無意識日記
宇多田光 word:i_
 



月末に朝から大会議って何なんだザネッティ…(最早イタリア風伊達男らしいので呼び方もイタリアンに)。大体このタイミングだと来月の月間プライオリティ(イチ押しアーティスト)の確認と再来月のトップ・プライオリティの決定、みたいな事をするのがレコード会社だが、当然宇多田ヒカルにそんな話はまだ早過ぎる。半期先、つまり10月以降の戦略を練る長期的な会議、或いは次の四半期、7~9月の予定を組むタイミングという事はあるかな? UMG位図体がデカいとどのタイミングで何やるかようわからん。彼らはカレンダー通りに休みを取るので、そんなに緊急な話ではないとは思うが。

次四半期の7~9月なら、真実味はある。一周忌の8月に復帰という、レコード会社からのリークにみえる情報があったからだ。故意に漏らしたのか不意に漏れたのかは知らないが、思いつきにしては周囲の情報に妙に真実味があった。普段週刊誌なんか省みない癖にこういう時だけ厚かましいんだな、と自分で自分にツッコミを入れたくなるが、宣伝の一環としてのリークならしっかりチェックさせてうただきますよ。その手法の是非は別としてね。

こういう時に次にマークすべきなのは、UMG本体が出す欧文のプレス・リリースである。Utada Hikaru Single Collection Vol.1 の発売が明らかになったのは、日本からのプレスリリースではなく、当時EMI本社からリリースされた英文々書だった。基本的に日本で売れるだけのコンテンツでありながら、その数字の大きさ故にEMI全体としても無視出来ない規模の売上があった為、株主に対して(とは一概には言えないようだが)「2003年度下半期は、これこれこういうビッグ・アーティストたちの他に、日本で宇多田ヒカルがアルバムを出しますよ。ほら、うちの会社の収益鉄板でしょ?」とアピールする為の材料になったのだ。今から考えると恐ろしい。勿論その期待に応えて初週だけで140万枚を売り、2003年度々々末のEMIのお財布事情を大きく改善したのだけど。

現在は状況が異なる。EMIはUMGに吸収され、必ずしもUtada Hikaruは、UMG全体を揺るがすような存在ではなくなった。それだけUMGがバカデカいからなのだが、Hikaruの現在の市場力は、FL15で示された通りである。再発盤をチャートTOP10に放り込むパワーはあるが、枚数はあんな感じ。その感覚がそのまま市場力である。


はてさて、今レコード会社は、今年中に復帰するかもしれない日本の伝説的アーティスト(彼女が伝説的でなければその形容にかなうアーティストは日本に1人も居ない)を、どのように見立てているのだろうか。数ヶ月後にその答えを見せて欲しいものである。

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日本の商業音楽市場には伝統的な構造上の特色がある。それは、欧米のスタイルを模倣出来るアイドルが主流派・本格派としてもてはやされ、オリジナリティのあるアーティストがサブカルチャーとして脇に追いやられる構図だ。

これは、料理に喩えるなら、既に完成されたレシピを早く正確に大量に再現できる、或いは、そのレシピを"和風"にアレンジして日本人の口に合うように提供出来る料理人が重宝され、食べた事もないような新奇なレシピを開発する料理研究者が陽の目をみない、とでもいえばいいか。(なお、料理は比喩として出しただけで日本の食文化が実際の所どうなっているか私は知らない)

もてはやされる、という表現を用いたが、そちらの方が世間的にウケがいい、とでも言えばいいか。つまり、次の世代で、商業音楽でビッグになってやろうと野心を抱く若者は、必然的にその高い模倣技術やアレンジ能力を目指すようになり、その構図は常に再生産されてゆく。現実として、食べた事のない珍味より、食べ慣れた味の方が世間のウケはそりゃあいい。かくして、どの世代においても海外からのアイデアの輸入に頼る構造は温存されてゆく。


宇多田ヒカルは、この構造において、そのメジャー的特性とマイナー的特性の両方を持ち合わせてデビューしてきた。その歌唱は「欧米歌手にひけをとらない」と絶賛され、「あの程度の歌手は欧米には幾らでも居る」と揶揄された。褒めるも貶すもまず海外との比較から、だった。こういう所からも市場の特色が伺えるが、一方で、作詞家・作曲家としての個性も際立っていた。

デビュー当初に取り上げられたのはその作詞能力程度だったが、作曲能力もその"量産体制ぶり"に感嘆の溜め息が漏れた。年間1位を初めてとったシングルは7枚目だった。ただデビューの時の瞬発力だけで売れていた訳ではない。

ただ、その作曲能力は、ある特定のスタイルに依拠しておらずそのままPopsとして提出されるものだから、オリジナルな音楽が出てくる事も織り込み済みの老舗レーベルですら扱いに戸惑った。「EXODUS」だ。結局、Hikaruの方がその事情を斟酌して「This Is The One」のコンセプトは"Mainstream Pop"になったが、その対応能力の高さが今後どちらに出るかはよくわからない。


もし仮に、あの頃から月日が経ち、音楽の購買層が変化しているのなら、もしかしたらHikaruにとってこの日本市場は、インディーズ的な活動をするべき場所なのかもしれない。ただ、音楽購買層が世代交代していないとすれば、今まで通りの、マスメディアを使ったメジャー・アーティストとして売り出していけばよい。

その購買層の変化の度合いを推し量るのに絶好の機会だったのがFL15だったのだが、結局累計の売上は僕の予想を大きく下回ったようだ。当初の数字の動き方から察するに、コア層の数は予想通りだったが、そこからのファースト・グレー・ゾーンが思いの外少なかったのが予想を外した原因である。それを購買層の世代変化や市場の特殊性だけで語るのは無理があるが、宇多田ヒカルという名前の扱いが現在この程度だという認識ではいようと思う。いい勉強になった。

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という訳で予定通り(?)Dub Mixを飛ばして次に行こう。First Love John Luongo Mixだ。

このMixも、Automatic Johnny Vicious Mix と制作の目的は同じである。スタンダードなバラード・ナンバーをダンス・チューンに変えてしまおう、という。お約束通り、中央にオリジナルにはない四つ打ちのバスドラを入れ、左シンバルで裏打ちのツービート、右ハイハットで16ビートを刻んでいる。鉄壁にダンサブルな組み合わせだ。

しかし、Johnny Vicious Mixに較べ、上品というか、軽薄でない印象がこちらにあるのは、John Luongoの方がシンセの音色がよく選ばれているからだ。全体を覆う柔和な、シルクのヴェイルのような音に、短く和音が刻まれていく。左右に広がりのある中で、選ばれた音色が効果的に添えられていく。要は、アップテンポな割に気遣いを忘れていないアレンジなのだ。ダンス・ビートとそれに合わせて音符が詰め々々になった歌メロがやたらに世話しない為、その、後ろから落ち着いて見守られてる感じが何とも面映ゆい。

今回、このヴァージョンを聴き直してみて、ふと、ヒカルのあの曲に似ているなと思った。Flavor Of Life、のOriginal Versionである。

あの曲はダンスビートではない。ドラムとベースを中心とした、Pop Rockらしいエイト・ビートだ。しかし、そこを除けば、ルートあたりを探りながら少ない音数で全体のガイド役を果たすベース・ラインや、全体を包み込むような柔和な音色のシンセ、控えめにかき鳴らされてアクセントになるアコースティック・ギターなど、なかなかに共通点が多い。妖精の飛翔のように上下動する鍵盤による快活且つ幻想的な鍵盤も似ているといえば似ているか。ただ、やっぱりサビ後に重々しく鳴らされるエレクトリック・ギター・リフはFoLOV独特のものだが。


それにしてもこの対照は面白い。当初(2007年1月5日)のFlavor Of LifeといえばBallad Versionを指していて、そちらはまさに「First Loveの再来」と受け止められていた。歌詞に使われていたFlavorという単語がタイトルになっていて、FなんちゃらLなんちゃらという字面まで似ている。お陰でその頃はタイトルを間違えて「Flavor Of Love」と書く人が絶えなかった。(私も間違えた!) しかし、Ballad Versionはあクマでリミックスであり、CDシングルでもしっかり2曲目に収録されている。バラードのFirst Loveと"似ている"のは、リミックスの方なのだ。

そして、オリジナルの方はというと、今回見たようにFirst Loveのカップリングのリミックス・ヴァージョンの方に似ている、と。この、捻れというか綺麗な対称というか、いずれにしても、DISTANCEとFINAL DISTANCEをみるまでもなく、宇多田ヒカルの曲のテンポとリズムを変えてみるのは通常以上に目を引く発見があるものなのだ。こうやってあらためて聴き直してみるのもいいものである。

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Give Me A Reason は「とても頭のよい女子が歌詞を書いた歌」だ。まぁそれは皆知っている事かもしれないが、"そのつもり"で歌詞に耳を傾けた方が、歌の言ってる事が把握し易い、という事実は理解しておいた方がいい。

法則とか運命とかいった言葉のチョイス。この感覚に基づいて"reason"を解釈するなら「世の理(ことわり)」みたいな訳し方になるよと前回(いつやねん)述べた。矛盾という言葉も、パンクスの皆が使う「釈然としない」「腑に落ちない」みたいなふわふわした不満感を指すのではなく、実に明快に「命題が並び立たない」事を指している。その点については一番のBメロの歌詞に触れながら解説したつもりだ。

そこらへんの、"頭を使ってる感じ"がよく出ているのが、二番の方のBメロだ。

『やっと見つけた答えは姿を変え私を惑わすhey
 くやしいほど遠くからからかわれているみたい』

個人的な事を言わせてもらうなら、後に2002年の「幸せになろう」を聴いた時に、このGive Me A Reasonの二番のBメロの歌詞を思い出したのだ。というか、思い浮かんだ情景がほぼ同じだった。この場面である。

『その続きを知りたくて賢者を訪ねた
 すると彼は言いました「教えない」』

"やっと辿り着いた答え"と"賢者"が大体同じものだわね。こうやって、さぁ答えがわかると思った瞬間にはぐらかされる感覚。とてもよくわかる。ここにあるのは「真理を、真実を知りたい」という知的欲求の顕れである。

確かに、Give Me A Reasonも幸せになろうもストレートなラブソングである。後者なんてあからさまにエロい。しかし、そのエロスは「真実という最高の美への探究」という面も持ち合わせている、と解釈するのがこの2曲に対するより奥行きのある態度だろう。

宇多田ヒカルはそういう人なのだ。ラブソングとしての体裁を整えておきながら…いや、徹頭徹尾心に響くラブソングに仕上げておきながら、「本当の所はどうなんだろう」という知的欲求も全く隠さない。いや、少し"隠れて"はいるかもしれない。しかしそれは主張が控えめなだけであって、作詞作曲にあたって導かれるべきエネルギーは、寧ろそちらから主に出ていると考えていいのかもしれない。

そんな頭のいい、頭脳派な女の子(しかも15か16の!)が歌う"reason"、"Give Me A Reason"だと思ってこの歌を聴き直すと、また新たな感慨が湧いてくるのではないかと思いますですよ私は。

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ディズニーのアニメ映画「Frozen」(邦題なんつんだっけ)が日本含む世界各国で絶好調のようだ。殆どトレイラー代わりの英語版主題歌の再生回数は5000万回を超えている。ま、Youtubeには億超えの大物がわんさと居るんだけどね。兎に角、このままの勢いで日本ではゴールデンウイークに突入する訳で、ミュージカルのリピーターの多さを考えるとまだまだ旋風(北風かな?)は止まらない感じである。今から円盤の発売が怖くて仕方がないよ。


で、この主題歌は25ヶ国語で歌われていて、それを抜粋して繋ぎ合わせたWe are the worldみたいなバージョンも観る&聴く事が出来る。英語版の歌い方と技術力を再現できる面子をよくもまぁここまでそれぞれの国で見つけてきたものだと感心する壮観なこの動画で、1番のサビ頭というとても美味しい場所をかっさらっていっているのが我らが日本代表松たか子である。オランダやポーランドの使い方からして、担当者はなかなかにわかっているヤツだ。彼だか彼女だかも、松の歌声の特別さには感銘を受けているのだろう。

多分、技術的には松は25人の中でも下から数えた方が早い位なのだが、その声質の特別さにおいては他の追随を全く許さない。彼女の何が凄いって、誰も真似できない声質の癖に声に癖がないのだ。

恐ろしい。普通、声に唯一無二の個性がある人は、その声質にどこかしら異様な特徴をみせるもので、いわば「強烈な色/ドギツカラー」を持っている。声色という位だもんね。

しかし松の声質は色に例えるなら白だ。そのスペクトラムには全くといっていい程偏りがなく、どの音域も満遍ない。なのに、彼女が歌い出すと空気の色が変わる。彼女位の技術力の歌い手は世の中にわんさか居るだろうがこういう声をもった人はなかなか居ない。言いたくないが、まさに「生まれもった天性の声」「流石にサラブレッドセレブ」と言わざるを得ない。

「ありのままで」の彼女の歌声は、それでも自分の個性をそんなに活かさずオリジナルの空気を尊重しているのだが。いやはや、素晴らしい。確か、公開された当初も呟いた気がするが、やっと日本人が松の歌声を"発見"できたのかと思うと感慨深い。90年代はトレンディードラマの視聴率女王として名を馳せたが、当時から私にとって彼女は「好きな声質の歌手」でしかなかった。その頃に較べれば飛躍的に歌唱技術も向上しているが、声の特別さを失っていないと確認出来て安心しますた。


、、、えぇっと、当初の予定ではこの話を枕にして藤圭子と宇多田ヒカルの声質の特別さについて延々論じてやるつもりだったのですが、どうやら話の尺を間違えていた(恐らく一桁な(苦笑))みたいで、枕だけでいちエントリー分になっちゃったねぇ。今回はこれでいっかー。


それにしても、歯がゆい。今に始まった事ではないが、なかなか歌が単独でヒットしない。この「ありのままで」は久々に老若男女にカイシャした国民的ヒット曲だという事でそれ自体は大変喜ばしいが、あクマで映画の添え物に過ぎないのだ。

それを言ったら美世界や桜流しも映画あってこその大ヒットなんだよね。これを歯がゆいと言うのが贅沢なのはわかっているのだけど、復帰後のHikaruには、久々に「ノンタイアップでのヒット曲」を期待したいものだ。でもそれも叶わぬ夢なのかな。どうしたって知名度的に、タイアップが自然とついちゃうから。有り難い事なんですけどねぇ。やっぱり贅沢ですかねぇ。

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『あなたに教える理由を教えて』―"Give me a reason to show you"の1つの訳し方として前回(いつだよ)提示した一文だが、この歌のサビにはもう1つ英文がある。"Give me a reason to love you"―末尾が"love you"になっている方だ。

これを、「あなたを愛する理由を教えて」と訳すと、何となくひっかかる感じがひとつある。また、giveを教えると訳さずに、違う言い方、「あなたを愛する理由をちょうだい」くらいになると、まるで意味が変わってきてしまう。これではまるで、現状あなたを愛していないみたい。しかし、一文だけの訳としては別に間違っちゃあいない。

ここらへんの微妙さをヒカルがどう切り抜けているかというと、周りを固める事で凌ぎきっている。『すべての法則うらぎってみせる たとえそれが運命でも』

ここで法則とか運命が(後から)出てくる事で、実はreasonという単語がそういった意味―即ち「世の理(ことわり)」の事を言っているのだと示唆しているのだ。「なんでまたあたしゃあんたみたいなのを好きになっちまったのかねぇ!? それが世界の仕組みってもんかな!はは!」みたいなノリだと思ってもらえれば。reasonはこの「なんで」の部分である。

「これから愛する為の理由」と「既に愛してしまっている理由」。同じ一文でも、正反対といえる解釈が出来てしまう。ここを取り違えたら…と今の今まで思ってたけど、これどっちでもいいな。(華麗なる卓袱台返し)

確かに、ここから先の二番の歌詞を聴くと、「あなた」に上回られ翻弄される様が描いてあるが、この"まとわりつき方"は、別にまだ愛していなくても出来る訳か。なるほど。あれやこれやを経て漸く辿り着いた先で、そこで初めて"あなたを愛する"ようになったとしても構わないな。うむ。

聴き慣れた歌も、注意深く聴き直してみると新たな発見があるものである。もう15年も前の歌なのに! 何年経っても、15,6歳の小娘に翻弄され続ける私でしたとさ。やれやれ。

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他のテーマは兎も角、Bonus Tracks特集の続きはどうした、という気がするが、実を言うと、Dub Mixについて何をポイントにして書けばいいのかイマイチ掴めていないのだ私が。コイツ飛ばして先に進もうかなぁ。どっちにしろ思案中。まぁ焦る事はないと思うし。5月一杯は動かんだろう。

しかし、今日はEVAモデルのハイレゾウォークマンの販売開始日。シンジが父から貰ったDATプレイヤーが物語の中で大きな役割を果たす(であろうと期待されている)中でのこのコラボレーションはなかなかにセンスがいいと思うのだが、シン・エヴァに向けて少しずつ動きが加速されている一環かなとも勘ぐれてくる。

その中で、新劇EVAの歌声はこの人しかいないとばかりに同梱のサウンドトラックと共にヒカルの歌声が入っている。これは、シン・エヴァの主題歌も当然宇多田ヒカルですよと暗に宣言しているようにも取れる。その歌が売り出される時は当然ハイレゾで配信させてうただきます、という事でもある。

それが、桜流しのように「ある日突然」だったらどうしますか皆さん。私は既にハイレゾウォークマンを購入して準備万端、次のヒカルの新曲をいきなりハイレゾで聴く準備は整っている。44kHz16ビットをアップコンバートした"擬似"ハイレゾではない、正真正銘の、マスターが96kHzだったり24bitだったりする音源によって、宇多田ヒカルの新曲に触れるのだ。これは、興奮度が高い。

ここで提案なのだが、是非今回はヒカルにミックスに、出来ればマスタリングにも立ち会っていてほしい。ヒカルの耳はネズミ避け超音波すら聞き取れる程の真の"ハイレゾ耳"なのであるから、ハイクォリティーなサウンドには人一倍五月蝿い筈である。彼女の耳が太鼓判を押した最高のサウンドで、今度は新しい歌を聴いてみたいものだ。


恐らく、この感じではヒカルは既にシンエヴァの曲作りに入っている。もしかしたら終わっているかもしれない。桜流しが作り始めてから完成するまで(ずっと作業をしていた訳ではないだろうとはいえ)約一年間かかっていた事を想起すると、今具体的にここらへんだと推測するのは困難だ。ただ、ツイートの止まる時期というのは「今はヘタな事は言えないから黙っておこう」という意図を持っていると考える事も出来るので、ヒカルの長い沈黙期間はシンエヴァの展開の概略を教えて貰った直後からのものだ、なんて風には妄想をはたらかせる事が出来る。それはまぁいいか。

いずれにせよ、5月の終わり、ひょっとすると6月の大部分もかもしれない、そこらへんまでは基本的に何の動きもないとみておいた方がいいだろう。出来れば、無事に結婚式を済ませて、誰にもスクープされる事無く自ら選んで写真を公表してくれる事を願うばかりだが、果たしてどうなるやら。それまではあんまり話題を提供しない方がいいのかもねー。

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先日、「高山みなみ」の名前が思い出せなくて自分で自分にドン引きした。「ほら、江戸川コナンの声優で、魔女宅でキキとウルスラの二役やってて、Two-Mixのヴォーカルのふり(?)をしてた人でさ…名前何つぅんだっけ?」って感じで。映画本編で一度も出てこない名前やら20年前っきり全く名前を聞かない音楽ユニットの名前はスラスラ出てきているのが笑えるが、固有名詞が直ぐに出てこなくなったらやはり歳なのか。そういえば更にちょっと前は「ハンコックとミサトさんやってる人なんつったっけ?」ってなってたわ。皆さんすぐ名前出てくる? 答はこのエントリーの最後に。

たまたま今挙げたのが女性声優で、顔なんてすぐ出てこない…というか2人とも知らんかも…ような特殊例なので、名前を思い出す回路が声質や名台詞やキャラクター造形経由だったりして一般論には落とし込みにくいのだが、歳をとると何でも略称やあだ名で呼ぶようになってしまいにはあいつだのそれだの言い出す始末だから、それが原因のような気がしている。洲崎綾なんて「ぺ」だもんね呼び方。本名忘れるよ。また声優かよ。

と、そんな風に思っているので当日記では宇多田ヒカルの事を徹底的に名前で呼ぶ事に徹している。徹底的に徹するって重複もいいところだが、代名詞の「彼女」ですら文脈上必要最低限の場合を除いて使わないようにしている。本来なら、この日記にとってHikaruは唯一無二の人なので、シャーロック・ホームズが「ボヘミア醜聞」に出てきたアイリーン・アドラーを「あの女性(ひと)/The Woman」と呼ぶように、特別に神格化して代名詞で呼んでも("神"はしばしば、例えば英語ではhimとかtheeとか呼ばれる)何も支障はないが、私は物事をそういう風に捉えようとは思わない。彼女が唯一無二だというのなら、これ書いてる私だってこれ読んでる貴方だって唯一無二だ。何も違いはない。HikaruはHikaruなのだ。それ以上でも以下でもない。

そもそも、そういった屁理屈以前に、書き手として、宇多田ヒカルとかUtada Hikaruとか入力するのが楽しい、テンションが上がるというのがある。ノートの端っこに好きな人の名前を書いてニヤニヤする厨二的気色悪さの凝縮を、「最近物忘れが激しいなぁ」と嘆くおっさんが毎日々々繰り出して居直っている。何というか、呆れるのを通り越して「もう徹底したらええやんか」と言って突き放したい。えぇ勿論徹底させてもらいますとも。

あー、でも、あの人とか彼女とかはあんまり言わないけど、「あのバカ」とか「ヤツ/アイツ」は結構使っちゃってるかもしれないなー。知り合いでもない、一度も会って話した事もない人に何とまぁ失礼な。ごめんなさい。

そんな感じなので、今後もここでHikaruだとかヒカルだとか光だとかひかるだとかHikkiだとかUtadaだとかいう名前をみつけたら、その度に「ああこいつ今テンション上がったんだな」と思ってうただければ幸いです。

んで、そな"こいつ"って誰だっけ? 今一瞬自分の名前忘れそうになってたよ。ヤバいヤバい。


という訳で三石琴乃でした! それではまた次回。ちゃお~☆

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昨夜のエントリーを「案外重要」と書いたのは、それがblogの雰囲気を左右するからだ。

先日も@mikihhiにアニメの感想を呟いたら「視聴者側がハードル上げすぎ」と窘められた。ここらへんの匙加減の話だ。適用基準によって、読者がこの日記を好きか嫌いかまで変えるようになるだろう。

ハードルを上げ過ぎれば。辛辣な言葉に恨み節、「あの頃はよかった」という過去との比較、「あの人はこんなに上手く出来るのに」という他者との比較、「そんな事であんな事が言えると思ってんの!?」という理想からの乖離、等々、ひたすらネガティヴな言い方に溢れる。果たしてそんなblog誰が読みたいか。俺は読みたくない。

かといって絶賛ばかりを書くんだったら、歌なんか聴かなくても書けるし。適当な美辞麗句を並べ立てればよい。ファンブログなんだからそういうのもアリかとは思うが、私はHikaruの歌を聴いた上で感想を書きたいので、つまり、事前には何を書く事になるかわからない、総ては彼女の歌次第、という不確定性の中で書きたいので、絶賛だらけは基本的には有り得ない。それでも絶賛ばかりにみえるとしたらそれはHikaruがそれだけ頑張った証で…ってこの話書くの何度目だよ。

難しいのは、評価のハードルというものは、自分が気付かないうちに勝手に上がったり下がったりするものでありつつ、一方で、ある程度は自分で調整する事が出来る、という点だ。歌を聴いて感じる感情は最初は言葉で表現出来ていないものだから、それを言語化する過程が必ずそこにあり、従って、言語化の流儀の設定如何で同じ事を感じたとしてもそれの言葉への書き下し方はまるで違うもの、時には正反対(例えば、肯定と否定)になる可能性があり、それがココの雰囲気を形作る。これが、「案外重要」の真意である。要するに書き方の問題に過ぎない(どうせHikaruの歌の感想で私は嘘なんか吐きそうにない)のだが、読者として文章を読んだ時の感想は激しく異なってくるのだ。


なので、アニー・ハズラムを聴いたらライブで完璧に歌えていたのでHikaruのライブでの歌唱も完璧さ度合いがどれくらいあるか、という切り取り方の設定をしてからライブの感想を書くようにしようかな、という話はかなり危険なのだ。一言でいえば不適切なバイアスだ。

そこで昨夜放り出した問題に立ち返る。Hikaruのライブでの歌唱に、どれだけ「不安定」を望むかという話だ。普通は安定していればしている程いい。ライブならではの歌い方の変更や、即興でのフェイクなども、事前には予想がつかないかもしれないが実際耳にしたら何の不安ももたらさなかった、という意味で「安定」しているのが望ましい。この点に異論はないと思う。

が、Hikaruファンの性癖はちょっと特殊である。不安エンターテインメントらしく、皆Hikaruの歌を"不安げに見守りたがって"いたりするのだ。「あぁ~、ヒカルちゃん今日は大丈夫かな~」と心配する事自体が宇多田ヒカルのコンサートの"楽しみ方"になっている。何とも可笑しな話にみえるが、ファンの(特に女子の)メイン層はその多くが「私だけのヒカルちゃん」を胸に抱いている。それは、あらゆる「それ以外」に対する不信や恐怖や不安の裏返しになっている。でなければ「私だけの」と"字面にすれば排他的"な文言を挿入する必要はない。その不安に浴する事で、宇多田ヒカルへの恋心は完成する。だから彼女が出てきただけで嬉しいのだ。悪いか。


…となると。私の方が完璧とか安心とか安定とかを評価の基準にしてしまうと、そういった空気からかなり乖離したものが出来上がる。それは…何と言えばいいかな、珍しく、そこで私は"自分以外のファン"の目線を意識しているのかもしれない。何れにせよ、結局「案外重要」な事には、かわりがないんだけど。

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何故だか照實さんがリプライを返してくれるのでやり取りが続いている。「何もそんな話題にまで絡まなくても」と言われそうだが、結構無計画に返信してしまっているので意図とかはあんまりなかったりする。

ならあったりもするのか、と言えば、そうね、ワクチンみたいなものかな~とは思う。本気で核武装論の話をけしかけてくる人が現れたら目も当てられない事になるので、敵対心も不信感もない私のような人間とのやり取りで、異なる意見にも耳を傾けて貰えるようになったらいいかなぁ、という感じ。

一方で、やり取りが長引く事で衆目を集める機会が増えてしまうというリスクも考えなければならないが、まぁそっちはそんなに重きを置いていない。それこそ、そこに私が絡まっているのなら色々とやりくりを始めそうで、そこは楽しみでもある。


で、もう一つの方の話題。ハイレゾに関して、照實さんがどこまで把握しているかだ。思いっ切り「SONYですか?」と訊いた(筈な)んだが、今んとこ返信がない。ニール・ヤングの例を出してきた経緯からすると、SONYのハイレゾ・ウォークマンのエヴァコラボモデルが明日販売開始になる件について、どこまで関わっているかというと、どうも「それほどでもない」のでは、という気がしてくる。

SONYからすれば、見出しの作り方からして「宇多田ヒカルがプリインストールされている」のは大きな売りになっている訳で、レコード会社の枠組み(まぁ家電メーカーだから関係ないんだけど)を超えたこの企画がどれ位の反響を起こすかは見ものではある。ハイレゾなんて兎に角聴いて貰わねばその価値が伝わらないのだから、イヤフォン同根版まで出すのはその意図の顕れだろう。

我々にとって問題は、4曲の元々の解像度がどれ位かという点である。そもそもマスター音源の音質が高くなくては、ハイレゾリマスターによるアップコンバートには限界がある―なんて話を当日記ではこれでもかと繰り返してきた。桜流しはそれ以前の問題で、EVAQ本編のBlurayで聴いてもサントラのCD音質で聴いてもさほど変わらなかったからハイレゾにしたところで高が知れている。チキンラーメンを超高級どんぶりに入れて出すようなもんだ。なので、それについては期待しない。

いずれにせよ、時間差で各楽曲のハイレゾバージョンは配信販売が始まるだろう。でないと、ハイレゾ用のリマスター費用をペイ出来ないじゃないか。というか、売れるものを売らないのは機会損失なので企業としては如何なものかと。コラボモデルが完売した頃を見計らって売り始めれば、そんなに反発はない、んじゃ、ないかな? ここらへんの匙加減が、企業としちゃあいちばん難しいよねぇ。

という事で、あとでダメ元で照實さんに4曲各曲のマスター音源のサンプルレート&ピットがどれくらいなのか質問してみる事にしよう。あ、勿論どなたか先に訊いて下さる方がいらっしゃったら、どうぞどうぞ。さてさて、ちゃんと答えて、くれるかな?

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照實さんテキトー過ぎ(笑)。

ま、それはいいとして。

さっきまでRenaissanceのライブなんてものを聴いてたもんだから、誰の歌を聴いても下手に、雑に聞こえてしまう。出来る限り控えめな表現を用いても、「アニー・ハズラムは20世紀プログレッシヴ・ロック史上最高の歌手」以下には成り得ない。本当に全部これナマで歌ってたんかな。誤解を恐れずにいえば、これぞ本物の人力ヴォーカロイドといえるのではないか。正確無比にも程があるよ。

Hikaruの歌唱の「不安定さ」が魅力だと言う人は多い。いや、多かったというべきか。WILD LIFEに至る頃には抜群の安定感だった。それにより失われたものもあった、とオールド・ファンなら言うだろうかな。

ある意味、最早人を不安にさせる、心配させる、心をそわそわさせる―いや、ぞわぞわかな? そういった点に関しては、他に類をみないレベルになっている。何だろう、ここまでくると「不安エンターテインメント」とでも名付けたくなってきた。昔はナマ歌にハラハラドキドキ出来たが、最近は(ってもう3年以上人前で歌ってないけどな!)きっちり期待に応えてしまうので、他の部分で不安エンターテインメントの需要に応えている。一回は仕方ないにしても、三回熊淡を休んだのは見事なものだった。どれだけあれやこれやとファンに心配をかけたかはここに改めて書くまでもないだろう。


しかし、アニーハズラムの歌声を聴いていて、ちょっと考えが変わった。Hikaruの歌声は、今でも十分に不安定である。上には上が居る。マイクロフォンを使ってライブで歌を歌う人の中には、アニーのような精度で歌えてしまう人も居るのだ(彼女だけな気もしますが)。わざわざ他で不安ニーズに応える事もない。もっとナマ歌の精度というものは、上がる筈なのである。

という訳でHikaruが復帰した暁には、今まで以上にナマ歌に対して手厳しくいこうと思う。正直、2006年の頃、ウタユナの時の私はネット上でライブでの彼女の歌唱を全力擁護していたのだが、次は寧ろ「もっといけるだろ」という風に攻め込んでいきたいと思う。

まずは、どれだけAutomaticに、自動運転で歌えるかだ。今回Luv Liveをじっくり聴く事で、ボヘサマ千葉マリンのヒカルの歌唱が如何に"慣れ"を伴ったものであったかを痛感した。やはり、それだけ余裕があるとエンターテインメントとしての幅というか、安心感が違う。何も考えなくても気がついたら完璧に歌えていた、となる位まで精度を高めてみてほしい。


しかし、そういう"完璧さ"って、果たしてファンは…という話からまた次回。とはいえ、次はまたGive Me A Reasonに戻るかもしれんし、B-side Tracksの次の曲に行くかもわからんし、どうなる事やら。いきあたりばったりでいきますよ宇多田家に倣って。

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光が国際結婚をするという事で、僅かばかりではあるが以前よりは国際的なニュースにも目を向けるようになった。幸い、と言っていいかどうかはわからないが、イタリアと日本の関係が悪化している、という話はきかないし、2人の出会ったイギリスとの関係がどうのこうの、という事もなさそうだ。尤も、私にとって目下イタリアといえば"Banco来日中止、Rhapsody of Fire来日迫る"みたいなもんだったりするんだけど。

いやでも、そういった文化交流が可能なのも、両国間の関係が良好なお陰である。来週から行われる世界卓球選手権でも、北朝鮮の選手団が来る来ないで随分やきもきさせられたし、多分実際に来日するまで(北京経由とかいう書き込みを見た)、いや、実際にコートに立つまで不安は拭えない。正式な国交がないというのは、斯様な状況なのだなと。

光は運がよかった、と言っていいと思う。また、何語であろうとあの才能なら言語習得は速いだろう。寧ろ、国同士の関係が良好で心配する余地がない(と私のような一般庶民は思い込めてる)状況だからこそ、他の問題、まずは信教に関心が向けられたのだ。人と人の関係は、まさか国籍だけではないのだから。

光とフランチェスコの2人に関しては大丈夫、寧ろ両者の家族同士の付き合いがどうなるかと毎度言ってきた。照實さんに至ってはイタリア語の勉強を始めるなど何とも微笑ましい。あの世代なら、まだまだ国際結婚自体に難色を示しても不思議はないというのに。相変わらずオープンで、娘の判断を重んじる、いや、そこから一歩踏み込んで協力していく。まさに彼のプロデュース・スタイルそのままだな。

In The Flesh 2010 footage は、当然、イタリアでも発売されるだろう。バスツアーが問題になる程度にはファンが居るのだから。なお、地元誌に取り上げられたからといってUtadaの知名度が上がった訳ではない(寧ろ有名になったとすればフランチェスコ一家の方)だろうからその影響は考えていないが、家族の皆さんがどんな反応をするかはちょっと興味がある。光の事だからわざわざ皆に自分から見せに行く事はないと思うのでそもそも存在を知るキッカケがなさそうだが、今度嫁に来るめんこい東洋人の歌の上手さを知ってもらったら…間違いなく宴会で毎度歌え歌えと煽られるのだろうな(笑)。ならばメタリカを歌って返してやればいい(彼らの知名度とキャラクターは万国共通ですから)。そういう空気を経ると、今まで以上に歌に対してリラックスした態度で臨めるようになるだろう。大家族の雰囲気というのが、気分がよくなってくると大声で歌い出すみたいな感じだったらの話だけど。案外シャイっつってたような。


妄想が過ぎた。春だし、結婚式が迫ってるし、光が幸せな日々を送れてたらいいなと。そう改めて思う火曜日の朝でございました。

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既述の通り、Movin' on without youのマスタリングに関してはハイレゾよりSHMの方が好みである。いや、もっと踏み込んで"より優れている"と言わせて貰おうか。この曲で大事なのは迫り来る"焦燥感"、即ち切迫感であって、それを左右から盛り立てるのがピアノとエレキギターだ。

ピアノは本質的に"打楽器"であり、エレキギターは歪ませるのが作法の弦楽器である。両者とも高調波成分に乱れが出るのが特徴で、そのささくれ立った感覚がこの曲にフレッシュでシャープなエッヂを与えている。ハイレゾは高調波成分が整理されてしまっており、何だかピアノとギターに迫力がない。一度聴き比べてみるといい。ただ、両バージョンは素の音量が違い過ぎる(SHMの方があからさまに音がデカい)ので、プレイヤーの音量を揃える機能等を活用の事。


Tribal Mixは、そのピアノもギターも総て削り落とし、ヴォーカル&コーラスとドラム&ベースのみのトラックにしたリミックスだ。Tribalとは「部族の」といった意味だが、恐らく打楽器と人の声だけ(ってベースは弦楽器ですけどねー)という組み合わせが"原始的な"感じを出している、とでもいったニュアンスで響きのいい言葉を選んできたのではないだろうか。私はこのネーミング・センス、なかなか気に入っている。

ハイレゾでギターとピアノのエッヂが減じただけであれだけ切迫感が薄れたのだから、こうやってまるごとギターとピアノの音をゼロにしてしまってはまるっきり切迫感のないサウンドになってしまうのではないか、というのが理屈なのだが、皆さん御存知のようにこのバージョンには独特の緊張感が漲っている。寧ろ、浮ついていない分余計"怖い"感じすらする。

その独特さの理由は、ヴォーカルのミックスにある。これでもかと限界までリヴァーヴ、即ちエコー(残響)が抑えられているのである。その為、イヤフォンやヘッドフォンでこのミックスを聴くとヒカルが耳元で囁いているような、いや、喉の中で歌っているような密接性を感じる。要するに近いのである。

この"近さ"が緊張感の源だ。ただでさえ、他の音が無い分、ヴォーカルから得る情報量が多いのに、こう声が近くてはいきおい声から沢山のエモーションを受け取らざるを得ない。裏を返せば、やはりこの曲の切迫感の殆どを担っているのはこの唯一無二唯我独尊のヴォーカル・ラインであり、ピアノやギターなんぞ結局露払いに過ぎないのである。その美点を、このヴォーカル&コーラス&ベース&ドラムスのヴァージョンは、あからさまな手法によって教えてくれる。

これはつまり、ヒカルの当時の曲作りが殆どドラムパターンとヴォーカルラインだけで構成されていた事を意味するものだ。COLORSのようにキーボードリフが必須だったり、WINGSからピアノを抜く訳にはいかないのとはちょっとばかし事情が違う訳である。

つまり、このリミックスによって、原曲の制作手法・手順まで想像が及んでしまうのだ。なかなかに罪作りというか、いい仕事をしたリミックスだといえるだろうかな。

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@utadahikaru
モーションセンサー式の照明は省エネでいいと思うけど、消灯までの設定時間が短すぎるトイレ、おまえはダメだ
2014年4月20日 23:25

@utadahikaru
用を足してる最中に急に真っ暗になってビビるの情けなすぎるし落ち着かないし、また電気がつくように暗闇の中で手を振りかざしたりしてる姿も惨めすぎる
2014年4月20日 23:27

@utadahikaru
は、はひ… RT @KY_ngs: @utadahikaru トイレ「設定時間内で済ませろ」
2014年4月20日 23:30


昨夜にツイートが3つあったのね。もう寝てたから知らなかったよ。とは言っても、これ、起きてたからといってリプライかましてたかというと、うーん(笑)。

こういう日常のさり気ない呟きはいろんなものに紛れているからいいのであって、久々の一言!って待ち構えてる相手に対しては何なんだか。という事はだ、書く方の都合だわな。これからまた幾つか呟く羽目になるんだが、その前にペースというか間合いというか、そういうのを取り戻しておこうと。

今日は誰かの願いが叶うころ発売から10周年記念の日。本人ですら引用する位、この歌の歌詞は普遍的で、それ故にいつまで経っても重い。31歳の今21歳の歌を聴くとまた違った感じもあるだろうが、国際結婚を経る事でまた今まで以上に国際情勢を気にかけるようになるだろう。今までもそうだっただろうが、友人が多国籍に渡る場合、各々の国同士の関係性次第で、疎遠になったりするものなのだ。

そういう時に多機能トイレの話ってえらくドメスティックだな。いや、海外から来た人の日本ビックリポイントのトップのうちのひとつが多機能トイレなのだから、ある意味国際的ともいえるか。新しい家族や友人を日本に招く時には、まずトイレの解説が必須である。なのに日本人の方が多機能トイレの扱いで戸惑っていては仕方がない。しっかり、消灯時間の調整方法もマニュアルを読んで把握しておくべきだろうね。

…マニュアルなんて読まないタイプだったかな、たぶん。

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折角なのでBonus Trackr Discの一曲目から行ってしまおうか。こういう機会でもないと、リミックス・バージョンの話をするだなんてもしかしたらもう一生無いかもしれないのだから。Exodus'04のアナログ盤収録のリミックスバージョンについて私が今後語りたくなる機会があるかというと、なかなかに厳しい。50%といった所か確率としては。それだったら多分オルゴール・バージョンについて語るモチベーションの方が高いだろうな。あ、来週また新しいオルゴールアルバムが発売されますよっと。桜流しとかキャンクリとか持ってない人も多いのでは。

でだ。リミックスというのはそもそもオリジナルに新鮮味を感じなくなった人が聴くようなものだから、私のようにどの曲にも大して飽きていない人間にはあまり要らないものである。余程楽曲の新たな魅力を見いだせてないと、結局オリジナルの素晴らしさを再確認するだけになってしまう。まぁそれはそれで役割を果たしてくれてるといえるんだけど。

恐らく皆さんがお馴染みであろうこのオートマのリミックス。一番馴染み深いくらいかな? このリミックスは「目的がハッキリしていて、割り切ってリミックスしている」という点で非常に好感が持てる。余計な事をせず、目的に沿った真っ直ぐなアレンジである。

私と同世代以上の人ならば、このリミックスを聴いた時即座にこう思った筈だ。「ジュリアナっぽい」と。四つ打ちのキック(ベースドラム)に左チャンネルに寄せて音色をクラップにしたスネア。右チャンネルでヴァースの裏打ちツービートからブリッジで16ビートに変化するシンバルワーク。そこに、管楽器とも弦楽器ともつかない安っぽいシンセのアタックが場を華々しく盛り上げる。サビの決めフレーズ"It's automatic."の直前に義務感のように盛り上がるドラムの連打も聴き所だろう。

何だか誉めるんだかけなしてるんだかよくわからない書き方になってしまったが、このリミックスはずばり「踊るため」という目的に沿って作られたものだ。誰でも知ってるってか。いやいや私そういう場所に行った事がないので雰囲気はよくわからないのだが、ヒット曲をアップテンポにして口遊みながら皆で踊って盛り上がろう!という普遍的なニーズに見事に応えたミックスである。もしかしたら技術的には誰でも出来るのかもしれないが(私は出来ない)、誰かが必ずやらねばならなかったミックスなのだから、これは非常に大事な事だ。オルゴール・バージョンの作成なんて学生のバイト程度の話だが、誰かが手間暇かけて入力してくれたから私たちがそれを楽しめる。非常に大事な事である。

そういう意味において、このJohnny Vicious Mixは、最もリミックスらしいリミックスと言えるだろう。捻ったアイデアはないが、ヒット曲を踊れるアップテンポでというニーズに見事に応えているのだから。まぁ、私はというと踊りたいと思わない(そもそもそういう発想が生活の中にない)人間なので、このバージョンをわざわざ聴きたいと思って選曲した事は未だに一度もないのだけど。こうやってオリジナルとの比較の為に聴くとかいう興味本位、或いはシャッフルでは非常にお馴染みなのだが。


しかし、あら、困った。First Loveのリミックスに関しても言いたい事は殆ど同じかもしれないな。もしかしたら飛ばすかもしれません。そりゃまぁその時になったら決めますわね。取り敢えず、次も曲順通りでMovin' on without youのTribal Mixを取り上げてみたいと思います。次、と言っても即次回なのかどうかは、例によって書いてる本人も定かじゃあないのだけど。Give Me A Reasonの歌詞の話の続きもあるしな。

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