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も周知の通り、光のクマチャンとの一体化願望は並外れていてナミブ砂漠にソレだけで赴いてしまう勢いだが、クマチャンのあの性格付けが"幼少時に少しでもこう振る舞ってみたかった"という願望の具現化/デフォルメだという見立てでいくならば、光の欠落部分が"甘える事"であって甘え方に悩むWINGSの詞はまるでクマチャンの到来を望んでいたかの様である。連続する作品群(BML情熱キプトラ)からWINGSを12月?に書き、翌06年1月19日にクマチャンは光の許にやってきた。以後UBの最終セッション辺りでぼくはくまが登場する。流れ的に絶妙なプレゼント、ホント光の事をヨクヨク理解してる人の仕業ですね☆
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ソレ迄の光のキャリアの集大成として必然的に生まれたというより寧ろ突然変異的な発生だったと解釈した方がスッキリいくだろう。楽曲の作風傾向からしてもそうだし異論は少ないとは思うが、ならば"最高傑作"という他曲との関係性の中で輝く称号を与える理由に欠ける。「やっと辿り着いた理想的な作品」だというのなら、以後童謡歌手になればイイ所だが勿論そうなっていない。いうなればこの曲は光の音楽観の中でずっと欠落していたピースを23歳にして漸く埋めてくれたのではないか。天から贈られるべき"時間"を、光は自らの手で作り出した、と。巧まずして偶然に。
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が、先に結論を云ってしまうと"物語の欠落"は決してネガティヴな事ではないのだ。この点を証明するのは何をおいてもこの3年間の楽曲の充実と歌唱力の向上(ホント、ドコ迄ウマくなんだろ)である。まさにその為に物語は喪われ、現れたのがぼくはくまだと言いたい訳だ。デリケートな論点だが、未だに光の"最高傑作"発言をシリアスに捉えていない層は多い-寧ろ多数派なのだろうが、光の音楽は今や"くま前くま後"で眺めるのが最も本質を掴み易い筈だ。もしぼくはくまを童謡だからとかみんなのうただからとかで傍流と見做す方がいらっしゃるなら、改めて再考を促す次第です。
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を感じ始めたのと"ぼくはくま"登場は関係がある。乱雑な自分の心のノイズのせいでそう感じるだけで光の方は何も変わってないのじゃないかと幾度も考えてきたが、先日アイアンメイデンの新曲新譜&ツアー日程が発表された時に確信した。イヤハヤ、その興奮と" ワクワク感"は自分が15歳の時と同じだった、イヤ、バンドの向上に伴い更に増すばかりといった所でそういえば彼らの新曲は06年9月以来でぼくはくま発表後初の経験だ。ハッキリ云って自分は15の頃から何も進歩しておらず(苦笑)、然しだからこそ不変の基準として云える事がある、「やはり今の光は物語が欠落している」のだ。
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以前のメッセ(PC/携帯)でアイヌ語の話が出たとき、Wikipediaで「キムンカムイ - (山の神)ヒグマ」という記述を見つけていたのだが、「イヨマンテ - 熊送り(の儀式)」というヤツの内容がやや酷な気がしたのでblogでは取り上げなかった。しかし今回、更に「熊=神」を強調されたので改めて調べてみることにした。昔だったら休日に図書館に行ってこないとわからなかった事が家で寝転びながら知れるって、いいねぇ。
日本語のページにはめぼしいものはなかったが、英語のWikipediaに「Bear worship」という頁を発見。字の如く「熊崇拝」の話だ。これに対応する英単語も存在し、「Arctolatry」というらしい。arctolatry.orgなるウェブサイトまで在る。そこの記述によると、「Arctolatry comes from the Greek roots αρκτο? [arktos] meaning “bear” and λατρεια [latreia] which means “service” or “worship.” As such, the word means “the worship or reverence of bears.”」、即ち「アークトラトリィ(Arctolatry)とは、ギリシア語で熊を意味する“アークトス”と礼拝や崇拝を意味する“ラトレイア”から来ている。つまり、この語は「熊を尊崇・崇拝すること」という意味である。」ということらしい。
同ページのニュース欄によると、つい最近(2010/6/25付け)「昨年9月にルーマニアで3万年以上前のものとみられる洞窟壁画が発見された」というニュースがあったらしく、そこに「熊の頭が二つ描かれていた」ところに、同ページは食いついている。まぁ、他の動物も描かれていたようで、特にニュースになっているのはサイの絵みたいなのだが(コメント欄で「これ、みんなサイっつってるけど、鼻長くね?マンモスじゃね?」というツッコミが入っていた。確かに「サイとされる写真(こちらからの引用)」を見るとそのようにみえる。3万年前と最近はいえ一応古生物なので、今後検討されるだろう。)、寧ろ食いつくべきは「A rough idea of their age might be gleaned by radiocarbon dating the numerous bear bones found on the floor of the cave.」の箇所、つまり「洞窟の床面に幾つかの熊の骨(恐らく化石)が発見され、放射性炭素年代測定法による年代の特定がまたれる」って方じゃないの、と思う(追記:と思ってたんだけど、今リンク先みたらバッチリ太字で書いてあったw 見落としていたか、書き足されたか)。まぁ、同ページはなんとなくヘンな感じなので、これから充実していくんじゃないかな。あ、ちなみに、この洞窟自体は30年以上前に発見されていたけど、水がたまっていたり入り組んでいたりでつい最近まで奥の方までなかなか調査できなくって昨年9月の発見になったらしいです。大変だねぇ研究者って。
脱線した。兎に角、3万年前の中欧の洞窟で暮らしていた人が熊の絵を描き、熊の肉や皮や骨を利用していたことは確かなようだ。更に、先述のWikipediaには「Bear worship may have been practiced as far back as the Middle paleolithic period amongst Neanderthal societies.」、つまり「熊を信仰する宗教はネアンデルタール人の社会にまで遡ることができる」という記述すらある。ネアンデルタールの存在範囲は年代・地域とも幅広いので、元文献をあたらないと何万年位前のどこの話かわかんないけど。
いちおう、そのWikipediaの冒頭部分だけでも訳しておこう。
Bear worship (also known as the Bear Cult or Arctolatry) is the religious practice of the worshiping of bears found in many North American and North Eurasian ethnic circumpolar religions such as the Sami, Nivkhs, Ainu,[1] and pre-Christian Finns. There are also a number of deities from Celtic Gaul and Britain associated with the bear and the bear is featured on many totems throughout northern cultures that carve them. Bear worship may have been practiced as far back as the Middle paleolithic period amongst Neanderthal societies.(Wunn, 2000, p. 434-435)
熊崇拝(熊カルト、あるいはアークトラトリィ)は、北アメリカや北ユーラシアの極地付近(筆者註:恐らく、北極星をのぞむ、という程度の意味かなぁ)の民族(Sami, Nivkhs, アイヌ、紀元前のフィンランド)等のあいだにみられる熊を崇拝する宗教的慣習である。ゲルト人のガリアや英国には熊と関連する神が多数在り、北欧の至る処の文化において、熊はトーテムに刻まれてその(宗教的な)存在感を示している。(以下先程簡訳したので略)
あとは、この部分だろうか、
The Ainu in Japan, the Nivkhs in Russia, the Haida of North America, and many peoples of central Asia regard the Bear Mother as their ancestress. The Great She Bear, Ursa Major, watches over us from the sky.
日本のアイヌ、ロシアのNivkhs、北アメリカのHaida、そして中央アジアの多くの人々が母なる熊を先祖(の象徴)であると見做している。夜空に輝くおおぐま座となって自分たちのことを見守ってくれているというのだ。
熊は母であり先祖である、と。
なお、英語版WikipediaのAinuの記述の殆どは、こちらの論文(金田一京助によるもの)を元に書かれているようだ。ログインしなきゃ全文読めないらしいので読んでないが、冒頭部だけでも参考になるだろう。
特にオチもなく(苦笑)、今回はまぁこんなところです。
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だが、ツアーに行けた人と行けなかった人でテンションが決定的に違うかというと案外そうでもない気がしてきた。ループしまくる話題は決まっていて、LIVEDVDリリースの有無,出来てる筈の新曲とタイアップの行方,次の日本語アルバムとジャパンツアーといった所であって、1,2月にLIVEに参加していようと最早その渇望感に大した違いはない感じだ。かなりの(恐らく00年以来の)密度で光は、特にこの2~3年間はアウトプットを繰り返してきてる筈なのに、更に私なんか1月に過去最高の出来の生歌唱を堪能したばかりなのに感じるこの渇望感の正体を、探る気概で今週はいってみたいと思います。
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進出記念】6.27(Sun) 22:13
はみ出す位長いメッセタイトルをどうも有難う(タイトルに制限字数があるのだウチの更新は)。「ルール違反じゃないのサッカーで手を使うのって?」と疑問をお持ちの読者に解説すると、現アルゼンチン代表監督マラドーナが現役時代手で球を叩いてゴールしたのが認められ(ヘディングと見做され)たのを"神の手"と称した故事がありファンの間のみならず語り草となっているのだが、ソレと掛けている訳だ。"神"が入る所に"熊"と入れたのだから即ち光は『熊=神』だと云いたいのね、とか書くと又メッセのタイトルが長くなりそうなので珍味の名という事に…も、出来ませんな;
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恐らくタイトルは満面の笑みと似たと煮たを掛けたモノだなと指摘してやろうと思ったが煮物の時は生姜あんまりすりおろさないね、的外れでした。問題は何故このタイミングなのかという事だが多分"オヤスミナサイ"のつもりだったのだろう、次の6時半のメッセが如何にも"今ニュースで知りました"な感触だものね。今から寝るから皆応援頑張って、と。だからってサッカーにまるで興味がない訳でもなく次戦パラグアイ戦で中村俊が起用されるならクマチャン再登場だわな。先だって試合展開読んだのかな光は。バカな事云うなと光に怒られそうだが、コレは何となく次の試合も観てしまいそうな私です。
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真夜中々ずっと起きてた訳でなく1度寝て起きたのかな、スカパーで観てた筈のクマチャンも登場してないしね。"喜びの"というからには日本が勝って嬉しいのだろうが、例えば私なんかは蹴球日本代表に対しては若干他人事なので、光の帰属意識がどこら辺にあるのかと余計な事を考えてしまう。何故アメリカが予選第3戦後半ロスタイムに劇的決勝トーナメント進出ゴールを決めた時に同じメッセがなかったかというと、自身の母国云々の前に単に"周りに騒いでる人が居なかった"からだろう。仮にアメリカでW杯をファンに囲まれて観ていたら同じ様に喜んだのではないか。日本てククリも奇妙なモンだね。
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芸風は、その誤読のなさ故に世代間対立も継承も薄い。体よくいえばココは"最後の楽園"であって、音楽的に軽蔑される心配も薄く、感性の赴くママ楽しめて、然も光の場合抜群の実績と知名度があるから社会的居場所も確保されている(「誰のファン? アー宇多田ね」)。イイ事尽くめとしかいえないのだが、僕らはすぐにソレを忘れて新曲はメッセはと騒ぎ立てる。手前勝手なものだナ、と思ってきたが寧ろコレはファンの側の"献身の精神を満たせない苛立ち"の顕れかと思う様になった。欲張りな話だが、人には対立や継承を通して帰属への貢献を感じたい心が不可避的にあるんだろうな。
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レニークラビッツだと光は何度か言ってた気がするが、ココら辺のチョイスに自分の立ち位置を(無意識的にではあれ)よく理解している事が見て取れる。決して彼は後世に多大な影響を与える様な革新的な音楽をしている訳ではないが、歌もギターも総じて質が高く、然も彼独自の個性を確立していてどのジャンルの人からも等距離に尊敬されている。ヲタク的1歩手前に過去の音楽への造詣も深くカバーセンスも白眉で非の打ち所のない音楽家だが所謂"レニクラ派"や"レニクラキッズを余り生み出さない点はジミヘンやVanHalenとは大きく異なっていて、歴史的にも光同様一匹狼的な立ち位置なのである。
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に顕著な様に、形式/形態に惑わされるからである。多分光はほぼ総ての音楽の"意図"を汲み取る事が出来てしまう為形式を軽く飛び越えて既存の音楽をなぞれるのだろう、ヒトコトでいえば"歌の心"を一切見失わないのだ。然し乍両刃の剣、即ち光自らは形式に頼らずに作曲可能な為曲に決まったフォームがない。能力の欠損、つまり突然変異が生物系進化の原動力であるならば、光はそのスタイルを後世に継承する事もなければ自らが音楽的パラダイムシフトを引き起こす事もない。この時代に生まれた奇跡の一期一会として語り継がれる存在になるだろう。兎に角我々は幸運なのよ。
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音楽は前世代の音楽を"カンチガイ"する事で生まれてきた。例として何かを出すのが憚られる為案外触れられない話題だが、ラップがPopsのスタンダードな世代にとって前世代の音楽は、至極乱暴にいえば"そういう風に聴こえている"訳なのだ。微妙なAメロの駆け引きは"何かブツブツ言ってるだけ"でサビ迄の時間稼ぎに過ぎず、ギターソロなんて完全に雑音である。決して揶揄している訳ではなく、メタラーにもメロデスやメタルコアで起こった事だ。しかし、光の様な"前世代のPopsを誤読せず完全に理解してしまう"才能の場合、逆に斬新な音楽性は生まれ難い。覿面に前世代のウケはイイけどね。(続)
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レッドツェッペリンを唄ったらどうなるか、イヤ、ロバートプラントの代わりに加入してしまえばどうなるかを考えるのは楽しい。詞が男目線でも今迄尾崎やGreendayを歌いこなしてきたのだし問題ないだろう。多分、"コレはジャニスに唄わせたい"と思われる事の多いSinceIveBeenLovinYouなどはかなりハマると思うのだが如何かな。呑気にアイディアを出せるなら、天国への階段を1人称の詞に書き換えて唄うなんてのは光の力業で成り立たないか。ココでトレボヘの同曲に関するエピソードを思い出してはいけない。唐突に妄想が終わってしまうからだ。もしかしたら、と思える事が大事なのである!
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「もう完全に世界的トレンドになってるみたいだね~ブブゼラ、サッカーにそんなに関心がなさそうだった光ですら名前を使っちゃう位だ」「国同士の、いやチーム同士の争いすらピンとこない光が今回どうやら1試合丸々観戦したみたいで、少々驚きだよ」「全然無関心ってコトもないのかな、そういや06年も02年も多少は話題に出してたか」「ん~そうだね、今回はスカパー契約迄しちゃって」「能動的だよね~中村選手の名前を熊々態々出すあたり結構ハマってるのかもしれないし、24日デンマーク戦は彼の誕生日、光もナマ観戦してメッセ更新するかも…早朝3:30でなけりゃねぇ(苦笑)」
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