無意識日記
宇多田光 word:i_
 



昔からミュージシャンについて語る日記を書いていてずっと気になっていた事がある。それは、「読者に耳の聞こえない人は居るのだろうか?」という疑問だ。

(“ミュージシャンについて語る日記”と言い切ってしまったが、ここを書き始めた時最初「宇多田ヒカルの話も沢山書きますんで」って言った筈なんだが。まさか8割方ヒカルの話になるだなんて思ってもみなかった。最初に溜まってたネタは40回分位しかなく(それでも結構なもんだな)、1ヶ月で使い果たす予定だったのに今やその百倍書いている。どうしてこうなった。余談でした。)

より正確にいえば、歌について語るのは聾唖者を蔑ろにしてやしないかという懸念であり、宇多田ヒカルという天才の歌声が届かない事自体へのもどかしさや申し訳なさ(それは私が感じるべき事ではないが)がずっと心に引っかかっていたのだ。そもそも先天的であれ後天的であれ、今耳が聞こえない人は音楽を聴く習慣が日常にない筈だ。あるとすれば、大音量の重低音で地面が揺れるのを身体で感じる、といった事だろうか。それなら確かに、音楽的体験かもしれない。

ヒカルは作詞家でもある。もしかしたら耳が聞こえない人の中にも、ヒカルの詞をどこかで読んで感銘を受けているかもしれない。そうであれば凄いな、とは思うがだとしてももどかしさは益々募る一方だろう。


しかし、さっきエキセントリックな事に気がついた。「うた」とは、前に書いたように「節と詞が合う時空」の事である。節、即ちメロディーというものは確かに空気の振動であり音以外では有り得ない。そして、"以外では有り得ない"からこそ本物であり実在だ。詞は言葉だから音である必要はない。書き文字として視覚に訴えてもいいし、掌や背中に文字をなぞっても、つまり触覚でも伝わる。なぜ詞が音に乗せられているかといえば、節が音だからだ。それだけだ。

逆にいえば、節が音でない何かならば、詞は音である必要はない。そして、音ではない節と音ではない詞が合う時空もまた「うた」と呼んでいいのではないか。それが今日私の気づいた事だ。

ならば、耳の聞こえない人にも伝えられる「うた」がある。もっといえば、「うた」のよさを伝える方法は音だけではない可能性がある。だとすれば私の懸念やもどかしさは、いつか遠い未来に雲散霧消するかもしれない。生きている間は無理かもしれないが、その希望(のぞみ)があるだけでも、生きとけそうだ。

ヒカルは「うた」の人だ。とりわけ「音」の人でもある。しかし将来はもっと大きく「うた」と向かい合って、耳の聞こえない人にも届く「うた」をうたえるかもしれない。聴覚以外の、視覚や嗅覚や味覚や触覚で。それをするには人生の時間が足りないけれど、ヒカルがその希望を知るだけでも未来は変わると思うのだ。うたはまみれている。人の心の澱にも上澄みにも。知る事は恐ろしい。だから、今。丁寧に「うたう」以外にない。いい歌は「合う」に近づく。近づけば近づくほど音だけではない「うた」の世界が広がっていく。一体いつの話をしてるのか解らないが、今日気づいた事は今日書く。それが日記というものなのです。

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あらためて『あなた』の45秒サンプルを聴いてみた。自分がヒカルの声を聴き慣れているから気づくのだが、ビットレート(音質)が低過ぎて本来の歌のニュアンスが損なわれかねない域にまで達している。プロモーションとしてはやや疑問が残る。45秒しか流さないのなら思い切ってハイレゾ音源のサンプルも併設すればどうだろう。聴いて「いい音だ」となればハイレゾファイルの売上も上がるのではないか。

特に復帰後のヒカルの声質は低音側の倍音が昔より更に強まりふくよかでおおらかな歌い方も可能になっている。サンプル音源ではその部分が大幅にスポイルされていて、ヒカルの声を聞き慣れていない人は「随分細い声のさびしい/地味な歌だな」と感じるかもしれない。

特に『あなた』は『Fantome』からの大きな流れに基づき日本語の歌詞に重点を置いた曲だ。同じ手法ではないかもしれないが、またも歌詞可視化に相応しい楽曲が提供されたと言っていいだろう。それと同時に、歌詞の音符への乗せ方から察するにこの曲はメロディー先/歌詞が後の作り方であるようにみえる為、まだ聴けていないパートでは存外インストが凝っているかもしれない。

メロディー先/歌詞が後、とは書いたがそろそろハイブリッドな制作方法も前面に出てくる気がしている。つまり、まずはメロディーが出てきたので一部分だけだが歌詞をあててみた、するとそこから芋づる式にストーリーが出来上がっていったので今度はそこに当てはまるメロディーを書いた、なんていう具合に。曲先詞後、曲後詞先に加え、いったりきたり或いは同時進行というパターンも出来てくるんじゃないかと。母親目線で書いたのも初めてならば曲作りの方法も初尽くし、とかだったら『あなた』はなかなかにエポックメイキングな新曲となりそうだ。さて真相や如何に?

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順番の話を前にしたが、色々と本当にこれでいいのだろうか。私などはオフィシャルの45秒サンプル音源より前に映画のトレイラーで『あなた』の一部を聴いてしまったし、お陰で第一印象は「よく聞こえなかったな」と「映画邪魔!」になってしまった。これ誰か得してるの? 皆不幸になってない? いや今の日本には「たつき降板」という超ウルトラスーパー皆を不幸にするパワーワードが生まれているから、本当に些細な事かもしれないのだけれど。

更に、その45秒サンプルの時点でヒカル本人や、フルを聴いたであろう関係者のあんな感じのコメントをリリースする、っていうのは、何なの。関係者のコメントは、まずヒカルの映画主題歌が決まったって話があって、何日後に解禁になりますよという状況の中で発表してリスナーの期待感を煽るタイミングで出すもんじゃないの。一部だけ聴いてる状態で全部を聴いた人の感想を読む、って別に悪い事じゃないんだけどどう反応すればいいのやら戸惑うよ。

そしてヒカルのコメントだ。もう出てしまったから読んじゃったけど、あれ今出してよかったの? 私が最初読んだ記事は確か最速主義(なんだそれは)のナタリーで、そこのヒカルのコメントは『聴いてくれた人が、どんな風にそれぞれ受け取ってくれるのか楽しみな歌です。』だったんだよ。その程度。よしじゃあどんな受け取り方をするのかみてみよう、と思ってたのに『自分の死後を想像して「あなた」を制作しました。』とか『母親目線から音楽的表現をしたのはこの歌が初めてになります。』てか言っちゃってよかったんだろうか。“聴いた人のそれぞれの受け取り方”を物凄く限定するキラーワーズだと思うんだけど。せめてフル解禁後か、逆に音源発表前に注目させるための文句として、ならコメントの位置付けも明確になるだろうに、“45秒サンプルと同時”っていうタイミングを、どう解釈すればいいの。

つい最近『大空で抱きしめて』で「宇多田ヒカルの歌はフルコーラスで聴かないと恐ろしくて評価できたものではない」という事を痛烈にアピールされたところなのだ我々は。45秒だけ聞かされても「いや、これでも十分魅力的なんだけど、まだ何かあるんでしょ?」と期待してしまうのですよもう。それを補助する為のコメント発表というのならわからなくはないのだけれど、今回はただどこまで何を発表するかの足並みを揃えられなかっただけな気がするなぁ。

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『あなた』というタイトルを耳にしてTHE BACK HORNとのコラボ・シングル『あなたが待ってる」を思い出した。あの歌の『あなた」を我が子に読み替えるのも、何か少し面白いかもしれない。働きに出てた親が帰りを待つ我が子を思って家路についている、という。『Forevermore』でいえば、この親御さんは『確かな足取りで家路につく』側の人間で、登場人物の人間模様の交錯ぶりが対比的である。

しかし、どうやら『あなた』の主人公、或いはその相手役は既に死んで幽霊であるらしい。そこがどう歌われているかは見ものだが、親を失った子、子を残して死んだ親、子に先立たれた親、親より先に死んだ子、の4つの視点が考えられる。この中で、「子を残して死んだ親」からの目線で楽曲が書かれているとなると、あら主役は圭子さん?

OKOK、慌てない。映画では堺雅人と高畑充希の男女カップルの"カワタレのカタワレ"の話になっていて、親と子の話じゃなさそうだ。そこにヒカルが『母親目線』を持ち込んで話がややこしくなっている最中である。何がどうなっているかはまだわからないが、歌詞の全貌がわかるまで慎重に取…いや、大胆になれるの今だけだから大胆になっとくか(笑)。

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『大切にしたい人と信頼関係を少しずつ築いていくプロセス』

ふーむ、これもまた自分の言葉で書いてるな。WILD LIFEでの『自分自身を大切に』というメッセージが思い出される。胸が痛い。「自分自身と信頼関係を築く」だなんて面白いフレーズだと思うが、今回は関係ないだろう。ここは素直に読み解くべきだが、後述の通りこれが息子との事だとすればわかりやすいかもしれない。母と子以上にあつい信頼関係などあるのだろうか。いやあるだろうけど、一般論だとやはり最強だろう。安らかな眠りに就けるのは母親に対して絶大な信頼があるからだ。子育てを通してそれを学んだのなら、いよいよそれが歌詞に反映されているという事で、シンプルに、めでたい。…愛でたい。

『「悟り」とは真逆のことだけれど、死んでも手放せないほどこの世のなにかに執着することの人間らしさに共感』

おぬし今『共感』と言ったな。それは嘘だ。いや、どうだろうな、よくわからないが、普段は強調の形容として「死んでも」はよく使うが、流石に今回はまずいんじゃないの。「この世の何かに執着すること」に対しては。死んでも、ってたとえあの世に行く事になっても、でしょ。「あの世に行くハメになってもこの世の何かに執着する」って矛盾してると思いませんか。いやその矛盾こそが人間だ、と言われればそれまでですが。

『人間らしさに共感して、自分の死後を想像して「あなた」を制作しました。」

と。思ったら。あの世行ってしもてるやんけ。あの世に行ってなおこの世の何かに執着する、ってそれ「化けて出る」いうことか。そいやそういう映画やったな。てことは何か、さっきの『死んでも』は強調の形容やなくてドラマのストーリー上の単なるエピソードやったんかい! 作詞家の職業病的ナチュラル・レトリックに騙されてしまったぞ。楽しい。

そして、

『一つの普遍的な愛の形として、母親目線から音楽的表現をしたのはこの歌が初めてになります。』

来ましたよ。遂に来ましたよ母親目線。これ、どういう事かというと、まず『あなた』の話をする前に「今までの歌に『母親目線から音楽的表現をした』歌は、ひとつもありません」と宣言したに等しいのだ。今までの歌に「ひょっとしてこれ息子の事では?」と疑いをかけていた人、残念でした。ただ、ヒカルが「そのつもりはなかった」だけであって、無意識を抉り起こす真似はいつでもできる。そこからまた新しい歌が産まれかもしれないし、こと歌に関しては「自分のやり方を貫く」頑固さもまた一興なのだ。気の済むまでどうか、どうぞ。

さて、この「母親目線」の話を始めると長くなってしまうだろう、というのは書く方も読む方も当たり前のように予想のつく話なので、今回もまたこの続きは稿を改めましてという事で。

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あら45秒のサンプル音源上がってたのね。聴いていなかったわ。最初っから一度だけ聴いて日記を書こうと思ってたのでトレイラーのリンク踏んだきりでそれ以上調べなかったぜ。そしてヒカルのコメントのフル(?)バージョンも来てたか。

『資料として大まかなあらすじは頂いたんですが、ストーリーの世界観をもっと知りたくて、原作を数巻購入して読みました。』

ふむ…って、これ依頼主はヒカルに全巻プレゼントとかしなかったの? 普通に経費だと思うのだが無理だったか。ヒカルが原作読んだのは自主的だった、と。数巻購入ってあーたKindleにまとめ買いボタンあったよ…そこらへんが庶民感覚というか何というか、弁えてるわねぇ…。兎も角、全巻は読んでいない、と。一話完結モノならエッセンスさえ把握できれば大丈夫、ってとこか。長期連載作品なので時代ごとの変遷を把握する為に1巻5巻10巻15巻…という買い方をしたかもしれない。取り敢えず、どんな取り組み方をしたのかちらっと把握。

『この世とあの世が当然のように交差する古都鎌倉の不思議』

本当の鎌倉は普通の街だからな(笑)。でもそう想像させるような特別さがある、という事かもしれない。ヒカルは鎌倉には行ってみたのだろうか。

『どのような環境でもそこに住めばそれが日常になるということ』

あー自分の言葉で書いてるな。実感がこもっているというか。基本、作品内の事なんだけど自分にもあてはまるというか。東京とニューヨークとロンドンに居を構え局面々々ではホテル暮らし。「子育てで初めて日常ができた」と言った時の"日常"と同じ意味かはわからないが、それと照らし合わせて思うところがあるのだろう。作品への共感の第一歩だったのかもしれない。

結構長いコメントだな。まだまだある。次回続けましょうかね。

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さて、『あなた』と「DESTINY 鎌倉ものがたり」をどう予習したものか。ヒカルは、『堺雅人さんが原作のキャラそのまんまです』発言を聞く限り原作をしっかり読み込んでいる。となるとまずは原作漫画を読むのが筋かなと思ったら既刊だけで30巻以上あるんだとか。まとめ買い価格をみると17k円位で「あら、そんなもんか、だったら…」と思いかけたがお値段より前に30巻も漫画を読む時間をとるのが大変だ。まぁ第1巻を読んでみて、それからだな。

次に山崎貴監督の過去作に触れて芸風に慣れておく、というのがあるのだが彼の作品履歴をみても見事なまでに一作も観ていない私。タイトルだけ、というか雰囲気だけでそもそも「おいらとは無縁な世界だな」と無視していた監督のようだ。敬遠とか忌避・回避ではない。真正面から無視である。そんな作風にヒカルの歌が組み込まれているのをみる(聴く)のも初めてになりそうだ。

いやそれを言ったら「ごめん、愛してる」だって「ラスト・フレンズ」だって普段は観る類の作品ではない。ヒカルの歌声に釣られて観てみたら思いの外楽しめた、という棚から牡丹餅的展開である。今回もそうなる事を期待しようか。

出演陣に関しては特に得手不得手もなさそうだ。特に高畑充希は半年間見続けた顔だけに何の抵抗もないだろう。「やっと前髪を下ろした顔がみられるな」という感じ。悪くない。西田敏行も出るらしいがノーメイクで妖怪役なのだろうか。(ひどいこと言うね) こちらも楽しみだ。

これが、ヒカルが毎週ラジオをやっていて漫画「鎌倉ものがたり」のフェイバリット・エピソードなんぞを語り始めようもんなら原作大人買いモードに入るところなんだが今のヒカルはラジオ番組もってないし完全に楽曲制作中である。「お陰様でいいドラムパターンが見つかりました」という呟きもないしな。なので、映画に対しては12月9日まで静観というか無視というか。一度監督の過去作をみてみ…いやいや、やっぱりやめておこう。順序としては「鎌倉ものがたり」を劇場で観て気に入ったら、でいいだろう。

ヒカルの発言からすれば映画の完成品や或いは中途の脚本を読ませてもらってというよりは、原作漫画を読んで『あなた』を作ったのかな?と思わせる。であるならば『あなた』の解禁と原作読み込みのどちらを先にするかという悩みも立ち上がる。どっちでもいい気がするが、だからこそこだわってみたくもある。

映画の音声でよく聞き取れない状況を「新曲解禁」と言われてイラッと来ているのかもしれない。正直映画の第一印象は最悪である。「お前らの出す音でヒカルの歌声がよく聞き取れない。邪魔極まりない。」というのが本音なのだから。これ本当にお互いにとってよい形だったんだろうか。『桜流し』の解禁が劇的だっただけに疑問が残る。何しろ私にとっては、原作にも山崎貴監督にも何の思い入れもなくただひたすら「ヒカルの歌が聴きたい」と思っているだけだ。ひとつ、「ヒカルがタイアップOKしたんだから某か魅力があるのだろう」という推測が成り立っているというだけで、な。

となると、今までと違い封切り日までにバンバン主題歌をラジオやコンビニで流してもらって劇場に足を運んで貰おうという戦略なのだろうか。「君の名は」と「前前々世」の関係のように。それは期待し過ぎだと思うが、志を高く持つのは悪くない。『あなた』をいち早く聴けるなら万々歳だ。はてさて、この原作・映画・主題歌の三位一体プロモ戦略はどんな展開をみせるやら。乞うご期待ですな。

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いやちょっと待って。訳がわからないよ…


というのがたつき監督のツイートをみての感想。25万RTとかだから注目度の高さがわかる。アニメ「けものフレンズ」から降ろされたのだ。嗚呼、じゃあもう監督じゃないのか…初監督作品だったのに…。

深夜アニメファンに一年半遅れて「SMAPショック」が訪れたようなものだ。SMAP解散を別に悲しまない人は沢山居るだろうが、そんな人たちでも「SMAPを解散させる」のは「馬鹿な事をするもんだ、まだまだ人気絶頂なのに」と言うだろう。それと同等かそれ以上に馬鹿な事が起こった。昨晩ツイートした通り「宇多田ヒカルが宇多田ヒカルのアルバム制作から降ろされた」級の。それほどに「けものフレンズ」はたつき監督個人の力量で成立していると認知されていたのだ。エヴァからの庵野降ろし程度では比べものにならない。


なぜ新曲『あなた』がアナウンスされたタイミングにもかかわらずこの話をしているかといえば、危機感を感じているからだ。SMAPはまだジャニーズという80歳以上の高齢者が取り仕切っている"旧態依然とした業界"の話だから納得はできなくてもそういう可能性もあるよね老害ってヤツだよねで済ます事も出来た。それが、深夜アニメのような比較的若い業界でも起こり得る事を示した衝撃度はデカい。

本当に気をつけなければいけない。例えば、まだ今回の新曲に関してはチェックしていないが、タイアップがあった場合提供曲の出版権は向こう側がもつ場合が多い。『人魚』ですら、日テレ(の出版会社)が持っている。もしこういったタイアップ相手と揉め事を起こしたら、その楽曲の使用に以後支障が出る、なんてケースも考えられるのだ。

ヒカルの場合、出版権だけでなく著作権、著作隣接権など他にも権利をもっているから一概に使えなくなると断ずる事は出来ないかもしれないが、おいそれとライブで歌う事は出来なくなるだろう。アイアンメイデンが数ヶ月前に「審判の日」という曲の一部がパクリではないかという栽培を起こされた。35年前の曲でほぼ思いつきの言いがかりに近いのだが、裁判で係争中という事でそこからツアーの演奏曲目から外された。裁判で負けた訳でもないのに。「審判の日」は超人気曲でヒカルでいえば『First Love』を外すのに近い。権利に関するトラブルはまたたクマに実害を及ぼすのだ。対岸の火事では全く無いのである。

油断しているとコンテンツを潰される。タイアップ相手は本当に慎重に決めた方がいい。相手がリスペクトを持ってくれている、というだけでは不十分だ。決定権をもつ上層部に目をつけられない事が何より重要。ライブで歌えない歌が生まれる、だなんて悲劇が起こらないよう、重々慎重に仕事相手は選んで欲しいものだ。これがただの杞憂に終わる事を願っている。

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『あなた』。まだ我々は極一部しか聴いていないのだが、映画関係者にはもうフルコーラスで聴かせているようだ。封切りが12月9日ならまだもう少しなら引っ張ってもよかったんだろうにもう完成している。少なくとも、この間ドラムパターンに悩んでいた曲は『あなた』ではないだろう。

記事には監督と主演の2人による「『あなた』を聴いた感想」が載っている。

堺雅人と高畑充希のコメントが対になっているのがイヤでも目を引く。

堺:「映画のなかで愛した、高畑充希さん演じる妻に、もう一度あいたくなりました。」

高畑:「撮影中の、旦那様を愛しい愛しいと思っていた気持ちが聴いているうちにガッと蘇ってきて、また亜紀子さんに出逢わせていただいたような気分です。」

お二人とも「映画の中での気持ち」に戻っていたのだ。気付きはってるかどうかわからへんけど、これは主題歌として物凄い事やで。「劇中で流れてた歌を街中で耳にして不意に映画の世界の感覚を思い出す」ってのと、似ているようで全然違う。撮影を終えるまで2人はこの歌の事を全く知らなかったのだ。それは堺の「撮影がおわってからきいたのが、くやしい。この曲をふまえて、もう一度演じたい気持ちです。」というコメントからもわかる。つまり、2人にとって『あなた』は、映画と全く関係ない曲だったのだ。それを聴いて映画の世界に戻される、戻りたくなるというのだからどれだけ『あなた』が映画のエッセンスをひっつかんで離していないか、これだけでわかるというもの。まさに山崎監督の言う通り、「宇多田さんの歌には、(中略)魔法のような力が有ると思います」よ、本当に。いや「ような」じゃなくてまさに魔法でしょ。

映画のストーリーのいち場面を切り取った歌詞が含まれている、というだけでは堺と高畑は「懐かしい」としか思わない。2人は超売れっ子なのでクランクアップ後はもう別の役に入り込んでいるからだ。その2人を内側から引き戻せるだなんて、なんて力強さだろう。ちょっと俄かには、信じられない。しかし2人とも示し合わせたように、ただ懐かしがるだけでなく実際に「鎌倉ものがたり」の役に"なって"いる。少し考えさせてほしい、という位強力だ。

さてこうなると作品に触れる順序が悩ましい。『あなた』の配信日は12月8日金曜日。恐らく12月7日木曜日の23時過ぎにはダウンロードできるようになっているだろう。一方映画の封切りは12月9日土曜日。配信を断食して朝一の上映を選び初聴を映画のエンディング?にもってこようとしても30時間以上我慢しなければならない。悩ましい。

また、その威力を本当に実感したければ、堺高畑ご両人と同じ順番、つまり映画を見終わった後に、僕らの場合はエンドロールを伴って聴くのがいちばんいいのだ。しかし私が果たして宇多田ヒカルの新曲を聴くのを我慢できるのか。いや、我慢はできる。「聴くのを我慢してる間に死んだり病気や怪我をして聴けない状況になる」のが何より怖いのだ。悔い無く生きるには我慢しないに限ります。

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ほーん。油断しとったわ。そろそろだと思っていたが今日とはね。今週は藤圭子さんのデビュー記念日とか『Fantome』一周年とかかな、と思っていたが、新曲発表。漫画原作実写映画タイアップ。やれやれ、自分としては完全に寝首をかかれた。

『あなた』。新曲のタイトルだ。これはどう解釈したものか。自分より上の世代にとっては、歌のタイトルで『あなた』といえば小坂明子なのだ。タイトルかぶりをするには、ちょっと有名過ぎやしないか。

昨年は最大級のタイトルかぶりがあった。アニメーション映画「君の名は」。自分の親の世代なら岸恵子、自分の世代なら鈴木京香が主演女優のすれ違いラジオ/テレビドラマと同名だった。しかし、世代の大幅な違いとずば抜けたヒット規模で名前被りなんていう野暮なツッコミはどこかに消え去っていた。今言われて「そういえば」と思い出した人も多かろう。被っても状況次第では大丈夫だと思う。

ヒカルの「あなた」も、大丈夫だろう。今更小坂明子の歌がどうとか言い出す人もそうそうは出てこない。ついでに言って、それっきりだろう。きっと私もそう。でもカラオケで検索したらいつも隣に出てくるのかな。まぁそれはそれで。

そしてタイアップ相手の「鎌倉ものがたり」、主演女優は朝の連続テレビ小説「とと姉ちゃん」に引き続いて高畑充希だ。いやはやご縁。当の高畑もことのほか喜んでいる旨コメントを出している。高畑ファンからすれば「主演やるんなら主題歌も歌えばいいのに」というのが本音なのだろうが「尊敬する宇多田さんなら仕方がないか」とも思ってくれていると期待する。どうかお邪魔じゃありませんように。

トレイラーでは早くもその『あなた』の一部が聞ける。歌いだした瞬間、「歌い分けで楽曲展開の伏線を張り換える」という手法に気がついた。楽譜上では多義的に解釈可能な可塑性の高いメロディーを、歌唱法の違いによって歌い分けて聴き手の心理を恣意的に誘導する。また大胆な事をするもんだ。恐らく、ここで聞けるパートよりよりおどろおどろしいというか怨念めいたというか、もっと映画のビジュアルイメージに近いメロディーが登場するのだと思うが、高畑や主演の堺雅人の感想を読むともっと心暖まる曲調のようだ。どうなっているのか。いずれにせよ第一印象は、例によって「全体を聴かないとこのメロディーの意図は掴みきれそうにない」というものなので、歌自体について語るのは少し後回しにしようかと思う。デビュー記念日に映画封切り、その前日に主題歌配信開始と逃げられない状況が揃った。マチェイ・クーチャによる新しいアー写も期待通り素晴らしい。夏の終わりが僕らの多忙の始まりである。やれやれだ。

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この夏に思い出として残った日本語の歌は2曲。だをことけんしの「打上花火」と山下達郎と門脇麦の「Reborn」だ。両方とも映画の主題歌だね。

人気では「打上花火」がYouTube再生回数4000万回という事で図抜けている。「Reborn」の方は歌も映画も話題になっていない。といってもまだ明日から公開なんですがね。まぁ落差はありますわね。

しかし。「もしヒカルが歌うとしたらどっちを歌って欲しい?」と訊かれたら断然「Reborn」の方ではないか。「打上花火」は男女ユニットによる歌唱だが、うちらはこの春に「丸の内サディスティック」の宇多田ヒカルバージョンを手に入れた所だ。いや、「打上花火もいい出来になると思うよ。

しかしもし「Reborn」を歌ったら「少年時代」並みの名演になる気がする。どうにも、この「Reborn」という曲、歌自体はいいのだが、山下達郎のやや芝居がかった歌い方や門脇麦の素朴な歌声は、どちらも帯に短し襷に長しで一長一短、しっくり来きらない。2人のちょうど真ん中位の抑揚で歌ってくれたらなぁ、と脳内でシミュレーションしているうちに「うわこれヒカルに歌わせたらバッチリハマるわ」となったのだ。いや特別この曲とヒカルの声の相性が良い訳ではない。ただ単に、ヒカルの音楽に対する理解度とそれを表現する技術が飛び抜けているだけだ。大抵の歌はヒカルが歌えばより魅力的になる。ただし、ドリカムは除く…かもしれない。克服したかな?

脳内でヒカルの歌を聴きながら「あぁ、そこはそういう歌い方をすればいいのかーなるほどなるほど。」とやたら合点のいく場面が増えていく。勿論現実のヒカルがそう歌った訳ではないのだけれど、もっと一般的に、脳内で「宇多田ヒカルに歌ってもらう」スキームは、楽曲の魅力をより引き出す術を我々に教えてくれる。その意味で大変有用だ。

これは私の想像力が逞しいだけなのか、それとももっと普遍的な現象なのか。正直わからないので、皆さんも脳内で自分の好きな歌をヒカルに歌って貰ってみてくださいな。うまくいけば、何か新しい発見があるかもしれません。うまくいかなくて、何の発見もなかったとしても、当方は責任を負いかねます。(笑)

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安室ちゃん凄いな。iTunesStoreソングチャートのTop10中7曲が彼女の曲。1位はHero、2位にAAAを挟んでDon't Wanna Crx、 Can You Celebrate?…と続いてる。Top20までいくとTry Meまである。やっぱり報道量が段違いだったのか。これ、「CDは持ってる筈なんだけど探し出すのが面倒くさい」とか「もうCDプレイヤーがない」といううちら世代の人間がメインの購買層なのだろうか。米国ではストリーミングの隆盛でダウンロード販売は落ち込んでいるらしいが、日本は今こそダウンロード販売なのかもしれない。新曲より過去の名曲目当てで買う人たちをあてこんで。


でまぁ前回の続きなんだけど。

『Forevermore』の『あなた』はダヌパの事ではなさそうだが、着眼点は悪くない。今後、いや或いは既に、「息子に向けての歌」があるかもしれない。それも、ただ「ああ我が息子なんてキレイなキンタマなの」みたいな直接的な歌詞ではなく(直接的過ぎるだろ)、息子を恋人に置き換えたような歌詞に"偽装"した歌である。更にそこから性別転換して女子が男子に想いを述べる歌にすれば、誰一人としてその歌の歌詞の由来や成り立ちに気づけないだろう。ただ聴き流している限りは。

ただ、それは昔の話で。今のヒカルはその上、異次元の領域をいく。『真夏の通り雨』がぶっ飛んでいたのは、歌詞が母への哀悼歌と「中年女性が若い男に」な歌のダブルミーニングになっているだけではなく、その重層構造そのものが精神の成り立ちを示唆せしめている点だ。ダブルミーニングがただの言葉遊びに留まらず、"実際に人間の精神はその変換の過程を通して感情を創造する"事まで考えさせた。何かちょっと話の時空間が違う。

これは逆からいえば、人間の感情的精神は、"言葉遊び"から、言い換えれば、抽象性の飛躍によって生み出されている可能性がある、ともいえるのだ。

となると、今まさにヒカルは息子の子育てを通して人間の精神の変遷を目撃観察しているので、そこから歌詞の構成・飛躍的比喩・構造の移植・援用・流用を汲み取ってくる可能性がある。難しい事を抜きにして言えば、作詞テクニックのレパートリーが増えるのだ。即ち、ヒカルの歌詞はまだまだ進化するかもしれない。

その論点に気づかされたという点で、『Forevermore』の『あなた』は誰なのか?という議論提起自体に大きく意味があったと言えるだろう。新人さんてやっぱ滅茶切れ者なんでないの?

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新人さんがまたコメントをくれていて、これまた相変わらず的外れな内容だ。時々この人って実は滅茶苦茶頭が良くて俺の方が試されてるんじゃないかって気がするんだけどそんなの気にしてても仕方がないな。あ、紹介してくれたあいみょん、「君はロックを聴かない」ってタイトルの歌が印象に残りました。

毎度言っているように、作品・商品として世の中にリリースした歌詞の解釈は常に受け手・買い手の自由であってそこに正解・不正解は存在しない。それを言うのは野暮ってものだ。画廊で犬の絵をみつけて気に入って買ったのならそれは犬の絵である。あとから画家が「わたし猫のつもりで描いたんですけど」と言われても聞く耳持たなくてもよろしい。

ただ、一方で「作詞者が詞を書いた時の心づもり」は当然存在する。「これを書いた時の心境を述べよ」って国語の問題だな。教科書に自著からの引用が載った檀一雄は、娘の檀ふみが学校の宿題で「この時の作者の心境を述べよ」という問題を解く際に「ねぇお父さんこの時何考えてたの?」と直接訊かれて「…〆切。」と答えたらしい。まぁ文豪を親に持つ人の鉄板エピソードですね。それはさておき。

ヒカルが歌詞を書いた時にも「こういうつもりで書いた」というのは存在する。で、それに照らし合わせた時に「Forevermoreは息子さんのことでしょ/あなたの名をつぶやきかけたで、書いた名前は息子さんの名前だと思ってた」という指摘は的外れだと私は思う。何故なら、『あなたの名を呟きかけた』の時にミュージック・ビデオのヒカルは、空中に書いた名前(らしき何か)を"力強く"打ち消すからだ。後悔を拭うようなその仕草を息子の名前に対して行ったとは幾らなんでも考えづらい。ヒカルが「こんな名前にしなきゃよかった」とか「こんな子生むんじゃなかった」とか思うだろうか? ないよな。勿論名を呼ぶのを躊躇う理由はどこにもない。なので、『Forevermore』の『あなた』が息子である可能性は非常に低い。

しかし。"的外れ"というのは何かといえば「的を狙って打ったけど外れた」矢の事であり、的を狙わずに放たれた矢やそもそも放たれていない矢に較べればずっと的に近い場所に在る。結構惜しい所を掠っているように思うのだ。

例えば。ヒカルがツイートする時に間違えて自分の息子の本名をタイプしてしまった。あぁやばいやばい、危ないところだった、とヒヤリハットなヒカルは息子の名をここで念入りに消すだろう。『Forevermore』の歌詞の『あなた』が最終的には息子のことでなくとも、単なるフレーズとして『あなたの名を呟きかけた』という一節がそういったエピソードから生まれた可能性も考えなくてはなるまい。

歌詞というのは、語呂のいいフレーズを生み出すのと筋の通ったストーリーを紡ぐのの両方が求められる。したがって、まずは語呂のいいフレーズを歌詞メモ帳にストックするだけストックしておく、という行程が生じてくる。あとからそういったフレーズを繋ぎ合わせて新しいストーリーを作るのが作詞家の仕事だ。

もしかしたらヒカルも『あなたの名を呟きかけた』という名調子が先にノートにストックしてあって、それが今回日の目を見たのかもしれない、とそう考えてもいいのである。どうでしょう。


そしてもうひとつ、「もっと重要な的」の話もあったのけれど長くなってしまったのでその話はまたの機会という事で宜しく。

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安室奈美恵様が引退なさるという報。青天の霹靂、なのはこちらが普段から追いかけていないからで、熱心なファンの皆様は薄々何かを感じていたのかもしれない。それだって想定していたのは「無期限活動休止」程度までで、「引退」の二文字まで予想していた人はぐっと減るんじゃないか。それだけに、驚きのニュースだったな。それ以上に彼女の息子が成人というニュースの方が吃驚だったけど。冷静に計算すりゃそうなるのは自明なんだが、普段関心を払っていないとそういう"当然の"話にまで驚ける。

聞けば、最近7年くらい?余りテレビに出ていなかったそうな。それでもこうやって昔の人にならないのはその精力的なライブ活動による所が大きい。毎年ツアーデイトをみて「タフだなぁ」と思わされてきた。これだけのツアーをこなせるならまだまだ引退は早過ぎる、ともいえるし、もう一生分の本数をこなしたんだから打ち止めにして構わないだろう、ともいえる。そこらへんはわからない。各個の事情など知る由もない。

恥ずかしげもなく吐露すれば、ニュースがヒカルでなくてよかった、というのが第一報を受けた時の感想だった。いつかヒカルにも引退宣言をする日が来るのだろうか。「都はるみの引退が36歳だったから安室ちゃんの41歳は遅いくらい」というコメントを読んで、そう捉えれば確かに有り難い話なんだな、と思えたけれども、ヒカルが引退するなら何も言わずすっと消えて欲しいかな。死ぬまで「復帰への期待」を持っていたいからね、こちらも。いずれにせよ1998年デビューのこちらは目下絶好調。向こう10年はそんな話は出ないだろうと高を括っている。6年半の離脱のお陰。長期休暇も悪くないね。

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「宇多田ヒカルの歌の歌詞を耳にするとお母さんの事を歌っているようにしか聞こえない病」が益々進行して困っている。『Forevermore』はドラマ「ごめん、愛してる」の主題歌だぞ、主人公の律目線で歌っているんだぞと幾ら自分に言い聞かせても「どうせこれもお母さんの事を想って歌ってるんでしょ」とにべもない。いや私自身の心の声なんですけどね。

『大空を抱きしめて』も『おしゃべりな私を黙らせて』っつってんだからマウス・トゥ・マウスなキッスでしょ、親子でそんな事するか?と疑問を呈しても「いやそういうのを混ぜて混乱させてくるのがヒカルじゃないか」と言われてしまっては黙るしかないし。いや私は口塞がれてないんだが。

この勢いだと本当に何でもよくなってくる。『Fantome』の楽曲も、『道』『花束を君に』『真夏の通り雨』の3曲はストレートに母の歌でいいとして、『桜流し』は2012年の歌なのに今聞くとそう聞こえる、とか無茶を仰いなさる。『俺の彼女』なんて性別性差こそテーマなんだから同性の親の話な訳がないのに、いや『大空で抱きしめて』を引き合いにだしてこの歌は『純なあなたが誤解』している歌なんだ、性別を変えたからわかりにくくなってるんだと何を言ってるかちょっとわからない。挙げ句『ともだち』なんてLGBTとみせかけて近親相姦の歌なんだぞとちょっと待てそれ以上は18禁だ自重しろ。

とどれもヤケクソ気味のこじつけなんだけど、『二時間だけのバカンス』を母娘の歌と読み替えるのにはちょっと心動かされた。昔春先にヒカルと照實さんがドライブデートをして2人の距離がちょっと縮まった、だなんて微笑ましいエピソードがあったが、もしかしたらヒカルも、二時間だけでいいから晩年のお母さんとデートしてみたかったのかもしれない。お互いちょっとおめかしなんかしたりして。2人で車に乗ってちょっと遠出のデートだなんて。

『二時間だけのバカンス』は「女子生徒と女子教師の百合」という解釈が(主に私の中で)一番人気なのだが、そこから更に踏み込んで、普段会わない・会えない母娘の百合とみるのはそこまでぶっ飛んでないかもしれないな、なんて思う。姉妹百合は多いけど(多いんだよ)母娘百合はなかなか見かけない。しかし皆無という訳ではない。血縁関係を無視して年の離れた女子2人のデートだと捉えるだけでよいのだ。つまりこの話はヒカルが歌うと母の歌に聞こえる私の脳と女子2人以上がなかよしだと即座に百合認定する私の脳が作り出したフィクションに過ぎないのだが、でも、ヒカルがお母さんとデートしたかったってのは、ある話なんじゃないのかなってついつい思ってしまうのでありました。

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