無意識日記
宇多田光 word:i_
 



UtaDAでポシャった企画の中で、確か"Voice Mail"というのがあった。英文メッセの中で一度触れられたきりだが、2ndの頃にはもう普通に個人撮影動画をUploadして皆が閲覧できるようになっていたから、今や"Voice Mail"というのも有り難みが薄い。別にUTUBEに音声のみの動画をUPしたって構わない訳だ。

UTUBEには既に、J-Wave出演時の動画が前後半存在する訳だが、これ今後も継続して似たような事が出来るのだろうか? この時は基本的に、六本木けやき坂スタジオ周辺まで行けばこの映像を大画面で観られた訳で、最初から撮影ありきの出演だった。光もそれなりの格好をしていた。

でも別に、これも動画が存在しないならしないで何ら困らない気がする。いやそりゃあった方が嬉しいけどさ。これからのラジオ出演音源、可能なら全部UTUBEにアーカイブしとけばいいのではないか。ラジオ局としては、1日10万ヒットを誇るUTUBEにリンクを張れるのはいい宣伝になると思うのだが。J-waveが出来たのだから、他のケースでも出来ない筈がない。

更に、UTUBEには最強の動画、クマちゃんの会社訪問がある。UtaDAが髪を洗ってるだけの動画をUPしていたが、同じようにこれからも企画動画やさりげないワンショットなど気軽にUPしていってはどうだろう。

ついでに、といっちゃなんだが過去にEMIのサイトに置いてあった動画もこちらに置いてしまえばいいと思う。オレンジタートルネックなどはすぐ出来るだろう。期待したいのは、Be My LastやPassion、Boulevard Of Broken Dreamsなどをフィーチャした配信動画の"完全版"のUPだが、流石にこれは色々難しいか。

冒頭に触れたVoice Mailのように、Webの世界では今できる事は今やらないと技術はあっという間に入れ替わっていってしまう。20代はイケイケ!!も2003年初頭という時期に実行したからインパクトがある訳で、今やってもよくあるUSTのひとつに過ぎない。いや、やってくれたら勿論嬉しいんですけどね。世間様へのインパクトの話でござる。

振り返れば、曲やツアーのBlogやTwitterへの参加など、常にここというタイミングで計画され実行に移されてきた。これはWeb参謀(船長か)の梶さんの手腕による所が大きい。彼が常にタイミングを逃さずに種々のWebツールを援用してきたから我々は目一杯楽しむ事が出来たのである

ならば、この人間活動期間中にもWebツールは様々開発されていくだろうから、コンテンツ自体は過去のものでも見せ方、提示方法をアップデートすればまだまだ隠れた需要が掘り起こせるのではないか。正直、UTUBE30動画の再生回数推移がこんなに興味深いものになるとは、私の場合浅はかにも想定できていなかった。やはり、やってみるもんである。

今回出した提案めいたものは、思いつきというか願望を述べたものに過ぎない。しかし、UTUBEはまだまだ活用の幅が広がる筈である。開設1周年に合わせて、何か(古くて?)新しい企画を仕掛けてみるのも、悪くはないんじゃないかと思うんだけどどうなんでしょうEMI&U3の皆々様方?

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UTUBEの話、Twitterで呟いただけでこちらに書くのを忘れていた。備忘録の為記しておく。

29日土曜日づけでKeep Tryin'2が100万回再生を突破、これが100万回再生19曲目である。このあと年内は100万回再生になる新しい曲があるかは微妙な情勢だが、1年足らずでこれだけの曲がこれだけ聴かれているとは何とも感激である。

そして、30日日曜日をもってそのUTUBE全30動画の総合計再生回数が4500万回を突破した。このペースで行くと年内には5000万回に到達する見込みだ。

世界は広く、たった1曲で何億回と再生されているケースもあるのだが、UTUBEの場合既に再生比率は安定期に入っており、特に新しい話題がある訳ではない。どの曲もスタンダードナンバーとして愛されていてのこの数字である。

暫くはヒカルの新曲もないだろうから、この定常状態は暫く続くであろう。新曲がリリースされれば、その時に既存曲の再生回数が増えるのか減るのかも注目である。

定常的にヒカルの歌を聴きたがっている人が新曲に出会う、というのが主なら新曲が回数を稼いだ分、他の曲は減るだろう。新曲の話題性が高い場合、全体のアクセス数が増えて既存曲の再生回数は横ばい、或いは微増するだろう。

そして、新曲効果が薄れていった時に、既存曲の再生回数が元に戻るか、増えるか、減るかというのにも注目したい。減る、というのは全体のニーズの総量が変化ないのに新曲が増えた分、1曲々々の割当が目減りする、というケースである。

つまり、UTUBEの再生回数によって、新曲は自身の人気だけではなく、それによって宇多田ヒカルというアーティストに対するファンをどれだけ増やしたか、或いは影響がなかったかをある程度測れるようになる訳である。

勿論、新曲の浸透する媒体や年齢層によっては、Youtubeへのアクセス割合は多少変動するだろうから絶対数はあまりアテにならないだろうが、相対的・総体的な変化の傾向くらいは把握できるのではないかと踏んでいる。

しかしそれも、あクマで次の新曲のPVが作られ、且つそれがUTUBEで公開される事を前提としている。日本ではなかなかお目にかかれない超太っ腹なサービス故何があって運営停止になるかもわからない。

出来れば、ファンとしては、どうせ出るコンテンツは殆ど総て購入するのだからUTUBEは是非存続して欲しいと願う訳だが、こればっかりは復帰時の通信環境の進化変化に依存するだろうから、現時点では毎日の再生回数の推移を見守りながら、まったりと映像の数々を楽しませてもらう事と致します。

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以前指摘したように、ヒカルのレパートリーには2つ以上のバージョンを持つ曲が結構ある。LIVEで問題になるのは、どちらを今宵歌えばよいか、だ。

EternallyとEternally -Drama Mix-なら、正直どちらでもいい。あのハミングを差し挟んだから今日はDMの方だった、とか結構楽しいし、「今宵はどちらだろう」とLIVEを複数公演観る楽しみも増える。

これが、DISTANCEかFINAL DISTANCEかとなるといきなり論争の的になる。元々爽やかな切なさが売りだったDISTANCEにひきかえ、FDの方は大仰なまでに感動的な所が持ち味だから、全くテイストが異なる。ひとつのツアーで両方どちらかを交互に演奏するような事も難しいだろう。特徴が違いすぎる為、他の楽曲とのバランスが変化し、結果セットリスト全体の構成を再考せざるをえなくなる。なので現実的には一回のツアーでは片方に決めるしかないのだが、そうするともう片方のバージョンを聴きたかった人の落胆はハンパない。考えるのが辛かったのか、D&FDはどちらもWild Lifeでは演奏されなかった。他にも名曲は山ほどあるし、そういう夜もあっていいだろう。いやまぁ何度もLIVEを見れてるから言える贅沢かもしれんけどさ。

Passion&Sanctuaryの場合は、もっと事情は複雑なのだが、今の所ファンの期待を裏切っていない。ばかりか毎度サプライズを提供してこちらの(跳ね上がり切り捲った)期待のハードルを大きく超えてくる。いやまぁ素晴らしい。

after the battle(or Ending)を一度LIVEで聴いてみたいが、楽曲の構成上&性質上、タイトルコールなしで歌い始めた場合もし静かに始まっても歌があるうちにドラムが入ってくるだろう、と皆が期待してしまう為ピアノねみで歌いきってインストパートに突入する構成は些か拍子抜けかもしれない。予めafter the battle(or Ending)なんだとわかっていればいいのだが…。

という訳で提案である。過去3回のコンサート(ツアー)でいずれもLIVE独自の構成で生まれ変わってきたPassion、次はafter the Battleをフィーチャーしよう。ただスタジオバージョンをなぞるのではない。まずOpening Versionで中間部まで突っ走る。そしてそこを超えた所の歌メロの所でバンドを抜いてピアノのみになりafter the battleモードに入るのだ。そしてそこを歌いきったあとあのインストパートに突入し、カエルを踏んづけたようなサウンドを堪能、この間にヒカルはお色直しをしてコンサートの後半スタートに備えればよい。UU06では1曲目、WLでは本編後半スタートの曲だったPassionを、今度は本編前半ラストに配するのだ。結構ドラマティックだと思うのだが如何だろうか。05以上06未満の最後みたいな雰囲気である。懐かしいな。

他にも、Flavor Of LifeのオリジナルバージョンはいつかLIVEで演奏されるのか、とかPoLQVをフルストリングスで、という話なんかもあるんだがこれ以上だと長くなりすぎるので今宵はこの辺でちゃお~☆

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昨年TBS系列でアニメ化された漫画作品「それでも町は廻っている」の作者、石黒正数による短編集「外天楼」が頗る面白い。amazonのレビューでも目下18人全員が5つ星だ。是非一読をお薦めしたい。

…のだが、この作品、困った事にどう書評を書いても作品の魅力を損なってしまうのだ。(なので買って読む気があるのならAmazon等各書評は事前には一切目を通さない方がいい。一切、だ)。だからどこがどういいとかこちらから今書く事が出来ない。こういうBlogをやっているような人間泣かせな漫画である。なお全一巻で完結、\735です。

漫画作品の場合、大抵は一回読んで終わりなので、そういった未読者に対する気遣いは避けられないが、音楽の場合、ある程度は何回か味わい直す媒体なのであんまりそういう事は気にせずにレビューするものだ。

勿論、未聴者がレビューを事前に読みたくない意志は尊重するものの、基本的に音楽は聴いてみないとわからない、というか聴くという体験自体が重要で、文章による事前知識の有無に左右される事は少ない。

漫画の場合は、話の概要や喋り言葉など、字にして伝えられる事が多い。というか、小説に挿し絵が入り、挿し絵が増え、文章より挿し絵の割合が多くなり、果ては文章が吹き出しの中に押し込まれ絵が主体となったものが漫画だとすれば、小説と漫画は地続き(字続き?)であるともいえる。

音楽は、どこかで音を鳴らさないと始まらない。もし文章で何か魅力を侵すような事が出来るとすれば、それはレビューに歌詞を書いてしまう事か。その部分においては歌は小説、或いは文学とも繋がっているとはいえる。

という訳で、事前にレビューを読みたい、読んでもいい、という人に向けて毎度宇多田ヒカルとUtaDAの新曲の感想をすぐさま書いてUPしてきてはいるのだが(まぁ近年はすぐに公式でサンプルが配信されるので全くの未聴でレビューを読むタイミングなんて半日もないのだけれどな)、それでもやはり、外天楼ほどではないとはいえ、レビューを事前に読む事で曲を聴いた時の感動を殺いでしまう事は有り得るし、そんな事はしたくない。ただ感動を共有したいだけなのだからね。

その為、こう見えても、なるべく最初の感想は大袈裟にならないように、とは思っているのだ。あんまりにも美辞麗句を並べ立て、「そんなに凄いのか」と事前に不自然に無意識にハードルをあげられるのは本意ではない。

しかし、何度か例外というか、どうしようもない時があって、その代表例がPrisoner Of Love EP だった。あれは、読んだ人に「どんな凄まじい事になっているんだ」とハードルを上げさせざるを得ない、非常に興奮状態のまま書かれてUPされたものなので、その点については後悔しているのだが、それ以上に、「このこと」を書き留めて世に曝しておきたいと強く思ってしまっていたのだ。義務感に近い感情だった。そしてしばしば、義務感や使命感に基づいて執り行われた行動は周囲に対し甚だ傍迷惑となる。果たしてあの時もそうだった。

しかし、とはいえ、これからも同じような事は起こると予め申し伝えておきたい。何か凄い作品に出会った時は、何かしらの強い感情に支配されて、抗い難い。宇多田光の作品のその強さが、私をいつもそう仕向けるのである。なんだ、責任転嫁か。すいません。

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という訳で、"負けず嫌い"の話。

見ればすぐわかるが、これは日本語として破綻している。負けるのが嫌いなら"負け嫌い"が正しい。否定の"ず"が来ているのだからそのまま解釈すれば"負けないのが"嫌いと反対の意味になってしまう。

他にも"負けずに嫌っている"という解釈も出来なくはない。勝負自体を避けて、それで嫌っているという意味だ。若干意味不明だが意味が通らない事はない。しかしやはり苦しい。

こんな間違いが起きた理由は至極単純、十中八九"食わず嫌い"との混用だろうと考えられる。こちらは文字通り"食った事もないのに嫌っている"意。音のリズムがこちらの方がよいから広まった。そんなもんである。

でもま、人は元が合成語だとしてもいったん単一の単語として流通してしまえば言葉の構成なんて頓着しなくなる。"マケズギライ"という新しいワン・ワードが"負けるのが嫌い"の意味だと覚えてしまえば、不自由はない。

宇多田ヒカルは、その"マケズギライ"そのものな人であり、それを率直に歌ったのがFight The Bluesだ。『I hate to lose』 ってまさかヒカルの歌詞に『hate』って語が出てくるなんて吃驚した。で何がhateって戦争とか殺人とか理不尽とか貴腐人とかでなく"to lose"、負けることである。総てを差し置いて忌み嫌い憎むべきは敗北なのだ。どんだけマケズギライやねん。

その前段、"こらえた涙はぼくの一部"とある。一言でいえばこれはがしんしょうたんである(なんで変換がないんだめっちゃマヌケな字面やわ)。

以前、1番の歌詞『流した涙は僕の自由』について解説した事があった。ここでいう"自由"とは。和英辞書で自由を引いてみるとFreedomともうひとつ、Libertyがある。FTBでの自由はこのLibertyの事で、要は流した涙は僕の感情の解放の象徴なのだ。

では逆に。流さずにこらえた涙はどう解釈すべきか。こちらは存外単純で、飲み込んだ涙はそのまま次への糧となるのだ。"いい経験をしたね"という訳である。涙を呑む、というからには何か悔しい事があったはずで、でもそこで泣き崩れて敗北を認めてしまうよりこれを糧に研鑽を積み捲土重来(こっちは変換あんのかい!)を期す、というのがこの一文の真意である。ならば次に『I hate to lose』とくるのも自然であろう。

更に次は『鳴かぬなら鳴かせてみよう時鳥』とくる。がしんしょうたんとほととぎすだったらどっちが難しいだろう…という疑問はさておき、ってなんか悔しいから自力で出しとこう。薪に臥せて胆嚢を嘗める…ってちゃんと全部あるじゃんか…臥薪嘗胆ね。

話が逸れた。時鳥だ。これは、今の現状は思うようにならなくて涙を呑む日々だけど負けっ放しはチョー嫌だから何とか工夫して最終的には勝って笑ってやるぜ笑う門には服着たるんだぜ!いや待て今まで裸だったんかい!(お約束)

まぁ、確かにリングにあがってたんならパンツ一丁だから裸みたいなもんか。そして勝利の凱歌をあげて漸くガウンを羽織る。なんだ、着たるで合ってんじゃん。今度からこれでいこう。

だからってFTBを「あしたのジョー」の主題歌には推薦しませんけどねー。


話が本当ににとっちらかってきたので今晩はこの辺であでゅー☆

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そしてEclipseの登場だ。2時間の本編の、まぁ大体中間地点で、衣装替えや、休憩や、バンドのセッティングなど舞台裏でやるべき事が多い中、舞台上では3人の鍵盤卓の魔術師たちが即興を繰り広げる。

全編はスタジオバージョンより大幅にストレッチされ、中盤にはWINGSの後半でも鳴っていたトーキング系のサンプリング音まで飛び出す。曲が長くなっているのは、上記のように時間を稼ぐ必要があった事もあるが、ヒカルのアルバムのラスト付近でお馴染みのインタールードとは大きく役割が異なる事も、またひとつにあるだろう。

アルバムでのヒカルのインタールードは、大団円のラストをこれからいよいよ迎えます、という意図で配されている。「さぁ、あと一曲で終わりだよ、深呼吸して。」というあの感じ。ならば聴き手が"一息つける"程度の長さが望ましい。イントロダクションに近い役割である。

一方、Wild LifeでのEclipseの立ち位置は中間地点。此方から訪れ、彼方へと赴く揺蕩いと微睡みと淀みの時間帯だ。ここで重要なのは、全体の流れを掴み整え誂え乗りこなす設いの時間幅である。固唾を呑んで演奏を見守り続ける事で次への展望が拓けてくるあの感じ。果たして直後には、装いを新たにしたヒカルがUtada United同様地中からせり上がってPassionを歌い始めた。前回同様蝕から日の出のように生まれ変わるモチーフを用いる事で、今度は"後半スタート"を演出したのである。

Wild Life全体としてのオープニングはGoodbye Happinessで、こちらは上空から光が舞い降りる演出となっており、下からせり上がるPassionと丁度対を形成している。イントロダクションの映像でも、宇宙から不時着して地上に降り立ったギガントが正体を表す所までいくので、それに準じた構成なのだが、日蝕もまた宇宙空間と大空を舞台としたイベントである事を鑑みれば、両者が収録されているSingle Collection Vol.2のジャケットが宇宙である事は示唆的である。

照明面でも、赤暗いトーンを主体としたEclipseから目映く白い光を射すPassionへの転換は見事であった。あらゆる面からコンセプチュアルに考え抜かれて、Eclipse&PassionはWild Lifeセットリストの"中心"に座しているのである。

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そしてSAKURAドロップスである。一気呵成に畳み掛ける最初の4曲からじっくりしっとり聴かせる4曲への流れを締めくくる、いわば前半のトリを飾る曲だ。

私は(またも)この曲を侮っていたようで、UTUBEの累積再生回数はGBHPoLFoLFLトラベカラーズに次いで第7位だが、これ即ちAutomaticより上な訳で、恐れ入った。

更に今秋のデイリーに限っていえばトラベカラーズの上を行き、日によってはFoLが目と鼻の先まで近づく程の再生回数を獲得して目下第5位である。確かに、3rdアルバムのオープニングを飾る重要な位置付けではあるが、「宇多田ヒカルの人気曲TOP5は何?」と訊かれて私はSAKURAドロップスを入れる事はしない。いや全くまだまだ不見識であった。

Wild Lifeでも、あのピアノのイントロが流れた時一部で悲鳴が上がった。宇多田ライブで悲鳴があがるとなればFirst Loveと相場は決まっているのだが、やはり桜もまた特別な曲であるようだ。

UTADA UNITED 2006では結構散々な出来で、アカペラで歌い出しておきながらバンドとキーが合ってなかったとか信じられないミスまで披露した楽曲なのだが、In The Fleshからは弾き語りスタイルを採用、これが奏功している。

この静かなアレンジの中では、オリジナルで聴けるようなメリハリある歌い回しより、どこかけだるいというか、穏やかに落ち着いた節回しがよく似合う。歌い方としては、一部母音を変化させるなどして抑揚の深い節回しを滑らかに歌うよう試みたり、技巧上大変興味深いアプローチが多い。

その節回しからの流れで、徐々に後半にいくに従い熱を帯びてくる歌唱は、じわじわと高音部にも手が届くようになり、落ち着いた穏やかさのみならずオリジナルバージョンで得られたカタルシスもしっかり提供してくれる。

LIVEで桜を歌う場合、どういった要素を勘案し、何が現実的なアプローチたり得るかを熟考した跡が如実に判る、工夫に富んだバージョンだ。

座ってピアノを弾き語る、というアピアランス自体も演出の一環だ。別に鍵盤を弾ける人は他にも居るのだから、愛のアンセムに引き続いて直立で歌ってもよかったようなものだが、こうやって座る事によって聴き手の意識と目線を下げさせ、このバージョンに漂う物憂げな表情をすんなりと納得させる。オリジナルからのメロディーの変化を、如何に自然なものとして聴かせるか、細心の注意が払われているのである。

現場で見ていると、円形の舞台が暗闇の中に浮かび上がり、それはそれは幻想的な風景だった。虚空はどこまでも、SC2のジャケットのように宇宙にまで続いていき、恐らくPVの先入観もあるのだろうが、涅槃にも届こうかという広がりを見せていた。

基本的なメロディーラインや編曲構成は大体同じなのに、ここがIn The Fleshと大きく異なる点である。彼の地では、すぐ目の前に居る光が暗闇の中手のうちに淡く輝く仄かな光を大切に育み昇華させ言霊としてこちらに渡してくれているような、そんな親密さを感じさせた。"舞台"が浮き上がって隔世感を出していた横浜アリーナとは全く真逆である。同じサウンドでも、それを響かせる空間の大きさ小ささで印象がガラリと変わる。やはりLIVEはその場に行く事で感じる事があるのだ。まだ行けていない方も、諦めずにまた機会を伺い、宇多田ヒカルのコンサート会場に足を運んで欲しい。見たこともない色の桜が、一晩限り咲き誇っているのを、その眼で見られるのかもしれないのだから。

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Wild Life、愛のアンセムもまたピアノバラードだった。スタジオバージョンのジャズ・サウンドをそのまま再現するには、楽器も人も専門を用意せねばならず、物理的に無理だった、というのも大きいだろうし、セットリスト全体の中でもっと聴かせるバラードを増やしたいというのもあっただろう。

この間もAnother Wild Lifeのセットリストを考えていた時に感じていたのだが、ヒカルのレパートリーには、その絶品の歌唱力をじっくり堪能できる曲は寧ろ少ない。本人に歌唱力を見せつけようという意識がサラサラないからだろうが、LIVEとなると曲はもとよりヒカルの生の歌唱力にも期待して聴衆は集まってくる訳で、そうなるとセットリストはアルバム構成とはまた違ったバランス感覚を植え込まなければならなくなってくる。

そういった事情から愛のアンセムはピアノバラードとして誂え直されたと思われるのだが、果たしてその結果は頗る好評だったようだ。

元々、ジャズ・バージョンは無理矢理といってもいい位にSpainのサウンドをシャンソンに当てはめたものだった。その為、コード進行は歌に対して綱渡り気味になっている。

一方、ピアノバラードでは余計な事など考えず歌とピッタリくるコードを当てる事が出来たので、メロディー全体の流れが聴き手にすっと入ってきやすかった。そういえば愛の賛歌ってこういう曲だったよねと改めて思い直した向きもきっと多かった事だろう。

当然、そのコード進行に合わせて歌う方も格段に気楽だ。妙な音の組み合わせで流れを見失う虞もない。

斯くして、Wild Lifeでの愛のアンセムはヒカルの伸び伸びとした歌唱によって素晴らしいパフォーマンスに結実したといえる。"工夫のない、ただのカバー"にする(戻す)事によって、歌手としての役割に徹する事が出来たのだ。

また、この曲の歌唱の技術的なハードルの低さによって、如何に普段のヒカル作曲の歌たちが"difficult to sing"なのかがよく伝わってくる。次のSAKURAドロップスの時の集中力の表情は愛のアンセムとはまるで違った険しいものだ。変な言い方になるが、この曲をここに配する事によってヒカルはうまく中休みをとれたのではないだろうか。

度々、こういう機会を設ける事は重要である。ヒカルの歌唱力には時折疑義が投げかけられるが、普通の歌を唄う場合にはやはり抜群に上手い。本人に技術をひけらかす意識が皆無なのだからそういった疑義を差し挟まれる事もある程度は織り込み済みだろうが、そういった認識を氷解させただろう事においても、愛のアンセムをこのバージョンで披露した事は大正解・大成功だったと思う次第だ。

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「あざといもの」が最近好きである。「これこれこういうのだったら気に入るんだよね?」というノリで狙って作ったもの。昔は狙って狙い通りの効果を上げてどや顔されるのが鼻についたものなのだが、今は素直に作り手の狙いにハマる事が心地よく、抵抗せずに楽しめるようになっている。歳とったのかな~。それとも、昔が力みすぎていたのか。

ウチの携帯プレーヤー君の今年の再生回数1位は目下嵐の女神、そして極僅差で2位がCan't Wait 'Til Christmasだ。これからの季節、CWTCの再生回数が益々増えるだろう事を考えると、2年連続でウチの再生回数No.1はCWTCになりそうだ。ホントこの歌が好きなんだねぇ私。

この曲、光本人が"カマトトぶった"と公言するように、はっきり言ってわざとらしい。冬場にこういうピアノでこういうメロディーをこういう風に歌ったらみんなこんな反応をするだろうな、という展開がよくよくみえる、予想のつく楽曲である。ヒカルにしては珍しいかもしれないが、Popsとしての手法はありきたりで、何のスリルもない。

一昔前だったら、私は今みたいにこの歌を素直に楽しめていなかったかもしれない。宇多田ヒカルといえば突き刺さるようなEmotionをぶつけてくる曲、むびのんや中毒やForYouやビマラのようなのをシングルにしてくるチャレンジングなアーティストなんだから、聴いたらみんなが喜ぶのがわかりきってる曲をわざわざ作って歌うなよ、と。

なぜ、そういった、狙いすました、あざとさを感じさせる作風を忌避していたかといえば、そこに成長の契機がないからだ。想定して想定通りのものを作るその実力が既に担保されているのだから、ある意味当たり前の結果であってスリルがない。そういう風に考えていた。

今は、目の前にあるメロディーが美しいならそれはそれでいいじゃないかと思うようになった。確かに、ずっとそんな事を続けてれば何の発展も生まれなさそうだし、飽きて衰えていく事すら必定かもしれないけれど、今、いい歌が生まれたのだから余計な事を考えずに祝福しよう。そんな気分。

はて、妙な既視感を感じたな、と思ったら、なるほど、この歌の歌詞はそういう事を歌っているのである。

『人はなぜ明日を追いかける? 大切な人を大切にする それだけでいいんです』

未来に保証を求めず"今"の煌めきを目一杯浴びていた"光"と同じ人生観は、変わらず光を貫いている。いつのまにか、私もそれに影響されてしまったのかもしれない。過去に囚われ過ぎず、未来を徒に不安がる事もなく、今の煌めきを大切にしよう。そういう見方が出来るようになれば、CWTCに感じるあざとさ(といってもほんの少しだけどね)も愛せるようになる。そしてなるほど、掛け値なしに、美しく可愛らしいメロディーである。いいこいいこ。

光が自分のパーソナリティを前面に押し出した曲より、一歩引いた作風の方が一般的なウケはいい。Flavor Of Life Ballad Versionはその代表例だが、私のような毎日こんなBlogを書いている人間が、マニアックでパーソナルな楽曲ではなく、浅く広く受け入れられやすいCWTCを好んで聴いているというのは、外から眺めたら少々滑稽だろうな、と些か愉快な気分になってくる。なんか一周まわってあらためてPop Singer宇多田ヒカルのファンになりなおしたみたいな。勿論宇多田光さんが大好きで愛してる事に微塵も変わりはありませんけどね。

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Wild Lifeでは前半にストリングスパートとしてCOLORSとLettersが配されている。全体の構成の中での静と動のバランス、そして年間何位というクラスの特大ヒット曲をどう組み込むかといった課題に対する返答としてのアプローチだろう。

元々、両曲とも初お披露目のヒカルの5ではオリジナルスタジオバージョンに準拠した演奏であった。

COLORSに関しては、更にその前、2003年1月19日の20代はイケイケ!でストリングスバージョンで歌っており、またウタユナでも弦との共演で見事な歌唱で魅了してくれたのでこちらは期待通りだったと言っていいか。

Lettersに関しては、ウタユナでは後ろの映像に気をとられて歌唱や演奏がなかなか話題にのぼらなかったが、比較的オーソドックスなアプローチだった。ヒカルがライブでの歌唱を楽しみにしている楽曲という事で、両A面ではあるものの、キャンシーやリスクといった大ヒット曲を押しのけての連続の登場である。なお、In The Fleshでは歌わなかった。

上記のような流れから導き出された今回のWild Lifeバージョン、これ自体は素晴らしいと思う。しかし、この、後半リズムが入ってきて演奏にどんどん熱を帯びてくる演出を施しているにもかかわらず後半部をストレッチする事もなく、かといってもっと勢いのある他の楽曲に繋げる事もなく演奏終了しMCに入ったのは些か拍子抜けだった。

前半なので爆発させるにはまだ早い、という判断もあったのだろう。また或いは、直前になって曲順が変更された、というのもあるかもしれない。ただ、恐らくそういった感想を私にもたせた一番の要因は、こちらの先入観であろう。

元々Lettersは、ライブで疾風のように盛り上がって駆け抜けていく印象が強かった。いつも聴く度にあんまりライブレポートで書く事がない、ただただその場で楽しい曲だった。それが今回、じっくりと聴かせるスタイルになった事でそのイメージとのギャップが生じた。物足りない、拍子抜けといった感想は、元を辿ればそういった所に行き着くだろう。

全体の構成とは、聴衆にとってはあとから振り返った時にみえてくるものだ。渦中に居る時にはその瞬間々々の流れに翻弄されるだけ。そう考えると、強いリズムで聴かせる本来のLettersを改変させて初披露する場合は、COLORSをゆったりと聴かせた後よりも寧ろ、オリジナルLettersに近い盛り上がり方をした直後なんかのポジションがよかったかもしれない、と思うのだった。それこそ、スタジオバージョンのCOLORSとかね。

でも、そう私が言えるのも、こうやってコンサートを丸ごと体験して時間が経って全体を俯瞰で見渡せるようになったからであって、その時に、その前に気がつくのは容易ではないだろう。

そもそも、「いやこの流れが最高だ」という意見も勿論あるわけで、あクマで今日の時点で今の私がそう感じているという事でしか、ないのですがね。

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最初にCOLORSを聴いた時、「あれ、このキーボードどこかで聴いた事があるな」と思った。歌メロも同じく、「あれ、ありがちなメロディーだな」と思った。そして、この異趣の2つを重ね合わせた事がこの曲のオリジナリティだと考えた。

あれから9年近くが経とうとしているが、未だに似たキーボードの曲に出会い直した事はないし、ありがちだと思った歌メロに似た歌に再会した事もない。COLORSのアイデアは、徹頭徹尾オリジナルだったのだ。

では最初、なぜ私はこの歌を、このフレーズを、このメロディーを聴いた事があると感じたのだろう。これは、この曲に限らない普遍的な問いである。

スティーヴ・ハリスが曲作りの際に最も気にしている事は、書いた曲が既存のアイデアを含んでいないかどうかだ。奥野記者がWhere The Wild Wind Blowsが素晴らしいと絶賛した際「どこかで聴いた事のあるメロディーだ」と一言付け加えたら「それはなんという曲だ」とハリス御大は食ってかかった。記者が「いや具体的にどの曲という事はない。(ケルト風のメロディーを聞いて)ただそう感じただけだ」と返すと御大はいたく安堵した。あんた大御所なんだからそんなに焦らなくてもいいのに、と。

ポール・マッカートニーはある朝起きたらあるメロディーを口遊んでいた。あまりにもスムーズにメロディーが出てくるので最初は既存の曲ではないかと疑った程だったのだが誰に聞かせてもそんな曲は知らないという。スクランブル・エッグを作るような手軽さで、かの名曲"Yesterday"は生まれたのだった。

あらゆる事が示唆的である。美し過ぎるメロディーは、あまりにもそれが自信に溢れ神々しい為か、なんだかずっとそこにあったような、昔から知っているような気がしてくるのである。奥野記者もマッカートニー卿も、曲のメロディーがあまりにも自然な為「既にこの曲はどこかに存在していて、私はそれを知っている」と思ってしまうのだ。そして、その元となる曲を仮に探し始めたとしても、いつまでも見つからないだろう。私がこの9年、COLORSに似た曲を見つけられなかったように。

何故我々は、初めて出会う曲を"知っている"と、"聴いた事がある"とすら思うのだろう。わからない。

ひとつ言えるのは、COLORSも、Where The Wild Wind Blowsも、Yesterdayも、メロディー自体がとても美しい事である。

こういう場合、逆から考えるのがセオリーだ。美しさとは、我々の心の奥深くにいつも眠っていて、際立った作品だけが、それを目覚めさせる事が出来る、美しいとはそういう事だ、と言い換えてしまおうか。

しっくり来ない。それが間違いだとも思わないが、説明の全部だとも思わない。

もう一歩踏み込もう。美しいとは、知っているという感覚の一部である、と。Feeling Of Knowingと美意識、美的感覚は同じもの、同じ源をもつものである、と。そう考える。

まだまだ、しっくり来ない。根拠がなさすぎる。昔、懐かしさを感じるメロディーは、実際にそのメロディーを知っているという訳ではなく、メロディー自体が「"懐かしい"という感覚」を表現しているのだ、と説いた事がある。メロディーが喜びや悲しさといった感情を表現するのと同じように、懐かしさという感情もまたメロディーで表現する事が出来るのだと。

恐らく、事態はこれに近い。しかし、懐かしいというどこか茫洋とした感覚と、"知っている"という確信に満ちた感覚の間には、まだまだ隔たりがある気がする。なんだか、道は遠い。


また考える事にしよう。10年や20年で、この問いに答えられるとは思えない。

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宇多田ヒカルというブランドは、周囲から売れる事を期待されている、と何度か書いてきた。

異常なのはこの「周囲」の範囲の広さである。EMIやファンが売れるのを望むだけなら普通だが、他のレコード会社やそこに所属するアーティスト、更には普段邦楽業界から無関係な人間にまで「宇多田は売れている方が据わりがいい」と(半ば無意識的に)思われている。要はライバルに嫉妬されるという状況が皆無なのだ。

これは、理由が至極単純で、実力が図抜けているからだ。作曲家も歌手もその才能には脱帽せざるを得ない。そもそも勝負にならないと思っているのだ。だからおしなべて尊敬されている。そんな最上級のアーティストが、自分より売上が下だったらやりづらいったらありゃしないのである。ヒカルは誰よりも売れる事で、そういう据わりの悪さを解消する事が出来る。その為、ヒカルが売れる事は業界全体にとって望ましい。

10年前に浜崎あゆみと同日発売になった時もそうだった。宇多田に勝ちたいとは勿論思ってはいただろうが、構図としては完全に宇多田の発売日に浜崎をぶつけてきた感じだった。宇多田がバカ売れして初めて乗っかる方も安心して挑む事が出来る。構図を維持する為にまず必要な条件はそれだったのだ。

既に世代交代が進んでいる事やアイドルの隆盛などで既にヒカルが年間一位をとる事もなくなってきている。人間活動後もこの流れは変わらないだろう。しかし、ヒカルの実力は落ちそうにない。作曲力も歌唱力も、現状維持で既に誰も太刀打ちできない。そうなった時の"ねじれ"に対して、皆の感じる据わりの悪さ、気まずさはどうなっている事やら。

大抵、普通はレジェンドクラスのミュージシャンは新譜が大して売れなくてもツアーの動員数で威光をみせつけるものだがヒカルはそういう路線にはきていない。

何より、今までだって本人がそういう"大御所感"を嫌ってきていた風がある。

とはいえ、孤高なクリエイターとして業界の中に独自な地位を築き「あの人の世界」を構築して別格視される、という路線にも足を踏み入れない。楽曲にしろプロモーションにしろ、なぜかメインストリームで消化されるポジションをとってしまうからだ。

こういう感じでみてみると、今の宇多田ヒカルブランドの凄さみたいなもんを次の世代に伝えるのは案外難しいのではないか、と思えてくる。別にそんなことしなくていい、曲ごとに勝負できれば、と言ってしまえばそれまでだが、周りがヒカルブランドの扱いに戸惑う機会もきっと増えてくるだろう。そういう時に生来の優しさが裏目に出なければいいが。

宇多田ブランドとか関係なく宇多田光を愛している人にはあまり意味のない話でしたねー。

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やれやれ、久々に電波干渉で原稿が飛んだ。普段の夜より短めのエントリーになるがそういう理由なので気にせず続きを書く事にする。

山本シュウさんがPassionのボトムサウンドをどう形容したものか逡巡していた場面が昨日の事のように思い出される。ヒカルがプロデューサー/アレンジャーとして頭角を表してきて以降、ペース・サウンドはより豊かなパーカッション・サウンドの補助としての機能が強くなった。

具体的にいえば、バスドラとシンクロさせる手法が目立つようになったためベースラインが掴みづらく、ベースライン単体としての魅力に乏しくなった面が否めないのだ。件のPassionはその中でもロック寄りのサウンドで、ベースは随分強調されているのだがベースはそれでも影が薄い。ヴィジュアル面でも太鼓は何十人に叩かせてサウンドの核である事をアピールしてくれていたのに。

お陰で、恐らく未だにEclipseのベースラインがPassionのソレと相似形である事を知らない向きも多いのではないか。Wild Lifeでかなりアピールできたとは思うけれども。

光がベースをシンプルにしたがるのはベースの音色でジャンル色が決まってしまうのを避けたいからだ、と誰かに指摘して貰ったがどこでその発言があったか思い出せない。まぁいいや。

とすると。仮に例えば東京事変的なロックサウンドをコンセプトにバンドを組んだりした時にはいちばん変化が表れそうなのはベースサウンドという事になりそうだ。先日の妄想ではレッチリのフリーを推してみたが、ここの選択がサウンドの方向性を大きく左右しそうである。

寧ろ逆に、だからこそ光はロックバンドなんか組まない、ともいえる。特定のベースサウンドに縛られては自由な曲作りが出来ない、という理由づけでね。

ただ、光が唯一気に入りそうな低音楽器がある。チェロである。Be My Lastでたった一本だけ楽器を使うとなった時選ばれたのがチェロであった。チェリストとのコラボレーションアルバムなんかであれば、光は将来実現させる可能性はあるかもしれない。ロックバンドよりずっと見込み濃いだろう。

以前PoLEPの時に指摘したように、光の声に最も似た音色の楽器はチェロだと思うのだ。特に低音部に関しては。その為、チェロという楽器がいちばん、光の歌そのものに呼応する事で特定のジャンルから自由になれる特権を持っていると考えるのだが如何だろうか。

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セットリストを組んでみて、光とPassionのLIVEでの頼もしさみたいなもんがよくわかった。

勿論、宇多田ヒカルのLIVEといえば初恋でありオートマでありFoLでありPoLでありトラベであり、といった名曲群は欠かせないだろう。先日も書いたように、Popsのコンサートは演奏曲目の選定が重要なので、より有名で待たれている楽曲は常に必要だ。

こういう想定が妥当かはわからないが、もし仮に宇多田ヒカルの事を知らないオーディエンスを相手にLIVEをするとすればどうだろうか。

そうなった時に、初恋やオートマは必ずしも必須という感じはしない。なんというか、全体の構成を考えた時に"かえがきく"のだ。

しかし、光とPassionは同じ位置付けの曲がない。もしこの2曲を抜くのならコンサート全体の構成から考え直さねばならない、そういう意味において、初恋やオートマよりその在不在がコンサートに及ぼす影響がより大きいのだ。

透明な軸。この2曲を配する事で全体の形状を決定する見通しが格段によくなるという意味において、コンサートの脊椎、背骨のような役割を果たしている。

ヒカルの5のオープニングである光と、UTADA UNITED 2006のオープニングであったPassion。奇しくも、というべきなのか両方ともKingdom Heartsの主題歌である。

恐らく、今までの光のキャリアの中で、キンハは最も多数の聴取者を巻き込んだタイアップだったといえる。一旦ダウンロード世界一を記録したFoLも相当なものだが、このゲームは英語版が制作され、Simple And CleanとSanctuaryが世に解き放たれた。LIVE会場に足を運ぶ層との重なり具合は未知数だが、"Utada"の名において最も世界的に有名な楽曲は、First LoveとCome Back To Meという各名義での代名詞的楽曲と共に、この2曲だと思うのだ。

ここに、光の運命の強さを感じる。LIVEで重要な地位を占める2曲が、世界的知名度において真っ先にいちばん有名になったという僥倖。自分(の生活)と関連のあるタイアップしか受けないといっていた光が、あまりやりそうにないタイプのゲームKingdom Heartsに楽曲を提供したのはちょっと不思議だったが、こういう事なら合点がいく。もしUTUBEに"Simple And Clean"と"Sanctuary"のPVが置いてあったらどれ位のヒット数か、みてみたかったな。

日本語版と英語版両方がある事で、この2曲は今後光がどこでLIVEをやろうが演奏する事ができる。つくづく、運命は光と共にあると強く感じる次第だ。

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朝思いつきでセットリストを書こうと思ってすぐ取り掛かった為、そこに細かなロジックがあった訳ではない。全体像をパッと思い描いてひたすら曲名を書き連ねてみただけなので、兎に角どんな感じになるだろうという事で実際に聴いてみた。以下感想。

アタマの是愛むびのん黒塗りの3連発は予想通り。これは盛り上がりそうだ。いきなりKickin'YourXxxなムードで畳み掛ける。そこからDISTANCEが涼やかな風を送り込む。前3曲で流した汗が乾いていく感じだ(笑)。更に幸せになろうで絶品の歌唱力を堪能し―と思ったのだが流れとしてはここから直接醤油に行った方がいい気がする。私は2004年2月10日に幸せになろうを聴いているのでこの曲に思い入れが強すぎる。ここはハズしてもいいかもしれない。

ギミアレーズンからEternallyの流れは是非実際にやって欲しい。初恋からFoLBVの流れと全く遜色ない。負けているのは知名度だけだ。更にここから中毒への流れはアルバムに慣れた身にはわかりやすいだろう。

次にHEART STATIONとFor Youが来る所で趣味が分かれそうだ。Hステは音源が手に入った時1日で10回位聴く程気に入っているのだが、やっぱり地味かな。For Youも歌詞の素晴らしさを強調したいが、サウンドから入る人にはピンとこないか。まぁメロディーも素晴らしいんだが。

中庸なHステからシリアスなFor Youに流れて、更にDeep RiverからBe My Lastへとどんどん深みにハマっていく。一曲ずつ照明がどんどん暗くなっていくような。特にビマラはチェロ一本、スポットライト2つでいいだろう。真っ暗でも構わない。

そうやってどん底に突き落とされた後にWINGSが来る。いや、思い付きでここに配したが、凄く新鮮な感覚であった。まるで闇に光が刺してくるような感覚。そこからインストクマ紳士に突入してコンサートはいよいよ佳境に。

セレブからワンナイの流れはこれまたライブで実現して欲しい連なりだ。ここでひとしきり盛り上がった後で、さて私は前回ここにキスクラを置いたが、一度聴いてみて思い直した。ここで一旦MCを入れて親密な空気を作り出してからアナチャンに突っ込もう。更に嘘愛、そしてここでキスクラを炸裂させてMaking Love~キプトラに繋げたい。

いや、実際に聴いてみてもこの本編最後にメイキンキプトラを持ってくるのはいいアイデアだ。キプトララストはウタユナとまるかぶりだけに避けたかったのだが、この2曲が通り過ぎた後に残る何ともあたたかな気持ちは筆舌に尽くしがたい。いい曲書くなぁホント。

しかしキプトラストがウタユナとかぶるのを気にするならラストにはキスクラを持ってくればいい。本当にキスクラはライブ向けである。この曲はどこに持ってきても機能する。オープニングでもエンディングでもいいし、どこからでもライブを盛り上げられる。イントロでみんなでサタデーナイトフィーバーのポーズを決めれば一発である。(?)

アンコールは特にいう事はないだろう。FTBで空気を入れ換えてキャンシーとリスクの畳み掛けで潔く終了する。まぁこれでも物足りないならB&Cを歌えばいいだろう。クールダウンで名残を惜しむにはうってつけだ。

というわけで、第一次改訂版。

01. This Is Love
02. Movin' On Without You
03. 甘いワナ~Paint It Black~
04. Distance
05. Give Me A Reason
06. Eternally
07. Addicted To You
08. Heart Station
09. For You
10. Deep River
11. Be My Last
12. WINGS
13. Gentle Beast Interlude
14. Celebrate
15. One Night Magic
16. Another Chance
17. 嘘みたいなI Love You
18. Kiss & Cry
19. Making Love
20. Keep Trying
Encore
21. Fight The Blues
22. Can You Keep A Secret
23. Wait & See~リスク~


うむ。少しよくなったかな。もうWild Lifeとか関係なく、「私はこんなコンサートを観たい」というセットリスト考案企画、またやろうっと。

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