無意識日記
宇多田光 word:i_
 



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ヒカルの「歌のうまさ」については、この19年間随分誤解されてきた。事ある毎に「声量や声域で圧倒するタイプではない。"選択"が正しいのだ。」と繰り返してきたが、伝わっているだろうか。

声を操る技術も確かに高い。が、それが真髄ではない。ヒカルがマイケル・ジャクソンについて語った通り、彼同様ヒカルもまた「この歌をどう歌うべきか」を知り尽くしている天才である。

次の言葉を口にする時、長く伸ばすのか短く切るのか。大声で叫ぶのか小声で囁くのか。リズムに乗せるのかズラすのか。「歌い方」には無限と思える程の可能性がある。そこから最適解を導く力がヒカルにはある。強い。

何度か話してきたエピソードだが、私が最初にヒカルの歌唱力に圧倒されたのは『Automatic』ではなくその後に聴いたCubic Uの「Close To You」だった。カレン・カーペンターの可憐な(←一度言ってみたかった)大人っぽい歌声をフィーチャーしたカーペンターズの大ヒット曲を14,5歳のガキンチョがどう料理しているのやらとやや侮り気味に聴いてみたら打ちのめされた。どのチェックポイントも完璧だった。このガキンチョはこのメロディーのあるべき姿を完璧に理解している。99年当時チャートに溢れていた「プロデューサーの指示通りに歌う歌姫たち」とは全く違っていた。

歌い方の「選択」は確かに終わりのない作業だ。が、ヒカルが引用を引用した哲学者クリムナシュルティは「選択は迷いだ」と言い切る。確かにその通り。本当にあるべき姿を身につけていたら、わざわざ選ぶまでもなく「そうなる」。本当にいい歌は歌い方が一意的に決まる。いや、"もう勝手に決まっている"。歌手はただその通りに歌うだけだ。即ちただ歌うだけなのだ。

ヒカルは頭の回転が速すぎるせいか、歌っている時にしばしば考え過ぎ、歌のチェックポイントを意識し過ぎる所が弱点といえば弱点だ。これは本来ならリハーサル・ルームで済ませておく事だ。何も考えずにマイクを持てば自然とそうある姿を自然に歌えるまで、逆説的だが徹底的に歌い込むその時間がいつも足りていない。結局、例えば『Utada United 2006』でベストのパフォーマンスを見せれたのは最終代々木2公演だった。厳しい事をいえば(かつ、現実を無視して夢寝見に寝ぼけた事を言えば)、本来初日からそのレベルのパフォーマンスを見せるべきなのだ。ツアーが進むとともに成長していくヒカルの姿を追えるのは何よりのエンターテインメントかもしれないが、それが出来る、やってしまうのは一部の酔狂なファンだけであって、殆どの人にとってナマの宇多田ヒカルは一夜限りの存在である。その夜を素敵にしてくれなくては意味がない。

だから、理想を言えば、ヒカルがマイクを持った瞬間に総ての決着がつくようなコンサートをクマ無く催せるのがいい。果たして現実はどうなるか。「歌に導かれて自然とあるべき姿に辿り着く」話と「沢山練習して自然に歌えるようになる」話を敢えて混在させてみたが、結論は同じだ。ヒカルは歌がうまいのである。

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毎日毎日を振り返ってるから年末に一年を振り返ってもなぁ、と妙に気持ちの乗らない一言から切り出すのがこの日記の年末の恒例だ。でも今年もやっぱりそんな気分。加えて、アルバムとツアーが発表されるというので関心は最早来年に向かっていて、今なら「2018年の展望」を語る方が気持ちにそぐう。

最短は今のところ3月末アルバム発売、4月からツアー、みたいなスケジュールか。11年前に6月14日に『ULTRA BLUE』発売の7月1日ツアースタート、という日程を組んだのでこういうスピード感はアリだ。もっともこの時はアルバムからツアーへと連動企画となっていて「UBUプロジェクト」(ULTRA BLUE UNITED)とひとくくりにしたい雰囲気だった。

それはまぁ最速の話。問題は、CDにツアーの優先予約権が含まれるかどうかだ。その応募の〆切をいつにするかで、アルバムとツアーの間隔が決まる。ある程度みてから―例えばアルバム発売後にアルバム曲のタイアップが発表される段取りがあるなら少し待つかもしれない。昔ならシングルカットするところなんだが。

嗚呼、アルバムCDとリカットシングルCDの連動でツアー先行予約、とかも有り得るのかー。現代は色々な手があるな。こりゃあ予測が難しい。昨年の「通常盤のみ1形態」の潔さも大事だが、ツアー関連の人々にアルバムの応援をしてもらえるし、連動企画も悪くないだろう。うぅむ、考え始めたら色々と思いつくな。また稿を改めるか。

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私が『あなた』に乗り切れていないのは、メロディーもそうなのだが、歌詞にもちょっとピンと来ていない、ってのがある。

『多くは望まない 神様お願い 代り映えしない明日をください』―この一節がどうも引っ掛かるのだ。ここに乗れないのである。

映画を観れば納得する。納得した。何気ない日常を失うとか取り戻すとか、そういうニュアンス。『神様お願い』と入れるのも映画にぴったりである。だから、この私の怪訝さはそれで解消された、問題解決と言っていい。ここで引くのが大人の態度。

他方、こどものようにごねてもみたい。ひとつの、映画を離れたひとつの歌として『あなた』をみた時に、これは誰目線で何に向かって、いや、どんな状況下で吐露された思いなのか。これがわからない。

そもそも、『多くは望まない』と言って『代り映えしない明日』をお願いするのは誰なんだ。今の時代、代り映えしない日常はとても貴重なように思える。ありふれているか? 誰しも日々悩みながら様々な問題にぶち当たっている。何より、歌われている通りミサイルだなんだと戦争を匂わせるニュースすら飛び交う日常だ。『代り映えしない明日をください』と願うのは全く同意なのだが、それを『多くは望まない』って、何? これって「贅沢は言わないから」って事ですよね。いちばんの贅沢だと思うんですけど私ちょっとズレてんのかな。

住む家があって愛する家族が居て皆健康で、犬や猫なんて飼っちゃったりして。昔と違って今の日本(『あなた』は日本語で歌われているのだ)には度を過ぎた上昇志向は似合わない。勿論各専門分野では切磋琢磨してよりよい仕事をしようと皆頑張っているだろうが、昭和の頃のような「明日はより豊かになっている」と信じれる時代ではない。将来に希望を持ちようがないこどもたちを育て、日々こちらの顔と名前を忘れていく老人たちを介護するのが今の日本の日常であって、それはどこまでも苦悩の尽きない日々である。『代り映えしない明日』といった時の「ちょっと退屈だけど平穏無事なんだったらまぁいいか」みたいな贅沢な感覚からは程遠い。私にはこの一節は「何より多くを望んでいる」ようにみえる。とても贅沢である。

ただ、宇多田ヒカル個人の歌としてみれるなら納得だ。ただでさえ喧しい周囲の喧噪から抜け去って静かな日常、特に息子との安らかな日々を送るのはヒカルにとってはとても価値がある。何しろお金持ちだから、そんなヒカルが『代り映えしない明日をください』と歌うのは確かにささやかな願いだよねと合点がいく。何より、「家族が(もうこれ以上)欠けていない」というのは一旦幸せである。ヒカル個人が『多くは望まない 神様お願い 代り映えしない明日をください』と歌っているならわかる。資産家で才能に溢れ超有名な立場にある人間の願いなら。

でも、だとしたらポップソングとしての『あなた』の存在とは一体何なのか。「DESTINY 鎌倉ものがたり」という映画の主題歌としては最高だ。宇多田ヒカルの自叙伝的役割と捉えても意義がある。ではこれは"我々"の為の歌じゃないの? そんな事ないよね。そこを探るのが今の私の課題です。

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15年前の今日はファンメールを千通読んでメッセを四回更新してたのか。遠い昔とはいえ隔世の感。今のオフィシャル・サイトでは『Mail To Hikki』も消滅し『Message from Hikki』も『MORE』の中に押し込まれ、辛うじて『Mail To Staff』のみが名前を変えてちんまりと継続しているのみ。時代は変わった。

もしこれでTwitter社が潰れたらと気が気でない。なんであれがいち私企業なんだといわれのない愚痴も言いたくなる。ツイートとリプライ、そしてリツイート、さらに「いいね」などで随分と『Mail To Hikki』と『Message from Hikki』の代替が出来ているのだから本来は感謝しかないが、それって順番が逆かもしれないなとも思う。TwitterがあったからMailもMessageも奥にしまい込んでしまってよかったのだ、と。

これを「昔はよかった」と言うつもりはない。それぞれにメリットデメリットがあり、それを活かして活用するだけだろう。あとはTwitter社の動向に左右されない備えだけあれば。いつも赤字だ赤字だと喧伝するものだから不安になってしまうが、今や週刊誌程度の認知度はあるのではないか? バンバン広告を請け負って大丈夫だと思うんだが。呟きと同じサイズにするから邪魔なので、小さいフォントで一行広告を打つんだったらツイートごとに挟まっててもそんなに気にならない気がするんだが…って余計なお世話ですね。それはさておき。

要するにファンとの距離感、ありようというものが変わってきたのだろう。幾ら天才でもデビュー当時はミドルティーンだ。実存的不安に苛まれながら日々を送っていたとしても不思議はない。まぁありていにいえば、恋人と熱心な時はメッセの感覚が空く、とかそういった事だったのかもしれない(きりやんとつきあい始めてからメッセの量が減ったからねぇ)。本人曰わく、バートナーを切らした事がないそうなので、相手によって熱心の温度に色差がついていた、という事か。内情はわからない。

今は夫…というより息子がいて、実存的不安は外側から立ち上がるものとなった。確かに、ファンとメッセージのやりとりをしている場合でもないのかもしれない。こちらも、「元気ならいい」と実家の爺婆感覚で見守っている節がある。

あとは、最近新しくファンになった10代の人たちにとってどんな存在なのかという事だが、某かやりとりするならラジオ番組をやってお便りを募集するのがいちばんわかりやすいかな。それを通じての交流ならクリアに責任の所在と方法論が明確になる。今度はそういう番組もいいかもしれん。

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先日、2017年の「ブックオフランキング」が発表された。もう定位置であるかのように『Single Collection Vol.1』が第1位を飾ったのにも感嘆するが、並み居る歴史的なベストアルバム群に混ざって『Fantome』が第3位だったのが真の驚きか。間にあるのはMr.Childrenの92年から95年にかけてのベストアルバム。ダブルミリオンヒットシングルを立て続けに繰り出していた破竹の勢いの頃の一枚だ。毎年それにあっさり勝ってしまう『SCv1』も凄まじいが、出たばかりのオリジナルアルバムである『Fantome』がそれに肉薄するとは、いやはや、溜め息しか出ないわ。

他にもヒカルはTop20に『First Love』『Distance』『DEEP RIVER』の3枚のオリジナルアルバムをねじ込んでいる。何という力強さか。

確かに、これらのアルバムは過去に余りにも売れたからそもそも中古市場に出回る絶対数が違う。故にランキング上位に顔を出すのは順当といえば順当なのだが、それにしても売れている。なお、昔と違って今は家庭で気軽に音質劣化無しでコピーがとれる時代だ。ブックレットだってスマートフォンのカメラで撮っておけば高精細、後から幾らでも読める。なので中古市場にモノが溢れているからといって「話題になっているから買ってみたけど聴いたらつまらなかった」のが理由であるとはいえなくなっている。どれだけ中身を気に入っていても今は簡単に売ってしまっても何ら問題はないのだから。つまり、このランキングは素直に中古市場での人気を反映しているとみて差し支えないだろう。

にしたって驚きだ。これをみると、やはり日本人は宇多田ヒカルを未だにナンバーワンアーティストだと捉えていると言えるのかもしれない。確かにセルCD市場は縮小したが、レンタルCD市場と中古CD市場は未だに元気である。有名タイトルであれば程なくして店頭に並ぶしダウンロードで買うより安い。流石に定額聴き放題サービスが押し寄せてきたら難しいかもしれないが、今の所そこまではいっていない。CDを買う層より恐らく遥かに多くの人々がレンタルやCDを利用している。その中での"女王"認定なのだから、日本人に"薄く広く"浸透している真実だと言っていい―この「宇多田ヒカルがナンバーワンだ」という結論が。

「あなた」のダウンロードも好調で、ビルボードジャパンでは2週連続で1位らしい。セルCDも売れ、中古CDもレンタルCDも売れ、レンタルも好調となると何だろう、次に出すシングル(アルバムからの先行カットになるだろうか)の当たり具合によっては更に凄い結果になるかもしれない。ヒカルのCDが売れようが売れまいが「その時々で歌に向き合うだけ」のこちらの態度に変化はないが、お喋りの材料としては興が乗る。半分茶化す位のつもりで、引き続き来年もランキングを追う事としよう。

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まー朝も早よから英語でツイートしてもーてからに。日本に帰ってきてるという記事があったが果たして。まぁそっちは置いておいて、アメリカだと夕方、イギリスだと夜だろうから欧米の時間帯に合わせて英語でツイートしたって事か。リツイート元の庄司さんも英語で呟くアカウントだし、『世界でも好きなミュージシャンのうちの一人』として紹介している事からも、彼女の日本にとどまらない立ち位置と、「別に同郷だからというのではなく、国籍関係なく世界的に活躍されていて、人間的にも素晴らしい知人が」というところを考慮に入れたツイートだな。そういう事情(だと私が解釈した)から日本語訳では「世界でも」の部分は外しておいた。日本語訳を読む人にとってこの一文は疎外感外様感を与え、元ツイートの与えるものとは真逆の効果を齎すからだ。それを狙うのも翻訳だったりするのだが、直訳が好きな人はごめんなさい。

そんな訳で本来なら邦訳を広めるのは躊躇われるのだが、まぁいいかな。日本語圏人に伝わって欲しかったら日本語で呟く訳で、そこはある程度汲み取られるだろう。それよりたまたまいつもよりほんのちょっと早起きしてよかった。そういう日もある。

庄司さんとヒカルは17年来の付き合いで、知り合った当時のヒカルはクラシックのコンサート自体が新鮮だったらしく、そんな人が楽屋を訪ねてくるなんて庄司さんも新鮮だったろう。今や(恐らく)お互い世界を飛び回る音楽家としての歓喜や苦労をシェアし合ってるんではなかろうか。

さて引用した哲学者の一言。このインドからの方について私は存じ上げないので特に何を言えばいいのかわからない。思想的にも馴染み深いというか(我々にとっての)王道というべきか。王道と言っても皮肉を交えた比喩である。(本来の)王道ましてや覇道などといった思想は真逆のものであろう。

私なりに解釈すると「肩の力を抜け」という事か。肩肘張らずにありのままを受け止め、作為的恣意的に世界を改変しようとするな、と。何百年にもわたる東西の思想の相克を思い浮かべるが、西洋には最強の思想(を飛び越えて科学的真理ですらある)「自然淘汰」即ち「自然選択」がある。選択は迷いだと喝破しても悟って死ぬ奴はそれまで、迷いながらも生き残ったものが次を得るのだ。ここで東側には輪廻転生を繰り出す。死もまた輪の縁だと。ここから先はご存知泥仕合だから面倒なので、私はもう一度肩の力を抜くとしよう。恐らく西側(変な表現)は真理すら相対的な価値の一つとして飲み込むつもりだから。

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一年纏めの時期に入ってきたがまぁ宇多田ファンは浮ついたもので(笑)、来年の新作とツアーに完全に関心が移っていて2017年なんてとっとと終わって欲しいと言わんばかりの勢いだ。いやそれは言い過ぎだな。今年は『Ray Of Hope』や『あなたが待ってる」から『あなた』に至るまでコンスタントに活動してくれたお陰で2017年に愛着がないと言ったら完全に嘘になるし。ローカルな話題だが最後にはコラボカフェまで登場していよいよ2018年に向けて…ってやっぱり意識がもう来年に向いてるか。誰の事も言えんわ。


足元をみよう。前回からの続き。

ヒカルの音楽的趣味興味が年々変わっているかもしれないと思いを馳せる時に決まって浮かぶフレーズがある。『傷つきやすいまま大人になったって いいじゃないか』―そう、『タイム・リミット』の最後尾手前の一文だ。果たしてヒカルはこの歌詞の通り、傷つきやすいまま大人になったのだろうか。

「きずつきやすさ」はそのまま「きづきやすさ」に繋がる。大人になると取るに足らない事として最初からハナにもかけないような事にまで気をかける、気になる、気にしてしまう。色んな事にきづいてしまうからきずついてしまう。そんな繊細でセンシティブな感性がヒカルの持ち味であり魅力である。

「きづくおとな」になっているいちばんの証左は「ものひろい」である。プジョーのホイールまで行くと何事かと思うが小さな人形のパーツまでひろってしまえるとは大人になって日々せかせかと動いている人間には出来ない芸当だ。今でもヒカルは、大人が見向きもしない事まで視野に入れて、気を揉み、きがつき、もしかしたらきずついているかもしれない。

しかし一方で、随分図太くなったなぁというのも印象だ。子育てを始めて更に拍車がかかっているだろう。肝っ玉かあちゃんというヤツである。母は強しとよく言うが、強くならないと母なんてやっていられないのだ。

しかしそれは、「鈍くなった」という事ではないだろう。今のヒカルはもう思春期のような"実存的不安"に苛まれる事はないかもしれず、従って彼らと同じ気持ちになって寄り添う事が出来なくなっているかもしれない。しかし、一度は通ってきた道だ、"理解を示す"事は出来るだろう。今のヒカルの歌を10代のファンがリアリティをもって聴けるかというのが分かれ目である。ここは、つぶさに眺めていなくてはなるまい。

10代の頃は大人の恋愛を歌う為にはその役をある程度演じなければならなかった。幾ら大人の感覚や感情を理解していようと、本当の自分からの距離はどうしようもなかった。20代のヒカルは大人になって、大人の恋の歌を等身大で歌えるようになった。30代になった今、10代遠くになりにけり。今その頃の切なさや孤独やどうしようもなさを歌うにはヒカルもある程度演じなければならないのだろうか。それとも未だに現役か。それは例えば次のツアーで『For You』なんかを歌った時にわかるかもしれない。『Forevermore』も歌うだろうから、その差は如実にわかるだろう。

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先週の続き。ヒカルの音楽的な趣味が変わりつつあるのかもしれない…という話。

味覚に喩えるとわかりやすいか。幼い頃と大人になってからでは好む食べ物が往々にして変わる。コーヒーなんかは代表格で、小さい頃は「汁は苦ぇしよ」(CV:野沢雅子)とばかりに忌避していたものだが、大人になったら愛飲している。和食で癖の強いものとか刺激物(わさびとか?)もまた大人になったら大丈夫、いや寧ろそっちの方が好みになる例も少なくない。特に酒飲みのあれやこれやは面倒くさい。最早甘いものは食べられないとか言い出す。せやから辛党て呼ばれるんやけど。

音楽にも似たような傾向がある、かもしれないのだ。甘ったるいメロディーよりも淡くほろ苦い歌詞の方がぐっと来るようになったり…。もうちょっといえば、ファンタジックだったりロマンティックだったりするものよりも、よりリアリスティックな、シニカルだったりリザイニングだったりするものに惹かれるようになる。

ヒカルの趣味が変わるとしたら、どちらからどちらに変化しているといえるか。『Fantome』では様々な音楽的趣味が混在していて、何がどうというのは本当に一概には言えないのだが、例えば前に指摘したように『ともだち』などはこのテーマにこのメロディーなのかという感じはする。歌詞だけ読むと悲痛ですらある始まりさえしない悲恋の物語なのだが、メロディーはどこかサラッとしていて粘り気がない。暑くはあるんだけど日本みたいに湿度は高くないからどこかサラッとカラッとしている印象を与える。ホーンが響きパーカッションが涼しい風を送り込んでくる。悲恋の心を隠して表面上は何でもないような顔をして"ともだちとして"振る舞っているような感触が出ている。今までになかった作風だ。

『あなた』も同じような神経を感じる。歌詞は壮大で結構重たいものなのだが、どこか乾いた感すらあるホーンセクションを中心として音像が重くなり過ぎないように纏めている。フックがない訳ではないのだが、ここでも粘度や湿度といった感触は少ない。歌い方自体は粘っこいんだけどねぇ。

この最近の傾向を、一時的な揺れとみるべきか、小さいながらも確実な重心の移動とみるべきか。判断を下すのは早計だろう。ただ"手広くなった"だけかもしれない。『Forevermore』などは、ジャズ寄りのリズムを中心とした新機軸のサウンドとはいえ、全体から漂うムードは『Prisoner Of Love』に代表される伝統的な宇多田ヒカルのそれである。何曲か今までと"違う"曲が目立つようになったからといって変質したとまではいえない。いつも甘いもの好きな人が「たまには気分を変えて」と苦いものに手を出すのと、そもそも甘いもの好きだった人が苦いもの好きになるのではえらい違いである。まだそこらへん、もしかしたらヒカル自身も把握しきれていないのかもしれない。新作に向け引き続き体調を考慮して頑張ってくれ。

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インターネットが普及して「無料文化」を謳って久しい。特に音楽業界は「人々が音楽を無料で手に入れるのが当たり前になってしまった」と嘆く事頻り。だがちょっと待て。音楽が無料で手に入るようになったのはインターネットが初めてではないだろ。

ラジオ受信機が普及しラジオ放送網が整備されたのは20世紀初頭の事だ。19世紀後半に蓄音機が発明され人々はレコードを購入して家に居ながらにして音楽を楽しめるようになった。しかしそこにラジオが登場したのだ。ラジオ受信機を売る為に、スポンサーを募って次々と音楽を放送する。受信機さえ買ってしまえば、後は幾らでも無料で音楽を聴く事ができるラジオの登場でレコード業界は壊滅的な打撃を受けた。本当かどうか知らないが最盛期には前年比96%ダウンにまで落ち込んだらしい。今のインターネットの比ではない。「無料娯楽文化」の元祖にして最大はラジオなのだ。

勿論、ここから半世紀近く後に「映画とテレビ」でも似たような事が起こったのはご想像の通り。同じく、一旦受信機を買ってしまえば様々な映像コンテンツ(音楽番組も含まれる)を無料で観られるのだから以下同文。

無料文化としての暴虐性はこのラジオとテレビが突出している。あとはテープレコーダーとビデオデッキが普及してしまえば、誰がわざわざレコードを買ったり映画を観に行ったりするものですか…とはならなかったのは皆さんご存知の通り。音楽ソフトはレコードからCDに、映像ソフトはビデオテープからDVDに変わったりもしたが、ラジオが普及してもCDは売れまくったし、テレビが95%以上の家庭に普及しても人々は映画を観に行くのを止めなかった。そう、幾ら無料でコンテンツにアクセスできたとしても「そういう問題じゃない」のである。

なので、音楽業界によるインターネットにおける無料文化への嘆き節は、厳しい言い方をすればただの負け惜しみだ。ラジオとテレビを散々利用しておいて今更である。

当然、100年前とは状況が違うのだから同じようにはいかない。しかし、レコード業界の危機という点では20世紀の方が遥かに絶望的だった筈だ。今の方が打開策を見いだし易い、だろう。

まずひとつ、特にこの日本では「90年代のCDバブル」の余韻が20年経った今でも業界にくすぶっているのが問題だろう。今のCD売上は、たとえ秋元康の一派を除いたとしても、70年代や80年代の売上とそんなに変わらない。元に戻っただけともいえる状況だ。なのに「あの頃の夢をもう一度」とばかりに20年も前の隆盛に固執するから嘆き節しか出て来ない。流石にそろそろ目を覚ましてもいいかもしれない。

実際、宇多田ヒカルを応援している(?)身としては、20年前と較べてCDの売上が10分の1になったからといって嘆こうという気は起こらない。未だに音楽が目当てでCDを買う層に対しては年間トップクラスの売上なのだから「変わらず日本音楽市場の頂点付近に君臨している存在」として認知しといて何の問題もない。バブルが弾けただけで、今の数字が正常なのだ。それを認めた上で、こんなに売れる作品を作れるだなんて異常だ、尋常じゃない、と言っているに過ぎない。

ダウンロード販売や定額聴き放題サービスがどういう浸透をみせるかは、特にこの日本では考えづらい。昔の栄華を忘れられない世代がレコード業界から去った後に初めてフラットに評価できるのではないか。普通に、皆が求めやすい価格で便利に有用に音楽にアクセスできる環境が整うまで、もう暫くかかるだろう。前に書いた通り、著作権管理をそのままWebショップで扱う方法に帰着するのが自然な流れだが果たして後何十年かかるやら…?

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あらあら、またこの時期に体調崩したのか。年末年始に魚にあたって食中毒になった事もあるし、鬼門ですわな。せいぜい回復に努めて下さいな…って、大概今あたりが制作の佳境というか山場というかスケジュールがキツいところなのでな。年明けの時期は『Celebrate』を作った時みたいな「曲が足りない状況」、更に中旬を過ぎると『Eternally』を作った時みたいにギリギリまで歌詞を練る、みたいな事になる。…とするとアルバムは3月発売コースだが今のところこれが最速か。何しろ来年はツアーが控えていて昨今の会場事情からして事実上日程は既定の筈なのでアルバムリリース日は3月であれ6月であれ9月であれもう動かせない。これは相当のプレッシャーである。体調を崩すのもむべなるかな。

ただ、今日の書き方だとクリスマスが嫌いと書きたいが為に便乗した感は否めず、もうちょいな気がしなくもない。そこまで気が回らないくらいに具合が悪いとしたら心配になるが、愚痴を放って気を楽にするのもツイッターの効能のひとつ。何も間違ってはいないのだった。だった。


さてハッピーホリデーズ。日本ではクリスマスから年末年始に切り替わる。どうせ同じ門松の緑とめでたい赤なんだからもっとデザイン歩み寄りゃいいのだがいきなり洋風から和風に切り替わるんだから日本人は本当に器用だな。まぁ二日前には冬至でゆずだかぼちゃだと言ってて次はチキンだケーキだターキーだ、終われば年越し蕎麦におせち料理とまぁめまぐるしい。よくやるよ。

しかし今のヒカル一家はそれをも上回る混沌か。夫の実家はイタリア、住まいはロンドン、生まれはニューヨーク。そして今年は日本で年を越すとなればダヌパの文化的アイデンティティは一体…まだ気になるお年頃じゃないか。キコがいちばん混乱してそうだな(笑)。

10年前のメッセではメリークリスマスと言いながら納豆の写真を添付するというパンキッシュな振る舞いをしたヒカル。今でも似たような心境なのだろうか。でもこういう時って賞味期限を過ぎた納豆を食べて具合が悪くなったとか…いや納豆は今の気温だと味は落ちても腐敗はしないかな…まぁなんでもいい。快復を祈ろう。

寧ろ快復してからが大変だ。スケジュールを組み直さなくてはならない。そこで無理をして倒れる方が余程キツい。早めに休みを取れたと思ってスケジュールは詰めずに中身を削っ……無理かー。ヒカルがそこで妥協する筈がないか。ここは心を鬼にして「だったら体調崩してんじゃねーよ。もう遅い。」とでも言うべきなのだろうか。嗚呼。

どれでもいいや。兎に角健康で無事でいてくれればそれで。もう1人の身体じゃないんだから。

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前にも少し触れたが、小室哲哉の話。彼の曲は1998年頃を境にみるみるクォリティーを下げる。鈴木あみという"延命措置"で更にわかりにくくなったが、やはりせいぜいglobeのセカンドくらいまでが絶頂期だろうか。

80年代のTM NETWORKから聴いている身とすれば、彼の"絶頂期"は84年からの約15年間、ずっとである。渡辺美里をはじめとした楽曲提供もソロアルバムもサウンドトラックも、どれも彼のメロディーメイカーとしての才能の刻印が押されている。trf以降のプロデュース・ワークは言わずもがなだろう。真の頂点はやはりglobeという事になるし、そこを通過した以上衰え始めるのは仕方なかったのかな15年近くフルスロットルで曲を作り続けていたんだし、と私も思っていたのだ。ぼんやりと。何しろ1999年を境にこちらの認識は「日本人最大のヒットメイカーは宇多田ヒカル」という事実に塗り固められてしまった為、一抹の寂しさを覚えながらも一時代を築いた天才に対して「おつかれさまでした」という気持ちが大きかった。まさかあそこから転落人生が始まるとは思ってもみなかったが。

しかし、後に、ニコ生の出演だったかな、彼のソロタイムを聴いて認識を改めた。彼は才能が尽きたのではなく、メロディーの趣味と興味が移り変わったのだ。かつてTM NETWORK以降で聴かせていたジュヴナイルでメランコリックなBメロとシンプルでキャッチーなリフレインの織り成す"若者向け"のサウンドに、彼は最早興味を失ってしまっていて、もっとジャジィでリアリスティックなフレージングに目が向くようになっている…のだが、周りはそれを許さない。そして、こここそが彼の落ち度なのだが、彼はそういった周囲からの期待に応えようとして従来通りのデジタルポップを作り続けた。しかし勿論、心のこもらないサウンドにメロディーが宿る筈もなく、2000年代以降は彼のサウンドに憧れて作曲を始めたフォロワー達にもクォリティーで差をつけられていく(と言った私の頭によぎるのはとあるアニメの主題歌群…)。そりゃ売れなくなるわ。

もし仮に、彼が自分の感性の発露に忠実に従っていれば、局面は変わっていた可能性がある。確かに一時は人気が低迷するかもしれないが、心のこもった音楽、真に興味と関心を向けられた音楽は、今までと違った誰かの心に届いていたかもしれない。2018年にもなろうというのに20年前の赤の他人の心のうちを想像しても仕方のない事だけど。

ただ、彼は売れすぎた。周囲の期待に応えて"Get Wild"を再演するだけで拍手喝采である。遂にはこの一曲だけでアルバムまで作ってしまったのだから…恐ろしい。つまり、今の生き方でもニーズに応えればかなりの結果を残せているのだ。音楽的には失敗だったかもしれないが、生涯収入的には正解だったかもしれない。彼が今心から作ったかつてとは異質の音楽が果たして"Get Wild"より売れるかというと心許ない。TM NETWORKは今でもアリーナをソールドアウトにするだけの人気を誇っているのだから。


さてこんな話をした意図はお分かりだろうか。もし宇多田ヒカルに同じ事が起こったらどうなるか?を考えておきたいのだ。ヒカルの音楽的魅力といえば『Prisoner Of Love』に代表されるような、胸を締め付ける切ないメロディーと孤独と向き合った歌詞だと思うが、ヒカルの趣味と興味がここからもし離れたら?もし離れつつあるとしたら? 考えるだけでおぞましいというかちょっと怖いというか逆にワクワクするというか。この続きはまた今度書くとしましょうか。

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『…もうすぐクリスマスですね。』という一言で始まった『WILD LIFE』の『Can't Wait 'Til Christmas』。元々クリスマス賛美者からもクリスマス忌避者からも同感を得られる至極パンキッシュなポップソングとしてリリースされたが、この曲のせいで「…クリスマスっていいもんだな」と思ってしまいややバランスを崩している最中。もっとパンクにならなければ。

歌詞のテーマからしてクリスマスでない時期に聴く曲だから年間ずっとOKなのだが、やはりハロウィンが終わって途端に街の風景が緑と橙と紫から緑と赤に変わって「ちっ、なにがクリスマスだよ」と心がうらぶれ荒んだタイミングを見計らって「そうそう、いちいちクリスマスまで待ってらんねーんだよ」とパンク魂に火を点けるのがこの曲の"頃合い"だと思うので、こうやってクリスマスの飾り付けをバックに聴くのがなんだかんだで似合っているのだ。いやまぁ、どうでもいいんですけど。

どっかのタイミングでリバイバルヒットしないかなー、というのは常々思っていて。『Be My Last』が受け入れられなくても「そりゃそうでしょ」と思えるが、キャンクリが売れないと何だか居心地が悪い。「なら何ならお前らいいんだよ?」と真剣に訊きたくなる。ホント何ならいいんだよ。

SCv2のバージョンが再点火してもいいし、誰かがカバーしてくれてもいい。要はアンチクリスマスの為のスマートなアンチクリスマスソングが市民権を得る事の価値な。その"機能"がもっと広がればいいなと思う。

アルバムが年を跨ぐというか明けてからのリリースという事で、新作にクリスマスソングが収録されている可能性はほぼないとみていいだろう。というか、金輪際こんな風物詩ソングを書いてくれないかもしれない。なので、過去に拘る姿勢は感心しないながらも、毎年この歌をこの季節に推す事は吝かじゃない。『Eternally』だって発表から7年の時を経てドラマ主題歌として起用された。他のヒカルの曲だってどんどん「思い直され」ていくだろう。キャンクリだって例外ではないのであります。

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特別なライブコンサート体験に対して優越感を持たない私も、『In The Flesh 2010』への参加だけは積極的に自慢するように心掛けている。当時海外公演という事で二の足を踏んだファンが何人も居たであろう事を知っている。彼らに今後後悔して欲しくはないのだ。「行けばよかった」「行ったらよかった」と漏らしても後の祭り。ライブは一期一会である以上、二度と同じ体験は出来ない。具体的には、そのツアーでしか歌わなかった歌というのが常に存在する訳で、確かに今のところそれらは総てビデオ化されている(「博多祝い歌」などもあるが…)けれども、やはり生で最初に聴いた時の驚きは人生の体験として代え難いものがある。例えば、『In The Flesh 2010』での『Passion』は『- opening version -』から『Sanctuary』に移り『- single version -』で締めるという超豪華なバージョンだった。何も知らない状態でそんなものが演奏された時の驚きを想像してみるといい。まさに"身の毛も弥立つ"とはこの事だった。びっく
らこいた。

もしこれを読んでいる中に「来年宇多田ヒカルがツアーだって。どうしよう?」と悩んでいる人が居るなら行くべきだ。行けないなら仕方がないが、行かないのにこんな所に滞在していても仕方がない。こんな日記一生読んでくれなくてもいいからヒカルのライブだけは逃さないで欲しい、というのがこちらの切なる願いである。

もっとも、「スタジオバージョンは素晴らしいがライブビデオを観る限りこの人の生のパフォーマンスにそんなに価値があるとは思えない」といった判断でライブに行かないという見解もまた、私としては尊重されるべきだと思っている。決して安くはないチケット代に場合によっては交通費に宿泊費。休みをとるとなると普段の生活にまで支障が出てくる。ライブコンサートへの参加というのはかなりハードルの高いイベントだ。わざわざ遠出して人混みにまみれて落ち着かない環境で大してよくもないサウンドで2時間同じ場所に拘束される位なら自宅でゆっくりコーヒーでも飲みながらハイレゾサウンドを楽しむ方が好きだ、と言われたらなるほどごもっともである。

そこまで自らのスタンスが明確であれば何の問題もない。声を掛けたいのは逡巡している人々だ。どうしようかと悩んでいるなら行くべきだと繰り返そう。極端な話、行ってみてやっぱり私はライブコンサートってイベントには合わないんだなと実感できればそれは人生の大きなアドバンテージである。宇多田ヒカルのコンサートに行ってもなおそう感じるのならば本当にどうしようもない。以後どんなコンサートをパスしようとも後悔する可能性はなくなる。人生の選択コストの削減に大きく貢献するだろう。何十年分と思えば、数千円のチケット代も十分元は取れるだろう。

学生で財力がないとお嘆きの方はまずは働いてみればと言いたいが、苦学生でお金がないというのなら私がチケット代と交通費位は払ってあげるからコンサートに行きなさい。これ何人かに言った事あるんだけど「流石に怖くて受け取れない」と言われた。まぁ常識的に考えたらそーだよねー。でも私と友達になったら何の遠慮も要らないよ。出世払いだろうが何だろうが構わない。そう躊躇いなく言える位にUtada Hikaruのライブコンサートには価値がある。確信している。

まぁだからってじゃあ私はツアーとなったら何十回と行くのかというとまた別の話。基本的にツアーは同じセットリストなので、たった一晩だけというのも魅力的だなぁと昔からぼんやり考えている。記憶も混ざらないし。まぁそこはその時になってみないとわからないし、当然1枚も当選できない未来も待っている。もし「まだ一度も観た事がないけど是非観たい」という人が現れたらあっさりチケット譲っちゃうしね。今まで散々自力で当ててヒカルの歌声を体験してきたので一度や二度パスしてもそこまで気にはしませんよ。まぁ、観れるんなら観るけれども。まずは、日程が出てからだな。来年は相当な事になりそうですわ。

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チケットの話を出したけれども、果たして今度はどれ位の倍率になるかわからない。12年前は別に完全ソールドアウトというニュースもきかなかったので、公演によっては売り切れていなかったのかもしれない。

私個人の価値観からすれば「そちらの方が望ましい」。売り切れとは「観たくても観れなかった人が居る」という事であって、望ましいとは思えない。ヒカルの歌を生で聴きたいと言ってるうちに人生が終わっては死んでも死にきれまい。私の知らないところでそうやって死んでいった例もあるかもわからない。7年前の『WILD LIFE』でペプシクリスマスの白Hikkiのコスプレをしてた人は来年のツアーに間に合わず力尽きた。日々人は死んでいる。「人は死ぬぞ」もまたモンキー・D・ルフィの名言のひとつだが、せっかく生き残っているのにチケットが買えなくて観れませんでしたではやるせない。

とはいえ、世の中には様々な価値観がある。完全ソールドアウト公演、倍率10倍20倍のコンサートを観たとなれば人に自慢できる。よく当たったね、どんな感じだったのと人々から注目を浴びる。人気の公演への参加は羨望の的であり、人の優越感を殊更満たしてくれる。そうやってチケットの価値を上げよう、というのは売る方買う方双方の認識の上に成り立っている。

世界は見渡せぬ程広い。色んな人が色んな事をする。ではヒカルはどうしたいか、だ。コンサートツアーはジレンマの塊だ。あちらを立てればこちらが立たずの連続である。作詞作曲ならヒカルはジレンマを「私には手が2つある」から「両方立たせる」と言って実際に立たせてしまえるが、ツアーのようなビッグ・プロジェクトでそれが出来るだろうか。

レアチケットならレアチケットでいい。今「MTV Unplugged 2」をやろうものなら倍率は凄まじいだろう。そういう企画をやるなと言っている訳ではなく、抽選制の価値はそれで尊重するとして、では何を考えるのかだ。沢山の人に来て貰おうとドームツアーを執り行えば音質は犠牲にせざるを得まい。だからといってホールツアーに限定すると一体何公演こなさないといけないかわからない。どこらへんを落としどころとするか。ヒカルのスタミナ、季節天候気温湿度、移動距離、公演間隔…幾らでもファクターはある。何とかうまくやってほしいです。

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