無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ラジオ局とのコラボもいいが、やはりここは「あたしチャンネル」の復活を期待したい。今やiPhoneひとつあれば全世界に向けて動画も音声もリアルタイムで発信できる時代である。本来ならやらない手はない。

しかしヒカルは恐らくやらないだろう。決まった時間に決まった分量だけ発信する、というタイプではないからだ。いややろうと思えば出来るんだろうけどあんまり本人としても楽しくないんだろうな。どうだろう。

だったら不定期でやればいいじゃない。"ゲリラライブストリーミング"。本人が思い付いた時にやりたいだけ喋るラジオ番組。USTひとつ設定しときゃできるだろ。殆どの時間帯が「現在LIVE配信はありません」の画面。次の放送が1分後が1年後か全くわからない。いきなり宇多田ヒカルが喋り出す。もうそのチャンネルつけっぱなしにしとくしかないよねファンは。ファンじゃない人はそんな不安定なシステム我慢ならないだろうけど半分冗談みたいなプランなので別によいだろ。

配信は映像でも音声のみでも構わない。画面に何か映すとしても顔を出す必要はなく、手相でも何でもいいし、文字を書く手元を映してもいい。生放送にアクセスしたらずっと字。これはたまらんな。ずっと宇でもあるけれど。更に下らないのはPCでツイートする為にタイピングしてる所を生中継。送信ボタンを押したらほら@utadahikaruが呟いた!―最高に下らない。

それに別に生中継でなくてよい。予め録音録画しておいた素材を不意討ちで配信したって構わない。なんでもアリである。要するに決まった時刻に決まった時間だけ放送するという従来のスタイルを捨て、宝探し的なムードを配信に持ち込むのだ。偶然遭遇できたらSo Good ! てなもんである。

ひとりでも多くのリスナーを得よう、という時にこの手法は絶対ダメだ。いちばんいいのは人に習慣を植え付ける事。惰性に持ち込んで「なんだかみないと落ち着かない」所まで持っていければ御の字杓文字である。サザエさんや水戸黄門みたいにな。

しかし、ヒカルの場合は大概の場合ファンは飢えている。積極性というと違う気がするが、あんまり満腹感は得られない。その渇望につけこめるし、何より元からレアキャラ扱いである。そんなに目立ちたがりの性格でもない。今だって自由気ままに日々のツイートを繰り返しているのだからストリーミングだって自由でいいだろう。「あーだりぃ」の一言だけで放送を終えてもいいし、いきなり気合いの入ったスタジオLIVEを中継してもいい。チャンネルは開かれている。誰でも寄ってらっしゃい、でも、いつになるかわからないよ?―いやはや、ただの"いつもの宇多田ヒカル"である。何の問題もない。我々は寝不足になる事確実だが。もちろんアーカイブス放送はなし。ナマ一発。どうせ誰かが録画してつべったりにこったりするかもしれないがそれはそれ。

いろんな所からのゲリラストリーミングが考えられるが(梶さんの結婚式の二次会とか…ないか)、いちばんインパクトが強いのはLIVEの真っ最中にステージ上でiPhoneを取り出す事だろうか。皆「今頃はどこどこでLIVEかぁ」と行けなかった溜め息をついている時にいきなり生中継。これはギョッとする事だろう。しかしこれは禁じ手にしておくべきかな。ツアーだと引っ込みつかなくなっちゃうもんね。それ以上に、舞台上って大抵圏外かな…。


とまぁ妄想は広がりまくりんぐなのだが、昔Utadaでボイスメールを配信するといってそれっきりだったので、その罪滅ぼしにひとつどうですかねー光さん?

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ラジオとツアーの連動企画。恐らく他のアーティストもやっているだろうと勝手に邪推するが、ヒカルはHEART STATIONの時にステッカーを配ったみたいなじわりじわりと効果があるような手法が似合ってそうだ。全国ネットのラジオ番組を押さえて各地で収録し続きモノで放送するか、各地の独立番組を次々ジャックしていくか。いずれにせよテレビでは難しいリアルタイムでの露出が可能だ。「コンサートの最中にさりげなくやって欲しい事リクエスト」みたいなベタな企画でもいいだろう。カバーの選曲も地元の歌を、なんてリクエストもありかもしれないがリハーサル間に合うかな。いずれにせよタダでどこでも聴けて人にリーチしやすいラジオという媒体をたまたま点けていた人に「たった今地元に宇多田ヒカルが来てるんだ」と思って貰える事が重要である。コンサート直前出演なら、いきなりリスナーに電話してライブチケットをプレゼントするなんて企画もいいかもしれない。いや実現可能かは知らないけれど。

今のラジオはツイッターと連動するのがお馴染みの風景になっている。それを使った企画なら幾らでも出てくるだろう。とはいっても、やれる事といえば「貰える」「観れる・聴ける」「会える・話せる」といった人としてシンプルな事が中心になってくる。

基本は「ふらっと・フラット感」である。テレビと違い、着飾る事なくふらっと各地のラジオ局を訪れフランクに自然体で話す、みたいな展開がいい。そういう力の抜けた状況で突然「明日追加公演が決まりました」とか唐突な事を言ってくれれば面白い。6年前のウタユナ大阪公演の時も確か12時間しかシークレットギグに応募する時間がなかった。そういうリアルタイム制とゆるく誰でも参加できる感が望ましい。

とはいえ、ラジオ出演自体は結構な負担であるので、これを企画するにはヒカルの負担軽減の為に音楽監督に誰か優秀な人を引っ張ってこなくてはならないが、果たしてそれが可能かどうか。それが実現に向けていちばん高いハードルな気がするなぁ。

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あら、光もパラリンピック観るのか。障碍があろうがなかろうが鍛え上げられたアスリートの技術を鑑賞するのは楽しいもんだ。毎度ながらなんでオリンピックの後の開催なのかという不満の声が聞こえてくるが、まぁなんでもいいやね。かっこよかったら注目度はついてくるだろう。寧ろ何故障碍者の話題をゴールデンタイムにしないのか。てかしたらいいじゃん。21世紀にまで来て遠慮は要らんだろうに。

あれ、何の話だっけ(笑)。そうそう、ラジオの話の途中だった。すぐ脱線するなぁ…行き先不明の鈍行トレインだよ全くもう…

農家に嫁ぐとかいうツイートを冗談だと受け取っていいものかどうか。九州男児っていいよねとか言ってたら本当に九州男児と結婚してしまったヤツである。油断も隙もありゃしない…

…だからラジオの話だって。(笑)

ラジオで曲を掛けるというのも当初は結構紛糾したらしい。本来なら金をとるべき演奏の模様をタダで垂れ流すなんて、と思われていたそうな。まぁインターネットの出現時と大体事態は同じである。どちらに正義があるのかはわからないが、結局ラジオでタダで音楽を垂れ流す習慣は定着した。タダで、と言っても昔の日本ではラジオ聴取料を徴収していたらしい。でなきゃ某局は運営してられないわな。

ラジオといっても今はIP接続によるネットラジオが主流である。技術自体は確立されていてあとは如何に電波を端末まで届けるかでしかない。それは政治や経済の問題なのでこの際置いておこう。

宇多田ヒカルはタダに強い。この事実は揺るぎないだろう。それどころかAutomticの着うたを無料配布するという暴挙に出て散財してしまう即ちゼロどころかマイナスの収入まで得てしまう。勿論UTUBEでPVは観放題だし(しかもフルだ)ファンクラブもないから年会費もとらない。いろんな事をタダで動かす人である。ここらへんがラジオと相性がいい。勿論ラジオもついつい通販番組になってしまう事も多々あるが、テレビに較べれば少ないだろう。タダで音楽を垂れ流しタダで聴いて貰う…このシステムにいちばんのっかりやすいアーティストである事は間違いないのではないか。

次のツアーでは、出来れば各地域を回る度に地元のラジオ局に出る、みたいなパターンを敢えて作ってみたらどうだろうか。公演前でも公演後でもいい。コンサートとラジオ出演をセットにして日程を組むのである。ウタユナの時は本人の喉が限界だったので無理だったが、次はそれ位余裕をもった日程を組んでほしい。

コンサートの際に地元ラジオ番組に出演するだけなら普通過ぎる。それだけではない+αが必要だろう。それはどういうものかというと…果たして私は次回までに考えつくのか!?(笑) 楽しみに待ってみることにしよう☆

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あぁ、ラジオ局の話の続きだっけ。要するに、媒体としてのラジオ局・ラジオ放送というのは時代の荒波に対してとても強いという話。ラジオは斜陽業界だと言われて久しいが、テレビと違って原理がシンプルで制作に予算も掛からない為、如何に他の方法―つまり今ならインターネットだが―が普及しても早々になくならない。特に中長波域は…って技術的な話はいいか。テレビは電波で二次元の情報を送るからデジタル化が必然だが音声はアナログのままで十分なのだ、という点だけ踏まえときゃいい。

4年前はステッカーを配布するなどかなり気合いを入れてラジオプロモーションを行った。元々FM放送で火がついたアーティストだったから、という理由もあったようだが、ラジオを聴く層にアピールする方が売上に繋がるという側面もあったのかもしれない。

PCを通したプロモーションというのは知名度が上がっても必ずしも売上に繋がるとは限らない。ニコニコ動画100万回再生のアニメ作品がBD/DVD売上1万枚に達しない、という話もちらほら聞く。無料で消費されるコンテンツはどこまで行っても無料…そんな風に捉えておいた方がいい。

これが携帯電話となるとちょっと事情が違っている…いた、と言った方がいいかもしれない。携帯からのアクセスは代行決済の威力によって特に音楽の世界では猛威をふるった。宇多田ヒカルもその恩恵を受けた一人だが、もう今はスマートフォンの時代である。UTUBEで幾らでも再生できるのに、わざわざ過去な楽曲とか買ってもらえるのかねぇ…。

その点ラジオはどうだろうか。これを考えるのは難しい。元々、今ではYoutubeなどで当たり前になった"無料で音楽聴き放題"の先駆者はラジオ放送である。選曲はできなかったが選局はできた、という感じではあるが。その点を考えるとラジオを聴く層にもあまり購買は期待できないのだろうか…という話からまた次回。

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今宵の話題は手相か。よし、そいやったらおっちゃんの「両手百握り」の手相見せたるで、今んとこ片手には何人か会ってるけど両手はほとんど居らへんだもんなぁ、、、ツイッターやったら写真撮って見せたればええか、何しろ両手を一直線に貫く絵面やからインパクト抜群やで、ちょっち待っち中学生、今両手揃えた写真撮ったるからな…

…と思い立った所で気がついた。この体勢でシャッターを押す方法なんてなかった!(笑) 

ヒカルはヒカルらしく何しろ手相が濃い感じ。この女性が15歳の頃から鱈腹いろんな写真を見てきたからこのコがどんな肌をしているか知っているような気分になりがちだが、勿論錯覚である。実物は確かに数mの距離で見た事があるが、当然触れた事もないし肌触りなんて知っててたまるか。成る程、握手券ついてたらCD何枚買うかわからんなこりゃ。EMIさんに感謝です。

握手会では「手相の話題禁止」とかあるんだろうか。まぁ確か秒数決まってるんだよね。出来る事は限られてくるか。前も書いた気がするが、AKBの握手ってのはルーツはたぶんモ娘。の「CD手売り5万枚」にあるんじゃないかと私は勝手に思っていて。自分の作ったものを消費者に直接手売りするのは商売の原点だ。しかしこちらは原点過ぎて巻き込む人を減らしたのが難点で、AKBの「買ってくれた人と握手」という順序は流通機構、いや、宣伝に関わる人々を巻き込んでいるのが大きい。CDを各店舗で売るというのはそれ自体が宣伝広報のシステムであり故にテレビ局だの雑誌だの色んな媒体が絡み込んで来られる。だから「本人と直接会える」というプリミティブなコンセプトがここまで大きくなれた。この"巻き込む力"なくして今までのAKBグループの隆盛は有り得ないだろう。皆はCDを買わなくなっただろうがまだまだそのシステム自体は生きている。AKBはそのシステムに最後かもしれない活躍の場を与えて再生したのである。
死にかけてる所を無理に再生したお陰でなんだかゾンビっぽいけどね。全体的に。

ヒカルが次に復帰する時に"利用"できる既存のシステムとは何だろうか。私はHeart Stationの時みたいにラジオがいいと思う。書籍流通ってのも考えたが、そういや点線は既存の流通に対してどうだっけと思い返してみるとあまり芳しくなさそうだ。

ラジオというのは、音波と電波を相互変換するだけの極めてシンプルなシステムで…って前置きが長すぎて本編に入れなかったよ(苦笑)。ほなまた次回。

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ヒカルのモチベーションが気になる事が多いのは、自らが作り終えた作品に対する愛着がそれほどまでには強く感じられないことが大きい。「完全した作品は殆ど聴かない」旨の発言は何回か為されている。

一方で、では見栄や虚栄心や…まぁなんでもいいや、目立ちたいとか稼ぎたいとかいうのも余りない。目立つどころか裏方としての意識の方が強い位だ。売る方は、複数枚商法はおろか初回限定版すら限定的にしかリリースしていない。数字としての記録や収益などにもさほど興味はないらしい。

ここらへんである。売上や知名度を度外視するアーティストは、大抵自らの作品に異様なこだわりがある。有名になりたくない訳でもなければ稼ぎたくない訳でもなく、単にそっちより自分の作品の方に興味があるのだ。芸術家肌という奴である。

他方、作品を手元に置いて愛でるより世に出して人々に反応させたい向きは、当然のように売上や知名度を気にするし、言わば「社会的成功」というものに貪欲である。商業的、と揶揄されやすいが大抵は僻みや妬みなので勲章みたいなものだろう。

ヒカルは自らの作品をPopsとしてやや離れた位置から見ている事が多いけれども、ではそれを売ろうという段階ではあからさまな事はしない。記録にしろ収益にしろ数字の面での価値を評価するには周囲との比較が避けて通れない。初日に4,5種類のフォーマットでリリースする事が当たり前になっている中でこういう"潔い"態度は果たしてそれでいいのかどうか、余計な事ながら心配になる。

その代わりにヒカルが手に入れているのは圧倒的な"好印象"である。全く商業的でない態度とPopsとしてのバランスを兼ね備えたケースなど滅多にない。売る為の"商品"として作られた作品は売らんかなの精神で押し出されるものだし、アーティスティックな作品は素人には親切さが欠けている。どちらもカバーしている宇多田ヒカルが好印象を持たれるのは当たり前といえば当たり前なのだがもしこれが"狙ったこと"だとすれば…

…ないかなぁ。もしヒカルが「人に好かれる事が好物」な人間であれば、今までの活動スタイルを肯定するのは最も容易い。人の悪口しか書かれない場所でも「ババア結婚してくれ」と言われる始末である。「愛されたい願望」を満たす為の行動の積み重ねであるのなら、モチベーションの心配などしなくて済みそうなのだが。

でも多分、自分として自然に行動してたらこうなったってだけだよね。とすればやっぱり活動を続けていくモチベーションはこれからも悩みの種にならざるを得ないかな。はぁ~あ。

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毎度々々ツイートに引っ張られたネタばかり書いてる気がする。何か私ツイッター中毒になってやしないか。でもそれでいいのだ。そこにヒカルが居るんだから。

という訳で今夜も引き続きギター弾きらしい話。iphoneアプリでチューニングしとるとな。あんたの耳だったらそんなんなくてもチューニング出来るだろ、だなんて野暮な事は言いっこナシか。音叉ひとつあれば絶対音感がなくっても…まぁいいか。

ギターを弄る理由には2つ考えられて。出来てる曲を弾く場合とこれからそれで曲を出来さす場合である。要するに曲作りだ。作曲なんて出会い頭だからどんな楽器を使うかで全然違う風景が見えてくる。音色の違いもそうだし、指捌きの難易も大きい。例えば、ピアノで同じ高さの音を何度も速く出すのは難しいがギターでは造作もない、というか得意技だ。一方、同時に異なる高さの音を出すとなればピアノにかなう楽器はない。10本の指で10音出せちゃうからね。ギターだと片手の指5本が精々だし、エレクトリックだと基本ピックだからもっと少なくなる。出る音が違えば生まれるアイデアも変わってくる。ヒカルがいつもと違う楽器を爪弾けばいつもと違う楽曲が生まれるのだ。まぁそうでなくてもいつも違うタイプの楽曲を生んでくれてますのやけどね。

そして、そう、ギターといってもアコースティックとエレクトリックで大分違う、というか歪ませていけば全然違う音色の楽器だ。両方"ギター"って呼んじゃっていいんかい、という位。今までの流れでいけば今ヒカルが弾いてるのはアコースティックという事になりそうだが、となるとピック弾きか指弾きか、そもそもどこで弾いているのか…興味は尽きない。まぁ追々色々と披露していってくれるだろう。

ギターのスケールにはペンタトニックやらハーモニックマイナーやら色々あるらしいが私はよくわからない。要はブルーズなのかフォークなのかクラシックなのか、という区別なのだろう。ヒカルがどんなスタイルで居るかはわからない。

ひょっとしたら、前にも書いた気がするが楽器の先生を個人的に雇っているかもしれない。その先生のスタイルに影響される事になるだろう…から今までのヒカルのやり方からいけばそういうのは興味ないか。どこまでも自己流で行きたい、というのはクリエーターに必須の偏向だからな。

曲作りに使えるのはまぁ間違いないが、一方で出来上がった曲でどう弾くかも気にはなる。歌いながらコードをかき鳴らす、というスタイルならつまりは伴奏だが、これならWild Lifeで披露している。アットホームだったり親密だったりという方向性の演出には向いている。

歌手にとって何かを「弾きながら歌う」のはどんな効能があるのか。少し歪めていえば、歌う為の言い訳である。路上で棒立ちの人がいきなりアカペラで歌い始めたらかなり面食らうだろうが、肩からギターを下げているだけでそれが許される。極端な話、別に弾かなくてもいい。首から下げていれば既にその人は歌手なのだから歌い始めるのに言い訳は要らない。寧ろとっとと歌いなさいよとなるだろう。

今のヒカルも、ギターを首から肩から下げてしまうといつの間にか歌い始めているのではなかろうか。歌う言い訳として、ギターやピアノは最高の存在である。これが管楽器だとこうはいかない。吹いてる時は歌えない。あ、でもハーモニカ/ブルーズハープとかもいいかもね。ピアニカも悪くない。なんか懐かしい楽器名を出してしまった。

兎も角今日もヒカルはギターを弾いていた。その事実だけできっとご飯が美味しいのだ。わくわく。

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連ツイなんぞしているうちに1500ツイート突破。年末の「我が父ながら激しく嫉妬」が1000ツイ目だったからそこから9ヶ月か。ツイート開始が10年9月だからそんなにペース落ちてない…というか何ヶ月かブランクがあったりするから最早始めた頃と変わりがない。期間限定の話どこ行った。いや帰ってこなくていいですけどね。(←冷酷)

で昨日はギターピックを使った寸劇の話。ミュージシャンがピックを持ったらLIVEで観客席に投げ入れると相場が決まっているので是非その節はKUMA POWER仕様の直筆サイン入りでお願いしたい所。その為にはLIVEでギターを弾くパートが必要だが、ひとまず既存曲でそれに相応しい曲はどれだろうか。

Exodus'04はテレビで披露したからいちばん印象が強いだろう。ああいう感じで使う曲がいい。アコースティックならAbout Meもいいし、Apple And Cinnamonをギターアレンジするのもいい。いやまぁその前にピアノで弾き語りするべきですけどね。(何れもアプシナアンプラプランの一環ですが)

ギターが印象的だからといってLettersとかで弾いちゃうと今度は歌の方に集中できない。Be My Lastをまた弾き語るのも確かにアリか。しかしそれなら、Flavor Of Lifeのオリジナル・バージョンはどうだろう。あの軽快なリズムにのってアコギ片手に歌ったら、バラードのイメージが定着している同曲を随分と新鮮に提示できると思うのだが…ってその前にバラード・バージョンですらまだ2回しかLIVEで披露してないのか。先は長いぜ。

立って弾くか座って弾くかというのもあるな。Exodus'04はスタンドマイクで、Be My Lastはスツールで歌っていた。ステージ映えとか曲調とかを勘案して立ったり座ったり。LIVEの構成も影響を与えるかもしれない。

ゆくゆくはエレクトリックギターをギャンギャンに掻き鳴らして延々とステージでギターソロを披露したりもして欲しいが、肝心な事を忘れていた。髪型だ。ギター弾くんだったら長髪の方がいい。勿論ただのこっちの偏見に過ぎないんだけどExodus'04もBe My Lastもロングヘアの時期に撮影したものだから光のギターは長髪のイメージが勝手にあった。それが似合ってたからなんかそれでいいんじゃないの。ま、弾いてくれるんだったらどっちでもいい事なのですけど。

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00年代に登場した中で最強のロックバンドといえばThe Mars Voltaで間違いないだろう。影響力ではLinkin Parkだが、日本でいえば浜崎あゆみみたいな立ち位置なので(というとちょっと極端過ぎるんだけどさ)、最"強"かというとちょっと違うような。要するに「あのバンドにはかなわない」と他のバンドに言わせるトーナメントをいちばん勝ち抜けるのが彼らだという事だ。要は同業者からのリスペクトが最多なのである。

デビューした時は確かに衝撃的だった。特に「元At The Drive-in」という肩書きには「嘘放け」としか思わなかった。勿論そこまで知名度が当時あった訳ではなくオイラも伊藤政則の番組を聴いてたからチェック出来たのだけれど、何故かヒカルがこのバンドに大きく食い付いた。最初彼女がどう触れたのかはよく覚えていないが、第一印象は「どこでこのバンドに気付けるねん!」であった。しかもただ気付くだけではなくその年(2003年)のナンバーワン・アルバムに選出していたのだ。「大大大好き」とまで言い放った(もしかしたら大の字が足りないかもしれない)のだから空いた口が塞がらない。そこまで来て漸く、「そうか、トレボヘでAt The Drive-in掛けてたっけかな」と合点がいった。浪花のゆりさんなかたにさんその節はどうもありがとう。

しかし、この嗅覚の凄さはどうだろう。ヒカルは私と違って年がら年中ロックばかりを聴いてる訳ではない。いや寧ろ自分の作曲に忙しくて他人の音楽を聴いてる暇と気力がそもそもないだろうに肝心な所は恐るべき精度で嗅ぎ当ててくる。00年代のロックを語る上で最もハズせないバンドをばっちりとチェックし気に入り過ぎて結局御存知のように当時The Mars VoltaのドラマーだったJon TheodoreをUtaDAの1stアルバムEXODUSの超名曲"Kremlin Dusk"で起用する所まで来た。入れ込み過ぎやっちゅうねん。

同曲での彼のプレイはその実力の10分の1も発揮されていないがそれでもLIVEでフォレスト・ロビンソンが叩く度に私に「フィルが足りてなーい!」と苦情を言わせるほどには個性を発揮している。名手フォレストが難しくて叩けないとかどんだけなんだよ。たった一曲だけの参加だったが、ミスター・セオドアのクレジットは私に強烈な印象を残している。

なんで今頃そんな話をしたかというと、今日のヒカルの「微妙な距離感で一緒に仕事してた人」ってもしかしてジョンの事だったりして、とふと思ったから。それだけです。(笑)

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しかしこれだけ連日他愛ない内容のツイートで身近に感じるようになっていると、いざいつか新曲が出た時に逆に変な気分になりはしないかと妙な心配をしてみたくなってくる。

今は夏真っ盛りというか夏フェスが佳境に入っていて、どのタイムラインも酷暑と疲労と心地良い倦怠感の話題で持ち切りであるのだが、ウチのTLに関しては総大将が「夏は滅入る」と宣言してまったりとした話題を次々とフってくる。昨夜のサッカー観戦くらいか、活発そうにみえるのは…と思いきや当然テレビがないから情報収集はツイート頼み。あんまりスポーツ観戦という事でもない。この暑い中実地に観戦に行く可能性は低いだろうなぁ。ロンドンにアパートメントか何かがあるんなら五輪期間中はそこで…なんていう発想もなかったか。まぁそれ位力が抜けてる方が一般人的感覚でいいのかもしれない。

…という距離感で、曲を出されたらなんだかいきなりカッコ良くなりそうで。嘗ても楽曲とメッセの落差には楽しませて貰ったが、この100万フォロワーのうち何割かは、このツイートをしてる人が歌を作って歌うのだ、という感覚が繋がっていないんじゃなかろうか。知識として宇多田ヒカルが歌手だと知ってはいても、毎日タイムラインに飛び込んでくる面白い事を云う姐さんがリアルタイムで新曲を出す…この変な気分をどう捉えるべきか。いやまぁ大半の人が音楽活動復帰を待望していてそれを期待するツイートを繰り返している以上今の状況の方がexceptionalであるのは間違いないのだが、これだけ"他愛のない時期"が長くなってくるとその主客が逆転していく恐れがある。「あの宇多田ヒカルがツイッターで発言」から「ツイッターで発言でお馴染みの宇多田ヒカルが新曲を」みたいな心境に変化していく。まぁそれはそれでよいのか。寧ろ、そうなった方が新曲がよく売れるのかもしれない。スター性より、いつも面白い事を書いて楽しませてくれてる人が
書いた新曲、ってぇ方が食指が動きやすいかも。アメブロ勢とか他のシステムを使ってる人たちの成果と比較したい所だが、ツイッターというややプッシュ型のメディアがここからどういう影響力を発揮していくか。案外長期戦になるかもしれないよ。

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いや~、やっとCryptopsyの新曲を聴いた。来月19日発売のセルフタイトルアルバムのオープニングチューンだ。掛け値なしに素晴らしい。何が凄いかってバンドが入ってきて開始2秒で「フロ・モーニエだ!」と私に確信させた事だ。バンドのリーダーでありメインソングライターでもあるドラマーの名前である。ラジオ番組でバンド名も曲名も明かさずにいきなり始まった音源のドラムサウンドを聴いて即座に誰が叩いているかを確信させるって並大抵の事じゃない。私にそれを聞き分ける能力があるから…だなんて話はどうでもいい。彼のサウンドの個性が突出しているのだ。そしてその後の曲展開でも彼にしか叩けないフレーズを次々と繰り出していき楽曲を自身の色で貫いてゆく。テクニカルデスメタル/グラインドコアだなんて普通の耳で聴けば雑音に過ぎずそこに個性がどうのと言われてもピンともプンともポンとも来ないだろうが、あるんだから仕方がない。私は一瞬で説得されてしまった。

フロモーニエは現人神である。彼のドラミングの個性はその常軌を逸したスピードでもパワーでもテクニックでもない。図抜けたピュアネスだ。彼は、デスメタルにおけるドラミングを極めるという道を歩む事に一滴の躊躇も持っていない。彼のサウンドを一言で表すなら「全身全霊」。その迷いのなさは確実に音の正確さや切れ味、集中力の表現に凝縮されている。求道者ならではの純粋。最早イデアの世界の住民である。妥協を許さないどころか、妥協という概念がそもそも存在しない。故に私がCryptopsyサウンドに触れる時、まるで魂が浄化されるような感覚に陥る。他のデスメタルバンドでは味わえない感覚である。サウンドスタイル自体は「地獄ってこんな感じなんだろうなぁ」と思わせるに十分な激烈で下品なものなのに、そこで辿り着ける澄んだ神々しさはまるで菩薩に触れているかのよう。実際彼に触れた事があるが、ごつい肉体の醸す理想上のスポーツマンみたいな爽やかさにあてられてしまった。握手してもらってドラムスティックにサインも貰ったぞ。今でもウチの家
宝だ。初来日公演の時だな。確か1999年7月。ノストラダムスの大予言の月だったのだが私にとって彼フロモーニエこそが空から降ってきた大魔王だった。なんだ、懐かしいなおい。


やっぱり不機嫌を全面に押し出すエントリーを書くより、こうやって人を称えている方が座りがよいな無意識日記は。日本人は本当に人を誉めるのが下手だ。私だって上手くはないんだけど、何というか貶すだけなら幾らでも出来てつまらないじゃないですか。人間、出来る事より出来ない事の方が圧倒的に多い。銀メダリストの福原愛を捕まえて泳ぎが下手だサッカーができないアーチェリーも扱えないのか、と糾弾する事は容易い。しかし彼女は卓球が出来るのだ。自らの力で、世界一を今まさに決める舞台に立ち自らの力を示したのである。当たり前の事を言っているぞ。卓球が得意なコについては、卓球の話をすればよい。水泳や蹴球や弓術の話なんぞする必要はない。出来る事の話をしよう。出来た事の話をしよう。至らない点なんていくらでもある。道徳心でも相手を思いやる気持ちでも何でもなく、人を貶すのは単につまらなく、人を称えるのは難しく故に面白い。そうやって何千回も続けてきたのではなかったか。なので血液型の話は止めにするね。ごめんね。

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血液型の話ねぇ…今日はblog休もうかと思ったよ。はぁ。流石に前回の話を流れよく書き続ける気分にはならない。

何から書くかな。

まず断っておくのは、私自身「血液型別性格分類」なる考え方に関して特に興味がある訳でもないし、それ故専門家でもないから特に詳しい訳でもない。血液型と性格に相関がありました、と言われたら「あぁ、そう」という感じだし、やっぱりなかった、と言われても「あぁ、そう」以外言いようがない。「血液型と性格に相関があるか否か」という問題設定に関して私は確固たる主張なり何なりがある訳ではない。どうぞお好きに、としか言いようがない。

また、ひとが血液型の話題で楽しむ事自体にも特に悪い感情はない。星座占いや手相占いや風水や八卦や、色々あるうちのひとつだろう。占いと称されるものは大抵人生相談の一種も兼ねている(というかそれが主)ので、今風にいえばカウンセリングの一種と言っておけばいいし、コミュニケーションの潤滑油として機能するというのも頷ける。手相見せて、といって人の手を触りたがるのもアリだろう。みかしーが手相占いに凝り始めるのも時間の問題といえる。いやあれは無意識に触ってるだけで別に意図的にやっている訳じゃないか。

それに、何より他愛もない話である。今回ヒカルが言及している通り、アテになるようなものではない。実際はA型なのにヒカルは確実にAB型に分類されてしまうようだ。この分類が正しかろうが間違っていようが、特に害はない。話のタネとして持ち出しておいて、その主眼は会話の中でお互いの性格を確認し合う事にある。分類が合ってたら合ってたでそれでよし、合ってなかったら「そうなんだー」で終わりである。一世紀前の血液型分類法が何故このような広まり方をしたのかは不明(というか私は知らないの)だが、よく出来てるなぁ、とは思う。4種類位というのも多すぎず覚え易い。繰り返すが、主眼になるのは「血液型性格分類」のうちの"性格"の部分であって、その話題を日常の中で自然に持ち出せるようにした功績は評価されて然るべきだろう。

…という風に抑えて書いてはいるが、文章構成を見てわかる通り私は頗る不機嫌・不愉快・ハレハレフユカイなのだ。次回更新までに収まっていればこの話題は打ち切る事にするが、収まっていなければそのまま続けます。

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昨夜のタマキンツイートは2300RTを超えた模様だ。もっと他の呼び方はないのか。まぁいい。特にそっち方面に話を延ばすつもりはない。

日本人音楽家というのは研究熱心なのか真面目なのか、兎に角まず演奏が巧い。音作りも丁寧だ。トッププロ達の職人技は本当に恐れ入る。仕事人達である。故に「○○風のサウンドを作ってくれ」系の注文には滅法強い。すぐさま用意してくれる。

しかし、その肝心の「○○」の部分を生み出す力がほぼ皆無だ。まぁそれも仕方のない事で、商業音楽のほぼ総てを輸入して出来上がった文化なのだから当然といえば当然なのだ。例えば「演歌は日本の心の歌だ」とかいった類の言説は真っ赤な大嘘だ。演歌のバックで演奏してる楽器を見てみろ、エレクトリックギターにベースにドラムにアコーディオンにプラスに…と全部カタカナで書くものばかり。あれもルーツを辿れば洋楽(かなり広義のだけど)に行き着く。日本人に音楽でオリジナリティを求めてもまぁ大体無駄である。

そこで宇多田ヒカルの立ち位置がどうなのか、という話を始めるのが当Blogのあるべき姿なのだろうが、特に言い足す事はない。ヒカルの楽曲は、例えば出たばかりの新曲のイントロを聴いただけで誰が作ったかすぐわかるような個性の偏りがある訳でもないし、歌い始めれば唯一無二とはなるものの、単にここらへんの歌唱でヒカルに食ってかかれる人材が足りないだけで、それこそアメリカ全土からかき集めればヒカル程度の歌唱力なら埋没させる事も可能だろう。少なくともいちばんは誰かに譲る羽目になる。

少しはフォローしないといけないかな。しかし、ソングライターとして見た時ヒカルの才能は突出している。こればっかりは全米全土からかき集めてもなかなか太刀打ちできないだろう。特に、アルバム全体を質の高い楽曲で埋め込み尽くす能力は他の追随を許さない。The Beatlesだってこんな密度でアルバムを作った事はない。ソングライター3人居るのにだぜ。

もしかしたら、ヒカルって「アルバム」という形態が合っていないのかもしれない。HEART STATIONの構成は見事なもので、アレをアルバム全体で聴かないなんて有り得ない、とここでも当時さんざ繰り返してきた。確かにアレは素晴らしい。しかし、それは結果論である。というのも、ヒカルはひとつひとつの楽曲を全力で作るからだ。アルバムという単位で区切られているのはレコーディングの〆切と曲数くらいなもので、作っている時はアルバム全体のバランスとかを考えている訳ではない。寧ろ、そういった事を考えるのは作った後だろう。バラードを捨ててCelebrateを書いた時の事を想起。確かに、アルバム全体のバランスを考えてイケイケな楽曲を生み出したのだが、それは、その捨てられたバラードがそれなりに完成した後の話である。

何が言いたいかといえば、宇多田ヒカルには捨て曲がない、という誰もが感じる話である。捨て曲作る位なら曲ごと捨ててしまうのだ。その、一期一会ならぬ一曲一会、一球入魂ならぬ一曲入魂の態度をリリースに反映させる為には、全曲シングルでリリースするのがいちばんなのだ。続きはまた次回。

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イチローじゃないけれど増えたり減ったりする数字にいちいち一喜一憂するのは性に合わない…だなんて堅苦しい事は置いといて、素直に凄いなぁ、と思っとく。

昨夜のこふざけたツイートからも、光がこの記録(?)をそんなに重視していない事がわかる。確かに、ああいうツイートをしておいてフォロワーの多寡が気になって仕方ない、なんてことはないよなぁ。

この100万という数字はどう捉えればいいだろう。SCv2が50万枚程度だった事を考えるなら、CDを買ってくれる大半がツイッターでフォローしてくれていると…考えてもいいものかどうか。

CD購入というのは習慣である。店頭購入にしろ通販購入にしろ、その行為に抵抗があるかないかが大きい。CDが売れなくなっているのは「そもそもCDプレイヤーを持っていないからだ」という話を前に梶さんがQTしていたのが思い出されるが、それをそのまま引き伸ばして考えると、つまり今CDを買っている層は昔からCDを買う習慣を継続している人たち、という事になる。そういった層とツイッターを利用する層は、必ずしも一致しないのではないか。

音楽メディアの推移は近年特に著しく、5年も経てばもう次の世代に話が移っている。5年前ヒカルは着うたで記録を打ち立てたが、もうそろそろ「着うたって何」と言い出す若い子が出てきてもおかし…いや流石にそれは早過ぎるか、兎に角もう着うたが斜陽になってしまうのはハードの特性上仕方のない話ではあるだろう。そういった流れの中でのフォロワー100万。これもまたすぐに意味を為さない数字になるのだろうか。

そう考えると、ここにばかり注目していないで、ツイッターなんかはしないけどCDを買う習慣は未だにあるよ、という購買層に対して何らかの注意があって然るべきかもしれない。一銭も払わない100万人よりお金出してマテリアルを買ってくれる1000人の方が大事だ。レコード会社としてはね。ニコニコ動画で100万コメントを達成する人気アニメでもDVD発売してみたら数千枚レベルの売上だった、なんて事は普通だ。フォロワー100万というのはファンからみればお祝い事だが商売としてみた場合未知数そのものである。勿論宣伝効果はあるんだけどね。

このヒカルの、"万民に愛されるキャラクター"というスタイル自体が…という話はややこしくなりそうなのでまた次回以降に。

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ヒカルは作詞家でもあるからか、一曲まるまる美旋律という楽曲が非常に少ない。詞の構成を考えると仕方のない事かもしれないが、サビ(Chorus)に較べてAメロBメロ(verse/bridge)がどうしても弱くなる。先日のGoodbye Happinessもそうだし、私が再三再四絶賛しているCan't Wait 'Til ChristmasもAメロが弱い。あそこがサビ並みに強いメロディーであったなら紛れもなく最高傑作になっていただろう。

日本の商業音楽を沢山聴いて育ってくるとどうしてもABC構成(AメロBメロ~Chorus)が習慣づいてしまって、「そういう抑揚や押し引きがあるからいいんだ」なんて風に弁護するまでになってしまうが、控えめでありながら恐ろしく美しいメロディーだって存在する。そういうのと派手且つ美しいメロディーを組み合わせて曲を作れば抑揚や押し引きやメリハリがありながら楽曲全編美旋律で埋め尽くす事が出来る。要は才能とやる気の問題なのだ。

ヒカルの曲の中で楽曲中の旋律のテンションが最も安定している楽曲は、前も述べたようにぼくはくまである。次点はtravelingあたりだろうか。First LoveやEternallyはBメロがなかなかに美しいのだがAメロが若干弱い。逆にAutomaticはAメロの強さの割にサビが弱いのかもしれない。今迄そんな風に考えた事がなかったけども。

全編美旋律、という点では私は"光"を推したい。特にAメロの吸い込まれるような美しさはUtada等も含めた全レパートリー中随一か。更にサビの畳み掛けの贅沢さは筆舌に尽くし難い。未だに「宇多田ヒカルでいちばん好きな曲は?」という質問に対していちいち考えるのが面倒だから"光"と答えるようにしているのだが、やはりこれがいちばんでも全然構わないと思う。多分この曲で評価が分かれるのがBメロで、あの美しいAメロとサビメロに取り囲まれたらああせざるを得ないし、実際知的なソリューションだと思うのだが絶対的という所までは行っていない、かな。

美旋律々々々と頻りに書いているが、ヒカルが自ら書いた曲に対して「いままででいちばん美しい」という風に形容した事がある曲といえばFINAL DISTANCEだがこの曲の場合ピアノストリングスコーラスワークの三位一体の美しさだから単純な美旋律というのとはちょっと違う。歌だけだったら基本的にDISTANCEとほぼ同じラインだし…


…っていう風な流れであれやこれやの曲について語り始めると際限がなさそうだなこりゃ。ここで一応「この後、続かない」って断っときますね(^^;

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