無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「少年時代」は少年時代の頃の思い出を歌った歌だ。一方ヒカルはこの歌を『私にとって思い出の曲』という。若い頃に歌って披露したからだが、つまり今のヒカルがこの歌を歌う時は二重の郷愁に彩られる事になる。歌の中で嘗て少年だった人のノスタルジーと、嘗て少年時代に(といっても二十歳の頃だけど)この歌を歌ったというヒカルのノスタルジーと。

当然それに伴ってリスナーのノスタルジーも多層的になる。元々1990年の頃から、ヒカルが歌う前から知っていた人の「少年時代」という歌の思い出と、ヒカルがこの歌を歌った思い出と。あの2003年の時初めて「少年時代」という歌を知った人も居ただろうし、それは今回もそうなるだろう。この歌の引っ張ってくる思いと思い出は、歳を重ねた人ほど分厚くなってゆく。

ヒカルは今回のカバーにより「コンサートで「少年時代」を歌う」というオプションを得た。勿論ヒカルは予め音源化していないカバーを沢山歌ってきてはいるのだが、『愛のアンセム』のようにやっぱり公式音源があるのとないのとではカバーの必然性に差が出る。歌いたいなと思った時に何の根回しも必要が無いのは大きい。

とすると。例えば10年後とか20年後にこの「少年時代」をヒカルがライブで歌う可能性も頭に残しておきたくなる訳だ。もし24年後とか……還暦の時に記念に歌ったら成人式から40年ということになる。そこで歌われる「少年時代」はまさに若い頃へのノスタルジーに溢れた歌になっている事だろう。気が早いことこの上ないがそれがこの日記の芸風だしその事に何の躊躇いも無いよ。ヒカルが郷愁を歌うというのはそういうことなのだ。なので、前回も指摘した通り、こういったコンピレーションへの参加も纏めたオフィシャルのディスコグラフィを恒久的に運営しておいて欲しい訳である。新しく入ったファンが十何年前──いやこれからは数十年前になっていくのか──、その頃の音源に違法となること無くアクセス出来る仕組みへの取り組み。ひょっとしたらミュージシャンとしての契約形態から考え直さないといけないかもしれないが、何もかも聴けなくなってからでは遅い。還暦で聴く「少年時代」の為にも、少しずつでいいから前に進めておいて欲しいものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




11年前の今日は『Eternally -Drama Mix-』の配信開始日即ち発売日なんだが……オフィシャルのリンクが盛大に切れていて笑えない。あれでどうやって聴けというのか。のちにコンピレーションでCD化はされたもののそうそう手には入らないだろう。『Eternally』はオリジナルから数えて18年、このDrama Mixから数えて11年だからまぁこのサイクルの早い電子世界では音源が手に入らなくなったとしても仕方は無いのだが、「サイトがリンク切れ」というのは少々事情が違う。これはつまり音源が入手出来なくなっている状況をオフィシャルが把握していないということなのだから。

普段問い合わせが来るのならリンク切れにもすぐ気がつくだろうからこれはつまりDrama Mixの需要が余り無いか或いはリンク切れになってから日が浅いか。今更確かにほんの僅かの違いしかないリミックスを問い合わせてまで購入しようという人は少ないだろう。よって実害(機会損失)は軽微とみるべきかな。なのでこれ自体は糾弾の対象になる訳では無い。

で。こういうのの類似例は今後もありえるのだろうか。ある日突然『Sanctuary』が聴けなくなったりとかなんかありそうで怖い。つまり立ち位置の微妙なちょっとしたエクストラトラックだ。『Beautiful World PLANiTb Acoustica Mix-』とかね。それが配信やストリーミングから突如消える。これは怖い。特にストリーミングは所持ではないから消えたら二度と聴けない。ローカルに保存しとけるといっても一瞬だろうし。それが今後の懸念材料だ。

それを考えるとオフィシャルのディスコグラフィにはもっと一覧性を高めたデータ色の強いページを付け加えてどの音源が今どこで手に入るかを把握しやすいようにしておいた方がいいのかもしれない。確かにどの音源まで把握するかは難しい。関わるレコード会社が複数だもんね。とはいえある程度まででも利用価値はある筈だ。ストリーミングに軸足を移すというのならそういったオフィシャルによる「ほぼ全曲インデックス」の構築が待たれる。そういったところで仕事をしているアピールをしておくのも悪くないんじゃないかな。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




「少年時代」という歌は、タイトルがこうでなければなかなか少年時代を連想できない雅で詩的な表現が多い。このタイトルを付けることである一定の方向性に情景を誘導しているようにもみえる。

タイトルを忘れてただ歌詞だけを吟味してみると、例えばヒカルの歌でいえば『真夏の通り雨』なんかに近い風合いがある。

─ 目が覚めて 夢のあと
─ 長い影が夜に伸びて
─ 星屑の空へ
─ 夢はつまり 思い出のあとさき

『夢の途中で目を覚まし』
『立ち尽くす 見送り人の影』
『思い出たちがふいに私を
 乱暴に掴んで離さない』

決して似ているとかましてや似せているとかではないのだけれど、こうやって並べてみた時の親和性のようなものは伝わると思う。情緒の置き所に二人近いものがあるのだ。もともと「少年時代」の歌詞は宇多田ヒカルの世界観と齟齬がない。カバーが成功するのは目に見えている。もっともそれはコロンブスの卵でしかなく、最初にそこに気づいた奴はやっぱり偉い。

なので、ヒカルが今回カバーするにあたってその親和性とどういう距離のとり方をするのかがひとつの焦点になるだろう。より近付くか敢えて距離をとってみるか。

ひとつ思い当たるのはここでも『Passion』だ。老人が少年の(或いは少女の)頃に描いていた夢や未来を見る目線と目を合わせる時それは陽水の描く「夢はつまり思い出のあとさき」や「誰のあこがれにさまよう」と呼応するだろう。また「青空に残された私の心は夏模様」や「永い冬が窓を閉じて」なども『Passion』と同種の空気を運んでくる。となると『after the battle』のようにピアノ一本の編曲を思い描いてしまうが果てさてヒカルはそこをどのように捉えたのか、捉え直したのかな。冬を迎えようとする今聴けるのは、それはそれで嬉しいことなのかもしれないな。


(……今朝の続きはどうした、って? いやぁ、わからないよ(笑))

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




2026年にFOMAとiモードのサービスが終了する事が発表された。四半世紀に渡りお疲れさん、ってまだ6年もあるのかよ。しぶといねぇ。うちに持ってるガラケーは技適が22年までだからどちらにせよ満了だわ。

この日記もガラケー時代が長かった。初期はポケベル入力だったのよ。持ってたケータイが入力切替に対応していたのだ。当時のケータイは皆そうだった気がする。ケータイを持つようになるのはポケベルとPHSの次、という順序だったからそっちの方が馴染みやすかった訳だ。

この日記の初期の“500bytes縛り”も、その頃のメール投稿の容量上限が500bytesだったからだ。その上限が撤廃されてからも暫くは500bytes縛りを継続させてみていた。故に当時の日記はほぼ総て同じ文字数で纏められている。まぁスタイルになったよね。今は文字数自由だが多分いつでも字数制限に対応できるだろう。身についている。

昔話が続く。iモードの何が嬉しかったって『Message from Hikki』が対応してくれた事だ。朧気な記憶だと2001年1月分からだったかと。手元でメッセの更新を確認出来る日々。いやはや嬉しかったねぇ。

ヒカル自身も当時FOMAのCMに出演していて「未来派」のイメージがあった。特に「携帯電話で音楽が聴ける」という触れ込みは大きかったよね。メッセにも書かれていたが、ヒカルが仕事で過去音源の確認を強いられた時手持ちにバックカタログがなく焦っていたところ電話会社から自分の曲をプリインストールして貰ったケータイを献品されていた事を思い出して事無きを得たなんて話もあった。音質もよかったんだってさ。

今は時代も下って寧ろ携帯電話が音楽を楽しむメインツールになっている。メッセージのチェックも、今はTwitterだが、手元でするのが当然だ。そのうち4Gも取って代わられるのだろう。日々進歩している。人的資源も限られているので選択と集中も仕方ない。


……話の途中だが今朝はこれくらいでまた次回。

コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )




さてもう一方のリークの方はどうなったのかな。井上陽水トリビュートが11月27日発売でもう一方の方は11月13日発売。2週間も早いんだけど発表はそっちの方が後なんだねぇ。発売日前ラスト一週のブーストの為に発表をとってあるとかなんかな。だったら暫く触れない方がいいか。


じゃあ前回の続き。ヒカルの「正式音源」の感覚について更に考えてみる。

何十回も話題に出しているが、スマートフォンが主流になったこの十年、音声だけのコンテンツは物足りなくなった。動画があるのが当たり前になったもんね。あとは来年5Gが始まってやがて料金が下がっていけばもっと動画が親しみ易くなる。音声のみはもう…と思いがちだ。

そんな中ヒカルはやはり「音声のみのトラック」をこそ正式な作品として捉えるという古風な感性を見せてくれている訳だ。著作権の取扱も念頭にあるのだろうけど、実際今やCDアルバムの売上よりライブコンサートDVD/blu-rayの売上の方が大きいんだし時代は完全に映り変わっている訳だがヒカルは依然“こっち側”なのだ。となると、暫くはまだまだCDを出してくれそうだね。でないと「作品が形になった気がしない」んじゃないかなヒカルは。

手に取る/手に取れるかどうかというより、“手に取った記憶”の影響が大きいのだろう。「音」というのは本来その鳴る出処を探る手掛かりだ。裏を返せば、どこが鳴っているか、何が鳴っているかを確認しできないと人は納得しない。フィジカルを手に取ると、曲がりなりにも「そこから音が出ている」と思えるようになる。これが存外大きいのだ。

ストリーミング・サービスの場合まさに文字通り音が流れていくので、自分で選んで聴き始めてもそれはどちらかというとCDを買うのよりラジオで新しい曲に出会うのに近い感覚だ。なんというかずっとラジオ。まぁそれが楽しいんだけど。

それとは対極的にヒカルは「少年時代」を歌うことで正式音源としての手応えをリスナーに与えてくれると暗に示している……とまで読んでしまうと行き過ぎだろうかな。我々年寄りのノスタルジーは、ヒカルがこの歌を歌った2003年と、陽水がこの歌を発表した1990年を行き来してこの2019年の音源に辿り着く。年号で言えば平成2年と平成15年と令和元年がひと連なりに繋がるのだ。産まれたばかりの赤子が13歳の少年になり、その時生まれた赤子は16歳の少年になっている。それくらいの時を経た後に宇多田ヒカルが歌う「少年時代」が自分のようなこの29年の時代と音楽を知っているような年代の人間にどう響くのか、楽しみのようなちょっぴり怖いような。どれくらいの感傷を味わわせてくれるのだろうか。解禁日がやっぱり待ち遠しい。まだ発売日まで4週間あるんだもんねぇ。痺れを切らしそうな気がしてますよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




人が日記を仕上げたタイミングで新しいニュースを上げてくるとは……昨夜の9時頃の話だが。寧ろ週末にフライング解禁されててよかったのかもしれんな。そんなに間抜けにもならなかったわ。

という訳で井上陽水トリビュートの選曲紐付けが発表された。ヒカルは「少年時代」を歌う。予想通りというか予定通りというか。国民的アーティストが国民的唱歌を歌うという超ド直球な選曲だ。といっても、16年前に歌ってなかったらこうはなってなかったかもしれないから実績って大事だねと。

ヒカルのコメントはこうだ。

『二十歳の誕生日イベントでカバーしたことがキッカケとなり、まさかの井上陽水さんのライブでご本人に見守られながら歌わせていただいたこともありました。「少年時代」は私にとって思い出の曲です。/やっと、正式な作品としてレコーディング、発表することができました。デビュー50周年、おめでとうございます。』

読点の多さに今のヒカルの落ち着いた口調が窺える……という本筋とは関係ない感想はさておき、私が引っ掛かったのはこれが初めての“正式な作品”扱いだということだ。ヒカルの中では『20代はイケイケ!』は正式な作品ではないらしい。ちゃんとDVDでリリースされているのにね─というか、そうだな、ライブ・ストリーミングの録音録画を“作品”と呼ぶのに抵抗がある、と言った方が適切か。

2019年の今でもジャズやクラシックの演奏家は「ライブ・レコーディング」が基本のようだ。勿論編成やタイミングによるのだが、ワンテイクかどうかは兎も角、せーのどんで録音する。それをそのまま作品としてリリースするのも珍しくない。いつの時代の話をしているんだと言われそうだが上手い人はそれが出来るのだ。

ヒカルにとって「作品」とはそういうものではない。何故ならヒカルはプロデューサーだからだ。演奏して録音した素材をどう料理するかが作品作りの本陣であって録音作業は素材集めでしかない。この認識の違いを前面に押し出したコメントとなっている。

カバーアルバムというとどうしてもオリジナルとの歌唱の違いがまずクロースアップされるが、ヒカルからすればサウンド全体のコンセント、サウンド全体のプロデュースの方向性にこそ注目して欲しいのかもしれない。国民的唱歌を国民的アーティストがどう歌ったかだけでなくどう料理したかまで堪能してうただけると幸いである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




毎度書いている事だが、レコード会社が斜陽産業だからって皆が音楽を愛さなくなる訳ではなく。形態が変わっていくだけだ。歌は永遠に不滅なのです。が、国やその国の言葉は滅ぶかもしれないわね。

現在の不寛容絶好調の我が国では次第に表現の自由が奪われていきあらゆる歌が検閲を受けるようになるかもしれない。音楽家は次々に亡命するだろう。日本語の作詞家は痛し痒しだが、程度が酷くなっていけば各地に日本語コミュニティを小さく作って生き延びるかもしれない。まぁどうなるかはわからない。

一方、超高齢化社会では「新しい音楽はもういいや」ということになる可能性は結構高い。若い世代が少なすぎて新曲を制作する人間がプロフェッショナルになれなくなっていくかもしれない。それなら十二分にありえる。資産を持つ層が古い音楽にばかり投資(と言うのも変なのだが)するようになる訳だ。若いミュージシャンには一向にチャンスが回ってこない。音楽で成功したい若者は海外に出て戻ってこないだろう。元々商業音楽は西洋からの輸入で成り立っていた国なので本場で頑張るようになるだけで何の不自然もない。今は初等教育から英語を教えているそうだしな。

という先駆けが宇多田ヒカル、なんてことに今後の歴史はなるのかどうか。ヒカルだって自由に歌詞を書けないとなれば日本語での制作に身が入らなくなっていくかな。向こう10年は大丈夫かもしれないが20年30年となるとわからない。ネットの偏った日本語言論で育った層が社会の中枢を担う頃には果たしてこの国はどうなっているのやら。

とこんな事を書いているが私個人は全く悲観はしていない。ヒカルの歌が聴ける場所に行くだけなのだし。わざわざ戦う暇があるなら次の歌を歌ってくれた方がいい。超高齢化社会も永遠に続く訳ではなくそのうち緩やかになっていくからそこまでもつかどうか、ってのもある。40年てとこ? うーん、流石にちょっと遠いな。地域格差もあるしもうちょい早めにお願いします。

という長いスパンの話をした後は目の前の話に目を向けよう。

リークのお陰でヒカルの新情報が間もなく二つ現れる事が明らかになった。皆さん公式発表の時にわざとらしく喜ぶ準備は万端だろうか? 正直に「知ってた(笑)」って書いちゃうのかなぁ。

ソニーストアデイズから数えればまずまずのペースで情報が出ている。皆に渇望感が出ているのは偏に『近日パイセンの回答第2弾を公表します。』の一言のせいであってこれさえなければそんなに情報のインターバルが空いていた訳ではない。と、今朝レコード会社の皆さんをけちょんけちょんに貶したのでフォローする一言も入れておくね。まぁ元々一般論だしね今朝のは。いやホントだよ(真顔)。

映像商品リリースからの店頭イベント、更に他流試合二つと結構いい感じ。2019年のバイオグラフィも結構色々書けそうだ。後は年内に新曲の……リリースまではいかなくともタイアップ・コマーシャル解禁くらいまで行ってくれれば御の字じゃないだろうか。もっとも、最近の御時世だとコマーシャルで流したらすかさずストリーミングをぶち込んできた方がいいとは思うけどね。

となると冬の歌なのかなと。今我々は短い秋を堪能しようとしているとこだが、仮にクリスマス・ソングとかだったらまぁ盛り上がるわね。そんなあからさまな事はしそうにないが、息子に強請られたら或いは?と考えてしまえるのが昔と違うところだ。宇多田ヒカルに何かさせたい人が在ればまず息子を陥落させよう、というのが合言葉になったら怖いので、もしそんな理由が実在しても暫くは公表しないかもしれませんね。さてさてどうなることでしょう。色々妄想しながら冬を迎え入れていきましょうぞ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




週末は流出騒ぎが2件立て続けに起こってやれやれだった。ひとつめは椎名林檎来月発売のベスト盤収録予定の未発表曲について。ふたつめは井上陽水トリビュートの参加アーティストと収録曲の紐付け情報。どっちも動画の流出でYouTubeにアップロードされててなんだかなぁという。

一般的にはコンテンツ企業での情報流出は大変な一大事で人事や構成にも影響を及ぼすものなのだが今回の事例に関しては特に重大事だとは思っていない。日本のレコード会社なんて斜陽産業そのものなので。

これが欧米のレコード会社だったら話は別で。特に4年前からストリーミングで活性化している市場においては情報合戦は熾烈な切った張ったの世界でしてクラッカーの皆さん大活躍なのだが日本は違う。情報に強い人のコンテンツはゲームやソシャゲやアニメに偏っており音楽産業はハナから注目されてなどいない。たまたまゲーソンやアニソンが引っかかればという程度。情報が生活に根差している他国とは違い日本は未だに情報と計算機はヲタクのものだと思っている層が多い。まぁそれがこの20年で没落と停滞を招いたのだがその話はおくとして。

だから今回の流出もハッカーさんとクラッカーさんの技術勝負とかそんな高度なものではなくて、もっと初歩的なミスだと思っている。最大手のユニバーサルですら若くて優秀な人材なんて入ってないんじゃないか。いや寧ろあんたらまだ新卒取る気なんかと驚いてるくらいなもんで。レコード会社というと知名度が高いのでどうしたって優秀な人材が集まると思われがちかもしれないが、あなたが今20歳くらいの子の親御さんだとして真面目にこの業界に就職させたいと思います? 就職する当人たちにとっても自分の事をもっと評価してくれる業界に行きたいだろうなぁと。

話が逸れた。まぁつまり、流出理由も下らなければ流出したところで大した影響もないという、我々が今度公式発表があったときに白々しい反応の演技を強いられる程度の残念だがどうってことない結果にしかならない予感がしているので、糾弾も叱咤も擁護も激励もする気が起きないというのが今の私の正直な心境です。担当者は始末書書かされたり何らかの処分はあるかもしれないけどね。左遷できるほど人材居ないだろうからまたやっても驚かない。いや、ホントもう止めてよこっちにはメリット無いんだから。解禁日に普通に喜ばせてよね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『Laughter In The Dark Tour 2018』映像商品を集中的に堪能する期間なんてものを設けてしまうと、いざスタジオ盤のアルバム『初恋』を聴いた時に色々と引っ掛かる場面が出てくる。

「あれ?『あなた』の次が『道』じゃない?」とか「『too proud』が終わっても又吉が喋り出さないぞ?」とか「『本当は誰も知らない』の後に『風に吹かれ震える梢が』って歌い始めるのがえらく早いな!」とかまぁ慣性というか慣れって怖いねというのをよくよく痛感致しますのよ。


時々、ヒカルの昔の曲の事を忘れられたらなぁ、と思ったり思わなかったりする。“ライブバージョンならでは”を楽しむにはスタジオバージョンを聴き慣れている必要があって、「CDではあぁだったのにライブではこうきたか!」という驚きは、コンサートに挑む際にある程度頭の中にオリジナルバージョンの残像がくっきりと存在していないといけない。例えば「『Stay Gold』をバンドアンサンブルで!?」という驚きは、オリジナルのスタジオバージョンがピアノ主体のベースレスサウンドだということをインタビューで聴いてそのつもりでトラックを観賞してという一連のプロセスを経たからこそ生まれるものだった。それがなければ「なんか聴き慣れたのと違うなー」とか「この曲CMで聴いたことある!」とか「あー知らないや。新しい曲?」とかそういった反応になっていただろう。スタジオ盤を聴き込んでおくことは、特にライブコンサートに参加する時にはかなりの威力を発揮しよりコンサートの中身を味わえるようになる訳だ。

逆に、知らなかったらどうなっていただろう?という興味が湧いてくるケースもある。『WILD LIFE』での『愛のアンセム』はスタジオバージョンでの『Hymne à l'amour』と『Spain』のマッシュアップに慣れ切っていたからこそのサプライズなピアノと歌での一本勝負だったのだが、もしそのマッシュアップを知らずにあそこであの日の横浜アリーナで『愛の讃歌』のヒカル独自の訳詞による『愛のアンセム』を初体験していたらどんな気分転換だったろうか、と。スタンダードとしての「愛の讃歌」は知っているけどマッシュアップは聴いたことなかった、っていうね。サプライズの質がまるで違っていたのではないかと。

贅沢極まりない思考実験なのは承知。しかし、普段からこういった事まで考えているからコンサートの2時間余りを存分に楽しめるのだ。ライブの決まっていない時期もこれを自分が生で聴いていたら、なんて風に意識するかしないかで大分違ってくるのだ。そう、次のライブへの参加はもう始まっているのですよ皆さん。普段からヒカルの過去音源とどう接しているかで(果たしていつになるかわからない)次のヒカルのライブでの楽しみ方が変わってくるのです。『Laughter In The Dark Tour 2018』映像商品を観る時も「今度は(今度も)自分があそこに居るんだ」なんてことを考えながら堪能してみてください。きっと色んな聴き方を新しく発見出来ると思います。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




「聖域(Sanctuary)」での時間のありようは独特だ。どうしても「球形」という形容を使いたくなる等方性の感覚。

時間の流れというのは非対称的だ。過去はひとつに決まっていて確固たるもの、未来は未定であやふやなもの。そのイメージから抜け出すのはなかなかに困難だ。だが『Passion』と『Sanctuary』はそこから抜け出る術を教えてくれる。

『after the battle』の構成は、その神秘的な感覚を抽出した前半とそこから躍動感溢れる時間の流れが生まれる後半とで成り立っている。そこを繋ぐのがpassion flowerたるトケイソウの模様「時計」だ。

考えてみれば「時計」はとても不思議なものだ。それ自体は別に何も流れていない。同じところを同じように延々ぐるぐると回っているだけ。それはアナログ時計でもデジタル時計でも砂時計でも日時計でも変わらない。言うなればただの「振動」に過ぎない。

だが、我々はそれを見て冒頭で触れたように不可逆な、次々と未来が今を通して過去として固定化されていく“流れ”を感じ取る。それは時計のありようからは随分と離れたものだ。行ったっきり帰ってこない「振動」とは対局にある何か。

そのイメージのズレを、『Passion』と『Sanctuary』は埋めてくれているように思う。もしかしたら“時間の流れ”というのは、物理的に厳然と存在するというよりは、我々が『聖域』を感じながら「時計」を手にした瞬間に生まれ出でるものなのではないかと。

つまり、時の流れが先にあって我々がそれを時計を通して感じているのではなく、時計が先にあって我々の聖域と反応することで後から時間の流れが生まれてくるのではないかと。その見地に立った時に漸くヒカルの「今の22歳の私には12歳の私も42歳の私も共に在る」という発言の感覚の一端にふれれた気がした。

勿論、総てではない。ヒカルの感覚は宇宙から音楽を取り出せる超常的と言っていいものなのだからおいそれと理解したと言い放てるものではない。しかし、その表現物を通せばこうやってちいさなきづきを積み重ねていくことができる。僕らに対するお裾分けの蓄積である。それを知れれば、怖かったものも怖くなくなる…まではいかなくとも、その怖さの在り処を知る事くらいは出来るようになるかもしれない。そしてそれは、途轍もなく大きな事で、だから歌は振動を化身として球体の真ん中から僕らの誰に対しても響いてくるのだ。それは音すら超えた何かであって、やっぱり最初と最後は光なんだなと。そして時は流れ出すのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『Passion』に見られる超越的な時間感覚を理解する一助に他の歌を取り上げてみよう。今回は『Goodbye Happiness』を。

GBHは視点が目まぐるしく変わる歌だ。1番のAメロはこう。

『甘いお菓子 消えた跡には
 寂しそうな男の子
 雲ひとつない summer day

 日に焼けた手足 白いワンピースが
 汚れようがお構いなし
 無意識の楽園』

どう目まぐるしいかといえば。まず甘いお菓子が突然消えてそこに寂しそうな男の子が現れる。するとすぐさま青空に目が行く。甘いお菓子を綿菓子としてイメージするとすると、白~男の子~青と視界の視点がくるくると変わるのだ。更に日に焼けた手足は浅黒い。そこにまた白だ。青空には白がない(雲ひとつ無いのだから)からまたこの対比が鮮やかで、つまり、「白~男の子~青~浅黒~白~女の子」と視点がどんどん変わっていくのだ。

目まぐるしさの理由は、見えているものが変わるからだけではなく、誰がどこから見ているかまで変わるのが大きい。寂しそうな男の子と白いワンピースの女の子はもしかしたらお互いを見つめ合っているのかもしれない。

その視点の移り変わりを凝縮した一行がサビのコレだ。

『恋の歌 くちずさんで
 あなたの瞳に映る私は笑っているわ』

さぁこれはどちらの視点からの事を歌っているのか。一瞬わからなくなる。実際に女の子が男の子の瞳を覗き込んで自分の笑顔が映っているのを確認しているというよりは、寧ろ女の子が男の子から自分がどう見えているのかを想像していると捉えた方がいいかもしれない。

そして、『Passion』には次のような一文があった事を思い出そう。

『思い出せば 遥か遥か
 未来はどこまでも輝いてた』

この歌は、老人が大きな木の下で若い頃の事を思い出す歌でもあるのだが、何を思い出しているのかといえば若い頃の自分が思い描いていた未来についてだ。これはいわば、現在の老人になった自分を若い頃の自分が見つめているようでもある。


先程触れたGBHの歌詞とこのPassionの歌詞には深い相似を感じる。GBHでは男の子と女の子が向き合って、Passionでは老いた自分と若い自分が向き合ってそれぞれ相手の事を瞳に映し、相手から自分がどう見えているかを想像する事で世界を形作っている。それがGBHでは空間的であり、Passionでは時間軸上の話になっているのだ。

やはり空間と時間では時間の方が捉えづらい。まずはGBHの“空間的な見つめ合い”を学んでからPassionの“時間的な見つめ合い”に進むと、ヒカルの歌詞世界に対する理解出来るがより進むのではないか。わかりやすいところから始めれば初めは難解だと思っていたものも少しずつ見えてくるですよ。まずはじぃっと見つめてみましょうね。
 

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『Laughter In The Dark Tour 2018』でのヒカルのパフォーマンスは、当然ライブバージョンということでところどころスタジオバージョンとは歌唱の構成が異なる。中にはまるごと歌わなかった箇所もあったりする。

『Prisoner Of Love』の最後もそれにあたる。ヒカルはラストセンテンスの『一人にさせない』をはっきり歌わない。そのこと自体は構わないのだが、これがNetflixの動画になると英語訳字幕がついてくるのだ。何が起こったかというと、ヒカルはその箇所を歌っていないのにその『一人にさせない』の訳にあたる『I won't let you be alone』の字幕が画面上に出てしまっていたのである。

すわミスか、と即断するのは難しい。歌詞は著作物。ライブ・アルバムのブックレットでもそうなのだが、明らかに歌われていない部分があっても一個の著作物として掲載する以上ひとつのまとまりとして扱わねばならず、おいそれとは変更できない。故にライブ・アルバムのブックレットでもスタジオ・バージョンのまま歌詞が掲載されるのが普通だ。

字幕の場合も同じかどうかは知らないが、兎も角、現実としてラストセンテンスの字幕は画面上に出ている。それを見て違和感を感じた人が出ても不思議ではなかろうよ。

しかし私の場合、その字幕が出た時に「これはいい効果だ」と感じてしまった。それはまるで、あたかもヒカルが口に出さずに心の中で『一人にさせない/I won't let you be alone』と呟いたかのように感じられたからである。字幕によって心の中のモノローグを補完していると捉えると寧ろ歌ってしまうよりより強い決意、秘めたる決意としての色合いが鮮明に表現されている気がして何とも詩情のある効果が出ているように感じられたのだ。偶発的だろうとはいえ、なかなかに感銘を受けてしまったよ。

なので、皆さんもそのつもりで鑑賞し直してみては如何だろうか。ちょっと俯いたヒカルの心情が字幕を通してのみ伝わってくるかと思うとまた違った楽しみ方が出来ると思いますですよ、えぇ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




何度だって言うけれど、『Passion ~after the battle~』のヒカルの歌唱はやっぱり絶品だ。今の発声で歌うとどうなるかも知りたいわ。


『Passion』の世界では時間が流れていない。それを理解するには、まずヒカルの時間の感覚がどんなものなのかを知らねばならない。例の「12歳22歳42歳」発言だ。

「22歳の私には12歳の私も居る」というのはわかるのだ。例えば私が今こうやって日記を書けているのも12歳までの私がちゃんと国語の授業を受けて漢字を覚えていてくれたからだというのは日々実感している。勿論殆ど無意識に出てくる事なのでそうそうはっきりとした感覚ではないが、「ゆ」の書き取りをしながら「お魚みたいだなぁ」とぼんやり考えていた6歳の頃を思い出したりする。暗算だって料理だって何だってそう。昔の自分に助けられていまの自分は動いている。今年の自分は来年の自分に貢献できるのだろうかと考えると正直に言えばもう心許ないのではあるのだけれどね。

しかし、ヒカルは未来の自分もたった今共に在ると仰る。これがわからない。22歳の時点で42歳の自分の存在をも感じているのだと。20年後なんて生きてるかすらわからないのに。未来の自分なんてそういう生死まで含めて可能性があり過ぎてとても傍に居るようには感じられない。過去ですら分厚過ぎて全部を活かし切るなんてとても出来ないというのに。

しかし、ヒカルの感覚はそういうことではないのだろう。それこそ『Passion』に描かれているように、未来とは、もっと未来から振り返ってみれば過去と同じようにひとつに決まっている何かなのだと。確かに捉えづらい感覚だが、だからこそこうやって歌にして音楽にして表現する価値があるのだろう。

ここまで来ればヒカルにとって時間とは川のように流れていくものではなくなっていた。確かに『DEEP RIVER』まではヒカルにとってももしかしたら時間には流れがあったのかもしれない。何しろアルバム・タイトルからして流れの象徴である「河」だしね。それが『ULTRA BLUE』に至って、青空のような広い広い何か、青々とした天球のような丸い何かになっていった。そこのところを表現したのが『Passion』だった。

この曲を直感で理解出来る、説明や分析無しで納得できるというのは、少なくとも『ULTRA BLUE』の頃のヒカルの感覚を持っているということだ。自分にはそこまでの感覚はなかった。だが、そうなのであろうなと推測する事は出来た。だから次(の次)に『This Is Love』が来た時に納得出来たのだし、30秒で5000字も書けたのだ。懐かしいな13年半前。

今で言えば『夕凪』だろうね。タイトルが暮れる太陽と止まる風。凪というイメージに時間の止まった感覚を重ねる。ただ、これは本当にお母さんの時間が止まったことをも連想させる為、『Passion』の描く“聖域”からは少し遠い気がする。聖域での時間とはもっと……という話からまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




QWERTYにも慣れてきたので今度はSimejiをテストしてみる期間。ポケベル入力が懐かしい。

自分の場合入力方法は内容に直結している。あらかじめ何を書くかが頭の中で定まっている場合はどんなキーボードを使おうが変わりはないのだが、この日記は多くのケースで行き当たりばったりなのだ。考えながら書いたり書きながら考えたり、しまいには書いてから意味を考えたりと非常にせわしい。そういったケースでは文字が生成されるペースと頭が考えるペースのレシオ、比率が重要になってくる。

ガラケー時代からよく「その文字数を親指1本で」と呆れられてきたものだが、スピード自体というより寧ろ比率の影響が大きい。考えてる事を文字にするといっても、例えば自分の場合ありきたりなコラムを一篇800文字整えるのに約15秒かかる。が、800字を15秒でタイピングする方法はない。両手キーボードでも数百秒かかるだろう。日本語は変換が入るのでアルファベットとは事情が違う。予測変換を駆使しても数十秒単位の短縮だ。レシオの前にスケールが異なる。

なので逆にタイピングスピードがある程度遅くレシオが整数比になってサイクルが安定する方が書きやすい。次の展開を考えて組み立ててというひとまとまりとタイピングのペースが噛み合えばスムースに文章が生成される。そうなるとさほど推敲の手間も要らず後始末は誤字の掃除だけで済む。このサイクルが合わないと無駄な文章が差し挟まれたり必要な一文を飛ばしてしまったりして推敲にやや時間が取られる。タイピングが速くなったからといって完成が早くなる訳では無いのである。わかってもらえるかなぁ。


ヒカルさんの制作と創作にはこのサイクルという概念が無い。ゆえに大したインターバルでもないのに少し音沙汰が無いと健康を心配されたり事務所に問題があるのではとかレコード会社がどうのとかレーベルがどうのとかまで言われ始める。懐妊説も飛び出した。まぁその場合はおめでたいので歓迎なのだが、要はピッチや頻度自体よりもサイクルなのだ。まだ復帰して3年半、その間にレコード会社移籍を伴ったりして慌ただしくまだ「新譜発売からツアー」の流れも1回しか完遂していない。これではリスナーもサイクルを感じる事が出来ずに不安になるのも仕方がない。

2010年より前にある程度ファンをやっていた人間ならば「宇多田ヒカルはサイクルがないのがサイクル」と禅問答並みの悟りを開いているので問題は無いのだが、周りのスタッフは若いファンに対してその境地を知れという態度では少し冷たいのではないのかなとも思う。スタッフとはいえ公式がほんの少しファンとツイッターで戯れるだけでも大分違う。ヒカル以外の仕事もあるからというのならその旨呟いてしまえばよいのだ。確かに「それもバランス」ではあるのだが、不用意な発言さえなければ露出は一定の頻度である程度は確保されていた方が印象はいいだろう。気まぐれアーティストであるヒカルさんのフォローはそうやってなされるべきだと、コンスタントさ重視の無意識日記さんとしては思うわけですよっと。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ほぼ自分へのメモ。日記なんだからそれでいいんだけどね。


2005年秋『Be My Last』に続く新曲がリリースされるとアナウンスされた当初そのタイトルの表記は『passion』だった。文頭のpも含めて総て小文字表記だったのだ。程なくしてそれは修正され現在のpが大文字になった『Passion』へと変わった訳だが、fc2時代の無意識日記でそれについて以下の様な旨を記していた。

── 全部小文字の『passion』には情熱という位の意味しかないが、文頭が大文字の『Passion』だとそれに加えて「受難」という意味も加わる。この場合の受難は「イエス・キリストの受難」という意味で、キリストが磔刑を受けるなどして苦痛を負う物語を指す、、、

、、、なんて風に。これを裏付ける、とまではいかないが先々週紹介した『Passion (after the battle)』の後半に“時計のネジを巻く音”らしき効果音が出て来る事を思い出そう。そのサウンドは、恐らく花のトケイソウとかけているのだろうと思われる。トケイソウは英語でpassion flowerと呼ばれ、その十字の模様がキリストが磔された十字架を思わせるところからこの名がついた。

裏を返せば、ヒカルは『after the battle』を作っている頃には受難の方の“Passion”の意味に気づいており、意図的にこの時計のネジを巻く音のSEを入れたものだと思われる。オフィシャル・サイトで『passion』が『Passion』に変わった頃丁度『after the battle』を制作していたのではないだろうか。


『Passion』という歌はヒカルが同曲のインタビュー時に「今の22歳の自分には12歳の自分も共に在るし42歳の自分も共に在る」と述べる「時間という概念を超越した歌」である。その時間の凍った場所を「聖域(sanctuary)」と呼び、『after the battle』の前半ではその時間の凍った聖域からの歌声をイメージしたサウンドで彩られている。一方対照的に後半では器楽演奏によって時間が動き出す様を描いているようにもみえる。その時間の動き出す様をネジを巻く音で表現しているのだろう。トケイソウとダブル・ミーニングになっているのだ。全くよく出来た歌だと思う。

で、だ。…という話からまた次回。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ