無意識日記
宇多田光 word:i_
 



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二番以降も大体同じなので息継ぎ談義はここで打ち止め。

ただ、色んな曲をブレスに注目して聴いてみれば様々な発見がある。ここでは入れる、ここでは入れない。伸ばした音からどれ位の長さで切り上げてブレスに移行するか、といった基本的なポイントを追うだけでもその効果の程がわかる筈だ。大きくメロディーに寄り添っている。

曲の中には、"Prisoner Of Love"のように「どこで息継ぎするんじゃい」な曲もあって、流石にこういった楽曲ではメロディーの流れというよりシンプルに「息が続かないから」という理由でブレスが入る場合もあるが、そのブレス音をマイクに載せるか否かもまたヒカルの選択に委ねられている。CDではブレス音が聞こえないのにLIVEバージョンでは入っていたりね。初恋の『タバ/コの』の切れ目なんかはその一例だろう。

結局、何が言いたかったかといえば、ヒカルの歌にある"間"或いは"間合い"といったものを語る時にブレスの技術は欠かせないという話だ。小刻みにブレスを入れる事で切迫感や焦燥感を演出したり、或いはブレスをしない事でたたみかけたり、反対にスケール大きく歌い上げたりする。平たく言えばヒカルは「歌っていない所でも歌っている」のだ。その点は踏まえておいて貰いたい。


そして、言うまでもなく"間"とは"呼吸"の事である。呼吸とはリズムであり、また環境との対話である。歌に呼吸は欠かせないものだし、故に歌は必ず途切れる。そしてその切れ目切れ目を穿つのがリズムであり、その切れ目を目印にして音を繋いで紡いでいくのがメロディーだ。してみればメロディーとリズムは空間と時間であって、存在の必然である。歌い手は常に、その意味で、宇宙の中に居場所を見つけなければならない。


筆が滑った。今夜はそっち方面に話を進めるつもりはなかったのだった。


あまり人の書いたものに対してただ付け加えるのはやるべきじゃないな。相手との対話がなけろばリズムが狂う。まぁそれはいい。


そうそう、そろそろ今年の総括をする時季だわね、という話に持っていきたいんだった。もうあと2日しかないからね、今年は。結婚したんだったね~そういえば。危うく忘れ去るところだったぜ。旦那様があんまり前面に出て来ないから印象が薄いのか、いやその前にヒカルが出て来てないから影響があるとしてもわかりにくいのか。やれやれ。

歌手としてラブソングを歌う以上、恋愛経験について詮索されるのは仕方がない。「じゃああんたはコナン・ドイルに殺人事件の経験があったとでも言うのかね?」とお決まりの返しをされそうだが、作詞の話というよりは、歌手として顔を出して歌う事の方だ。

現代では「語り部」はあまり顔を出さない約束になっている。馴染み深いナレーターの人の顔を知っている人は極稀だ。銀河万丈の顔知ってる? 俺でもピンと来ない。そこの差なのだ。もしヒカルがただの作詞家ならプライベートの恋愛経験云々なんて訊かれない。そもそもインタビュー自体殆どされないだろうが。

時々、役者みたいに役名で歌ったりしないのかな、とは思う。歌ごとに衣装を変え名前を変え、性格を変えてそれに沿った歌詞の歌を歌う。そういう歌手が殆ど居ないのも不思議な気がする。誰かやっててもいいのにな。宇多田ヒカルがそうするべき、とは勿論思わないが、一度くらいそういった演劇的プロジェクトのもとで歌うコンサートを開くのもアリかもしれない。

なかなか、顔を出して「私」とか「あなた」とかテレビで歌ってしまうと、その人の言葉という印象が出てしまう。そう考えると関白宣言を歌うさだまさしはうまくやってるな、役者だな、とか思ってしまうが、大半の人はヒカルにも歌詞を押し付けるような事はしないか。でも、なんだかんだで毎回どこか私小説的な歌詞の歌があったりするので、どうしても結びつけて考えてしまう。次もきっと、「あぁこれは今の結婚について歌った歌だ」とか邪推しちゃうんだろうなぁ。あぁやんなっちゃうよ、やれやれ。

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続き。

『You are always gonna be my love』
『いつか誰かとまた恋に落ちても』

『いつか』の前はあるかないかのほんの僅か、『誰かと』の前には短くブレスが入る。歌詞の区切りとしては『いつか』が冒頭なのだが、ここではメロディーの流れを優先させている。

『I'll remember to love you taught me how』

そして、『I'll remember』の前では大きくゆっくりとブレスが入る。性急に歌って切迫感を出すパートと、このように大きく歌って感慨を齎すパートの落差で生まれるダイナミズムがメロディーに更にドラマティシズムを与えている。その後の『You'll taught me how』の囁くようなメロディーは、また再び小さく控えめなブレスによって導かれている。

『You are always gonna be the one』

勿論その直後の『You are』の前ではまた大きく息を吸う訳だ。間にどれくらいの長さの休符があるかはさしたる問題ではない。あクマで歌詞の流れとメロディーの流れを両眼で窺いながらアプローチを決めている。

『今はまだ悲しいLove Song』

そしていちばんの聴き所はここだろう。『今は』『まだ』と立て続けに短いブレスを入れてくる。本来ブレスというのは"息継ぎ"という位だから空気の供給だ。歌わない人間からしてみれば、自動車がガソリンを補給するように足りなくなったらその都度行うものなのではないかと思いがちだが、お聞きの通り"補給"の心配が無くても息継ぎが行われている。となればこれは明らかに歌唱上のテクニックとして使われているのだ。

こういった技巧は歌手なら誰でも、いや、歌う人なら誰でもやっている事なのだが、どこでどういうブレスを入れるべきかといういちばん肝心なポイントは何らかの指導に頼る場合が殆どだ。ヒカルの場合、たぶん特に何も考えずに、メロディーに沿って歌ったらこうなったのだろう。何しろ自分で書いたメロディーだ、誰よりもその特性に詳しくても何ら不思議ではない。恐らく、それこそ息をするような自然さで。

この場面では、このように矢継ぎ早にブレスを入れていく事で、サビの中でも特に印象的な『悲しいLove Song』の部分に非常な切迫感を与える事に成功している。もしこの段階的なブレスがなかったら結構大らかに響く場面なので、これは歌詞の『悲しい』にも配慮した歌い方だといえる。

『新しい歌 歌えるまで』

最後に『新しい歌』の後に万感の思いを込めてブレスが入る。ここまでの山あり谷ありを総括する一呼吸だ。ここも入れると入れないではメロディーのまとまりが大分違う。非常によく巧まれた構成である。


二回使っても一番の終わりまでしか来なかったな。次も続けるかはまた次回のお楽しみw

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当該の記事には、"絶妙な間"に加えもうひとつ、何だっけ、忘れちゃった、確か「感情のゴースト・ノート」とかいうフレーズがあった、筈。ゴースト・ノートとはドラムス等の楽器が鳴らす、鳴っているのか鳴っていないのかわからない微妙な音の事で、故に「幽霊音符」と呼ばれているのだが、宇多田ヒカルの場合はそんなわかりにくいものではなく、しかし、情感やグルーヴをしっかり支える隠れた歌唱術がある。これは、前回の記事と違って、他の人より徹底している(考え抜かれている)という意味で宇多田ヒカル独特のものといえるだろう。それはブレス、息継ぎだ。

当日記ではヒカルのブレスについて何度か集中的に特集したので記憶にある読者もあるかもしれない。ヒカルのブレスとエア(ほんの少し息を吐き出す技術を私は勝手にこう呼んでいる)の組み合わせはそれだけで芸術的といえるものだ。

今回は、15年間聴き慣れた曲であっても、"息継ぎだけに集中して聴いてみる"と如何に歌が新鮮に響くかを検証してみたいと思う。もうただひたすらブレスとエアだけを追うのだ。皆がいちばん聴き慣れている曲でやってみよう。"First Love"だ。勿論息づかいがいちばんよく聞こえるハイレゾ版がオススメだ。それではやってみよう。ただひたすら、に。

まず、イントロのブレスからして工夫がみられる。音が途切れる"間"のあるうち二回はしっかり吸う、しかし一回はブレス音がしない。こうすることで抑揚と感情の持続感を演出し聴き手の期待感を高まらせる。もう既に我々はヒカルの術中にハマっている。

『最後のKissはタバコのFlavorがした』

最初の"さ"の前にほんの小さくブレスが入る。Kissの前にも短く、しかし最初のよりは大きくブレスが入る。メロディーの波に合わせた使い分けだ。タバとコの間にはブレスが入らない。ひとつの単語だからだ。勿論、最後の"した"のあとにはすかさずブレスを大きく入れる。いずれも休符の長さは変わらないのだが、メロディーの流れと歌詞の区切りが考慮されてブレスの長さとタイミングが調節されている。

『ニガくてせつない香り』

同じく、ニガとくても間が空くがブレスは入らない。

『明日の今頃にはあなたはどこにいるんだろう』

香りと明日の間は随分と間が空くが、ここではブレス音は殆ど聞き取れない。メロディーの抑揚が増す分、勿体ぶりすぎないようにとの配慮だ。もしここに大きくブレスを入れたらなんかわざとらしく響く。いっぺん歌ってみよう。しかし、『今頃には』と『あなた』の間にはしっかりとブレスが入る。いちど盛り上げにかかったメロディーの流れの中で『あなた』という単語を印象づける効果がある。更に『どこに』と『いる』の間にほんの僅かだけブレスが入る。この繋ぎ方こそヒカルの絶妙だ。ここからのサビへの盛り上がりへ向けてこの一瞬で期待感を煽るのである。

『誰を思ってるんだろう』

『誰を』の後で少し長く、『思ってるん』の後で更に長くブレスが入る。この配置だけで階段を登るようにどんどん聴き手の感情が高まっていくのだ。


…ありゃ、時間がなくて一番のサビにすら到達出来なかった。またすぐにでも続きを書くとしよう。今回はこの辺で。

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そういやちょでと前にヤフトピトップに「宇多田ヒカルの歌の絶妙の間」が云々という記事が載っていた。ああいった記事は執筆者本人がタイトルや見出しを決めているとは限らない為、あれでは羊頭狗肉だと思った人も多かったかもしれない。僭越ながら補足しておこう。

そもそも、デビュー当初から"リズム感抜群"という評は宇多田ヒカルの鉄板の評価であって、歌唱力の凄まじさがわからない人は居ても(本当は居ないのかもしれないが)このポイントだけは責められているのを見た事がない。そんな人の作り出す間が絶妙なのは言うまでもない事であって、ではその"個人芸"に依拠しない領域、即ち歌唱よりも作詞作曲でどういう風に間が創出されているか、そしてそれがどのような色合いを持っているかが解説されていなければならないだろう。

残念ながら、"HEART STATION"はその意味において最も相応しくない選曲である。いつもの疼くようなリズム・セクションは影に潜められていて、淡々としたリズムに淡々としたメロディーを載せる、どちらかというとユーミン的J-pop路線的楽曲だからだ。本来なら間がどうのという楽曲ではない。

しかしながら別の側面において、この選曲は妥当であった。それは、当該記事に記述されたもう一点、「日本人の心に響く」か否かという点である。それは、可視の載せ方にみる事が出来る。

といっても、それは秘術とか隠し味とかではなくあからさまなまでに明らかなポイントだ。記事にあった通り、休府部分に○を入れて歌詞を引用してみよう。

『わたしのこえが○ きこえてますか○ しんやいちじの○ハァトステイション』

七文字続いて○がひとつ入る繰り返しが続いている。『ハァトステイション』のところは8文字だが、最後の『ン』が○の代わりになっている。

これは何かといえば、日本人にお馴染みの俳句・短歌・連歌のリズムなのだ。五七五七七。なぜ、五七五のリズムが大事さを学校で教えないのか不思議で仕方がないが、五七五七七とはエイトビートの事なのだ。

「タタタタタン○○
 タタタタタタタ○
 タタタタタン○○


一行あたり八拍である。
このリズムに乗ってさえいれば字余りや字足らずも許容される、と教えれば合理的なのだが。で、HEART STATIONは見事にこのリズムに合わせて歌詞が乗っている。こうやって日本人にお馴染みの俳句・短歌・連歌と同じリズムに合わせた歌を歌う事で日本人の耳に馴染みやすいPopsを作詞作曲しているのだ…

…と話をしめれればいいのだが、こんな事宇多田ヒカルに限らず沢山の人がやっている事なので彼女の作詞作曲の独自性の解説とまではいえないか。本当に彼女ならではの"間"の創出術に関しては…気が向いたら次回また書く事にしようかな。その時の私の気分次第で、ね。

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宇多うたレビューの二巡目に入る前に、色々考える。「もしこれがヒカルが復帰するモチベーションのひとつになったらな、という気持ちも正直ありました。」とはこれを企画した沖田さんの弁(不正確なのでコピペしないように)だが、私も何度も繰り返してきているように、このアルバムは「I miss you, Hikaru.」という皆の感情の集結とその喚起である。居なくて寂しいという感情の共有。それがファンの間だけでなく送り手側、レコード会社やミュージシャンの間にもあることを、いや、ファン以上に、同じ側、音楽に携わるプロたちこそが最もヒカルを待ち遠しく待ち望んでいることをこれでもかとわからせてくれるアルバムであった。

勿論温度差はある。最もヒカルを切望する林檎嬢と、ヒカルが居ても居なくてもきっと変わらなかったろう岡村靖幸では随分違う。しかし、その温度差と優劣が全く相関していないところがこの作品の、音楽の面白いところだ。

当然ながら曲はいい。あとは着眼点と発想、そして実行力実践力実現力だ。そういう意味においては、全編を聴き通せば聴き通す程宇多田ヒカルという人が浮かび上がってくる、誠に抽象的な鑑賞を強いるアルバムであるともいえる。

加藤ミリヤはその点、わかりやすい。フェティシズムとはこれなのだろう。あの歌い回し、あの声のトーン。For Youを聴き込んできた人であればあるほど「あるある」「そうそう」と頷く事請け合いだ。

一方、原曲から遥か遠いSAKURAドロップスを聴いた場合、最初に浮かび上がってくるのは井上陽水その人であって、それ故このトラックに嫌悪感を持つ人が居ても不思議ではないのだが、しかし、彼の尊敬と真摯を通して我々は宇多田ヒカルをそこに"見る"。

陽水は極端例だが、同じように"見える"ヒカルの姿を重ね合わせていけば、いけばいくほど、ヒカルの姿は明確に浮かび上がってくる。関係性の中から構成される宇多田ヒカルは、しかし、音楽という魔法によってそこに心すら在るかのように感じられる。心が音で出来ている人ならば、有り得ない事ではない。

くまちゃんも同様の存在である。彼は、我々が、そこに居ると思えているからそこに居るのだ。特に、ヒカルはくまちゃんの存在を信じて疑わない。というか彼女にとっては何よりも確かな"事実"と言うべきか。構造は同じである。

してみると、これはI miss youという恋慕なのだから、宇多田ヒカルは恋慕そのものである、という解釈も成り立つ。飛躍だが、しかし、他にしっくり言える言葉が見つからない。恋慕する感情そのものが宇多田ヒカルの抽象が辿り着く場所だ。

それにひかるは耐えられるだろうか。"知らない人"に向かって、そんな事を考える。知性は酷だ。我々に、彼女の事は本当には理解出来ないんだという言い訳を与える。私は彼女の事を、それこそ、キコの家族の誰よりもよくよく知っていると言っても差し支えないかもしれないのに、でも、私は、ひかるの事を"知らない人"だと平気で言う。宇多うたアルバムを聴いて恋慕の情を共有出来るのも、彼女の事を本当には知らないからだ。

人や人を介すると、一人と一人ではなくなる。私は知らない。一人と一人になれるなら、もう知らないとは言わせない。

なんとなれば、"正体"とは、呆気ないものなのかもしれない。しかしそこに辿り着くまでのプロセスが凄まじいのだ。そして、近づけば近づくほど、自分が近づいたと思えば思うほど、どんどん手が届かなくなる程に彼女は遠くなる。それならばずっとここに居よう。待つ事は時間の食事である。時間を食ってしまえ。それは栄養になる筈だ。そんな事を考えるならば、生きている事は自然の話だし、だから「おかえり」って言えるようになると思う。音と音が響き合えばそこは家になる。出迎える準備をしつつまた音を奏でて響かせようか。まだまだ夜は長いのだから。

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明晩はスペシャ(とプラス)でヒカルの番組が再放送される。宇多うた特番30分も含めて。見逃した方は是非。初回を捕獲した人も、今のデジタル時代番組コピーはひとつでも手元に多く残しておいた方がいいだろう。後々ファングッズのトレードの時なんかに重宝する筈。デジタルになって面倒が増えるって本末転倒なんだがまぁしゃーなし。

といっても、元々テレビ放送のデジタル化の本来の目的のひとつがこの著作権保護の強化なのだから当然っちゃ当然か。音楽業界がCCCDで頓挫したのとはえらい違いというか、やはり事業規模の大きさとそれに伴う影響力、政治力が段違いだったのだろう。

宇多田チームがその昔…もう干支が一回りする位昔になるのか、CCCDを「音質が劣化するから」という理由で却下したのはそれなりに有名な話かな。一方で、著作権保護の方法論自体は模索するべきだとしていた。つまり理屈でいえばもしCCCDに音質劣化が伴っていなければ採用していた事になる。

著作権保護という観点で最も成功を収めたのは着うただった。支払いも決済代行かな、兎に角総てを携帯電話端末と紐付けしてガッチリ縛り込んだものだから、多分着うたのコピーを友だちにあげるとかそういうのも一切無かっただろうし、210円とかだったから「だったら買うか」となっていただろう。そりゃあ売れるわ。

問題なのは、そうやって何百万ユニット…恐らくキャリア通してなら2000万ユニットとかになるのかな、それだけを売っておきながら、もう誰の手元にも音源が残っていないという点だ。誰の手元にも、というのは大袈裟にしても、音源というものをアーカイブスとして扱われてきたものだという感覚を"着うた世代"は共有していないのかもしれない。

そう考えると、今回のくまちゃんUSBはとことん真逆の方向性にある商品だ。一生引き出しにしまっておいて欲しい、或いはダッシュボードの上に飾っておいて欲しい、そんなコンセプトが垣間見える。USBという規格がいつまで通用するかはわからないが、モールド自体が所有欲を満たし続けてくれるだろう。

Flavor Of Lifeの着うたを購入した層のうちどれくらいが今残っていてくまUSBを買ってくれたか。定かではないが、この振り幅の中で我々が翻弄され続けている事だけは確かだろうなぁ。望んでやってる事だからそれでいいんだけどさ。

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今夜「メリーしゃっくりすます!」ってリプライした人何人くらいいたはりました? それはさておき。


ハイレゾシンコレは、結論からいえば素晴らしい。特にやはり生楽器を使った楽曲の数々は溜飲の下がる思いだ。全体的に、スターリング・スタジオの面々も10年前の仕事を覚えていたのか、オリジナル・アルバムのハイレゾ化というより、"シングル・コレクションのリマスタリングのハイレゾ化"という空気が強い。特に、「First Love」アルバムからの4曲はFL15のハイレゾ音源が販売されているのだから聴き比べてみるとよい。同じハイレゾ化でもこれだけ違うサウンドになるのだ。

さて…私はちょっと、先に"一足跳びのコメント"をしておきたい。今聞こえてきているハイレゾリマスター音源の話ではあるが、未来を見据えて。

最初にシンコレハイレゾを聴いた時、特に"FINAL DISTANCE"に感動し、「まるでマイクと唇の距離まで伝わってくるようだ」みたいなツイートをした。これは本音であり、それだけヴォーカルがリアルに聞こえてきて感動した、というのは間違いないが、もうひとつの意味も含めていた。それは、「結局マイクの存在を意識せざるを得ないのか」という事だ。

究極の音源とは。それは、ヒカルが目の前で歌っているのと区別がつかない音源である。"完全再現"。そんな音源や再生機器が可能なのかどうかは兎も角、究極的に求められるのはこれだろう。

今の段階では、如何にハイレゾとはいえ、「マイクを通して変換されてアンプで増幅された歌」までしかならない。いや、ライブ会場で聴けるのはその音だし、普通の音源や再生機器に求められているのはそういう事だから何の問題もないのだが、もっと欲を言えば、マイクを通している事すら忘れてしまうほどの"超々高音質の歌声"というのも聴いてみたくなった。

しかし、話はそう単純ではない。Hikaruの歌声はマイクロフォンありきなのだ。即ち、オペラ歌手のように生で直接声帯を振動させて空気を振動させて鼓膜を振動させて、というプロセスを経るのではなく、はなからマイクロフォンを通してアンプで増幅される事を前提とした歌い方、聴かせ方が為されているのである。Hikaruの歌い方は生歌を聴かせるようにはなっていないのだ。

つまり、私が今言っているThe Highest Resolutionサウンドは、Hikaruに合わなかったり、そもそも用無しなのかもわからない。もし"用有り"になったとすれば、それはHikaruの歌い方が変わった時、Hikaruが歌い方を変えた時だ。もしかしたらテクノロジーの発達が、Hikaruをそういった歌唱に追い込むかもしれない。妄想が膨らむ。


しかし現時点ではそんな絵空事にかかずらう事はしないでおこう。まずは目の前耳の傍で鳴っているサウンドに耳を傾け心を開いてみよう。まだまだハイレゾ初期、特にRock/Popsといった音楽ではハイレゾ・リマスタリングの技術は蓄積が薄い。それはまるで、CDが普及し始めた80年代末期にアナログレコード時代の名盤の数々をどんどん"初CD化"していった頃と似ている。確かに新しい媒体で聴けるようになったけど、サウンドはよくなったとは言い難い、まだまだアナログの方がいい、と言われていた時代だ。今も、まだまだただハイレゾ化しました、という域を出ていないと思う。しかし、これを積み重ねていく事によってノウハウが蓄積され、アップコンバート作業は有能になってゆく。本当に期待すべきなのは、ハイレゾリマスタリングが二周目に突入した後になるのかも。それが何十年後になるのかは、わからないけど。

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「Single Collection Vol.1」「~Vol.2」のハイレゾリマスタリングで驚いたのは"Be My Last"だ。最も劇的に音質が上がっている。

ハイレゾで注目すべきは生楽器のリアリティだ。電子楽器などの打ち込み分はそれほど音質改善はみられない。その為「First Love」アルバムの楽曲はそこまでハイレゾ化の音源を受けていなかった。やはり"FINAL DISTANCE"等、生楽器を大きく駆使した楽曲でその威力は発揮される。

"Be My Last"もその系譜のサウンドだ。極力無駄を排し、アコースティックギターとドラムス、そしてシンセの主旋律で楽曲を構成している為、生楽器の比率がいつにも増して高く、また音数が少ない為ひとつひとつの音の粒立ちが元々いい。ハイレゾによって力強く生まれ変わる為の因子は揃っている。

それにしても何故、と思いユニバーサル・ストアに掲載されていた原盤ビットレートを確認すると、"Be My Last"だけ周波数が飛び抜けて高い。他のソースは44.1kHz~96kHzなのに、"Be My Last"だけ192kHzなのだ。

これをどう解釈すべきかは悩ましい。というのは、幾ら元音源が192kHzでも、今回のハイレゾリマスタリングは総て96kHzで統一されている。その為、44.1kHzや88.1kHzの音源はアップコンバートされている一方、この"Be My Last"はダウンコンバートされている筈だ。つまり、僕らの耳に届いているのは192kHzではないのである。

ダウンコンバート組より音質がいいのはわかるが、96kHzソースのトラックたちより更に音がよく感じられるのは何故か。論理的可能性はいろいろ考えられるが、もし仮に原盤の高音質がダウンコンバートに反映されるとすれば、今後発表されるHikaruの新しい音源のハイレゾバージョンは非常に高音質の恩恵を感じられやすいものになっている、のかもしれない。そういう意味では、ハイレゾ化計画は全体的に時期尚早という事になるが兎も角、未来へ向けてポジティブな気持ちにさせてくれた"Be My Last"のハイレゾリマスタリングだった。圧巻だよ。

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ハイレゾの売りといえば可聴領域外の"超音波成分"のデータを含んでいる事だが、私はそんなデータが本当に必要なのか懐疑的である―いや、もうちょっとマイルドかな、"可聴領域外成分が音楽鑑賞に与える影響に関してまともな議論をみた事がない"からそもそも問題にする気がない、とでも言うべきか。ちっともマイルドじゃないか。

多分、"超音波成分"というネーミングがいけない。何か凄い、と思わせてしまう響きがある。実際は普通の音と同じ空気の振動で、ほんのちょっと振動数が高いだけだ。これは電磁波と放射線の関係と似ている。あちらもただ振動数が高いだけなのだが、可視領域外になった途端何か神秘的なものとして扱われてしまう。

人間に可聴領域や可視領域が存在するのは、情報過多は身を滅ぼすからだ。地球上で生きていくにあたって、殆ど影響のない領域の情報はそもそも相手にしないのが自然淘汰上合理的だった。勿論(人間にとって不可聴の)超音波成分を利用して進化してきた蝙蝠等の生物も居る訳でその領域の情報が本質的に無意味な訳ではないが、人間の視覚聴覚にとって不必要な情報は進化の途上で捨象されてきた。

これは、1人の人間の一生においても同じである。聴覚において、幼少の頃は聞こえていた高調波成分が大人になるにしたがって聞こえなくなってゆく、という現象は普遍的な事だ。最近の若い人は知らないだろうが、テレビのブラウン管はトランスの振動が15kHz程度で、こどもにはその高さの音が聞こえていたが大人には聞こえなかった。大人に向かって何度も「ほら!鳴ってるから!」と言ってもわかってもらえなかったものである。

これは別に自然な事で、人間が普通に生きている上で15kHzの高さの音が有意になる場面なんてほぼ無い。従ってその部分の聴覚野が衰えるのは合理的なのである。特に憂う話ではない。


しかし、大人になっても15kHzどころか20kHz以上の超音波を認識できる人間が居る。宇多田ヒカルである。これは何故だろう、やはり先天的に聴覚が非常に発達する遺伝子でも持っているのではないかとぼんやり思っていたのだが、昨今のハイレゾブームでミュージシャンの皆さんが「これで漸くリスナーに僕らがスタジオで聴いている(のに近い)音を聴いてもらうことができる」と言っているのをきいてはたと気が付いた。ヒカルが20kHz以上の音が聞こえるのは、10代の成長過程でずっとレコーディング・スタジオで過ごしていたからではないか。もしかしたらもっと小さい頃から。

ヒカルがスタジオで昼寝したり宿題をしたりとそこに"半ば住んでいた"といえるエピソードは幾つもある。そんな環境の中で、ハイレゾより更に高音質のサウンドをずっと浴びてきたのだ。そうなると、超音波成分を含む高音質サウンドやそうでもないものなど、様々なクォリティーのサウンドに出会う。そんな中で音楽に携わってきたものだから、"生きていく上で超音波成分に関わる時間が人より図抜けて多かった"可能性がある。その為、ヒカルは年齢を重ねても聴覚が衰えなかった。寧ろより鋭敏になっている可能性すらある。


先述の通り、高調波成分に大人が反応しなくなるのは、加齢による老化というより無駄なエネルギーを消費しない為の合理的な環境適応の一環だ。それをこそ老化というのだ、なんて議論はここでは置いておくけれど、ずっとスタジオに住みずっと音楽を聴き比べてきた人間にとって20kHz以上の超音波もただの"高い音"なのかもしれない。これは、ヒカルは極端な例としても、ミュージシャンにとっては多かれ少なかれあり得る事なのではなかろうか。


これが、ハイレゾに対する送り手と受け手のテンションの落差に繋がっているとしたら事態は結構絶望的だ。暖簾に腕押し糠に釘。そもそも聞こえていないのかもしれない。そんな状況の中でハイレゾを一般的に普及させるには、それこそ幼少の頃からハイレゾを聴かせてこどもを育てるしかないな。なんという堂々巡りか。なので、ハイレゾを買ったはいいがよさがよくわからなかった、という皆さん、それで普通なのですよきっと。

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一段落、と思ったらもう一弾、今日から来月にかけて楽天「Viber」と宇多うたのコラボレーションキャンペーンが始まるらしい。年末年始にもう一押しするのか。いやはや、やってくれるねぇ。ギガントの出張ぶりが目を見張るけど、中に人が入っていたら…大変だったろうな。すわ笑う犬の再来かとなるところだ。そういう"復活"の演出をしてきたらと思うと気も抜けないけれど。(笑)


さてハイレゾの方だが。やっぱり「環境づくり」が大事になる。音源を聴くには再生機器…プレイヤーにコンバータにアンプにスピーカー/イヤフォン/ヘッドフォンが必要になるし、ソフトも買い直さなきゃだしハードルが高い。くまUSBにしても、あれを普段どうしておけばいいのかというのは難しい。部屋に飾っておけばいいのか、PCに刺しっぱなしにしておけばいいのか。どうも用途というか、据わりのよい使い心地というものがわからない。そこをどうするかだろう。あんな高価なものをぶら下げて出掛けるというのも難しい。いやあれよりずっと高い時計嵌めて歩いてる人そりゃ居るけどね。

なので引き続きコラボウォークマンに期待したいし、宇多うた同様何かもうひと押しあったらな、とは思う。特にくまUSBは新しいタイプのフィジカルなのだから、何かのイベントで手売りするのがいちばん売れると思うのだが、ユニバーサルストア限定を謳っておいて今更それは無理か。海外からの購入がOKなら結構ニーズがあるかもしれないが。そういや各配信サイトって海外からも利用出来るのかね。

とと、そういう事だ。数千人単位であれば…いや、数百人単位かもしれないが、海外にもUtadaマニアは結構居る筈で、もしかしたら熱心さでは日本のファンより上かもしれない。これからはそういった人々に対してもアピールしていく機会がある訳で、そこをどう埋め合わせていくかで大分変わる。

とはいえ、今回の宇多うた関連のプロモーションは随分とローカルだ。殆ど渋谷でやってるじゃないか、というのが試聴会にハズレた皆さんの正直な気持ちだろう。大昔なトレンドセッターとしての役割が大きかったが、今現在の影響力はそんなに大きくはない。とはいえ、手近な中で最も影響力があるのは、となったら依然この態勢になるんだろうなぁ。


何だか取り留めなくなってしまった。とっとと宇多うた二巡目に入った方がいいかなこれ。

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宇多うたの方は好調だが、もうひとつの目玉であるハイレゾの方はどうなっているのか。どうも芳しい雰囲気がしない。もし仮にくまちゃんUSBのシリアルナンバーがランダムでなく"先着順"だとすると、かなり厳しい状況だと言わざるを得ない。

ある程度の予想はついていた。何しろ、くまちゃんUSBには未発表音源の類は一切無いのである。ヒカル"入魂"のデザインがあるだけ。いや私なんかにはその"だけ"で十分過ぎるのだが。しかし、ハイレゾ購入層というのは基本的に配信購入環境が整っている層なのだ。中身だけなら半額以下なのだから、基本的にはそちらを購入するだろう。

しかし、そもそも高音質に対する意識改革も、ハイレゾリマスタリングの話題性もないんだなと痛感させられたのがiTunes StoreでのSingle Collectionのチャートアクションである。今回のMastered for iTunesより従来のバージョンの方が売れているのだ。検索の優先順位とかベストセラー順がデフォルトだからだとか言い訳は幾つでも出来るが、要するにiTunes Store利用者の本音は「音質なんてどうでもいい」のである。聴ければよいのだ。

この現状では、ハイレゾ配信を購入させる事は難しいし、Kuma Power USBを購入させるという目論見はもっと難易度が高い。困った。

私の売上予想の仕方は以下の通りであった。まず、毎度言っているように日本には「Utada Hikaruの音源が出たら何も考えずに買う」層が8000~10000人程度居る。この四年で大分減った感はあるがまだこの範囲内だろう。自分のTwitterのフォローさんフォロワーさんのうち、2~3割はこの層だ。なおIn The Flesh 2010に行った人間が20人前後含まれている。まぁつまり、自分の視界に入る人たちのパースペクティヴを大体100倍すれば日本のコアなUtada Hikaruファンの"生態"を知る事が出来るだろう、と想像した。その計算でいくと、自分の周りでKuma Charm USB(何だかコロコロ名前が変わっているが、現在手頃な呼び名を模索中ってことっす)を買ったと言ってる人数から推定して日本全国で大体2000~3000人位が購入してるんではないかと想定していた。まぁつまり、極々大ざっぱに言って、発売日までに限定5000体のうち半分位は捌けてるんじゃないかと。いやーそうじゃなかったみたい。
シリアルがランダムじゃなかったらね。

どこから推定をやり直せばいいかは私の今後の課題としておこう。それはいいとして、ハイレゾをUSBで売り、そこにアーティスティックなデザイン性を加味していくという基本路線は悪くないと思う。しかし今回は、

1.未発表音源が無い(既発曲のみ)
2.配信で全部買える
3.そもそも2.16万円は高い

という3点が、悪い方に出てしまったか。ランダムじゃなかったら、だが。(しつこい) せめて既発曲でもいいから、"USB限定ハイレゾリマスタリング音源"があれば違ったかもしれない。Flavor Of Lifeのオリジナル・バージョン、Passion - after the battle -、Prisoner Of Love Quiet VersionなどがUSB限定でハイレゾリマスタリングされていたら…いやされてなくても配信とUSB両方買っちゃったんだけども私は。

まぁ今となっては後の祭り。次に今回の教訓を活かそう。ここまで書いておいて明日「完売しました」表示がユニバーサルストアに表示されたら私間抜けだがそれはまぁめでたい事なのでよしとする。いや本来なら「限定品完売」はオークションでの高騰を招くので基本的には奨励されないのだが。

今回のような企画が今回限りになるのは惜しいし、何より、売れなかったらヒカルがガッカリするのが残念だ。せっかく気合い入れてデザインしたのにねぇ…。うん、でも試みはまだ始まったばかり。これからの展開次第でどうとでもなるだろう。私もここから頑張ってハイレゾリマスタリングのよさを宣伝していきますぞい。それで売れるのは配信の方ばかりな気もしますけどね…。

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昨日のCS特番で一通り宇多うた関連プロモーションは終了したのかな。お疲れさまでしたm(_ _)m いや収録はずっと先に終わってただろうけれども。

今回は私からすると全くの予想外となる初週2.13万枚を売り上げオリコン5位を記録するなど、いやはや見事なプロモーション戦略だった。自分がもし担当者だったら見込みを誤り売り切れ続出を招いて左遷決定だったろうから身も凍る思いだわ。自分が担当でなくてよかった。

本当に、発売週に辻褄を合わせてきたなぁという印象。そこに至るまでに「あ、これは買った方がいいのかも」と思わせる戦術。雰囲気作り。手慣れたベテランの仕事とはいえやはり上手い。一部で店頭品切れを起こしたというからそれでも見込みは低すぎたという事か。

勿論、このクラスの売上枚数の場合、何より内容の充実がいちばん効いた事だろう。井上陽水のインパクト、浜崎あゆみの話題性。それぞれのアーティストのファンの皆さんも、結構気にしてくれたかもしれない。特に、iTunes Storeでシングルカットされたあゆの存在感は特筆すべきだった。彼女にとってみても、自身の実績の再評価という面でメリットが多少はあったのではないか。

ならばもっと参加アーティストを増やしておけば、更なるリスナーの流入は見込めただろうに、何故今回は13アーティストという数に区切ったのか。何か13という数字に意味はあったのだろうか。

沖田さんによれば、例えば2枚組にするようなつもりはなかったという事だ。そこまでしてしまうと雰囲気が賑々しくなりお祭り感が出てしまう、と。寧ろこの作品は、"中編小説を読むような感じで"接して欲しかったと。確かに一時間前後というのは、数十ページの小説を読むのに要する時間と大体同じだ。"ソング・カバー・アルバム"と銘打つからには、宇多田ヒカルと参加アーティストたちの"作家性"にこそ焦点が当たって欲しい。ディレクターとしての狙いは非常に明確だった。ただ、13という数字はたまたまそうなったというだけで深い意味はないらしい。「どうせなら15周年という事で15アーティストにしておけばよかったかな、と気がついたのは後になってからでした(笑)。」と彼は冗談を飛ばしていたが、取り敢えずアルバムとしてはそこまで厳密にコンセプチュアルにしていた、という訳ではないらしい。

寧ろ、彼のアティテュードとしては、オファーするところまでは想像力をはたらかせるけれども、一旦オファーが通った後は完全に各アーティストの作家性を信頼し全面委任するかたちだったようだ。そこから先は自分の中の期待を一旦白紙に戻すと。これをやってくれるディレクターはなかなか居ない。アーティストの仕事を最大限尊重してくれる態度だ。選曲の重複を回避するといった最低限の仕事は徹底し、そこから先はアーティストに出来るだけ自由にやってもらう、その方向性を貫いた事が今作の期待以上の充実に繋がった。全く大したディレクション能力だ。これで彼もレコード会社の「名物ディレクター」として宇多田ファン以外にも名前が知れ渡ったらいいのに。いや御本人は「自分は裏方だから」と謙遜されるような気がしますがね。

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たし  


一巡目終わり。私が勝手に名付けた各曲のキャッチフレーズを並べてみよう。

1.「井上陽水」
2.「Letters」
3.「ザ・カバー」
4.「パブリック・メッセージ」
5.「エンタイトル・ツーベース」
6.「ジレンマ」
7.「ロック」
8.「コーラス・リミックス」
9.「ラバー・ラヴァー」
10.「日本昔話」
11.「グルーヴ・リミックス」
12.「お茶漬け」
13.「ボーナス・トラック」

それぞれのフレーズで、「ああ、あの曲か」とイメージが湧いただろうか。

1.井上陽水 "SAKURAドロップス"
2.椎名林檎 "Letters"
3.岡村靖幸 "Automatic"
4.浜崎あゆみ "Movin' on without you"
5.ハナレグミ "Flavor Of Life"
6.AI "FINAL DISTANCE"
7.吉井和哉 "Be My Last"
8.LOVE PSYCHEDELICO "光"
9.加藤ミリヤ "For You"
10.大橋トリオ "Stay Gold"
11.tofubeats with BONNIE PINK
12.KIRINJI "Keep Tryin'"
13.Jimmy Jam & Terry Lewis feat. Peabo Bryson "Sanctuary"


あだ名の付け方にも色々あるもんだなぁ、と名付け親(?)ながら感心するが、これは要するに私がそれぞれのトラックで何を楽しんだかを端的に示している。

"SAKURAドロップス"では井上陽水の個性とオリジナリティを十全に堪能したし、"Letters"はあらためてこの曲が何であったかを思い出させてくれたし、"Automatic"ではスタンダード・ナンバーをスタンダードにカバーする直球勝負の清々しさ(うわ岡村ちゃんから最も遠い形容詞だ(笑))を味わったし、"Movin' on without you"は16~13年前のあの頃を懐かしんだし、"Flavor of Life"はすわオリジナルを超えたかと色めき立ったし、"FINAL DISTANCE"では同じヒカルファンとしてそのアプローチの妥当性について悩んだし、"Be My Last"ではただひたすらロックしたし、"光"のコーラス・ワークの素晴らしさは筆舌に尽くし難かったし、"For You"はそもそも「歌は誰のものか」についてまさにこの歌の中で歌われているように考えさせられたし、"Stay Gold"では男声が女性的な歌詞を歌う方法論にこんなのがあったのかと目から鱗が落ちる思いがしたし、"time will tell"ではまるで温
泉に浸るようにそのグルーヴの波にゆったり揺られたし、"Keep Tryin'"はまさにこのアルバムを爽やかに締めくくってくれたし、"Sanctuary"は最後の最後のスペシャル・ボーナスだった。どれもこれも、本当に楽しんだ。


…最終回じゃないんだから(笑)。一巡で語るべき事が終わる訳はなかろう。もう一巡は確実にする。ただ、その方法論は現在思案中である。また一曲ずつ曲順通りに追っていくか、もうその時思いついた端から書き記していくか、どれがいいかな。また週が明けたら考える事にする。


それにしてもいいアルバムである。発売発表がされた当初は、「これで、シンガー・宇多田ヒカルに"邪魔"されずに、作詞家作曲家・宇多田ヒカルが正当に評価されるチャンスが増えるな。」という風に思っていたのだが、こうやっていざ蓋を開けてみると邦楽アーティストの底知れなく天井知らずに溢れ出る才能と、彼ら彼女たちの宇多田ヒカルに対する様々な感情が伺い知れるという、とても興味深い結果となった。あらためて、今作を企画してくれた沖田ディレクターをはじめとして発売まで尽力してくれた皆さんに感謝の意を表したい。どうもありがとうございましたm(_ _)m いつの日か、第2弾も発売される事を期待していますッ(≧∇≦)

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椎名林檎の"Letters"は「Letters」だ。文字通り、ね。

浜崎あゆみの"Movin' on without you"が「パブリック・メッセージ」なら椎名林檎のそれは「プライベート・メッセージ」だ、と書いた通り、この"Letters"はユミちんがヒカルちんに宛てた私信のようなものである。

この曲の曲名が複数形の"Letters"である理由は何か。letterを言葉と訳すなら言葉たち、つまり文字によるやり取りそのものを表している、という解釈がひとつ。もうひとつの解釈は、手紙が何通も、という意味での"Letters"である。

歌詞を思い出すと、「いつも置き手紙」というキメのフレーズがある。これは、手紙のやりとりがいつも一方通行である事の示唆であろう。

ここは少々、アイロニカルである。本来、この歌では主人公が"君/あなた"に対して特別な感情を抱いている筈だ。そして、君/あなたの方はどこかぶっきらぼうで、こちらの感情を斟酌してくれる気配もなく…という感じで、気持ちの上では一方通行なのだが、実際の具体上では、手紙を送ってくるのはいつも君/あなたの方なのだ。あまつさえこちらは『忙しいと連絡たまに忘れちゃう』とまで言っている。結構捻れている。

これを林檎嬢が歌う事で、更に捻れがひとつ加わる。仮に原曲が林檎嬢との事を(一部でも)歌った歌だとすれば、その相手の気持ちを汲んだ上でこの歌を"そっくりそのまま返す"タイミングが今だったのだ、という解釈もできる。『ひとりでも大丈夫だと』が『ひとりでも大丈夫と』に変わったのも、ここだけが元々自分の言葉だったから、裏返しの楔のようにここだけ最初から捻っておいたのだと考えれば、ほんのちょっとだけわかりやすい。

大橋トリオの"Stay Gold"に対して、女言葉を男が歌い切れたのは凄いと絶賛したが、この"Letters"はもっと難しい。手紙の送り手と受け手が逆転しているのだ。これが成立するのは、お互いが片思いを抱いている時だけ。何だか虹色バスの『皆がおんなじように思ってバスに乗っている、"誰も居ない世界へ私を連れて行って"と』に通じる"孤独感の共鳴"を感じるが、Lettersの2人と違って、ユミちんとヒカルちんは別れてしまう気持ちは更々無い。『憶えている最後の一行は「必ず帰るよ」』なのだから。このカバーは、"2人"のこの約束を確認する私信のやりとり、Lettersなのである。

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