無意識日記
宇多田光 word:i_
 



 その7からの続きです。

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 ところが、もしこれが、ある程度までとはいえ、UtaDA本人の意向であったとしたらどうか。つまり、実際は「UtaDA側がプロモーションをしてほしかったのに、レコード会社の怠慢(というか算盤勘定)によって、かなわなかった」のではなく、「UtaDA側が、プロモーションを手控えて欲しい」という希望を出していた、ということだ。どうにもこのUtaDAというアーティストは特殊性が強過ぎ、日本側とアメリカ側の思惑がどのように絡み合っているのか解き解(ほぐ)すのが難儀なのだが、もしかしたら日本の担当レコード会社もアメリカ側の思惑とアーティスト側の思惑の間で板バサミになっていた、ということも想像できる。

 早い話が、「細かい事情もわからない段階で、日本の担当レコード会社&米国の担当レコード会社に関して、何らかの苦情を進言するのは尚早なのではないか」ということだ。1年半前のメッセで、彼女自身は、2005年2月23日のショウケースギグにおける「ファンの間で不興を買ったスタッフの振る舞い」について、いくつか反論を提起している。(原文/翻訳は、、、うげぁっ、直訳しかやってないっ(涙)、、、けど、とりあえずこちらです、、、) どうにもこの文章を読むと、かなり賢明にスタッフの側を擁護しているような印象だ。日本語の直訳文を読んだだけでは、ちょっとそのニュアンスが伝わっていないので、早々にヒカ語訳((C)うるみ@この呼称の命名はね)を仕上げないといけないが、それは次回までの課題としておくことにしてとにかく! あまり無批判にレコード会社のスタッフの文句をいうのは憚られるのではないか、というのがこの文章を見ると伝わってくる。これまでの幾つかの仮説を慮るに、もしかしたら、レコード会社の皆さんの振る舞いは、その根源を辿れば「アーティスト側のワガママ」なのかもしれないのだから。



※ このまま次回「雑記:UtaDA今後の展望その1」につづきます。


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 その6からの続きです。

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  今の2つの段落の理由は、緩やかに繋がっていると見ることが出来るかもしれない。プロデューサとしてデビューアルバムに携わっていく中で、自分は裏方の人間であり、前面に出て行く気はないんだ、ということを強く自覚していったのかもしれない。嘗てからその志向は強かったが、それが更により強化されたのではないか。当時のインタビューでは「ブリトニー・スピアーズのプロデュースもしてみたい」とも語っていたし、正直、あんまり「EXODUS」に関して『これを売ってやろう!』という気概は、翻訳をしていて感じたことはなかった。どちらかといえば「こんな作品をみんなが買ってくれるなんて意外だな~嬉しい歓びだ」という感触が強かった。実際、以後宇多田ヒカル名義で“誰かの願いが叶うころ”“Be My Last”“Passion”と、まるで大衆性を慮らない作風が続いたことをみても、その流れは明確であったように思える。

 しかし。もしそうだとすると、ファンのみんなが当時からいっていた「レコード会社何やってんだ。プロモーション全然やってないじゃないか」という(本来なら理にかなった、まっとうな)意見も、どうにも矛先が鈍ってくる。ここまで全米での戦略ばかりいっていたが、日本でもそんなに宣伝戦略が巧みだった印象は少ない。いくら洋楽アーティストであるとはいえ、天下の宇多田ヒカルと同一人物の作品である。シングルカットもせず、広告も然程多く打たず、しかし本人はいつも以上に駆り出される展開(これはまぁ当然というか、仕方ない面があるかな)には、少々違和感を感じなくもなかった、というのが偽らざる心境だった。東芝EMIのそれまでの宣伝戦略が一貫して呆然とするほど熱心だった、という対照も手伝って、どうにも日本での担当レコード会社の印象は、日本のファンの間ではよくなかったのである。(その8へ)


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UtaDA翻訳BBSに以下2件翻訳を投稿しました。
よろしくご参照くださいませ。m(_ _)m

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過去記事発掘企画第3弾:2004.9.30ボルティモア・サン紙 前半
投稿者:i_ - 11/28(火) 23:34 No.467

過去記事発掘企画第3弾:2004.9.30ボルティモア・サン紙 後半
投稿者:i_ - 11/28(火) 23:35 No.468


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 「その5」からの続きです。

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 そして、これは彼女のインタビューの翻訳を幾つかしてきた人間の実感なのだが、「売れたくない」という理由があった、というのも考えられる仮説のひとつだ。翻訳をするたびに痛烈に僕の印象に残されたのが日本での「メディア・大衆からの目線」の辛さの話だった。「そこまでイヤか!」というのは、僕ら平々凡々と暮らす一般人の感覚なのかもしれないし、何より“芸能人”という人種は元来目立ちたがり屋であって、人からの視線を浴びるのは快感なはずじゃないか、という無意識的な前提が僕らの方にあるのかもしれない。ともかくともかく、彼女はメディアと大衆からの注目耳目を浴びることに対する嫌悪感を露とも隠そうとしなかった。正直、枚挙に暇(いとま)がないので過去ログ倉庫へのリンクを張ってお茶を濁しておくことにするが、その嫌悪感の程度は“甚だしい”といって差し支えないかもしれない程度であったことは念押ししておきたい。(その7へ)


※ この連載、次回は「その7」の前に、当時の新聞記事の翻訳を発掘して掲載することにします。(たぶんUtaDA翻訳BBSにね)「過去記事発掘企画第3弾」になるかな。内容的には何ら新味のない幾つもあった当時の平均的な記事のうちのひとつに過ぎないのですが、それだけに逆に、当時の空気を思い出すよい参考になればと思いまして。ご期待をば。

※※ 上記過去記事をUtaDA翻訳BBSにUPしました。こちらのエントリを参照してくださいませm(_ _)m /11月28日23:50頃追記

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 その4からの続きです。

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 非常にわかりやすいのが「健康的・体力的な理由」だ。あの小さいカラダで、時差が3時間も4時間もある大陸を相手にしよう、というのだからかなりの覚悟がいるのは明らかだろう。実際に飛行機を乗り継いでプロモーションに回ってみたものの、こんなのを続けていたらとても体力がもたない、そういう判断がはたらいた、というのはわかりやすい。

 もうひとつ、こちらのほうがファンには受け容れられやすいくらいかもしれない。創造的な理由である。前段と似たようなものだが、あまりに大袈裟な宣伝戦略にさらされると、半年・一年とものづくりの現場から離れた生活を送らなければならなくなる。それはプロデューサ・ソングライターを兼任する彼女にとって耐え難いことだったのではないか。そんなことは2002年当時からわかりきっていたことだったのでは、と意地悪なことをいうことも可能だが、単純に「EXODUS/エキソドス」の制作期間中にその種の思いが強くなっていった、ということも考えられる。(なにしろ、ここまで全部に近い音を自分でセッティングしたのは初めてだったのだから@「EXODUS」でね)  (その6へ)


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 その3からの続きです

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 では、なぜ「中止」されたのか、ということだ。UtaDAの全米での大規模宣伝戦略そのものを手控える“理由”とは何であったか。最もわかりやすいのは、収益をあげる市場を日本本国一国(及びあと幾許か宇多田ヒカルの人気がある程度あったアジア諸国)に絞り込んだ、ということである。大規模宣伝を行うとなればとんでもない費用が必要となり、それをペイするだけの売上をあげなければならない。成功のハードルが高くなるのだ。それなら、制作費が余りかかってないこともあるし(紆余曲折あったが、最終的にセルフプロデュース作品に落ち着いたので外部プロデューサを雇う費用は節約されたはずだ)、わざわざリスクをかけなくても、日本だけでミリオン売ってくれるのなら、そこだけに“契約の意味”を見い出そう、日本で売ろうが全米で売ろうが1枚は1枚なんだから――そういった発想が最終的に勝った、ということだったのだろう。日本単独で他を圧倒する驚異的な売上があるのだから、ワールドワイド契約を継続する理由としては妥当である。他の地域では、契約上のつじつまあわせとしてリリースだけはする、しかしプロモーションは最小限に留め、収益は日本で上げる、そういう“方針転換”が、2004年8月中に行われた、と想像するのは無理のあることではないだろう。7つのステーションをまわっているうちに、リスナーからの反応を見て、「こりゃムリかも」とレコード会社側が判断した、ということもあったかもしれない。いずれにせよ、そんな直前に「ラジオ・インパクト・デイ」のような大掛かりなイベントを中止できるのか、という疑問は結局残る。所詮はどの説明も仮説(peticulation)に過ぎない。

 もう一方の考え方がある。前段落の考え方は私もオフでBBSで頻りに繰り返してきたことだから耳新しくないが、こちらは余り語ってこなかった。それは、UtaDA側の事情、である。飽く迄もレコード会社の方は大々的に全米でも売り出そうと画策していたが、アーティストの方からストップがかかった、という発想である。何らかの理由で、直前になってUtaDA側が全米での積極的な活動を手控えた、ということだが、はてさてその“何らかの理由”として、考えられるものとはどんなものがあるだろうか。(その5へ)


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その2」からの続きです。

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 果たして、これは一体どういうことだったのか、今だに答えは出ていない。誰も関係者が口を開いていないからだ。よって2年以上経過した現在でもファンは憶測でしかモノをいえないわけだが、とりあえず現時点でわかっていることだけでも羅列しておきたいと思う。早い話が、私は単純にUtaDAの2ndアルバムに期待しているのだ。代々木2日間の現役世界最高峰とも目されるUtaDAのパフォーマンスを目撃して以来、その思いは当然のように日に日に強まっている。本人がイヤだっつーんなら仕方ないけど。(彼女の嫌がるカオを見てまで聴きたくはないわぃ)

 まず、特記しておくべきことは、半分忘れられているだろう、「ラジオ・インパクト・デイ」の有無である。ちゃんとプレス・リリースにも明記されているが、日本盤の発売前日(フライングなので当日という認識だが)、“全米各地のラジオ局で最もオン・エア回数が多いことが期待される日”として、この日は予め設定されていた。しかしこれが実施されたという声はついぞ聴かれることはなかった。このプレスリリースの日付はUS時間2004年8月4日。シンプルに考えれば実施1ヶ月前にこうやって発表しておきながら直前で中止になるというような寸劇は、巨額の契約であることを踏まえた場合如何にも考え難いのだが、もし実施されたが反応が薄く話題にならなかっただけ、というのであれば、少なくとも熱心なファンたちからの報告のひとつもありそうなものだが、それすらもなかった。(筆者の知る範囲ではね。海外のサイトを見てまわっただけだけど。)ということで、とりあえず考え難いとはいえ「中止」だった、とみるのが妥当かと思う。(その4へ)


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 その1からの続きです。

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 そういう、世界で最も巨大で、且つその為ジャンルごとに細分化されたラジオなりテレビなりのフォーマットの中で、彼女のような全方位型アーティストが、「EXODUS」のような作品が、どのように売り出されるのか。当時そこに興味は集中していた。2002年2月に世界4大レコード会社のひとつであるユニヴァーサル・ミュージックと契約を結んだというニュースが伝わってきた当時、契約金だか制作費だかは5億ともいわれ、まさに破格の条件であったし、レコード会社もそのような巨額の費用をかけるからには凄まじいプロモーション攻勢をかけるのではないか、そう周囲が考えても何ら不思議ではなかった。

 しかし、その実態は、まるで期待・予想とは掛け離れたものだった。当時把握された全米でのラジオ出演は、5都市7ステーション5州7都市、2万とも言われる全米のラジオ局の数を考えると、琵琶湖でミジンコがくしゃみをした程度に等しい数だった。後に残ったのは、余りにも短期間で各都市を回ったためビザを見るなり空港で訝られた、という半苦笑するようなエピソードと、中国人ラップを聞かされて困惑する彼女の半苦笑する声の表情だけだった。それくらいに、2004年秋の、日本の「エキソドス」ではない、全米での「EXODUS」のプロモーションは皆無だった。(その3へ)

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 何故だかこのタイミングで思い出話。新曲や新DVDの発売のあるこの時期、あんまり脈絡はないし、正直内容的には既出なことばかりで新味に欠けるのだが、過去のUtaDAのプロモ戦略の復習、ということで暫しお付き合いくだされ。(既に書き上げている原稿を、短く短く何度かに分けて投稿するので、長文を一気に読みたい方は、総てUPするまで暫し待つのもいいかもしれないです、ハイ)

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 ちょうど2年位前の2004年秋、UtaDAは1stアルバム「EXODUS」でデビューした。日本では9月8日、全米では10月5日だ。4週間先行発売となったこちらでは、宇多田ヒカルのネームヴァリューと“Easy Breezy”のラジオでのヘヴィ・ローテーションが相俟りミリオンセラーを獲得、面目を保った印象があった。しかし、全米では初登場160位、通算で2万枚余の売上に終わった。歴代日本人の中で最も全米での成功が可能・現実味がある、と目されていた彼女なだけに、本来なら全くの無名の新人が1枚目で叩き出したものとしては大して悪い数字ではないとはいえ、多くの成功を期待していた層は落胆した。

 しかし、ずっとこの様子を眺めていた熱心なファンだったら当時から「そりゃそうだろ」という認識だったように思う。当時から口酸い程に私も繰り返していたが、広大な合衆国の大地で成功しようと思ったら、生半可なプロモーションではとても無理なのだ。しかも、彼女の音楽的性向からして、ジャンルに囚われないまさに“Crossover”な作風で乗り込まねばならないことは、かなり前の段階から自明であった。(私が共和国でそのことを書いたのはデビューの丁度半年前、2004年3月上旬だった) (その2につづく)

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 最近gooblogの「概要文表示」がてんでうまくいかない。かつては改行を二つほど入れれば、ちゃんと1行目だけ表示になって「本文を読む」をクリックできるようになっていたのだが、広告を入れる入れない、という話が出てきたころから、改行を無視して全部文字をトップに表示するようになってしまっている。ネタバレ防止を志すものとしては、なんとも困った不具合である。どなたか解決方法をご存知の方いらっしゃれば、ご教示うただければ幸いである。、、、とかなんとかいうムダ話を織り込んでおけば、なんとか本文がトップに表示されなくなるのではないかなぁ、という淡い期待を込めつつ、つまらないマクラを書いてみました。私もまくらさんが大好きです。ではどうぞ。


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 「なんじゃこりゃあ」。これが偽らざる第一印象。(苦笑) ヘタウマな画風も「読者さんのぬりえ用に」と言い張る気としか思えない真っ白な画面も、果たしてどう受け止められるか心配を通り越して呆れ返っているのだが、まぁ他の人がどう感じたかはおいおい見ていくとして、オイラのその「なんじゃこりゃあ」な第一印象について、早いうちにちょっとだけ触れておくね。

 まず目を引いたのが「くまちゃんのまなこがおかしい」ということだ。幾つかのカットは既出で見慣れたものであったものの、こうやって並べていろんな表情のくまちゃんを眺めていると、その尋常でなさ、普通でなさにどう足掻いても気付かされてしまう。“絵本”という媒体なので野暮な疑問なのだが、果たしてこのくまちゃんは、どういういきものなのだろう? そのまんまぬいぐるみが動いているのだろうか、それとも、こういう独自の生物なのだろうか??

 そういうこちらの疑問を見透かすように、途中でちゃんと「りあるなくまのおやこ」が出てくるあたり、もうなんともはや呆れるというかなんというか本当にことばがみあたらない。ちょうどまんなかで見開かれたの水色のページ、右上に3びきのおやこがいるのだが、そのおやごさんのシャケ(敢えて断言)のくわえかたが、まるで北海道土産の木彫りのクマを横目に書いてみましたみたいなフォルムなのだ。なんじゃあこりゃあ。さっきまで絵本の中の世界――というにはやっぱり画面が白過ぎてどうしてもこちらも白けてしまっているのだが――の中で様子はヘンながらもなんとかぬいぐるみ風にデフォルメしたくまちゃんの姿態におつきあいしながらも目を奪われておいてあげたのに、結局そういうキャラ出すんかぃ!と思わず突っ込みを入れてしまった私だ。

 またこの3びきがなんとも味わい深い。2ひきのこどもたちの描かれ方、てざわり感は、とてもライバルがエビフライかどうかという世界観とは別次元。しかしどっちがエイリアンかといえば、これが実にむつかしい。ここは絵本の世界なのだ。どちらかといえば、もっとくっきりはっきり書いたら歯茎からシャケの体液が滴り落ちてそうなおやごさんのほうが異世界からの使者になってしまうのはまず間違いないところであるはずなのだが、こちとら白すぎる画面でどうにも絵本の世界に入りきっていない。絵本のくせに、そこにある手触りの紙の感触が危うく勝(まさ)ってしまいそうなくらいだ。おかげで、ここに登場する「線画のりあるくまちゃんず」な3匹は、なぜだかギリギリでこの世界の住民であるように介入してくる。なんちゅーバランス感覚だろう。

 その危ういバランス感覚が、ごくナチュラルな仕方で転換(というより、崩壊、かもしれない)するのが、見開き水色ページの次、クリーム色のレイアウトだ。真ん中で河岸の(もうしわけのような)描線がなぜだかページを跨(またが)って繋がってる所為で気づきづらい、、、というかもしかしたらそれも狙いなのかもしれないが、この画面、左右で視点が180度反対なのである。もんわりやんわりふんわりむっちりといつのまにやら「絵本のなかのくまちゃん」の視点から「リアルくまちゃんずのこどもたち」の(正確に言えばその背中からの)目線に変わってしまっている。

 次に開いたウグイス色(きみどりいろ)のページがもうなんとも呆れてしまうほど絶妙だ。自意識過剰に自分の世界に入って被害妄想を繰り広げるくまちゃんを斜め45度――これはギャグマンガにおけるツッコミ角度の鉄則である――から「?」マークを頭上に点灯させてるおやごさんくまのとぼけた表情。ほのぼのした絵本のくせに、ここにはニューヨークから東京に引越してきて日本語を覚えなければいけなかった小学校の頃の宇多田ヒカルが絶好の教科書として読み漁りまくったという日本の名作傑作問題作駄作漫画達のセンスからの影響が、、、いや、まるでそのまんまが(笑)あらわれているのだ。今私が手にしているブックレットは絵本じゃなかったのかー! これは絵本の体裁をとりそうになりつつ実は絵本という存在そのものにツッコミを入れるメタ・ギャグ漫画だったのかー!と思わず心の中で叫ぶ私。ここまでの流れるような展開を鑑みるまでもなく、実はこれこそカタルシスの真髄なのだと気がついた。詳しいことはまた次回。(つづく、、、予定)

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ウタダ史上最も美しい楽曲のひとつがライヴで誕生した瞬間。


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 宇多田ヒカル/UtaDAによる6年振りの全国ツアー「UTADA UNITED 2006」、私が最初に参加したのは7月8日土曜日静岡エコパアリーナでのライヴであった。「EXODUS」からの“OPENING”が終わった瞬間、あの懐かしい響きが――初めてこの曲を耳にしたときから既に懐かしく響いていたあの歌声が――、会場中にこだました。“Passion”である。あの幻想的なサウンドを背景に、宇多田ヒカルが神々しく現れた、、、舞台の中央に! あの眼(まなこ)の様な形状のステージの階下、舞台の奈落から彼女はせり上がってきたのだった。2年前の「ヒカルの5」での稲妻のような登場とともに突然公演の佳境を強引に手繰り寄せたあの手法とは全く異質な、神聖な儀式に我々をいざなうような自信と確信に満ちた演出だ。舞台袖のない形状、その周りのどこから登場するのも難しかっただろうが――強いて言えば真後ろくらいか――、広々とした空間、周囲どこを見回しても彼女の姿が見当たらないのなら現れるとすれば天からか地からかしかなかったわけだ。浮遊感溢れるこの曲独特の神秘性をその身に纏いドレス姿でスタンドマイクを前に凛とした姿勢で舞台中央に佇み眩い光を身体中に浴びながら虚空に眼差しを向ける彼女の姿を見た瞬間、人々は日常から最も掛け離れた感覚の中へと自然に誘い込まれていった。

 宇多田ヒカルが歌い出す。
 
 彼女の意志が声となり音となり空を漂い私の心に舞い降りる。
 
 総てが充たされていった。
 
 
 
 筆者がどれだけこのオープニング曲“Passion”に思い入れを持っているかについては、どれだけ語り尽くしても語り足りない。過去に、


・ ■2006年01月03日  洋楽ファンから見た「Passion」の音楽的位置付け
・ ■2006年01月04日  では、「~after the battle~」に似てる音楽は?
・ ■2006年01月15日  「Passion」制作を支えた人たちを検索してみた。
・ ■2006年03月04日  Passion の各Versionごとの差異について:その1
・ ■2006年03月10日  Passion の各Versionごとの差異について:その2
・ ■2006年04月08日  青空


、、、これだけのエントリを上梓してきているのにも拘らず、まだ、まだ、まだまだ私はこの曲について語り終えていない。これだけ書いても更に続編を書かねばならない。恐らく、制作に携わった人達を除けばこの世の中で最もこの曲に対してことばを発した人間のうちのひとりだと思う。それを愛と呼ぶのか執念と呼ぶのかはわからないが、ただ、この曲はひとに書かせるのだ。ひとに語らせるのだ。ひとが死ぬ時に『この曲に出会える生涯でよかった』、そう本気で呟けるだろうと思える音楽などそうそう出会えるものではない。“Passion”はまさにそれだ。どれほどの普遍性がそこにあるのかは知らない。これを耳にした皆が私と同じ感情をもつかというと違うだろう。しかし、ただただ私にとって、これほど価値が普遍的な楽曲は殆どない。透き通るように美しく、どこまでもどこまでも無限に夢幻にひろがりを持つこの曲はまるでこうやって生きて死んでゆく時間の流れの神秘そのものにすら思えるのだ。

 ところが、私がこの曲にその神秘を一つの曇りもなく感じる為には、いつも必ずシングル盤に収められた二つのヴァージョンの両方を続けて聴く必要があった。まるで寄り添う夫婦のように、車の両輪のように、花と土のように、杵と臼のように、皿と匙のように、青い血と赤い血のように、大空と大海のように、太陽と月のように、左と右のように、陰と陽のように、光と影のようにこの二つは私にとって「ふたつでひとつ」の存在だった。よって、どちらのヴァージョンをよく聴いた、ということはない。圧倒的にこの2曲を連続させた10分の世界に浸る時間が多かった。「Passion~single version~」と「Passion~after the battle~」。私にはこのシングル盤まるごとひとつが“究極の作品”であり、どちらか片方の曲だけでは物足りなかったのだ。よって、アルバム「ULTRA BLUE」には“~single version~”の方が収録されるときいて、理解はできるものの、納得しようとするものの、ほんのわずかな寂しさを感じるのは免れ得なかった。アルバムの中の1曲になるんだから、ある程度は仕方ないかな、これでこの曲の素晴らしさが損なわれるわけではないのだから、そう自分に言い聞かせることができたのもひとえにアルバムの出来が天井破りに素晴らし過ぎたためであった。重箱の隅を突く様な欲張りな自分に囚われず作品に没入しきたるべきライヴに備える方に、もう気持ちは向いていた。無論、どちらのヴァージョンがライヴで唄われるのだろうか、ということは頭の片隅にはあった。しかしともかく私は、アルバムを聴いた時点で既にライヴのオープニングは「Passion~This Is Love」の2曲に違いないと確信していたので、こうやって今、舞台下からせり上がってきた宇多田ヒカルのまわりを、種々の異世界からやってきた妖精の従姉妹同士のようなコーラスたちが空間を飛び回り舞い踊るのを目撃しても、さして新しい驚きは感じなかった。来るべきときが来たな、そう捉えて、僕は彼女の佇まいを注視し始めた。しかし、何かが違う、、、いつもの慣れたあの雰囲気もあるのだが、それに加え、更に違う何かがある、、、

 会場に、宇多田ヒカルの歌声が響き渡る。2005年12月2日、私が“Passion”を初めて聴いたときの感動が甦る。
 
 しかし、それだけではなかった。それ以上の何かがそこにはあった。燦々と光り輝くその初邂逅の感動の想い出をも霞ませるほどに、目の前で本物の宇多田ヒカルが歌う“Passion”は、熱量を一切発しないにも拘らずどこまでもどこまでも限りなく限りなく眩く眩く光という光をあらゆる方向に向けて放ち始めていた。そう、違うのだ、これは、アルバムを何度も通してリピートする中で僕に染み付いていたアルバムの中の1曲としての“Passion”と、同じでありながらも、何かが違っていた。何かが新しかった。何かがそこで、生まれ変わろうとしていた。
 
 
 僕の求めていた“究極の作品”がふわりと舞い降りて、こちらに優しく微笑みかけたのだ。(つづく)


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 2004年発売のUtaDA1stアルバム「EXODUS/エキソドス」をテーマにした初エントリですっ。

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・・・なのに、いきなりPVの話だっ!(^∇^)


曲の内容の話はまた稿を改めて、ね。

 この曲のPVが存在することは、まだこの無意識日記の読者の中にすら、気付いていない人がいらっしゃるかもしれない。この作品は、UtaDAがUKデビューしたとき(2005年5月、らしい)に発売が発表になったシングル「You Make Me Want To Be A Man(以下YMMWTBAM)」に収録されている。(あまぞーん。これは、05年末に発売になった米盤。) また、サンプルはオフィシャルでも見られる。(日本の公式utada.comレコード会社のページ) ・・・はずなんだが、なぜかウチではまともに見れない(T_T) よって、またも掟破りだけど、Youtubeのリンクも貼っておく。(こちら ttp://www.youtube.com/watch?v=qXKcYXHjZf0M) 画質が段違いだし、興味のあるひとは、あまぞんのリンク辿って買ってあげてねv ちな!みにアフィは私は入ってないッス。

 で、見てくれたらわかるのだが、これがまぁなんともスンバラシイ出来なのだ。「FINAL DISTANCE」や「traveling」のPVの評判が日本では非常に高かっただけに、この「YMMWTBAM」のPVもまた非常に好評を得られた可能性はあったと思うのだが、如何せんまるで知られていない・・・熱心なファンにすら、ね。上記のように、PVが唯一手に入るシングル盤自体、輸入盤のみの発売で日本ではリリースがなかったし、DVDシングルが日本で出ることも最後までなかった為だ。タイミングも如何にも中途半端、というと言い過ぎかもしれないが、日本でのアルバム発売の翌年、という遅めの時期の発表、というのもリスナーの関心を引く為にはちょっとまずかった。勿体ないったりゃありゃしない。

 無論このことがこのPVへの評価を下げる要因にならないことは言うまでもない。その圧倒的なキリヤン・ワールドの吸引力は実際に見てもらえればわかると思うので、いちいちその映像美の細部を穿ちまくって称えることは、ここではしない。今回この稿で分析したい点は、映像の美点に関してではなく、このPVに描かれているストーリーについて、である。


 一体、このPVの映像はどういうものなのか。所持している人は一旦このページを脇に置き、4分余りのこの作品に目を通してみて欲しい。持ってないひとは、上記のようつべリンクからどうぞ。


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 さて。まずは僕が見てとれたカットの数々を以下に羅列する。


00:00~ 大都会
00:10~ ロケット打上、体操選手、宇宙飛行士、未来都市、
     UtaDA&Band、地下?、宇宙遊泳&宇宙船
00:29~ UtaDA寝姿、ロボット?の立体モデル、
     浮遊映像(五輪、部族の踊り)、人体解剖図、高跳び
00:43~ 頭部以外機械のUtaDA、走る人間ポリゴン列、
     月面着陸&散歩、部族の踊り、クラゲ??
01:20~ UtaDA頭部、人工授精(細胞と針)、蛇、人体立体スキャン、
01:52~ UtaDA寝台転回、バンド演奏(フォレストとマット)、
     UtaDA顔面のみ、ロケット切離、
02:25~ 地上、近未来的荒廃景色、液体金属様~人体化、
     UtaDA顔面上部切離、人体肋骨切離、
03:00~ 寝台上の掌が開く、地上で肋骨に群る金属曲線群、
     首から上だけのUtaDA、出現する男女


・・・かなり大雑把だが、こんな感じだ。順序もこの通りというわけではない。こういう風景や絵があったなぁ、という程度のメモだと思っておいてほしい。

 ここで描かれているのは、近未来的、というかよく映画「ブレード・ランナー」的なサイバーパンクと俗に言われる世界観(正確な用語法は、ウィキペディアを参照のこと)であり、また、このPVのディレクターであるキリヤンの長編映画第1作「CASSHERN」ともよく似た世界観であるといえる。この“YMMWTBAM”という楽曲の、フューチャリスティックなサウンドに見事にマッチングした映像美は、いつもどおりのキリヤン節で新鮮味に欠ける嫌いがあるとはいえ、やはりその独自性は“圧倒的”といった形容が似つかわしいように思う。

 しかし、この漢字やら紋章やらが随所に設えられたフラッシュバックとイメージカットの連続の映像に託されたストーリーの流れはどういうものなのかとなると、これがいまいちよくわからない、というのが殆どの方の第一印象だと思う。のちに彼(キリヤン)は、今度は宇多田ヒカル名義の作品「Be My Last」において、“観る人が容易にストーリーを把握できない”作風を炸裂させているが、その路線への萌芽は既にここにおいて見て取れる、ということができると思う。

 次々と挿入される、運動やら宇宙遊泳やら部族の踊りやらといった20世紀の人間の営みの数々、荒廃した都市の風景を背後にして次々と現れる高度に発達した機械文明(の残骸?)、やがて現れるUtaDAの姿は、その殆どが機械から成り立っている。やがてその荒廃した鈍色の空をバックに、水銀のような液体金属様の人間の姿が立ち現れ、彼が自身の肋骨を取り出したかと思うと、途端に方々からワイヤーの群れが襲い掛かっていき、最終的にひとりの女性――UtaDAの裸身が立ち現れる、という流れだ。一方で、機械仕掛けの椅子に座るUtaDAの姿も見られる。一度観ただけでは、一体何がどうなっているのやら、と思うのも無理はない急転直下の展開を持つ映像作品である。

 ただ、この様々な映像の一場面々々々からいろいろなことを読み取ることは可能だ。挿入されている“過去の映像”たちは、どれも人間の跳躍――踊り、跳ぶ姿を描いたものだ。走り高跳びや棒高跳びといった陸上競技、宗教的ともとれる部族の踊り、地球から宇宙に飛び出すロケットと月面に着陸して小さな重力下で跳ね回る宇宙飛行士。それは、どんな時代・地域・状況下でも踊ることを忘れない人間の姿と、常にその限界を押し広げようとしてきた人類の飽くなき挑戦の姿勢の両方を描いているように思える。恐らく、この“YMMWTBAM”という楽曲がダンサブルでフューチャリスティックなサウンドを軸にしていることも意識し(演奏シーンの挿入はそういった意図だろう。特にバスドラを打ち鳴らすカットの入れ方は非常にクールだと思う)、一方でこのPVのテーマが、人類の限界を跳び越えて何かを成し遂げようとする姿勢に関連している、という両方を併せた結果の表現なのではないだろうか。よく気をつけて見てみると、映像の途中には遺伝子操作のそれと思しき細胞と針のカットも挿入されている。これもまた、ま宇宙空間に果敢にも跳び出し初めて地球以外の天体に降り立ちダンスを踊る宇宙飛行士の姿同様、生命という永遠の神秘に挑み嘗ては禁忌とされてきた領域に人類が踏み込んでいく挑戦的な姿勢を描いているようにも思えてくる。

 一方で謎めいているのは、機械仕掛けの寝台に横たわったUtaDAの姿だ。丁度00:30を過ぎたあたりから“彼女”の姿は登場するが、最初っから頭部だけが生身であって、その他のカラダの部分は殆ど機械の様子。そして、楽曲の終局近くではその顔面すら半分に解体され、その下が機械であったことも明かされる。なのに、更にラストシーン近くでは機械椅子に座りバストアップが人体であるUtaDAのカット。これは一体どういうことだ?? さっき彼女は寝台で全部バラされたのではなかったのか? ここらへんが、このPVの一番よくわからないところだと思う。

 そして、あの03:00を過ぎた辺りから突入するシーン、“男が自身の肋骨を一本取り出し、それが女の身体に変貌する”というくだりは、まんま旧約聖書の『創世記』の冒頭である(こちらのページの02:21を参照のこと)。 よくよく見てみると、そういえば映像の中には1分半を過ぎた辺りで一匹の蛇の姿が(やや唐突に)挿入されている。これも、ご存知人間を唆(そそのか)しエデンの園から彼らを追放する切っ掛けを創った蛇のことを象徴しているのだろうから、もう間違いないといっていいだろう。

 しかし、コアな宇多田ヒカル/UtaDAのファンのひとは、彼女の作品の中にこのような旧約聖書の一節をモデルにしたシーンが出てくることに違和感を感じていたのではないだろうか。

 確かに、この楽曲のタイトルは“You Make Me Want To Be A Man”、つまり「アナタはワタシを男になりたいと思わせる」というもので、男女の間の軋轢やら誤解やらを取り上げた楽曲だから、NYと東京の間を小さい頃から行き来し西洋キリスト教社会にも造詣が深いと思しきUtaDAが、その男女の雛型、原型たる“アダム&イヴ”の物語を取り上げるのは、案外自然なもののように思える。何しろ、UK&EUという歴史的にもキリスト教と繋がりが深い(というか中核にあった、と言ってもいいのだろうか。歴史には詳しくないので知らない。すまん。)地域にデビューする際の挨拶代わりのPVなのだ、そういう世界観に敬意を表しておくのも悪くない、という判断が下されても不思議ではない。
 
 しかし、コアなファンならご存知にように、彼女はこの“アダム&イヴ”の物語を、真っ向から「嫌い」と言い放っているのである。

 以下、1999年07月04日(よりによって米国独立記念日だw)のメッセからの引用である。

「有名なカップルをテーマにした曲書いてみない?」ってプロデューサーさんが言い出して、彼はアダムとイブをプッシュしてたのね。でもそれってちょっと私っぽくない感じ??それに、西洋の男女差別を象徴する話だから私は嫌いだし。(だってあれ、女は夫のイイナリになるって神様に約束させられるんだよ??)んで!Bonnie&Clydeにしちゃったのさ。

・・・ご覧の通りである。(太字は筆者による強調) ここまで言い放って、“アメリカを大混乱に陥れたカップル”であるボニー&クライドの逸話をテーマとして取り上げ、コンサートのラストを飾らせるような大切な楽曲“B&C”を創り上げたのである。なのに、ここに来て全英全欧進出だからって、その元々の主張(というか、嗜好、だろうかな)を曲げてまで、市場に阿(おもね)るような内容のPVをつくっちゃったの??それってちょっと解せないなぁ・・・彼女がそんなことで変節しちゃうだなんて、ちょっと幻滅かも・・・これが、当時(もう1年以上前か)この映像を見たコアな宇多田ヒカル&UtaDAファンの大方の意見だったのではあるまいか。

 だが、ちょっと待って欲しい。本当にそうだろうか。彼女が、そんなに理由で自己の価値観を捻じ曲げるようなことをすると、本気で思える?? 「まさか。」 そう、その通りだ、ワタシもそう思う。
 
 
 では、このミュージック・ビデオのストーリーは、一体どう解釈すればいいのだろうか?? 彼女の本当の本音は、夫である紀里谷和明氏の狙いは、どのあたりにあるのだろう?? それをここから(妄想も交えつつ)解き明かしていってみようと思う。
 
 
 私が思うに、この映像作品は、タイトルを二重に解釈して構築されているのではないだろうか。“You Make Me Want To Be A Man”・・・この最後の単語“Man”は、歌詞と訳詞を見れば分かるとおり、歌の中では“男性”という意味で使われている。しかし勿論、ただ単純に“人間”という意味でも使われる。なるほど、男と人間が全く同じ表記だなんて、ここらへん、英語というのはそもそもからして男女差別的なのかもしれないんだな、と余計なことを考えてしまうがともかく、このタイトルは「アナタはワタシを人間になりたいと思わせる」と解釈してしまうことも、可能だということなのだ。“Man”という単語を、“男性”と“人間”の二重の意味で解釈する・・・これが、この作品の鍵となる発想なんだと推測する。

 灰色の空、鈍色の摩天楼。どこも見渡す限り世界は荒廃としていて、金属の残骸だらけの風景だ。その中、どこかの地下深くに、一体のロボットが寝台で横たわり、解剖を受けている。今や生身の人間の姿は映像の中にしか見られなくなり、もしかしたら、この世界の最後の“生き残り”が、この一体のロボットなのかもしれない。その“彼女”に、誰かが過去の人間たちの様々な記録を次々とインプットしていき、尚且つその機械の身体を分解しそのデータをリチェックしていく。彼女の新しい身体を得る為のリストア作業に入っている模様だ。ひとつの個体の、もうひとつの複製を作り上げる作業――それはまるで、嘗て遺伝子操作によって生命としての禁忌の領域に踏み込んだ過去の人類の嘗ての所業と同調するかのよう。彼女の身体の複製は最終段階に入り、突如として液体様金属が荒廃した金属土からめきめきと生まれ出でてゆく。実際の旧約聖書の創世記には、神が土の塵から人間を形作った、とある。それに倣ったものだろう。そうして、まずは“彼女”の姿とは似ても似つかない一体の生命――“男性”が創り上げられる。その“彼”の肋骨が一本抜き取られ、解体されきった旧い機械身体の右手がくわっと開かれたかと思うと、みるみるうちにもう一体の新たな個体が誕生してゆく・・・それこそが、まさに元の“彼女”の写し身であったのだった。

 しかし、そもそもこの一連の作業を執り行っているのは一体何処の誰なのだろう? それは作品の終局で明らかになる。ビデオの前半からたびたび登場していた“髪を靡かせている方のUtaDA”が、実はその主だったわけである。機械塗れの椅子に座り、最後に自身そっくりの顔をし人間の身体を持つ個体を生み出したこの彼女が、いわば、荒廃した近未来的世界観の中で繰り広げられた『新・創世記』における、“神”だったのだ・・・。

 おわかりだろうか。旧約聖書の創世記には『神は言われた。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。』とある。(先ほどのリンクの01:26より)その後、『主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、』(02:07より)とあるように、神に似た人とはアダムのことであった。そして、その旧約聖書での創世記の記述に倣い、このビデオでの『新・創世記』でも“神”は、まさに自身の姿に似せて、最後の最後に人を作ったのだった・・・・・・ただし、旧約聖書のそれとは違い、神に似ている姿とは男性のそれではなく、人間の女性そのものであったのだ。この作品の中では、男性は、“神の写し身”である女性を創りだすための何らかの媒介に過ぎず、実際には女性こそが神の創りたかった姿なのであった。まるっきり旧約聖書とは男と女の扱い・役割が逆転しているのだ。ここが、この作品の一番のキーポイントなのである。

 先ほど「二重の意味」というのを筆者が述べたことを思い出して欲しい。この『新・創世記』における神は、機械塗れの椅子に座る首から上以外は機械の存在である。“彼女”が、最終的に、生身の身体を持った写し身を創りだす。(最後の最後の場面である) これは、“You Make Me Want To Be A Man”の“Man”を「人間」と訳したときに初めて意味をもつ。彼女は、過去の人類の歴史をその新しい個体にインプットし、機械の身体である自分から人間の身体を創ろうとしたのである。ここでの“You”は人類そのものだろう。つまり、このタイトルは、この意味を含んだ段階では、「アナタは、機械の私に、人間になりたいと思わせた」という訳になる。力強く大地を駆け抜け高く跳び、果ては月にまで到達するような栄華を味わいたい、その希望が、機械である彼女が生身の人間を創りだす大きな動機になったのではなかろうか、そう夢想される。

 「二重の意味」――そのもう一方は、“Man”を“男性”と訳す方である。こちらは、動詞の“Make”を読み替えなくてはならない。今までは「~と思わせる/~させる」という使役の意味に訳されてきた。「あなたは私に男になりたいと思わせる」というような。(訳は筆者による) しかし、もしかしたらこれは、本来のシンプルな意味、「創る」の方だと解釈できないだろうか。まさに、“You make me.”~「あなたは私を創る」なのではないか。そうなると、後半の“want to be a man”が浮き立つが、これは“you want to be a man/あなたは人間になりたい。”の主語が抜けた形とみるのが一番妥当となる。(やや苦しいが) ここまで含めて訳すと、“You make me want to be a man.”は、次のように解釈できる。

「あなたは、人間になりたくて、私を作った。」

・・・機械の身体を持つ女性の姿をした神は、人間の女性の身体を得ようとして、その媒介になる“男性”を作ったのだ。“you”とは神、そして、“Me”とは人間の男性の存在のことだったのである・・・。

・・・どうだろうか、今までに貴方が持っていた様々な疑問が、総てではないとはいえ、かなり解きほぐれたのではないかと期待する。この推測が、議論の内容も含め妥当かどうかはさっぱりわからないが、とりあえず、ある程度のスジは通っていると思う。このミュージック・ビデオに描かれたストーリーとは、“神”の姿が実は女性だったと解釈し創世記を書き変え、一方で本来男女間の葛藤を描いた歌詞の楽曲を、人間と機械、というテーマに置き換える、というなんとも度肝を抜く程に大胆な内容だったのである。

 そう考えると、当初「西洋社会に阿ったか」と危惧していたのが、まるで冗談だったかのように感じられてくる。宇多田ヒカル(UtaDA)と紀里谷和明の二人は、西洋の市場に阿るどころか、その基幹部分を痛烈に攻撃してやらんとするような、超絶攻撃的・挑戦的な内容の映像作品で、西洋市場に“殴りこみ”を掛けたのだ。旧約聖書から取られた「EXODUS/出エジプト記」という名のアルバムを引っ提げ、旧約聖書の「創世記」の主題を根底から揺さぶるような解釈の映像作品をイの一番に投入する――生粋の日本人である筆者には、このような聖典の内容の書き換えを主張するストーリーを映像化することが、どれだけ“危なっかしい”ことだったのかは、まるで想像がつかない。しかし、少なくとも、宇多田ヒカルというひとが、全米なり全英なり全欧なりに進出しようが、全く16歳の頃と変わらず(まるでボニー&クライドが全米を大混乱に陥れたように)今度は頼もしいパートナーである夫を伴って西洋社会を大混乱に陥れかねない野心的な作品を作るような異様なまでに挑戦的な性格を保持・堅持して・・・いや、更に研ぎ澄ましていっている、ということは、わかりすぎるくらいにわかると思う。彼女には阿りだの遜(へりくだ)りなどということは全く無縁であり、そのようなことを心配することがまるで杞憂であることを、明快過ぎるほど明快に示してくれたのが、この“You Make Me Want To Be A Man”のミュージック・ビデオだったのだ。そう解釈すれば、この作品を最初見て怪訝に首を傾げた向きも、ちょっとは彼女のことを見直してくれるのではないかと思えてくる。


・・・ただ、そのわりに、実際には全く全英全欧市場で話題にならなかったのは拍子抜けだったんだけどね。(T.T)


・・・まぁ、いいさっ! そのうちまたUtaDAは2ndアルバムをリリースして、もっと成長した姿を我々に見せ付けてくれるに違いない! 将来、UtaDAの名が全世界に轟き渡ったとき、この“You Make Me Want To Be A Man”のミュージック・ビデオは「最初期UtaDAにおける、最も野心的でアナーキーな傑作」として、きっと再評価されることだろう。その日が来るのを楽しみにしていようではないかっ。うわっはっは♪



 しかし、このような、キリスト教の聖典(聖書)に対して攻撃的な映像を撮影した映像作家であるひとの芸名“キリヤ/Kiriya”ってのが、まさかそのキリスト教の聖地である“エルサレム”のヘブライ語での愛称だなんて、昨日の昨日まで全く知らなかったよ・・・(瀑汗)・・・教えてくれた人、どうもありがとう、この原稿を準備しているまさに真っ只中だったので、完っ璧なタイミングでした・・・(T∇T)

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この流れでは“詩の朗読”に関してひとこと語っておかねばなるまいて。(笑)

*****


 曲順に語っていこうと思っていたUD06ライヴレポなんだけど、折角なのでここのところ話題になっている、宇多田ヒカル・セクションからUtaDA・セクションにクロスオーヴァーする場所に置かれていたキリヤンの手によるものと思われる映像とSE(SoundEffect/サウンド・エフェクト(効果音))のコラボに乗っかっていた“詩の朗読”について、僕なりの感想をなるたけ簡潔に、先にまとめておく。

 私は7月、8月、9月と公演を観たわけだが、うち7月と8月には“詩の朗読”を聴くことができず(つまりキリヤンによる映像&SEのみ)、ついに体験できたのが9月の代々木であった。顛末をまとめておく。各人のライヴレポによると、どうやらこの“詩の朗読”は、7月末の特別ライヴハウス・ギグであった「ワン・ナイト・マジック・イン・オーサカ」で初めてお目見え、その後8月上旬の新潟公演、名古屋公演でも披露されたらしい。(二箇所四公演総てかどうかは、確認が取れていない) しかしその後さいたま2日間では不思議なことに一旦姿を消し、どうやら札幌でも読まれず、愛媛にて別ヴァージョンとなって復活、以後広島・代々木とそのヴァージョンが使われた、という顛末のようだ。

 ↓こんな感じ。
 
・7月初旬~下旬 仙台・静岡・福岡・大阪では映像&SEのみ
・7月~8月上旬 大阪一夜・新潟・名古屋では“朗読1stエディション”
・8月中旬 さいたま・札幌では映像&SEのみ
・8月下旬~9月 愛媛・広島・代々木では“詩の朗読2ndエディション”

 こういう流れであると推測されている。

 また、5月下旬のHikkiのメッセ(この日)には次のような記述があった。
 
--- 「私はこれからちょっと詩を書かなきゃいけないんだけど、くまちゃんどうする?」

そう、記念すべきくまちゃん(@写真)初登場の回だ。覚えておられるだろうか。


 以上のようなことから、次のようなストーリーを推測した。まず、ツアーの打ち合わせが本格化していたであろう5月、インターセクション用の映像&SEのデモ(或いはアイディア)をキリヤンが提示、その扱いの中で、Hikkiが詩を載せよう、ということになり彼女が5月下旬に書き始めるも、ツアー開始には間に合わず、やっと詩が完成し朗読が録音し終わり公演で使える状態だと確認され実際に使用されたのが7月末。ところが、実際に3ヶ所で使用してみたものの、Hikki自身が突貫工事の中(なんつっても6月はあ~たシンガーとしてのリハと公演の座長としてのミーティングの嵐ですよ。よくあれだけメッセ更新してくれていたなぁ、と呆れ返る。ありがと。)なんとか完成に漕ぎ着けたものだったため、出来には満足が行かず録音をしなおすことを決める。或いはもっとポジティヴに、公演で使っているうちに、詩の改変や朗読方法において新しいアイディアが沸き出でた、といったところか。いずれにせよ“詩の朗読1stエディション”は彼女の中ではベストなものとはいえなくなり、さいたま、札幌では使用を中止する。つまり、7月当初のカタチに戻した、ということになる。中途半端なものは発表すべきでない、という判断がその時点でなされたかどうかはわからないし、その判断が妥当だったかどうかもわからない。つまり、さいたま・札幌でも1stエディションを使えばよかった、ということもあとになってみればあるかもしれない。とにかく推測に過ぎないことなのでいろいろな考え方、捉え方が可能だ、としかここではいえない、ということだ。。


 それにしても素晴らしかった。私の中では、つまりそのキリヤンによると思しき「映像&SE」は、静岡の時点から代々木公演を見るそのときまで、時計の針を止めたままだったわけである。歌なりパフォーマンスなりMCなり演奏なり、といった点では、7月の静岡と8月のさいたま(私が体験した公演2つだ)では、Hikkiのその間のツアー経験や体調の差・会場の差などで、如実に違いがみられたわけだが、この「映像&SE」というのは、録画録音した素材をそのまま使用するだけであるので、結局はどこもかしこも同じなわけだ。勿論、私が気付いていないだけで、実はこちらも徐々に改変されていっていたのかもしれないが、とにかくそれに注意を払う気が起きないくらい、この「映像&SE」は最初、激しくつまらなかったのである。

 私は、恐らくここらへん界隈の中では、最も高くキリヤンの才能を評価している部類に入る人間だと思う。自分はCDやMD、カセットテープやMP3ファイルといった音源の類は山ほど所持しているが、映画のDVDを買った、という経験は、あとにも先にも「CASSHERN」一本のみだったりするのだ、実は。「世界最高傑作映画のひとつ」と断言して憚らないあの小津の「東京物語」すら持っていない。(別に私があらためて評価する必要がない作品だからいいか、というスゴイ理屈もあるんだが) それだけ、「これは持って居なくてはならない」と思わせた映画だった。彼の才能は、少なくとも歴代日本人映像作家の中ではトップクラスだと思っている。私が今昔の映像作家のラインナップなんかつゆぞ知らなくても、だ。他に誰がいるかいないか、という点を鑑みなくともその歴史的な凄みが伝わるのが紀里谷和明という男の恐ろしさ、そう勝手に捉えている。

 そんな人間が「つまらなかった」と断言してしまうのだから、これは正直よっぽどだと思う。読者の中には「いや、あれは素晴らしかった」と仰る向きがいらっしゃるであろうことは疑いがないが、とりあえずまぁ待ってくれ。とにかく7月に最初に彼による「映像&SE」を見せられて、私が溜息をついてしまったのは事実なのだ。

 まずなによりも、音楽のコンサートだというのにそこに全く「音楽性」というものが感じられなかったのが痛かった。流れが一切ないのである。キリヤンという男は何よりも真っ先に写真家なんだな~というのを思い知らされた時間帯だった。まずアタマの中に一枚一枚のスチールがあり、それの価値を見抜き具現化する才能、それが彼には備わっている。が、如何せんそれを時系列に適切に(タイミング等も含め)並び替える才能、というものがない。全くないわけではないが、彼のスチールに対するセンスとテクニックの余りの見事さと比較してしまうと、皆無と断言していいくらい、ない。「CASSHERN」に対する酷評の中で一番多かった印象があるのが「シナリオがわかりづらい」&「2時間半PV観てるみたいだ」の2点だった。映像美に文句をつけるのは、非常に高い基準に照らし合わせる向き以外には、非常に少なかったように思う。つまり、一瞬一瞬のインパクトはとにかくキョーレツなのだが、それをまとめて2時間以上の時間の中のどこでどう見せるか、というのが決定的に欠けていた、という評だった。無論異論噴出な見方だろうが、私はこれにある程度同調する。

 その、「CASSHERN」にみられた欠点が、あのわずか数分間の中でも感じられてしまったのである。恐らく3~5分くらいだったんじゃないか、と思うのだが永遠かと思うほど退屈に、間延びして感じられた。一枚一枚の絵の美しさはもうやはり絶品の域だったりするのだが、何しろその場は音楽のコンサート会場。こちらの目も耳も、音楽モード真っ最中であって、つまり時系列の中でのリズムやメロディの波に40分間も慣らされてきた挙句のこの「映像&SE」だったものだから、その流れの悪さ、リズム感やメロディ感の欠如・・・即ち「“(映像とSEにおける抽象的な意味での)音楽性”の欠如」の甚だしさは耳を覆わんばかりだった。何しろそのときの私、ひとつひとつのカットは覚えているのだが、それがどういう順番で並んでいたのか、全くといっていいほど思い出せないのだ。もしかしたら彼の中にはあの順序に何か意図があったのかもしれないが、少なくとも私にはまるで伝わってこなかった。ただ、スチールとして美しい場面の無造作でランダムなスライド・ショーに過ぎなかった。

 しかし。代々木で私の印象は一変する。
 
 そこに、ストーリーがあった。鬼のように高質な音楽性が突如、そこに出現していた。
 
 まるでルビンの壷が向かい合う二人の横顔に変貌するが如く、それまでと全く変わらなかったはずの映像と効果音が突然意志をもち生命を宿し、私の目と耳を釘付けにした。モノクロとセピアの印象しか私の記憶に残さなかったカットの数々が、ショットのひとつひとつが、鮮やかな色彩を伴って次々と心の奥底に突き刺さっていく。まるで目の前で何度見せられても全く想像もつかなかった何十という数にのぼるテーブルマジックのタネを全部いっぺんに明かされたような、目も眩むような時間が私の眼前を過ぎ去っていった。そして、数分に渡るその印象の波の連続を統括していたのが、まるで虚ろに綴られるひとりの女性の呟きだったのだ。正直に告白してしまえば、私は一文たりとて、そのときに呟かれていた内容も表現も記憶していない。ただただ、そこに圧倒的な存在が、表現の威力が、宇宙を外から抱擁するスケール感が、奈落の底の底まで見通すような超越的な視点から描かれていた。そこに拡がる見たこともないような風景は、私にあの屈指の名盤「ULTRA BLUE」で体験した情景の数々の続編を夢想させた。

 「BLUE」の諦念と達観の彼方の霧を抜け、「海路」に示された黄泉への扉と道筋を手繰り、光の闇と闇の闇が交錯し悪魔が会話を交わすテーブルに着く。その筆舌に尽くし難い感触は、まさに次の楽曲“Devil Inside”への序章に相応しい漆黒に満ちていた。これこそが表現の、これこそが人間の夢幻の可能性だ、と愕然として私は会場に響き渡る虚ろな呟きに黙って支配されるしかなかった。その瞬間、その芸術家は隠された意図と不世出の黒い煌きの匂いをほんの一瞬だけ匂わせながら、音の壁と闇歌姫の傀儡を舞台上に出現せしめたのであった。


 未だに、その解釈に私は頭を悩ませている。DVDに、実際にはさいたまで披露されなかったこの“詩の朗読”が収録されると知り丁度安堵しているところだ。まさかあの超強烈な暗澹たる印象だけを私の心に置き去りにしたままあの詩と二度と邂逅できないというのならばそれは彼女にいつまでも触れていたいと願う者に対して余りにも酷だっただろう。ドキュメンタリーとしてのライヴDVDの価値は一歩譲る結果になってしまうかもしれないが、その英断には素直に拍手を送りたい。だってもう一回聴きたかったんだもん。


 それにしても、あの強烈な印象を、一体彼女はどこから運んできたのだろう?? 何より不思議だったのが、“この時間帯”の創作過程である。上述のように、恐らく先にキリヤンによる単独の映像&SEのアイディアが提示され、彼女の詩が乗ったはずなのだ。もし逆、つまり詩が先に存在しそれに彼が映像とSEを付帯したのだとしたら、映像とSEのみが先にお披露目されるはずがない。トラブルによって中途で朗読の録音の披露が妨げられた、という低い可能性しか考えられなくなる。やはり、あのキリヤンの作品が先にあって、あとからヒカルがそれにことばを添えた、と解釈するのが、限られた情報しか存在しない今、自然であり妥当だと思う。

 私には最初、彼による映像は、断片的なイメージをただ無作為に、何の意図もなく並べたものにしか見えなかったわけだ。それが突然、あの呟きが加わるだけで、ストーリーを伴った「映画」として私に迫ってきたのは、まさに魔法が掛かったとしかいいようがない感覚だった。まるで、「私は、どんな断片の集まりにもストーリーを与えることができるのよ」と不敵に(しかし無表情に)UtaDAが囁きかけてきているようだった。そう、実は、先ほど僅かに触れたが、私はこの詩の朗読の内容を、殆ど憶えていない。それどころか、それが日本語だったかどうかすらあやふやだ。冷静に考えれば勿論そうなのだが、寧ろ、その素顔と素肌の狭間に窺えるギラギラした視線の源はUtaDAのそれに近いように映った。彼女はUtaDAのときの方が、よりパーソナリティを自由に表現できている、という意味のことも昔語っていたように思う(ソース失念)。それがこの詩の朗読において、日本語を通して初めてあそこで表現された、ともいえるのではないか。まさに、このパートは、宇多田ヒカルとUtaDAの橋渡しであるとともに、全き見事な「United」だったとしか今は思えない。

 そして、日本語にUtaDAとの繋がりを込める媒介が、夫であり仕事の長きに渡るパートナーである紀里谷和明氏だった、というのが興味深いわけだ。

 極端に妄想を進めれば、いわば、紀里谷氏はヒカルにとって、最も挑戦し甲斐のある“敵”なのではないか、と思える。彼女は、読書中毒であったり音楽に没頭していたり、と時間軸に沿った流れに身を任せる或いは紡ぐことにかけては天才的だといえる人間だ。一方で彼は、時間をどこまでも短く切り取りゼロの極限にまで達したときの一瞬の印象を鮮烈に磨き上げることに長けた人間である。正に対極。そのお互いがお互いの作品のそれぞれの特性を存分に活かしつつ、尚且つその二つを融合させようと研鑚しあう。友であり敵であるような関係。切り詰めた刹那の実在の印象を突き詰める彼方、彼は彼女の中に“永遠”を見い出し、何処までも何処までも遠くまで総てを見通すような慧眼の此方、彼女は彼の中に“今”を見い出した。そう考えると、彼との幸せの中で生まれてきたと思しきあの“光”の「先読みのし過ぎなんて 意味のないことはやめて 今日はおいしいものを 食べようよ 未来はずっと先だよ」の一節も非常に説得力をもって響いてくる。なにやらこの関係はまさしく人間における「男と女」の雛型なのではないか、そう私には思えてきたのだ。そこまで想像を巡らせると、あらためてこの二人の絆の強さには嫉妬せざるを得ない。なんだこいつら。本当に仲がよく、相手のことを必要とし合っている。とても割り込む隙間なんかない。その現在形が、男女の擦れ違い様を描いた古典的ドラマの如く、夫による絵々の断片の数々と妻による詩を交互に片方ずつ味あわせながら我々聴衆を困惑と混乱に陥れ然し最終的には見事という他はない出来に辿り着いた今回の「映像」と「詩の朗読」のUnitedだったのだ。そう自分に納得させながら、“光”PVのメイキングの仲睦まじい二人の姿をまた見直して、今度は全く違った溜息をつく私だった。


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BBS1での議論でのレスが長くなり過ぎたので(汗)、こちらに別掲します。

*****


ひとつひとつ様々なケースを考えてみますね。

まず、「ライヴ会場の上空を撮影用ヘリが飛ぶこと」自体について。
これはなんともいえません。仰るとおり、
それを観客のひとたちが不快に感じるようではいけないでしょうし、
まさかそれによってMCなり演奏や歌唱なりが聞き取りづらくなるんじゃどうにもならない。
一方で、ああいう大仕掛けのものは、
会場の雰囲気を高揚させるのに一役買うことも多いですよね。
「ビデオ・シューティング」の事実を舞台上から告げることによって
観客のみんなを鼓舞する、という手法は実に昔からあります。
それだけ普遍的に有効ということです。
なので、一概にヘリの使用がよいかわるいか、というのは
ケース・バイ・ケースになるでしょう。
Hikkiの場合は、ミーティングでも誰も言わなかったのかな・・・
それほど有効活用した、という感じではなさそうですね。
もしフロントパーソン経験を積んでいれば、そういう“不測の事態”でさえ、
公演の追い風にするすべを身につけていけるかもしれませんが。
Hikkiがそこまで成長してくれたら、嬉しいですわ~(^∇^)

で、僕が持ち込んだ論点の方に照らし合わせて考えてみれば、ちょいと様相は違いますね。
あくまで、演出上の効果が“実際に”どういう評価を得るかではなく、
演出当事者の、開演前までの判断のなかで、ライヴ・コンサートの質を
“あえて”下げる、ということが、問題でした。@繰り返しになってますが。

極端な話になりますが、
例えば演出当事者が「当日ヘリを上空で飛ばしたら公演の妨げになるかもしれない」
という可能性を、事前に全く察知できていなかったとしましょう。実際にそんなことになったら
とんだボーンヘッドということで糾弾されるでしょうが、
僕が“萎える”ようなことにはならないです。
たしかに世紀のうっかりものだとは思いますけれども、
それは「公演の質を故意に落とした」のとは違うからです。あくまで“心意気”の問題ですよ。

一方で、「ヘリとばしたらお客さんイヤがるかな~でも仕方ないや、DVDの為だ」
ってあえてわかっていていうんだったら、「ん??」と訝る、ということです。
僕は公演をDVDに収録することに反対なんかしてません。(僕も見るの楽しみですからw)
撮影のためにヘリを飛ばすこともアリでしょうし、
カメラが沢山で見づらくなることもあるでしょう。しかし、
もし収録する為に他の公演に較べて何か演出上の障害が出るのが明確である、
というのであれば、単純に事前にそのことを告知すればいいだけの話です。
前回述べましたが、チケット料金を下げる、まですればかなり潔いですが、
そこまですべきかというと事情によるでしょうね。

今度は「DVD収録の事実を当日まで伏せる」といった公演演出上の意図があったとします。
そうなれば、DVD収録というイベント自体が、
ライヴ・コンサートの演出の中に組み込まれることになります。
(結構ややこしいケースですね)ここまでくれば事態は少し違ってきます。
本来アゲインストになりかねないファクターをフォローに持っていくための
機転なりアイディアが組みこまれることが要求されるでしょう。
(例えば先述のヘリ撮影なら、
 観客に「ヘリに向かってアピールしろ!映るぞ!(笑)」と煽ったりね)


もしフェアな態度を表明したければ、DVD収録を事前に周知徹底する。
逆に収録事実を当日まで伏せたい、という演出上の意図があるならば、
その演出も含めて公演を判断されるのだから、そこに何か工夫が必要になってくるでしょう、
ということです。何の工夫もするつもりもないのなら、わざわざ収録事実を伏せる必要は
全くなくなりますからね。ここで考えなくてはいけないのが、
収録事実を事前に公表した場合、公演遂行上不都合がある、といった理由でしょうか。
ちょっといい例が考え付きませんので、ここの考察は保留しておきます・・・・。
(案外大事な論点かもしれないから後日また追記するかも)


もう少し微妙なケースを考えてみます。例えば、もし「詩の朗読」が、
演出当事者の判断として「もしなかったとしても公演の質が落ちることはない」、或いは
「あったほうがいいかなかったほうがいいか判断がつきかねる」という場合です。
このとき、「じゃあ、DVD収録があるからナシでいってみませんか」という提案があり
それが受諾された、なんてこともありうるかと思います。ここで重要なのは、
「“詩の朗読”は必ずしもあったほうがいいとは限らない」と
演出当事者が先に価値判断を行っている、という事実です。
それを踏まえた上でDVD収録の事実が判断の後押しをするのであれば、
演出当事者には当日の公演の質を落とす意図は認められなかったことになり、
僕が萎えることもないでしょう。(笑)
いいかえるなら、「もしDVD収録がなかったら必ず詩の朗読を入れていた」にも拘らず、
「でも、DVD収録があるから詩の朗読をハズした」という場合に、
僕は萎えます、ということです。


まとめておきますと、
「公演を撮影・収録するなら、公演の質自体を犠牲にしないこと」
「公演の質に何か犠牲を払わせるなら、それをカバーするだけのアイディアを出すか、
 それがないのならば、撮影・収録によって質が犠牲になることを予め告知しておくこと」
・・・こんな感じでしょうか。
大事なのは、ファンに対してフェアであろうとしてほしい、ということ。
別に特殊な技能を要求しているわけではありません。
(周知徹底の為の技術は必要でしょうが)
僕がもしUTADA UNITED2006のミーティングに参加してたとして(勿論ありえないですがw)、
「DVD撮影があるから、仕方ないよね~」と誰かが言ったなら、まず真っ先に異議を唱える、
ということです。それで質が落ちるなら、ファンに事前に報せておくべきだ、とね。

「世界中にライブに行けない人がいっぱい」だから、当日そこに居合わせた幸せなひとは、
そんな瑣末なことで文句をいうなよ~ちょっとくらいガマンしようよ~というのでしたら、
僕個人は確かに何も文句いわないでしょうし、その程度のガマンなら幾らでもするでしょう。

しかし、誰かが文句をいうだろうことが明らかに事前に想定されるときに、
予めちゃんと説明責任を果たしていない、という状態を故意に作るのは合点がいきません。
予め想定できていたのなら、ちゃんと説明しときゃ済むことです。
そうすれば、コンサートに行くことを検討している人は、チケットを購入する前に
DVD撮影の影響を(ある程度)考慮した上で行くべきかどうかちゃんと判断できますからね。


*****


関連しながらも、ちょっと違う(話のずれた)話題です。
実は、今回取り上げている話は(僕とすれば)他にもうひとつ微妙な論点を含んでいます。
それは、ライヴコンサートの内容に関する事前の情報告知のことです。

例えば、中には宇多田ヒカルのコンサートときいて、
「演奏曲目によっては見てみたいから、セットリストを教えて欲しい」と
チケット購入希望者が言ってきた場合、どうなるでしょう。
(クラシックのコンサートなら、演奏曲目が予めわかっている場合が大半ですからね)
実際に実験(?)してみたわけではないのでわからないですが、
恐らく「事前の曲目告知は致しておりません」と窓口でいわれるのではないかな。
(勿論現実にはネットで検索すれば実施中のツアーの曲目くらい見つかるかもしれません。
 まぁたとえば初日公演を見に行く人、とでも考えてみてください)
でも、これはフェアだと思うんですよ。公演の性質上曲目を事前にいわない、
ということが決まっているのであれば。チケットを買う前に判断できますからね。

一方でこんなケースはどうでしょうか。
今回のUTADA UNITED 2006の公演で、宇多田ヒカルではなく、
たとえば冨田謙さんの大ファンだ、というひとがチケットを買ったとします。
彼が見たくて、彼のみが目的でチケットを買った、というひとね。
彼がツアーの主要メンバーであることは告知されています。
ところが、当日会場に入って演奏が始まってみると、彼が舞台上に居ない。
きいてみると、どうやら今日は風邪をひいてしまったので、
友達のプレイヤーに代理を頼んで、別のひとがキーボードやギターを弾いている、とのこと。
(もちろん、フィクションですよ~実際のツアー、彼は最後まで遣り遂げてくれましたっ)

こういう場合、宇多田ヒカル本人は元気至極なので、公演を中止するようなことはない。
しかし一方で、この冨田さんの大ファン、というひとは、チケット購入損です。

もし宇多田ヒカル本人が風邪を引いてその日の公演がキャンセルになったら、
恐らく払い戻しか振替公演、といった措置が取られるでしょう。
(もちろん、フィクションですよ~実際のツアー、Hikkiは見事に完遂しました!(又涙っ))
それなら、最低限OK、ということになると思います。
当日しか時間の取れなかったひとからすれば悔しくて堪らないでしょうが、
最低限、お金は戻ってきますからね。実際には慰めにならないかもしれないけど、
もしお金も戻ってこなかったら怒り心頭ではすまないでしょう。

この「冨田さんのみの熱烈なファン」の方は、非常に微妙な立場になると思います。
確かに、このツアーは宇多田ヒカル/UtaDAのツアーであって冨田さんは主役じゃない。
でも、それまでずっとバンドの大事なメンバーだったし、当然そこに居るはずだ、
と思ってチケットを買ったのに、そこに居なかった。私はHikkiなんか見にきたのではない!と
憤慨することもあるかと思います。(・・・それもなんかもったいないけどね(笑))

現実問題として、たとえ当日、開場前に「本日冨田さん病欠」の報が入ったとしても、
前売り券の払い戻しは、たぶんしてくれないと思います。それが許されるようになったら、
たとえばステージには見えないひと、、、
「常見さんがマニピュレータやってないなら払い戻してくれ」とか、
「キリヤンが当日来ると思ってたのに来ないなら払い戻してくれ」とか、
いくらでもエスカレートしてしまうでしょう。ここらへん、本当にむつかしいですね。
正直、今の僕にはよい解決方法は、全く思いつきません。( ̄_ ̄;

もっと一般的な事態としては、サマーソニックやフジロックフェスティヴァルのような、
特定のアーティストでない、何十とアーティストが参加する祭り形式の公演があります。
コレの場合、チケット購入時のインフォに必ず
「参加アーティスト変更による払い戻しは致しません」
という旨、明記されています。なので、フェスのチケを購入するとき、
お目当てのアーティストが1つや2つだった場合結構賭けだったりします。
まぁでも、事前にちゃんとインフォされているので、フェアはフェアといえるでしょうね。

一方、この「冨田さん病欠」(くどいようだが彼は皆勤でしたよw)のケースは、
どうにも同情の余地がある、というか、気持ちとしては払い戻しに応じてあげたいところだが、
ルール上どうにもムリと見なさざるを得ない、という感じですね。
彼を裏方と見るかどうか、かなり微妙ですもん。たとえばこれがヴォーカリストが
一定しないロックバンド、だったりしたらまた難しい。
最初はサミーヘイガーが歌うヴァン・ヘイレンが来る予定が、
チケット発売後に「ヴォーカルはサミーからデイヴ・リー・ロスに変更になりました」という場合、
チケットの払い戻しをするべきか否か、とか、、、考え始めたらキリがないなぁ。


・・・というふうに、公演の内容(&参加人物)をどこまで事前に保証するか、
というのは、結構微妙なことが多くって難しいんですよね。

今まで取り上げてる問題も、そういう論点がさりげなく含まれているから難しい。
今回例として取り上げたのは、「詩を朗読するかどうか」とか「ヘリが空を飛んでる」とか、
あんまり目くじらをたてそうにない内容でしたが、今の冨田さん病欠ケースのように、
判断が難しいことも多々あるわけです・・・そうですね、
たとえば、宇多田ヒカルのコンサートということでいってみたら、
まるごと2時間彼女によるトークだった、とかどうでしょうか。(笑)
僕なら怒りませんが(めちゃ楽しいですが)、
「金返せ」というひとが出てきても不思議ではない。
「あんな挙動不審の喋りを聴きに9300円も払った覚えはない」とね。
これ、内容を先に言っておけば問題ないわけです。「これは2時間のトークショーだ」とね。
それならチケットを買う前に判断できる。これが更に微妙になって、
宇多田ヒカルのコンサートだというから行ってみたら、
2時間一切歌わず、ヒカルがピアノとギターを弾いているだけだった、とか。
こ、これは確かに彼女のコンサートですが、幾らなんでもやっぱり詐欺ですよね。

つまり、公演を打つほうは、できるだけ誠実に、フェアに公演内容を
周知徹底告知したほうがいいわけですが、一方で、公演内容をサプライズにしたい、という
演出意図も当然出てくる。僕らだってツアー中にネタバレが出ないように、
随分と気を遣いましたからねぇ・・・(トオイメ)・・・どこまでを告知し、
どこからを秘密にしておくか、これは観客をどうやって楽しませるか、というのと同時に、
観客をちゃんと納得させるかどうか、ということでもあります。


演出意図と、顧客に対する公平誠実な態度のバランス、これは、
ライヴ・コンサートという興行を考えるうえにおいて、非常に重要なファクターである、
といえるでしょう。今回例に出されたのは、実際には余り問題にならない「詩の朗読」とか
「上空のヘリ」とかでしたが、前回もちょっと触れた例、
「実際に会場に行ったら、DVD撮影用のカメラが真正面にずっとあって
 全然舞台上が見えなかった」なんてことが、事前に何の告知もなしに起こったら、
そりゃ誰だって怒ると思います。(※)
そういうことが起こらないような体質を、普段から整えておいて欲しい、
というのが長いタームでファンをする人間としての願いだ、と捉えておいてくれれば幸いです。


(※) ちな!みに僕の場合は
    「見えないなら見えないでいいか~音聴こう」といって、全然怒らない可能性が高いです。
    なんだかカンチガイされてないか心配なので念押しの念押しをしておくと、
    i_個人は詩の朗読があろうがなかろうが、ヘリが飛んでようがHikkiの声が出てなかろうが、
    あんまり問題にしない人です。ライヴはナマモノ、内容がダメだったときは
    自分の鑑識眼のなさを嘆いて終わりです。どのチケを買うかからして自分の責任ですからね。
    そういう人間が、“怪訝な顔をする”とか“萎える”と言っているのだから、
    実は問題は全く違うところにある、とわかっていただければ嬉しいのですが・・・。



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どうやら、昨日のエントリで取り上げた投稿は、削除された模様。

*****

 昨日ふれたようつべ(ゆーちゅうぶのことねw)に掲載されていた、DVD「UTADA UNITED 2006」の宣材用映像が、東芝EMIからの要請によって削除された模様です。この結果についてひとこと添えておきますね。

 昨日の段階で「道義的に躊躇われる」段階だった、このような素材へのリンクですが、これで結局、「ファンサイトから積極的にリンクすることは憚られる」段階になった、ということでいいと思います。いわば、東芝EMIからファンに向けてのメッセージということですね。実は一方で、全く同じ映像が、他のユーザによって再アップロードされてしまっていて、あんまり事態は変わってない・・・おそらく、これからもイタチゴッコは続くことになると思います。みんなが見に来るコンテンツを擁していれば、アップロードした当人の他のコンテンツを見る可能性も高まる・・・アクセスが増える、ということに繋がりますからね。現時点では、対処方法は殆どないでしょうね。ようつべがアップロードそのものに厳しい罰則規定を、ということも考えにくい。

 話を戻します。昨日の私の話を踏まえれば、東芝EMIは、今回の映像のような「宣伝目的に特化された素材」ですら、ようつべへのアップロードは容認できない、という態度を僕らに表明した、と受け取れると思います。場合によっては、黙認しておく、という方法もなくはなかったと思いますが、どうにもそうしなかった。もしかしたら、本当に東芝EMIは、元々宣伝目的にようつべに自らアップロードしていたのに、ファンからの指摘があって、放置することもできなくなった、なんてこともあるかもしれません。・・・いや、もちろん真相はわかりませんが、でも、それくらいの事態(ファンから指摘されるケース)は、想定済みだったでしょうから、僕はその「自作自演」のセンは低いと見ています。

 とまれ、どうやら宇多田ヒカルのファンサイトとしては、「原則youtubeへのリンク自粛」を基本路線にしておいたほうがよさそうです。宣伝用の素材ですらこうですから、もう既に商品として手に入れられるプロモーションビデオとかライヴ映像の類は、「著作権抵触」を理由に自粛したほうがいいでしょう。(たとえ表向きだけ、でもね。(笑)) ただ、これは「現時点での措置」だと思っておいてください。半年も経てば周囲の評価等も激変して、全く価値観が変わっている、ということも有り得ます。また状況が変わったら、この原則基本路線も考え直せばいいでしょう。暫くの間は、という程度の認識で結構かと。

 ただし、今回のリムーヴが、僕の推理が少々的外れであるということになりますが、宣伝用の素材だったから、というのではなく、プロモーション戦略上、どうしてもこの時期に多くのひとたちの目にとまるのはまずかった、という“東芝のプロモ活動の失敗・過誤”だった、というセンもあります。そうなると、実はこれが解禁されたあとなら、youtubeに映像が残されていても黙認する、という事態も、このあと数日後~数週間後に起こる可能性があります。これもまた、暫く様相を注視するのがいいと思います。できれば、その都度こちらからスタッフメールをし彼らにお伺いを立て、推移を見守る、という(ちょっとテマのかかる)プロセスを経られればいいんですが。


 とにかく、ファンサイトとして考えることは、まずはアーティスト側の利益だと思います。“ファン”サイトという名称なのだったら、ファンの利益を第一に考えるべき、というのは正論だと思いますし、実をいうとそれに反論する気持ちも論理も持ち合わせてません。しかし、わざわざざねっちや三宅さんや梶さんやカンゾー先生や、なにより村上ちえちゃんを(そこかょ!(笑))困らせたり煩わせたり、というのはマズイと思います。

 そこらへん、僕個人独自の価値観が反映されているかもしれません。僕らは消費者として、購買者として宇多田ヒカルの商品を楽しんでいる、という立場というより、彼らレコード会社やマネージメントのみなさんとイッショになって、宇多田ヒカルを周りから(どんだけ微力であろうとも)盛り立てていこう、彼女のやりたいことを(ほんのちょびっとだけでもいいから)サポートしていこう、という仲間であって、ケンカをしたり、こちらから一方的に要望を押し付けたりする相手ではなく、相互がそれぞれの立場を思い遣って慮って協力していける関係であったらいいなぁ、と思ってます。まぁ、そういう思想的背景で僕は今日と昨日、ようつべに関する記事を書いた、と思ってくれれば嬉しいです。今日も乱文でした。ご容赦くださいませ以上っ。m(_ _)m

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