまで来ればとりあえず年内はEVAQが決着するまでは身動きが取れなさそうだ。特集というのは思考の流れを支配してくれる為、一度始めると、例えば昔のEXODUS歌詞特集のように何ヶ月も脳がそっちにかかりっきりになるのだ。あの時は1曲1週間、各曲平均で10回ずつ位書いてた気がする。なかなかの密度であった。果たしてPrecious特集がそこまでになるかというと難しい所だが、こればっかりは始めてみないとわからなぃ。何といってもこのテのサウンドを解析する為の語彙を私は殆ど持ち合わせていないしな。それでも何か書いちゃうのが芸風なんだけど。

と、こういう風に書き綴っておいて橋桁外しも甚だしいけれど目下の所はCubic U特集が始まる気配はない。総てはEVAQが落ち着いてから。なにしろ、Qのエンディングの後には"更なる次回予告"が待ち受けている筈なのだ。その公開時期によってはまたもヒカルがどれ位関わってるかに焦点があてられ、脳はずっとそっちに向いたまんまだろう。やれやれ、私はいつになったらCubic Uの話が出来るのだ。これから何十年もそこだけポッカリ空いたまんまの方がもしかしたら幸せな人生なのかもしれないけれどさ。

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