無意識日記
宇多田光 word:i_
 



これから(いつになるかわからないが)アルバム発売を迎えるという意味では、まだ『大空で抱きしめて』と『Forevermore』だけでは弱いだろう。

曲の出来云々というよりは、リスナーのテンションの話と言った方がいいか。質の高さなら既にぶっちぎりであり何の議論の余地もない。どちらかというと、「興味のない人たちまで手を伸ばしたくなるにはどうすればよいか」という問題意識だ。

前作『Fantome』が予想以上に売れまくったのは、ひとえに楽曲の浸透度が従前より高まったからだ。朝の連続テレビ小説という浸透度では最高クラスのタイアップを持った『花束を君に』がその知名度と共に楽曲の美しさ自体が受け入れられたのがまずいちばん大きい。そこから、『真夏の通り雨』は勿論の事、『二時間だけのバカンス』での椎名林檎とのコラボレートなどで話題を集め、しかし最終的に効いたのは『道』のインパクトだったのではないか。

シングルカットされた訳ではないからわかりにくいが、『道』は101局パワープレイというスケールのバカでかいエアプレイを獲得していた。『ファントーム・アワー』もあったし、TVCMでも流れた。ここでこの曲が従来からのファンにも素直に受け入れられるようなシンプルなリフレインと切ないメロディーを併せ持ったアップテンポのオープニング・ナンバーだったのが、強かった。『道』で最終的にアルバム購入を決めた人も多いんじゃないかと勝手に推測する。

次のアルバムにも『道』並みにシンプルなインパクトを残す楽曲が欲しい。何ヶ月後かには、そういう曲が登場してアルバムへの花道を切り開く。そう夢想している。

引き続き天然水CMに起用された『大空で抱きしめて』は順調だが、ドラマ「ごめん、愛してる」は話題作とまではいかず、しかしそこまで視聴率は低くないという堅実な推移を示している。「タイアップとしては悪くない」のが本音だが、昨年の『花束を君に』と『真夏の通り雨』が「毎日テレビから流れてくる」という荒業を繰り出してスタートダッシュをカマした事を考えると、やはり弱い。まだまだここから追い上げないと次のアルバムは『Fantome』の売上を超えられないだろう。

恐らく、そろそろ「CDを買う層」の極端な減りは終わりを迎えるはずだ。これから増える事はなく毎年その層に死者が出た分の自然減はあるだろうが(物騒な話だなぁ)、2017年までCDを買う習慣を維持してきた人たちが今更習慣を変えるとも思えない。自然減は我々の想像以上に多く、売上の現状維持すら快挙といえるかもしれないが、ここはSONY移籍第1弾、欲張ってみればいいのではないか。

私としては、勿論ヒカルの心身の健康が第一なので本人の意に沿わない過酷なスケジュールのプロモーションをこなさなければいけないというのならどうぞ幾らでも売上が下がってくれればいい、と考えるのだが、ヒカルが乗り気ならこの限りではない。大衆音楽である以上、売れた方が今後よりやりたい事を自由にやれる筈なのだ。売上は正義ではないが一助にはなる。梶さんをはじめA&Rの皆さんがヒカルの表現活動が尚一層充実する方向に頑張ってくれるなら応援していきますよ。

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昨日DAOKOの「打上花火」のYouTube再生回数を見てみたら2000万回を超えていた。公開から3週間でこれとは何ともまぁ。映画のオフィシャルサイトを開くと自動的にこのYouTubeの再生が始まるという仕様の影響はあるにせよ、やはり注目されていないとここまでは行かないだろう。肝心の映画の評判は散々だが、主題歌に関しては大成功と言えるかもしれない。

散々、といってもそれはWebで寸評を文章でUPしている人たちの間での話。なので、毎度指摘している事だがどうしてもストーリー重視の傾向がある。文章を書ける人は文章を読む人であり、文章はストーリーが命だからだ。しかし相手は映画であって、映像や音楽の力も強い。「千と千尋の神隠し」は最大級の特大ヒット映画だが、ならストーリーは例えば「天空の城ラピュタ」のようなガッチリとしたシークエンスを組んであるかというと、そうでもない。描きたい風景を描いていくついでにストーリーも展開させたよ、という程度。広告宣伝の力もあるとはいえ、日本でいちばんウケた映画の作風がこうなのだから、映画に関していえば、少なくともWebでの評価にはややストーリー重視傾向が強いと思っておいてよさそうだ。実際に観てみないと、本当の所はわからない。

で私はこの打ち上げ花火の映画観てないんだよね。件のYouTubeのシャフトフレーバー満載動画(時々どうみてもガハラさん)を見てお腹いっぱい。良し悪しだなぁこういうの。恐らく売り出す方は昨年の「君の名は」とRADWIMPSの関係性を狙ったのだろうが、ちょっと狙い以上に曲の方が注目され過ぎている感すらある。実際に聴いてみたら本当にいい曲で「フルコーラスで聴いたら更に感動増幅する」タイプのパート、即ち"二番からダブルボーカル"とCメロとブレイクとアウトロ大サビが全部入りで入っている。執念じみた「ヒット曲渇望」を感じる。

実際大ヒットしているようで、未だにiTunes Storeチャートでは1位だ。YouTubeでフルコーラス聴けても買う層が一定数存在している。宣伝のスケールが大きければこうなるという好例だな。何か、映画を差し置いて「2017年夏の流行歌」としての地位を築きつつあるようにみえてきた。でももう今日で8月も終わりなんですが。もうちょい公開早くてもよかったかな。いや、映画観てないので、内容に即させたのかもわかりませんが。


タイアップ先との関係は重要だが、それに縛られ過ぎてもいけない。同じくiTunes Storeチャートで『Forevermore』は目下4位と健闘中である。発売1ヶ月でこの位置なのは、曲が人気なのか他の人たちとの落差が激しすぎるのか。これだけ売れてたらもっと流行歌然としていてもよいと思うが、どうにもそういう雰囲気になっていない。

思うに、ドラマにフィットし過ぎているのではないか。それ自体は素晴らしい事だが、「ごめん、愛してる」の主題歌、というイメージが強すぎて、それ以上のフィールドにまで勢いが波及しづらいのかもわからない。サビで『愛してる』って連呼しちゃうだなんて、ドラマ自体よりもドラマ名を宣伝する力が強いのだから。

本当に良し悪しだ。ドラマを見て歌を聴く分には至高なのだが、その分ドラマに縛られる。「打上花火」は映画の評判が散々なせいで、映画に引っ張られる事なく逆に曲を聴く層に広がりが出来ている。この分析が正確であるならば、皮肉なものだ。流行歌を作るのは本当に難しいわね。

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『Forevermore』の歌詞は要するに「あなただけをいつまでも愛してる」という以上の事もなく、裏の意味もなく、ダブル・ミーニングもなく、読んだままである。その為、曲調がシリアスなのに重たくはない。思いは重いが明快な為、淀む気持ちが現れない。

内容がありきたりなのは何といってもドラマに感化された歌詞だからであって、これまたそれもそれ以上でもそれ以下でもない。が、最近のいつも通り、生まれ変わりに言及すると途端に死の影が歩み寄ってくる。

これは奇妙な偏見である。『Goodbye Happiness』にも『Hymne a l'amour 〜愛のアンセム』にも転生話は出てくるが、死は主題ではない。比喩に纏わりついているだけだ。「例え死んで生まれ変わってもまた」と言ってその思いの強さを強調しているだけで、勿論そこで転生を持ってくる事自体が"思想"であるとはいえ、それ以上の他意はない。ところが今、私は『Forevermore』の歌詞を耳にして『あなた』は死んでいるんだな、それは大きな事だなぁ、そう思っている。果たしてこれで、いいのだろうか?

これは勿論考え過ぎである。結果が総て。私がそうとったのだからそうなのだ。まずは、作詞者の意図は関係ない。誤解だろうと何だろうと、歌が人と相対して心が動いたという事実は最早変えようがない。それはまさに歴史的なものの見方である。本質や意図といった抽象は、一旦脇に置かれる。

そして私のように捉える人間は私だけではない。常に圭子さんの影がちらついているのだ。ヒカルが何を歌っても未だにそう穿たれるかもしれないのだから真正面から死と愛について歌ってしまえばそれは粗探しでも曲解でもなくなる。ヒカルがそれを狙っているかはまだしも、意識していないと解釈できる余地はほぼない。

『Forevermore』の歌詞が"素直でない"とすればここだけだ。4年経っても主題として取り上げられる。意識しないで聞ける人はなかなか居ない。居てもうちの読者じゃないから話も訊けない。結局、歴史の中に歌が埋め込まれる。流行歌、大衆音楽としては本望本懐だろうが、普遍性をヒカルに見る者見たい者としては釈然としない気持ちが残る。違う、そうじゃない、と。

話が難しくなったのでここで打ち切るが、その軽さに惑わされている時点でポイントを外している。素直にリズムに乗るのがこの歌の一番素直な楽しみ方だ。あまり深く考え過ぎない方がいい。それはそれなのである。

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『Forevermore』でひとつ目を引いたのが「インフィニティのポーズ」である。まさかあのウルトラセブンごっこみたいなジェスチャーが「無限〜∞」を表してしたとはね。更に身体全体でも。要するに八文字なんですが、タイトルの"forevermore"が「永遠に」という意味だから「無限」を持ってきた、という事だ。

この「おおらかさ」が気になっている。大体同じ意味だからこれにしよう、っていうその"大体"加減が。

厳密に言えば永遠と無限は別の概念だろう。だが、多くの局面で同じ意味の言葉として使っていいのもまた事実。そんな感じの言葉の使い方って、歌詞を練り込むヒカルの芸風からするとおや?と思わざるを得ず。

しかしこれが『Forevermore』の特徴なのだろう。もってまわった言い方をせず、言いたい事をダイレクトにそのまま言う。それが歌詞のコンセプトなのだ。だから大体伝わればそれで十分であり、細かい言い回しの違いによる微細な差異などに気をとられる必要はない。

『愛してる』『いつまでも』とまぁラブソングとしてありきたりを通り過ぎて定型文として辞書登録された言葉が居並ぶ。しかしそれこそが狙いだろう。タイアップ先のTBSドラマ「ごめん、愛してる」自体、テレビドラマのテンプレートの組み合わせで成り立っている作品だ。主題歌もまたテンプレートで構築されているとフィット感が増す。非常によく出来ている。

なので、この歌に関しては歌詞の詳細な分析自体が徒労に終わる可能性が高い。「つまり……読んだままなのね?」と言われるのがオチだ。だからあまり面白い事は書けないかもしれないのだが、何がどうなっているかは徐々に理解できる筈である。お楽しみに。

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さて肝心の。『Forevermore』で「誤解すると面白いかもしれない歌詞」は次の一節だ。

『壊れたイヤホンで耳を塞ぎながらあなたの名を呟きかけた』

ここだ。『つぶやきかけた』である。日本語の『かける』には2つの意味がある。「しそうになる」と「し始めた」だ。前者は「でも、まだしてない」で後者は「もうしちゃった」なのである意味真逆の意味である。

さてここの『つぶやきかけた』はどちらの意味だろうか。前者なら「つぶやきそうになった(でもまだつぶやいていない)」であるのに対し、後者なら「もうつぶやいた」だ。この歌の主人公は、『あなたの名』を口にしたのかしていないのか。どちらが正解にせよこの点を議論していく事でこの歌に対する理解が深まっていく―筈だったのだ。

しかし、ヒカルはあっさり答を提示した。ミュージック・ビデオでのコンテンポラリー・ダンスで。そこでヒカルは『あなたの名』と思しき文字を空中に書いて、そして右腕を黒板消しのように動かしてサッと拭い去ってしまった。そう、ここで『あなたの名』を打ち消したのだからこの歌の主人公は「口にしそうになったが、結局しなかった」事になる。『つぶやきかけた』は「つぶやきそうになった」が"正解"として提示されたのだ。作詞者の意思として。

いや、わかっていたんだ、そうだろうな、って。後者の「つぶやきかけた」なら、もうひとつ目的語として「何に対してつぶやいたのか」について言及があって然るべきなのだ。つぶやくという動作に必ず指向性を求めるべきか否かは難しいところだが、「つぶやきかける」というのは「つぶやくという動作をある一定の方向に集中させる」という意味にとるのが普通なので「何に対して」が歌われていない以上、この後者の解釈は旗色が悪かった。そしてやはり、そうではなかった。

今回の事態は、ヒカルに何の悪気もないから更にやるせないのだが、どうにも芳しくない。勿論今からでも「あなたの名をつぶやいてしまった」体で歌詞の解釈を展開する事は可能だ。しかし、あまりにも気分的に白々しい。それ位に「作詞者の意図」というのは強力なのだ。ヒカルがそう言っているからそうなんだ。確かに、何の反論もする気が起きない。

このちょっぴりの切なさをさておいて、つぶやきそうになって掻き消した主人公の心境とじっくり向き合ってみるのが、ここからの流儀になる。先週まではサウンドの話が中心だったが、加えて歌詞の話も絡ませてみようという訳だ。はてさて、どうなりますやらですな。

しかし、真っ先に指摘したように、今のご時世「つぶやく」という動詞にはどうしたって「ツイートする」という連想が付き纏う。ヒカルがそれを意識しなかったと想像するのは難しい。ならば、もしかしたらこの主人公は、『あなたの名』を口に出しそうになってやめたのではなく、一旦スマートフォンで記入して、しかし投稿する事無く消去したのかも、しれない。ここの"誤解の幅"は、許容範囲だろうか。解らないけれど、その遊びも入れて進みますか。

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前回からの続きを…と思ったけど朝からけたたましいなぁもぉ。何でも日本列島をミサイルが横切ったとか。とんでもない事態だが、他の報道全部潰して騒ぐ事なんだねぇ。被害報告も入ってないみたいなのになぁ。関東の停電みたいなもので、もう騒いでも何も変わらない事を延々グダグダ言うのは何故なのか。被害があったなら兎も角、何もせずに通り過ぎていった台風の話をするかと言ったらしてないし。次の台風の話はするだろうけど、次のミサイルの話をすぐしてる雰囲気でもないしなぁ。

軍事や政治の事がわからないこちらからしたらミサイルなんて天災みたいなものだから、規模の大きい竜巻注意報みたいなものだと捉えているのだけれど、天気予報すら後回しにされては生活に支障が出かねない。まぁすぐWebで確認すりゃいいので気にしなきゃそれで済むか。

毎度の事だが、私は事の重要性に見合わない"目の血走ったお祭り騒ぎ"が嫌いなのだ。話題性に合わせて騒ぐ。つまりゴシップである。ゴシップはゴシップなりの社会的立ち位置ってのがあって、お約束の中で娯楽として消費している分にはこちらも楽しいのだが、命に関わるだの何だのという局面までゴシップ化すれば命自体が冗談になってしまう。わかってやってるのやら。やれやれ。

まだまだ経験の浅いケースなので過剰反応は致し方ない面もあるが、にしたってちと過剰が過ぎる。地震や津波ですらまだまだ落ち着いた対応にはみえていないので、こちらが落ち着き過ぎなのかもしれないけれど。


朝からしみったれた話になってしまった。こんな事を書いても、それこそ何もどうにもならないんだけれど。もっと楽しい話、例えばヒカルの新曲(と言うには随分時間が経ったか)2曲の魅力について語るのにもっと時間を割くべきだ私。現在反省中でございます。

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「歌詞の内容をダンスで表現する」―これは、良いか悪いかよくわからない。時に歌詞の解釈を限定するからだ。

歌詞は誤読も醍醐味である。確かに、作詞者の意図は大事だが、誤読によって新たな展望が開ける可能性を排除するのも野暮である。無論、優れた歌詞…否、"よく考え込まれた歌詞"であればあるほど、そういった可能性はとりわけ低くなってはいくのだが。

古くは、『First Love』の『明日の今頃にはわたしはきっと泣いてるあなたを想ってるんだろう』問題がある。これは『明日の今頃にはわたしはきっと泣いてる/(わたしは)あなたを想ってるんだろう』なのか、『明日の今頃には、わたしはきっと"泣いてるあなた"を想ってるんだろう』なのか、一体どちらなのだという問題だった。

文脈から"作詞者の意図"という意味の答は明らかで前者の方なのだが、後者の解釈は「わたしは、泣くだけでなく、あなたを泣かせる理由もあった」という"新しい展望"が開けるという意味で秀逸であった。もしかしたら、"わたし"の方が"あなた"をフッたのか? いや、フッたのは"あなた"で間違いないけれど、まだどこか心残りがある?抜き差しならない事情で別れを切り出さざるを得なかった?などなど、途端に妄想が広がる。後者は"作詞者の意図"としては不正解だが、クリエイティブなインスピレーションを導く機能としては大正解だ。


『Forevermore』にも当初から類似の問題があった。『確かな足取りで家路につく人が溢れる大通りを避けて』は、『「"確かな足取りで家路につく人が溢れる"大通り」を避けて』なのか、『確かな足取りで家路につく人が、溢れる大通りを避けて』なのか、はたまた、『確かな足取りで家路につく。人が溢れる大通りを避けて』なのか、一体どれなんだという問題だ。

しかし、これは『First Love』ほどには面白くならない。まず「作詞者の意図」は1番目であり、主人公は「沢山いる"確かな足取りで家路につく人たち"とは異なる足取りで歩く人」だというのが"正解"だ。2番目のは「確かな足取りで歩く人」がなぜか大通りを避けるという、あんた裏道御存知なのかいな解釈だが、やはり何が『溢れる』のかわからない点が引っかかってしまう。3番目も同様で、今度は主人公が裏道を通る者になるのだが、確かな足取りから壊れたイヤホンにどう繋ぐのかがわかりづらい。「足取りは確かなのになぜかイヤホンが壊れている」というのは確かにちょっとそそられる設定ではあるのだけど。

という訳で『Forevermore』の「わざと誤読大会」は「First Love」ほど盛り上がらないのよね―と思ってしまう所だが実はこの歌にはもう一つ"誤読"できる箇所があるのだった。次回に続くよ。

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M-ONの『Forevermore』のメイキング番組を見させて貰えたのでその話などを。…りなやん(笑)。

なんだろう、一時間ひたすら振り付けの解説だった気が。いやあそこまで歌詞にベッタリな由来だったなんてな。イヤホンくらいはわかってたけど、『LOVE』を身体全体で表現するとか気づいてませんでしたわ…何度見返しても『VE』は無理があるけれど…。

ちょっと興味があるのは、このダンスのお陰で非英語圏の人々が、歌詞のストーリーを覚えやすくなるのでは、という点だ。普段聴いているリスナーも日本語が達者な層とそうでない層にやんわり別れているとは思うが、結果的にダンスから歌詞が連想できる構造になっているのなら言語の差異は関係ない。振り付けによっては予め「手話なのかな?」と思わせる箇所もなくはなかったのだが、そういうローカルな表現もなく、きかなければわからないとはいえ一度きいたら容易に思い出せる関連づけが為されている為、歌詞を理解する大きな一助になるんではないかな。その点だけとっても、この『Forevermore』のミュージック・ビデオの制作は成功だったと言えるだろう。

でもその為には、このメイキングの翻訳字幕が必要なんだけどね。

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『Forevermore』はライブで、特にラストのパートをストレッチしてヴォーカルとギターとキーボードのアドリブ合戦に突入する事が期待される。いやもう是非やって欲しいね。

とはいえ、ヒカルはスキャットできるのだろうか? 発声や発音はいともカンタンにクリアできるだろう。即興を盛り込むのも、テレビの生放送でやってしまえるのだから可能だろう(Mステのキャンシーとか)。問題は"掛け合い"だ。他の楽器陣と絡み合いながらスキャットできるか。それが鍵になる。

ジャズ・ヴォーカリストなどはその場で即興で歌詞まで作って歌ってしまえる。他方、歌うべき歌詞を忘れてしまって即興でスキャットで必死にごまかしてみたら後世に語り継がれる名演になった、とか嘘か本当かわからない逸話もある。いずれにせよ実力派を自認するなら(別にしてないか)、ステージでそういうアプローチも期待したい訳だ。

そのまま『Forevermore』がライブの定番になればいい。常に変化と成長をし続けるヒカルに"定番"なんて似合わないが、この場合は中身で変化と成長を示し続ける枠組みの設置である。名演を重ねればそれを期待して足を運ぶ人も出てくるだろう。

そこなんだわ。どうしてもヒカルの場合、チケットがプレミアムになってしまって、送り手として「足を運んでもらう工夫」をするモチベーションが薄くなってしまう。来た人を満足させて帰す事には注力するけれども、そもそも来て貰う為に何かをしようという雰囲気は無い。これ以上来られても困る、位に思ってそうだ…いやそれはないけれども。

それを恵まれていると捉えるかぬるま湯と捉えるかは難しいところだが、ヒカルが「それでいい」と思うかというと、なんかそれは違う気がする。「あいライブをし続ければ自然とお客さんは増えていく」というのは全くの真実で反論する気も起こらないが、何かこう「誘い込む」ような感性があってもいいように思う。

2つのレイヤーで同じ事を言っている、と思う。バンドでアドリブ合戦に興じるのも、お客さんに来て貰う工夫を施すのも。相手の感情を察知し、こちらからアプローチを仕掛け、更にそれへの反応に対してまた新しく対応していく―そういう循環が、演奏にも集客にも必要なのではないか。

今までのヒカルはまさに"ソロ"・アーティストとして君臨していればよかった。存在自体が価値であり、ヒカルが曲を作れば、ヒカルが歌を歌えば、それで既に至高だった。それは今も微塵も変わらないが、対話の中に新しく生まれてくるものもみてみたい。その新しい可能性を『Forevermore』の中に…私は、"見たがっている"ように思われる。グループで活動しろとは言わないが、ヒカルの至高の頭の中と"それ以外"の作る淵と際(ふちときわ)がどんななのか、私は興味津々なのです。

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リツイートまでいきあたりばったりでやっとんのか。まぁ鼻は利くし構わないか。実際、何のアワード投票かよくわからんのはこちらも同じ。

時間帯からして今はロンドンか、とかまた野暮な事を考えていたりする。一目を忍ぶ事もあって、と言っているのだから、放っておこう。

Web登場の頻度、となると『Message from Hikki』が稼動していた頃が最も頻繁だった。今も付き合い方をそう変えている訳ではない…というか、周りが変わり過ぎたな。スマートフォン世代はインターネットをリアルのヘルプと捉えている。パソコンで主にインターネットを使っていた世代は、こちらからパソコンの前に座りにいっていた。ポケットから出すのとは訳が違う。のび太んちの勉強机の引き出しがタイムマシンへの入口になっていた如く、我々は机に置いたパソコンのディスプレイをまるで異世界への扉であるかのように眺めていた。ほんの僅かの差だが、意識を変革するには十分である。

ヒカルは元々「旧来型」な訳だ。真っ黒な画面に緑色一色のフォントが表示されていた頃からだというから年季が違う。

戸惑っているのではないか、と思う。対応力がないというよりありすぎて、で、どうしたらいいかわからない。指針もない。iphoneからの投稿も多く、インスタグラムも順調だから問題は全く無いようにみえる。

しかし、どこにも長文を書かなくて、最近の若いファンたちは、ヒカルがどういう哲学を持って生きているかよく知らないのではとまた思ってしまう。ここ10年の、課題だ。

何を書いても炎上する。違いない。だからといってそれに屈するのかと煽られるのも違う。無料不定期のメルマガでもやってみる? メッセがヒカルから届くやつ。電子メールで。アナクロと言うしかない手法を敢えて用いる。ちょっと考えてしまった。

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『Forevermore』の「日本人に伝わりにくい魅力」とは、リズムセクションを主軸にしてメロディーラインが組み立てられている点だ。そういう"由来"に気がつかないと、「今度の宇多田は何でこんな歌なんだ?」となりかねない。

サビの『いつまでも いつまでも いつまでも そうよ』などは典型的な例だろう。ドラムスとベースの強いリズムによって符割りが決まっていて、なかなか自由に音符を動かせない中で見いだしたメロディーと歌詞である。逆からみれば、こんなにリズムにフィットする詞と節を充てられるとは、いやはや、天才っていいね、と。


つまり、リスナーがリズムにノっているか否かでこの曲の評価は全く違ってくる訳だ。無意識にでもリズムを"掴んで"いれば、ことばも声も生理的な快感のポイントを次々と突いてくる。リズムが頭に(いや、身体に、か?)無い場合は「どうしてそんなに何度も『いつまでも』って言うんだ?」とやけに冷めた目でみてしまうだろう。リズムを掴んだ隣の人は『いつまでも』と言われ足す度にどんどんグルーヴが加速していく感覚を共有していく。リズムあっての詞と節。リズムあっての歌。これはもう聴いて感じてうただくしかない。

ヒカルはリズムセクションから直接感情の機微を掬い取る事を得意としている。この直接さ故に、リズムとコードを繋ぎ合わせる役割をもつベースが"要らない"存在だった。しかし、ちょっと、例えば前作の『ともだち』あたりから変化の兆しがみえてきたか。リズムの持つ生理的快感と歌詞に歌われる主人公の切なさを歌の中に共存させたまま封じ込める。文章で書くと驚天動地な気がするが実際にトラックを聴くとサラリと形にしている。ふたたび、天才っていいな、と。

『Forevermore』もまた、リズムのもつ快感と、メロディーの齎す叙情の高揚感と、リリックの必然性が三位一体となっていっぺんに襲いかかってくる。切なさの盛り込み方のバリエーションがまた増えた印象だ。スネアに耳を傾けてソウルフルなラインをエモーショナルに歌うだけが切なさの表現ではないのだ、と。

かといって勿論本来のそういった"得意技"が下手になったのではない。寧ろ場面を厳選しているというか。『これだけは言える』のところの切なさの表出はまさに従来通りの持っていき方である。そこに至るまでのルートがどんと増えたという訳だ。凄い。これはもう三度び言うしかないな。天才って、いいわ。

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爽健美茶の時はバックコーラス分厚かったよなぁ、とリンクのチェックをしながら思うなど。

ライブでいつも気になるのは録音物の再生である。主にHikaruによるバックコーラスだ。『Fantome』では様子が変わっていたが、以前のヒカルはスタジオバージョンのバックコーラスを総て自分の声で録音して三宅Pと重ねていく生活を営んでいた。推定48トラックを12曲分全部自分の声で録音するとか気が遠くなる狂気の沙汰だが、お陰でソロ・アーティストによるサウンドとしての烙印をしっかり押す事が出来ていた。ライブで他人の声を使うとそのイメージを損なう。もっともな判断である。

しかし、原理主義的にいえば「それはライブと言えるのか」。録音物を再生していいのなら、何故そもそも生演奏をする必要があるのか。録音物の再生ならミスもないしバランスを考える必要もない(マルチトラックを再生するならこの限りではないが)。人件費もかからない。事実、アイドルや声優のライブでは生バンドを入れずカラオケを流してステージには歌い踊る主役たちのみというケースも多い。

宇多田ヒカルはロックバンドではなくソロアーティストだ。ライブに来る殆どはヒカルの生歌が聴ければよく、バックバンドが生演奏かどうかなんて考えない。バックコーラスも含めたマイナスワンのカラオケトラックを流してヒカルがステージに出てきて歌うだけで十分なように思う。

実際自分はウタユナの静岡公演でボロボロバラバラな演奏を目撃している。あの2回の公演に限っていえば、カラオケを流して貰っておけばよかったなぁ、と思った。生演奏はリスクそのものなのだ。生歌もだけど。

それだったら、あるかどうかもわからない生演奏のマジックなど待たずに、確実にカラオケを使って人件費も下げチケット代もお安くしてくれた方がいい、という人が出てきてもあんまり不思議ではない気がする。現実には人件費のかなりの割合がヒカルのギャランティだろうからそこまでの値下げは期待できないか。ウタユナんときは100人だか200人だか、スタッフの絶対数も多かったし。

生のバックバンドに生のバックコーラス。リスクだらけだ。ただ、録音のバックコーラスを使うのもリスクな気がする。私の場合、それだけでやや冷める面もある気がしているからだ。それを聴いた途端に「嗚呼、完全なライブじゃないんだ」とついつい思ってしまう。他にどれくらいそういう人が居るのだろう。ほんの僅かだろうかな。

ライブコンサートなんて楽しめればいい、難しい事をくよくよ考えるな、というならばそれまでだ。しかし、そう言う人でも、ヒカルが口パクしたら文句を言うのだからこれがまた難しい。今目の前で歌っていようがいまいが、音は鳴ってるんだからただ楽しめばいいのにね。人間そういう風には割り切れないのでした。この問題は大変根深い為、又いつか取り上げ直す事でしょう。いつになるやらですが。

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『大空で抱きしめて』は青空が夕暮れを経て夜空に飲み込まれる様を歌っているようなサウンドだから、立て続けに『テイク5』を響かせて夜空に包み込まれてしまうと実に具合がいい。ライブでは必ずやこの2曲がメドレーで歌われるだろう。とんでもない威力を発揮する事請け合いだ。

『テイク5』を聴いていると、先入観もあって自分はすぐさまアニメーション映画『銀河鉄道の夜』の幻想的な風景を思い浮かべる。ますむらひろしの猫によるジョバンニとカムパネルラだ(両名ともちゃんと予測変換できるのな…ATOKの中の人の趣味なのか…)。夜空と死の旅。この風景に導く『大空で抱きしめて』はさしずめ『天空の城ラピュタ』だろうか。両映画は制作時期も近いし、どこか自分の中でリンクしているのかもしれない。

逆に、『大空で抱きしめて』の方を『銀河鉄道の夜』の世界に引き込む事も出来る。ジョバンニとカムパネルラは恋仲ではないので(二次創作では知らないが、少なくとも宮沢賢治の原作ではね)そうそうキスはしないだろうが、カムパネルラを喪ったジョバンニが「また彼に会いたい」という感情に覆われる様を描いていると捉えれば寧ろ『テイク5』本体よりも『銀河鉄道の夜』らしい歌詞になりはしないか。

余談ついでにもっと脱線しようか。『夜のラピュタ』はちょっと見てみたかった。地下は確かに暗いが、星空の下の天空の城はどんな姿だったのか。そこを冒険したらどんなアニメーションになっていたのか。天空と夜というテーマは、好奇心をそそられ想像力をかきたてる。『大空で抱きしめて』の『大空』も、青空なのか曇り空なのか雨空なのか夜空なのか。雨の夜の真っ暗な空って怖さが別格なのよね。闇から雨が降ってくる。最後に『天翔る星』が出てくる前に、リスナーのイメージが夜空になっていたら、お互いにとって"成功"だろうな。勿論、でなくたって素晴らしい歌である事に変わりはないのだが。

ヒカルが親子3人でやっていた(?)U3にどれだけ思い入れがあるか、あったかはよくわからないが、『星』というメタファーが『夜の太陽』の一種だとすれば、デビュー曲『time will tell』から連綿と続く空と雨と雲と太陽の物語は、夜と宇宙をも飲み込んで広がり続ける事になる。SCv2のジャケットの時点で既にそれは示唆されていた訳で、はてさてこれからヒカルがこの物語をどちらに進めるか、歌を聴きつつ待つ事に致しましょうか。

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1日ずらして書いておくか。

母親の命日を毎年迎える、とはどんな気分なのだろう。人の子である以上そういう日々はやってくる。慣れるというか、それが日常の一部になる、のかな。普段から祈っているのなら逆に、そう特別な事でも、ないのかもしれない。

最近身近でその逆、「これから毎年母が娘の命日を迎える」事例があったばかりだ。それに較べれば、ぐっとこう、自然の流れの一部として、わかるかもしれない。

語るべき事は多くない。起こった事は起こった事で、今生きている人間が学ぶかどうかだ。まだヒカルの歌の歌詞には色濃く影が残る。これから消えていくのか、それとも益々濃くなるのか。もう暫くは見守る事に、しておくか。

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従来のヒカルの曲はベース・サウンドを全く重視していなかった、という話を以前した。音色上は重視していただろうが、編曲上は"最も突然無くなっても構わない楽器"第1位であり続けてきた。

結果論だがそのサウンドは「ベースを重視しない日本人の耳」に非常にフィットしたものとなった。ヒカルは別に「日本人はベース聴かないから抜いちゃえ」と意図してサウンドを作ってきた訳ではない。以前から指摘しているように、作曲のプロセスにおいてベースの出る幕が無かったからだ。

とすると、まず気になるのは『Forevermore』の曲作りのプロセスだ。なにゆえベースがこんなに強い楽曲となったのか。

『桜流し』もまた"珍しくベースの強い曲"だがこちらは明らかな推理が可能だ。共作者であるポール・カーターのインプットがあの特徴的なベースラインだったと解釈すれば、それ以外のパートはまさに"宇多田ヒカル"であった。今のところ、『Forevermore』の楽曲に関しては共作者が在ったという情報はない。ヒカル単独の作曲である。

これには、正直違和感が拭えないのだ。前に触れた通り『Forevermore』はバンドで作ったような曲構成で、ジャム・セッションから生まれたような自然さを感じる。特にギターは"作曲"というより聞こえてきたフレーズにフィーリングで反応して弾いているようにみえる。

こういった楽曲は、例えば作曲は単独名義でも編曲がバンド名義だったり、或いは真逆に作曲をバンド名義にし編曲を責任者が、という例もある。そういったクレジットが後出しで出てくるかどうかだ。まぁ、わからんわな。

勿論あのベースラインもギターのオブリガードもヒカルが楽譜に書いて演奏者に渡した可能性はある。ならばクレジットも単独で何ら問題はないのだ。がしかし、ベースラインばかりいつも聴いている身としては「初めて本格的にベースラインを書いた割にサマになりすぎている」のが気にかかる…いや、気に入らない(笑)。こんなにうまくていいものか。ベーシストでもないのにさ。

何より、リスキーなのだ。ベース中心の曲は日本人にウケにくい。そんな歌を、よりによって地上波テレビドラマの主題歌という"最も日本人に聴かれる"場所に使ってきた。番組の視聴率からすると、毎週一千万人がこの歌を聴いている。そこにここまでチャレンジングな楽曲を持ってくる。有り体に言って「考えられない」。

しかし評判は上々のようで、またもドラマの後にはiTunes Storeチャートで3位にまで返り咲いている。瞬間風速の順位にどこまで意味があるかわからないが、徐々にこの曲のよさが浸透しているのは間違いない。もっとも、長年のファンからすればドラマの視聴率・ダウンロード数ともども「もっとスケールの大きい話」になって欲しいと、思ってしまうのかもしれないが。視聴率30%のミリオン・セラー&年間総合1位だもんねぇ…。

兎にも角にも『Forevermore』はチャレンジングだ。次回は更にその"日本人には伝わりにくい魅力"についてもうちょっと触れてみたい。



独り言:命日を【今日は何の日】に組み入れる否か、悩んだまま四年が過ぎたのか…来年もきっと悩んでる。

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