次のアルバムの作風として最も素直に考えつくのはテーマが「死」なケースである。『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』の詞に共通するのは喪失だ。こうなると、アルバムの他の曲もそれに似たテーマを持つのでは、と思いたくなる。
しかし、そんなアルバムを作ってくるかというと、ヒカルの従来の曲作りの作法では難しい。テーマがバラバラだからこそ、各楽曲毎に独立してクォリティーを上げていく事ができるのだ。少しわかりにくいかもしれないが、ヒカルの場合、要するに、似た曲調が2曲以上出来上がりそうになったとしてもアイデアを統合してひとつの楽曲に仕上げてしまう。2曲分のアイデアからよりよい部分だけを取り上げて1曲を作るならばそちらの方が別々の2曲よりクォリティーが高まる可能性が高い。蓋然的には、そういう構造になっている。
更に踏み込んで付言すれば、そうやって統合する事ができそうにないアイデア同士が、別々の曲へと発展していくのだ。ヒカルの曲がどれも他の曲に似ておらず、何れも独自の世界を構築しているのは、ヒカルがそうやってクォリティーに対して全く妥協しない、曲数を揃える為にアイデアを水増しするような事を一切しないその態度が、あの抜群のアルバムを作る一因となっている。
となると。『死』をひとつのコンセプトとして一旦立ててしまうと、どこかでアイデアに息切れが生じるのではないか、だから、制作の過程のどこかで、全く異なる動機で生み出された楽曲も存在するのではないか、という推理が一つ生まれる。
もう一つの推理は。「死」はヒカルにとって、実は汲めども汲めども尽きる事の無い、超巨大な水脈を掘り当てたようなようなものであって、語るべき言葉と奏でるべき音色、そして叶えるべき世界が次から次へと溢れ出してきて、もう自分の制作能力が追い付かない程になっている、という状況が今回生まれた、という推理である。
もし後者が叶っているとすればそれは、今までのヒカルのアルバムが箱庭の中の出来事だったのではという位に図抜けてスケールの大きな作品になっている筈だ。薄い現世を挟んで天国と地獄の総てを描き切ったような、そんな作品に仕上げられる気がする。底無しの天井知らずなんて生易しいもんじゃない、落ちたり飛んだり広がったりといった感覚自体が麻痺する程の迫力と存在感。それは即ち、『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』がまだ第1楽章の冒頭に過ぎなかったという事だ。
私は、幾ら何でもそれは時期尚早だと思う。そんな作品を作ったらまたここから10年は休まないと収支が合わないだろう。それは…いやヒカルだから「あるんじゃない?」と思えてくるな…怖い…。
まぁいいや、魂が空っぽになりそうだが書くだけ書いておこう。キーワードは「娯楽性」である。ここまでここまで重い3曲を書いてきて、それとバランスをとる為に、ただただ楽しいだけの音楽というのが対極の概念となるだろう。それを、先行配信曲でしてくるかどうか、だ。聴いて楽しい、歌って楽しい曲が配信されてくるならば、アルバムはバラエティーに富んだ、いつものヒカルらしい硬軟軽重織り交ぜた作風となっているだろう。一方、もし次の曲が『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』の続きに来る曲、「死」を扱った曲であるならば、もう後戻りはできない、そのままアルバムは「死」一色の作品になっている可能性が高い。
反駁としては、次の一曲によって『桜流し』『真夏の通り雨』『花束を君に』から続いた"4部作"が完結する、というケースが考えられるがもしそれをするとしたらその時は『真夏の通り雨』『花束を君に』と同様、他の曲と一緒に「2曲同時配信」を行ってくるだろう。そして、そのもう一曲は、娯楽性の高い、音楽の楽しさを体現した楽曲になっていると予想する。
さて、どの予想や推理が当たっているかはわからない。当たっていなくともよい。「ニューアルバムが楽しみだ」という期待感をエネルギーとして、想像力をはたらかせて日記を記したに過ぎない。こういう事をさせるだけのパワーが、ヒカルのニューアルバムにはある。皆さんも遠慮せずに、その期待感をいろんな風にカタチにしていってくださいな。意外な発見が、何処かであるかもよ?
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