この欄を書き始める時、「さぁ書こうか」と構えた数~数十秒の間に大体3~4個の書くテーマとそれぞれの構成を思い描いて、さてそのうちのどれを選ぶかといえば最も多いケースは「その3~4つのアイデアを脇に置いて何か新しいアイデアが思い浮かばないかとアテもなく書き始める」というパターンだったりする。
空き時間が数分でもあれば「そういえば」とアイデアがストックとして溜まっていくのだが、いつのまにか構成まで出来てしまうと書き下すのが億劫になってしまう。文章が構成できた時点で、私の中では終わっちゃうのね。
こうやって書きながら何か思い付かないかな~とあちらこちらにアタマを向けているのは、それだけ自分に期待しているのかなぁと思えてくる。実際、そうやって書いて(ごくたまに)ちゃんと書けた場合は、自分で読み返してみても面白い。思いも寄らず書けた事だから、新鮮さが真空パックされてるイメージなのだ。
光の曲作りにも、似た所があるかもしれない。曲を作り始めた時、「どんなのが出来上がるんだろう」といちばん胸をドキドキワクワクさせているのは、他ならぬ彼女自身だろう。宇多田ヒカルやUtadaの曲を誰よりもいちばん早く耳に出来る特権。羨ましい、といっていいのかな。
ただ、光は出来上がった曲はあんまり聴かない。多分、出来ちゃったら「もう用はない」んだろう。愛情がなくなったというよりは、子育てをして子が成人して自立してひとり暮らしを始めた時に親として「じゃあもうちょっかい出さない方がいいかな」と考えるタイプだと解釈した方がよさそうだ。
となると、今の時期はどうなのだろう。いわば、ひとりだちした子たちの里帰り。たまにはじっくり膝突き合わせて語り明かしてみるのも悪くないんじゃないの、という心境になったりはしないのだろうか。
確かに、さんざ制作時に聴いていて今更もう、という気分もあるかもしれない。また、耳を傾けるとクリエーター故にあそこをこう直したい、ここはもっとこう、なんていう欲求が出てきて始末に負えないかもしれない。
最近でも、IvoryIIを導入したりして、創作活動に途切れはない様子だ。今やもうお喋りをするような感覚で曲を書いてしまうのではないかな。歌詞のノウハウだって12年分ある。量産だって可能だろう。
こういう環境と心境の中で、過去の自分の成果をあらためて振り返ってみるのはどんな気持ちになるんだろう。それが知りたい。
光が、宇多田ヒカルとUtadaを外からみる。出来れば、いちファンとしての視点から眺めてみる。
すると、いちファンとして、この曲はライブで聴いてみたいとか、こういうシチュエーションでこの曲を聴いたら面白いんじゃないかとか、色々出てきやしないか。リラックスしてただぼーっと宇多田ヒカルの歌を鳴らして耳に入れるというのがどんな感じなのか、仕事を離れて初めてみえてくる事もある筈である。
実際、誰よりも宇多田ヒカルを魅力的にみせる方法を理解しているのは光本人であり、GBHPVをみればそれは如実ではあるだろうが、そんな彼女でさえGBHPVがファンの涙腺を刺激し大きな大きな感動を与える事に気付いていなかった(ツイートによれば)。
これこれこういう風にすれば皆喜ぶに違いない、楽しんでくれるだろう、という予想は出来ても、その喜びが実際の所どんなものであるのか、どういう気持ちで楽しんでいるかというのを肩の力を抜いて知る、実際に体験してみれるのは、アーティスト活動を休止している今の時期しかないのではないか。宇多田光が、宇多田ヒカルやUtadaのいちファンになれるタイミング、なってみれるタイミング。その力加減は今まで書いてきたように確かに難しそうではあるものの、自分の書いた作品に対してある種"無責任"に接してみれたら、遠い将来に渡って有意義な気がする。いつも責任重大な光の中に無責任な自分を小さく飼う。イメージとしては面白い試みではなかろうか。
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