無意識日記
宇多田光 word:i_
 



光に「若い子が何考えてるかわからない」という時は来るのだろうか。

15歳でデビューした当時は、10代の心の機微は無論現役な為描くのは得意とする所だったが、それと同時に自分より上の世代、ずっと上の世代の心も捉えて離さなかったのが凄かった。普通、10代の支持を受ける音楽なんて40,50の大人は興味を示さない。それがこうなったのだから光のソングライティングは年寄りたち(失礼)のツボを知っていたと言い切っても構わないだろう。

しかし、今は光も29になろうとしている。普段10代の子たちと触れ合う場面などあるのだろうか。彼らが何を考え、何を感じ日々を過ごしているのか、その世代の特色を、把握しているのだろうか。

「ねえさん」と呼ばれ始めていり今の状況では、宇多田ヒカルは尊敬はされても"仲間意識"みたいなものはちょっと違うかもしれない。

色々な視点がある。例えば年齢に関係なく、どのアルバム、どの曲から入ってきたかによってヒカルのファン層は特徴が分かれる。その時の光の色の反映だといえる。そういう捉え方をするのなら"若い子たち"という区切り方自体、光には不要かもしれない。

若い世代は常に前の世代の呪縛から逃れる為にもがく、足掻く。その中から、反骨心や反抗心の中からアイデンティティやオリジナリティを確立してゆく。光ももう若くない。寧ろこれから、いや既に一部ではそうなっているだろうが、旧世代の象徴として語られていくかもしれない。

実際、年をとった大御所がその時旬な若いアーティストと共演する姿は幾度となく見られてきた。親子ほども、とはいかないまでもこれから光は年下のミュージシャンたちとも仕事を始める筈だ。そういった時に、光にとっての"若者"って何になるんだろう、と考えるとちょっとピンとこない。男子と女子でも違いはあるだろうけど。

Stay Goldが解禁になった頃、この曲は10代にウケがいいと光は言っていた。おぉなるほど、いわれてみればと思ったものだが、何よりこの歌の主人公が「ねえさん」だった所が、10代の子たちにとっての宇多田ヒカルという存在にしっくりと来たのではないか。「私は今10代だからおじさん作詞家よりも彼女たちの気持ちをわかって詞が書ける」みたいな意味の事を嘯いていた少女が、年下の子を優しく見守る目線の曲を書いて、それが彼らに受け入れられた。こんなケースが今後も増えていくのだろうか。

光の作詞からして、特定の年齢層に偏った内容ばかりになるという事は考えづらい。ぼくはくまでくまにもなった人である。恐らくこれからも、様々なひとやものに"なる"だろう。なって、歌を唄うだろう。しかし、周囲の目は否応無しに変化していく。光の精神が年を取らなくとも、周りは確実に老いていく。それは抗い難い事実である。まぁもっとも、ヒカチュウでいちばん元気なのは還暦を過ぎたみなさんだったりするんですけどねー。

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歌の世界というのはとても短い。歌手寿命もそうだし流行の移り変わりもそうだが、歌の中の世界の物語の持続時間自体が短い。どんなストーリーもPopsであれば5分ほどで済まされ切り上げられ次の世界へと移ってゆく。掌編小説とか、読み切りばかり掲載された漫画雑誌みたいなものだ。数分堪能した後は、すぐ忘れられてもう次である。

勿論それは近年のPopsの話であって、クラシックであれば数十分の楽曲は珍しくないし、オペラなら日を跨ぐ事もある。プログレはアナログレコードの収録時間限界に挑戦した。しかしまぁ取り敢えず宇多田&UtaDAにとっては約5分の世界がずっと続いている。

漫画の喩えを出したが、これが雑誌連載であってもストーリーの続きものであれば作品としては継続してゆく。昔に比べ続きものの漫画が長期連載になっているのが最近の傾向で、ゴルゴ13やこち亀は短いエピソードの集まりだがONE PIECEは完全に(タイトル通り)ひと連なりの物語である。

続きものの利点としては、その時に少々面白くなくても、期待感さえ持たせられればある程度OK、という側面がある。期待感を煽れるだけの内容がつまりは必要なのだが、そこさえクリア出来れば受け手を"満足"させるのは次の回以降でいい。当然その期待感の分だけハードルが上がる訳で、これは未来から読者の注意をレンタルしてるようなものだ。破産した時が恐ろしい。

一人の音楽家の音楽をずっと追い続けるという事は、その両方を堪能する事である。かたや5分の読切楽曲の中でその時その瞬間を満足し、かたやその次々と現れる5分の連なりに、その音楽家の人生を見る。歌の流行廃りは儚いものだが、人の営みは続いていく。ただ、後者の"ひとりの音楽家の人生を堪能する"というのは、そこに何かの物語を見いだせねば機能しない。ここが難しい。

更には、光自身がそういう見方を好んでいないかもしれないという虞もある。歌ひとつひとつの好き嫌いで判定してもらって、別に私自身のファンでなくてもいい。それは、裏方ならではの志向といえるかもしれない。儚い栄枯盛衰に身を置きたくない、のもあるかな。それはないか。兎も角、光はどちらかといえばその時その瞬間の"満足"を狙っているのであって、期待感とか希望とか夢とか、その先の連なりに委ねるのは性に合ってないのかもしれない。

未来に保証なんてない、そう歌う精神は、つまり今歌ってる歌だけで受け手を満足させなければならないプレッシャーに満ちている。この態度自体が、歌の5分だけの世界を作り上げ、受け手を満足させるのだ。我々はHappyである。でも、やっぱりこれだけいい歌を聞かされ続けてきたら、どうしたって未来に期待しちゃうよねぇ。そのバランスは、確かに難しいのでした。

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