無意識日記
宇多田光 word:i_
 




いや~やっと「魔法少女まどか☆マギカ」(wiki)を観終わった。どうせならリアルタイムで観たかったが、実際に鑑賞してみると、リアルタイムでの高揚感の補助などなくても存分に楽しめる傑作だった。よかった。ついでに、今日は実際にヴァルプルギスの夜の日なんだとさ(註:作品中にこの名前のキャラが出てくる)。こういうタイミングで観終わるあたり、実に私らしいな、とも思う。何の話だ。

ストーリー構成が魅力的な作品なのでネタバレなしで書こうと思うが、はてさてどこらへんの時期でネタバレありでストーリーを引用しようかちょっと悩む。BD/DVDリリースが終わるまで待つのが礼儀ってもんな気がするが(なんだかんだでローカル主体の地上波放送だったもんね。ネット配信もあったけど)、最終話が出るまで5ヶ月もかかるという話らしいので、そこまで引っ張るのもどうかなぁと思う。まぁ、その点は流れに任せるよ。

で。この作品についての論評は(既に完結したので)もうきっとネット上に山のように転がっているだろうから私が何を言っても仕方がないのだけれど、やっぱり思う所は多々あったので、メモ代わりに幾つか記しておきたい。

基本的に、私は所謂アニメファンではない。キャラ的には意外かもしれないが、名作と評判が出たもののうちの極一部をあとからツマミ食いする程度の楽しみ方しかしていない。基本的に、30分もじーっと画面を観ているのがムリな性分なので(大概寝てしまう)ファンの皆みたいにワンクールに4つも5つも(実際は毎クールごとに50作品位新作があるっぽい…)チェックするなんて無理なのだ。

で、この「魔法少女まどか☆マギカ」もご多分にもれずワンクール12回完結のアニメだったのだが、“前フリ”ともいえる最初の2回を除いて、私が眠気に悩まされずに見れた。これだけでも傑作といえる(そんな理由で?)。気がつくと、30分12回といっても、実質各回CMをとばせば25分足らずといったところで、合計で5時間である。2時間半の映画が前後編で2本だと思えば、そんなに長い作品でもない。更に、それがちゃんと12分割されてストーリー構成されているので受け手側としても物語の整理がし易い。

「作品」というものを考えたとき、その構成時間と提供間隔は重要な問題であるが、後追いで追いついた身としても、この作品をテレビアニメとして提供したことはいい方法だったと思える。勿論、作り手側の理屈としてはまずテレビアニメという枠があって、それにあわせて脚本を構成する、という順番だろうから話が逆なんだが、受け手側としては脚本家の発想がテレビアニメ枠向けだったのは僥倖と思える。

で、そういった間隔で提供される作品については、すっかり定着した「ウェブ上での議論」というものが作品を楽しむ上では不可欠になっている。私はそういうのに参加しない(というか上記のように基本的に後追いなのでしようと思っても出来ない)ので、その楽しさを理解しているとは言い難いんだが、今回この「魔法少女まどか☆マギカ」で盛り上がった議題がふたつあって、ひとつは「誰が(本当の)主人公なのか」という点、もうひとつが、そのハラハラドキドキの展開から「ちゃんとハッピーエンドになってくれるのか」という点。この2点がリアルタイム視聴者の興味を惹いていたっぽい。

キラクにアニメを観るような私にとっては、両方ともあまり関心のあることではない。別に特定のキャラだけを注視しなくても、沢山の登場人物それぞれの個性を眺めて愉しめばいいんだし、どうせ絵が動いているだけなのだから、別にその中がハッピーだろうがバッドだろうが現実には誰もケガしてないし死んでもいないのだから気にする気にもならない。

しかし、そうやって傍観者諦観者として外から観ていて、つまりこの2点に関心が出てくるのはひとつの現象の裏表なんだな、ということに気がついた。つまり、視聴者が誰に感情移入して物語を楽しむか、という事だ。何故、たくさんのキャラクターが出てくる物語のなかで基本的にたったひとりのキャラクターを特定して主人公としなければならないのかというと、感情移入の対象が一貫していなければならないからだ。その主人公と同化し、同じように悲しみ同じように喜ぶことで世界の中に入り込んでカタルシスを得ることがアニメという媒体を楽しむ為の基本的な作法なのである。

となってくると、当然視聴者は主人公と同化しているのだから、物語の中で主人公はハッピーエンドになってもらわないと困る。単純に主人公が自分の分身の役割を果たしているから、でもあるし、また、上記のような“作法”に則った娯楽である以上そのアニメの描く世界で得られたカタルシスを現実世界に還元する際に、カタルシスに対して肯定的な態度でなければならない。つまり、「あぁ、いいアニメだった」という感想を現実の世界で呟く為には、主人公との同化が解ける瞬間(つまり、アニメのエンディング)においてそこまでの全体験が「よい結果を齎した」という“(現実世界での)事実”に転換してくれなくてはならない。

即ち、アニメでの主人公同化願望とハッピーエンド願望は裏表なのである。第1話から一貫してひとつのキャラに感情移入し、それが最終話でハッピーエンドで終わることで、ファンタジーの世界とリアルの世界の橋渡しが可能となるのだ。主人公が特定されないと、その世界に入り込みづらいし、バッドエンドで後味が悪いと、その世界から抜け切れない。だって、なんとかしてハッピーにしたい、という後ろ髪引かれ感が残っちゃうからね、その世界から戻りたくなくなってしまう。


、、っとと、嗚呼、前フリが長くなりすぎて肝心の「ひかる♪ムジカ」なパートまで来てないっすっ。次回に続くということでっ。



P.S. ちな!みに、私が「魔法少女まどか☆マギカ」でいちばん感情移入できたのはキュゥべえでした。性格が出るなぁやっぱり・・・(笑)。


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光からのツイートがあって、フォロワーもあと300人足らずで60万人とまぁツイッター様々なのだが、今日の書き方からすると「ん?さてはメンション全部読んでる?」という気が何故かした。ウチではTweenで光宛のメンションをチェックはしているのだが流石に全部は読み切れないし、ぶっちゃけ面白いツイートなんて滅多にない。これを全部読んでいるとしたら大した精神力である。

あぁ、そうか、タワーレコード渋谷店のメッセージボードの写真を観て(全く本文と関係ないがLIV MOONのアマラントスの翼は今年度ベストチューン候補だな。ドラクロワの女神も素晴らしい。余談終了。)光が嬉しそうにしていて、更にメッセージノートも読みたがってる風だから、「12年間死ぬほど大好きって言われ続けてまだ言われ足りないのか!?」と思ったのか私は。

人を愛するだなんて(これまた本文とは関係ないが、Moon Safariっていいバンド名だな。ルソーのThe Sleeping Gypsyみたいな世界を想像するよ。余談終了。)結構簡単なことだと思う。それよりも愛され続ける方がもっとずっと難しいし、その愛を全部受け止められるとなるともう想像を絶する。しかし、端的にいえば、数万人を相手にコンサートを開くというのは、それが出来る人だからこその"あたりまえ"なのかもしれない。

が。Wild Lifeのハイライト、ぼくはくま。あれ、今すぐ記憶の整理がつかないけれど(またまた関係ないけど、赤松健って確かに羽生善治に似てるよねぇ。Jcomi頑張ってください応援してます。)、もしかしてあれが国内ぼくはくまナマ歌初披露か。テレビでも歌ってないよなぁ。あの時の光の足取りは一生忘れん。るんるん気分とはあのことか。周りに何万人居ようが、あの歌に対する、くまに対する光の愛情はその数万の光に向けられた愛情の総和を遙かに凌いでいた。という訳で前言撤回。人をちょっと愛することは簡単だが、あれだけ何かを深く広く強く楽しそうに愛せるのはやっぱ才能である。

今更だが、なんだかんだでHikkiは自分のファンのことが大好きなのだ。別に普段それを疑っている訳ではないが、なかなか自分で幸せになろうとしないあの態度を見ていると、「俺ら要らないんじゃね?」と思うこともしばしばなのだ。まぁ不要といわれようが邪魔といわれようがついていくんだけどね。「いや、あなたと道がたまたま同じなだけで」とか嘘ついて。んでも、そうね、別についてこられてもいいんだろうな。大きな愛がそこにあるから。

あまり普段使うのが好きなことばじゃないんだが、たまには呟いてみるか。ああ、なんか安心した。

で、これまたこれまた関係ない話なんだけど…()

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毎日原発の話がトップニュースになっていて、少々ウンザリしている。水位が上がった下がったときいてもこちらはなんもしようがあらへん。そんなことより風評被害防止放送に時間を割いてくれと思う。のだがメディアは逆の方向に動いているようだ。

勿論彼らもプロなので、どのニュースをどこに持ってきてどれぐらいの時間を使うかについてもちゃんとした理由があるのだろう。想像するに、視聴者聴取者が今興味があることを優先しているんだろうが、広告収入モデルの企業ならともかく(以下略)。

兎に角、今福島で起こっていることはとても福島ローカルな話だ。現地の人たちにとってはまさに死活問題だが、その理由の大半は過剰な報道による風評被害だ。報道の扱いが過大だからみんな無駄に騒ぐ。福島に済むAちゃんが今日インフルエンザで寝込んでいることを全国ネットで放送するか? Aちゃんが苦しんでいるのは可愛そうだし対処もしなくてはならないし、またインフルエンザはいつ誰の身に起こるともしれないし伝染するかもしれないからこれは全国民的な関心事たりえるので、ってんで刻一刻変化するAちゃんの容態を毎日ニュースで延々放送するのか? 大事なのはインフルエンザ自体への知識と現在の状況の情報でありAちゃん個人の話はするべきではない。ニュースで流すんなら、為替や株価、天気予報のように各地での放射線量の値でも流しておけばよい。それでも無為に不安を煽るんだろうなぁ。

宇多田ヒカルも、過去報道等による"風評被害"に曝されてきた被害者のひとりだ。いや、最も被害を受けてきたうちのひとりというべきか? 根も歯もない噂話を、たとえ当人たちが呆れながらでもされることはかなりの苦痛であっただろう。情報の真偽など無関係に、ただそうやって私生活の話をされてると思うだけでぞっとする思いだ。それを有名税だと指摘する声もあるし、実際熱愛報道でドラマの宣伝をしたりもしてはいるが、だからといってそれが許容されるという論理はヘンだ。情報の真偽以前に、そうやって騒ぎ立てること自体に批判の目を向けて欲しい。福島で寝ているAちゃんはそっとしておいてあげようよ。

今の光は、そういった行き過ぎにも対処できるようになっており―エキスパートといっていいだろうな―昔のようにただナイーブに傷つくということも少ないだろうが、だからといっていい気分がするわけでもないだろう。人間活動中、どれだけ報道が自粛してくれるか、うっすらほんのり期待したい気持ちである。

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銀賞  


Deep Riverといえばその名の由来は小説「深い河」、作者は遠藤周作だが、彼が何度かノーベル賞の候補として名が上がりながら獲得できなかったときいて、妙に納得してしまった覚えがある。

ノーベル文学賞というものがどうやって選出されるかは知らないが、取り敢えずシンプルに文学の最高峰を選出する賞だと勝手に思い込んでいる。その基準からいえば、遠藤周作が如何に優れた作品を書いたとしてもどうにも選出しにくいと思うのだ。

彼の悪戯っぽい性格は、対談をしたときに散々からかわれたというさくらももこがエッセイで詳細に書いていたかと思うが、その、"「毎日何を食ってればあんたみたいな人間になれるんだい?ひどいヤツだな」「いやぁ、私は人を食って生きてますから」"な性格は(って今のヤリトリの元ネタが思い出せない~)、まさに人が他に居て初めて成り立つ類のものであり、その特質は作品の色合いにくっきり現れている。

人を食った、という表現が適切でないならば、抜け目ない、とでも形容しようか。ありていにいえば"ひとを出し抜こうといつも目をギラつかせている"人であり、深い河を読んでいる時もその視線を妙に感じてしまっていた。

彼のような人が作品を成す場合、世界のどこかに彼のギラつく視線を受け止める"誰か"が居なければならない。その誰かはもしかしたら周作に騙されるかもしれないし、出し抜かされるかもしれないし、表面的な小説の技巧や娯楽性で上回れるかもしれない。それでも、遠藤周作はいちばんにはなれない気がしてならない。事実、深い河は傑作でありその重々しいトーンにさえ抵抗がなければ万人に薦められる作品ではあるのだが、ことノーベル賞のような「いちばんを決める賞」に選ぶかというと、違う気がする。サー・クロコダイルは「おまえに勝てなかった"だけ"で涙をのんだ"銀メダリスト"は(この海には)ごまんといるんだぜ」と叫んでいたが、たとえ勝負に勝てたとしても(この場合は)"銀メダリストはどこまでいっても銀メダリスト"だ、と(残酷なことを)私は云っているのだ。

光の場合、(少なくとも宇多田ヒカル名義では)スタートからぶっちぎりで"いちばん"だった。日本ノーベル音楽賞というものがあったとすると1999年は間違いなくヒカルの受賞だっただろう。それ以後の同業者達の評価から考えても、その別格ぶりは突出していた。

トップに立つ者の孤独、という在り来たりの表現は、しかし、光には当てはまるかどうか。誰かが後ろをついてきている気配さえないのである。前も触れたとおり、ライバルすらも見あたらず勝ち負け云々の前に土俵がない。

ここまで極端に別次元に孤高な"いちばん"の光が、何故、生き馬の目を射抜くようなギラついた目線を他者に投げかけていくことで小説を構築する遠藤周作の作品に傾倒したのか、或いはアルバムタイトルとするほど気に入ったのかはちょっと不思議だったが、もしかしたら光にも"銀メダリスト・フレーバー"、即ち輝く誰かの後ろ姿を追う精神がどこかにあったのかもしれない。

あったとすれば、そして背中を追う相手が居るとすればもうこれはひとりしかいない。40年以上前に同じような立場の"いちばん"を経験した母である。

母をみるとき、光は、遠藤周作が敬虔なクリスチャンであったように、その輝きの後を追い、無批判に様々なことを吸収してきたのだろうか。

ならば40年後、光の背中を眺める視線が新しく居るかどうかに興味が出てくるところだがなんだかデリケートな話になりそうなので今夜のところはこのへんで「目を閉じる」ことにしますかな。

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光がキッパリ人間活動に入ると、たぶんどうにも"話し掛け"にくくなる気がする。普段のメールやメンションだって、そりゃ読んでくれると思って書いているんだけど、それ以上に光から反応があるかもしれないという"期待"があるからいえることばもあるのだ。

関根勤が自身の妄想癖について(妄想だけのDVDを出す位なのでまさに妄想のプロである)「まるっきり有り得ないことは妄想しづらい。もしかしたら万が一あるかもしれないと思えるラインで妄想する」みたいなことを云っていたが、こちらも妄想ばかり書き続ける身としてその点大いに肯ける。

妄想のポイントは、どの点が非現実的・非日常的であるかのラインを、明示はしなくても明確にしておくことだ。先日紹介したマンガ「密リターンズ」も、ファンタジー風味をどのラインまで盛り込むかが非常に微妙なラインをついていて、そのギリギリの成立感もまた作品の魅力だったが、後半にWJ編集部お得意の「テコ入れ」によってそのバランスを大きく変化させてしまい人気を急落させた。Twitterをみても「このマンガ、後半どうなったかの記憶がなかった」という呟きが複数あったので、多分本当に人気が落ちたんだと思う。つまらないと言われているうちが華、本当に何にもないと読まれなくなって記憶にも残らない。「人が死ぬのはいつだ?」「忘れられたときだ」―うーん、その通り。

話が逸れた。つまり、光との距離感が変わると、妄想の質も多分変わるのだろうなという話である。アイドルに恋人が出来たり結婚したりした時にファンがあれほど酷く狼狽するのは、何も本当に自分が付き合って貰えると期待している訳ではなく、正確にいえば妄想の方向性が変わってしまうからだ。純愛路線からNTR路線への変更とか、妄想作者としては実に負担である。

光の場合、「私だけのヒカルちゃん」な為妄想範囲の広さは通常のアイドルを上回る。浮気属性まで許容してしまったせいでそのバリエーションたるや…という話は長くなるからいいとして、女子に対しても妄想の門戸を広く開放している点は評価に値する。しかも別に百合属性に傾倒する訳ではない、Making LoveやPrisoner Of Loveの世界の住人になれるところが肝であり…

…という話の続きを書くのは大変そうなので止めておくけれども、この、架空の(というのか?)"話し相手"としての宇多田光を人間活動中どうするかは、我々妄想族にとって暫く課題になることは間違いないだろうな。うん。まぁ、あれだ、「ヒカルちゃんは元気でやっていますでしょうか、私は元気です―」的な文通書簡路線がいいかな―(以下妄想

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あらあら、Can't Wait 'Til ChristmasのPC配信がゴールド認定されたのか。めでたい。クリスマスシーズンを過ぎても売れ続けていたとは流石の楽曲の素晴らしさというべきか。

今回、SC2のプロモーションでやや心残りだったのが、シングルカットがなかったこと。これは"制作行程上の都合で"そうなったらしく、多分折りが合えば従来の意味でのシングルカットかどうかは兎も角なんらかの集中的なプロモーションがあったのかなと思い返してしまう。

もしかしたら、シングルコレクションとかベストとかいう話を耳にしただけで、新曲の存在を知らない層も一定以上居るかもしれない。映画もそんなに話題になってないし、GBHはUTUBEあってこそだからアクセスしない人は知らないんじゃないか。

で、この度ゴールド認定されたCWTCだが、シングルカットしなかったんだからどうせなら光が「金輪際クリスマスソングは作りません!」と宣言してしまえば面白かったのではないか。なまじっか次があると思うから楽曲が"古びる"のであって、「宇多田ヒカルのクリスマスソングはこの曲!」というのを固定化してしまえば、スタンダードナンバーとして生き始めるのではないか。

勿論、そんなわざとらしさを漂わせながら楽曲を"スタンダード"にしようだなんてうまくいく気配もなく、定番曲は自然に定番になってゆくのだから放っておけばよいのだけど、ポテンシャルがあるのにみすみす埋もれさせるのも芸がない。このまま"2010年冬の曲"にとどまってしまうのは何とも惜しい。

曲の出来としては、何度も触れてきたように、そうだな、大体Flavor Of Lifeくらいの評価は得てよいと思うが、あれは超大人気ドラマのとてもオイシイ場面で使われるという最高のファーストインプレッションがあったから爆発的なダウンロードを達成した訳で、今更そんな瞬発力は期待できない。

まぁそんなことを言い始めたら光の曲なんて世間的には"埋もれた名曲"ばかりなんだからアレもコレもとなるのだが、CWTCは希少な季節性のある曲で、しかも光の場合今後毎年クリスマスソングを作るなんて展開はほぼ絶対にないから、、、い、いや、そういう所の"気が変わる"のが人間活動かもしれない訳か…。

まぁいちばん手っ取り早いのはぼくはくま同様NHKみんなのうたに採用されてしまうことだろう。あの番組の本当の影響力が発揮されるのは10年後20年後30年後、その頃子供だった人たちが大人になって「あのくまのおうたって宇多田ヒカルだったんだ」と云われ始める時だ。今、そういうロングパスを出せる媒体ってなかなか見あたらない。

そう考えると、山下達郎のクリスマスイヴってなんであんなに毎年売れ続けているんだろう。光の場合、次から次へと新曲を出してしまうせいで、しかもそれが打率10割な出来映えなせいで、なかなか"次のスタンダードナンバー"が出来てこないのだが、こうやって人間活動に入ることでまずEVAと結びついたBeautiful Worldと、この季節性のあるCan't Wait 'Til Christmasがうまい具合に"使い回されて"スタンダードナンバーになっていってくれないかなぁと淡い期待を抱いてしたりもするのでした。

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無料絶版漫画サイトJcomiで16年前週間少年ジャンプで連載されていた「密リターンズ」が公開されていた。いやぁ懐かしい。主催者もこの作品は随分とお気に入りの様子で、今読み返すと成る程、自分の作品にオマージュ(或いは同じルーツ)を反映させたりしているんだなぁ。

こちらもいち読者として、16年経ってから同じ作品を読むと感想が随分と違っていて少々吃驚。昔は設定の稚拙さや説明不足、伏線の物足りなさに登場人物の独りよがりな思考回路、ご都合主義などあまりよくない印象をもっていた側面も、いや今読んでもそれはそれで同じ感想なのだが、随分と"作者の意図を斟酌して"読めるようになった。

昔は減点法で読んでいたのが、今は"あぁ、こういうことが云いたいのか、ならばあれとこれを組み合わせてこう持ってきて…でも確かに週刊連載だとそこまで細かく描き込む余裕なんかないよねぇ"なんていう風に作り手側の事情なんかを織り込んで読むようになると、この作品の魅力の核が瞬時に解るようになり、詰まるところ「あれ、このマンガこんなに面白かったっけ?」という感想になった。

減点法で物事をみていると、対象の魅力の存在に気がつかずに、或いは気づいていてもよく触れてみもせずに通り過ぎてしまうことになる。一旦魅力の核に触れてしまうと、それを伝達する表現の至らなさはさほど気にならなくなる。揚げ足をとられる、というのは単純に魅力が伝わっていないのである。

ヒカルのナマ歌もまた、その減点法に照らし合わされて評価されてきた。ミュージシャンの場合、作り込んで重ね込んだスタジオトラックという"満点のお手本"がある為、減点法による比較が容易である為、揚げ足をとる方もやりやすい。何回も歌い直してベストテイクを繋ぎ合わせれるスタジオバージョンみたいに精微な完成度を一発ナマ本番で達成するのは本当に難しい。というか無理がある。

しかし、光はIn The Flesh、Wild Lifeでその無理をかなり実現してしまった。その出来映えはDVDを観た人ならお分かりではないだろうか。モチロン、この盤も2日間のベストテイク集なので純粋なライブではないのだが、実際にナマで観た人に感想を訊けば、現場でもこうだったよと云えるだろうことは想像に難くない。

恐らく今後そういったポジティブな感想が広がってゆくと予想するが、光の歌唱力の成長とともに、受け手側の光の音楽に対する理解度や愛着がじんわりと広がっている、ということもあるのかもしれない。それによって減点法による採点が緩くなるということはなくとも、音楽、楽曲自体への愛着が年月と共に醸造されてきて好意的な評価に繋がってゆくということも、あるかもしれない。宇多田光はますます深く愛されてゆくのだ。

とはいっても、愛情が深くなればなるほど減点法が厳しくなっていってスタジオバージョンを愛する余りライブバージョンの崩し方は憎さ百倍、なんてこともあるから難しいんだけどね。

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平野綾が地上波民放に出演した際代表作は何かと訊かれ「涼宮ハルヒの憂鬱」だと答えたら「そんな作品は知らない」と嘲笑された、というエピソードを読んだ。そういったことが実際あったかどうかも知らないが、一般人は兎も角芸の道を志す者、芝居を生業にする者、邦画好きを公言する者がこの作品、特に映画「消失」を知らないというのは恥だといってよい。

アニメ・実写に関わらず映画「涼宮ハルヒの消失」の質の高さは邦画史上最高レベルに位置しており(と宣っている私の価値観は毎度お馴染み"小津最高"なのでそこを踏まえてくれると有り難い)、既に映画として古典扱いして差し支えないだろう。この作品の特性は、その作風の正統性にある。

アニメ映画の傑作といえば、宮崎駿にしろ庵野秀明にしろ前の世代へのアンチテーゼ、反骨心をもってしてオリジナリティに繋げているが、「消失」の場合あらゆる手法が"純文学の伝統"に根ざしており、その静謐且つ至極丁寧な演出手法の味わい深さは地味ながらも焦点が定まっていて明快で、奇を衒わず逃げも隠れもしない。その為派手さとは無縁ながら作品としての魅力が本質的で全く色褪せない。

この真っ正面からの正攻法による演出を可能にしたのは、誰がひとりの天才による手腕ではなく、過去の映画や小説の名作に対する"知識と理解の集積"に依る所が大きいと推測する。その為、この映画自体がいち時代を画するという匂いはない代わりに、過去からの良質な遺産を再編纂して次世代に送り届ける役割は強烈に担い得る。それが伝統である。ライトノベルが原作とはいえアニメが文学の伝統を引き継ぐというのは現代的だけれど。

光の場合もまた、出発点はUSのR&Bテイストのポップミュージックの文脈、或いは歌唱法を主軸にしていたが、ご存知の通り古今東西問わず文学に対する造詣は深く、音楽作品に直接間接問わず影響を反映しているであろうことは疑いがない。平家物語の一節を歌詞に織り込んだり小説からアルバムタイトルを拝借するなど明確な影響から、世界観や制作アプローチといった抽象的で表に出にくい面まで含め、光の作品には文学の伝統が息づいている。

しかし、上記で述べた「消失」とは違い、光の作品は文学や文学性を次世代に継承する役割をさほど担わない。それは端的にいえば彼女が一世一代の天才であって、伝統や正統といった概念から無縁だからである。ばかりか、自分が作った過去の作品に対してすら継承の概念が希薄であり従って「正統的な宇多田ヒカルの作風」というものが存在しないのである。

その、一見バラバラな作品群が何故宇多田ヒカルとしての個性の顕現として成立しているのか?という疑問にどう答えればいいか、今まだ考えてる所なので今後に期待して下さいね。嗚呼腰砕け。

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そういやWild Lifeの正式呼称は"コンサート"だったな。多分、ナマ以外のリーチ方法も同じように視野に入れるという意味で時間軸空間軸と無関係な演奏会と名付けたんだろうな。これからDVDやBlurayで鑑賞する皆さんもプロジェクトWild Lifeの一員ということで。

特典映像において光がいちばん嬉しそう、楽しそうだったのは、僕の見た限り"音のいいギターを愛でる時"だった気がする。ミュージシャンにとって最も必要な事柄は、複雑な音楽センスや技術や財力や人脈や知名度より何より、いい音が好きであるという点だ。音フェチだね。

誰だっていい音の方が好きに決まってると思いがちだが、でもそもそも"いい音"ってなんなのかを自分ひとりで、更にその音だけで感じ取るのは殆ど不可能だ。どんな熟達した人でも多少は幾つかの音を比較しながらこっちよりこっちの方が、いやこの点では寧ろこちらの方がという具合に学んでいくものだが、一部の天才はすぐさま"いい音"に食らいつく。見抜くというより、最初っから輝いて聞こえるんだろうね。

光の場合更にその"愛し方"に特徴がある。まるでまくらさんに対するような愛で方。あれでは愛された方はそれに応えざるをえない。余りにもその姿がナチュラルなので、光自身はまだまだそういう自覚が薄い、いや薄かった気がする。今回の人間活動でも音楽から離れることは"ハナから無理と諦めて"いるようにみえる。

他のどの道に進んでも、あの"音のいいギター"に対するような表情はできない、ちゃんとそう気がついている。余りにも自然過ぎて、小さい頃はそのことに自覚的でなかった為引退ネタをギャグとしてでも口に出してこれたのだが、自分の音楽に対する愛情の深さを自覚してしまってからは冗談すらリアリティを失ってしまった。

実際、宇多田ヒカルはもう音楽家としての知名度がありすぎて、少なくともこの国では何か新しいことをなそうとしても自らの過去の業績が立ちはだかる。ダヴィンチのように一生に渡って多才を発揮する生き方もアリだとは思うものの、それにしては音楽に対する愛情が突出している。

きっと、戻ってくる時も音楽家だろう―何の変哲もなさそうにみえるギターを愛でる姿を眺めながら、そう強く感じるのであった。

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キャンディーズといえば「普通の女の子に戻りたい」と云って表舞台から姿を消したが、もしかしたら後世からみたらヒカルの人間活動宣言も似た印象になるかもしれない。田中好子の場合グループは辞めても結局芸能界で生き続けていった訳で、途中で"普通の女の子"に憧れ(?)て実際にそういう日々を送ってみても「やっぱり私にはこの世界が性に合っている」と戻ってくるものなのだろうか。彼女の実際の事情はしらないが、そういった実例があったのかもしれない、と思えるだけでも励みになるな。

光は「普通なことが特別で、特別なことが普通」とかなんとか言っていた。正確な言い回しはわからないが、これは普通なことしか言ってないよね―って切り返すとますますややこしくなるか。

色即是空空即是色も、似た印象を与えるフレーズだが、かつて触れたようにこちらはもっと含蓄が深い。色を認めた途端それは空となり、空を認めた途端それには色がつく。つまり、認識とは万物の流転の"否定を知る"ということなのだ。あら難しい話になるな。まぁそれはいいか。

話を戻すと。光は、これからその"特別な日々"を送る。恐らく、自分の"性に合っている"界隈は音楽にちがいないのだから、その点については迷いがない、つまり、戻ってくるならきっと此処だろうという目処はたっているのだと思う。いや、目処がたった、確信が満ちたからこそ一度離れてみたいと思ったのかもしれない。まさに色即是空空即是色、それを確信的に捉えた瞬間、それは掌の間から零れ落ちてゆく。その刹那のいとおしさ。光は生きているのである。生きているから、この絶え間ない変化に満ちた世界で、音楽という確信を得たとき、そこから離れてみてみなくてはならなかったのだ。

その確信をカタチにしたのが、SC2とWild Lifeだ。今回、どの音楽的側面をみても"実験的"というニュアンスが伝わってこない。勿論、新奇なアイディアも実行してみているだろうしオリジナリティは十分過ぎるほどあるのだが、そこに迷いがないのである。

特に、あらゆる意味でチャレンジだった「嵐の女神」にその実験性の希薄な点が興味深い。感情に、ことばに迷いはなかったのだ。ただ、それを口にする勇気が欲しかった。内なる感情に対する確信は、かつてなくここに強く在る。しかし、それをことばにしてしまったら、カタチにして"見て"しまったら、と思うと足が竦む。色即是空空即是色、物事に色と形が与えられた時点で、内にあった感情は空となり消えていく、のかそれとも歌に込められた魂は色即是空空即是色、色と空のなす環、即ち"この世界"に受け容れられ、溶け込んでいくのか。唄う前は本当に怖かったのだと思う。

想いに迷いはない。間違いはない。ただ必要だったのはそのことばを口にする勇気。確かにそれは成し遂げられたが、まだ足はガクガク震えている。ナマでこの環を披露するところまでは、まだ行かなかった。終演後の"あの響き"は、残念ながらあの日あの場所に居た人間でないとわかりづらいかもしれない。光の居ない舞台に響く光の歌声。光の色が空になり、空がまた色に染まる、まるで夜と朝、昼と夜の境目のような、Twilightな黄昏の色合い。なんとも贅沢な時間だった。みんなとお喋りしながら。

即ち、光にはまだ唄うべき歌がある。嵐の女神。これを皆の前で披露するその日まで、宇多田ヒカルにとって最も特別な"普通の女の子の生活"を、心行くまで堪能して貰いたい。♪ 嵐の女神

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女優の田中好子さん、スーちゃんが亡くなったらしい。そんな年齢か?と思ったが長い間闘病生活を送っていたらしい。ご冥福をお祈りします…と書こうとしたが、一部に"冥福"とは特定の宗派の用語だから相手によっては使用に気をつけた方がいい、という意見があるそうだ。

では、違った言い方をしようと例えば"謹んでお悔やみ申し上げます"とか"哀悼の意を捧げます/表します"等を考えてみるが、どうも抵抗感がある。"ご冥福をお祈りします"の方が気持ちにしっくりくるのだ。どうしてだろうと考えてみると、なるほど、確かに誰かが亡くなったのは残念ではあるけれど、故人に対して接点がある訳でもないのに"(謹んでお悔やみ)申し上げます"とか"捧げます/表します"といった「方向性をもったことば」を使うのは少し出過ぎた感じがしてしまうからではないか。

この場合、遺族の皆さん、或いは故人に対して語りかけるという"方向性・志向性"を"申し上げる/捧げる/表す"といったことばが持つ訳だが、一方"祈る"ということばにはそういった方向性があまり感じられない。どこか世界の遠くの場所に、亡くなられた方を悼む気持ちがあったりしますよ、という控えめな感情を表現するのには"祈る"という言い方がいちばん近しいのだ。

つまり、冥福や哀悼やお悔やみだとかいった名詞の方ではなく、言うとか表すとか祈るといった動詞の方の選択として、"冥福を祈る"と言ってしまうのである。冥福という単語はその選択に巻き込まれるかたちで発せられている為、なんだ、やっぱりこういう時にどういえばいいかはむつかしいな。

斯様に"祈る"、"祈り"ということばは志向性の薄い、存在としての感情を指すことが多いが、それは裏を返せば対象に対して処する術をもたないもどかしさやつらさをも含意してしまう。光が小さい頃から自分の意志で動けることが殆どなかったり(いつも勝手に引っ越しを決められていた)、何事にも強烈な無力感を感じて育っていく中で、この志向性のない、というか志向性を閉ざした"祈り"を育んできたことは想像に難くない。その、世界に対するどうしようもなさ、無力感が初期からずっと「宇多田ヒカルといえば"切なさ"」といわれるくらいに音楽に切なさを与えるようになったと考えれば、この志向性を閉ざした、存在としての感情である"祈り"の気持ちが切なさの源泉であり、またそうやって生まれた切なさの表現が新しい祈りを生む、という環ができあがったことで光の音楽に一貫して切なさが感じられるようになっていったのではないだろうか。

今の状況において、自分に何が出来るんだろうという焦りや無力感は誰しも感じ得るものだろうが、とりわけミュージシャンにはその気持ちが強い気がする。それは、性質上音楽という営みが世界に対して基本的に"何もできない"存在だからだ。だからこそそこには祈りの感情を託し得るし、また託さなければならない。宇多田ヒカルの切なさは、音楽のもつ根源的な無力感、祈りの感情をこれからも表現し続けていくんじゃないかな。

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光は日本昔話のDVDBOX買ったんだっけ? そういうツイートあった?? 思い出せないんだけど"あの声"で自分の詞を朗読されただけで濡れ濡れになってしまったくらいなので(主に目と鼻の穴の下がですが)声優目当てのみでも大人買いしてそうな気はする。いつの時期に見ていたかで光の中での位置付けも変わるだろうが、放送時期的にはやはりNYの小学校に通い始める前、CITY HUNTERも見ていた頃かな。わかんないけどあのアニメが光に具体的にどういう影響を与えているかは気になる所ではある。

今考えても、随分と思い切った枠だった。具体的な話は覚えていないんだけどアニメのセル画を素材にした絵本(フィルムコミックみたいなやつ)がうちに何冊かあって、その絵と話がやたら怖かったことだけは覚えている。西洋の話はなんだかんだいってハッピーエンドが多く(人魚姫は違ったかな)おどろおどろしくとも読後感は安堵だったものだが、日本昔話は全く容赦がなかった。その陰鬱さは幼児の私を戦慄させるのに十分だった。

そこらへんの容赦のなさが光に響いたのだろうか。確かに、光の歌詞はそんなにHappyというか、手放しでメデタシメデタシという歌詞は少ないのだが、あの救いようもないどうしようもない陰鬱さとは縁遠い気がすり。例えば海路なんかはサウンドも歌詞も日本昔話に通じるものがある気がするが、もっと大きく広々とした世界に通じてる感が強く、山間の村で陰惨な虐殺を繰り返す、みたいなあの雰囲気とは違うんだよなぁ。

陰鬱とか陰惨とか書いてるけど、勿論それだけではなく、というか土曜19時の枠なんだから基本的にはほのぼのした話がメインだったのよ。でも私個人は、エンディングテーマが「人間っていいな」に変わった時に「話が違ーッう!」と叫んでしてしまうくらい違和感があったという嗜好・性癖なので、どうしても日本昔話というと"どこまでも救われない物語"を連想してしまうのよ。

という訳で、光がもしDVDBOXを買っていたら何かコメントしてくれると、嬉しい。


ところでところてん。全く関係ない話だが、DVDも出たことだし、時期を見計らって被災地にフィルムコンサートを催しにいくとかどうだろう。光が帯同してもいいししなくてもいい。今すぐはまだそんな空気じゃないが、家を失って娯楽が少ない状況で不満が募ってきた頃がいいだろうかな~…まぁ多分、それなら自分で唄いにいけよというツッコミが必ずあるだろうなぁ。うん、そうだろう。でも、何にもない土地でライブやるってかなりキツくない? トラックかトレーラー一台で済むくらいじゃないと…。うーん、一番凄まじいのはギター一本で乗り込んで弾き語っちゃうことなんだろうけど、もし光のギターの腕前が昔のまんまだときっと途中で間違っちゃってHikkiガタッときちゃうだろうねぇ…(なにその幕ひっきー(汗々))。

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小室哲哉が「今日4月21日はTMデビュー27周年記念日」な旨ツイートしていた。といってもTM NETWORKとして5年、TMNとして5年活動して一旦解散したので、27年間ずっとという感じでもない。バンドの勃興期・隆盛期というのは案外短く、今話題になっているBOφWYも5,6年で解散して、ソロ活動のキャリアの方がずっと長くなっている為、当人たちの思い入れの程度と質はなかなか推し量れない。The BeatlesやThe Policeよりポールマッカートニーやスティングとしての活動の方がずっと長い。しかし、その継続的な露出のお陰で出発点となったバンドは自動的に伝説化されていく。伝説化肥大症候群である。(今勝手に名付けた)

ひとりシンガーソングライターである宇多田ヒカルにはそういう側面はない。余談だが、私の世代ではシンガーソングライターってのはピアノやギターを弾いて自作曲を歌うフォーク/ニューミュージック系の歌手を指してる気がするので、例えばaikoやmiwaがそう呼ばれるのは違和感ないが、ヒカルのような打ち込み主体の音楽家をそう呼ぶのは未だにしっくりこない。余談でした。で。しかしヒカルくらいのネームバリューになると看板としての名前の大きさはバカにならなくなってくる。

バンドというのはオリジナルメンバー、或いは黄金期のメンバーが重要視されるが、これは音楽的な高度やケミストリーといったこととは関係なく、ただバンドの名前の認識と結びついた面子が揃っているかどうか、というだけだ。名前を覚えた時の顔の並び。インプリンティング(刷り込み)の亜種だといえる。

この風潮が支配的になるのは名前の露出が最も大きかった時期がいつになるかに左右されるので黄金期のメンバーが重視されるのだが、ヒカルの場合最初地上波テレビの露出がないまま日本記録にまでいってしまったのでこの"バンドの黄金期のメンバーの顔並び"にあたる要素が"曲"になる。

本人もそこらへんは初期から自覚していて、自分はオートマと初恋の歌手として一生認知されても構わない、でも固定化されたルックスで認知されるのはイヤだといって(髪型変えた時の話)、安定したヴィジュアルイメージをもたずにここまできた。

さてこういう背景のまま無期限人間活動に入った場合何が起こるか気になる所だがその話はまた次回。

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タワレコ新宿渋谷はまぁ週末に行くとして(多分、持ってない状態で店頭に行くと85%の確率で買ってしまう。Blurayもあるっちゅーねん)、取り敢えずこれで2011年度もリリースがあった訳で、何だかんだでワーカホリックなイメージは拭えそうもない。有り難い事ですが。

ただ、基本裏方さんな為、ファンの間では「何してんのかわかんない時期」というのが結構ある。特にBlogが盛んになってからは、しょこたんのように毎日何してるか皆に知らしめてしまうケースが増えてしまったので、音沙汰がないのが不自然とまで捉えられる風潮すらある感じ。でも今や異常とはいえなくなってるよね。

実際、知人が毎日何をしているのかって結構把握しているものだ。どこの学校に行ってるかはしらないが学生だから学校行ってるんだろう、何の仕事してるか知らないが出勤がどうとかって言ってたから平日は仕事場かな、とか大概想像はつく。休日どうしてるのかはわからなくても、大体週休2日だから7日のうち2日不明でも別に訝しくはならない。

なので、毎日メッセをチェックしにいくようなバカたち(呼んだ?)は、毎度ちょっと理由のわからない音沙汰ナシ期間がおとずれると、ちょっとしたことで動揺するようになってしまう。写真週刊誌の記事に狼狽えたり。なんか思う壺。

今回は、正面切って(アーティスト活動を)休むと言ったので、音沙汰ナシ期間の色合いもちょっと変わるだろう。例えばプロ野球選手なんかは年の半分を"シーズンオフ"と言い切って休む為、音沙汰がなくても別に気にしない。ファンサイトなんかはネタをもたせるのに大変かもしんないけど。ただ、それもこれも"来年の4月にはまた会えるんだから"という約束があるからだ。

今回の光にはそれがない。

無期限。このマジックワードは時間の経過認識を狂わせ続ける。いついつまで我慢すればいいよと言われれば我慢も出来るものだが、いつまでかわかんないていわれた時の心の折れ方は尋常じゃない。なんか最初期のHxHにそんなセリフあったな。

勿論、みんな健気に「待つ」と言っているのだから光は自由に振る舞えばよいのだけど、この"待たせ方"は通常より酷だという事はわかっていた方がいいだろう。みんな人がいいのは、まぁアーティスト自身の魅力のお陰なんだから光の自力で得た状況・環境なのだが、だからといってそれに甘えるのも違うよなぁ、という気分も一方にある筈だ。

いちばん思いつきやすいのは、In The Flesh のリリースを遅らせるやり方だ。極端な話一年後に出せば、光は少なくとも二年間くらいは音沙汰なしでもい…いや、よくない。やっぱツイートくらいして欲しいかなぁ(エントリーまるごと棄却かよ)。

照實さんによると、海外に赴くのを既に1ヶ月遅らせているそうで、それがトラベルなのかジャーニーなのかショートステイなのかロングステイなのかはわからないがまず気になるのはネットの通じる環境かどうか、であろう。ネットさえ繋がってれば極端な話南極にいようが隣に住んでて気づかなかろうが同じである。よい時代になったもんだ。

ただ、このままいくと「休んでた感じがしなかった」と言われるようになるかもしれない。まぁそうなったらそうなったでいい気がする。大事なのはプレッシャーから解放されることだから…例えばこういうのはどうか、ツイッターのメンションやMail To Hikkiをある時点から「必ず読むとは限りません」と宣言する、或いは勝手に決めるのである。くまのぬりえ二万通超に総て目を通したヤツなので仕事中はきっと全部目を通してしまう。ならば、やはりそれから解放される事も大切ではないか。送る方も気楽に送れるから(長いヤツでも(笑)) 、やっぱ宣言してもらった方がいいかなぁ。

まぁ、それはそれできっと寂しいんだろうけどね。

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内面  


インターネットが人生のライフライン、基本インフラになってしまう事に心理的抵抗はない。他にも上下水道・ガス・電気等様々な供給を受けているのだから情報について特別視する必要もないだろう。しかし、それと共に何を得、何を失うか、どこが衰えていくかについてもっと自覚的であってもいいと思う。

特に検索力が上がってくると、嘗てあった"純粋な内面"が薄れていくような気がしてならない。自分と似たような考え方、感じ方をする人間がすぐに見つかってしまうことで内面は常に関係性の中に溶け込んでいく。勿論、慣れてないうちは「こんな事を考えているのは私だけかもしれない」という思いを抱えているものなのだが(なので「~って私だけ?」という言い回しは徐々にしなくなっていきます)、各種SNSがそういった感情の受け皿、入り口になったりしていてどんどんと自分自身の"居場所"が―たとえ明示的に参加していなくとも―定まってゆく。

そうして自分を"地図"の上に置くようになると、外界と隔離され遊離した内面の作用がなくなってゆく。Twitterはその点最も先鋭的で、本来誰にもきかせないような"独り言"を全世界に向かってバラまくのだから内面の顕在化の点では抜きん出ている。

そういう"ネットワークへの展開力"とはまるで逆の感触を持ち続けてきたのが"Message from Hikki"だ。理由は単純で、コメントもトラックバックも、かつてはハイパーリンクさえも備えていなかった。純粋に光の言葉で綴られた空間は、私とあなたを"相対させる"効果を十二分に含んでいたのである。

一方Twitterは、有名人と一般人(なんて書き方は妥当かどうかわからないが)をフラット化しつつ、フォロワー数で各人の非対称性の表現も含むという秀逸な構造をもつ。光も、その手軽さで気軽に呟き気軽に呟き返される。だが、お陰で彼女の話すことばは"私に向かって"放たれている風には最早(あんまり)感じない。メンションされたとしても、広場の中での2人のやりとりは広場の中の点と点と線として消化されてゆくのである。

どちらがよいということではなく、いずれも人の営みに普遍のことがらである。ただ規模が大きくなり圧倒的にスピーディーになっただけだ。メッセもツイートも、状況に応じて使い分ければよい。光くらいになると、内面をネットワークの中で消化しきれない事が問題になっていくのだから…という話になると長くなるので今回はこの辺で。

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