無意識日記
宇多田光 word:i_
 



音楽の演奏形態は時代により激変する。昔は畜音がなく生のみだったから音楽は基本一期一会だった。今は録音を何度も聴くのが普通。この変化は聴き方だけでなく音楽の作風自体にも影響を及ぼしていった。クラシックには長い曲が多いが、特段当時の人達が忍耐強かったワケではない。単に1度きりの場で主題を厭きる迄味わう為にはある程度の長さが必要だっただけである。その後放送と畜音が発達し"再生"という単語が音楽に於て馴染み深くなるにつれ、ソレに対応せんと主題を限定し短く纏め何度もの再生鑑賞に耐え得る音楽が現れた。これが"ポップス"の誕生である。


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予てより光が他者と共作するコトに興味があった。過去数度あったが極僅かだ。もしレノン/マッカートニのようなコラボが実現すれば質量共凄く期待できよう。思うに理由は2ツ。光と伍せる力の人が居ない事、共作は必ず妥協が伴う事だ。前者は運次第だが後者は光の性格に因ろう。世に出す音に納得と責任を持ちたい、でないと好きになって貰えた時に素直に喜べない、そう考えてる気がする。キリヤ色濃いPVなぞ殆ど共作といってよく私も連名ベターと思ったものだが、方向性の決定権が常に光にあり彼と不対等だったと考えれば納得。ファンに対する姿勢が単独名義を生んでいるのだ。


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果たしていつまでネタが続くのか我ながら不安且つ楽しみ。頭の中のストックまだまだあるとはいえ0.5Kで収まる話題となると限られる。コチラが困る位活動が活発ならOK。ここ2日でもスタッフdiaryやコンテスト結果発表等あったから、日をずらしても書ける事は沢山。暫く困る事はなさそうかな。でも、念押しだけど光の話以外も書くからソコで落胆せぬよう(^^;気付いてくれてるアリガタイ読者もいてくれてはるけど1/10分以降2週間遅れ公開中で、あんな感じに色々な話題を入れてくと思います。

p.s.コメ返信遅れててスミマセン。コメント私トテモ喜んでますので遠慮無くドシドシ書いて下さいッ。


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光は常に鉄壁鉄板の作曲能力を発揮する為ファンとしてはややもすると自らが批評能力を失い盲信に陥ってるかと不安することがある。そこで、いつも多少無理矢理さを感じつつH-MIXはウタダケナイと愚痴る事にしている。が、コレはオリジナルの方がイイ、という程度のコトで同MIXを退屈と感じてる訳ではない。発表順収録場所が逆なら文句ナシだったろう。その場合貶せる曲皆無になり件の不安は仮初にも拭えなくなるけど。FlavorOfLoveは変則的にも改変版先行となった。編曲のソツのなさに困惑する今の私だが、H-MIXと逆順での発表がどのようなインパクトとなるか楽しみでならない。


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味わい深く、そして感慨深い。電子音多用のUBの中で生のフルートは拘りの選択だった。筆者が彼の演奏に初めて触れたのは17年前の事。クレジットに名前を見つけた後WINGSを聞き直し思い出を同期させる。不思議にもその方が同曲の本質が見えた気がした。揺れるカーテンと柔かな陽射し、ソレと対照する自らの気怠く物憂い表情。電子音の設えが80年代風近代の生活感を運んで来、あの頃を知る者の心をちょっぴり切なくさせる。23の光がこの空気を出せるのは、5歳時点で大人の感性を持っていたからか。夕方GetWildを聴いて興奮してた頃の彼女の想いを同曲に感じる私だった。


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その2からの続きです。天啓カテもあるので、掲載タイミングがわかりにくくなってますね、、、何かいい方法はないかなぁ。

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 しかし、その“つもり”というのが、厄介だ。まだまだ若いとはいえ、時間というのは待ってくれない。自分が心から挑めると感じられるテーマを見つけなければ、“売れる作風”なんてものに彼女が取り組むかどうか、全く予想がつかない。「ULTRA BLUE」に顕著だが、あの作品は(物凄く大雑把に言い放ってしまえば)前半にややポップで大衆性の強い作品が並び、後半に剥き出しの芸術性を押し出す、という構成で、それはプロデュース&アレンジの傾向の差として如実に顕れていたが、実際にシングルとして切られたのは、2、6,7,11,13の各楽曲であった。本当なら、1,3,5といった楽曲をシングルにするのが王道だったろうが、そうはしなかったのである。なぜかというと、なんともまぁ単純にも「作った順番」が理由なのだから恐れ入る。単に、そのときリリースできるのがコアな作風になってしまった、というだけなのだ。如何に「売れること」に無頓着なのか、これでもわかる。それと同時に、彼女は、ナチュラルに作っても(売れることを意識しなくても)ヒットポテンシャルのある楽曲を作ることができる、ということもまた物語られているというわけだ。(その4へ)


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正確を期す。COLORS前(A面)のPOPと後(B面)のコア、とUBの作風は2大別されるが完全に分離すると作品の統一が損われる。しかしココに曲順の妙。B作風の誰願叶を色々直前に、A作風のワンナイを直後に配置、渦巻様(「互」のカタチ)に絡み合う構成とした。通常なら2ツの異なる作風を突き合わせれば淀んだりケンカしたりする所なのだが、両者が確りと根底で繋がっている為ウネリを伴った1ツの大きな流れとして浮上、周知の循環構造と併せるとまるでメビウスの輪のように表裏両面が連続的に繋がるという圧巻の構成となった。曲順は三宅P管轄だが、そのセンスには脱帽する他ない。お見事!


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光は当初同曲を独立の曲と考えコレ1ツでアルバム並の満足感を与えんとし結果単曲内で様々なカラーを網羅する事自体をテーマにするという自己言及的方法論に至る。楽想としては殊に中立的でヒカ5での照明は総ての色の混合色-白を基調としていた。後にシンコレにも収録され孤高の存在感は更に増し私も収録はコレまでと捉えた。が、意外にも光はUBの中央に同曲を鎮座させる。最初は意図を訝ったが画集と称する極彩色曲群中でPopな前半とRockな後半の転回点役を見事に担っていた。極彩色をアルバムとして実際に表現した後も中立色の鮮やかさは色褪せる事はなかったのだった。


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ゲーテは色彩論でプリズム等の観察から白と黒光と闇の狭間に7ッの"色"が生じると述べた(らしい。私未読)。現象的には色とは光の特定波長の"反射"でありいわば「光を排他する作用」の象徴ともいえる。紫色とは紫の光を排する現象であって故に目は紫を観る。光と色とは互いに相排する関係なのだ。種々の色比喩表現網羅した歌詞擁する名曲COLORSだがシングル盤カップリング曲はSimple&Cleanだった。同曲は日本語詞曲「光」の英語版だ。色の曲の同梱曲に光の曲を配する。意識的かは微妙だが対となる2ッの曲がある事で盤の作品としての存在感が期せずして際立った格好だ。


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COLORSとの邂逅はHP扉のイントロループ音源だった。情熱的音使いを得意とする光が雲棚引く水墨画様のリフを書いてきた事が新鮮だった。しかし真の驚きはそのリフに乗せた歌メロで、いつもの熱情的宇多田節が炸裂していたのだ。耳を疑った。凡そ縁遠い2つの要素が見事に1つの音像に結実、国民的ヒットとなった。他方際立ったのはエモーショナルな音運びと淡いリフを結び付ける為に元々の光の歌唱法にない長音を多用した事。お陰で当初は生歌唱に余裕皆無だったが、鍛練の挙句ツアーで更に長音強調したバラード版を披露特に高い評価を得る。曲が先立ち歌が後を追う興味深い例だった。


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すっかり更新怠ってました(^^; ま、理由はおいおいバレるとして、ここでも何食わぬカオで連載再開します~。

そう、「雑記:UtaDA今後の展望 その1」からの続きです、どうぞ☆

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 ただ、問題となるのは、1st「EXODUS」の、いや「エキソドス」の日本市場での成功(年間6位だ)があったから、2ndアルバムの契約がまだ生きている、という事実である。前述のように、「全世界規模でのUtaDAとの契約」を良好なものにしている原動力はまさに、「世界全体分の売上を日本だけで挙げられる」という事実なのである。もしこれまで崩れるとすれば、ごくあっさり日本でのものも含め、ユニヴァーサル・ミュージックとの契約は破棄されるかもしれない。ここらへん、すっごくドライである。アイランド・レーベルといえば、世界でも有数のビッグアーティストを抱える有名・古参レーベルだが、UtaDAがこの中に名前を連ねて以来、3分の1程度のアーティストの名前が入れ替わっている。たった2年で、である。(アンドリューの兄貴もあっさり契約が・・・(汗)) それを考えると、3年間ここにこうやって写真が載っているだけでもたいしたものなのだが、正直に筆者の実感を吐露すれば、いまや彼女の“音楽家”としての実力は、このレーベルの誰にも負けない、少なくとも伍するほどのものはある、と言い切ることができる。あとは、売れるような作品が作りたくなるかどうか、売れるつもりがあるかどうか、それだけにかかっていると思うのだ。(その3へ)


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勿論A新聞コラム「天声人語」のもじり。後最近仲間から本名で呼ばれる事が増えたというのもある。i_って元々読みのないHNだから呼びづらいみたいだし。(ミラクルさんに「何ゆえキミがアイシャドーなの!?」と失笑されたのも今となってはよき思ひ出。(※まだ1ヶ月経ってない)) 「500byte=0.5KBコラム」だから「レイテンゴケイ」をアナグラムって「テンレイケイゴ」にしようと思ったが私に似合う漢字が見つからず却下。やぱ相棒親娘に「アホウ王子」呼ばわりされるからには"天然"が似つかわしいだろうと思うに至り結局最初の思付で決着。尚、当カテはHikkiから掛け離れた話題も扱ってるので御了承をば。


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今年から出来たこの「天然啓語」カテゴリは、要は携帯からの更新です。布団の中からでもブログを書こう、という実に私らしい怠惰な企画。(笑) 長文で知られる筆者ですが、500byte=0.5KBで何が書けるか、という実験であると共に、親指タイピングの速さから生れる思考と表現の独特さもみてみたい、という狙いがあります。goo指定のアドレスにメール送信という更新方法なので、コメントへの返信は遅くなると思いますアシカラズ。



…その前に越年で持ち越しているBBS等の返信をしないとなぁ(瀧汗)

遅くなりましたが20日オフに参加した皆様お疲れ様でした!幹事2人GJ過ぎ!


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嘘でも何でもなく、メッセ更新をリアルタイムで知ると「今日まで生きてきてよかったなぁ」と思う。昔は少なからず持っていた他の時代や地域への憧れが、今はどこかに消え去ってしまっているのだから。生まれ変わってもまたこの時代を、宇多田ヒカルと同じ時代を生きたいなぁ、と思う。ようやっと彼女からの新年のご挨拶があったので(笑)、私もちょっと畏まってみました。まる。大好きv


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ぼくはくまの絵本の絵の線には幾つかの交差点がある。本来絵では紛らわしいので複数の輪郭線が×にならないように僅かにずらすものだが光画伯はお構いなしだ。逆にその紛らわしさを愛してるようにすら見える。気付いてみれば、歌詞に見られる音韻(例.ねだり&ネェダーリン)とは"コトバの交差点"とはいえまいか。意味上では無関係なモノ同士が音という表面上の(みための)性質によって結び付けられていくサマは立体としては違う位置にある物同士が画面上では(みためでは)輪郭線で交わるのと似る。意味と表象が絡み合う中に創作の種があるコトを教えてくれているともいえる。


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