無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ツイッターでコメントを貰えたのでホクホクして前回の続きを書こう。(嬉々)


ヒカルがフレディについて歌った歌は『Animato』の他にもうひとつあって、それが『This One (Crying Like A Child)』だ。こんな風に歌われている。

『Who am I trying to fool
 Honey, I've been livin' on my own
 Like Freddie』

グーグル先生に訳して貰うと

「私は誰をだまそうとしていますか
 ハニー、私は一人で生きてきた
 フレディのように」

という風になるが、ここで注目すべきは『livin' on my own』というフレーズだ。これは、昔からのファンなら見覚え聞き覚えがあるだろう、ヒカルが2000年(平成12年)の夏に全国を回ったコンサート・ツアー『Bohemian Summer 2000』でカバーした歌のひとつが「Living On My Own」だったのだ。もちろん、そのヒカルが敬愛するフレディ・マーキュリーの楽曲である。

ここらへんなかなか小洒落ているのだが、今この歌を聴き返して私が感じ入るのはその直後のフレーズだ。

『But I'm still a woman,
 Baby, tell me how』

「でも私は一人の女でしかない」。これは、本来のこの曲のストーリーを背景にすれば「自分はあなたにとってファンの一人に過ぎない」みたいなことなのだが、今これを聴くと

「フレディ、あなたは性別なんか超越して生きていたけれど、私は女でしか在れないわ。」

と憧れに歎いているように思えてくるのだ。まだこの頃はノンバイナリという言葉も知らなかったからねヒカルは。

いや、そりゃこの解釈は、私の思い込み、しかも今の思い込みでしかないんだけど、こうやって2009年にリリースされた歌を聴いて勝手に再解釈するのもアリだと思うのよ。というのも、ヒカルさん、(御存知の方も多かろうが)2004年にリリースした『Single Collection Vol.1』の表紙詩でこんなことを書いているのだ。

『In awe, I receive messages from the past
 --- lyrics that become self-prophesies, ... 』

訳すとこんな感じ。

「畏れを以て過去からのメッセージを受け取る。
 それは自己予言を成就させた歌詞。」

これはどういうことかというと、ヒカル自身が過去に何度か語ってきたように、書いた時点ではそのつもりはなかったのに後から振り返ってみると未来の自分のことを予言していたとしか思えない歌詞が幾つもあるのだと。

お母様の藤圭子さんが「演歌ばかり歌ってたら不幸になるから」と頑なにヒカルを演歌から遠ざけたというが、彼女もヒカルのいう「歌詞の自己予言能力」を敏感に察知していたのだろう、不幸な歌詞を歌っていると不幸になるのだと信じて止まなかった。

ここではそのメカニズムに立ち入らない。単なる強い自己暗示なのかもしれない。兎も角、歌詞にはそう受け止めさせるだけの何かがあるのだ歌手にとっては。故に、過去の歌の歌詞を現在の視点で再解釈するのは、宇多田ヒカルの世界観に於いてはとっても「アリなこと」なのだと、改めて強調したい。

だからって、今私が言ってる事が妥当かどうかはまた別の話だけどね! 私は私が言ってる事が正しいと主張しているのではなくて、2022年の今2009年の『This One (Crying Like A Child)』を聴くとそんな風に感じられたという私の心の動きの事実を記したに過ぎないのです。えぇ、なんといってもここは私の日記なのですから。そもそもそういうことを書く場所なのよぅ。

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なお前回のタイトル「私と私が手をとりあって」はヒカルが長年敬愛して止まない(『Animato』の歌詞にも登場する)フレディ・マーキュリーが死ぬまで在籍したイギリスはロンドン出身のロックバンド、クイーンの楽曲“Teo Torriatte”に由来する。

フレディは経歴からすると恐らく両性愛者で、それは性的指向の話だが、ステージなどでのファッション・センスからするともしかしたら性自認の上においても両性的であったのかもしれない。そう、今でいうノンバイナリにあたる人だったのかもとも思われる。“Love Of My Life”の歌詞なんてとても“女性的”だしね。

そう(21世紀の)今の視点で眺め直すと、ヒカルのフレディに対する異様な熱狂は、もしかしたらパフォーマンスや歌唱力に対する憧れ以上に、今より更にもっと偏見に満ち満ちた世界の中で強烈な自己主張と葛藤を魅せ続けたフレディ・マーキュリーという20世紀を代表するロック・アイコンに対して、ヒカル自身も知らず知らずのうちに尊敬と共感を持ち合わせるようになったからなのではないかな、とふとそんなことを思ったのでした。


でその“Teo Toriatte”には

「静かな宵に 光を灯し」

という歌詞が日本語でそのまま出てくる。英語だと

“In the quiet of the night
Let our candle always burn”

の部分にあたる。かつてマリア・カラスが「ヒッカ~ル!」と歌った空耳の場面にあれだけテンションが上がっていたヒカルならフレディの歌う「ヒカリ」にも結構反応してたんじゃないかなと妄想する一方、一昨夜の『君に夢中』でヒカルが歌ったときのステージ・セットに沢山の灯された光─ロウソクが並べられてるのをみた私は「なんだかまるでクイーンみたいなイメージだな」とそれらを勝手に脳内で繋げて捉えたのでした。今でもヒカルは「キャーッ!フレディーッ!」ってテンションでいるのかなぁ。憧れは永遠だもんね。

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いきなりトークのディテールから話を始めてしまったが、当然関心のメインは『君に夢中』のパフォーマンスである。これまた当然素晴らしかった。言うことなし過ぎるくらいによい出来だった。

生放送かどうかすら気にならないくらいに最近のパフォーマンスは安定している。昔ならもっとビクビク観ていたんだけどねぇこちらも。ヒカルの最近の安定感の凄いとこは、「儚げで危うい、不安定になりそうな歌声」を安定して出している点だ。よくこんな矛盾を維持できるよな。例えばMISIAの歌声は声自体が安定感抜群でこれきっと生で聴いたら感動するより先に安心と快感が来るだろうなと想像するのだが(そういやまだ一度も生で観たことないなー日本列島在住の者としてそれでいいのか!?)、ヒカルの歌声は切なくて心細い心情をそのまま表現する声色と発声を維持し続けるのでこちらは心のキュンキュンが止まらなくなる。ヒカルの声に安定感が欠けるというのはそのキュンキュンが止まってしまうことなのだが最近は全くそれがない。見事なもんだね。

ここらへんを取り違えると「出来の良さにバラツキがあるその危うさこそがロックだ」みたいなよくわからない擁護論になるのだが、ヒカルはやっぱりPopsのミュージシャンなんだなと感心するのでありました。ほんとこんな繊細な声をコンスタントによく出し続けるよね。2016年以降の発声改革の賜物ですわきっと。


さてさて、それと同時にこの日記の流れからしたら、そうあれですよ、「フリーハンドの左手の動き」について触れなくてはなのですよね。だが今回のヒカルさん、時たまマイクを左手に持ち替えてんじゃん! 右手がフリーハンドになる時間帯があるじゃん! いやそれ自体は昔からあるんだけど、ここ最近の2曲(『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』と『BADモード』)は片手オンリーだったからね。うぅむ、ここで変えてきたか。

なぜ今回はそんな持ち替えが発生したのか。結構意図的だと私はみた。

いつ左手にマイクを持ち替えるかといえば、サビメロとDメロのときがメインのようだ。AメロBメロでは右手で持っている。ただ、なんだろうね、本人が「持ち替え忘れた」のかな、それぞれ少し遅れて持ち替えてる。「あ、ここで右手を動かさなきゃなのにあたし今右手でマイクを持ってんじゃん!?」と気づいて慌てて換えてるような。もしそうならフリーハンドの動きは予めある程度イメージが出来上がっている訳だ。

そのフリーハンドの動きで私が今回触れたいのが

『どの私が本当のオリジナル?』



『私が私を欺く』

の2つのパートでのものだ。前者の時ヒカルは左手を自らの胸に当て、後者の時は右手で頭を抱える仕草をする。ここが恐らく対比になっているのだ。

つまり、「本当の私」は胸の中、ハートに在って、「欺く私」─これは「嘘を吐く私」「嘘の私」と言い換えてもいいかもしれない─は頭の中にあるのだと。そして、それぞれ、心を指し示すのが左手で、頭を指し示すのが右手なのだ。これをやりたくてヒカルは今回マイクをわざわざ持ち替えてきたのだと思う。

ヒカルはかつて、悪夢を見るときに右手で左手を掴むという話をしていた。これはアタマ(理性)がココロ(感情)を押さえつけているとヒカルは解釈していたが、一方でそれは、今回の左手と右手の使い分けからすれば、心の叫びがヒカルの「本当の私」であり、アタマのリクツは「欺く私」でもある、ということなのだろう。

『Give Me A Reason』で『ほんとはワケなんていらない』という歌詞が出てくるが、ここの『ほんと』は、つまり「私の心」或いは「私の本当」であって、もうこの頃からヒカルは己の理性と感情、ウソとホントウの均衡をテーマに歌ってきていた。それが23年後の2022年の今になっても貫かれたテーマであると、今回のヒカルの右手と左手は告げてくれている。

そして、この間私は「ライブ・エール」のトーク場面でヒカルの左手と右手が“和解”しているという点を指摘させてもらったが、その後の「SONGS OF TOKYO」でのトークでヒカルは「ありのままのつもりでいたんですけど、ありのままの自分がわかってなかった。そこが一致してきたのがいいのかな。」といった話も語ってくれた。この発言も、理性と感情が、右手と左手がいがみ合わずに手を取り合っている事と軌を一にしているように思われる。

そしてこの「CDTV LIVE LIVE」での『君に夢中』のパフォーマンスでヒカルは、上記の通り左手で心に在る本当の私を、右手で頭に在る欺く私を表現し、そして、曲の最後でそれぞれ左右の手で持ち替えて片手ずつで持っていたマイクを“両手で”そっと抱え込むのだ。いや、この場面を見た時には鳥肌が立つのを禁じ得なかったね。ヒカルは確かに今漸く、ホントウとウソ、心と頭、感情と理性、左手と右手をひとつに一致させつつある。それを示唆する素晴らしい、記念すべきパフォーマンスだったのだ昨夜は。


しかしこの人、長く観てれば観てるほどその甲斐を感じさせてくれるよね。マイクの持ち方ひとつ見てるだけでも、こんな風に23年前の歌からの流れの中で本当に考えさせられるのだから。もっとも、そんなフリしてこちらを欺いてるだけなのかもしれないけどもね!(笑)

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頭から流しそうめんかぶったみたいなお召し物がセクシーで大変よろしゅうございました…とかって書いたら顰蹙を買うかな? 昨夜のCDTVの出演は途中でVTRが止まることもなく(笑)無事終わりました~。

という訳でまずは録画だったみたいね。オンエア直前にヒカルがツイートするもんだから楽屋からかと焦ったよ。告知忘れてたというカタチでしっかり告知。抜けてるフリして抜かりありません。

そして出演内容ですが、トーク長かったねぇ。番組全編観てないからわからんけど、1曲歌うだけの歌手の中では最長だったんじゃない? それだけ毎分稼げると思われてるってことか。今後も長尺トークをゲットする為にも視聴率よかったらいいな。

そしてそのトークの内容がほっこりまたほっこりの連続で。旬の野菜をスーパーで買う話やらコンビニのセルフレジにびっくりする話やら。ついついロンドン在住というとシャレオツセレブなティータイムと洒落込んでんじゃねの?ってイメージでみられがちだけど実態は粉抹茶溶かして今日も一日お疲れさん、だもんねぇ。いやちゃんと奇抜な色合いのカフェに行ったり急に話し掛けられたりするバーに行ったりロンドンライフも満喫してるんですが。

で日本のキャベツが美味しい、イギリスでは旬以外はイマイチって話になり。その中でぼそっと「私が(買いに)行ってるとこがよくないのかな?」と呟いたのがツボでねぇ。「おいおい、ウェイトローズをディスってんじゃねーぞ!?」と焦ったのだけど(詳しくは https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/818e21dd4f201d3ed3d2258333144f86
の最後参照)、これの何がいいかって、海外/国外エピソード話すときってどうしても主語が大きくなりがちなのね。アメリカでは、とかイギリスでは、とか国単位になったりするんだけど、実際には、当たり前だけどひとつの国の中にも凄い振り幅があるもんだから、「そのエピソードってその地域特有orその場所限定だったりしない?」とか思ったり思わなかったりする訳だ。そこらへん、ヒカルさんも普段から気をつけて話してるからこの呟きが出てきたんじゃないかなって。訊く方はお国柄の違いを鮮明にしてトークを面白くしたがるからそこらへんのニーズにも応えつつ、というのがまた気遣いさんでお優しい。そういうちょっとしたことで普段の姿勢みえちゃうの大変美味しいのでやっぱりトークが長いのは嬉しいことなのでございました。次もすぐあったりしないの?(欲張り)

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あー今夜は9時台の出演なのか。間に合うだけでなく日記1本書けるやないかい。有難い。

今さっきちらっとテレビを観てみたけど、トークは最小限にしてサクサク歌と踊りを披露していく番組なのね。ヒカルさんも『君に夢中』をサクッと歌ってサクッとバイバイなのかな。潔いのはそれならそれで。欲張ると四時間全部ヒカルが歌えよってなるのでどっかで我慢せんとな。(本音過ぎる)

さてこの後何に注目するかといえばもちろんいちばんは歌声なんだけどこの日記の流れとしてはテレビ出演となると「左手の動き」になるのよね。どんな動きで歌詞やメロディを表現してくれるか。

ただ、そうなる為にはハンドマイクを使うのが前提になるのだが、はてさて毎回広いスタジオを使わせて貰えるTBSでハンドマイクにする必要があるか? やっぱスタンドマイクじゃない?という気もする。まぁその場合は左手でなく両手に注目なんですが、となると大体LSAS2022と似た感じになるのかな。でも髪型もメイクも衣裳も全然違うだろうからそこらへんに目が行くかな~。

んでもあたしとしてはグランドピアノで弾き語りして欲しいんだよね。せっかくこれだけピアノをフィーチャーした楽曲なんでね。どのラインを弾いてもいいし、フリだけでもいいよ(笑)。なんていうか、ヴィジュアル面でもこの歌はピアノが鍵になっているんですよとアピールして欲しいというか。鍵盤楽器だけにね。(何言うとるんか)

で、どうせなら、収録でも生中継でも、ニューヨークから登場して欲しいというのがあたしの希望でねぇ。ヒカルが言ってた通りこの歌はニューヨークで作った歌だから、そこで歌うと作ったときの空気感を纏えるというか。作った人が歌う迫力に加えて作った土地の空気まで合わさったらいいテイクが取れる気がしてね。でも生中継で歌おうとしたら朝8時からスタジオに入らないといけないのか時差的にっ。そりゃあ現実的ではないなぁ…と思ったけど『Come Back To Me』をテレビに出て歌ったときってそんなもんじゃなかった? 未経験てほどでもないのじゃない? さぁどうでしょう。まぁ来日してた7月下旬~8月上旬のうちに収録したものを流すか、ロンドンで撮ったものを流すかするというのが通常の予想なんだけど、願望言えるのオンエア始まる前の今までなので好き放題言っとこう(笑)。

にしてもねぇ。それなりにキャリアのある人たち(10年以上くらい?)が軒並み昔の代表曲を歌ってる番組でデビュー23周年のヒカルさんがほぼ新曲と言っていいポジションの歌(ってもうそろそろ楽曲情報解禁されて1年経つんですがね)を歌えるってな、あらためて凄いやね。しかも過去の代表曲と抱き合わせとかじゃなくて、この曲1本でね。しかもしかもアーティスト側がネームバリューで捻じ込んだんじゃなくて、テレビ局側が去年のドラマの大ヒットへの貢献度の大きさに敬意を表して&この曲の鮮度なら視聴率が取れると判断して依頼してきた感じがバリバリするので、いやぁ、この2年間しつこく言い続けてるけど、このアーティスト/ミュージシャンとしての「現役感」、とんでもないなぁ。「宇多田ヒカルの全盛期=ずっと常に今」の法則が全く崩れませんね。セールス的な山あり谷ありはあってもね。


さて、オンエア後の明日以降、今書いた事がどれくらい叶ってるか検証しますか。いや、ヒカルが新しく歌ってくれるってだけでもう何もかも叶ってるんですけども!

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昨夜は「SONGS OF TOKYO」の地上波放送で、今夜は「CDTV LIVE LIVE」の放送だ。もしかしたら生出演? そこはわからないけど、連日贅沢な話だわね。


しかし、これだけアルバム発売後にプロモーションがずっと続くケースというのもヒカルの場合過去似なかったのではないか。アルバム配信開始日から数えると7ヶ月、フィジカル発売からも半年が過ぎている。過去こんなに引っ張ったアルバムあったかな?

『First Love』は1999年3月の発売。半年後の9月の時点ではヒカルの地上波出演が一段落し、ナチュラルブリーズコンサートへの出演を以て一区切りといったところ。注目は秋発売のニューシングルへと遷っていった。結果的にそれはセカンドアルバム収録の『Addicted To You』となったので、つまりファーストアルバム発売後半年経過した頃には関心は次のアルバムへと移っていたのだ。

『Distance』は2001年3月の発売。4ヶ月後の7月には『FINAL DISTANCE』がリリースされ、これは当初変則シングルカットだと思われていたが結果的には次作『DEEP RIVER』からのファースト・シングルと相成った。

その『DEEP RIVER』発売(2002年6月)後はヒカルが体調不良でプロモーション活動もだいたい休止、その次の2006年6月『ULTRA BLUE』は発売後すぐ全国ツアーに突入していく。2008年3月の『HEART STATION』は同年5月に特大のシングルカット『Prisoner Of Love』を投下した後、『Eternally』のニューミックスやUTADAの2ndアルバム、書籍『点』『線』のリリースに遷移していったのでここもアルバム発売後のプロモーション期間は短い。

2016年9月の『Fantome』の場合はアルバム発売後同年内のラジオテレビ出演は活発だったがMVを作った『忘却』のプロモーションをしないまま『Ray Of Hope』EPが海外でヒットしてレコード会社を移籍、それ以降は次の2018年6月の『初恋』アルバムの楽曲にスポットが当たっていく。そして同作は2006年の『ULTRA BLUE』同様ツアー連動だったので以降のプロモーションもツアー絡みとなる。


こうしてみると、宇多田ヒカル名義に関して言えばアルバム『BADモード』の発売後プロモーション活動は、過去最長期間に突入したと言ってよさそうだ。発売前は「既発曲の割合が多すぎる!」とか言われていたのにこの事態。それだけレーベルがこのアルバムの出来栄えとそれへの反応に手応えを感じているのだろう。もしかしたら11月のネトフリドラマまでこのまま『BADモード』で引っ張るのだろうか? 多いに結構。それをするだけの価値はある作品だ。一方でそろそろ真っ新な新曲がリリースされてもおかしくない時期に入っているともいえるので、今夜のテレビ出演が終わった後も目が離せないことは間違いない。ま、なんにもなくても目を離す気はございませんけどね!

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おぉ、NHKワールドの動画配信で再び「SONGS OF TOKYO」が観れるようになったぞ。よかったよかった。観れへんようになるんが2ヶ月早いっちゅうねんなぁ。実際は10月26日までですよ、えぇ。ともあれ、こういうこともあるので日曜深夜の地上波放送はしっかり録画しておきたいところ。皆々様抜かりなく。


そして週明けは「CDTV LIVE LIVE」への出演だ。どういう番組なのかわかってないけどテイストとしては歌オンリーなのかな。『君に夢中』は地上波初披露なのでこれはもちろん注目ですわね。途中でドラマの名シーンとか挟んできやしないだろうな…そゆことしてウケるのかな…いやウケそうだなーあのドラマとんでもない人気だったからなぁ…あたしはもちろんずっとヒカルさんを映してもらいたいと思うが、歌の音声を邪魔しないのなら多少の演出は甘受したい。まーややこしいことをして「今後TBSには関わりません」とかU3MUSICから言われたら誰かの首が飛ぶので滅多なことはしないでしょう。相変わらずVIP待遇なんですよそこは。

しかし、2022年8月の記憶、俺大丈夫かなぁ? 経験上これは間違いなく各番組の記憶が混ざっちゃうヤツだわ。NHKが歌を同じテイクで別番組で使ったりしたからね。髪型やメイクも近いし…。ほんまCDTVは曲が違ってよかったよ。これが『BADモード』だったらと思うとね。ますます混ざっていただろう。

でもね、長い目でみると、ヒカルさんのアピアランス、ヴィジュアル・イメージってのは「記憶を混濁させない」方向でずっと来てるのね。『Addicted To You』で大幅にイメチェンして以降、常にヴィジュアル・イメージを変えてきたヒカルさん。でもあの頃はそれにこんなに恩恵があるだなんて思わなかったな。だって髪型やメイクでどの時代なのか即座にわかるんだから。これが一貫したヴィジュアル・イメージだったら、例えば知らない写真を見たときに「ああ、これは2006年頃だな」とかわからなかったもの。

これが歌だとかなり難しい。特に、デビュー時点から「なるべくイメージを変えないように」と注意を払い続けてきた『First Love』のライブ・テイクなんかを歌唱だけで当てるのは至難の業だ。いやね、正直実際はイントロの歓声の違いやミックスの感触やらという歌声と関係ない時点で「これはヒカ5だよね」とかわかっちゃったりするからクイズにはならないんだけど、純粋にアカペラで歌だけ取り出されたら私は自信がない。それだけ音楽的には一貫したものがあるのだ。

だが見た目に関しては無頓着というか無執心というか。スタイリストさんに任せきりという印象がずっと強い。故に「似合ってねーなー!」と声を大にして言いたくなるメイクやスタイリングも過去には幾つかあったのだが、お陰で一目で時期や時代がわかるとはね。長年見てきたから受け容れられる有難い恩恵なんだなこれが。


(って、メイクやスタイリングっつってるけど、あたしの場合表情筋の付き方でみてるのが実際だったりしてまして…ヒカルさん、ほんと時期によって作る表情が違うのよね。その都度顔つきが変わるレベルで。やらかい顔してんだぜあー見えて。)


てな感じで、2022年8月の宇多田ヒカル様のアピアランスをこれでもかと堪能中の現在ではありますが、出来ればTBSでの出演は、NHKの時とは全く違う衣裳とメイクで出て欲しい訳です。別段似合ってなくても構わないので!(笑) 歌う歌も違うしね、そこは柔軟に変えて下さいな。それが記憶と思い出を混濁からあっさり救い出せる術なのですから。まぁ、歌い出しでマイクのスイッチが入ってないとかのでっかいアクシデントがあるのがいちばん記憶には残るのだけど、出来ればヒカルさんと歌だけは無傷でお願いします。

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昨日から(一昨日時点では大丈夫だったので)NHKワールドのオンデマンドサービスが技術的問題とやらで停止している。「ご不便をおかけして申し訳ありません。」だそうな。受信料払ってる身としてはクレーム入れていいやつなのかな?(威圧)

外で映像チェックするときはHPにアクセスすりゃいいやと油断してたわ。うーむ、やっぱり地上波放送された時の録画が要るな。日曜深夜24:25からの放送はしっかりと『よ・やっ・くぅぅ~♪』しておかないとですわね。それ歌いたかっただけですねあなたね。


してその「SONGS OF TOKYO」でのハイライトのひとつといえば、前もちょっと触れたオランダのyouriさんのからのビデオメッセージですわね。国や言語が違ってもヒカルさんからもたらされるエモーションは共通するんだなと痛感させられた。いじめに遭った時も(bullyingっつってたか)祖父母さんを亡くされた時もヒカルの歌が心の拠り所、safe spaceだったんだってね。わかる、わかるぞぉ。皆も共感の嵐だったのではないかなぁ。

しかし、これねぇ、裏を返せば人生が安定してくるとヒカルさんから離れていく、っていう事でもあるのよね。心が弱ってた時の支えは、強くなったら要らない。自転車の補助輪みたいなもん? そう思われそうだ。実際離れていった人たちの顔を思い浮かべると…ってしみじみしそうなのでやめとくけどもっ。

どこが分水嶺になるんかなと。心を助けてくれた恩義を感じてそのまま宇多田ヒカルという存在が日常の一部になるかどうか。それこそテメーで決めやがれ案件なんだが、その分かれ方って具体的にどこで差がつくのかなと。

答はわからないが、私個人の感触を綴っておこう。2010年の『In The Flesh 2010』初日公演をパイプライン・カフェで観てる時に「ああ、ここがいちばん居心地がいいな」と思ったのだ私。あの宇多田ヒカルが(UTADAでしたが)手を伸ばせば届きそうな距離に! 後ろ姿のTシャツの背中に浮き出る背骨の影までくっきり見えそう! とかなんとかいう興奮やらあったけど、その安心感が何よりも印象的でね。よく「実家に帰ったような」と形容するけれども、まぁあそこまでダラ~ッと溶けてる訳じゃなく(笑)、単純に自分が感じたまま過ごせばいい空間がそこにあるなぁとね。ヒカルに愛を届ける空間、かな。そして単純に、ヒカルがそこに居て歌っている空間だ。世界の中の他のどの場所どの時間でもなく、たった今いちばん居たいと思える場所思える時間に自分が居るときにどう感じるか、それを思い知った。何かの代わりでもなく、何かを待ったり急かしたり焦ったりもなく、何かに期待するのでも未来を見越すでもない、もちろん過去を悔いたり嘆いたりでもない、たった今そこに居たくて居るだけのシンプルなスペース。なんとも、心地好かった。自分らしく在れるとはこういうことなのだろうと。

youriさんは辛さや悲しみから逃れるsafe placeとしてヒカルの歌を捉えていたが、そんな逃れたい感情に苛まれる事が一切無くなったとしても、いや、無くなった時こそ、ここがいちばん自分らしく在れるのだと思えるならあらためてここに居ればいいのだ。

世の中いろんな人がいるからこそ回ってるのだと痛感しつつも。もし今ヒカルさんから心が離れつつある人がいるとするなら、自分らしさを見失っていないか自問自答してみた方がいいのかもしれない。仮初めの見栄や優越を感じられてそれで満足してしまってやしないか。いやそれも含めて人の人生は自由であるべきなんだけど。結婚式の誓いじゃないけれど「健やかなるときも病めるときも」ヒカルさんの歌は、いいもんだよ。

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「SONGS OF TOKYO」でヒカルは「なぜ恐怖と向き合うのか?(Why do I FACE MY FEARS ?)」という問いに対して(端的に言えば)「得るものがあるから」と答えていた。「もっと知りたいから」という動機も「新たな知見を得たいから」と言い換える事が出来る。何か得るものがあるなら怖くてもリスクがあっても突っ込んでくよと。


「得る」という述語で思い出すのが

『「失う」ってなんだ?!

 生きてりゃ得るもんばっかりだ!

 なぁ?(*´ー`*) 』

っていう2010年8月11日のメッセの一節だ。
https://www.utadahikaru.jp/from-hikki/index_3.html

どこか明石家さんまの「生きてるだけで丸儲け」(IMALUの名前の由来なんだったねぇ)に近い趣のある名言だが、そのヒカルの最近のパブリック・イメージといえば『One Last Kiss』の

『止められない喪失の予感』

の一節の影響がとても大きい気がしている。やっぱりこの曲断トツの再生回数だしな。つまり、「喪失感を歌う歌手」みたいな、そんなイメージな。

『生きてりゃ得るもんばっかり』な人にとって喪失とはダイレクトに死だ。それ以外、ない。生きてなきゃ得ないのだ。

もちろん、『One Last Kiss』で歌われる『喪失感』は死に限定されてはいない。シンエヴァの主題歌としてエンディング・テーマとして「始まった物語はいつか終わるものだ」というメッセージを込める役割も担ったのだし。だが、こうやってインタビューでヒカルが「得るものがある」と何度も繰り返すのを聴いていると、何かを得る事が生の実感であり、何かを得たと感じられないのであればそれは死への歩みであるのかもしれない、と感じているようにも捉えられ得る。

最近のヒカルさんは表情も穏やかで痩せすぎでもなく健康そうで何よりなのだが(母ちゃんに寝込んでいる暇は無いのか!?)、そんなでも存外『Face My Fears』、「恐怖と向き合うこと」に積極的なのは、生の有限と死の無限を最近より強く実感しているからではないだろうか。

いや、特別何か生死に関するエピソードが裏であったとか邪推する訳じゃないのよ。寧ろ逆で、なんでもない穏やかな日常においてそういう意識で生きてるんじゃないかなと。子を持って初めて「日常」を得た人にとっての日常とはそういうものなのではないのかなと。

漫画「ワンピース」のウソップの台詞に「毎日命はって生きてるからあいつらは本当に楽しそうに笑うんだ」ってのがあったが、ヒカルさんの昨今の笑顔がほんに滋味深く柔和で茶目っ気があり何よりとにかく優しみに溢れているのは、そのように毎日生と死を常に意識して生活してるからなのではないかなぁと。何かを得ることで生を感じているのだとすれば、ヒカルさんの「知りたい」はそのままダイレクトに「生きたい」気持ちそのものなのではないのかなぁ。『テイク5』の『今日という日を素直に生きたい』で自分の『生きたい』気持ちを再発見したヒカルさんが「知りたい」と言う度に我々はそれを「生きたい」のだなヒカルさんはと解釈できれば、なかなかに美味しいのではないでしょうか。何よりそれが得難い事ですので。

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あと「SONGS OF TOKYO」で印象に残ってる言葉といえばこれかな~。

『童心に帰るというか、こどもの目を通して見るじゃないですか。すべてが新鮮だっていう人といると、自分もそこにちょっとあやかれるというか。』

何がって、我が子を「人」って呼んだこと。多分毎日マンツーマンで暮らしてていちばん密接な相手で、「私が世話しなきゃ死ぬ」相手で、そりゃもう特別でずっとか弱く常に庇護下に置いてきた我が子に対して、ドライとかクールとかいうのも違うんだろうが、単なる他者と見做す視点も備えてるんだなと。「耳に入るもの目に入るものあらゆる物事が新鮮」な人であるから自分は学べるのであって、それが我が子だからとか幼いからとか、関係ないのね。ひとりの人として、そういう人から学べるという事に焦点が置かれてる。

これは多分、我が子だろうが尊敬に値する事をすれば尊敬し、ダメなことをすればそれはダメだと素直に思うし(言えるかどうか、言うかどうかは別として)、なんていんだろうな、7歳くらいのこどもを既に確固たるいち個人として視る視点があるということ。勿論、拙い所は拙いし自分が教えなきゃいけないし、サポートしなきゃいけないし、守ってあげないといけない部分は多々あるにせよ、基本的なセンとしては、お互いにひとりの人間として接してるんだなぁと感じさせる「人」発言であった。

だって、『自分もあやかれる』ですよ。自分のこどもにあやかる人ってそうそういないでしょ。

動詞「あやかる」は漢字で「肖る」と書く。肖像画とか不肖とかの「肖」だわね。似せて象る、みたいな意味だが、「老いては子に従え」という諺もあるけれど、老いなくても子から学ぶことは学ぼうという、謙虚の向こう側みたいな姿勢がそこはかとなくよい。どうしても親の役割を担っていると、こどもに対してしっかりしなくちゃとかそういう義務感が勝ってついついその役割に殉じた振る舞いをしがちになると思うし、そういう心意気が人を親として成長させるのだからそれ自体はとてもよい頑張りなのだと思うが、こうやってふとした時に肩の力を抜いて知らないことは誰が相手でも学ぼうという姿勢は、親としての自信(と実績)と、生来からの自然体の為せる業なのかもとも。

でも結局、「知りたいから」に集約されるんですよね。他の欲求、見栄や沽券や面子を欲するより遥かに強く「知りたい」という欲を優先してるから、こどもが相手でも、我が子が相手でもそこから学んでやろうという気概が生まれてそうさせてるんだろうなと。謙虚の向こう側と書いたが、この人は単純にひたすら己の欲望に忠実なだけなんだなと。涼しい顔して自分の欲望を満たすために日々貪欲なのだなと、そう解釈する私でありましたとさ。

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「SONGS OF TOKYO」でヒカルが白状した中で「これは気づいてなかったわ!」と思わされたのが、

・『BADモード』は楽曲後半で、前半に較べてBPMが1.5上がっている

という話だった。いや~迂闊だった!

BPMは「Beats Per Minute/ビート・パー・ミニッツ」の略で、要はひとつの楽曲の中で1分間にバスドラをどん!どん!と何回鳴らすかというテンポの速さの指標となる数値だ。大きいほどアップテンポ、小さいほどスローテンポな曲ですよ、と。

こういう(曲の途中でテンポが変わる)トラックは、1曲オンリーでリピートをした時に前半と後半のBPMの違いに気づくことがあるのだが、そういや何百回と聴いてるけど私『BADモード』を1曲リピートしたこと一度もなかったわ。いっつもアルバムの順番通りに聴くもんだから次はほぼ必ず『君に夢中』か『One Last Kiss (Live Version)』なんだったわな。

てことで大雑把に確認してみたら確かに前半のBPMは約128で、後半は約129だった。1.5という確証までは持てなかったが、確かに心持ち後半の方が速いわ。面白いことにこの割合はLSAS2022のライブ・バージョンでも全く一緒で、どちらのテイクも全く同じクリックトラックかメトロノーム…つまり機械でテンポを指定して(ヘッドホンからチッチッと音が聞こえたりするやつね)意図的にテンポを遷移させているってこった。スタジオバージョンもLSASバージョンも、演奏時間全く一緒だからな。(テレビ出演もね) なんて精微なんでしょ。


だが、これ、「後半の演奏の方が勢いがあって盛り上がるぞ」ということ自体は既に感じていたですよね。だって、サビのメロディが同じでもバックの演奏が変わっているんだもの。端的に、ギターのカッティング・リズムとドラムのシンバル・ワークにおいて演奏される音の数が増えている。ひとことで言えば、後半の演奏の方が慌ただしいのだ。正確ではないが、前半で

「チャッチャッ チャッチャッ チャッチャッ チャッチャッ
 チーツク チーツク チーツク チーツク」

くらいだった演奏が後半では

「チャーチャチャ チャーチャチャ チャーチャチャ チャーチャチャ
 テケツク テケツク テケツク テケツク」

みたいな感じに変わっている。なので、仮に例えBPMが(曲のテンポが)変わっていなかったとしても、後半の方が勢いのある演奏だったという感想をリスナーはもちがちにはなっていただろうな。

しかし、悔しいな。これはヒカルに言われるまでに指摘しておきたかった! 注意深く聴いていれば、いやさ1回でも1曲リピートしてたら気付けてたかもしれないなぁ。週に10回綴っててもまだまだ語り足りてないんですよこのアルバム『BADモード』に関しては! もっと精進していきたいわぁ(…大きく欠伸をしながら)。

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「SONGS OF TOKYO」はアーカイブ配信が即座に始まった。それも10月26日まで観れるというのだなら2ヶ月以上か。存分に堪能させて貰おう。来週は来週でTBSがあるし、いやもうほんと忙しい(満面の笑み)。


その「SONGS OF TOKYO」では司会/MCの2人の取り合わせも面白かった。村上信五が所謂「一般視聴者」、宇多田ヒカルの名前は知ってるけど普段追いかけてる訳ではない音楽リスナーの代弁役を務め、ホラン千秋がもう少しツッコんだ、やや熱心なファン寄りな姿勢で臨むという二面体制。28分間の番組であらゆる視聴者を満足させる事は難儀だが、これならかなりの割合の人にヒカルの言葉が届いたのではないかなと思われる。

特にホラン千秋の話の振り方がNHKらしくなくてよかった。普段のNHKといえば(って普段私テレビつけてないけどね。ラジオは聴いてる。)、素人インタビューですら台本を押しつけることで有名である。まぁそれは民放も同じだと思うが歴史がいちばん長いからね。こういうトーク番組も一見フリーにみえて総て台本通り、即ちまるごと御芝居であることも多い。そりゃ有働ちゃんも出ていくっちゅーねん。

だが今回のホラン千秋の喋りは台本に書けるものではなかった。なかなかにぶっとんでるものもあったな。例えば『BADモード』の歌詞の解釈について「最初は傷つくのが分かっていても飛び込んでいってたけど、後から“今回は間違えないように”と大事に行った恋」と解釈していて、普段かなり脇に逸れた妄想系解釈を垂れ流してる私も「その捉え方は考えつかなかった!」と驚いた。いやぁ、やられたねぇ。

私はよく知らないが、恐らくホランちゃんて普段からヒカルを聴いてきてるんじゃないかな。今回の歌詞の受け取り方も、「これは『This is Love』の『悪い予感がするとわくわくしちゃうな』の一節を念頭に置いてるのではないか?」と私なんかは推理した。同じように鮮烈なアルバムのオープニングを飾るアップテンポなナンバーだしね。彼女の中でリンクしたのだとしたら結構合点がいく気がする。

『BADモード』本来の作詞者としての意図は先日の「ライブ・エール」でヒカル自身が話していた通りだが、番組内での役割分担としてホランちゃんは、そういった“正統的”ではないいちファンならではの目線を投入する役回りだったので番組構成上は正解だったといえるだろう。

それに、作詞者としても「自分に思いもよらない解釈」に巡り逢うのは楽しみの1つだ。誤解されてるなら何がどうなって誤解されたかを解析して今後の作詞に活かすことも出来るしね。ここを聞き落としたのか、なら次はもっとこういう一節は目立つように設えよう、とかね。参考になることも多いのだ。

大体、今のヒカルの作詞術の方向性ってずっと「まるで異なる、時には正反対の解釈のどちらも正解になるような」作詞が続いている。『Goodbye Happiness』や『Can't wait 'Til Christmas』のようなね。今回の『BADモード』も「親友への思い」と「息子への願い」が掛け合わされて作詞されている(と私は解釈している)ので、読み取り方に幅が出てくるのは自然な流れで、歌詞の拾い方によっては全く別の解釈も生まれ得るだろう。ホランちゃんの発言はそのひとつの実例になっていて大変よかった。何より、こうやって自分の言葉で伝えてくれて(それをNHKがそのままワールドワイドに放送して)いたのが嬉しいし有難い。ヒカルも刺激になったと思うよ。今頃次の作詞に活かしているに違いない。私ゃそう踏むぜ。

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「SONGS OF TOKYO」でヒカルさん、「なぜ敢えて恐怖と向き合うか」と問われて「知りたいから」と即答していた。潔い。


https://blog.goo.ne.jp/unconsciousnessdiary/e/9f8a2557fd80ad57cbc220721a9eea93
そういえば落合健太郎氏とのインタビューで「音楽以外でチャレンジしてみたいことは?」と訊かれて躊躇いながらも「勉強したいです」と断言していたなヒカルさん。大学に戻って学びたいと。つくづく、知りたい人なのだ。

知らないことを知る、というのはなかなかに楽しいものだが、それ以上に「わからないことをわからないままにしない」のも非常に大切だ。私の言葉の使い方でいえば、自分自身を大切にする事の頂点がこれだと思う。知らないことは知らない、わからないことはわからないでいい。日常で必要な知識や理解は自然に身につくだろう。しかし、ただ単なる「わからない」という自分自身の内側にしかない“感覚”の為だけに敢えて恐怖に立ち向かうとか大学に復学するとか、そうやって自分を奮い立たせたり動かしたり出来るのは、そうね、こんなに自分自身のみの問題に向き合ってることもないだろう。そう思うのだ。純粋なる「自分自身のため」。

一方でヒカルは「SONGS OF TOKYO」で「ありのままのつもりでいたんですけどありのままの自分がわかってなかった。そこが一致してきた。」とも語っていた。己を知る、己を理解するのもまた「知りたいから」というシンプルな動機が最初にないといけない。でなくば何も動き出さない。そこに向かって宇多田ヒカルが宇多田ヒカルを少しずつ理解しつつあるというのは、朗報であり僥倖であり天恵でもある。

そして、まだそこなのだ。その地点にしか到達していないのだ。『BADモード』のようなとんでもない作品を完成させておいて、まだ「やっと自分のことをわかってきたかなぁ」という段階なのである。当然、才能の限界とかも見えていない。「ここには辿り着けない」と悟ったことも過去にはあるかもしれないが、まだまだ行ける場所総てを見極められたわけでもない。そもそも「知りたい」と思える時点で「知ってない」「わかってない」んだから。

そして、それが原動力であることにそこはかとない嬉しみを私は感じている。他の欲求や欲望に較べると決定的な点がひとつ違っていて、知らないことを知る、つまり知りたいという欲求をひとたび満たした時に更に得られるのは倍増した更なる「知らない」「わからない」なのだ。満たせば終わるのが食欲や睡眠欲や性欲だが、知識欲や理解欲は満たせば満たすほど更に強くなっていく。全く逆なのね。

この道を音楽に見出したヒカルが音楽を辞めるのは途轍もなく難しい。耳が聞こえなくなるか声が出なくなるか、そういうことでもない限り離れられないだろう。「わからない」を捨て置けるのだとすると、あれほど「自分自身を大切に」と言ってきた今までのヒカルを裏切る事になるだろうからこれも難しい。まぁそもそも妥協する理由がないやね。辞めないわ。

なので、ヒカルの「やる気」の心配ってあんまりしなくていいのかも。心身が健康でさえあれば、徹底的に自身の「知りたい」を追究するだろう。我々は固唾を呑んで着いていき見つめていればいい。お金を稼いだとか有名になれたとかそんな儚く弱い動機が主軸ならもっと心配だったが、なんだろう、そういうのってもう世界が遠過ぎてこうして書いていて空虚ですらあるな。ヒカルが知りたい人で、実際に知ろうとしていて、意地でも知る人で、本当によかった。私も知りたい人なのだ。

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いやもう実際は大したことないのに情報量に圧倒されてる気分。「今週テレビ出たよ。来週も出るよ。」ってだけなんだけどねぇ。不思議。人は喜ぶとキャパが狭くなるのか?

そして昨夜にはヒカルさんがインスタ投稿。うち捨てられたと思しき青いくまのぬいぐるみと、部屋に飾られた花束と。昨日は圭子さんの命日だったのだが日本時間ではもう翌日23日になっていて。寂しいというのとも違うのだが嗚呼追悼するにしても地球のサイズ感は大きいんだなと再確認せずにはいられなかった。圭子さんも生前は国際線に乗ってあちこちに飛んでいたようなので、こういう感覚で弔う方が妥当なのかもわかりませんが。

飾られた花束のもつ花言葉に関してはよく知ってる人に任せるとして。なんだろうな、手段といいタイミングといい、どこか「外向け」の感覚があるな。いやヒカルから届くアウトプットはそりゃ全部外向けなのはそうなのだけど、昔のメッセはたまに独り言の延長線上にあったりもして。代表的なのが『暇・・・曲作れよ!(笑)』とだけ記された1999年6月20日のメッセとか。それを我々に聴かせてどうすんねんという一言。こういうのがいいのよねぇ。Twitterって本来そういう一言を投稿する空間だった筈なのにどうしてこうなった。

昔はお母様の追悼となるととてもヒカルの、いやさ宇多田光さんの個人的な感情が非常に強く出ていたと思うが、今は、なんだ、いちファンとしてのアーティスト藤圭子の追悼とか、宇多田ヒカルが亡き母を想うか事に対する世間(毎度だが誰なんだそれは)の目線とか、なんだかそういうのも次第に含まれてきてるなというのも感じさせる今回のインスタの投稿。ささやかでもアピールすることに意味があるというか。

年月が経ち遺影を飾る事への心理的抵抗も薄れてきて、更に我が子のおばあちゃんへの反応などもみて、時計の針が進んでいる印象を持った。あたしが死者なら我が子が死んだ親をいつまでも想い続けるのはとても嬉しくある反面、生きてる間は生きてる者同士で大切にしあって欲しいと我が子に願いそうなのだが圭子さんがどう思うかは知らん。そもそも死ぬってのは……って余計なこと言いそうなので止めるけど。

『花束を君に』という代表曲をもつ宇多田ヒカルが母の命日に花を飾る事の与える印象は、母のことになると冷静さを失うヒカルであってもそこは予測され得ることで。もう既に写真一枚で雄弁過ぎるほどなんだが、あれだな、曲作ってるのかもしれへんなぁ。宇多田光モードと宇多田ヒカルモードが混在する中で日常が紡がれていく。1個前の青いくまのツイートの意味はよくわかんないんだけど、無意味だったら嬉しいなぁ。

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おっとっとっと、差込原稿気分でニュース来た。


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@hikki_staff : 来週8月29日よる7時から放送の #CDTVライブライブ に #宇多田ヒカル の出演が決定しました😉
#君に夢中 をフルサイズテレビ初披露🎈

是非ご覧ください!🎉
https://t.co/YVgm1oXUjh https://t.co/1aezTevPCR

https://twitter.com/hikki_staff/status/1561671039641620481


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今月3回目のテレビ出演! これは予想していなかったな。しかもTBSの「CDTV LIVE LIVE」に初出演ですか。これはビックリ。地上波ならまぁTverでもワンセグでもどこかで観られるかな。

そして歌うは『君に夢中』。昨年TBSで最も各賞を奪っていった2021年を代表すると言ってよさそうなテレビドラマ「最愛」の主題歌をフルコーラスで披露するというのだから恐れ入る。曲パワー&局パワー全開だね。

しかも、あれ、この番組って基本生放送じゃないの? どうすんの? TBSは「ザ・ベストテン」(昭和の音楽番組です)の頃からの伝統で(?)スタジオに来れない歌手を無理矢理生中継で歌わせてしまうことで有名なのだけど(松田聖子なんて空港や新幹線で歌わされたのよぅ)、今回も無茶振りしてきてくれたりするのだろうか? 生に拘るならロンドンから生中継? もうインスタライブを全国ネットに載せちゃう? いや普通にもう収録済みなのを流すと思いますけどね。

昔からヒカルのTBSでのパフォーマンスは上質であることが多い。単純にスタジオが広くて天井が高く、音の響きが良くて人が遠い為歌に集中しやすいからではないかというのが私の昔からの仮説なのだが真相は果たして。今回のパフォーマンスも上質ならますますその仮説が補強…されはしないけど、「いいジンクス」ってやつにはなるだろう。


しかし、こんなことするんならもう各局で歌ってほしいやね。日テレ系で『One Last Kiss』や『Time』を披露して貰って、NHKに帰ってきて『PINK BLOOD』を歌って貰って。

嗚呼、それよ。アニメ「不滅のあなたへ」第2期の主題歌のアナウンスまだないよね? あたしは『PINK BLOOD』の続投がいいとは思ってるけど(『王座になんて座ってらんねえ』の由来になったジーンにまだ到達してないので)、まぁもしそうだったらNHKでまた歌ってくれたらええのよね。秋スタートの筈だからそろそろ主題歌発表されてもいいはずなんだけどね。新曲じゃなくて続投なら何も言わないのは理にかなってるわな。


話が逸れたけど、ひとまず来週の「CDTV LIVE LIVE」に注目ですわね。NHK総合で28日深夜に「SONGS OF TOKYO」を観て、29日の夜7時から(9時跨ぎとかなのかねぇ?)TBSで「CDTV LIVE LIVE」を観る。今度は流石にパフォーマンスは使い回しじゃないからな!(LSAS2022流したら笑えるけど) 衣裳も化粧も歌唱も微笑も全部楽しみだわ奥さんっ! 

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