無意識日記
宇多田光 word:i_
 



AKB48のCDが更に売れているらしい。元々そんなに興味がないので枚数も、曲名すらわからないが、ひとつ言える事はやっぱりこれだけの"モノ"を売るって素直に凄いなぁ、と思う事と、ネットではあれだけ酷評だらけなのに、何にも関係なかった、という事だ。

どれだけ"宇多田の記録を抜いただなんて認めない"系のツイートをみたことか。いや数字は嘘をつかないだろう。そりゃ中にはひとりで何百何千と買うひともいるだろうけど、どれだけ金持ちだろうが彼らは身銭を切っている。勿論そのお金の正当性?みたいな事に疑義を挟んでもよいけれど、そんな事をしていたらキリがない。兎に角、外野が何だかんだ言っても未だに売上に影響がないのだ。好かれるのは大変だし、好かれれば人もお金もまわり大きなメリットがあるが、嫌われても大した事は起こらない訳だ。流石にこの勢いがあと何年も続くとは思えないが、アイドルグループの人気の寿命なんて昔から儚いものである。AKB48に関しては、今後犯罪にでも関わらない限り秋元康の大成功として語られる事になりそうだ。たとえどれだけ嫌われていようとも。

翻って、宇多田ヒカルは本当に嫌われていない。勿論、好きじゃないという人はやまのように居るけれど、大抵はよく知らず、イメージの断片で何となく、という程度で、蛇蠍の如く嫌っている、という例は(ネットでみる限りは)本当に少ない。国民的に愛され、好かれていると言っていいだろう。お陰で、ファンをやっていても変な空気に出会す事は全くない。誰と話していても、「ああ、宇多田はいい歌を唄うね」と一目置かれたコメントが帰ってくる。これがAKB48だと行く先々で喧嘩になりそうな感じである。少なくとも、音楽的に尊敬されているという事はない。いい曲もあるんだけどねぇ。

さて、どっちがいいんだろう? 秋元康は、彼の手法に対して異論反論が巻き起こる事位はわかっていた筈である。しかしたとえ多数に嫌われようとも、その中で最大限の成果、利益、数字等々を残す事に腐心してきた感がある。そして、これだけ国民的に(といっても特にネットのヘビーユーザーの間で顕著なのだろうが)嫌われていても、売上に何の影響もないどころか話題性を促進して今回更に売上を伸ばした。その商法に関するあなたの批判は、見事にその商法の追い風のひとつになったのだ。

『向かい風がチャンスだよ今飛べ』と唄うヒカルは、寧ろ、そうやって愛される事によって、恐らく売上を減らしてきたのだ。参加券はおろか複数商法もまともに取り組んだ事がない。多少の批判は覚悟で、売上をもっと伸ばしていく事も出来た筈である。しかし、それをして来なかった。その潔い商売態度は、その好印象に深く貢献している。その分、利益は減った筈である。

再度問う。どちらがいいんだろう? 私はここで、だからヒカルは素晴らしい、とは言うつもりがない。人それぞれだなぁ、と思うだけだ。ただ、ヒカルの態度はそれはそれで麗しいと思うからといって、AKB48にネガティブな感情が生まれる訳ではない。こんなエントリーを書いてるけど、結局彼女たちにも記録にも、そんなに興味がないんだろうなぁ。それだけである。

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『夏も終わりの気配漂う8月末~♪』という訳で今夜こそ目次上げるの忘れないようにしないとなっ。となとなっ。

そういえば、考えた事なかったが南半球の人たちは北半球で歌われる時期と季節の結びついた歌の歌詞をどういう風に聴いているのだろう。Summertime Bluesは12月とかに聴くのだろうか。8月末が夏の終わりといわれても実際は違う訳で。プレイ・ボールは日本語の歌だから北半球の国の事だと割り切れるかもしれないが、英語だとオセアニアとかあるだろう。どんな感じで受け止めているのか。

英語で唄う、とはそういう事でもある。日本語で歌ってる時はエキゾチックだから、異文化だからと見過ごされていた事も、英語となると世界中に母語、公用語として、第1第2外国語として使用している人が居る。そして、それぞれの文化に配慮せねばならない。

ラブソングも、地域や時代性に依存する。一夫一婦制の許での歌だとわかっていないと、不倫だの浮気だの火遊びだのといった内容のどこにスリルがあるかわからない。性文化の変化変遷を辿っていないと、どこが過激で問題になったのか、何故こんな暗喩が面白がれるかわからない、といった事態が出てくる。イスラム圏やヒンズー圏での恋愛観、結婚観はどんなものか、よくよく知っていないと現地で何を歌っても大丈夫なのか、何からがNGなのかわからない。

UtaDAでは規模が小さいながら似たような事は既に経験している。The WorkoutやEasy Breezyの訳詞を取り上げて"過激になった"とか"ビッチ化してる"とか書かれるケースもあったが、いやまぁ後者は2ちゃんねるなので真に受けなくてもよいものの、英語で聴けばそういう印象は薄い。日本語でやる場合は手法から異なっていて、例えばtravelingや幸せになろうのような体裁をとるだろう。歓楽や愉悦の情緒表現は、言語の選択自体に根本的な所から変化を強いられる。

今後、Utada Hikaruとして活動していくに際して、どの国で、どの文化圏でリリースされ得るかは出来るだけ予め把握しておいた方がいい。世界情勢もDog Yearに突入しようとしている。いつどこで歓迎されるかわかったものではない。そんな時に歌詞で要らぬ誤解を受けぬよう、普段から国際感覚、いや地球感覚を磨いておく事が肝要かもしれない。

いや勿論ミュージシャンにスキャンダルはつきものなので、物議を醸す事が存在意義だったりもするし、異文化コミュニケーションとは元来そういうものであって、寧ろ日本人の考え方感じ方を世界中にこちらから積極的に伝えていけばいい、という考え方もあるかもしれない。

でもたぶん、光は出来るだけ穏便に進めたがるんじゃないかなぁ。波風立てずに忍び寄るように相手の懐に…ってもしかしたらその考え方が、世界からみたらいちばん"日本人っぽい"かもしれないけどね。

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誰かのライブをみにいった時、やっぱり心を込めて歌ってくれれば感動するよねぇ、当然だよねぇ、とひとつ想像を巡らせた瞬間には思うかもしれない。1音1音、魂を削るような歌唱。それを観に、聴きに来る為に高いチケット代を払ったのだ、休みをとってここまで来たのだ、もしかしたらこの人の歌が聴けるのは今回が最後かもしれない。しっかり胸に刻み込んで帰るぞ―そんな風に力んでしまうのが、聴衆の心理、人情というものだろう。

しかし逆からみると。歌い手は、それがヒット曲であればあるほど、何百回、何千回と同じ歌を唄っているのだ。彼、彼女たちにとって、その歌を唄う事こそ日常。僕らが歯磨きや洗顔を毎日するような感じでその歌を唄う。

人間の脳とはよく出来ていて、同じ行動を反復すればするほど、その行動は"自動運転"になっていく。それこそ自転車の運転などはわかりやすい例だろう。覚え始めは、必死になってバランスをとったり左右のペダルやハンドルと格闘してみたり、四肢に様々な注意を払わねば運転が成り立たない。しかし練習を重ねた挙げ句コツを掴んで一旦乗れるようになると、もう細かい事は気にしないでも自転車は前に進むようになる(ここで引っ越してしまうと20代後半まで前に進むだけで曲がれない、なんて事になったりするのだがまぁそれはさておき)。自転車に乗っている時に、自分の足がペダルを漕いでいるだなんて意識しない。他の事を考えていても、足はしっかり動いてくれるのである。

歌も同じだ。何度も歌い続けると、何も考えてなくてもきっちり喉が音を出してくれるようになる。その人がヒット曲を唄う事は、聴衆にとっては生涯にいちどきりかもしれない特別な時、唄い手にとってはありふれた日常、そのギャップの大きさに、唄い手は無闇に気がつかない方がいい。自動運転で歌えているのに、余計な事を考えると歌詞がとんじゃったりする。

長年歌い続けていると、そんな風になってしまうので、それをつまらないなと素直に感じる人はメロディーを変えてみたり、リズムやアレンジを変えてみたりと工夫を試み始める。そこには何の悪意もない。それどころか、"より歌を面白くしよう"という前向きな心意気で、ヒット曲には次々とアレンジが加えられていくのである。

一生にいちどきりかもしれない歌を聴きにきた聴衆にとっては、たまったものではない。あの、CDで聴ける歌唱をナマで体験したいと意気込んできたんだ、あの名曲をなんでそんな風にアレンジしてしまうんだ。そんな怒り。

だとすれば、歌手はどうすればよかった? 仕事だと割り切って、ルーチンワークで本来の姿のままの歌のメロディーを唄えばいい? もう自動運転化しちゃってるから、唄ってる時は心ここにあらずだよ、今更この歌に心を込めて歌おうとするんだったら、何か新しいチャレンジがないと。自分の心に嘘はつけないよ。

ジレンマ。ヒカルの場合は、まだここまで来ていない気がする。どれだけ沢山唄った歌だろうが、未だ人前で100回以上披露した歌はない筈だ(よね?)。しかし今後、ツアーの密度があがってきた時には、初恋やオートマあたりは脳が覚えてしまって自動運転可能になるかもしれない。そうなる事は、避けられないだろう。

しかし今までの所は、流石のヒカルもどの歌も"心を込めて"唄わねば間違ってしまう歌ばかり。好不調の波はあれどどれも魂を削ったテイクばかりである。今後もいままでのような薄い頻度のライブ間隔なら、歌はずっと自動運転にならないだろうが、果たしてどちらが幸せなのか、今の僕にははかりかねるよ…。

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家訓  


「いい女を見かけたら声をかけろ」…だっけ? 宇多田家の家訓だそうだが、母と娘もいい男をみつけたら声をかけるのだろうか…という話では勿論なく、シンプルに"チャンスは逃すな"という事なのだろう。

また、それに加え一期一会とか、一歩踏み出す勇気とか、先手必勝の勝負観とか、なかなか含意の豊富な、趣深い家訓である。

ただ、それとヒカルの人生の「ある程度の受け身ぶり」とは相容れるような相容れないような。レコードデビューは日米ともレコード会社からのオファーを受けてのものだし、そもそも歌い始めたのも両親に勧められたからである。

ここに在るのは、いい女に積極的に声をかける方ではなく、声をかけられるのを待っているいい女の方な気がしてくる。実際いい女なんだけど。

家訓はあクマで照實さんの生き方なのか、或いは真逆にヒカルがひとりだけ自分で言っている事なのか(即ち初代家訓当主)、そんな経緯をきく気も起こらないささやかなイシューだが、その差が生き方、人生に大きな影響を与えるのもまた事実。

"売り込む"という事をしない。しかし、あらゆる行動には自ら責任をもつ。プロデューサーまで引き受けるからにはそういう心持ちである事には疑いがない。人から持ちかけられても、いやいややってる感じは全くない。

これは多分、"夢のない生き方"なんだと思う。どこかに居るかどうかもわからない心の中の理想像を追い求めるより、今目の前で現実に通り過ぎる生身の人間にかかずらえ、というこの家訓。売り込むという行為は夢なのである。いちばん夢のない行為だという先入観とは裏腹な気がするが、現実との乖離を感じている時点で人は夢をみているのだ。

Not A Dreamという叫び、Show Me Loveは『夢ばかり見ていたと気づいた時』に『自力で一歩踏み出す』力強い歌だけれどつまりこれは実際の自分をみろ、そしてみせろという事だ。素直にみせていれば、掛け合って売り込む事もない。実際、レコード会社がヒカルに声をかけてきたという事はどこかでヒカルの歌声を耳にしたからであって、いくらオファー待ちが基本であってもどこかで自身を表現していないと話にならない。ただ、その表現に押し付けがましさがない事、それ自体がヒカルの魅力の構成要素のひとつである事もまた真実だろう。だからひとりで居る時に聴いていても鬱陶しくない。いやまぁその日の気分には、よるかもしれないが。

様々な層が、音楽にはある。自らを売り込む売り込まないという態度の有無すら音楽性に反映されるとすれば、これはかなり神経を尖らせ、磨き上げ過ぎてすり減らす結果となるだろう。自身の深い部分までいつのまにか投影されてしまう創作活動がマスメディアに取り上げられない今の時期は、創作と神経戦が切り離される貴重な時間帯でもある。光には存分に今、創作を楽しんでほしい。たった今出会ったアイデアを素直に慈しめるように。

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この欄を書き始める時、「さぁ書こうか」と構えた数~数十秒の間に大体3~4個の書くテーマとそれぞれの構成を思い描いて、さてそのうちのどれを選ぶかといえば最も多いケースは「その3~4つのアイデアを脇に置いて何か新しいアイデアが思い浮かばないかとアテもなく書き始める」というパターンだったりする。

空き時間が数分でもあれば「そういえば」とアイデアがストックとして溜まっていくのだが、いつのまにか構成まで出来てしまうと書き下すのが億劫になってしまう。文章が構成できた時点で、私の中では終わっちゃうのね。

こうやって書きながら何か思い付かないかな~とあちらこちらにアタマを向けているのは、それだけ自分に期待しているのかなぁと思えてくる。実際、そうやって書いて(ごくたまに)ちゃんと書けた場合は、自分で読み返してみても面白い。思いも寄らず書けた事だから、新鮮さが真空パックされてるイメージなのだ。

光の曲作りにも、似た所があるかもしれない。曲を作り始めた時、「どんなのが出来上がるんだろう」といちばん胸をドキドキワクワクさせているのは、他ならぬ彼女自身だろう。宇多田ヒカルやUtadaの曲を誰よりもいちばん早く耳に出来る特権。羨ましい、といっていいのかな。

ただ、光は出来上がった曲はあんまり聴かない。多分、出来ちゃったら「もう用はない」んだろう。愛情がなくなったというよりは、子育てをして子が成人して自立してひとり暮らしを始めた時に親として「じゃあもうちょっかい出さない方がいいかな」と考えるタイプだと解釈した方がよさそうだ。

となると、今の時期はどうなのだろう。いわば、ひとりだちした子たちの里帰り。たまにはじっくり膝突き合わせて語り明かしてみるのも悪くないんじゃないの、という心境になったりはしないのだろうか。

確かに、さんざ制作時に聴いていて今更もう、という気分もあるかもしれない。また、耳を傾けるとクリエーター故にあそこをこう直したい、ここはもっとこう、なんていう欲求が出てきて始末に負えないかもしれない。

最近でも、IvoryIIを導入したりして、創作活動に途切れはない様子だ。今やもうお喋りをするような感覚で曲を書いてしまうのではないかな。歌詞のノウハウだって12年分ある。量産だって可能だろう。

こういう環境と心境の中で、過去の自分の成果をあらためて振り返ってみるのはどんな気持ちになるんだろう。それが知りたい。

光が、宇多田ヒカルとUtadaを外からみる。出来れば、いちファンとしての視点から眺めてみる。

すると、いちファンとして、この曲はライブで聴いてみたいとか、こういうシチュエーションでこの曲を聴いたら面白いんじゃないかとか、色々出てきやしないか。リラックスしてただぼーっと宇多田ヒカルの歌を鳴らして耳に入れるというのがどんな感じなのか、仕事を離れて初めてみえてくる事もある筈である。

実際、誰よりも宇多田ヒカルを魅力的にみせる方法を理解しているのは光本人であり、GBHPVをみればそれは如実ではあるだろうが、そんな彼女でさえGBHPVがファンの涙腺を刺激し大きな大きな感動を与える事に気付いていなかった(ツイートによれば)。

これこれこういう風にすれば皆喜ぶに違いない、楽しんでくれるだろう、という予想は出来ても、その喜びが実際の所どんなものであるのか、どういう気持ちで楽しんでいるかというのを肩の力を抜いて知る、実際に体験してみれるのは、アーティスト活動を休止している今の時期しかないのではないか。宇多田光が、宇多田ヒカルやUtadaのいちファンになれるタイミング、なってみれるタイミング。その力加減は今まで書いてきたように確かに難しそうではあるものの、自分の書いた作品に対してある種"無責任"に接してみれたら、遠い将来に渡って有意義な気がする。いつも責任重大な光の中に無責任な自分を小さく飼う。イメージとしては面白い試みではなかろうか。

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昨夕PFMを聴きながら「やっぱりこのメロディーはイタリア語で聴きたいな~」と痛感した。彼らの場合、一旦イタリア国内で自国語でデビューしたのち同じ楽曲の英語版で国際デビューした経緯があったので両語バージョンを聴き比べられるのだが、私の場合英語で歌われても何を言っているのかサッパリ聞き取れないのでどちらの語で歌われようが基本的には同じ筈なのに、やっぱりイタリア語で、と思ってしまう。

これは、このBlogではお馴染みの話題、歌における歌詞言語とメロディーの組み合わせの話だが、やはりメロディーを直接生んだ語の方が親和性が高いのだろう。音声学的にみても。

朝の連続テレビ小説「おひさま」のテーマ曲は月金でインストだが、土曜日になると突然平原綾香の日本語が乗る。同じメロディーで。元々歌にするつもりはなかったのだろう、やはりその歌詞の乗り方は案の定(?)違和感がある。メロディーの輪郭は伝わってくるがなかなか歌詞が印象に残らない。全然関係ないけど第119回はよかったねぇ…紺野まひる…119か…まぁそれはさておき。

ヒカルが日本語をR&Bに載せて成功した、とはデビュー当時方々で言われていた。非常に緻密なノウハウがそこに既にあった事は疑いがない。もしかしたらある程度後続の歌手たちに手法が真似られていたりもするのだろうか。私はよく知らない。

本来、日本語の響きを大切にするとメロディーの印象は薄くなる筈だ。他方、平原綾香にみるようにメロディーが幅を利かせていると、歌詞の乗り方はどうしても不自然になる。両者はトレードオフの関係といえそうだが、ヒカルの曲は詞も自然に載っていてメロディーも刻み込まれるというトレードオフ無関係な事態になっている。これは、手法を真似たからといっておいそれとは似せられない部分である。

"詞も自然に載って"とは書いたが、デビュー当時注目されたのは『七回目のベルでじゅわっ』に代表される"今までになかった""斬新な"日本語詞の載せ方であった。しかし、今の視点からみると寧ろこういった事例は"苦し紛れ"に近いケースだったのではないかとすら思えてくる。今の光は、強いメロディーに実に自然にメロディーを乗せれてしまう為そういう"苦し紛れ"がかなり減ったのではないだろうか。

例えばGoodbye Happinessなら例の『はしゃいで・たあの頃』の切り方なんかは、その"苦し紛れ"の末裔といえるのではないか。『七回目のべるでじゅわ』に較べて随分と目立たなくなっている。なのに響くメロディーの美しさは当時よりおしなべてずっと強い。12年かければここまで来れるのだ。

余りに自在に日本語が載せれ(てるようにみえ)る仕上がりの為、日本語で残すインパクトは寧ろ単語のセレクトの方に軸足が動いた気がする。GBHでいえば『浮き世なんざ』の類である。

初期のヒカルは歌詞の技巧がそれとわかる目立ち方をしていた為絶賛されたが、今は技巧が余りにも自然に援用されている為そもそもその匠の技が気付かれない。歌詞に騒がれなくなった今の方が、実態としては寧ろとんでもないのである。真の才能は、素知らぬ顔をしてあなたのすぐ目の前を通り過ぎていくのである。

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梶さんはよく「インターネットはメディアじゃない」と口にする。恐らく、ここでいうメディアとはマスメディアの事で、そうであるならば言いたい事は解るし同意するものであるが、言葉遣いには何となく引っ掛かる。マスメディアの事をメディアと呼ぶ感覚の話。

確かに、昔はメディアといえばマスメディアの事を指していたような気がする、とあやふやな言い方しかできない位、私の"メディア"という語に対する感覚は、恐らく昔と較べて、違ってきてしまっている。私にとってメディアとは、もうその英単語の本来の意味、media~mediumの事であり、ミディアム、中間、媒介、媒質、なかをとりもつもの、という事でしかない。メディアといえばまずインターネットであったり、CDやDVDやSDカードなどの記憶媒体であったりする。日常会話での使い方は「どんなメディアに保存してんの?」といった具合である。

多分、私の例は些か極端なのだろう。まだまだメディアといえば世間ではテレビであり新聞であり雑誌であり、する筈だ。が、PCとネットが"なかをとりもつもの"の中心になって私の場合もう10年以上経つので、そもそもマスメディアというものに(元々あんまり期待していなかった所もあったので)考え方の軸足を置く発想がなかった。何だか遠くの方で大騒ぎしているなぁ、そんな風にいつも見ている。

例えば新聞の社説などはちょっと長めの匿名の落書きに過ぎず、2ちゃんねると同じ文化の裏表だなぁ、という感覚である。これによって何百万人という人々の思想活動に影響を与えるかもしれない、という認識はあるものの、語られているテーマに関して私が何か知りたければまず専門家のBlogを検索するだろう。あそこを書いているのは語っているテーマに関しては素人の人な確率が高い為基本的に役に立たない。寧ろ参考になるのは、どこの社説がなにを取り上げ、更にテレビ局とどう連動して世論を形成しているか、といった点であり、それを知る為のシステムはやはりインターネットである。私にとっては、マスメディアへのアクセスも、他の個人Bloggerへのアクセスと変わりなく、ただ付帯項として電波と販路を確保して影響力が大きい事を考慮に入れるというだけだ。

文章に関しては元々そうだったが、Youtubeやニコニコ動画などのストリーミングによって映像と音声も相対化された。テレビも、いつのまにかネットを中心としたシステムのいち構成要素に過ぎなくなった。まぁもう10年間PCで地上波見てるからなんだけど。こうなってくるといよいよマスメディアという感覚は消えていく。実際、動画放送でいちばんよく利用するのは圧倒的にittvだったりする。確かに個人的趣味の偏りのせいでしかないのだが、自分に必要な情報を手に入れる為にマスメディアにはほぼ何も期待してよくなったのは僥倖といえると思う。

冒頭に戻る。梶さんは「インターネットはメディアじゃない」という"言い方"をする。じゃあインターネットをどう呼ぶのだろう。まぁ、インターネットって呼べばいいけど、私のようなマスメディアというシステムに頼らなくて嬉しい人種には、このキャッチフレーズ(って別に彼はそんなつもりで言ってるんじゃないだろうけど)は響かない。寧ろ、私の言葉遣いに従えば、今や旧来のマスメディアはメディアとしての利便性に欠けていて使いづらい、とすら思う。マスメディアは"メディア失格"、そんな過激な言い方もしてしまいたくなる。

彼とはそんなに世代が違わないし、所詮今言ってる事は単語の選択に過ぎないので本質的ではないのだが、光の不具合になったパソコンを治療できる程詳しい人が、何故そういう言葉遣いでいるのか、という感触を覚えた事実がある、という事はここに記しておく。とまぁそれだけかな。実際、全国規模のレコード会社のA&Rなんだからメディアといえばそりゃ第一にマスメディアでないと困るよね、とは理屈ではよくよくわかってるんだけどね。

なお、ここ10余年、私にとって最も重要だった"メディア"は、Message from Hikki/UHU である。ここを中心にして世界は回ってきた。それはこれからも変わらない。インターネットがある限り、はね。

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なんとなくEVAっぽい天気だ。蝉の鳴き方も気だるさが丁度よい。BWPbAMも、こういう残暑な空気に似合う。

今夜はEVA破TV地上波初登場。時間枠から考えてエンディングロールはバッサリカットかな、という話になっているが果たしてどうなるか。オープニングの提供バックのBGMに使われたらほぼアウトだろうかな…。配信がどれだけ伸びるか見てみたかった気もするんだが。まぁこれは見てのお楽しみという事で。

勿論、内容もさる事ながら注目なのは急+?=Q?の公開時期が発表になるか、なるとすればそれはいつか、という点だろう。主題歌の憶測については散々書き散らしてきた。要はBWの"意味がわかる"のは新劇EVAが完結した時なのだからもうずっとこの歌で行くべきだ、という話。あとはどんなリミックス、どんなバージョンになるかという興味。バラードやインスト、オーケストラとか合唱とか色々考えられる、と。歌詞が変わるパターンとか語ったかな? 新しくヒカル自身による素材を収録する必要のある場合は可能性が低いだろう。これだけ長期のプロジェクトなのだから、予め準備は出来ている可能性もあるし。

新劇EVA完結編への期待感は相当なものを感じる。全体の論調は恐らく、「時間が掛かってもいいから納得のいく作品を作ってくれ」というものだろう。前世紀のTV版からずっと、この作品は制作過程自体がメタ・ストーリーとしてファンの議題になるという希有な立ち位置できている。多くの人間が、EVAと伴走して人生を送ってきているのだ。

後発のアニメ作品も、EVAのクオリティに追いつき追い越せでやってきている。涼宮ハルヒは作品自体にオマージュを含んでいるし、過去の反省点から学ぶ事も忘れてはいない。まどマギも、作風的にも人脈的にもEVAとあんまり関係なさげなのだが事ある毎にEVAの影響力、波及力と比較されている。庵野監督が巨神兵を描いた事で繋がりのある宮崎駿やら、前世代のロボアニメ(って言わなくなったな~)の象徴ガンダムの冨野監督の反応も楽しみだ。新旧両世代から、ここまで注目される作品も稀である。

主題歌を唄う、というのはあんまり実際にアニメ業界の人たちと関わりあう事にはならないから、ヒカルの人生そのものに対してはそんなに影響がないかもしれない。しかし、上記の様にEVAは作品制作過程自体が物語であり、それについて語る我々傍観者まで含めて作品の一部であるといえる。Beautiful Worldは、そのメタストーリー全体に対するテーマソングとなっているのだ。余り光の好む表現ではないかもしれないが、実に光栄な事だと私は思うのだった。

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あぁ、アキレスと亀ってブラックホールの事じゃないか、と気付いた。古代ギリシャで生まれたイメージは、20世紀にも引き継がれてるのね~。いや今は21世紀だけど。

20世紀の爆発的な発展は、世界史上でも驚異的だろう。人の増え方が違った。21世紀も、まずはインターネットの登場によって随分と様変わりしたが、20世紀の場合は電話に引き続いて映画、TV、自動車などなど、画期的な発明が相次いだ。21世紀がそこまでラディカルになるか、まだまだわからない。

音楽の面では、20世紀はどうだっただろうか。詳しい事は知らないが、人口爆発に伴って大きく大衆に商業的に拓かれた時代だったというべきか。庶民の音楽は19世紀以前もあっただろうが、ここまで派手ではなかっただろう。ひょっとすると、音楽で億万長者になる、というケース自体、20世紀より前には稀だったのかもしれない。

そういう"特殊な"世紀を経て、21世紀はまた音楽が商売にならない時代になる事も考えられる。ネットのお陰で曲を配るのはどれだけでも出来るとなれば、結局誰も商売にしようとしなくなってゆく。娯楽も多様になり、音楽を聴く必要、世間的圧力みたいなもんがなくなれば、商業音楽自体なくなっていくのも有り得ない話ではない。

というのも、これまで、多くの人がさほど中身を吟味せずにCDを買ってきていたという事実があるからだ。倉木麻衣が300万枚売れたのは、様々な方法を駆使したからであり、決して皆が他の種々の音楽と比較して「これはお金を出すに値する」と選んで買った訳ではない。

宇多田ヒカルはもっとそうである。確かに、First Loveは国民的名曲だが、だからといって700万人の人が心底気に入って吟味して選択の上で購入してきた訳ではないのだ。

途中から現象が"バブル"になって、加速度的に売れ始める、これによって生じる購買力が全体の何割位か、見極めるのはむつかしい。バブルとは、情報が実体と乖離して一人歩きする話の事だから、インターネットが発達した21世紀はバブルのありようも定量的に異なる筈である。スパンの短さ、瞬時に巻き込む人数の多さ。情報の混乱と変容と誤解。新しい時代のバブルは、何となく購買に結び付いてしまう前に収束するようなイメージがある。

確かに、FoLの大ヒットは見事だった。ドラマの人気にも助けられ、"バブル"によって年間世界2位のダウンロード数を記録した。バブルを生み出し得るだけの曲のよさと長年培ってきた「宇多田ヒカルへの期待感」ていう他にはない強みがあった事は間違いない。が、何かがブレイクするというのは事前には予測できないものだ。そして、当たるとそれはそれは物凄い。

でも、バブルの当事者ってどんな気分なのだろう。何となく買ってみて、聴いてみて、あぁ、悪くない、そう思う感じ。宇多田ヒカル以外のコンテンツに対する、普通の僕らの態度だ。ひとつひとつの購買行動をみれば、至って普通。「なんか最近話題になってるから、ちょっくら買ってきてみるか」に、深い考察や強い信念なんてない。そのさりげなさを生む為に、アーティストは頑張る。レコード会社もマネージメントも頑張る。そして21世紀。その購買行動の姿はさほど変わらないだろう。変わるのは、その総数。その分布。あクマで全体での何かである。個々のなんてない日常が、どのように組み合わさるか、その違い。確かに、掴みようがないし、それを起こせた倉木麻衣と宇多田ヒカルは、関係者含め本当に凄いなぁと思うのだった。

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こういうスタイルで毎日書いていると、書きたい事が書ききれなかったり、そもそも書こうとしていた事と関係無い話になっていたりと様々な事がある。文章が苦し紛れにみえる時は、ネタがなくて困っているというよりは「はて今ここはどこなんだ?」と迷子になっている事が多い。

「迷子に なろう」。

ヒカルが昔エミリー・ザ・ストレンジを訳した時に出てきた台詞である。原文はGet Lost だっけ。忘れた。目標を見失う事を目標として立てる、というウソツキのクレタ人みたいな標語。翻訳とはいえ、ここにヒカルの思いみたいなものが込められているように感じるのはでしゃばり過ぎだろうか。そういう共感があるからこそ、翻訳を引き受けたんじゃないか、とは推測できるんだけど。

人間活動は、この、「迷子になろう」の如く"何の目標も予定もない所に飛び込もう"という意味なのか、それとも真逆の、人並みに予定のキッチリした、未来日記をなぞるような生き方をしてみてるのか、どちらの解釈が当てはまるだろう。

アーティスト活動が人間離れ、monstrous―化け物じみているのは、作品が人間としての創作者の意志や意図を飛び越えて現出していくからだ。まるで、自分が自分より大きな何かに操られているような感覚―人間から離れた何かの存在を深く感じる事がアートだともいえる。その場合、アーティストに出来る事はそれこそ「迷子に なろう」という決意と覚悟しかない。何か予定を立てても、結局は飲み込まれ翻弄され、気がついたら当初は思いもよらなかった作品が出来上がっている。時にイビツで、時に美しい何かが。

人間活動という言葉が、アーティスト活動という言葉との対比で生み出されたものだとすれば、この点から考えると迷子にならない、ちゃんと目的地と予定を企んで歩き始める計画を立てて生きる生き方を指すのだと解釈する事も出来る。

出来た、のだがもし光が何かを計画していたとしたらそれは早速頓挫している。311の影響で日本からの出国を、Exodus'11を1ヶ月以上遅らせているのだ。天災なんだから仕方ない、日本は全体で"予定が狂った"んだから、と言ってしまうのは容易である。しかし、なぜか大人物というのは自然と自然と歩調があってしまうものなのだ。昔その例としてウォーターセブンでルフィが怒った時大波が押し寄せる描写をわざわざ尾田栄一郎が入れた話をした覚えがあるが、ここまで規模と影響が大きい話だと流石に我田引水にも限界がくる。

だが、本当の所はどうなのか。時が過ぎてからでないと、わからないだろう。時が過ぎても、わからないかもしれない。そう簡単に"人間で居られる"のか、アーティストという生き方に対する自問自答こそが、人間活動の核たりえるのかもしれない。

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島田紳助は、昔とひとつも変わらない。四半世紀前も、MANZAIブーム真っ只中で人気も飛ぶ鳥を落とす勢いだった紳助竜助を、若手の成長を理由に(「サブローシローやダウンタウンには勝てない」) 突然解散させた。文字通りの意味だったのかどうかは今以て解らない。しかし、長期的にみれば彼はその後司会者として大成功を収めたと言っていいだろう。今回の件が晩節(というには未々若いが)を汚す結果になるかはわからないし、今回も会見で述べた理由が本当かどうか(本音かどうか)はわからない。明石家さんまや松本人志からも一目置かれるあの頭脳を侮らない方がいい。少なくとも、ネット上で彼を揶揄する全員より彼の方が切れるのだから。

宇多田ヒカルの頭脳の回転は、彼ら(恐らく、戦後どころか日本史を代表する芸人たち)よりも遙かに速い。何がどうなっているかわからないレベルである。が、はっきり言ってどこか要領が悪い。前に、ヒカルとほぼ同世代の鳥居みゆきがシンガーソングライターではなくお笑い芸人を志したのは(いやそりゃのいるこいるに憧れてってのも本当だろうけど)、日本のエンターテイメント産業に於いて象徴的だ、と述べたがヒカルの場合、まさに最後の最後のいちばんデカい大花火だったように思う。

ヒカルにとって不運だったのが、売れてお金が入ってきても特に買うものがなかった事と(4万円の噴水とか700万円の車とか100万円のきぐるみとか位)、大切にしたいプライバシーを"有名税"という謎のキーワードで蔑ろにされた事だ。更に、売上は1stアルバム以降下がり続けた。あそこから上がる訳がないのは当然なのだが、売上がモチベーションになりにくいのはポップス歌手として実にやりにくかったろう。だから5thが4thの売上を超えたのは嬉しかったんじゃないかな。本人のコメントがなかった(よね?)のでなんともいえないのだけど。

そんな"分の悪い戦い"を12年間続けてきた。島田紳助は嗅覚鋭く土俵を変える事で成功を収めた(今回はどうなるのだろうか)が、光が土俵を変える事は考え難い。海外進出・世界発売といっても、音楽業界全体が地球規模で斜陽という見方もできる。戻ってきた時には土俵がないとも考えられる。それでも歌を唄うしかないのだが、何故そうなるのかというのが、ファンゆえにわかりきっている分、なんとなくピンと来ないのだ。

つまり、あの凄まじく回転の速い頭脳は、何を目的に回っているのか、という事だ。お笑い芸人の場合は、トップの人間であってもその世界での"生き残り"を賭けている。その気迫の行き先、使い道がハッキリしているのだ。ヒカルの場合、この、運命に振り回されて創り唄っているような感覚、『それが命の不思議』と言われてしまえばそれまでだが、それがやがて咲かす花って何なのだろう。そんなものは元々ないのか、或いは既に咲きっ放しなのか。

こちらとしては、宇多田光という存在は手段というより目的に近い。いや、価値そのものと云ってもいい。生きているのに価値なんて必要ないけれど(生きていくには社会的価値が必要だけどね)、何かそこに見いだすのであればそれは宇多田光である。これだけ迷い無い想いも稀である。別に頭の回転が速くなくったっていいし、要領が悪くったって運命に振り回されていたって関係ない。彼女は光そのものだ。

という訳で、特に迷いも疑問もない中で、僕らはみんな生きている。何をしようかと思ったらやっぱり「歌でも唄いますか」となる。やっぱり光は歌手で正解である。問う前から答が存在しているのが光の特徴なのだ。

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朝NHKのニュースを見聞きして驚いた。リビア情勢より東海岸地震より与党代表戦より柔道金メダルより島田紳助引退のニュースの方が扱いが大きいのである。大橋巨泉や上岡龍太郎同様、名司会者の早めのリタイアというだけなのにこの扱い。伝わってきていないだけで、世界の中では我々の与り知らぬ所で様々なコトが起こっていると思わずにはいられない。

ネットでの評判は兎も角、彼の才能には確かなものがあった。業績は枚挙に暇がないが、羞恥心に端を発したヘキサゴンファミリーのCDの売上は見事なものだった。

冬のソナタが流行した時も思ったものだが、恐らく業界内に居ると最先端の動向にとらわれ過ぎて世の中の"実際の"ニーズを一世代分位ごそっと見落とす事がある。ヘキサゴンファミリーも、テレビを楽しむ家庭にわかりやすい歌謡曲を提供する、という嘗てあったが昨今は廃れていた方法論で(或いはノスタルジーも相俟って)ヒットをしたように感じられる。幾ら21世紀になったとはいえ、庶民の生活スタイルは(ケータイを弄るようになった位で)そんなに変わらないのだから、そういうニーズが健在なのは当然なのだが、コロンブスの卵のようなもので、実際にそれを仕掛けてみようと思い立てるか否かが肝要なのだ。

別にそれは日本に限った事ではない。アメリカだって流行に聡い人たちはそんなに多くなく、かなりの人たちが(少なくともメディアに対しては)暢気に暮らしている。ここ20年、私はそういった緩めの動きの指標としてBon Joviの音楽性を参考にしている。彼らが何かを取り入れて発表する頃には、大体世間的にその何かの周知が進んでいる、と判断するのだ。最先端からの遅れ具合が丁度いいのである。

ヒカルの場合、和製R&BブームがMisiaによって切り開かれたタイミングで登場したのが、実に"丁度よかった"印象がある。流行から遅れているタイミングでもなく、かといって最先端という程尖ってはいない、何となく流行に敏感な人もテレビを楽しむ庶民に対しても手を出すのに抵抗がない感じが、PVにも楽曲にも漂っていた。

昨今のヒカルは、どちらかといえばお茶の間から王道というか、昔"歌謡曲"と呼ばれたジャンルが担っていたポジションを期待されていた気がする。まぁ上に私が挙げたアメリカのBon Joviみたいな感じなのかな。もう彼らも30年になるけどね。光が戻ってきた時にも、高齢化が進むこの国の庶民の生活はそんなには変わっていないかもしれない。また、FoLやPoLのようなヒット曲を期待されるだろう。それに今度も応えるのかはたまたBe My Lastのように裏切りにかかるのか、どっちに転んでも楽しめてしまう私は無責任にニヤニヤしながら期待せずにはいられない。

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Wishbone Ash は Iron Maidenにメチャメチャ影響を与えているなぁ…

と全く本文と関係ない枕から始めてみた。あと5年位したら偽Z武氏とはるかぜちゃんが不倫関係になりやしないかと訳のわからない心配をしつつ話を始めようか。

虹色バスは、なぜ虹色バスなのか。このイメージは、どこから来ているのか。何を意味しているのか。『誰も居ない世界へ 私を連れて行って』くれる何か、それを象徴する存在である事は確かだろう。

バス。大抵、みんなが乗っているイメージである。Heart Stationアルバムは"We"で始まり"Everybody"で終わるアルバムだ。『みんなを乗せて』『どこか行』こうとする虹色バス。歌のはじめは、兎に角この虹色バスはなんだかわからないけど"みんな"の救い手、希望として描かれている。

虹色。特定の色ではない。七色というか、最早総ての色が託されている。色でストーリーを紡いだCOLORSのようでもあり、色とりどりの生物の舞いを見せるOne Night Magicのようでもあり。いろんな色が入っている。要するに"みんな"の色である。

だが、最後の"本音"の部分を踏まえて考え直してみると、一台の虹色に輝くバスにみんなが乗り合わせて出発進行したら、いつまで経っても目的地に達しない。この"本音の願い"を叶える為の虹色バスは、一体どのようなものになるのだろう。

もしかしたら、虹色バスは1台ではなく、ひとりひとりに固有のバスなのかもしれない。色とりどりの生物の舞い、今の私はあなたの知らない色、つまり、虹色とは人の数だけあるその固有の色が居並んだ風景を思い浮かべる方がいいのではないか。

2曲前に、テイク5がある。銀河鉄道には様々な人々が乗り合わせてていた。しかし物語の最終盤、乗客は誰であったか。銀河鉄道はジョバンニにとって、何であったか。

鉄道とかバスというと、"みんな"が乗り合わせる何かだというイメージがある。それでいい。しかし、行き着く先は、本当に行きたい所は、本当に行かねばならない所は、実際に辿り着いてしまうのは、件の本当の願いである。道が別れる時は突然、なんて歌もあったな。

では、ひとり々々々に固有の虹色バスとは、現実の世界では何であるのか。勿論、色とりどり、人によって違うだろう。『私を連れて行って』と願う相手が、しかし、誰かの人である可能性もまた、考えてよいのではないか。

『早く//私を迎えに来て』と言う相手が人であると解釈しても、この歌は成り立つ。白馬の王子様でもいいし、くまちゃんでもいい。

モノやコトだっていい。自分の本当の願いを叶えてくれる何か。時には、それは、自分自身であったり、自分自身の影であったりするかもしれない。

"みんな"でワイワイガヤガヤ、楽しげな雰囲気。そこからレトリックを操りながら孤独な世界への引き込み線を張る。しかし、そこは本当に"ひとり"なのだろうか。誰かがどこかに居たからこそ、我々はひとりになれる。ふたりであるコトをどこかで知らなければ、ひとりになれない。林檎は、結局ふたりでいっしょに食べたのだ。ひとりで孤独になれるだなんて、思わない方がいい。

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人称のバリエーション。君と僕、あなたと私、僕らにみんな…人と人との関わりを多く歌う中でとりわけ宇多田ヒカルは「1対1」に焦点を置いた楽曲を提示し続けてきた。それはUtaDAでも同様で、Crossover Interludeにあるように「越えたいのはジャンルとジャンルの壁じゃなく、あなたと私の間なの」という具合だ。"向き合う"という感覚が歌い手とどこかの誰か、或いは歌い手と聴き手の間に成立してきた。

しかし、最近の楽曲はその"相手"の掴み所が、何となく変化しているように思える。いや、"相手"が変化そのものというか、捉え所のわからない、あやふやなものになりつつある気がする。

それを最も端的に表していると思われるのが嵐の女神だ。

何言ってるんだ、あんなに"相手"のハッキリした歌はない、『お母さんに会いたい』って言い切っているじゃないか、と言われるかもしれない。完成形としてはそうである。或いは、そこで完成したから時代にひと区切りついたともいえるかもしれない。が、この歌は元々母に向けてではなく、他の誰かに向けて作り始められたのだ。その制作の過程に於いて、"相手"が変わるなんて事が、普通あるだろうか。この"変化"を許す所に、光の独特さがあるように思う。

元々、光の歌詞はその普遍性が個別に響くというのが大きな特徴だ。多くの人々が「その歌詞は今の私の状況を歌っているのか」という感覚に陥った事がある。例えばMaking Loveなんかは本当に特定の誰かの話を歌ったものなのだがそれでも聴き手は自分にとってピッタリの歌だと思う。歌詞として昇華されていく中で、その何処かで、相手の特定性が打ち消える瞬間が、ある筈なのだ。それを通して当初の予定通り親友について歌ってもいいし、嵐の女神のように途中で変更して母に向けて歌ってもいいし、Prisoner Of Loveの様に親友のような恋人のような、どちらともとれる所に落とし込んでもいい。自在なのである。

その自在性の源は何なのだろうと考えると、それはKuma Changしか居ない。相手を一旦総てくまとする事で普遍性と個別性の間を自在に行き来し、普通が特別で、特別が普通な境地に辿り着くのである。くまちゃんとの出会いは、その思い切ったやり方への気づきそのものだったのだ。

そう考えると、"ひとり"に振り切った歌の捉え方も変わってくる。Me Mueroしかり、テイク5しかり、虹色バスしかり。ここでの"ひとり"は本当に"ひとり"なのか。また、他の歌も含めて、そこで歌われている"ふたり"は本当にふたりなのか、それはくまちゃんではないのか。そうやって考えながら聴いてみるとどうなるかって話はまた稿を改めて。

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Distance制作後、3週間ダメ人間になっていた時期を思い出す。ギリギリまでEternallyの作詞と歌入れに挑みデッドライン上で完成させたアルバムの評判がよすぎてハナミズ垂らしてたのもまぁこの時だ。全力尽くしてダメになったのは人間の方でしかも期間限定、作品の素晴らしさはいうまでもないだろう。

光は、全力で作品を作った後、そうなるのだ。アルバム単位ならまぁ3週間なのだろう(既に半分の曲は出来上がっていたから7曲位か?)が、これが12年単位での蓄積疲労の分となれば1ヶ月や2ヶ月で済もう筈もない。

ズバリ、この人間活動中に光はどこかで「ダメ人間活動」を入れてくる筈である…という論を展開しようとして今夜このエントリーを書き始めたのだが、どうもしっくり来ない。何かが違うと感じる。疲れが溜まっているんだからダラダラすればいいじゃないかと思うんだけど、あれ、光はそうしてないのかな??

教室にも職場にも通わず、まぁ例えばネットサーフィンにしてる間に朝を迎えたり、食事読書食事読書食事読書睡眠々々みたいな生活を送ってみたり、してないのかな。

【久しぶりの大事なお知らせ】を読み返してみる。よく書けた、いい文章だ―とまず書くと光喜ぶだろうな、と余計な事を考える。考えても書かなきゃいいのに。で。『これは「引退宣言」ではありません! でも、「休養」でも「充電期間」でも無いんです』―何度も読んだ。知ってる知ってる。

でも、『むしろ熱心に、そして謙虚に、新しいことを勉強したり、この広い世界の知らないものごとを見て知って感じて、一個人としての本当の自分と向き合う期間になると思います』って、勉強したり見聞を広めたりって、ふつう充電期間って言わねーか? 違う?
 今更だけれども。

何でそれをわざわざ"人間活動"と呼ぶのか? 逆から考えてみる。光にとって"アーティスト活動"って、人間のやる事じゃないの? 「マネージャーなしじゃ何もできないおばさんになりたくない」ってのは、よくわかる。それはそう。この間トットちゃんも言ってたよ。15年間テレビ出ずっぱりで、このままじゃいけないと思って仕事全部休んでNYにとんで、そこで初めて一人暮らしをしてみたと。そうすると、朝林檎の皮を剥きっぱなしで出掛けて夜家に帰ると林檎の皮が朝と変わらずそのまんま転がってると。「あ、ひとりで暮らすってそういうことなんだ」とその時気がついたんだと。

光もそういう"気づき"を求めて人間活動に―いや、違う! なんか違う。私の感性にピンとこない。それもあるだろうがそれだけじゃない、何か光は隠している事がある、或いは、既に口にしているが私が見落としている事がある。何だろう。

隠し事があるのは悪い事じゃない。寧ろ、隠し事がなければ詞や曲を書く仕事なんて成り立たない。光が何かは、どんな仕事をしようが何かを書いて残し続ける道を選ぶ筈だ。今夜一時間だけ会いたいと願う人間がライブをトッププライオリティにおかないのだから、彼女の筆先と指先、口先から生まれる時間の軌跡は、どこまでいっても途切れないと思う。その為には、沢山今のうちに隠し事を蓄えて…ってやっぱり充電期間じゃねーか。

まだ私は光の真意を把握できていないらしい。明日だ明日! 次だ次! ふらりとツイートでもしてくんないかなぁ。

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