無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ライブ・コンサートについての一般論を。

でその松岡先生のハープ演奏発表会で「いい日旅立ち」を弾いた人がいらして。これがなかなかに拙かった。ウグイス嬢(ナレーターさんね)が曲名紹介してくれなかったら私きっと何演奏してるのかわからなかった位に。そんな演奏でもキッチリこの催しの中で役割を果たしていくのだから松岡先生のコンセプトは素晴らしい。

私はその演奏を聴いて「そういえば「いい日旅立ち」、ひさしく聴いてなかったな。」と思い立ちApple Musicで聴いてみた。やはりいい曲。こうやって存在を忘れていた名曲を思い出させる切っ掛けになったという点でも、彼が舞台でハープを演奏した意義はあった。まぁ少なくとも私にとって。

ここが、最近の感覚な気がしている。極論だが、所謂完璧な演奏、ちゃんとしたテイクを聴きたかったらそれこそいつでもサブスクで聴けてしまうのだ。わざわざその場所まで足を運んで楽譜通りの演奏を聴かせて貰うことは、それ自体の価値は些かも下がっていないのだけれど、相対的に“然程面白くないこと”になりつつある気もする。

それより、生演奏は、新しい、自分では気付けなかったような出会いとか気付きとか、そういったものを提供する場としてより注目されていく、かもしれない。勿論、フリと歌詞を覚えていってみんなで合わせる楽しさなんかは変わらないんだけど、これからはそこにかなりのプラスアルファが求められるというか。

なにしろ、もう一方では3DVRと360Rの組み合わせによって「ライブ会場の興奮がおうちで楽しめる」世界がすぐそこに迫っている。いや、3DVR×360Rはそれ以上のものを提供する、と言うべきか。あの、宇多田ヒカルがまるで自分の為にだけ歌ってくれているような感覚は実際のライブ会場では味わえまい。あれはライブ以上だ。擬似だけど。

私は「ライブにはマジックがある」と思って生きていない。都会でライブにスレで油断したリスナーより田舎で一枚のライブDVDを何十回も繰り返して観た熱心な人の話の方が聞きたい。ライブがマジックを生むためには貴方自身が魔法にかからなければならない。貴方自身が魔法をかけなければならない。

その、ライブ会場でしか生まれない精神状態を如何に作るかという点を突き詰めていかないと、生演奏の魅力というのはなかなか伝わっていかないだろう。先程も言ったように、いつでもどこでもサブスクで完璧な演奏が聴けるんだから演奏自体がよくても足りないのだ。ただ「生演奏には言葉に出来ないマジックがある」と興奮気味に言われても、それを同じように共感できる人にしか響かない。まぁ今まではそれで十分だったのだけど、これからはそこについてより自覚的に明示的になっていかないといけない。有り体にいえば「胡座かいてんなよ」ってことだね。


宇多田ヒカルという人は結構その点ズルくて(笑)、彼女が舞台に出てきただけで感動して泣き崩れる人が在るという位に「生で観れたら嬉しい人」だ。暫くはそれが続くだろう。だが、そこから更に舞台を内と外から演出してもっともっと「宇多田ヒカルが生で歌うことで貴方に起こる大きな変化」それそのものの性質を見極め焦点を合わせて意図的に計画的に構成していかねばならなくなるかもしれない。それを「わざとらしさのいやらしさ」から距離をおいて作り上げていくのはかなりの至難の業だが、リスナーの体質の変化・時代の変化と共に推移と遷移をしっかり眺めつつ、その上で原点たる「ただ出てきて歌うだけ」の素晴らしさを体現してくれたらなと思っている。このたび、松岡先生にかなりの部分で演出が意図的だったというお話を伺えて「あそこまで自然に、さりげなく演出できるんだ」と非常に感銘を受けた。彼女自身はそういう風に捉えていないかもしれないが、何かとても時代精神に呼応した段階に思える。今後もっと踏み込んで考えていきたいテーマかな。


あーもう、もっと360R×3DVRの話も絡めていきたかったのに尺がなかった。来週はネトフリ英訳の続きも書きつつごちゃ混ぜになりそうね。ほなまた来週のお楽しみ。

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22人の生徒さんたちそれぞれのハープとの関わり合い方からハープという楽器のありようみたいなものが浮かび上がってくると同時に彼女たちを繋げた先生の今のありようもまた浮かび上がってくるというのが松岡みやび演奏発表会のコンセプトだ。

先生に純粋に憧れている人や先生の流儀が好きな人、テレビで見掛けたから、或いはハープを習ってみたかったからとか、親に言われたからとか、しがらみとか旧縁とか色々と妄想が捗る。ハープを通して人と関わるその多様さがまた楽しい。

自分は今回同じく宇多田ヒカルが好きでTwitterでFFさんになったけだまちゃんに招待(?)されて演奏発表会に詣でた訳だが、ならそのけだまちゃんはこの先生の描く「ハープと松岡みやびとなかまたち」のスペクトルの中でどんな色にあたるのか、どんな光を放っているのかというのがすぐさま興味の対象になった。

けだまちゃんは22人の中で最後から3番目の演奏順。彼女は「遠方から来ている人を後半に配置した」と言っていて演奏順にさして意味はないように表現していたが、自分の目にはとりわけ最後の3人は松岡先生にとってより焦点の定まった生徒さん─いや感覚としては寧ろともだちとか姉妹に近い?印象に映った。まぁそこの意図を詮索するのは野暮なんだけどね。

で。けだまちゃんは特に、松岡先生と、そのハープに対する愛と情熱の面で呼応し合っているように見えた。けだまちゃんの次に演奏した人が立ち居振る舞いから何から松岡先生の流儀に憧れているのと好対照を成していた。どちらがどうというのではなく、どちらも松岡先生とのひとつの関わり合い方だという事だ。

前も触れたように、松岡先生ってともすればその安定した究極の技巧や上品さや神々しさみたいなものからどちらかといえば優しく穏やか且つ沈着冷静でcoolな印象をもたれがちだと思うのだが、だからこそ演奏会全体を通して垣間見える情熱的で愛に溢れた心根に共鳴してくれる人と知り合う機会は相対的に少ないのではないかな、だとすれば、けだまちゃんみたいな情熱的で、気負いのあまり本番で8小節飛ばしてしまうような前のめりなタイプが自らの元でハープを弾いてくれているというのは、周りからみている以上に小躍りしたくなる位嬉しいことなんじゃないかなと思った次第。


けだまちゃんがどれだけ情熱と愛に溢れた人かというと、例えばこんなツイート。


けだま@ultra_blue_sa

Kukuchang ハープが光ってる…!!
Hironさん昨日はありがとうございました Hironさん美しくて、でも喋ると変態で…
あの正直に言って私、そういう人好きです、、(突然の告白)変態にも色々種類があると思うんですが、私の好きな方向性の変態です!!!(失礼w)もう!キャラが!好きすぎます!!!愛!!!

@____utdO119 あ、じゅっぴー その顔文字かわいすぎだ〜じゅ 来年は来て欲しい〜じゅ
@____utdO119 ありゃとん… 今どきのJKの言葉はかわいい~じゅ ペロペロペロペロペロ



…顔文字無しだとまた凄絶だな(笑)。こんな風に愛に溢れた美女なのですw 情熱的でしょ?


まぁそんな面もありつつ、ちゃんと真面目なのも載せておきますよっと。


けだま@ultra_blue_sa

昨日は新しい世界が見えました。
多くの方々に来て頂けて、とても嬉しかったです。普通の知り合いに来てもらうよりも嬉しかったです(笑)
先生が「自分のために演奏するのは卒業。これからは生徒のために」と言っておられました。
私も「私の演奏を聞きに来て下さる方々のために弾きたい」と思いました

けだま@ultra_blue_sa

@hikkichee 今までオケとかの大人数で演奏することの方が多くて…でも昨日は私のハープを聞きに来て下さった方がたくさんいて…。
暑い中、皆さんお忙しいのに予定調整してくださって…なんかもう感謝しかないなって思って音楽やっててこんなにお客様に感謝したのは初めてだったんです(遅)


こういうのを見ると、なんだろ、演奏している松岡先生よりSNSで言葉を駆使している松岡先生に近いというか、つまり、技巧から離れた心根の部分で何か近いものがあるというのがわかるんでないかな、と。…あー、二人ともに読まれてるかもと思うと面映ゆいね。(笑) まぁそんなこんななハープ話でした。

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松岡先生の技巧はもうとんでもないレベルで、ツイッタープロフィールを見たら世界3位だったと。1位になれなかったのはきっと運によるものだろうという位に巧かったよ。

他にも上手な人が演奏会に参加していたがレベルどころか世界が違った。特段難しい曲を演奏した訳ではない。だが、ああやって舞台の上で自分の演奏をただ聴いているだけで済むというのは一体どのような研鑽を積んだのか想像を絶する。

彼女が舞台で演奏する時の目。それはただ自分の指が間違わないか見張っているだけだ。恐らく、あの程度の難度の曲なら指が勝手に動いて演奏してくれるのだろう。実際にはそんな事はしないが、誰かとお喋りしながらでもあのレベルの演奏を余裕で聴かせてくれるように思う。勿論現実の彼女にはそんな油断は無く、自分自身の演奏に対する態度は冷静沈着そのものだった。

ただそれだけなら世界で一流ではない。指が勝手に動いているだけなら幾らでもいよう。どんな場でも油断せず、聴衆に情景を運んでくるような繊細な演奏を聴かせる。その上で更にまだまだ余裕がある。そもそも身体能力が高く、アスリートのように無駄と力みのない洗練された動き。機能美と抒情美の非常に高いレベルでの融合。器楽演奏に求められるスキルの悉くを極めてはる。生徒さんたちが魅了されるのもよくわかる。

そんな在り来たりな話も書きつつ。私が会場で感じたのはその彼女の貪欲さだ。だから"ambitious"だと言いたかったのだが、これだけ技巧を極めておきながら世界で一番を獲れなかった悔しさがまだ残っているかはわからない。だけど、今ここにいる状態から更なる向上心を持っているだろうことに心底驚いたのだ。先程「1位になれなかったのはきっと運がなかっただけ」みたいな事を書いたのだけれど、何かそこのギャップを埋めに掛かっている気がする。「天命を我が物とする」事に意欲的にみえるのだ。その為に人や自然と繋がっていこうとしているのかと。だから技術が錆びてみえない。若々しく瑞々しいままで在る。そういう印象を持った。確かにそれは、ただ自らの技術を極める事だけでは到達できない領域で、松岡先生は、自分の目からは「世界1位以上の何か」にすら目標を定めているように見えた。極められた美しさに虚無を感じなかったのはその強過ぎる情熱故、と読んだが真実は果たして。本人に読まれてるかもと思うと筆致が変わるぜ。(笑) 人当たりがとても柔和で優しい方なのは間違いなさそうなんだけれども。


さて次回は何を書くのやら。わからないけれど私はマイペースを崩さない。ダラダラと流れの赴くままにいきますよっと。

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前回の補足と補完。内容は大体一緒。


演奏会をただの演奏会に収まりきらない演出で催す美点は幾つもある。“ただの演奏会を”はともすると品評会になりがちで、どうしても技術の巧拙に注目が集まりがちだ。とすると、その演奏発表会を目指す先生としても普段のレッスンからしてひたすら技術指導に費やすだろうしそれは恐らく様々な人々がやってくる現状にはそぐわない。

だが演奏会を「ひとりひとりの人生のドラマを表現する場」と位置づけたらどうなるか。松岡先生の場合はその主軸がハープだった。ハープという楽器の持つ多様な可能性を提示する為には、それこそひとりひとり異なったその人独自の“ハープとの関わり合い方”に焦点を当てる必要が出てくる。

技術を極めて頂点を目指したい人もいれば、単にモテたいから始めたという人もいるかもしれない。逆に好きな人がハープをやっているからとか、娘が始めたのでつられて始めた人や、駅前で広告をみて興味を持ったというだけの人も在るかもしれない。そのひとつひとつがハープという楽器の持つ魅力の賜物であり可能性である。そこのところをできるだけ目いっぱい活かして表現しようという工夫が、今回の演奏発表会の体裁に結実していったのだろう。

観ている方もそのつもりになれれば非常に楽しい。ハープという楽器で一人の先生のところに集う生徒さんたちを20人以上も集めてその上で音楽だけで聴衆を楽しませられるような技量を身につけさせるのは非現実的だ。それより、その人の背景を想像させながら聴かせれば、忙しい生活の中でなんとか練習時間を捻出してここまで来たんだなとか、ご家族に聴かせたい一心なんだなとかいう事が頭に浮かんで、こういうと不適切かもしれないが、舞台の上で何か失敗があったとしてもそれはその人の人生の一部として、その人の表現として機能していく。そこにみえるのはひとりひとりの人間であり、表現を助ける存在としてのハープという楽器の可能性だ。まさに松岡先生は、ハープの演奏発表会を通してそういう群像劇を描いた。それは、普段の生活の中で人生の中で、与えられた環境と勝ち得た資産と実際に巡り合った人々との御縁の総てをフルに活かして結実させたものなのだろう。もっとも、最後の最後で会場にいらしてたお母様との“対話”で自らの人生をも演奏会の演出要素の一つにした事までは、想定外だったのかもしれないが…どうなんでしょうね?w


いかん、この話ちょっと面白いな。もしかしたら次回も続きを書くかもしれませんが暫しお付き合いの方をひとつよろしく。

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月曜日は銀座ソニーストアに行っていたがその前日の日曜日は池袋でハーピストの松岡みやび先生の発表会に行っていた。

先生の発表会、という言い方をしたが本来は彼女の教える生徒の皆さんの発表会だ。22名、だったかな。ハープという楽器のイメージからなのか男女比は女性寄りだったが、まさに老若男女、お嬢ちゃんからお婆ちゃんまであらゆる世代の演奏者の皆さんが次から次へと登壇しては演奏しお辞儀をして去って行った。

去って行った、という言い方をしたが、会場のレイアウト上22名も収めれる楽屋がないのか、舞台向かって右側端の一段高い、本来なら貴賓席のような扱いの席に皆縦列に並んでいた。出番になったらすっくと立ち上がり舞台に歩み、終わったらまた席にもどる一部始終が観客席からよく見えていた。

よく見えていた、という言い方をしたが、私が勝手に観察をしていただけだ。殆どの聴衆はずっと舞台を凝視していた。だがこの舞台袖が頗る面白い。演奏前の緊張した面持ちから演奏後の憑き物の落ちたような安堵の表情まで全部丸見えなのである。もうそれだけで得難い体験であった。来年も同じ会場とは限らないしな。

しかも、22名全員が、演奏前にウグイス嬢に一言メッセージを読んで貰うのだ。嫁と娘に感謝してハープを弾くお父さんとかもうそれだけで新鮮だ。私は今回まだ会った事の無かったフォロワーさんに誘われて(?)観に行っただけなので演奏者の誰一人として素性を知らない。しかしそれだけの設えを与えられるとどうしても妄想が逞しくなってしまった。あの人やこの人はあんな人生やこんな人生を歩んできたのではなかろうか?と。

右舞台袖にはけていく時、ただ黙って座る人もいれば誰かと目線を交わす人もいる。その時総じて感じたのは、存外生徒の皆さん同士はお知り合いという訳ではなく、ただシンプルに松岡先生を慕う者同士が一堂に会したのかなという雰囲気だった。

その感覚を伴って入れ替わり立ち替わり演奏者が行き来する舞台を観ていくと、何というのだろう、次第にそれが、ただハープの演奏会を聴いているのではなく、様々な人々の人生が交錯する群像劇を観ているかのような感覚に変わっていった。コンサートというより寧ろ舞台演劇を観劇しているような。例えばホテルのロビーで何時間も人間観察をしていると本当に世の中は色々な人が居るものだなと感心するが、もしかして松岡先生は、ハープの演奏を通してそのようなものを描きたかったのではないかと思い至るようになり、発表会の終盤には、この、まだその主役の先生が一切登場していない舞台は、先生の描いた“作品”の一種なのではないかと感じ始めるに至っていたのだ。

だから22名の演奏発表を終え、いよいよ松岡先生が登場した際に彼女が生徒たちの演奏自体よりも彼らの人生に重きを置いて語った時「ああそれなりに意図的だったのか」と私は溜飲を下げたのだ。松岡先生、ぱっと見20代かと思ったが45歳と聞いて吃驚。まぁそれも含めて“ショウの構成”なのかもなと思わせる程に彼女の存在は洗練されていた。演奏も抜群だった。

だから、彼女が自身の母親の話をし始めた時にいきなり相好を崩したのには今度こそ心底驚いたのだ。最後列中央2列を宇多田ファンで占拠していたこともあり、そのいきなりの崩し方にヒカルと共通のものを感じざるを得なかった。ヒカルの圧倒的なバランス感覚がいきなり崩れるのは決まって母親の話をするときだ…というのは昔からメッセを読んでいるファンからすれば思い当たる節があると思うが、絵に描いたような「ハープを弾くお嬢さん」で超絶技巧を持ち、更に自らの生徒たちの発表会すら自らの“作品”として世に提示する事の出来る才覚溢れる人間も、母親の話となるとヒカルと同じようにこうなるのかとちょっと嬉しくなったのだ。なんだか今日はそれを書きたかった。読んでくれてありがとう。



松岡先生がどこまで自覚的に発表会のコンセプトを具現化しているかはわからない。ただひとつ言えるのは、参加者が見事にバラバラだからこそ、全員の存在を通して最終的に浮かび上がってくるのは全員を繋ぎ合わせる唯一の構成要素たる松岡みやび先生の存在そのものになるのだという点だ。故に生徒たちの発表会は松岡みやび先生の“表現”たりえる。エキセントリックだが、これは、役者や美術や衣装や編集や音楽や特殊効果といった専門職たちに自らの表現活動を促しつつそれを統合することで自らの“表現”とする映画監督の手法に近いと思った。それを“コンサート”という枠組を使って実現しようとしてるとすればなんとも独創的だな── そう、私の彼女に対する印象は一貫している。“How ambitious she is !" ─なんて松岡みやびという人は野心的なのだろう、と。みやびな見た目とは裏腹に物凄く情熱的な人だった。俄然興味が湧いてきたですよっと。

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九州の方で例を見ないほどの大雨だとか。このあとソニーストアデイズも福岡天神に詣でる。皆様どうかご無事で。


そうそう、話は前後するがそのストアデイズで周回遅れの(?)3DVR体験の方もしてきましたよ。凄い技術だね。今時の子達は(というおっさんな言い方w)ああいうのを使ってゲームしてるのか。それは没入してしまうかな。

案の定、予想通り、一通り体験を終えた後に歌の記憶がなかった。視覚体験にばかり気を取られて肝心のヒカルの歌声が心に残らなかったのだ。あらかじめそうなるだろうと思って臨んだのに、である。3DVRはつまらないからダメなのではない。非常に威力があるから危ういのである。

このたびやっと360Rを前面に押し出した事で事態が正常化した気がする。360Rを体験をした人は、歓声による没入感や歌声の残響のリアルさ、弦楽隊の伸びやかな音色、左右に広がるバックコーラスの迫力など、音の感想を沢山言うだろう。これを踏まえた上で、前回述べたように3DVRシステムの使い処を探る、というのが本来の順序だ。

目的と手段を取り違えると恐ろしい。例えば、元々は「一人でも多くの人達に音楽を届ける」事が目的で作られていたCDも、末期は握手券や投票券となって「円盤が売れればOK」みたいになっていた。中にはCDという物体に音楽のデータが含まれていると知らずに購入していた人も在ったかもしれない。そこまでいかなくても、家にCD再生機がないのにイベントの為に購入していた人なら居た事だろう。そうなる。

宇多田ヒカルは、少なくとも現時点では、音楽家である。様々な魅力を映し出してはいても、音楽がまず主役である事を片時もハズしてはならない。勿論本人については心配していない。魂を削らなければあんな歌は生まれてこない。周囲の人間が宇多田ヒカルを“利用”しようとする動きがあれば敏感に察知したい。それだけだ。


それにしても細かった。自分もラジオの公開収録やパイプラインカフェなどで随分間近にヒカルを見てきたもんだが、一人人間を生んでおいて現在こんなに華奢だったのかと。そして横を見れば実際に来ていた衣装が展示されていた。勿論、細かった。鍛えてシェイプした結果なのだろうから健康の心配はしないが、触れれば折れそうなこの感覚は、なんだろう、それはそれでヒカルに似つかわしいのかな、なんて思っちゃったよ。こういうのをファンのエゴというんだね。

本来なら3DVRはバンド全体に注目人物がいる方がいい。ギタリストの手許とかドラマーの手捌きとか、好きなタイミングで首を向けてズームできる、なんていうのが理想だ。ヒカルの場合はただ真正面のヒカルとひたすら見つめ合うだけだった。これはこれで勿論いいのだが、次回やるときはたとえばフキコさんとのダンスをフィーチャーするとかしてもいいんでないかな。今となっては、もっと色々と遊べると思いますデスよ。

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360Rの強みは、今まで書いてきた通り音の出所の位置が明確な点である。方々から確実に歓声が響いてくる。故に人々に取り囲まれているように感じる。

そして、現時点での360Rの弱みもまた同様にその定位の正確さなのだ。いや寧ろ精確に過ぎるのがいけない、とでも言おうか。音を聴いているだけならまだいいが、今回のソニーストアデイズの企画では『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品の映像を流して聴かせた。少し刺激的に言えば、ここが失敗だったのだと思う。

御存知の通り『Laughter in the Dark Tour 2018』の映像商品は取り立てて奇異なところのない、普通のライブビデオである。即ち、主役であるヒカルがアップになる場面もあればステージ全体を映す場面もあり、観客席を撮影する場面もあるし横からも正面からも撮影されている。それらを編集して構成した至ってノーマルな作品・商品だ。

そこに360Rの映像を被せると妙な事が起こる。自分は観客席の中に埋もれてまるでライブ会場に居るかのようなサウンドを浴びているのに、視覚入力の視点はころころと変わるのだ。それは舞台の上だったりコンソール卓付近だったり反対向き(舞台側)からの視点だったりする。そして、360Rのサウンドはそれに合わせて定位が変わるわけではない。故に、映像と音声を素直に浴びていると徐々に奇妙な感覚に囚われていく。映像と音声の繋がりが薄くなっていくのだ。(まぁ実際同期も甘かったんだけどねー映像が遅れてたのよ私の観た回は)

これを解決する方法は至ってシンプル。目を閉じてしまえばいい。今の所、360Rのサウンドが齎す臨場感を最もよく味わえるのは目を瞑っている時なのだ。実際自分もその事に気がついて目を瞑ってみたらそのサウンドに包み込まれる感覚にゾクゾクした。いやぁ、あれはいいぜ。ついつい飲み込まれてしまって、しかも前に書いた通りそのサウンドに取り囲まれる事自体が大きなリラックス効果を生むものだから一瞬寝落ちしかけた事もあったと白状しておこう。ほんと仕事帰りの疲れた状態で行ってみたい部屋だよあれは。

で。今の所「目を瞑る」のが最良解だが、もしそれでも映像と共にこの360Rサウンドを楽しみたいというのなら、そう、皆さんも御存知のアレを使えばいい。3DVRである。

3DVR。待ち時間がゼロだったので今回初めて試してみた。もう2曲の間ずっと「ヒカルほっそ!ヒカルほっそ!」とばかり呟いていたが、そう、これを使えば視認空間上に固定された映像が提供できるのだ。これに360Rの優れた定位を組み合わせればよい。そうなって初めて、360Rも3DVRも完成するだろう。まさに「あなたの部屋が一瞬でライブ会場に早変わり」が実現するのだ。ワクワクものである。

実際今回初めて3DVRを試してみて、確かに右を向くと右の様子が、左を向くと左の様子が見えるのだが、音の方向は変わらなかった。こんなものは慣れなので「そういうものだから」と思えてしまえばそれまでなんだが、こだわり始めるとそれはそれは長い旅路になる。つまり、3DVRのゴーグルは装着するがヘッドフォンは着けず、360Rの13.1chが設えられた部屋の真ん中にじっと座る事になる。それによって漸く、360Rの定位の良さが映像とシンクロして“報われる”のだ。

それが技術的に可能かどうかは知らない。あっさり実現しそうでもあるし、思わぬ落とし穴もあるかもしれない。わからない。だが、試してみる価値はあるだろう。果たしてどんな結果が待ち受けているか。それまでの360Rは、時々目を瞑る感じで楽しんでおきましょうて。

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360Rの強みはその定位情報の精度にある。各楽器の空間上の位置取りが細かい単位で切り分けられる為各楽器が分離よく…というかそもそも別々の場所で鳴っているので分け隔てる必要も無いというか。特に前後方向の情報が正確なので、感覚としては前面のスピーカーが鳴っているというより部屋全体が鳴っている印象だ。

だがそもそも元々の音源が、いや、元々の楽譜自体がこのシステムを想定していない為、その特性を活かしきっているとは言い難い。

例えば『Play A Love Song』などは最後の『Everybody needs sometimes ...』のコーラスなどは最初っからひとりひとりの歌唱を位置情報込みで録音・ミックスしておけば13.1chによって彼女たちに取り囲まれて歌われているような大迫力を演出する事も可能だったろうが、そもそもの音源がそうではなかった為にもっと小さく纏まっていた。もっとも、左右方向の広がりに関してはそこは小森くん師匠、かなりの効果を上げていたが。

更に、そのコーラスに限らず、ヒカルの楽曲アレンジ自体が、特に今回使われた『あなた』と『Play A Love Song』での2曲では空間的に徹底されていたとは言い難く、特に『あなた』に関しては「宇多田ヒカルの独唱」というのが最大の魅力なので13.1chに向いているとは言い難かった。逆に言えば、なのにあれだけ2chとの差を体験させる事が出来るのだからポテンシャルは相当高いと言わざるを得ない。

その為、少し皮肉な事だが、実際に13.1chの効果が大きかったのはヒカルの編曲外の音、即ち聴衆の歓声であった。鳴った瞬間に僕らをライブ会場に転送してくれるあの感覚は、聴衆の出す音が取り囲んでくれるからこそ生まれるものだ。前後左右から多数の人に囲まれて宇多田ヒカルの歌を聴く。確かに、今までには無かったフィーリングだった。

だが、前回も触れたとおりこの試みはまだまだ始まったばかりなのだ。長い目でみる事が必要だ。更に取り組むべき課題も山積だが、話が長くなるのでそれはまた機会を改めて。

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ソニーストアデイズの360Rを体験してきた。第一印象を記しておく。

13.1chの概要は前方に8ch、後方に4ch、0.1chは確認し忘れた。家でも左後方に置いてて指向性ゼロで響いてくれるからこのチャンネルはどこに置いてても大丈夫なのだとは思うけれども、しまった事をしたわ。

前方の8chは左上・上・右上、左・右、左下・下・右下の8つ。後方の4chは左上・右上、左・右の4つだ。感覚としては4π総ての方向から音が降ってくる感じ。非常に贅沢。

ただ、結論から言ってしまえばまだこのシステムは始まったばかり、だな。「取り敢えずやってみました」という段階だ。勿論通常の2chのシステムと較べても定位の情報量は異常に多く、鳴っているだけでリラックス効果すら期待できる。誰かが1/f揺らぎがあったと言っていたが、言いたかった事は凄くよくわかる。仕事帰りにふらっと立ち寄って13.1chのシャワーを浴びてから帰宅したいわ私も。取り敢えずやってみましたの段階でここまで“効果”が顕著なのには吃驚だわ。

特に低音がヤバい。5.1chや7.1chでも専用ウーファーの効果は素晴らしいが、この13.1chの低音は他の音域の定位の情報量が豊富な為、全体の音像の中でしっかり低い重心でまとまっていて他の楽器を邪魔しない。余り前に出てこないのだ。それでいて低音そのものの情報量も非常に豊かで損なわれていない為、奥床しいのに豊潤な音色を目一杯味わえる。今回はまず2chの『あなた』を聴いてから13.1chの『あなた』と『Play A Love Song』を聴く段取りだったが、低音の違いは特に明らかだった。5.1chの低音は音そのものは豊かだがやや前に出過ぎてしまう。かといって0.1chを除くと低音は物足りない。13.1chは力技でそのジレンマを解決した気がする。これだけでも絶品だった。


もしここからこちらの望むような進化を遂げてくれれば360Rのシステムは大変素晴らしいものとなるだろう。これからの推移が楽しみだ。今後は少しずつこの360Rに望むモノは何か&足りないものは何かについて触れていくことにする。

それにしても、その、私がそうやって期待する360Rのシステムに恐らく最も必要不可欠なモノが、私が3年前にあれだけ散々罵り続けた3DVRだというのは何とも皮肉な展開だ。何だろう、孫悟空とベジータが手を組むみたいな感じだよね。それだけにフュージョン(融合)に成功すれば大変な事になるというのはわかって貰えるかと思う。さてどうなりますやらですわ。未来は誰にもわからないぜ。

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さて、本日から約1週間『Laughter in the Dark Tour 2018』ソニーストアデイズ東京銀座の陣だ。ここだけ集客がよすぎてオーディオ・ルームが抽選になったりした。痛し痒しだが、人気が無いよりはいいのかな。

既に大阪札幌名古屋で好評を博してきた。フォロワーさんの体質なのかなんなのか、衣装の話題が異様に多かった気がするが、あたしが赴いたらちゃんと音の話をするけんね。ご安心を。3DVRと360Rでの態度の違いを見せてやる。(笑)

まぁそれは後日の話になりますので。

にしても、随分引っ張るよねぇ『Laughter in the Dark Tour 2018』。円盤発売の時のすったもんだも今は昔と言って良いのかどうかよくわからないけれど、あれだけ騒動に次ぐ騒動で結局そんなに悪評になっていないのはヒカルの人徳の為せる業なのかなんなのか。いや私が認知していないだけで実際は宇多田ヒカルの信頼度は下がっている? そんなことなさそうなんだが油断は禁物だよねぇ。

ヒカルの活動ではレピュテーション・コントロールが他のアーティストに較べてより大事だとはよく言ってきた。通常盤仕様一形態なんかも、損して得取れではないけれど多少の収益減は承知の上で宇多田ヒカルのミュージシャンとしての矜恃を見せつけたとかなりの評判になった。時代的に複数枚商法がウンザリされていたからね。そういう風にしてブランドの価値を高めてきたのだ。

今は少し時代が下って。サブスク時代になりつつあるのか何なのかというタイミング。そこでこうやって映像商品をフィジカルでもサブスク(Netflixね)でもアピールし続けるのは何故なのか…そんな論点も持ちつつ、銀座を見てきたいと思っていますよ。梶さんや沖田さんや小森くん師匠がうろついてたらとっ捕まえよっと。(笑)

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引き続き小森くん師匠のインタビューから。

https://natalie.mu/music/column/344551

── 一般的にはボーカルの音量にばらつきがあると歌詞が聴きにくくなるので、コンプレッサーという機材で音の大小を少し慣らしてレコーディングすることが多いのですが、宇多田さんの場合は自分で声量をものすごくコントロールして歌うので、そもそもかける必要がないんですよね。

「慣らして」より「均して」だろうがそれにしても。このあとの問答でヒカルがマイクテクニックを使わない、即ちマイクとの距離と角度を物理的に調整しない話になるのだが、これは確かにそう思っていたわ。余りヒカルはマイクを動かすのに拘らないなぁと。普通は例えば声を伸ばすときにはマイクを離して囁くように歌う時には近づける、とかするのよ。爆音を背にする時は殆どくっつけたりね。ヒカルのライブ・パフォーマンスを観ている限りそういう素振りはみられなかったが、そうか、全部自前で調整してるんだね。

つまりヒカルは、歌を歌う時に音程やリズムと同等に音量も“データ”として頭に入れている事になる。なんちゅう複雑な。勿論歌手ならピアニッシモからフォルテッシモまでの指定を参照して歌うのは普通だがヒカルは声の出し方ではなくて声の聞こえ方の方を意識して調整しているのだ。バックの演奏の強弱も加味して。器用というか、そこまで周りが見えて・聞こえているのはアレンジャー・プロデューサーも兼任しているからだろうかな。


20年聴いててもこうやって身近にいらっさる方々のお話を伺うだけで新たな発見がある。小森くん師匠に限らず他の皆さんも「俺は裏方だから」とか仰らずにどんどん前に出て来て貰いたいもんだ。何しろ、ヒカルさん自体が殆どの時間裏方さんやってんだもの。遠慮は要らないのですよっと。

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小森くん師匠、相変わらずキレッキレである。


「米津玄師、宇多田ヒカル、Official髭男dismらを手がける小森雅仁の仕事術(後編)」
── こだわりが詰まった宇多田のライブレコーディング

https://natalie.mu/music/column/344551


特に笑ったのはここだわ。

── 例えばアコースティックギターって、ハウリングの問題もあるのでライブだとほぼラインで収音するんですけど、ライブ盤用の録音をするためだけにアコギにクリップマイクを付けさせてもらって。(中略)ライブPAという意味では必要がないんですけど、駄々をこねて導入させてもらいました。

つまり、『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品の為だけに、ギタリストの人に「ちょっとすいません、ライブの出音とは関係ないんですけど…」といってマイクをつけたのだ。図太い。まぁ彼が現場でのPAと録音の両方の担当だったから可能だったんだろうな。これのせいでギターが弾きづらかったりライブでの出音がよくなかったりしたら総スカンですよ。やはり師匠は胆力が違う。アシスタント時代にヒカルにパシリをやらされて鍛えられてきただけの事はある。レコーディング・スタジオで『酒買ってきて~』とか言われてたのだヒカルに。堪ったもんじゃないですよ。こらそこ「それご褒美じゃない?」とか言わない。

ごほん。そこらへんのこともちらっとだけ触れてくれている。(前編より)

── エンジニアになりたくて東京の専門学校に入学し、その後バーディハウスに入社しました。(中略)渋谷のBunkamura Studioにアシスタントエンジニアとしてしばらく勤務して、そこでつながりができたクライアントさんからちょっとずつメインエンジニアのお仕事をもらえるようになり、フリーランスになりました。

アシスタントをやっていたのは8,9年だそうで、なるほど、その時代に『HEART STATION』などの制作に携わっていたのね。で、フリーになってから『Fantome』のヴォーカル録りに参加して現在に至ると。フリーになってからも御指名が掛かるとはやはりアシスタント時代からタダ者じゃなかったんだろうな。ヒカルも年下のスタッフがスタジオに居てくれて喜んでたっぽいし。14歳でスタジオに入ったって周りは大人ばっかりだもんね。

でまぁ見出しにもある通り、『Laughter in the Dark Tour 2018』では30本のマイクを使って聴衆の声を拾っていたらしい。道理で今回はやたら客の声がハッキリ聞き取れるなと思えたわけだ。ちゃんと狙って録ってたんだね。

ギターの音を空気から拾ったり聴衆マイクを30本立てたりといった工夫の数々を施して録音したトラックはどうやら100以上。それを我々の聴いている2トラックに落とし込んだのだから間違いなく気の遠くなる作業なのだが、それが見事に結実しているのは我々が日々触れている『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品の抜群のサウンド・クォリティが証明してくれている。小森くん師匠の拘りに拘り抜いた匠の技の結晶だったのだ。これは次のヒカルの作品も小森くん師匠で決まりかな? そうは問屋が卸さない? さぁどっちでしょうね?

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情報過多で逆に情報栄養失調ねぇ。読み書きそろばんにまだインターネットが組み込まれてないから仕方がない。本来義務教育で対処すべき問題。インターネットをまだ過小評価している人がいるんだろうな。文字の誕生、本の誕生、印刷技術の開発と並ぶ人類史上の大きな結節点なのにねぇ。

その黎明期に立ち会っているのだから混乱が基本であって、そこからどうしていくかが大事なのだ。つまり、あなたが情報摂取に悩むのは当たり前であって、それは何も特別な事では無く、誰しもが対処すべき問題なのだというところから出発した方がいい。何の問題もない、私はうまくやれているという人ほど危なっかしいくらい。

話をややこしくしているのは、特にこの国では顕著なのだろうが、旧来のマスメディアの影響力が大きすぎる点。彼らの作り上げたマナーと作り上げられなかったマナーをそのままインターネットに持ってきても不具合だらけになってしまうのだが、まだまだ文脈は切り分けられていない。ひとつひとつ検証するのは面倒なので省略するが、皆が発信者たりえる世界では皆がマスメディアでは有り得ない。


梶さんがサブスク時代の音楽業界の話を複数の記事でしていたが、総じて痛感したのはやり方がインディーズに近くなっている面があるなと。

今までの大手レコード会社といえばマスメディアを使った中央集権的手法をとることが多く、極論するなら「発売初日に渋谷で馬鹿売れ」すれば成功だったのだ。日付も場所も一点集中。あとはマスメディアの拡散力に任せればいいと。

サブスク時代は「コアなファンに何度も聴いて貰うのが大事だ」という話。まずは何より“本物”の音楽を作って、それに響くファン層をみつけそこを徹底的に抉っていく─それはつまり何十年も前からインディーズで行われてきたことを、インターネットを通じて世界中のファンに対して出来るようになったという話だ。

我々の方もそれにアジャストした方が、そうね、いい音楽を聴けるかもしれないね。一方でこの国は高齢化社会であって、昔ながらの手法を繰り返す方がお互い慣れていて居心地がいい、という面も強い。高齢化ぶりが甚だしい為、ここから以後も何十年単位でそんな商売が出来るかもしれないし、そういうニーズの方が総体的に大きいかもしれない。

ともあれ、悩まずにやってみることだ。触れてみてよさそうなら続ける、そうでもなさそうなら手を引く。あんまり今後の事を考えていても、送り手側も例えば3年後にどうなってるかなんてわかっていないんだから。皆が手探りだと知っていれば手探り自体は焦るような事ではないと気付けると思う。出来るだけシンプルに。何をしたいかわからない時は開き直って"うただ寝"しとけばいいと思うよ? 

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さてNetflix英語字幕特集、『あなた』『道』とくれば次は『traveling』なのだがこれがまぁかなりいい訳なのだ。書き起こした英語を読んでいるだけであの『traveling』のイケイケな曲調が脳内に生じてくる。全文書き起こしたいくらいだがそれをやったらレコード会社から電話が来てしまうかもしれないので辞めておこうか。

どのセンテンスも本当に楽しげで楽曲のカラーも元の日本語詞のニュアンスもどちらも見事再現しているのだが、そうね、とりわけこれなんかが光っているのではないだろうか。

まずはもとの日本語詞。

『目指すは君』

リアルタイムで『traveling』を体験した世代はミュージック・ビデオのこの部分でまず打ち抜かれた訳だが、取り敢えずこの一文のGoogle翻訳をみてみようか。

"Aim for you."

うむ。これ結構いいと思うんだよね。逆翻訳すると「あなたを目指して。」になる。『目指すは君』の意味をよく汲み取ったシンプルな直訳だ。しかしヒカルはこう訳した。

『Destination : You』

これですよ。「行き先 : 君」ですよ。カンカラカラカラカラカラカッシャーン!てなもんですよ。どうですかこの浮かれ具合。まさにあの『traveling』の出だしの昂揚感をそのまま体現してやいませんか。ある意味日本語の『目指すは君』以上に浮かれている。ミュージック・ビデオのこの場面で字幕に『Destination : You』って出たらもうなんちゅうハマり具合か。流石この思い切りのよさは原作詞者ならでは。他の人では"Destination : You"を思いついたとしても「それはちょっと浮かれ過ぎだろう」と躊躇うに決まっています。そこを平気な顔してぶち込んで来れるのが原作詞者による英訳の醍醐味なのです。

Netflixの『traveling』にはこういうキレッキレの英訳がまだまだありますのよさ。今後も少しずつ触れていきましょうかね。

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「メガネクリーナーふきふき」@いんすた。小林製薬の商品か。これでお金を貰ってたらステルス・マーケティングになるのかな? 朝の6時半に呟くのが効果的かどうかわかりませんが、全国のヒカル好きな小林さんはちょっと嬉しいかもね。

えぇっと、そうね今日はお母様の命日で。お墓がある訳でもないのだろうけれど日本に居て午前中のうちにお墓参りをするなら早起きにもなるか。散骨した海に出掛けるのが筋なのかなぁ…まぁそこはわからん。写り込んだ靴のタイプからすればお寺とかではないどこか自然の多い場所なのかなとも思ったり。このあと履き替えりゃ済む話ですが。

逆に新宿には行きづらいか。あれから6年。特に今日はそれこそ藤圭子ファンの皆様の目もあるだろう。「圭子の夢は夜開く」や「新宿の女」の歌碑があるのも新宿だしね。一歩後退るしかないかな。


ここに至るまで様々な歌を歌ってきた。『道』で『You are every song』と宣言したのだから総ての歌がお母様に捧げられていると解釈しても構わないわけで、それはひとりひとりの心に委ねられるが、少し笑って『そんな気分』と歌えるところまで来たのだから時計の針は着実に進んでいる。息子の背も伸びただろう。引く手の高さが上がってくうちに拾いモノシリーズも少しずつ少なく…ならないのがヒカルだよね。本日は厳かに。

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