無意識日記
宇多田光 word:i_
 



関東の試聴会がハズれたので、参加してきた人(某パパ)から話を聞いてきた。12月3日0時までは箝口令という事だが、宇多うたアルバムの内容については訊かなかったので、まぁ私自身はあんまり気を遣う必要はない。主に、客層とか人数とか会のセッティングとか進行とか、そういう話だ。

とはいえ、そういう話でも何らかのヒントになってしまうかもしれない。あと3日間は当たり障りなくいこう。

一点だけ、そんなに危なっかしくないヤツを。話を総合すると、まだまだそういう段階ではなさそうだが、これはひょっとするとハイレゾコラボウォークマンが、今年のEVA同様に、宇多田でもあるかもしれないという期待を抱くに至った。

ただ、実現は結構難しい。なぜなら、くまUSBが発売になるからだ。SC1&2に2万円(人によっては4万円)を費やした人が更に、既に持っている商品に、例えばSONYのA-16(同社最安値ハイレゾ対応プレイヤー約2.5万円)にSC1&2をプリインストールするとするとまぁ配信価格が1枚組+2枚組で1万円位だとすると、3.5万円を払うのか、払わせるのかという話になるからだ。

商品としては魅力的だ。ずぅっと書いてきているように、ハイレゾの魅力を伝える為には、地デジが高解像度テレビを買わせたように、ハード構成もまるごと提案しなければならない。ウォークマンなら、付属イヤフォンのクォリティー次第ではそれを実現できる。今ハードを揃える為に何を買えばいいか悩んで"選択地獄"に陥っている人には渡りに船で好都合な提案となる。

しかし、くまUSBと時間差でコラボウォークマンを発表となると、たとえ真実の事情として「後から決まったんです」と主張しても、印象はあまり宜しくない。そこがまずひとつの問題点。


もう一つは、容量の問題。上記のA-16は保存容量が32GBしかない。一方SC1&2はそれだけで既に6GBだそうな。ちょっと容量を食い過ぎる。

この種の問題を解決する為に、ユーザーはA-16(及び姉妹機種の64GB容量A-17)に128GBのmicro-SDXCカードを挿入するのが基本となっている。しかし、このmicro-SDXCの128GBが現段階でも非常に高価で1万円は下らないという代物。プリインストールで1万円値段が上がっている上に更にこれでは流石にちょっと、となるだろう。いや、コラボウォークマンはあとFL15を入れて宇多田専用ウォークマンにするんだと仰るなら32GBで十分に足りるのでこの問題は気にしなくてよいのですが。


というような感じで、コラボウォークマンといっても素直にいけるかどうか。ただ、もうここは開き直ってハイレグくまちゃんシリーズ、もとい、ハイレゾくまちゃんシリーズ第2弾と言い切ってしまうとか、予約購入者に抽選でmicro-SDXCカードをプレゼントしてしまうとか、様々なフォロー&ヘルプが必要になってくるかもしれない。

特に、デザインは重要だ。できれば、右下にくまちゃんのマークが明滅するように作ってもらいたいが、それはA-10シリーズにはないんだっけ。それならあれだ、イヤフォンジャックカバーやイヤフォンバッグをくまちゃんにするとか、壁紙と称して未発表写真を大量にプリインストールするとか…うーん、予算のかかるようなアイデアしか思い付かないぜ。

まぁ兎も角、現時点では、将来的にはそういう可能性も出てくるかもよという弱ぁい程度の話なので、話半分に、いや、話1/8位に聞き流しておいてくださいな。多分今の段階では誰の話題にも上ってないと思うから。少なくとも、試聴会ではそういう話は一切出ていなかった模様ですよと伝えておきましょう。

それにしても試聴会、参加してみたかったなぁ。残念。関東だけ倍率高かったみたいだから仕方がないわね。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




YES来日最終公演を見てきた訳だが、詰まる所浮き上がってくるのは今の自分の興味・関心の方だった。先日のニコ生の小室哲哉同様、彼の場合はGet Wildの即興ミックスなどを演奏していたのだが、本日の公演もまた、私が見ていたのは、今目の前に居る老人たちが、自分たちが作ったり作らなかったりした40年以上前の名作、それも、ロックの歴史上非常に重要性の高い、影響力絶大な名盤の完全再現を、どれ位"今の自分の音"として演奏しているか、最も平たく言えば、どんだけ心を込めて演奏できているか、その点をいつのまにかチェックしていた。公演前にそんな心づもりを形作った憶えはないのに。

彼らの事を知らない人でも、アニメ「ジョジョの奇妙な冒険」第一期のエンディングテーマを1曲目に据えたアルバムの完全再現でした、と書けば少しは食いついてくれるかな。いやでも、そこを本題にして今日の彼らの詳細を書いてたら時間がかかりすぎるのでそれは置くとして。


彼らをみて思ったのは、ミュージシャンという人種は、それがなんであれ常にエモーショナルでなければ務まらないなという事だった。感情のエネルギー。どれだけ年齢を重ねようと、怒ったり笑ったり悲しんだり楽しんだりというのがなければ、音楽に感情は籠もらない。殆どトートロジーに近いが、しかし、これは深刻な問題である。今そこに心が無いのに音を鳴らしてもそれは死体パペットをダンスさせているだけだ。いやそれはそれで一芸だし極めれば芸術だが、それしかなければ生命は宿らない。我々が生きている以上、そこからは逃れられない。

だから、ミュージシャンは、普通の人以上に"エモーショナルでいる事を許されているべき"だと思ったのだ。私が今日いちばん感動した事のひとつは、スティーヴ・ハウが楽しそうにギターを弾いている事だった。同じ年齢の老人が道端でハウ老師と同じように笑顔でダック・ウォークをしていたら春が来たのかなぁと思ってしまうが、そこがステージである限りそれが最も望ましい。そういう人種なのだミュージシャンは。普通の人なら感情を押し殺す場面でも逆に増幅させて楽器やマイクや譜面に叩き付けるのが仕事、社会貢献なのである。


ヒカルが人間活動に入る時、この一節ばかり引用されるのはイヤだろうけれど敢えてまた書くのだけど、「マネージャーなしでは何もできないおばさんになりたくない」「今まで特殊な職種という事で周囲から必要以上に守られてきた」と語っていた。

今振り返ってみると、これは、順序を逆に考えて捉えてもよかったのかもしれない。つまり、そういった、感情のままに、気の赴くままに生きるスタイル、ミュージシャンだからこそ許される生きざまから離れたくなったから人間活動に入った、という解釈の仕方だ。

であるならば、実は、彼女がアーティスト活動に復帰するタイミングというのは、今まで考えてきたような、「人間活動を経て私は立派に"普通の"社会生活を送れるようになれました。だから自信をもってミュージシャン活動に戻ります。」というような感じではなく、反対に、「人間活動に勤しんで参りましたが、それは私の資質には合いませんでした。やっぱり私はミュージシャンでした。今まで通りの生き方に戻ります。」という気持ちになった時が復帰のタイミングになるのではなかろうか。

この場合、人間活動の成否は問題ではない。彼女が、やるとなったら普通の社会人として生活する、というのは出来そうな事だし、この4年間実践してきたかもしれない。できなかったかもしれない。それはどちらでも構わないのだ。それを通じて、それは合わないと感じ取ったかどうかがポイントなのだ。

確かに、人としても音楽家としても通用するウルトラハイブリッドとして帰ってきたらそれはそれで凄い。でも待ってくれよ。ただでさえ何でも出来るオールストレートAの完璧超人が(ただし、なぜか自転車は苦手)、これ以上なんでも出来たら周囲の立つ瀬がない。言ってしまえば、Hikaruは今よりもっと孤立し、孤独になるかもしれない。

Hikaruには、どこかダメなところ、甘えたところが残っていた方がいい、のじゃないか。それを以てして、周囲は、彼女のように麗しい音楽を生み出す事は出来ないけれども音楽を愛する人たちは、「仕方がないなぁ」と苦笑いしながらすすんで助けてくれるんじゃあないのかな。ただでさえ我慢が得意なHikaruの我が儘をきく事でHikaruのミュージシャンとしての、アーティストとしてのエモーションに生命を与えられるならば、音楽に携わる人間としては大いなる矜持たりえる。一言でいえば、「無理すんな。歌は生まれる。」といったところか。


だから、自分としては、例えば急によくわからないまま月1ラジオを休んだりしたとしても、「それでいい。それがいい。」と言っておこうかな、とも思う。老人になっても、歌う事が好きなままで居て欲しい。これもこちらの我が儘だが、我が儘を与え合う事でお互いが満たされるならそっちの方がいい。甘えるか甘えないかは過程の話に過ぎない。どんな味がしようが何より腹が満たされる事が大事である。あるもん食っとけ/腹が減ったら食うんだ。私の家訓と座右の銘だが、それが結局いちばん私が言いたい事なのかもしれない。私は私とともにある、のだから、ね。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




ハイレゾツンデレな話が続いているのでもう一度整理しておくと、ポイントは高画質の価値や意味をどう知ってもらうか。これに尽きる。

音と画で事情は違うが、映像の世界ではそれを政治力で強引にやってのけた。まだまだ使えるアナログテレビを無理矢理廃棄させ、デジタルを買わないとテレビが見れなくなるぞと脅して高画質テレビジョンに買い替えさせたのだ。そうなると、どうしてもDVD画質では粗が見えてくる。アナログ時代の画質では気にならなかったのに。それで皆に高画質を知らしめてBlurayをある程度普及させたのだ。もっとも、コンテンツによってはDVDとBlurayが半々、或いはDVD優勢、いやそもそもDVDしか出ていないものも多い。価格差のお陰で、まだそこまでは徹底されていない。裏を返せば、全体主義国家並の強制力をもってしても高画質の価値はそこまで敷衍されていない、とも言える。


音楽についてはそういった政治力、強制力を使える余地がない。特に、日本人の特性かどうかはわからないが、我々が音声に求めるのは判別性・識別性が主であり、高解像度は映像以上に眼中にない。いや耳中にない?そんな言葉はないか。

判別性・識別性とは、「今何と言っているかわかる」或いは「Aと言ったかBと言ったかを区別が出来る」という意味だ。平たく言えば、ニュースの音声を一字一句間違わずに聞き取れれば人はそれ以上の音質をなかなか求めない。それ以上の高音質を耳が感知できないのではない。必要性を感じないから相手をしないのだ。

この壁は大きい。勿論、値段が同じならば(高音質を耳が感知できるのだから)皆高音質を選ぶが、差額を払ってまで手に入れたいかというと否、だ。DVDとBlurayですら今の感じなのだから、MP3とハイレゾではなかなかに難しい。勿論、差額が問題なのだからDVDとBlurayが同じ値段になったら皆Blurayを選ぶ(実際は、コピープロテクトや再生機器への負荷等を考慮してDVDを所望する層はある程度残るだろうが)。ハイレゾも、今ある圧縮音源配信販売価格と同額になれば選ばれるようになるだろう…が、音楽ファイルには容量の問題もある。昨今の64GB以下の容量でハイレゾ音源を入れるとなるとかなり足りない。やはりここでも、映像より難しいだろう。

そこで前回は、その差額を払ってでもハイレゾを手に入れる動機を喚起する目的として、ライブ盤への注力を提案した。特にBlurayは、配信音源と異なりリビングのしっかりしたステレオで観て・聴いてもらえる確率がぐっと高くなる。ハイレゾのアピールの為にはよりよい環境となるだろう。


…という話を、今までしてきた。昨日は初心者の為のハイレゾ講座まで掲載されていて、宇多田チームの注力具合も伺い知れてきた。各地の試聴会々場ではハイレゾ音源とハイレゾ対応プレイヤー&ヘッドフォン?が用意されていたとか。よい販促になった事を願う。できれば上述のようにライブ音源がよかったが。「まるでHikkiが目の前で歌ってるみたい!」と感じさせれれば価格差なんてもう視界に入らないから。


…まぁ今日は休日だし、取り敢えずまとめまで。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




おぉ、「初心者にもわかるハイレゾ解説ページ」なるものが出来たのか。「3倍の情報量」とか「升目が細かくなる」などの表現からは、専門家による文章ではない風が漂ってくるが今の時点では細かい事はどうでもいい。そうそう、こういうフォローが大事なのだ。まずはその行動力を讃えたい。素晴らしい。

本来ならば、宇多田ヒカルという名前の大きさであれば、ハードウェアメイカーとコラボレーションして、予算に応じてこれとこれを買いなさい位の押しつけがましさを出せるところまで行ってもいいのだが、本人不在の今は兎に角これくらいでいいだろう。興味のある方は是非御一読下さいな。

私は私で、では、根本的な点を指摘しておかねばなるまい。そもそも、「高音質って意味あるの?」という点から、本来は説明しなくちゃならんのだ。宇多田ヒカルのファン層から考えると。実は、聴き手の耳が高解像度の音かどうかがわからないのとは違うのだ。現実は。

皆が本当に知りたいのは「何それ美味しいの?」という点である。確かに、試聴してみればいい音、クリアで細かいところまで聴こえるサウンドだなと、わかるはわかるのだが、その為に何万何十万時には何百万も払うの?そこまでのものなの?というのが本音なのだ。3万円のヘッドフォン。確かにいい音だ。でもその金額を出したらアルバム10枚買えるよ、レンタルだったら100枚だ。そこまでのお金を出したいかというと、ねぇ?

そこを説得するには、まずは、今の宇多田チームがやっている通り「過去の名作の買い換え」をハイレゾでやってもらう事だ。聴き比べれば、今まで聴こえてこなかった音が次々と発見される。ハイレゾは、今のところ、黎明期草創期だけあって、新作を買ってもらうよりは、聴き慣れた名作の再評価へと繋げる機能の方が大きいだろう。宇多田チームはそれを今年実践している。そこまではよい。

もうひとつ、高音質の価値を実感できる、しやすいコンテンツがある。ライブ実況盤だ。スタジオレコーディング作というのはそれだけで閉じた作品である。スタジオ作を好み、ライブ作品を忌避する人は決まってこう言う。「歓声や拍手が煩わしい」と。こういう人の求める高音質とは、ハイレゾの売りとは少々違うところにある。彼らに必要なのはノイズキャンセリングやホワイトノイズの低減であり、いわば、如何に音世界をクリーンに聴かせるかが大事なのだ。まずはそちら、次にハイレゾ的な高解像度が求められる、という順番である。

対して、ライブ実況盤大好き人間(私だ)にとって、最も大切なのは何といっても「臨場感」である。まるで、目の前でお気に入りのアーティストが歌ってくれているような感覚。それを感じられる事が大事だ。これも、実は最初に来る要請は解像度の話ではなくて、「余計な音が後から入れられていないか」だったりするのだが、それは、ライブ実況盤大好き人間にとっていちばん大事なのが「ありのまま」であるからだ。

となると、スタジオ作品よりライブ実況盤の方が、高解像度という美点は威力を発揮する。サウンドが細かいところまで鮮明であればあるほど、「まるで目の前に居る」感は高まる。これは理屈抜きに魅力的だ。


という訳で提案したいのは、過去のライブ作品のハイレゾ化である。宇多田ヒカルのコンテンツであるならば何をおいてもまず「Unplugged」だ。祝・今日で発売13周年。映像も勿論だが、"親密さ"こそテーマであるアンプラと、Hikkiファンにとって最重要要素である「ヒカルちゃんが身近に感じられる」点の相互作用。これをハイレゾリューションで提供すれば、如何にハイレゾというものが威力のあるものなのか、少なくともコアなファンには伝わる筈である。

勿論それはBlurayや、或いは音声のみを抽出してハイレゾ配信してもよいが、解説ページにあるように、今年はハイレゾ対応スマートフォンが出回り始めた年だ。まだ時期尚早とはいえ、スマートフォン向け映像配信なんかも案外需要があるかもしれない。未来への展望としてはアリだろう。まずは兎に角、既存ライブ作品のHD化リリースである。どうせなら思い切って、Blurayに音声のみのトラックもバンドルして再発されたら嬉しい事この上ないが、なんだかどんどん厚かましくなってきたので今宵はこの辺で筆を置いておきますまた次回!

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




昨夜ちらっとだけ小室哲哉のニコ生生演奏を見る事が出来た。なんだか随分と時間が押していたらしく。単独でピアノ等を演奏していたのだが、ニコ生アンケートの高評価(とてもよかったが96%超)とは裏腹に、私の方は「やっぱり枯れちゃったんだなぁ」となんだか切ない気持ちになっていた。

生演奏、それも即興混じりのプレイは今のその人を残酷なまでに映し出す。彼はもはや、80年代のTM NETWORKがもっていたナイーヴな(俗に言うjuvenileな)メロディーには最早感性が突き動かされていない。ただ、昔そういうフレーズを弾いていたからそういう音運びとかコード進行とかは弾ける、弾き易いというだけである。

なかにはちょっとしたジャズ風なアレンジもあり、寧ろフレーズにリアリティがあったのは、そういった従来の小室哲哉にはない要素の方だった。つまり、彼の今の問題点は、自分が今どんな感性やそれに基づいた音楽に突き動かされるのかという現実から目を背けて、なぜか過去の再生産に走っている事なのだ。

確かに、旧来のファンであればもう30年間応援してる訳で今更新路線を追究されるより従来の名作の再生産でもしてもらっていた方がいいわけで、そういう意味では戦略的には間違っていない。事実、TMは来年さいたまアリーナ公演を控えている。あのハコでコンサートが出来ている以上、そのラインから逸脱するのは難しい。

今の彼に必要なのは、過去の栄光と指癖を忘れて、今の変わってしまった自分自身の感性を受け入れる事だろう。何の為の必要かといったら、でも、確かにわからない。たぶん、そうやって出来た音楽は、新しいファンを獲得するだろうがそれ以上に、恐らくその何倍も旧来のファンを失うだろう。それがわかっているのに「今の自分に正直に」なる理由はわからない。

それこそ、全体的な価値観の問題で。何をとるかだろう。アーティストとして自分の生み出す作品に満足できるかどうか。それは、何をもってして満足と呼べるのか。


ヒカルが次の15年を生きてデビュー30周年を迎える時、どちらの道を選んでいるかは興味深い。恐らく伝説として肥大化したファンからの期待に応え続けているのか、或いは、素直に自分自身の音楽的志向性の変化に従っているのか。

たぶん、最良の答は、「30年経っても10代の頃の感性を持ち合わせている」事だ。変わらなければ、いや、それを捨てていなければ、どうという事もない。しかし、それはどこまでコントロールできる事なのか、それはさっぱりわからない。でもヒカルなら、かわいいままおばあちゃんになっていくんじゃないかと思えてならない。そうなると相変わらず、多忙の中でぶっ倒れたりしていて、それって年齢を考えると随分酷だなぁとも思える。取り敢えず、桜流しまで聴いた感じでは、あの鋭利な感性は、やや質感は変化し続けているものの、ずっとキープしているように思える。あらゆる奇跡を支えているのは、この第一の奇跡だ。幾ら楽器が弾けようが歌が歌えようが、ここがなくては…そもそも音楽なんかやりたがらない、んだろうな。そうなったら引退しそうだ。それはそれで仕方がない…かどうか、次回はその話の続きから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




この間照實さんがテーブルの上?か何かの写真を公開していた。くまちゃんUSBやKUMA POWER型紙を背景に中央に鎮座していたのは25万円は下らないという高級ポータブルプレイヤーと市場価格3~4万円はするだろう定番のヘッドフォン。彼は、この、30万円以上するシステムを介してハイレゾ音源を聴きながら「これからはハイレゾの時代が来ると宇多田チームは云々」と宣っているのである。勿論これはポータブルだからお家の中ではここから更に一桁上のシステムが待ち受けている事だろう。我々には関係ない世界の話である。

我々庶民にとってやっとハイレゾ音源に現実味が出てきたのは昨年SONYからハイレゾウォークマンがリリースされたところからだろうか。今春にはエヴァンゲリオンコラボウォークマンが発売されたので御存知の方も多いだろう。それだって「随分するものだな」という感想が多かろう。本当にハイレゾの威力が出るのは6~7万円台の機種の方だしね~。

今月アタマには同じくSONYから更に廉価版のハイレゾウォークマンが発売された。安い方のA16なら2.5万円位だっけか。うーん、これくらいなら手が出るかな…?と思う人が漸く出てくるかな。今時の人は大体スマートフォンの新機種に注力するだろうから、こういうのにはなかなか興味が湧かないだろうか。

しかし、折角SCv1&v2がハイレゾで配信されくまUSBが発売されるのだからこれを機に、という人も居るかもしれない。確かに、既に持っている音源に2万円払える人ならもう一声でハイレゾウォークマンが手に入ると聴けば購入意欲も出てくるかな。

ただ、プレイヤーを買っただけではハイレゾの威力はわからない。それなりのヘッドフォンやイヤフォンが必要である。そこでメイカーからハイレゾ対応ヘッドフォン等が発売されている。が、率直に言って、店頭で試聴してみた限り、ただハイクラスのヘッドフォンであるというだけで、ハイレゾ対応かどうかというのはほぼ、いや全く関係ないと言っていい。

ここでも何度か書いてきたように、ハイレゾの肝は高い周波数の音が出る(44.1kHzという上限が96kHzや192kHzになる)事より、音の解像度が上がる(16bitが24bitに)事の方だ。殆どの大人は16kHzを超えた音は認識出来ない。が、ハイレゾになってきめ細やかになり、何よりあのCD特有のキンキンでせわしない高音域がなくなりよりアナログレコードに近くなった滑らかな音の輪郭の方は、直接だとわかりにくいにせよ聴き比べればかなり把握できる。つまり、ハイレゾ対応と銘打って20kHz以上の音域が出る事を売りにした製品より、寧ろハイレゾ関係なく高解像度を謳った製品の方を選んだ方がいい。



…しまった。ただのハイレゾ講座になってしまった。毎日日記を書いてると大体殆ど自動運転なので油断するとすぐ筆の行き先が迷子になる。そういう話ではなかった。

本当なら、いちばんハイレゾで聴きたかったのはPrisoner Of Love -Quiet Version-だったのだがいつか聴ける日が来るのかな。これがかなり厳しいと言わざるを得ない。なぜなら、今年FL15がリリースされたが、ハイレゾ配信は本編の曲だけで、付属ディスクのBサイドトラックスのハイレゾ配信はなかったからだ。つまり、今後HEART STATIONの記念版が作られBサイドトラックスが付属されそこにQuietが収録されようとも、そのハイレゾが配信される確率はかなり低い。悔しい。たぶん、あの曲こそが最も高音質の魅力を我々宇多田ファンに伝えるものである筈なのに。いつか潮目が変わって総てのHikaruの音源がハイレゾ化される事を望もう。取り敢えず出たハイレゾは購入して支援々々。諦めずに頑張るぞい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




Pop Musicというのは、何も規模に囚われる事はない。世界だとか日本だとか、そういうスケールで語られがちだけれども、寧ろそれは志の話である。「1人でも多くの人に聴いてもらいたい」という意志が、音楽をPopularにしていくのだ。

特定のジャンルに落ち着いた場合、その世界の中での会話に終始する。前はこんな事をしたから、次はこんな事をしてみよう、みんなどう思うかな、という風に考えている時点で、大体その「みんな」の顔はみえている。現実にはファンというのは時間とともに移り変わっていくものだから固定されている訳ではないのだけれど、意識としては既に大体"顔のみえている"相手が想定されている。

その意味で、Pop Musicianとは常に開拓者だ。今度は、今まで聴いてもらえなかった人たちに聴いてもらうようにしよう、という意志は音楽をよりわかりやすく、また、流行をとらえたものへと変化させていく。伊藤政則風にいえば「どんどん間口を広げて」いく感じである。

その意志があるかないか、だ。しかし、そうやって音楽性を変化させるのは、新しい層の開拓に成功しても旧来のファンを失い、結果としてスケールダウンする事にもなりかねない。常にPopであろうとする意志は常にリスクと隣り合わせだ。

そのコントラストが最もハッキリするのが日本という市場である。言葉の壁だ。今まで日本語で歌ってきていて、日本である程度売れてさぁこれから海外の人にも聴いてもらうぞとなった時、日本語詞から英語詞にシフトした方が有利なのは言うまでもない。だからといって英語オンリーになると日本でのファンベースを失ってしまう。言葉の壁はPop Musicの壁でもあるのだ。

従って、今まで幾つもの、海外でも通用しそうな才能たちが日本国内にターゲットを絞り込んで海外展開を封じてきた。海外をツアーすると言っても、日本語のままでも通用するアジア圏とか、そもそもあんまり英語に馴染み切っていないかもしれない国々が中心で、欧州や北中南米など、英語のPopsがヒットしている国に乗り込んで、というケースは稀だった。

Utadaはその数少ないケースのひとつで、Loudnessと同等の結果を残した殆ど唯一の例であるが、逆に日本では殆ど話題にならなくなっていった。海外での成功を逆輸入できる、なんていう状況にまではならなかった。全米1位を獲るくらいでないと無理なんだろうな。

今のHikaruの志向性はわからない。しかし、よりPopであろうとする意志と、日本での活動が基盤になっているという現実とに折り合いをつけるのは難しい。どれだけ売上や市場規模が小さくなっても、洋楽ファンのパーセンテージは昔から殆ど変わらないのだ。

もしかしたら、最近言われている"小学校からの英語教育"が定着すれば現況にも変化があるかもしれないが、それって何年あとの話だい…?

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




先日リリースされた平原綾香のカバーアルバム、何十年と歌い継がれてくた名だたるスタンダード・ナンバーたちに並んで、ファレル・ウィリアムズの"Happy"が収録されている。まだ去年の曲である。

しかし、誰が選んだか知らないが、この選曲は慧眼といわざるを得ない。"Happy"は、別に誰もが認める感動的なナンバー、という性質のものではないが、日本語でいうところの"流行歌"そのものの曲だ。何よりも"今"という感触がそこには封じ込められていた。実際にヒットしたという事実が、この曲をのちのちスタンダードナンバーに押し上げていくだろう。後生の人は後追いで聴いて、「これが10週連続No.1なの?」と訝るかもしれないが、この曲が2013~2014年にヒットしたものだと知れば、「確かに、あの時代の匂いがするかもしれない。」と人は言うのではないか。その意味において"Happy"は既にスタンダードナンバーであり、定番曲だらけのカバーアルバムに収録するのは正解といえる。

既に2,3度書いたことだが、"Happy"が羨ましい。ファレルの事はHikaruも知らない仲ではないのだろうからもしかして何らかのコミュニケーションがあったのかもしれないが、まずひとつ、こういう時代の空気を読み取った曲を書ける事が羨ましく、そしてもうひとつ、それが実際にヒットしてしまうのが羨ましい。総括すれば、歌と時代の空気が繋がっている事が羨ましい。

Pop Musicとは他者の音楽だ、と渋谷陽一は言ったが(この引用何度目だ俺)、その開かれた感覚は何をするものかといえば、人に歌を聴く習慣や、口遊む癖を植え付ける事だ。既に音楽を聴く習慣とシステムが生活の中に組み込まれている人にとって、Pop Musicは言わば物足りない。そこから、細分化された特定のジャンルへと分け合っていく。そうなると音楽ファンである。

文化や娯楽、といった広い視野で音楽を位置付けると、日本では他のものに完全に負けている。ゲームやアニメや漫画や映画やドラマやなんやかんや…なんでもいいのだが、そういう"暇つぶし"の数々の中での存在感が薄くなっている。

おまけとしては好調である。アイドルソングやアニメソングといったジャンルは、アイドルやアニメを引き立てる為に歌を利用している。問題なのは、そっちばかり充実していて、肝心のPop Musicの空洞化が止まらない事だ。


この現況において、今年の宇多田チームによるリリースの数々は、様々な角度からみて"実験"と呼べる様相を呈してきている。いわば、ここから、Hikaru本人が不在のまま宇多田ヒカルという看板をどこらへんに置いて商売を続けていくのかという問題設定が積み上げられてきているのだ。どのコンテンツがどれくらい売れるか。どの企画が受けるか。それによって、今後の"ヒカルの身の振り方"が決まっていく。ちょっと大袈裟に表現すればそうなる。

ヒカルには、自他共に、Pop Musicianとしての爆発力が期待されている。老若男女が皆知っている歌を歌う女の子。そのポジションに今居る子は他に居るのか。居ないよねぇ。


どこから穿てばいいのだろう。なぜ、世界の中で日本だけ極端にPop Musicが廃れたのか。難しい問題だが、HikaruにはUtada Hikaruとして、もう一度"Pop Musicという文化"そのものを日本に輸入してくれないかな、と思う。カラクリはこうだ。Utada Hikaruが、世界で、それこそテイラー・スウィフトのようなヒットソングを飛ばす。その熱気をそのまま日本に運んできてくれればよい。早い話が黒船だが、乗っているのは日本人の女の子だ。

はっきり言って、レディー・ガガでも誰でもいいけれど、この国の人間は、幾ら世界的なヒットソングがあってもガイジンが英語で歌っているものには興味を示さない。ならば、日本人が歌っていればどうなんだ、と思う。そんな事が出来るのはHikaruしか居ない。幾ら売れてもDir en greyやBabymetalには無理な話だ。彼らのやっている事はPopsではないのだから。

内側から流行歌を生む力が無くなっているのなら、そうやって擬似的にでも外側からカンフル剤を打つ、いやさ蘇生術を行うくらいしかやることがないのではないか。どうしてもそこまで考えてしまう。

だが、上記のように、現実には、宇多田ヒカルというコンテンツは高めの年齢層に対して高額商品を売る方向性を模索している最中だ。他者の音楽とは真逆の方向性である。この流れが、アーティスト活動休止期間ならではのものであることを願いたい…いや、どっちでもいいかな。(どないやねん) まずはヒカルの気持ち次第。それを無視して書いてみた珍しいエントリーでした。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




MR.BIGという奇妙なバンド名の由来はQUEENと共演した事で幅広く名が知られたポール・ロジャースがかつて在籍していたグループFREEの楽曲"Mr.Big"から取られているというのはそこそこ有名な話。何でもいいけど「俺はFreeしか払わない」には笑ったぞ水曜日。それはさておき。

その"Mr.Big"をMR.BIGがカバーしているのだが、英国ブルーズ・ベースド・ハード・ロックの奥義たるFREEの楽曲だけあって、日本のMR.BIGファンには余り人気が高くない。ライブは別なんだろうけれどね。

その一番の原因はポールロジャースお馴染みの掴みどころのないヴォーカル・ラインにあるのだが、今聴き返してみると、なるほど、エリック・マーティンもそのポールのラインを完全に追い切れている訳ではないのだな。

エリックも随分な美声の実力派で知られているシンガーで、日本ではMr.Vocalist企画なんかにも参加しているが、その彼をもってしても歴代No.1ロック・シンガーであるポール・ロジャースの節回しを再現するのは苦労するようだ。本来あるべきラインが見えながらの歌唱とは、こんな風に聞こえるものなのだなと思った次第。


宇多うたアルバムで、ヒカルのヴォーカル・ラインを再現して歌おうという人はどれ位居るのだろう。今回の主眼は"ソングライター"であり、即ち、カバーするといっても歌唱より作編曲にスポットが当たっている訳で、あまりヒカルの歌を"完コピ"しようという人は居ないかもしれないが、仮にそれにチャレンジする人が居たなら、たぶんエリックがポールの歌唱をなぞろうとして苦労したように、幾ら実力派の歌い手さんであっても、相当な試行錯誤が必要になるだろう。

ある意味、世間で実力派と思って貰ってる歌い手さんに歌ってもらった方が、ヒカルの書く曲を歌うのが如何に難しいかを伝えるにはいいかもしれない。いつも最初っからヒカルの歌うヒカルの歌しか知らない訳で、これはこういうもんだろうといつの間にか思い込んでしまっているものだが、こうやってカバーされる事で、「オリジナルの宇多田ヒカルはこんなに工夫して歌っていたのか」という新鮮な驚きが提供される事になるだろう。

しかし、それにしても、歌唱にお手本があるというのも良し悪しである。追随するか無視するか、どちらの極端に走ってもいけない。その中から独自のバランスを見いだすことが、カバーを歌うにあたって「自分らしく歌う」ことに繋がるのだろうが、どうせなら13組全員に「こういう所が苦労した」というインタビューをしてみて欲しいものである。それによってまた、ヒカルの卓越した才能が見直される事になるだろうから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




LED ZEPPELINの"No Quarter"を聴いていると、この曲が、というより、このバンドが、というより、「音楽って凄ぇな」と素直に思う。まさに、スティーヴ・ハリスの言う通り、70年代のロック・バンドは「最初の1音を鳴らしただけで辺りの空気を瞬く間に変える事が出来る」のだ。音楽の持つマジック。今のバンドには残念ながらそこまでの威力はない。SLIPKNOTもOPETHもANATHEMAもいい所まで行っていると思うのだが。70年代の彼らのアルバムが3000円で買えるというのなら、そりゃあ他の今のミュージシャンたちの出すアルバムが同じ値段では割高に思えてしまうわな。

その"No Quarter"に連なる系譜の、ヒカルの楽曲といえばPassionだと9年前から書いているが、やはり本家中の本家と比較してしまうとその神秘性においてかなわない。一段も二段も上だなぁと思わせる。

しかし、今桜流しを聴くと、「あれ?そろそろ同じ土俵に立ててきているんじゃないの?」と思う。確かに、Passionを書いた時22歳、桜流しを書いた時29歳。7年分成長していてもおかしくはない。

なので、思うのだ。「ひょっとして作曲家宇多田ヒカルって大器晩成型じゃないの?」と。どうしても宇多田ヒカルというと早熟の天才で、14歳15歳にしてAutomaticやFirst Loveを書いた人だと認知されている。ファンでさえそう思っている。しかし、だとしたら売れてしまった事は本当に罪だ。売上の上乗せが期待できない事が、この大器晩成型のドラマツルギーに水を差している。

それは、本人にも影響を及ぼしているかもしれない。本来、桜流しのような楽曲を書いた人間は、その事を一生自慢すべきなのだ。誇りを胸に生きるべきなのだ。「私はもしかしたら大変な作曲家なのかもしれない」と鼻息を荒くするべきなのだ。それを、しない。「これが売れないだなんて世の中の方が間違っている」だなんて口が裂けても言わない。困ったものだ。なので私だけでも言っておこう。この作曲家はとんでもない。化け物だ。

本来は、こういった成長は本人の高揚感と共に語られるべきなのだ。それをしやい。そういう性格だから、がファイナル・アンサーだが、どうもそれで、周囲が、我々が誤解しているような気がする。アーティスト活動を休止していようがしていまいが、作曲家宇多田ヒカルは絶賛成長中である。もっと高まっていていい。

何なのだろうな、この、本人を覆う一種の虚しさのようなものは。切なさはまだいい。ヒカルが言うように、それはまだ我慢しているだけだから。虚しさは諦めの向こう側だ。確かに「テイク5」は名曲だし、結論は『生きたい』だから結局は美しいのだが、そのプロセスが、『あ、なんだ、私、生きたいんじゃん』だったのが、いいのか、悪いのか。その時まで、自分が生きたがっていた事に気が付いていなかったのだから。私の指す虚しさとはそういう事だ。


しかし、その虚無感はなぜかとても正しいなと私は思ってしまう。この国のか、この時代のか、或いは光個人のかはわからないが、それはある種の空気を正確に捉えている。その全体を覆う虚しさの中で、作曲家宇多田ヒカルは"結果的に"成長してきている。それは、成長の意志とも、上達の高揚感とも疎遠、いや無縁なものだ。それでいいのかどうかわからない。ガスみたいになりたい、結婚しても独りで居たい(それは別にいいのかな)、といった、充実から程遠い感覚の中で、今日も作曲家宇多田ヒカルは成長していく。その証は、次の曲を聴くまで全く我々の前に現れる事はない。恐らく、ヒカルの目の前にさえも…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




松岡修造が、錦織圭とアンドレ・アガシのエキジビション・マッチで試合をしたという話を記事で読んで、「へー」となった。記事によると、錦織は手首の故障を理由にエキジビションを8ゲームスマッチに短縮して行ったのだと。そのあと自らマイクをとって松岡修造に試合をするように促したと。

「へー」というのは、松岡修造のプロフェッショナリズムに敬意を表してだ。彼はメディア対応、観客対応がテニスに於いて如何に重要か知り尽くしている。メインのエキジビションマッチが予定より短縮された中で、どうやったら観客を満足させられるか、そして、如何に錦織圭に負担をかけないか。現役テニス選手にとって故障がどれだけ恐ろしいものなのか、松岡修造は痛いほどよく知っている。そして、如何に地上波テレビをはじめとしたメディアの人間がスポーツ選手のコンディショニングについて無知で鈍感で横柄なのかも熟知している。その状況の中で、日本テニスの広告塔として道化を演じ続けつつ、身体を張って錦織のコンディショニングを優先させたのだろう。こういう時に彼の築き上げてきたキャラクター性は役に立つ。観客も、松岡修造のエンターテインメント・ショウが観られるのなら満足だろう。そう思わせるだけの地位を彼は築いてきた。松岡修造は錦織圭のテニスの師匠ではないかもしれないが、恩人である事は間違いない。


この、「スーパースターを如何に休ませるか」という問題設定はそのままHikki_staffをはじめとしたレコード会社の皆さんにとって切実だろう。「人間活動」とは、守られているばかりではダメだという意識も携えて始まったものだが、この4年間、確実にHikki_staff陣営は、少なくとも市場における宇多田ヒカルのネーム・バリューを維持する事に結構な労力を割いている。今年も、Sweet & Sourの再放送、FL15の発売、WOWOW宇多田ヒカルの日(ヒ)、宇多うた、シンコレハイレゾとまぁ本人不在の中でよくぞこれほど次から次へとという具合。こうする事で、宇多田ヒカルの看板を守っているのだ。感服する。

ただ、どこまで自分たちを前面に出すかというのは難しい。松岡修造の場合は自らのキャラクター性がここまで如何に確立されてきているかを知っているからある意味ある程度でしゃばっても大丈夫なのだが、Hikki_staffの場合完全な裏方である。今回の場合も、沖田さんが監修の企画だろうに彼の名前は前面に出てこない。あクマで名前として前に出てくるのは「宇多田ヒカル」という看板である。今までの露出度を考えれば、これでいい。

しかし、これで本当によかったのか、という自省は常に必要である。亀田誠治氏ほどに著名になる必要はないけれど、"名物ディレクター"という程度に名前を売っておいてもよかったかな、とも思うのだ。そうすれば、熱心なファンの間では「おぉ、あの肝臓先生が」という風になっていたかもしれない。ここらへん、どれくらいからでしゃばり扱いされるかはわからないが、ただただ裏方に徹して奥に引っ込んでいるだけが本人を立てる事に繋がる訳ではない。松岡修造は極端な例だが、自らのしてきた事を誇りをもってアピールする事は必ずしもマイナスにはならない事も心のどこかに留め置いておいて欲しいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




だからまずMTV Unpluggedの高音質音源をリリースしろと。

それはまぁいいとして。

これだけ宇多うた&シンコレハイレゾを取り巻いて「宇多田ヒカル不在」をアッピールしておきながら本人が産休に入るんじゃあ何となく勿体無いような。

宇多田ヒカル待望論というのはJ-popファン(と最近自分の事をそう呼ぶ人がどれ位居るかは定かではないが)の間でずっと根強いが、やっぱり本人が現れないまま4年も経つと端っこの方からそもそも存在を忘れ去られ始める。これがいちばん怖い。

ソングカバーアルバムがリリースされるという事でいちばん最初にいちばん大きかった反応は、「なんだ、宇多田ヒカルが歌うカバーアルバムじゃあないのか」、だった。つまり不平不満である。確かに、これは宇多うたアルバム自体には逆風といえる空気だったのだが、大局的にみれば寧ろこれこそ望ましい。

つまり、より多くの人に「今は宇多田ヒカルが歌ってないからつまらない」と思って貰える事が最大の目的なのだ。当たり前だがただの不在は全くニュースにならないし、ただその事実が喧伝されたとしてもそこに情緒は伴わない。「あぁ、確かに宇多田って最近みないね…で、何?」てなもんである。

しかし、宇多うたアルバムのリリースは、あからさまに人々を"ガッカリさせる事が出来る"のだ。情緒を伴って、宇多田ヒカル不在を認識させる。確かに、これ以上巧い手は思い付かない。沖田さんがそこまで考えてこの企画を立ち上げたか否かは定かではないが、結果的にそういう空気になっている。もしかしたら宇多うたアルバムは売れないかもしれないが、その事実ですら「やっぱり宇多田ヒカルが歌わないとダメなんだよ」という世論を形成する。

率直に言って、今ヒカルがカバーアルバムを出してもそんなに売れないだろう。SCv2とThis Is The Oneの中間くらいだろうか。それだと、「宇多田でもダメなのかぁ」という評価に繋がってしまうかもしれない。しかし、宇多うたアルバムは宇多田だ宇多田だと連呼しておきながら、売れなくてもヒカルは殆ど関わっていないのだからヒカルの名声に傷はつかない。本当によく出来たカラクリである。

それと同時に、今のうちにHikki_staffの面々と各界のクリエイティヴの皆さんの間に繋がりが出来る事も大きい。ひょっとしたら本ちゃんのアートワーク…即ち今度こそ本当にヒカルが歌う作品が出てきた時に、この中の誰かがジャケットを担当するかもしれない。動画を投稿している人は、PVを担当するかもしれない。

勿論それは参加アーティストの方たちもおんなじで、次のアルバムではクレジットに名を連ねているかもしれない。シングルのカップリングで、リミックスを担当しているかもしれない。そしてそれらが、世界契約に伴って全世界でリリースされるかもしれない。様々な可能性が広がってゆく。

だから、今関わっている様々な人々の名前を、アタマの片隅に置いておくのは悪いことじゃない。あぁこれはあの時のコラボがキッカケで…というのが常時になく団体様で押し寄せてきているのだから。

そういう風に考えていくと、今回のリリースを取り巻くシチュエーションとそのコンセプトが何であるかが見えてくる。別にUSBもハイレゾ配信も宇多うたCDも売れなくても構わないのだ。これらが売れなくても、ヒカルの名声に傷はつかない。総てが、壮大な実験であり、調査であり、つまるところリスナーとファンとクリエイティヴに対する宇多田ヒカルアンケートなのである。我々も、ここに参加する事に意義があるのだ。


…という風に目一杯前向きに今の状況を総括してみたが、なんだかんだで売れ行きがよくなければ宇多田チームはEMIの中で、UMGの中で肩身の狭い思いをする事自体は間違いないので、皆さん財布の紐が弛む限り何か買ってあげて下さいな。みんな身を切ってまで、世間の人々に「今宇多田ヒカルが居なくて寂しいですよねーっ!?」と大声を張り上げてくれているのだから。もう完全に、我々の感情の代弁者である。敬服。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




Single Collection Vol.2の発売から今日で4年だ。正確に言えば4年と1日目或いは2日目だがまぁそれはいい。あれ以来、宇多田ヒカル名義の新作CDは出ていない。WILD LIFEのDVDとBlu-ray、桜流しの配信とDVDシングル、それにEVAQサントラCDへの収録、In The Flesh 2010の配信、FL15&LuvLiveのCD&DVDリリースとハイレゾ等配信、とまぁ結構盛り沢山な感じなのだが、来月のリリースもソングカバーアルバムにハイレゾ配信にUSBリリースと、新作CDという感じではない。新作CDリリースとなるとHEART STATION/Stay Goldまで遡らなければならないか? Prisoner Of Love EPもカップリングを考えたら新作と言えなくもないが。

そういう意味では、宇多うたアルバムのCDリリースは結構微妙な立ち位置だ。作品の性質から考えて配信はバラ売りが主体になりそうだし、CDを買うのは極一部のマニアという感じがしなくもない。勿論これから音源が解禁されてそれが目を見張るような出来映えであれば売上がぐんと上がる事も期待出来るが、こちら側としては現段階でそれに期待する訳にもいかず。うぅむ。

全く割り切って配信のみというのはなかったのかな。前もこんな案を出した気がするが、一週間に一曲ずつサプライズで配信販売したら面白いのに。この、次は誰が来るかな感。アルバムに対して一度に3000円払うのを躊躇う人も一週間に250円ずつなら別にいいかな、と思ってくれはしまいか。浅はかか。それに、前にも書いた通りアーティスト毎に露骨に売上に差が出るのは好ましくないだろうしな。

ハイレゾ配信がないのも痛い。いや、ないと決まった訳ではないが、試聴会でハイレゾを聴かせられないんだったらまだまだ準備は出来ていないとみるべきだろう。

CDは今板挟みにある。手軽さや安価さを求めるならmp3やmp4の圧縮音源を購入するし、音質を求めるならハイレゾに向かう。CDは不便かつ音も最上ではない、というポジションに追いやられつつある。それでも買う人はコレクションとして、或いはそこでしか手に入らない添付物目当てで、という事になっている。なんとも中途半端である。

そのうちハイレゾ円盤の企画が統一されハイレゾ再生プレイヤーがメーカーから発売されれば、いよいよ今のCDの存在感がなくなる…というかまぁCDがハイレゾCDに入れ替わるだけなんだが、確かにそうなれば、形式的にはCD(みたいなもの)が延命される事になる。果たしてそこに更なる需要があるかどうか。何度も書いているように高音質の要はまずハードウェアである。そこがどうにかならないとどうしようもない。

宇多田ヒカル陣営も、DVD/Blurayと配信とハイレゾとCDと、兎に角種々のメディアとコンテンツの組合わせを探っているところだろう。これが落ち着いた頃にヒカルが復活してくれれば話としてはわかりやすくなるのだが、それもいつになりますことやらですわいな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回の日記に説明不足があったので補足。ニュースに番号をつける所まではいい。それらを羅列せずに一旦「見出しの目次」を挟むべきだという話をしたかったのだ。例えば、

1.ソングカバーアルバム発売決定
2.シンコレ2作ハイレゾ配信決定

という風に。ぶっちゃけ、これでも長い。今や"見出し"というのはポータルサイト、例えばYahoo!JAPANのトップを飾る12文字の文字列の事を指す。それ位コンパクトに纏めた情報を送りつける必要がある。その段階をどう踏むかは難しい問題で、スクロールさせすぎもダメだし、クリックorタップも回数が多いとうんざりする。そのトレードオフの中で、伝えたい情報をどうやって咀嚼させていくかが勝負なのだ。補足終わり。


さて。ハイレゾについては散々叩いてきたが、本質的な問題である「低音質が音楽文化全体の緩やかな地盤沈下を招いている可能性」については、真剣に考えなくてはならない。これはソフトの問題より寧ろハードの話である。

ただ、これは本当に難しい。21世紀初頭、音楽再生機器の覇権を奪ったのはiPodだったが、Appleはオーディオメイカーではなかった。つまり、一言で言えば既存のオーディオメイカーは誰も一般大衆のハートを掴めなかったのである。ハイレゾ推しは、その"一般大衆との乖離"の成れの果てでしかない。

Appleはオーディオメイカーではなかった為、音質は度外視だった。すぐそばにハードディスクが回ってるんだから仕方がないが、付属のイヤフォンもあんな感じだった。それが覇権をとるのだから、如何に大多数が音質を問題にしていない…というか「そこそこ鳴ればいい」としか考えていない事の証左だろう。

これは、全世界規模の話。日本ではここに、この国独自の事情が入る。

日本のアイドルはおしなべて歌がド下手だ。お金を貰っていいレベルではない。アメリカのチャートに上がってくるアイドルたちは誰もがちゃんとヴォーカルレッスンを受けているのに…。勿論実際は彼女たちもライブでド下手なのかもしれず、CDで聴けるのは加工された歌声かもしれないが、そうだとしてもつまり、アメリカのアイドルプロデューサーは「歌はちゃんとしとかないとな」と思ってそれを実行に移しているのだから、"世間"から「あんたら歌手なんだったらちゃんと歌いなさいよ」というプレッシャーがあるのだろう。日本には無いのだ。

ラジオから流れてくるアイドルの歌はCDの音源である筈だが、いずれもあんな感じだ。これはつまり、日本の"世間"が歌の巧さを求めていない事を示している。この、"世間の圧力"の有無の差は大きい。そして、日本のチャートのメインは今はアイドルたちである。

それを踏まえると、日本人は、音質はおろか歌唱力にすらクォリティーを求めていない事がわかる。歌手として歌が下手でも肩身の狭い思いをしなくて済むのだ。

こんな国においてハイレゾ云々叫んでも無駄な事がよくわかるだろう。"ハイレゾの時代"は、その現況を覆して初めてやってくる。絶対無理と言い切るのもわかって貰えるのではないかな。たとえ音楽ファイルがハイレゾ主体になっても、それはハードの記憶容量が上がり無線ブロードバンドが恐ろしく強化された挙げ句の話であって、それは幾ら普及したとはいえ決してハイレゾの時代とは呼べないだろうね。

この現況を覆すには、例えば大学のセンター試験で音楽という科目が必須になるくらいの改革が必要なのだと思う。日本で英語が出来る人が尊敬されるのは英語が出来ると便利だからでもかっこいいからでもない。文系も理系も必ず18歳まで学び続ける唯一の科目である為、日本人の大半が英語で苦労した事があるからだ。つまり、自分が出来なかった事を出来る人だから尊敬されているのである。そして、物事の法則として、半分を超えれば後は空気が何とかしてくれる。「英語できる人に対しては感嘆するものだ」という常識が出来上がれば皆そういう価値観を持っているかのように振る舞い始める。ここまできて漸く、英語ができる事が世間一般から賞賛されるようになるのだ。

音楽は勿論そうなっていない。「私、歌の上手下手とかよくわからないから」と言う人がとても多いが、大概それを言う人は迷惑そうだ。別にそんなんわからなくても困らないから、と。そういう状況だから、アイドルの歌が下手かどうかなんて気にしないのである。

そんな"世間"に、音楽のクォリティーより更に難しい音質のクォリティーの話をしたって誰がついてくるというのか。ここにあるハードルは、メチャメチャ高いものなのだ。

話はまだ途中だが、無駄に長くなってしまったので今夜はこのへんで渋々区切っとくわね~。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




情報が見づらい。

ここは梶さんに読まれていないから遠慮せず書くんだが(笑)、Webのデザインがよくない。見た目としてもシステムとしても。

オフィシャルサイトのいい所は、広告が一切入らないことである。サイト自体がアーティストの宣伝ではあるのですが。つまり、見た目がSimple and Cleanになる事が最大の利点だ。今や無料のシステムは必ず広告が入り、マウスオーバーポップアップや自動音声再生などやりたい放題。そういうのを煩わしいと思う現代人に対して違いを見せつけるには、情報のわかりやすい提供が肝になる。

それを考えると、今のHikki's WebsiteのNews欄は見づらい。私なら、ニュースをスクロールで一瞥できるページの他に、ニュース見出し一覧と個別のニュースエントリーを作るだろう。早い話がBlog形式だ。また、余力があればそれぞれ別個の長さのニュース記事にしスマートフォン向けの長さの記事にするだろう。幾らスワイプ等の操作性が高いとはいえ、何度もスクロールしなければ読めない記事は面倒だ。

あと、これはWebサイトデザインの範疇ではないが、ニュース自体が煩雑で把握仕切れない。タワレコがどうのこうのと言われても何が何だかわからない。例えば1日ごとに情報を整理し、今日の関連ニュースは5本あります、(1)~(5)です、という風に番号をふり数を数えられるようにするだけでだいぶ違う。

更に言えば(もうこうなるとWebデザイン全然関係ないんだけど)、ニュースは1日1本で十分だ。それを毎日、或いは2、3日おきに更新して欲しい。こっちとしては消化しきれない。スマートフォン時代になって&TwitterやFacebook、更にはゲームサイトやLINE等がインフラになるにつれ、小ネタや一行ニュースは次々と流れてくる。梶さんだっていつも2chのまとめサイトをチェックしているが、中には見出ししか読んでないものだってある雰囲気だ。本来なら元スレまで辿ってまとめサイトの編集力に唖然とさせられるまでが情報取得のワンセットなのだがそれはいいとして、極端な話1日一行1見出しで情報なんて十分なのだ。そこから先のリンクを辿らせようというと尚更だ。

スマートフォンを持っていない私ですらそうなのだが、これだけ沢山情報を手に入れられるようになると、時間のかかるサイトは「これ後で読もう」と言って後回しにしてそのまま読むのを忘れるのがパターンだ。情報をなるべく細切れにして、塊ではなく、一口ずつ口に運ばせて最終的にまるごと飲み込んでもらうのが理想だ。ケーキワンホールを目の前にどん!と置かれてもとても食べられないと思うが、1/8ピースを8切れだといつのまにか…という奴である。もっと細かな、そして総合的なデザインセンスが求められる。


しかしホント、いろんなコラボレーションするのはいいけど、どれが何やらさっぱりわからない。全体的に今回の企画は突貫工事だったんだろうなぁと感じさせる。関係者の皆々様方、まっことお疲れさまでございますm(_ _)m

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ