無意識日記
宇多田光 word:i_
 



ツイートで「おやすみありがとう」は"おやあり"、「おはようありがとう」は"おはあり"、らしい。使ったことないけど。するってーと「横レス横リプありがとう」はやはり「横アリ」なのだろうか、という訳で今回は横浜アリーナのお話。(変なまくらさんやな)

筆者さん(私)は09年の世界選手権の時横アリに8日連続で通っていて「暫く住んだらええやん」と思っていた位なので会場としての新鮮さは皆無だ。が、Wild Lifeの為には本当によい会場だったなと思う。新幹線の発着駅が最寄りというのもいいし、会場までの道のりもそんなに難しくない。しかしなにより、今回うってつけだったのはセンターステージへの相性のよさとそのサイズだろう。

光がまんまるのステージから『いちばんうしろのほうのかおまではっきりみえる』的なことを言っていた気がするが(スマン、よく覚えていない)、これ、掛け値なしに本当の事だったんだと思う。筆者さんは舞台になんか立った事がないから推測するしかないのだけれど、あそこから眺めたらひとりひとりの顔がよくよく見えるだろうなぁと何となく強く感じるのだ。

1万4000人規模の人なら、光はひとりひとりをハッキリと認識できると思うのだ。それは、顔と名前が一致して覚えられるとかそういうことじゃなくて、それ位の人数の人間ってのが一体どういう個の集まりなのか、集団としてのサイズを把握できるということだ。

実際、ステージに立つようなスーパースターたちはその人数の人間を"把握"しなければ、ショウを適切に導けない。ジョンボンジョヴィは嘗て横アリのステージに立ったとき「まるでバーで演奏してるみたいだ」と宣った事がある。普段スタジアムでばかりコンサートを開く彼にとって横アリはそれ位狭く感じたという話だ。

光にとって、人間がただの"1,2,3,沢山"にならない位の人数が、だいたい一万人前後であるような気がする。誤解を恐れずにいえば、これくらいだと"友達感覚"で居られるのである。大衆とか民衆とかいうひとくくりの集団ではなく、ひとりひとりの顔がはっきりみえる集団。光が『いちばんうしろまでよくみえる』と発言したのは、ただ視覚的に可視だと言っているだけではなく、そういう感慨や感覚を指している気がする。

そういえば、昔EasyBreezyのDVDシングルがリリースされた時、初週一万枚余りだったその売上枚数を指して「光の熱心なファンはだいたい日本ではこの位の人数なのではないか」と指摘したことがある。同DVDを買う位な熱心さ、という解釈もできるがだからといって同作品を購入していないからといって熱心ではない、なんてことでもない。個々の人間の事情は個々のものとしてあるとして、集団のサイズとして大体これ位だろうと、そういう曖昧な感覚を覚えたのである。

横アリの聴衆サイズは、その為、光にはちょうどよかったのではないか。熱心なファン、というのはつまりこのままいくと一生の付き合いになりそうな、という雰囲気がある。友達感覚とはそういうことだ。光が、こう、気のおけない、力まずに歌を届けられる人間の数がだいたいこれ位なのではないか。恐らく、横アリより広い会場でも満員にはなっただろうが、この場所で開催して本当によかったなぁ、ドンピシャだったなぁと思う次第である。

一方、光の紡ぐ音楽自体のそういう"スケール依存性"について考察するのはとても興味深い。武道館でアイアンメイデンをみたときや、さいたまスーパーアリーナでAC/DCをみたとき、筆者さん(私ね)は「彼らの音楽にこの会場は狭すぎるなぁ」と感じたのだが、光に関してはそういう感覚が…という話を始めると長くなり過ぎるので今回はこのへんでちゃおー☆

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ツイッターはミニブログ、マイクロブログと呼ばれる事が多いが、実態はオープンなシステムによるゆるめのチャットという感じで、そのゆるさ加減がうまく出来ているのだが、そのリアルタイム性故発言が必ず反映されるとは限らないし反映されても総ての発言を追える訳でもない。

そこの所を補完するのがリツイートで、重要だと思われた発言は繰り返しサーチストリームに乗ってくれる。何か云えば、何かを云いたければたくさんの人々を巻き込まなければいけない。フレンズタイムラインの場合は巻き込まれたくなければフォローをハズせばよいだけなのだが、サーチストリームの場合はそうもいかない。

私はキーワード"宇多田"のサーチストリームを常用しているが、今回のAKB48のチャートアクションの話題に出てくる"宇多田"の文字はあクマでAKB48の話題性の引き立て役であって、どこまでもそれはAKB48の話題でしかなかった。その為、幾ら引き合いに出されてヒカル(とミスチル)の記録をほめそやされてもさっぱり嬉しくなかった。AKB48を貶す為の道具として名前を出された、という感じだった。つまり、実は(幾つかのコメントとは裏腹に)総体的にはヒカルの再評価にこれは繋がらないんじゃないかという悲観論だ。

理屈は非常に単純で、今回の件で憤っている人々は多かれ少なかれチャートの数字を音楽の価値判断基準として頼っているからだ。純粋に枚数の勝負だというのなら誰が何枚買おうが商品の中身がどうであろうが関係ないし、音楽を聴いて判断する人にはそもそも関心のない話題だ。その間のどこかに居る人々による反応なのである。

チャートによってヒカルの威厳?誇り?威光?が侵されたと感じるのならば、そもそも歌を聴いてもらっても自信をもって評価してくれないだろう。数字による裏付けがなければよいと声に出して行動するのに躊躇いが生じるからだ。それがないのに憤るなんて有り得ないのではないか。どうだろう。

しかし、二次的波及効果は期待出来るかもしれない。とにもかくにも宇多田の3文字がメディアに踊ったのだから、よく知らない人は名前で検索してUTUBEに辿り着くかもしれない。そこから新たに魅力を発見して貰えるかもしれない。そう考えると悪くない。二次的なものだから、割合としては極々少数だろうけど。

それにしても、たとえAKB48が楽曲収録のみのシングルCDを一種類だけで出したとして、ヒカルのCDシングルは売上数で勝てるだろうか。今両者が全国ツアーをしたら、動員数はいい勝負になるのではないか。"バブル"だろうが全体の効率が低かろうが、なんだかんだで実態・実体はある。それが露わになっての勝負にならなかったのは、逆によかったのかもしれないよ…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




いや~今朝(前回)の記事では阿呆な誤字を咬ましてしまった。「強い歌には余計な男は要らない。」とあるが、これは勿論「強い歌には余計な音は要らない。」が正しい。折しも僕秩で「ゆかいな予測誤変換」みたいな募集があった所なのだが、私もソレをやらかしてしまった。

しかし、よく読んでみるとなるほど、ちょうどアンコールのAcross The Universeのあたりの話なのでこの時確かに舞台上は男子が排されて美女2人きりのパフォーマンスであった為、奇しくも「男要らず」な状態だった訳で、やや奇異な感触ながらもそう解釈して読んだ人が何人かいらっさるかもしれない。

これは、面白い。ただの打ち間違いな筈なのに(些か強引とはいえ)意味が通じてしまった状況。こういう時の居心地の悪い感触とどう向き合うかが、ミニマムな"創造性"の端緒となる。

20世紀後半の日本を代表する作家の一人筒井康隆が昔新聞で「ワープロの変換機能が面白い。思わぬ着想に出逢える」と評していて、当時は(PCの普及する遙か依然だった為)どういう意味かわからなかったが、自分が変換機能を使うようになってその面白さを痛感するようになった。確かに単なる駄洒落でしかないのだが同音異義語異字語が次々と探索できるのはものを書く時の大きな強みである。

こうやって沢山書いていると、書き手の楽しみというのは文全体の構成や意味よりも、如何に局所的に"面白い言い回し"が出来るかにかかってきたりする。メッセージを読者に伝えたいというよりは、新しい言葉の組み合わせに出逢いたいという思いの方が遙かに強い。

そういう人間にとって、誤変換とは新しい契機以外のなにものでもない。大半はトリビアルな駄洒落にしかならない。糟糠の妻の運転による走行が奏功して間にあった、そうこうしているうちに…みたいな感じに。しかし、これの小さな積み重ねが文章にリズムを生み内容自体を思わぬ方向に導いていってくれる。これが堪らない。

予測変換となると更に幅が広がる。頭韻だけを合わせて次々と言葉が出てくるのだから。タブロイドですらヒカルのタブーに触れるのは多分たじろぐんじゃないか、みたいな。ペンを握った時とPCと向き合っている時と携帯を打っている時では文のコンセプトレベルで変化が起こる。

しかし、いちばん大切なのは、なんといってもその出会いを見逃さない事である。冒頭の例でいえば、男が音の予測誤変換であるという"正しい答え"に辿り着いてしまった時点でその出会いを見失う。私の元々の文意を"間違って解釈"して初めて、奇妙ながらも意味の通じる"新しい言い回し"が"生まれる"のだ。誕生、生誕、創造とは気づきなのである。

しかし、そこの最初には必ず"違和感"がある。これでいいような、どうにもただの間違いのような。そのファーストインプレッションの時点では、間違いと新発想は"同じ高さ"のフックラインにしかみえない。確かにここは(印象として)出っ張っているけれど、本当にこれは新しい何かなのか?

やってみるのは、勇気が必要だ。思い出すのはKeep Tryin'のサビのあの奇妙なコード進行だ。初めて聴いたその瞬間は正直ファイルの歪みか何かと思った、が、楽曲全体を通して聴いてみるとあそこはあれで合っている。新しい発想のフックラインだったのだ。斯様に間違いと新しいフックラインは紙一重、どころか最初は"全く同じ"といっていい。ただふつうからはずれているという意味で。しかし、それが活きる適切な文脈に放り込むことでただの間違いやしょーもないダジャレたちは新しいアイディアとして感銘を与える。本当に創造や生成の過程というのはわからないものである。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




Across The UniverseとCan't Wait 'Til Christmasが並んでいるのを聴いて、思えば遠くに来たもんだ、とあらためて呟く。

The Beatlesの凄さは、ひとりだけでも20世紀最高峰を名乗れるソングライターを2人擁していたことで、更にそれがバンドとしての方向性を巡って切磋琢磨しあったことによる化学反応を引き起こし前にも後にも類をみない楽曲群の充実をみせた事にあるのだが、こと作曲能力に関していえばCWTCを聴く限り光はその2人に伍するところまで来たのだと強く思う。

やや私見になるかもしれないが、強い歌には余計な男は要らない。Across The Universeがギター一本あれば事足りる(今回は二本だったけど)ように、CWTCもピアノ一台あれば十分だ。

他の、今まで光が作ってきた代表的なバラード、例えば初恋やFoLは、それなりの大仰なアレンジに支えられている感もなきにしもあらずだった。実際、初恋を弾き語りしてみたことのある人なら「あらこうなるのか」と感じるハズである(あたしゃやったことないけど)。CWTCはそういったものなしでも十二分に"サマになる"メロディの独立性、歌詞のシンプルなよさがある。そこには、ポール作曲のYesterdayやジョン個人のImagineにも匹敵するかという、"素朴でも全然平気"な楽曲としての生命力、存在感がある。

恐らく光はそこまで"不遜な"考え方はしていなかったに違いない。しかし、アンコールでThe Beatlesの次に演奏しても遜色ないどころか更にぐっとこさせる曲を、デビュー12年目にして新曲初披露というかたちでもってこれるというのは呆れるを通り越して笑うしかない。これだけのところまで来たのなら、一旦アーティストを休むのも、やっぱり納得でありまする。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今朝(前回)の記事に間違いがあったのでまず訂正しておきたい。

私はついうっかり、「音楽的な評価で、AKB48が宇多田を上回ることはないだろう」などと断じてしまったが、これは間違いだ。よくよく考えてみれば、AKB48はグループ名なのだから、メンバーは幾らでも入れ替える事が出来るのだ。ということは、ヒカルがAKB48に加入したら評価が覆る可能性がある訳だ。ヒカルがプロデューサを買って出て、Mステでタモさんに「ほんとかわいい子好きだよねぇ(笑)」としみじみ云われる位にカワイコちゃん好きな感性を何十人のカワイコちゃんにハーレム状態で囲まれながら爆発させれば、今まで自分に書いてきた曲とは異なる方向性のサウンドが生まれて、単独歌手宇多田ヒカルのライバルになり得るかもしれない。その可能性を見落としていた。迂闊だった。

もしかしたらグループに加入するには年齢制限か何かがあるのかもしれないが(←よく知らない)、ヒカルが加入するとなれば秋元康も規約変更位するだろう。もし加入して自分より遙かに年下のおんにゃのこたち((c)有川知里風味)に囲まれるとするならヒカルのニックネーム・呼称は当然「ババア」だろうな。推しメンならぬ面白いババアということでオモババ。週末雨だと予想が難しくなって大変ですね競馬ファンのみなさん。何の話だ。

とすると、そうか、ヒカル抜きでAKB48が活動する時は「ババ抜きアキバ48」という呼び方に…

…こういうどうでもいい妄想は(止まらないから)この辺で打ち切るとして。以前UtaDAの1stアルバム発表時のインタビューで明確に述べていた通り、ヒカルがアイドルをプロデュースしたがっている(或いは、したがっていたことがある)のは事実なのだから、その実現可能性や方向性について考察してみるのも悪くない。

AKB48の秋元康は嘗ておにゃんこクラブを成功させた辣腕なので、彼の手腕を超えるのは並大抵のことではない(大抵、二回成功する奴は一流だ。三回成功だと伝説。)が、ヒカル独自の路線を突っ切れば或いは凄まじいセールスを巻き起こせるかもしれない。

ヒカルが作曲してしまうと、どうしても音楽が本格的になってしまう。まず参考になるのはアイドル性もアーティストシップも認めさせてしまったPerfumeあたりか。しかし、当然そんな二番煎じはやらないだろう。

グループでいくのか単独でいくのかも左右する。単独歌手でアイドル性を保ちつつ成功したといえば鈴木あみなんかを思い出すが、ヒカルがプロデュースするなら案外あんな雰囲気かもしれない。

思うに、ヒカルのことだから従来の枠からはみ出るようなアイドル像を提示してくることを考えた方がよさそうだ。たとえば、きゃぴきゃぴと元気にブログを更新していたのにどんどんと内容が病んでいってそれに合わせるかのように次々出される新曲もドゥーミーになっていきファッションは様変わりし心は暗黒面に落ち…という一連の流れ全体をプロデュースするとか…

…俺の発想って悪趣味だなぁ。どう?僕と契約して魔法少女にn(ry


まぁ、ヒカルは絶対そんなことしない。ただ、自分の場合と違って、宇多田ヒカルが「アイドルを"売る"こと」に精力を傾けたらどれ位売ることができるだろう、という点は興味がある。遠慮なく"売れる"ことを目標にした時のプロデューサとしての発想の切れ味もみてみたいものだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


中毒  


AKB48の新曲が初週売上でAddicted To Youの数値を上回ったんだとか。凄いねぇ。投票券(権)付きとかで複数枚買う人も居るらしいが、そんなにお金を出したくなる位熱狂できるものがあるってのはなかなかあるもんじゃないだろう。

俗にAKB商法と言われている(のか?)握手券や投票券を同梱したやり方は一部で評判が頗るよくないが、今まではなかなか数値化されてこなかった"熱中度の深さ"みたいなものを目で見える形で伝えてくれているという点は画期的だと思う。

元々、アディクの100万枚だって別に音楽が評価されてあの数字になったからのではなく、社会現象になって話題性が高かったからだ。もし音楽そのもので判断されて枚数が出るんなら今あの新曲(というには随分時間が経ったが)5曲を擁するSC2が未だ44万枚しか売れていないのはおかしい。あと数百万人はどこに行った? 大半が音楽性の変化で興味を失って離れていったのだろうか。違うだろう。話題性が減ったからだ。

ならば、今AKB48の売上数値がアディクを上回ったのは、それこそ数字通りに受け取るべきだ。寧ろ、個々の"熱心度"を数値に換算して計れるようになったのだから今はじき出されている数字の方が情報として豊かである可能性もある。CD全体の売上が落ちているのだから尚更だ。

勿論、現時点でそうであるように、音楽的な評価でAKB48が宇多田を上回ることはないだろう。そういうことならそもそも売上枚数で音楽的評価を測ろうという発想自体がおかしい。本来「ある程度目安や参考になるかもしれない」というものなのだから、今、AKB48がその"旬"ぶりを数値に反映させている事を気にとめる必要はない。世間話で「AKBが宇多田超えたんだってね~」といわれて悔しいかもしれないが、事実現時点で話題性で負けているのだから悔しい事態なのだ。そのまま悔しがろう。複数枚購入がどうのとか音楽性がどうのとか、負け惜しみですわ。

根本的に、数字で音楽を評価するという態度は間違っているのだ。しかし、何か目安となるものがないとどう音楽と向き合えばいいか、どう音楽と出会えばいいかわからない。私も雑誌やWebでアルバムに点数をつけてもらえると非常に参考になって有り難いし。結局曲を聴いて自分がどう、何を感じるかが肝心だというのなら、いったん世間に溢れるいろんな情報から切り離れてみることが必要だろう。それを忘れると、AKBをあしざまにいう事態になる。自分を見失わない事である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




今度はツイッターではるかぜちゃんとZ武様、ちゃうがな、乙武洋匡さん(おぉ、辞書にフルネームが)が会話をしていて、有名人ならではの悩みの相談になっている。心ないことばに胸を痛めるだけでなく、笑い飛ばして前に進めるように、という彼のことばは、重いはずなのに爽やかで風通しがいい。彼ほど「リア充爆発しろ」や「ただしイケメンに限る」の似合う男はそうそう居ないのだが、なのにν速の民たちに「勘弁してくれ」と言わしめてしまう耐性の強さは素晴らしい。ネット世代のお手本のような人である。

思うに、きりやんは自分の精神力が並外れていることに気付いていない、或いは無頓着なのだろう。乙武洋匡さんがああいう風にネット耐性が強いのは、自分の弱さを知っていて、尚且つ自分の強さも知っているからだ。煽られようが貶されようが平気なのは、言われる前から自分にそれ以上厳しい言葉を投げかけているからであって、何の準備もなくあそこまで格好いい訳ではないと思うのだ。

これは時代の必然かもしれない。まだまだ不十分だが、ネットで溢れる言論は、その殆どが何らかの意味で弱者なひとたちから発せられるものであって、それに共感する発言ができないとオピニオンリーダーシップがとれなくなっていくのではないか。勿論世の中全体はまだまだそうはなっていないが、一日中部屋に籠もって2ちゃんを眺めている人が"ふつう"だと思える位でないとバランスが取れない。ひろゆきのバランス感覚は、誰よりも早く(管理人だから当たり前だが)そういった展開を先取りしていたから培われたのではないかと勝手に思っている。そういうバランス感覚が元々あったからあんな板を立ち上げられたという逆の因果かもしれないけど。

いろんな人に話が飛ぶな。まぁいいや。きりやんは、自分の芸術性に自信を持っているし、それを具現化する為には様々な犠牲を厭わない強さをもっている。強さ、カリスマ性が持て囃される時代なら彼はヒーローだったかもしれない。しかし、情報が溢れ返るこの世界では、エネルギッシュを披露しても響かない。求められるのは、卑屈とか落胆とか焦燥とか不安とか茫漠とかいった感覚を共有できる何かなのだ。

そう考えると、宇多田ヒカルはまだまだ早過ぎる。そこにおいてはあらゆるコミュニティが解体され、あらゆる個は個と向き合う事になる。あらゆる弱さはそこで赦され、故に赦せない者は道に迷い込む。すぐそばにいるのに。まだ世の中はそこまで来ていない。寧ろ、例えば深海とか宇宙を開拓していけばまた時代精神は逆戻りするかもしれないし、様々な新興国がもう一度水俣病を繰り返すかもしれない。人の歩みは緩やかで迷いがちで、突然途絶えてまたふりだしにもどる。光に辿り着くのは難しい。だってもうすぐそばにいるのだから。

強さの定義が変わっているのかもしれない。光は億万長者だろうが、1万ドル寄付したって「何もできない」と臍を噛んでいる。これは、幾ら払っても止まらない思いだ。知名度や財力や歌唱力で他を圧倒する強さも持っている。それは、古典的な強さであり力である。しかし、彼女の魅力がそこにあると考える人は明らかに減っているのではないか。寧ろ、そういった古典的な強さを備えてしまったから押し出されるかたちで宇多田光はこんな所に来てしまった、のではないか。

そういう、代表。難しい。彼女が独りきりなのは、何故なのだろう。いや、イヤな意味ではない、もちろん。ただ、孤高とも違うし、ただ寂しいだけの孤独でもない。昨夜の皆の嬉しそうなツイートを読んで「心底どこまでも愛されているなぁ」と笑顔に緩んだあの感じの、孤独。まだ彼女を描写できる幾何学はみつかりそうにない。まぁだから歌うのだろう。世界全体にこの"いい孤独"を響き渡らせる為に。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨夜の光のツイートにはやられた。面白杉。60万フォロワーの威力。一昨日のシネマトゥデイの記事(大概の人はファーストアクセス先が原稿の出どころと認識するらしい)に対する反応が霞む位に光宛のメンションが連なった。これがツイッターという小さなメディアの現在のバランスなんだなと痛感した。

ヤフトピ等の見出しを読んだ人間は60万どころではないだろう。然し、ツイートは記事を取り上げるより光本人に向けたものの方が多かった。能動的に人を動かすのは、こういう直接的なメディアの方なのだ。勿論、そういう交流を望む人間がツイッターに集まりやすいというバイアスはあるだろうが、中間をすっ飛ばして多数の人間にメッセージを放り込めることのリアリティ。たったひとこと、「ツイッターまだやりますぞ」だけで全部の状況が覆った。

このひとこと自体には含蓄や面白みといった趣はない。しかし、全体の文脈、ひとひとりごとの心と気持ちの動きを感じ取った上でのタイミングを見越したツイートだ。文脈を読む能力と、その中で自分が自分らしくどう振る舞うのがいいのかを見極める能力。高い。そして何よりキュートだ。いやぁ、なんとも清々しい朝である。こっちは曇り空だけどね。寝つきのよかった人も、きっと多いに違いない。そして、「もしかしたら次のツイートがあるかもしれない」とついつい夜更かししてしまった人も…?w

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ツイッターのタイムラインの何が面白いって(ヘヴィユーザのひとなら首肯してくれるかもしれないが)脈絡のない他者同士の発言が時系列順に並んでいる事である。

うちの今日のタイムラインにはきりやんとはるかぜちゃん(春名風花ね)が並んでいた。口調と写真をハズせば、明らかにはるかぜちゃんの方が"としうえ"の発言をしている。実際、彼女のネットデビューは3歳の時即ち7年前の事だからもしかしたら"ネット年齢"では彼女の方が上かもしれない。常駐合計時間なんかで測ればかなりのとしうえになりそうな気がする。

今日もきりやんは軸がブレない。煽り耐性皆無で真正面から論陣を張る。私のようなネットすれっからし人間からすれば相手の発言は煽りでもなんでもないのだが、彼は真っ向から受け止めている。

思うに、彼には"自分の時間"しか流れていないのだろう。私も半分そうなのでよくわかる。自分でみたもの、自分で感じたもの、自分がやってみたもの、そういった借り物でない体験の蓄積で純度高く彼の人間性は構築されている。その純度によってたつ彼の魅力は半端なものではない。

その為、彼が"自分の作品"に打ち込んだ時の純度の高さ、その熱量は並外れたものがある。しかし、そこには彼の時間しか流れていない。彼と異なる時間を歩むひとたちはその嫌悪感を隠さない。わかりやすいといえばわかりやすい。

ただ、自分の作品作りからハズれた時に、どうなるか。時間の衝突は免れないようにみえる。何故か本人が登場しなくても必ず荒れていたBBSを思い出す。私なら自分で荒らすんだが(自虐)彼はその必要すらなかった(これは皮肉)。

歴史や情報といった"他者の時間の流れ"を尊重することをしないから、そこには衝突が起こる。いちばん端的なのは映画第1作を「CASSHERN」と名付けた事、だろう。彼の時間の流れの中ではあれがキャシャーンだった。他のひとの時間の流れの中でキャシャーンと名付けられたものたちへの配慮など、なかった。

もしこれが、わかった上での"破壊行為"ならまだわかるのだが、今日の煽り耐性皆無なやりとりを見ていると、本当に気にしていない、気にならないのだと痛感させられる。会話の内容は面倒なので省略するが、他人が他人の時間の流れの中で"遅い"と感じた事とそれを呟いたことに対して"そうかな?"と自省する時間帯が全然みえない。他者の時間と帳尻を合わせようというチャンネルなど微塵もないのだ。芸術家としては最高の資質といえる(こちらは皮肉ではない)。

はるかぜちゃんは、バランスが取れている。他者の言葉に耳を傾け、噛み砕き、味わってみて、反論すべき所は反論し、受け入れるべき所は受け入れ、しかし心ないことばに対して慣れ切ってしまうことなく素直に傷つき、嘘でない涙を流す。いやみたことないけど。あ、彼女は嘘泣き名人としてダウンタウンの番組に二度出ている。そんなひと。今日の呟きによるとアットマークという呼称もメンションとリプライの違いも把握していないようだが、つまり、そういう話ではないのだろうな。


光は、あらゆる人間の、あらゆる他者の時間の流れを自分の時間の流れとして捉えられる。「悪いポップは媚びだけど、良いポップは思いやりだから」とは初出がどこか記憶にないことばだが、ただ他者の時間を追随する者は他者への媚びであり、模倣でありオリジナリティがない。一方、渋谷陽一がいうとおり「ポップミュージックとは他者の音楽」なのだから、他者の時間の流れを知らなければポップたりえない。オリジナリティ溢れるポップミュージックを創造するのは、ただ自分の時間の流れの純度を高めたアートより、他人の時間の流れを追いかけて重心を見失ったポップより、はるかに難しい。

そういう困難な音楽を、自分の時間の流れも他人の時間の流れも大切にしながら創り続けてきたのだから、暫く僕らファンの時間の流れのマトワリツキから解放してあげないとな。

もちろん、私の時間の流れは、私だけでなく、光も在ると私は思い込んでいるので、自分の時間の流れを大切にすればするほど光の話ばかりになっていくのですがねー。あはは。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




昨夜のツイッターは「宇多田人間活動に専念か」の見出しで溢れかえった。知名度がどうとかいう前にヤフトピのアクセス数を想像して恐ろしくなる。あそこに取り上げられるか否かでネットユーザー間で話題になるかが決まるのだから。

しかし何故このタイミングなの、と思ったらなるほど、24日にBlu-rayの初週売上数が出て、25日に特設サイトが終了、という段取りに合わせてのメディア登場なのか。これは事実上EMI、マネージメントからの"宣言"と捉えてよいか。元々期間限定で始まったのだし、いつか終わりは来る訳だ。

で、三者のアカウントをどうするかだが、これはそのまま残すべきだろう。詳しい仕様は知らないが、削除した(公式)アカウントを第三者が取得する可能性はあるのだろうか。そんな余計な事に悩む位なら呟かずに放置するのがいちばんだろう。

U3MUSICとhikki_staffの場合、もしかしたら人間活動中に光の何らかの音源を(再)発売するかもしれないのだからあまり引っ込む事もないだろう。ツイッターの特性上、呟かないからといってフォローをわざわざはずしたりはあまりしない。特に困る事はないからである。となれば、やはり残しておくのがいいだろう。

勿論、ツイッターというシステム自体がいつまでどこまでどのように存続するかはわからない。せんだって最大手クライアントのひとつであるTweetDeckをTwitter本体が買収したというニュースが入った。これも詳細は把握していないが、ツイッターが日々変化していくサービスだという示唆にはなり得るかもしれない。

今まで様々なコラボレーションがあったが、完全にいちユーザーとして他社のWebサービスにのっかったのはこれが初めてではなかったか。その分気楽な面も大変な面もあるのかもしれないが、あまり明確な区切り云々は考えない方がいい。

まぁ、あれだな、これで梶さんがIDを取り違えて発言することも暫くなくなるかと思うとほっとするやら寂しいやら…。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「唄われなかった歌たち」にも心を尽くす為には、選ばれたセットリストに曖昧な理由を残すことは得策ではない。ファンの方にあれが聴きたかったこれも聴きたかったという思いが湧き上がるのは避けられないのだから、選曲の必然性を高めて納得してもらうしかない。

Wild Lifeの23曲は、どうやって選ばれたか。推理するのは難しいがやってみよう。

まず、Automatic,First Love,Flavor Of Lifeの3曲は一瞬で決まった事だろう。これらを唄わないと客が帰らない。というか怒る。なので、選曲の軸はこの3曲で間違いない。結果的に三連続でプレイされる事になるが、それは最初の段階で決まっていたかどうか、ちょっとわからない。

次に、ぼくはくま。In The Fleshでは大フィーチャされる所まではいかなかったが、総監督たっての希望で嵌め込まれた。位置どりとしては14曲目で、まさに前半と後半をわかつ要。というか、流れの途切れる位置でないとこれを唄うのは難しい。どこまであのMCを予め考えていたかは謎だが。

くまを要にして、オープニングセッションの4曲~ストリングスセクション4曲~ロックセクション5曲が前半、名曲3連発~エンディングセッション3曲~アンコール3曲という構成。この全体の流れに当てはめて選曲したのか、それともまず曲を選んでからパズルのようにはめ込んでいったのか。

恐らく、やや前者寄りの経緯だったように思う。というのは、コンサート自体が急だった為ミュージシャンを速やかに押さえる必要があったからだ。ロックバンドと弦楽隊を起用する事を早い段階で決め、それに合わせた選曲をしたのではないか。

ナマの弦楽器を使えるとなれば、Unpluggedやウタユナのミドルセクションの発展形などが考えられる。ただ、FINAL DISTANCEに関してはUnpluggedのバージョンで既に完成度が高い。更に前回のツアーでも演奏した、という点で今回は見送られた公算が高い。しかし、ならばCOLORSも前回チェロ一本で素晴らしい歌唱を聴かせてくれたのだし、イケイケでは全世界の人々に弦楽隊バージョンを披露した。実績面で考えれば、FINAL DISTANCE同様今回は見送られてもよかったのではないか。次回はこの点について考察する…予定。(※ 実はオシシ仮面状態)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




Prisoner Of Loveの重要性については改めて語る事はない。SC2の曲順が逆時系列になったのはこの曲を1曲目にする為だった、というと言い過ぎなのだがそう言いたくなる位宇多田ヒカル最初の10年を締めくくるに相応しい曲だと認識している。

タイトルをFlavor Of Lifeと対応させたことからもわかる通り、この曲はあらゆる点で"狙った"曲である。リズムにしろメロディにしろヒカルの最も得意とする作風。しかし、ナマで唄うのはあまりにキツい。当時テレビの生放送で番組名を間違える位に眠い眼を擦りながら唄ったものもまだまだだったし、Wild Lifeのバージョンも、随分よくなったとはいえまだまだである。

今、物凄く高いレベルで不満を言っている事を強調しておかなくてはなるまい。日本語で唄われている事もあって、果たして"この曲をそのレベルで歌える人間は存在するのか?"と問わなければならない。勿論、しっかり系統的な訓練を積んだ歌手なら技巧的には可能(というか、訳もない)だろうが、この、作曲者ならではの勘所の押さえ具合をシミュレートできるかというとわからない。シミュレートといってる時点で後塵を拝しているし。

生ストリングスをフィーチャしているだけあって、サウンドプロダクションは見事なものだ。アクリル板ぐっちょぶ。ならばQuiet Versionの披露も可能だったのでは、と勿論思ったがあのバージョンとなるとその難易度の高い歌唱を超えて更に楽曲という生命体が押し寄せてくるのだからまだまだそこには到達できないと思う。

こう概観すると、まだまだこの曲にまつわる歴史は道半ばなのだなという感慨を強くもつ。FINAL DISTANCEがUnpluggedというそれなりの場を与えられたように、Prisoner Of Loveにもそれなりの場面が今後与えられるのではないか。それが通常のライブコンサートのフォーマットかどうかはわからないが。

逆に、今がこの段階だったからこの曲はちょうどココに収まった、ということが出来る。まだまだこの日のハイライトはFlavor Of Lifeの方だっからね。順番々々。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「ナマで聴きたいとは思っていたけれど、本当に唄ってくれるとは」と誰もが驚いたテイク5。冬のコンサート自体今まで少なかったのだからこのタイミングで唄わねばという狙いもあったろうことは想像に難くない。

この曲の特殊性は、光自身が率先して発言しているように、歌詞の乗せ方にある。音韻踏襲やリズム&アクセント優先ではなく、まず詩ありきの様態。まずことばそのものからイマジネーションを広げて欲しいという願いのこもった歌である。

したがって、この曲が3曲目という早い段階で登場したのは意表をつかれた。もっと皆がコンサート空間に入り込んで光の口から発する歌詞に耳を傾ける余裕或いは集中力が整ってから、という風に予めには考えていたからだ。

確かに、セットリストは名曲ばかりシングル曲満載なのだからこの歌を後半に持ってくるのはリスキーなのはよくわかる。また、今回はリズム隊の登場場面等の全体の流れがある為この曲のリズム構成からすると前半の打ち込み主体パートに嵌め込むのがよいという判断だったろう。

そして何より、この曲のエンディングはアルバムバージョンではぼくはくまへのカットアウトであるから、今回のような手法で、即ちクロスフェイドでいきなりサビから始まる曲PrisonerOfLoveに繋ぐと決まっていたのなら、他に選択肢はなかったのだと察する。SAKURAドロップスやFlavorOfLifeもサビスタートの曲だが、テイク5の後にはやはりPoLだったのだろう。

ただ、この曲順と構成にはやや難を感じたこともちゃんと書き記しておこう。テイク5の幻想的な詩世界からリズミックで情熱的なPoLへと繋ぐのは唐突だった。勿論その落差を演出として考えていたのだろうが、それならやはり(以前指摘した通り)アタマ4曲を立て続けにクロスフェイドで繋げた方がドラマティックだったのではなかろうか。確かに、それをしてしまうとウタユナの4曲連発オープニングと被ってしまうという危惧はあるのだが。

ただ、毎度そういう細かい曲順や構成のあれやこれやをウジウジこちらが考えても大して意味はない。そう言い切ってしまえるほどにどの曲も素晴らしい。曲の世界が強いものばかりだから始まってしまえばすぐさま引き込まれる。MCの出来が時にグダグダになろうがさほど気にならない(少なくとも私はね)のは、どの曲もハイライトで中だるみや中休みがないからだ。その大前提はきっちり踏まえておかねばなるまい。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前日にゲネプロを通しで敢行しているとはいえ(なぜかそのタイミングで現地に赴いて外から全曲聴いたツワモノも居たりするんですがね~)、一万を超える聴衆を前にナマで初めて歌を披露するというのは完全にギャンブルである。

光はそのギャンブルに一曲目から打って出た。しかもGBHという(聴いた印象より遥かに)難易度の高い曲からだ。今に始まった事ではないが、コンセプトや完成度の為には自分の身体や精神もツールのひとつくらいにしか考えていないのだろうか、実現可能性を度外視とまではいかずともかなりのハイレベルに設定してきた。5年前のツアーで喉に支障を来したのもスタミナ面をかなりシビアに見積もった為だった。

勿論誰だって新曲をライブで唄う時は初めてなのだが、上記のように自らの身体的拘束条件をかなり後回しにして創作&制作しているかどうかといえば、無意識的にでもライブでどうなるかという点に気を配るのがライブアーティストなのだ。光はそうではなく、根っからのスタジオアーティスト。なのにファンからのお望みとなれば唄ってしまう。サービス精神旺盛過ぎ。無理はしない主義なんて嘘である。

いや、嘘ではないかもしれない。嘘ではなくしてしまう、のか。当初は無理だろうと思っていた事も無理ではなくしてしまう。今回のライブでいうなら、GBH,テイク5、そしてBLUEがそういった楽曲たちであったろう。特にBLUEは事前に「こんなのナマで歌える訳がない。喉が一瞬にして潰れる。」と思っていた。すいません、侮ってましたm(_ _)m

やっぱり、唄って欲しい歌は取り敢えず「唄って欲しい」と素直に声に出して言うべきなのね。もっと信頼しないとだわ。反省々々。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




GBHの後半でリズムを取り戻した光が、そのままtravelingに雪崩込む。その時の音のスケール――の、"小ささ"にちょっと驚く。初めて聴いた時、大袈裟でなく"宇多田ヒカルが一段ステップを上がった"と感じたあの確信性(誤字ではない)、過去をきっちり踏まえているという意味でPopMusicの未来を感じさせたあの周囲への"巻き込み力"が、まるで箱庭かジオラマのような出来事のように思えた。

それ程までにGBHのスケールは大きい。ダイナミックなHEART STATION ALBUMから更に大きく羽ばたいた楽曲なのだから当然といえば当然なのだが、18歳と27歳の9年間の差は大きい。お陰でトラベのイントロを初めて"かわいい"と思ってしまった。いじらしい、というべきかな。

しかし、それでもなお楽曲が"負けていない"のが何とも不思議だ。楽曲のよさというのはその着想や発想や経験に裏打ちされた妙味の分厚さによるスケール感と直接は関係ないのだろうか、あの絶妙のフックラインはシンプルであるが故に人々の心を捉えて離さない。

それに加え、この曲に対する光のパフォーマンスには"慣れ"があるし、観客の方も大幅に"馴染み深い"。こういった要素は、演奏会では絶対的な意味合いをもつ。どれだけその日その夜に絶品の演奏を披露していようが、予め愛されていた曲の存在感にはかなわない。いっこく堂が昔"やっぱりまず有名にならないとダメだな"と嘆いていたが、その意味で勝負は会場に来る前に決まっている。そもそも、そういう楽曲がないと人は足を運ばないもんね。

トラベの演奏に感じたタイニーな可愛らしさと人々に愛され支持され続けてきた9年間の歴史の分厚さの奇妙な同居は、今の光にもそのまま当てはまる。如何にも洗練された大人の女性のスラリとした佇まいの中に見せる昔と全然変わらない茶目っ気のある悪戯っぽい笑顔。こいつは変わってんだか変わってないんだかさっぱりわからない。大人になったね、とも声をかけたくなるし昔と変わらないねとも言いたくなるし。これ、30になっても40にもなってもそれ以上になっても変わらないのだろうか。お婆ちゃんになってもあの悪戯っぽい笑顔に出逢えるのだろうか。長生きしなくっちゃね。


途中で演奏が止まりブレイクが入るのがまたいい。これは一曲目からひと続きに演奏されている為余計に効果的だ。特典映像をみると、それもまた光が率先して出したアイディアであろうことを伺わせる。

光は口が裂けたらまともにしゃべれないだろうが、誰でもやがな、もとい、口が裂けても云わないだろうが、GBHPVに映る自分をみて"何コイツちょーカワイイ"と思っている筈である。絶対思っている。なぜなら彼女はディレクター・プロデューサー・監督だからだ。監督者が被写体に心底魅力を感じていなくて誰が作品に感動し得ようか。ブレイクが決まった瞬間にヒカルは自分の姿が皆にどううつるか、自分の歌声がどう響き渡るかしっかり把握しているのだ、総監督として。

それでも舞台の上で唄う事で初めて発見することもある。私はそれが何かはわからなかったが、あの表情は「あ、こんなこともあるんだ」と感じた時の顔だった。じっくり顔のアップを見ていられるって、いいねぇ。(結局まぁそれである)




――思えば遠くまで来たもんだ。私は導かれ、彼女は相変わらず笑っている――

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ