無意識日記
宇多田光 word:i_
 



DVD&BD合計8000枚という予想でも、かなり楽観的な数字である事は、予め記しておかなければなるまい。コアなファン以外、この作品を今購入する理由はない。有り得るとすれば、米国盤や英国盤であろう。つまり、日本以外での円盤の発売。それぞれどれ位の市場があるかは知らないが、2時間フルのライブDVD&BDは、米国盤なら$15~20位で購入出来る。それをAmazonにでも輸入してもらった方が手っ取り早いだろうなぁ。これが日本盤だと6000円でしょう。照實さんなら必ずリージョンフリーにするだろうから我々が日本盤を購入する理由はひとつもない、と言っていい。ああ、フラゲ日に観れるってのがあるか。それ位だろう。

何しろ、In The Flesh 2010の動員数はアメリカだけで1万人を超える訳で、恐らくそれと同数程度の売上は見込める。あれから4年近く経ってるのをどう考えるか、だが。日本ではEXODUSが100万枚売れたし、This Is The Oneも6桁の売上だが、今日本で"Utada"の商品を買おうという人間は、恐らく全米のそれより少ない。そもそも宇多田ヒカル、いやUtada Hikaruに対する渇望感がない。多くの人が、荒れ地となった邦楽シーンに彼女が戻ってきて欲しいと願っているが、お金を払ってくれる人は極僅かだろう。桜流しDVDの初動が2万枚だった事を肝に銘じるべきだ。このうち、ここは意見が別れる所だが、半分は生粋のEVAマニア、つまりEVAの関連商品なら取り敢えず買う、という層だと私は見ている。配信で映像も買えたのだからDVDシングルをわざわざ購入するのは宇多田ヒカル側からしてもマニア認定してよいと思うが、そういう人間は、どれだけ多く見積もっても2万人は居ない。ひょっとすると1万
人を切るかもしれない。

しかしこれは、宇多田ヒカルが大ヒットを飛ばせない、という話ではない。私は見ていなかったので知らないが、今クールのTBSドラマ半沢直樹(漢字が合ってるかどうかさえわからん)は40%超えの視聴率を記録したらしい。そんなドラマが今のご時世でもまだ現れる訳だから、そこの主題歌を歌っていればヒカルの歌ならば大きなうねりを作り出す事がまだまだ可能だろう。それは時の運次第だが、そうではなく、固定ファンがどれ位居るかという話である。

ヒカルは常々、私のファンは居なくていい、だからファンクラブも作らない、曲毎に好きになったり嫌いになったりしてくれればいい、という趣旨の発言をしてきたが、ここまで固定ファンが削られてくると(と言っても、ここ10年位は大体こんなもんだとも思うけどね)、実験的なシングルをリリースするタイミングがなくなっていくのではないかという懸念も浮かび上がってくる。Passionは円盤に限れば初動は5万枚弱、ぼくはくまも4万枚弱といった所だったが、これ位ならまだまだメジャーアーティスト。しかし、今このテの曲を円盤で出したとして、果たして1万枚を超えられるかかなり不安である。そう考えると桜流しみたいな本格的な楽曲が35万DLだか何だかという数字を出したのは奇跡にも思える。EVAが凄いのかヒカルの豪腕が凄かったのか或いはその両方か。勿論私の本音は「10倍売れても物足りない」なんだがそれはちょっと夢見すぎなので無視する事にしよう。


そういったなんやかんやを考えると、少なくとも日本では、ITF10の円盤はリリースしない方がいいようにも思えてくる。まず年内に全世界に向けて配信先行で発売し、今年度内に米国盤でDVD&BDがリリースされるのを待ち、我々は輸入盤を手にする、というのが現実的な落とし所ではないか。日本で円盤をリリースするなら、初回特典にNYショウケース050223のワンカメラ映像とか、ツアーのバックステージムービー60分とか、ダボス会議でのFly Me To The Moonとか、もう何でもいいから沢山つけて「これは買わなきゃ」という空気を作るしかない。で、多分それは無理だから今回は無理をしない方を提案しておく。消極的と謗られるかもしれないが、それくらいシビアに見るべき時期が来ているように思うのです。

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先週は浜崎あゆみの新譜が初週1万5千枚しか売れなかったと話題になっていた。私はそのコンテンツがどんな位置付けか知らない為枚数の多寡を評価する立場にないが、それはつまり、アーティストの知名度が高すぎると、"ささやかなリリース"というものがなかなかに難しい事を意味している、とは受け取れる。出す方はコアなファン向けだと思っていたとしても、マスメディアがそう受け取ってくれるかどうかはわからない。後は料理のされ方に委ねるしかない。

ならば In The Flesh 2010 footage を今の時期にリリースするのは危なっかしい。先月のゴシップなんぞもうみんな忘れているだろうが、宇多田ヒカルの名前を目にした場合にはまずその事を思い出してしまうだろう。その時、売上枚数が少なければ微妙な空気が流れる事請け合いである。ただ、救いはあって、これは映像作品だからたとえチャートの話になったとしてもDVD部門であるからそこまでのニュース性はない。こんな今でも、取り上げられるのはアルバムチャートとシングルチャートなのだ。世の中のパッケージコンテンツの主力はとっくにDVDに移ってるんだけどね。

桜流しの時は、CDをそもそも出さないという手を使った。思いもよらない、とまではいかないまでも秀逸なアイデアだったと思う。DVDチャートの話なんか殆ど取り上げられない。ただ、照實さんがその事について訊かれたのだが、CDを発売しなかった事について、「(なぜだか)わからない。EMIに訊いてくれ」という趣旨の発言をしていた。前に「何で宇多田ヒカルだけTVでフルコーラス歌えるの?」という質問に対しても「わからない」と惚けていた人なのでどこまで字のまま解釈していいかはわからないが、彼は案外そういった「マスメディア経由の印象」に疎い面もあるのかもしれない。

そこらへんの感覚がハッキリしているのは、普段まとめサイト巡りを欠かさない梶さんだが、未だに彼の側からITF10に関するコメントはない。法的な問題がクリアされたとしても、もしかしたらユニバーサル傘下EMIレーベルからのリリースとしては、もう一悶着あるのかもしれない。幾らなんでもU3に丸投げってことはないだろう。

後はもう、レコード会社が今回のリリースをどう捉えるか、だろう。私の勘では、たった今ITF10のDVD&BDを発売したとしても8000枚行くか行かないかだと思う。そのあゆの新譜とやらの半分位である。宣伝したら必ず赤字だろう。なるべくひっそり、コアなファンに向けてだけリリースするのがベターだとは思うのだがそうすると円盤化自体を断念するのが合理的となる。ここらへんは難しい。もう少し、物事の推移を見守るしかないだろう。

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最後にすると言っておきながらもう一刺し続けてブーイングを受ける予定通りの流れ。ドラゴンボールは「もうちっとだけ続くんじゃ」から先の方が長かったが私は流石に無理かな…。

最後の最後は「タバコとドーピングの類似性」の話だ。スポーツにおけるドーピングは恐ろしい存在で、金メダルを獲得しても剥奪される強烈な代物である。正直、今や余りにも目の敵にされすぎて「悪いから悪いんだ」と教義的反射的非・思考的な価値判断の元に対ドーピング作戦は遂行されている。今いちど考えてみよう。ドーピングの何が悪いの?

本来なら「選手の健康に悪影響を与えるから」が正しい筈なのに、実際にはただ「ずるいから」でバッシングしているようにしか思えない。大リーグをみればわかる。薬物を使用した人たちの多くはピンピンしているが、彼らは重いと永久追放だ。人生台無しである。一方、あのリーグは報復死球は黙認する。痛いっちゅうねん。怪我するっちゅうねん。何が基準かわかりやすい。要はゲームで卑怯な事する奴に対して他の何やらを差し置いて怒りを全開にしていい文化なのである。あの国が戦争を…長くなるからやめておこう。

タバコに関してはそういう「ずるい、卑怯」という感情は、少なくとも日本では少ない。色々理由はあるが、いちばん大きな理由は、「ルールで許されているから」だ。別に使ってもズルくないのである。ヒカルがスタジオで仕事するにはタバコが不可欠なのでは、と前回書いたが、ルールの有無や是非を別にすれば、タバコを吸って仕事をするのはドーピングしてバッターボックスに立つのと同じである。某かの薬物的なもの(なんだそのしょうもない言い方は)の力を得て活動しようとするのだから。非・喫煙者からしたら「あんなものに頼りやがって」と言いたくなるのが人情である。

ここが、結局分水嶺だ。我々が生きている間はないかもしれないが、いつか喫煙が他の薬物同様法律で禁止される事があるかもしれない。禁酒法を施行した近代国家がかつてあったのだからないとはいえない。今の状況ではまだまだSFだが、殆どそれに近い圧力を感じる。

何が言いたいかといえば、嗜好品に頼る生活は、世間の空気次第では非常におくりづらいものになっていくだろう、という事だ。食べ物でも何でもそうだが、「これがないと生きていけない」ものがあるのなら、それは弱点である。「マネージャーなしじゃ何も出来ないおばさん」は、実は私は居てもいいと思っているが、もしヒカルがそういう人間になりたくない、と思っているのなら《中毒性・依存性の高い嗜好品》は出来るだけ生活から弾き出した方がよい、と私は考える。キーポイントは、中毒性だ。別に、生きていく中で、物事を効率的にこなしていく為には、今自由に手に入るものなら存分に活用すればいいし、それが手に入らなかったら他のもので代用すればいい。しかし、中毒性と依存性はそれを著しく妨げる。あらゆる薬物に共通して厄介なのは「それがないと生きていけない」状態に陥る事だ。もし「人間活動」を通してあらゆる意味で自立していきたいのなら、中毒性の高い嗜好品に頼る生活スタイルは切り捨てていこう。タバコのみならずアルコールも、である。この理屈
でいうならば。まぁ、そこまで堅苦しく考える必要もないと思うんだけどね。人間、弱いなりにのらりくらりと生きていくもんだから。たとえ情けなく、惨めな人生であっても。生命って不思議なのだよ。

以上、重度の宇多田ヒカル中毒患者の執筆でお送り致しました。来週はやっとKuma Power Hour 特集だぜっ! もたもたしてるとすぐにもうEpisode 5だからなっ。

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最後に、喫煙行為を擁護する立場から軽く"反論"をしておこう。

皆ヒカルを「歌手」とみて「タバコいくない」と心配しているのだが、歌うという行為はヒカルの中では仕事の一部であり全部ではない。寧ろ時間的な幅でいえば作詞作編曲プロデュースの方がずっとウェイトが大きい。そこを考慮に入れなくてはいけない。

創作活動の大半は苛立ちと怒りである事は16歳の頃からヒカルが言っている事だ。不満点がなくなったら完成なのですぐさまそこから立ち去るのだから当然といえば当然なのだが、故にそのストレスとどう向き合うかが仕事の大半を占めると言っていい。宇多田ヒカルともなればそのプレッシャーは半端なものでは収まらない。彼女が失敗したらレーベルが傾きかけないのだから。ユニバーサルになって、少しはそれも軽くなるかもしれないがね。

スタジオに籠もっている時のヒカルのストレスは相当なもので、暫く経つと表情筋の付き方が変わって人相が違ってしまう程である。あんまりにも行き詰まって仕事中のスタッフに「酒買ってきて」と指示したのは有名な話だ。毎度締め切りに追われるタイトなスケジュールの中、一分一秒でも時間が惜しい時に覚醒作用のある喫煙行為はその簡便さと即効性で抜きん出ている。だからこそ様々な職場で「喫煙しながら仕事」という行為が行われてきたし、実際効果があったのだ。その点を忘れてはいけない。

確かに、歌手活動に喫煙行為は百害あって一理なし、一利あるかないかといったところだが、こと創作活動に関しては百害あっても千利を得られるかもしれないのだ。創作の、逃げ出したくなるような重圧は本人にしかわからない。だからこそ、喫煙行為が必要だというのならばそれを尊重するのが筋であろう。あの素晴らしい楽曲たちは、無数の煙と吸い殻の死屍累々の屍の上に漸く出来上がったものであるかもしれないのだから、その果実を享受している我々もある意味"同罪"であろう。

しかし、そこまで喫煙が必要不可欠であるというのなら、未成年である15~19歳の間に完成させた「First Love」「Distance」「Deep River」の3枚のアルバムは一体どうやって…ってつまんねーこと訊くなよ!(CV:佐倉綾音)

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流石に読者の方も飽きているだろうが(私もだ)、区切りのいい所まで行きますぞ。

さて、ヒカルの喫煙は世間に対してはスキャンダルだが、ファンにとっては、「Hikkiの健康面が心配」というのが実はいちばん大きいのではないか。目立つのは嫌煙な呟きの方だが、ファン全体の基調はこちらだろう。

ここで踏まえておいて欲しいのは、タバコの健康被害があからさまに取り上げられるようになったのはかなり最近の話だ、という事実である。詳細はわからないが、恐らく、タバコと疾患の因果関係を機構的に完全に説明する事がまだ出来ておらず、動物実験を参照する程度で、そこを科学的に扱うには大規模且つ長期に渡る疫学調査が必要だったのでは、と推測される。

端的にいえば、喫煙というのは短期的にはメリットばかりで、長期的にしかその影響があからさまにならないのではないか。(あクマでも一般論だが) 期間の長い常習者はともかく、短期間に少し吸った位では影響は皆無といっていい、と。照實さんが中丸三千繪の話を、それこそ都市伝説のように持ち出していたが、ぶっちゃけ、あんな日本史上稀に見る、いや、まさに東洋人離れした強靭な声帯をもつ人の話なんか参考にならないんだよねぇ。しかし、つまり、何が言いたかったかといえば、喫煙で出る悪影響は、晩年に肺癌に罹患する確率が上がる、とかいった長期的、統計的なものであって、まぁいわば低線量被曝と発ガンの関係と同じだと思えばよい。メカニズムが複雑過ぎて、直ちに因果関係が特定できないのである。

話が難しくなってしまった。まとめると、実は歌手にとってタバコは歌にただちに影響を与えるような害はない、という話だ。超ヘビースモーカーは別として。それを言うならコーラの飲み過ぎでもアロマテラピーの懲りすぎでも喉に影響は出るさ。なので、喉の心配をしても詮無い。もしすぐに歌に影響が出るんだったら流石にヒカルもとっくにやめてるだろう。なお、ツアーの際は一応禁煙してたらしいよ。そっちの方が引くわ。

で、だ。しかし、晩年の肺癌罹患率が上がるのは確実である。長期の害が強力であることが判明してきたから、今ここまで嫌煙権が力を握っているのだ。

(今はかなり話を単純化している。タバコは身体に悪い、というのは経験則から皆わかっていた事だ。それを科学的知見として昇華させるのが難しかった、という訳です)

なので、ヒカルの健康を心配するなら、将来の妊娠の事を考えて、とか肺を患って歌えなくなったらどうするの、とかいう方がいい。喉の心配をしてもざねっちが中丸発言をまた盾にしてくるのがオチである。余談だが、声楽家としての技術はヒカルなんて足元にも及ばないまさに生ける怪物ですからね彼女は。普通の人間だと思っちゃいけません…。

さて、次回で終わりにしよう。もう読者の熱も冷め、皆冷静になってきた頃だろうから。いやはや、本当に無駄な話で引っ張ったなぁ今週は。

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喫煙については照實さんがいろいろと(もしかしたらあることないこと)話してくれたので、結構整理がついたかな? これでHikaruが喫煙者であること(或いは喫煙者であったこと)のコンセンサスが出来上がったとみていいか。

昔のメッセを引き合いに出して「一生吸わない」と言っていたのに、と訝る向きもあると思う。勿論「嘘吐き!」と罵ってもらって構わないが、そこには「10代のうちに吸い始めるか、それとも一生吸わないかのどちらか」と書いてある。大体、公式の場に於いて宇多田ヒカルが「10代の頃から吸っていました」なんて言える訳がない。もしそうだとしても、墓場まで持っていくだろう。言えない以上、嘘を吐くしかないのである。これで大体何が言いたいかわかってもらえたかと思う。


しかし、こうなったら、もうひとつの方法、「愛煙家アピール」も現実味を帯びてくるな~。昨日はこれも「万事解決」と言ってみたが、当然の事ながら問題山積である。愛煙家アピールで喫煙者の皆様から喝采を浴び、昨今肩身の狭い思いをしている我々の不遇を代弁してくれとヒカルに期待をかける層にファンになってもらうのは悪くないんだが、如何せん、今や市民権がなさすぎる。要するに今は喫煙は、人数はともかくパワーゲームに敗れつつあり"社会の片隅に追いやられて"いるのだから。

マイノリティに優しい目を向けるヒカルだが、彼女自身は常にメインストリームである。ここをどう捉えるか。元々喫煙はプライベートの話なんだが敢えて混乱させると、仕事上でヒカルが喫煙者をアピールする事の"正味の"メリットは必ずマイナスである。イメージチェンジ=イメージダウン確定なのだ。負け戦を勝ちに行く人は将来有望だが、負け確定なのに戦い続ける人は心底無謀としかいいようがない。今まで喫煙者アピールをしてこなかった戦略は全く以て正しかったといえる。

それでも…というのなら、Popular Musicの看板を外してアナーキーでロックなアティテュードにスイッチし、市場規模を大幅に縮小して活動再開…って、だからたかがタバコの為にそこまでするかいな。

それに…愛煙家でも嫌煙家でもないグレーゾーンの人々、つまり圧倒的大多数の「もう大人なんだから本人の自由でしょ」と言っている人たちも、大半は「でも、どちらかというとやめてほしい。身体にいいとは思えない。」と薄々考えているのである。Popular Musicのターゲットはまさにこのグレーゾーンなのだから、戦略的にはやっぱり…喫煙者アピールは望み薄だろうなぁ。


こうやってプライベートと仕事をごっちゃにして考えなくてはならなくなるのは、ひとえに、そういう記事を取り上げるメディアがあるからである。知らなければ、こんな事にはならなかったのに。知ってしまったら、嗚呼知れてよかったと、言うしかないではないですか…。

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これだけgdgdしたエントリーが続くと私の機嫌が悪いのかと勘ぐられそうだが今週の私は頗る機嫌がよい。月曜日に放送された「今日は1日プログレ三昧3」の録音を手に入れ、毎日聴いているからだ。いやぁ毎度ながらなんとも楽しい番組である。既知の名曲の素晴らしさを再確認し、未知の名曲に舌鼓を打つ。トークも総て音楽に関する事ばかりでゴシップの欠片もない。たまに、このメンバーはあの人の元恋人で、というような話も挟まれるが、要は人脈情報であり、即ちミュージシャン同士の関係性の話でしかない。音楽ファンってこういう事を楽しく喋るもんでしょ。10時間しかないけれど、毎日少しずつゆっくり堪能させてもらってます。

我等が宇多田ヒカルにも、そう、同じようにラジオ番組があるのだ。好きなミュージシャンが好きな音楽について好きなだけ語る夢のような番組。私もそれについて語りたい。今取り上げている面倒臭い奴を片付けたら、心ゆくまで「KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru 」について語り尽くす事にしよう。何だか典型的な"志望"フラグな気がするが、構わず邁進すると致しますか。


お浚いをしておこう。タバコの問題を解決するには基本的に3つの方法がある。

ひとつは、写真週刊誌が絶滅する事。これによりミュージシャンのプライバシーは守られ、我々は彼らが喫煙するか否かを知る由もなくなる。よって何も議題に上がらない。万事解決である。

ふたつめは、ヒカルがタバコをすっぱりやめること。これで皆一安心、溜飲を下げるだろう。万事解決である。

みっつめは、まだ書いてなかったか、ヒカルが愛煙家であると言っちゃう事だ。嫌煙家のファンは離れていくかもしれないが、代わりに愛煙家のファンがつくだろう。今までもファンの入れ替わりはあったのだし、何より、スタンスをハッキリさせる事で皆スッキリする筈だ。万事解決である。


…と、簡単にいけば世話がないのだが、勿論この問題は難しい。

ひとつめについて。まず、写真週刊誌はそう簡単にはなくならない。みんなゴシップ好きなんだよ。ヤレヤレだぜ。なので、実現可能性は低く、有り得たとしてもまだ先の話だろう。

だが、ここに実は新しい問題が噴出しつつある事が最近あからさまになりつつある。SNSの発達である。たとえ、大手出版社たちがお行儀よくなっても、ヒカルが一目につく場所で喫煙すればもう必ず今は写真に撮られてアップロードされ全世界に放流される。何が言いたいかといえば、有名人であり愛煙家のイメージがない人が、どこかで公然と喫煙すればそこに週刊誌のカメラマンが居ようが居まいが関係ないのだ。人が居れば瞬く間に情報は拡散する。幾ら法的に罰せられるといってもなかなか歯止めにならないのは昨今の所謂"バカッター"事件の一連をみればわかる通りだ。人の口に戸はたてられぬというが、最早敵は週刊誌ではなく、直接世間の皆さんとなる。正直、今後もプライベートだからといって迂闊に人前で喫煙するのはやめた方がいい。隠れて吸おう。

あとの2つの"万事解決"にも勿論穴凹が沢山あるのでそれに突っ込んでいきたい所だが、先にひとつの、考えるべきケースについて触れておきたい。それは「ヒカルが何とかタバコをやめたいと思っているケース」だ。そうだとすると、恐らく、我々のどちらの発言も、つまり、「タバコやめてください」も「んなの本人の自由なんだから吸いたきゃ吸えばいい」も、彼女にとっては本当にウンザリする発言となりえる。やめたくてもやめられていない、のであるならばね。前者に対しては「出来てたらもうしてるよ」と言いたいだろうし、後者に関しては「本当はもう吸いたくないんだよ」って言いたいだろう。このケースだと本人がいちばん辛いのである。あクマで仮定の話だが、そこのところ、今回の件で発言している皆さんは気をつけてくださいね。勿論、今これ書いてるテメーもな。

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大丈夫大丈夫、こんなBlogチョーコアな、しかも偏ったファンしか読んでないから。拡散源になりようがないよ。だからって拡散に加担したい訳でもなく。なのでここで取り上げるか否か暫く考えた末に、やっぱり書いておくかとなったのだ。なので、あんまり積極的ではない。どちらかというと義務感に近い。

そんななので、私自身どういうスタンスで書けばいいのか全く定まらない。「そんなの本人の自由」と言ってそれまでにするか、反対派の意見を斟酌するか。元々どっちでもいいので定まらなくて当たり前なんだが。

本来なら。宇多田ヒカル原理主義者とすれば、ヒカルのやりたいようにやらせろ世間が何と言おうと気にするな寧ろそんな事を言う世間が間違っている、と言い切ってしまうのが正しい。他の話題ならそうしてきただろう。実際にそうしてきていると思うし。

しかし、この問題に関しては「自由にすれば」と言ってる人の大半は、「法律で許されてるんだから」というのが主な理由だ。もしこれがマリファナだったら、少なくとも日本ではしょっぴかれる。当たり前じゃん、と言われればその通りなんだが、この国は法律より空気が勝つ国なのだ。

例えばこの国の原発は全国的に止まっているが、これは、よく言われるように"違法状態"である。政府に発電所を止める権限は(このケースの場合法律的には)ない。しかし、だからといってフル稼働させれば世論の猛烈な反発を買うのは目に見えている。とても無理だ。時に空気は法律を凌駕する。

喫煙に関しても、スケールはそれに較べれば随分小さいものの、似たような事が起こりつつある。嫌煙者の喫煙バッシングは、法律の枠を超えて自主規制、いやさ例の"他粛"圧力を生む結果となっている。ファシズムとまで言うと言い過ぎなのだがそんな風にまで言われる始末。それが小さな現状である。

私の本来のキャラなら、そんな"言われ無き"圧力に対して「何するものぞ」となるようなもんだが、さてその振り上げた拳の後ろにあるのは何なのだろうか、と考えるとちょっと力が入らなくなってくるのだ。それは、ヒカルの喫煙権なのか、それとも広範に、彼女の"自由"なのか、それとも彼女の人生における利得の最大化なのか。要は、そんなにまで力んで「これは守るべきだ」と唱えられるような問題なのか、という感情にとらわれる。タバコの嫌われぶりに対して、何か弱いというか。原発に関してはエネルギー問題という事で双方に切実な言い分はあるが、タバコの場合私からすれば「たかがタバコで…」という萎える気持ちを核にしているので、珍しくヒカルに向かって「あんたがタバコをやめれば全部解決するんだけど」と言いたくなったりしている訳だ。週刊誌で取り上げられたのはきっかけに過ぎない。ファンにも浸透する世間の嫌煙の空気に対して喫煙者がどう向き合うか、という昨今のポピュラーなイシューに関して宇多田ヒカルはどうするべきか
という問題提起なのである。あぁ疲れる。(ホントな)

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面倒臭いと何度も何度も言いながら、そして、これからも言いながらもタバコの話題を取り上げるのは、兎に角異質な話題だからである。繰り返しに繰り返すが、ヒカルがファンを幻滅させる行動・言動が他にないのである。そして私は幻滅していない。

私がWebで読んだのはほんの数人の意見だが、この件がかなり広範に"スキャンダル"として捉えられているであろうと推測できるのは、その掲載誌での取り上げ方だ。わざわざ巻頭グラビアに、他の写真よりも解像度が低い即ちグラビアに相応しくないにも関わらず、その写真を持ってきたからには、編集部が「これはスキャンダルになる」と考えたからだ。こういった嗅覚は、鋭いのだ彼らは。まさにそのセンスにおけるプロなのだから。事実、何人かのファンが事態を重く受け止めた。掲載誌からすればしてやったりである。嗚呼、面倒臭い。

これが、宇多田ヒカルというのが重要である。もし椎名林檎が同じポーズで喫煙していたとしても誰も巻頭グラビアに掲載しないだろう。彼女は最初っから紫煙にまみれたイメージなのだ、実際の喫煙してるかどうかに関わらず。つまり、世間的には宇多田ヒカルは優等生で、タバコなんて吸ってるイメージがない。2ちゃんねるのスレも「宇多田ヒカルがグレた」という言い方をしている。中高生なら兎も角三十路の酒豪バツイチ女が煙草くわえてたからってそれが何やねん、なのだが、宇多田ヒカルは別なのだ。

酒井法子が薬物禍で騒動になったのは、彼女にそういうイメージがなかったからだ。犯罪かどうか、健康に影響があるかどうかよりもまず、「その人にそうであって欲しくなかった」という感情が来ている。それが良い悪いではなく、そういう状況なのだという事を確認しているだけだ。果てしなく面倒だが。

そうなると、ヒカル本人はどう思っているかという話になるのだが、これがよくわからない。その、ファンのみならず世間一般の、タバコに対する潔癖志向と、宇多田ヒカルに対する優等生イメージの両方を、どう捉えているのか。もしかしたら、喫煙に対する感覚が遅れているんじゃないかという気がしなくもないのだ。この30年で日本における喫煙環境は激変した。ここまで変わるかという位に、文化が入れ替わったと言っていい。そもそも昔は嫌煙という発想自体がなかった。今や、それが主流だと言っていい。公共の場での全面禁煙も珍しくない。流石にやりすぎなのでは…と、タバコと無縁な私が思ったりする。ちょっと魔女狩りに近い雰囲気すらある。それが、今の若い子たちにとっては当たり前の光景なのである。喫煙者は社会の片隅に追いやられて煙に取り囲まれているのだ。

ただ、ミュージシャンたちは、そんなことはないだろう。みんな普通にタバコを吸っていそうだ。そんな環境でずっと育ってきたから、ヒカルの"常識"が麻痺しているのかもしれない。いや、勿論、大前提としてプライベートを隠し撮りするカメラの存在が悪いのだし、そんな所まで気をつける必要はないかもしれないが、しかし、ここで非喫煙者からの素朴な疑問が出てきてしまう。「そんなにまでしてタバコ吸いたいもんなの?」

この感覚が、わからないのだ。ヒカルの常識が壊れていないのであれば、人前で喫煙しないようにする気がするんだが、私の考え方はおかしいだろうか。自由に買い物やデートに行きたい、というのであれば行けばいい。盗撮はやっぱりけしからんが、たとえそれがスクープされてもスキャンダルにはならない。しかし、喫煙はそのまんまスキャンダルになる。そのリスクをおかしてまで喫煙には何かメリットがあるのか…この続きは、もう面倒なんだが、まだ精神力が残っていれば次回のエントリーで。

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タバコの話題、面倒臭いなぁと思いながらここまで来ている。やれやれだぜ、まったく。

こちとらずっとロックミュージックを聴いて育ってきてる訳で、嗜好品やらドラッグやらの話題は常に、というか不可欠にあり続ける。そんな土壌で育まれた音楽を聴いて育ってきたから、そういうのはミュージシャンの"職業病"みたいなもんだと思ってる。その中でも比較的害の少ないタバコの話題なので、正直、「どうでもいい」というのが本音だ。私は彼女が人の2人や3人殺したくらいではファンをやめないと思っているので、感覚としてはオムライスの中にグリーンピースが37個入ってるか38個入ってるかでどちらが美味しいか議論しているのと同じようなもの、といえばわかってもらえるかな。

それでも尺をとってみる。というのも、私がどう思ってるかと関係なく、これは世間的に、というのみならずファンの間でもスキャンダルだからだ。

何しろ、他の話題でこれだけヒカルがファンを落胆させ幻滅させた事が殆どないからだ。恐らく、LIVEでの歌唱が酷かった時に匹敵する落胆ぶりである。しかしその時だって、怒りや落胆や心配といった感情はあっても、ここまでの露わな"嫌悪感"は生まれていなかった。離婚した時だって、こどもが居なかった事もあるが、嫌われるという事はなかった。タバコはファンを減らす可能性すらある、というのが問題なのだ。尤も、過去最もファンを減らしたのは結婚だったですがね…。


こうやって問題として取り上げる割に、実は解決策はハッキリしていて、まずは、週刊誌等がプライベートを撮影しない事。これで問題は解決する。如何にヒカルがタバコを吸ってようが、こちらが知らなければ何の問題もない。そのまま墓場までもっていけばいい。QED、である。

もうひとつは、こちらも単純明快、ヒカルがタバコをやめればいいのである。そうすればこんなに取り上げられる事はない。当たり前だのクラッカーだ。


この2つの解決策は明快であるが故に、結局、"果たしてそれが可能か?"という点に興味は絞られる。週刊誌に写真を撮らさない、というのはかなり難しいし、ヒカルだけの話ではないので、これはかなり現実味が薄い。ただ、ここさえなければタバコは問題にならなかった、という根本的な点だけは忘れず押さえておきたい。

ではもうひとつ、ヒカルがタバコをやめられるか、だ。私からすればそれは37個か38個かの違いでしかないので、38個じゃダメだ!と周りに言う人が居るならまずは1個返却しよう。それで黙ってくれるのならお安い御用である。ただそれだけの事だ。しかし、現実に、宇多田ヒカルという人が禁煙が可能かどうか、これは大変難しい。この時点で自己責任云々と言い始めても、"反対派"の矛先は収まらない。どうすれば、いいものか。続きはまた次回かどこかで。


それにしても、憂鬱な話題だなぁこれ…まぁ、たまにはいいかな。ずっとこれだと萎えるけど、楽しい話題とのコントラストだと思えば…平和な国だ、日本国は。それは、いいなぁ。

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「UtadaもUtada Hikaruも一緒になりました」―今日は兎に角よく呟いてくれる照實さん。さり気ないがこの一言は大きい。普通に考えれば、両者のバックカタログが統一される事を意味するのだから。

私はこれまで、IslandレーベルのアーティストUtadaの今後について悲観的であった。もしかしたら、EXODUS&This Is The Oneが永遠に廃盤になるのではとすら思っていた。しかし、もし仮に本当にカタログが統一されるのならばこんなに嬉しい事はない。宇多田ヒカルのアルバムも含めて再発されていく可能性が出てきたからだ。尤も、再発という概念はフィジカルがあってこそなので、配信販売のみになった暁にはそんな心配もしなくて住むのだが…。

取り敢えず、この仮定に喜んで乗っかっていこう。まず、バックカタログが統一されるとして、名義はどうなるか。名前の統一が過去に遡及される?これは難しい。普通は文字のフォント等含めてジャケットデザインが為されているのだから今からそれを修正するのはクールじゃない。多分、ないだろう。ただ、通算ナンバリングがふられる可能性ならまだある。Utada Hikaruのディスコグラフィーとして、4thアルバムEXODUS、5thアルバムULTRA BLUE、6thアルバムHEART STATION、7thアルバムThis Is The One…ああ、通算だったらシンコレ2枚も含めた方がいいのか?もしかしてCubic Uも…

…しまった、本当にどうでもいい話に字数を費やしてしまった。自分に落ち着けと言い聞かせてはいるのだが、やっぱり私もIn The Fleshのリリースが嬉しいらしい。なお、ITFと略しているのは、ボヘサマやウタユナに倣って略すと「インフレ」になってしまうからだ。何とも縁起の悪い。

またどうでもいい話に時間を使ってしまった。これからの話をしよう。つまり、英語アルバムを作ろうが日本語アルバムを作ろうが名義が同じなのだから…あぁ、やっぱりナンバリングは問題だな。次のアルバムは、Utada Hikaruにとって何thアルバムになるのだろう。全英語詞アルバムをリリースするとして、誰の何枚目のアルバムといえばいい。 結局、過去に遡ってナンバリングしなおすか、新しい名義から新たにカウントを始めるか…とすると、世にも珍しい、どころか多分他に例がない、ソロ・アーティストによる4回目のデビューアルバムという事になる。どんだけデビュー好きやねん。

この事態のややこしさからすると、UTADA in The Flesh 2010は、Utada Hikaru名義でリリースされる線が濃いのかな。Utadaじゃ今更だし、宇多田ヒカルじゃ何か違う。なんだろう、ツアー名が"UTADA in The Flesh 2010"とアタマに"UTADA"が入っているからそれで十分な気もする。

あんまりどうでもよくない話を。名義が統一されるという事は、内容が何であれ、基本的に総ての作品が全世界でリリースされる事を意味する。となると、フィジカルは日本先行の発売が基本になるか。輸入盤対策をしなければいけないからだ。現時点でも逆輸入防止措置はとられているが、果たしていつまで有効か、不透明である。

まぁいいや、兎に角、ITFのリリースが見えてきた。それを素直に喜んでおこう。ラジオでこの作品について触れるか否か、ユニエミはどれ位の希望の宣伝をかますか、果たして円盤は本当にリリースされるのか、興味は尽きないが、取り敢えず先にUTUBEに一曲だけでもUPしてうただけませんかねぇ…(笑)

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昨日から今日にかけて照實さんがIn The Flesh 2010 footageについてツイートしていたので内容を纏めておくと、リリースは年内を目指す、配信は決定しているが円盤は未定、収録公演はロンドンとニューヨークでその配分は不明、といったところか。次々と新情報が、と言いたいところだが何れも既定路線なので確認作業という雰囲気。発売日については出す出す詐欺の延長線上なのだが、個人事務所でその元役員が亡くなったりした訳だから大幅にスケジュールが遅れるのは致し方ない。ただ、既にマスタリングが終わってる商品の権利処理がまだ終わっていないというのは厳しい。GOサインが出なかった場合、該当者の出演部分やクレジット等を作り直さねばリリースが出来ない。それはクリアするべき内容によるのだが、結局年内は厳しいんじゃないかという結論になる。しかしまずは望みを持って、前に書いた通り"クリスマス・リリース"が実現する事を願っておこう。

円盤が出るか否か。配信限定といっても、映像ソフトを扱っているストアは限られてくる為、フィジカルリリースを望む声は大きい…と、言いたいんだが、DVDに関していえば桜流しが初週2万枚である。半分洋楽の、いや、洋楽の作品と思われている以上はその半分以下の売上になるとみるのが妥当だろう。もう9年前の話で何の参考にもならないかもしれないが、Easy BreezyのDVDが初週1万枚であった。あの頃よりファンが増えているとは考え難い。

となってくると、少なくとも国内では宇多田ヒカル名義でのリリースが現実的だろうか。日本語曲の存在をアピールし、ついでに英語曲も聴けますよとなれば、少しは食い付いてくれる人も増えるかもしれない。何しろ、これだけ手間をかけてリリースするのだから、せめて採算ラインには乗せたいところだ…なんていう言い回しをHikaruの話で使うだなんて思いもよらなかったけれど、実際、かなり熱心なファンでないとこのタイミングでのこのリリースに興味を示す人間はかなり少ない。会場もライブハウスという事で映像上の見栄えも地味なもんだろう。ことによったら音源に絞ってライブアルバムを作った方がまだ売れるかもしれない。

いずれにせよ、出来るだけ宣伝費をかけず、ひっそりと配信のみで販売するのがいちばん安全だと思う。だからといってそうしろとは思わない。かなり難しいジレンマだがこのままだとその話は確実に年を越えそうなので鬼が笑い出す前に取り敢えず今回はこれくらいで。

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Hikaruも好きだというチック・コリアの「Return To Forever」を聴く。相変わらず素晴らしい。歌詞もあるにはあるが、スキャットも含めると大半が器楽演奏で、要は基本的にインストアルバムである。音の割合的にね。

器楽演奏はある意味最も純粋な娯楽である。ただ音が鳴っている、何かが振動しているというだけで、そこには主義主張も思想信条も宗教も政治も何もない。いや作曲者によっては表題音楽として「ここのパートは小鳥の囀りを表しているんだ」と言い張ったりする人も在るかもしれないが、そんなものは聴き手の解釈次第だ。どうとでもなる。純粋に、意味もなく、音を楽しむ。これがいい。

逆にいえば、歌というのは純粋でないからよい、とも言える。私の知らない言語で歌われた歌は私にとってスキャットであり耳は器楽演奏を聴くそれに近くなる。しかし、日本語や一部の英語の歌は、どうしても歌詞が耳に入ってきてしまい、その歌詞の描く情景や主張や意味なんかを汲み取ってしまう。いろんなものにまみれた"歌"は、そうやっていろんなものと絡み合い、利用し、利用されていく。

今回もヒカルの歌の歌詞を通じていろんな事を言われた。いやはや、色んな解釈もあるものだなと思わされたが、もしこれ、ヒカルが器楽演奏専門家だったら一切こんな事はなかった筈だ。歌を歌うから、あれやこれやと言われ易いのである。

あれだけ上手いんだから歌って当たり前、というのもそうなのだが、それ以上に、Hikaruがそういう器楽演奏のような"純粋培養"よりも、いろんなものを引き摺って来る"歌"の方を選んだのは、自然な事とはいえHikaruらしいなと思う。Hikaruは、あまりピュアとか純粋とか言わない。代わりに言ったのが"Simple And Clean"だが、"カンタン、キレイ!"なこのタイトルはそこまで純粋に純粋の意味とはならない。単純で清潔というのは、簡素という事でもあるか。色々ゴタゴタと注釈をつける事が可能なヒカルのキメ細かな歌唱には、あまり純粋さは感じない。代わりに誠実さや思いやりを篤く感じる事が出来る。

一方で、藤圭子の歌は、何と言うのだろう、それと較べれば随分純粋なように思う。世間知らず、と言ってしまうとただの先入観だと思われてしまいそうだが、どこか排他的で、他を寄せ付けない、繊細で壊れ易く、脆さと隣り合わせの強さみたいなものを感じる。ヒカルの、いろんな事を考えた末に辿り着く歌唱とは、対局にあるような気がする。いや勿論喋り方をみれば彼女はHikaru同様頭の回転の早い人なので何も考えてないのとは違う。その気をどこに回すかが2人の間で随分違うなという事だ。

それが、都築DJの仰ってた「藤圭子は一色(ひといろ)の声しか出せない」理由のひとつなんだと思う。この人、どこまでも内向きだったんじゃないか。なので、誰の歌を歌っても、藤圭子がみたようにしか藤圭子は歌えない。その個性が図抜けて強烈で、尚且つ歌が抜群に上手かったもんだから、ピタッとハマってしまったのではないか。彼女の同時代人と。

そこでふと考える。もし彼女が「純子」の名のママでデビューしていたとしたら。何故「圭子」だったのだろう。純子さんは、名前の通りの人だった。ゆえに社会には馴染まなかったのかもしれないし、歌えたものだから様々な浮き世のよしなしごとを引き摺る事になったんだと思うんだけど、その時に名前が「純子」だったらどうなっていたか。何か、歴史が変わってしまっていたかもしれない感触がそこにはある。

Hikaruは、本名のママだ。出来れば結婚しても、するなら、婿をとってそのままの名前で居て欲しい。いや勝手にすればいいけどさ。言うだけ言ってみたんだ。

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昨夜のツイートにて、くまちゃんとのコントが復活しているのを見て、少し安堵した―と書いておくのが礼儀ってもんか。要は、あんまりにも世間(ってだからどこなんだよそれ)がヒカルの事を心配するもんだから「もう大丈夫だよ」っていうメッセージだわな。まだ1ヶ月だよ。更にその後マスコミ禍だよ。大丈夫な訳なかろ。自分も含め、いつまでも「今の話題」として母の死を扱っていたら次に進めないから、少し無理してでも「遠き日の思い出」を語って今回の件を過去のものにしようとしてるって訳だ。ならば、いや、うん、いつもの通り、書いてある事を字面通り受け取って、それに乗っかっていくとしようじゃないか。


『今後、精神障害に苦しむ人やその家族のサポートになることを何かしたい。』というのを聞いて、うーんと唸ってしまった。その心意気やよし、なのは間違いないし期待感も半端でなく大きいのだが、ならばマスコミ恐怖症の見出しを出させてしまったのはどう考えればよいのか。

別に活動規模の大小なんてどうでもよくって、Hikaruが納得のいく形態で実行してくれれば…という理屈は多分通用しない。Hikaruが如何にそれを望もうと、周囲は間違いなくヒカルの「知名度」に威力を発揮して欲しいと懇願してくる。ヒカルの社会的価値は人間性でも音楽性でも知性でもない。財力と知名度だ。心も喉も頭も必要とされない。金と顔である。

そんな状況になれば、不可避的にマスコミに頭を下げる場面が出てくる。顔として広報を担当するならね。情報の流通路を押さえているシステムには、どう足掻いたってかなわないのだから。その既存のシステムを改善するしかないがそれすらも難題だ。そんな時にあのマスコミ恐怖症発言が吉と出るか凶と出るか。非常に危なっかしいのは間違いない。

ヒカルが何かしたいと願えば願うほど、マスメディアとの付き合いは不可避になる、という出来上がった現実には溜め息を吐くしかない。早めに人間活動を遂行しておいて、よかったなと思うよ。

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喫煙行為はかなり衰退したとはいえ、勿論合法的な行為な訳で喫煙者の皆さんはまだまだ沢山居てはる。変わったのは、空気の方だ。煙草を吸っていると白い目でみられる事が多くなった―と言うと頷いてしまいそうだが、確かに心境的にはそうなっているとはいえ実際に不快感を表情に出す人はそんなに居ない。不思議な事にいつのまにか、禁煙エリアが出来、広がり、喫煙者を押しのけていったのである。ふむ。

つまり、何が言いたいかというと、ゴシップ…というより、噂話と言ってしまった方がいいか、そういう営み自体を無くすのはかなり難しい。しかし、パワーバランスの中で「何となく居心地がよくない」感じを出していく事なら、可能かもしれない。

例えば、電車の中吊り広告。最近全く目を通していないので(毎日視界には入ってる筈なんだけれども)どの雑誌のものが健在なのかはわからないけれど、「こんな広告はちょっとなぁ」という空気が徐々に盛り上がっていけば、本当に無くなっていくかもしれない。例えば、新聞の週刊誌広告。いまでもあるのかな。もう新聞読まなくなって久しいから知らないけれど。これはちょっと、というものがあれば気軽に抗議すればよい。果たして彼らが、購読者をとるか広告料を払ってくれる方をとるかは、わからないが。

テレビのワイドショーはどうだろう。「あんな映像を流すなんて」と訴えればいい。フジテレビだと土曜の早朝に軽く受け流してくれる筈。あの番組まだやってるのかな。

いや実は、番組への抗議なんて痛くも痒くもないもんだ、放送局にとっては。攻め方を変えてみる。そのワイドショーをスポンサードしてる企業に抗議するのはどうか。「あんな愚劣な番組を支援してるなんて神経を疑う。提供を降りない限り貴社の製品は買わない。」とメールの一本でも入れてみる。放送局より遥かに効く筈である。こういう場合、怒りに任せた内容だとクレイマー認定されてしまうから出来るだけ冷静に、常識人として簡潔に告げた方がいい…

…だなんて書いてる私は、今書いた事をひとつもやる気がない。理由は単純で、元々ゴシップを消費して生きていないからだ。たった今週刊誌とワイドショーが絶滅しても全く困らない。宇多田ヒカル情報は本人と事務所とレコード会社が直接インターネットを介して教えてくれるのだから。他のアーティストも同様だ。突っ込んだインタビューとかは音楽雑誌で読めばいい。どの出版社も、週刊誌の売上に支えられて他の雑誌も刊行出来てますみたいな所はなかったと思うし、あったとしても一部だけだから生き残った他の雑誌を読めばよい。そもそももうテレビをそんなに見ないから、芸能人に興味がない。政治経済社会情勢ネタとかは個人ブロガーで十分だし…兎に角無くなっても一切困らないのだが、だからこそ「それを生業にしている人たちも居るし、何より表現の自由は最大限守られるべきだ」という普段のスタンスになる。要するに他人事なのだ。

しかし、霊柩車に立ちはだかったり犯罪者でもないのに(&警察官でもないのに)一週間尾行したりというのは表現の自由とは何の関係もない。ただの(軽)犯罪だろう。私ならその場で変質者発見と言って通報しただろうに、何故有名人はそこで我慢しなくてはいけないのか、よくわからない。

なんだろうな、これも煙草と同じか。本来なら、往来を行く際に手に火の付いた棒を持ち鼻と口から煙を吐きながら歩いていたら完全に危険人物だろうに、これが煙草なら許される。進路妨害やストーカー行為、都内なら迷惑防止条例に引っ掛かる行動も、マスコミだからと許されているのかな。変なの。やっぱりそれも空気の為せる業なのだろう。そこから変えていかなければならない。いやでも、私は何もしないんですがね相変わらず…。

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