無意識日記
宇多田光 word:i_
 



@u3music: そう願いたいです。生身の人間、特に心が繊細なので気を付けてあげたい。アップダウンは誰にでもあるさ。teruzane RT @show5rin ヒカルさんの体調は快方に向かわれているのでしょうか?詳細がわからず、すごく心配しています。ほんの少しでも状況を教えて頂けると嬉しいです……

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訊いてくれた方も応えてくれた方もありがとう。それが知りたい事でした。

もっとも「願いたい」って「わかんない」って意味だけどもね。彼がわからないと知れたのは大きな前進です。大事なこと、大事なこと。(…なので2回言いました)


そいや前回の話、「手袋じゃなくね?」と突っ込まれそうだけど、あれ実際何なんだろーね。何でもいいけれどね。あの写真が撮れた、撮られたという事実が重要なんだから。


独り言。意外かもしれないが、私はこの日記で他人を啓蒙したくない。それは意図していないのみならず、勝手にそうなっているとしたら積極的に否定したい、という感情である。私が他者に期待したい事があるとすれば、「自分で感じて、自分で考える」事だ。You can feel, you can think. 私の書いた事、考えた事をそのまま鵜呑みにするなんていちばんやってはいけない。必ず批判的に読んで欲しい。人が考える契機を与えたとすれば、それは間違いなく望外の喜びである。その上で私と意見が同じになったというのなら、その時初めて喜ぼう。

しかしそれは理想論だ。人は疲れる。自分の言いたい事や感じた事を代わりに書いてくれている人を見つけられたら嬉しい。俺だって嬉しい。わざわざ書く手間を、カロリーを、時間を節約出来るのだから。だが、ずっとそうやって読んでいると、いつの間にやら他者の思想に浸食、いや侵食されている。敢えて、ならまだいい。しかしその侵食は、大抵いつの間にか、無意識のうちに進んでいるものだ。この日記を読むなら、必ず疑って欲しい。眉に唾をつけてほしい。注意深くなり過ぎる事はない。

そう考える私だから、勿論Hikaruからのメッセージですら批判的に受け止める。Hikaruは最初「Twitterはやらない」と言っていたが、私はそうは思わなかった。必ずこのツールはHikaruの役に立つ、と。今後はどうなるかわからないが、今までの3年半は確実に役立っていた。Hikaruだって判断ミスをする。出来れば、それを事前に見抜きたい。

何よりも、「疑う自由」である。疑心暗鬼にならず、健全に、笑顔で人の言う事を疑うのは思いの外難しい。しかし、言い切ってしまおう。疑える事それこそが自由そのものであると。弱くても生きていける。そんな世界が私は好きだ。

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で、昨日の写真、「道路に挨拶されたので私も挨拶」。道端に落ちてる手袋を挨拶に見立てて自分の掌と同じにひとつのフレーム内に収めて挨拶をしかえす、という「見立て」とその見立てに乗っかった「反応」という二段階のセンス・オブ・ユーモアを重ねた作品。ここに、約一ヶ月ぶりで何呟いたらいいかわかんないけどラジオの再放送も始まるしこちらに注意を向けて貰う為にも取り敢えず何か挨拶しとかなきゃ、という今のHikaruの動機が加わった、というのがまぁ普通の解釈。それはそれでよし。

私が最初に感じたのはそこではなかった。Hikaruのユーモアのセンスは大概まるっと入ってくるのでそれはいいとして、頭に先に浮かんだのは「こいつに顔はあるのか?」という事だった。つまり、Hikaruが見た手袋の主は誰なのか、と。

「不特定多数」という言葉があるが、要するに「誰だかわからない」、つまり顔がない或いは顔が見えない存在という事だ。Hikaruは「特定多数」の相手には慣れている―というか経験豊富である。万単位の観客の一人々々の顔がちゃんと見える事を知っている。一方、顔の見えない存在―何かの組織名とか団体名とか―、もっと上げれば市民とか国民とか民衆とか、そういった"存在"が、掌だけを出してきて挨拶をしているのか、それともフレームの外にはよくよく見知った顔が在るのか、その2つで、解釈はまるで違ってくる。

顔のない手は恐怖の象徴だ。その手がこちらにいつ伸びてくるかと怯えている。顔のある手とはこの後握手、いや手を繋いで出掛けてもいい。拒絶する掌か迎え入れる掌か。Hikaruはこの、道に落ちている手袋の顔が見えただろうか見えなかっただろうか。冗談ではなく、これによって今後の運命が左右されるだろう。恐怖症というものは、こういう所に顔を覗かせるのである。

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再び?いやね、このタイトル去年の5月23日に使ったからさ。

それにしても驚いた。宇野維正さんがFL15の本を書き終え、照實さんが久々にツイッターに復帰、そして今朝はHikaruがジグソー以来の登場と、何だか流れが出来ていたところになんとまぁ「Hikki's Sweet & Sour」の再放送が決まった。ヒカルがデビュー前の98年10月からDJをしていたという伝説的な番組である。InterFMも何を考えているのやら。素晴らし過ぎるじゃないか。

大体、15年前の番組の再放送ってラジオじゃ異例中の異例なんじゃないの? テレビなら、アニメなんかで一昔前の作品を再放送する事はあったりするが、ラジオじゃ聞かないねぇ。リピート放送ならあるのだけれどな、次回放送分までにもう一回放送という枠組みで、今言ってる再放送とは全く違う。

それにしても、HikaruがよくOKを出したものだ。あいつ絶対イヤなんじゃないの。歳をとって達観してしまえば「私もあの頃は若かったんだな~」と過去を愛でる事も出来ようが、31歳が15歳を振り返るだなんて恥ずかしさしかないんじゃないか。ちょうど前回の熊淡で、自分はAutomaticでブレイクしていた当時無邪気過ぎたと述懐していたが、その無邪気さを延々聞かされ続けるだなんて、罰ゲームとしか思えない。

…罰ゲーム、なのかな? 確かに、番組を10回中3回休んでおいてバラカンさんから「あのさー」と再放送を提案されては、断れる術もない。どれだけ嫌だろうと返事はYESしか有り得ない。うぅむ、弱みにつけ込んだみたいだが、ぐっちょぶとしか言えない。これで禊ぎになるなら、Hikaruも望む所だろう。

しかし、これ、Hikaruは聴くのかな聴かないのかな。事前にチェックとかしないのだろうか。自分に対するツイートの話が総て番組に関連する内容だとしたら、みんなが盛り上がってる中で肝心の本人だけが、何の事やらわからないという妙な事態になったりする訳だし…そこまで突き放すのもどうかなぁ。案外、「もう幼すぎるので逆に聴いてみたい」位になってるのかなー。それならそれでまぁ。


しかしこれで、やっとBiographyの謎が解けた。ずっと「1998.10.8」にこの番組がスタートした事になっていたのだ。これだと、曜日が合わない。今回第一回の放送日が「1998.10.4」だと判明したので、今後は堂々と"宇多田ヒカル"のBiographyのスタートは「1998.10.4」だと書く事が出来るようになった。今年以降の【今日は何の日】を書き直さないとな…。あ、明日は【明日は何の日】が久々に出るな。独り言すいません。


さて。これで2月3月は大忙しである。毎週土曜日一時間、熊淡一時間×2に、FL15のリリースが挟まる。カラオケアルバムを聴いて未公表音源を聴いて更にLUVLIVE鑑賞…毎月熊淡を何度も聴き返す身としては、時間が幾らあっても足りない。冬アニメ何本かとっとと切っちゃおうかな。


んで。いちばん気になるのは、土曜日の昼に無防備にInterFMに周波数を合わせてしまった人たちの反応だ。まさかラジオで15年前の番組を再放送するなんて発想はないだろうから、混乱する事間違い無しだ。これは本当に悪辣なドッキリ仕掛けだぜ…。(褒め言葉)


うげぁ、いちばん肝心な、Hikaruの最新ツイート&写真について語る時間が足りなくなってしまった。それについてはまた次回ダナ。

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先週土曜日のオフ会に出た話を備忘録的にメモ。今回、参加者のうち二割が初めての人だったのだが、一人も"Flavor Of Life"でファンになった、という人が居なかった。これは、結構な確率である。

FoLは宇多田ヒカル最大のヒット曲である。アルバムは物凄い数を売っているが、シングルCDはAutomaticの二百数十万枚が最高で、これも8cmと12cmの合算だ。如何に複数の着うたの合算とはいえ、800万ダウンロードのインパクトはデカい。本来なら、若いファンの殆どはこの曲から宇多田に入ったと答えるように思いがちである。

しかし、今回初めて会った人たちの一番人気はキングダムハーツ関連、つまり光とPassionだった。まぁこういう場合、サンプルが少ないので出てきた事例について何かを語るのは難しい。しかし、"ひとつも出てこなかった"という事例はサンプルが非常に少なくても意味をもつ。FoLの名前が殆ど出てこなかったのは注目していい。

単純な帰結として、オフ会に顔を出してみようという人は相当に熱心なファンなので、FoLはそういう人たちを掘り起こしたタイプの曲ではない、と言えるのではないか。薄く広く宇多田ヒカルの名前を世に示したが、ではずっと応援していく気になったかというと、実はそんなでもなかった、という。結構安直だが当たっていると思う。

例えばPassionの売上は、ひょっとしたらFoLの100分の1とか、そんなんである。それは少しオーバーにしても、消費税が変動しただけで消し飛ぶような数字である事は間違いない。しかし、この曲で"ヒカルの虜にした数"は相当のものになっているのだろう。ゲームという媒体の力は大きいが、それと共に、楽曲の性質がそれをさせていると考えるべきか。

両輪が必要なのだ。たまにはFoLのような"誰でも知っている歌"をリリースして、社会的な認知度を上げておく。その中で、様々な"挑戦的な"曲を発表していく。熱心についてくるのは、そういったコアな楽曲に魅了された人間だ。そのバランスが保てるのなら、ヒカルのファンは少しずつ増えていくだろう。数としては地道なもんだが(年に数百人単位かな)、積年すれば風景も変わる。FoLからちょうど7年、そろそろそういった"大ヒット曲"があったらいいなな間隔が空いてきているが…さてさて、どうなりますことやらですわな。

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ミュージシャンとしてヒカルが復帰する際にいちばん肝心なのは「役に立たない覚悟」であると、私は思う。

音楽家稼業も、それが商業的活動である以上社会に貢献している点は疑いがない。しかも、"宇多田ヒカル"クラスになると、言い方は悪くなるがそれに群がって仕事を得ている、という人が山ほど居る。サザンやミスチル、ジャニーズやAKBなんかもそうなんだけど、そのほんの一握りの(秋元さんちは何百人とかみたいだけど)超ビッグ・アーティストに支えられて音楽業界は成り立っている。彼らが稼いでくれないと、「アルバム3枚位は新人の成長を待ってみるか」なんて悠長な事は言っていられなくなるのだ。そういう意味においては、勿論"宇多田ヒカル"の復帰及び音楽家活動の社会的意義は大きい。


ここで私が「役に立たない覚悟」と言っているのは、しかし、そういった話ではない。もっと直接的な事である。医者なら手術で人の命を救えるとか、消防士なら火災を防いで命を助けるとか…いや、もっとシンプルな事でいいや、タクシーで隣町まで乗っけて貰うだけでもいい、そういった、社会を円滑に回す為の歯車の役割を、音楽は担えない。せいぜい、盲人の為に交差点で流す音楽を提供する位だろう、わかりやすく言えば。それが「娯楽・文化」としての音楽の位置付けなのだ。

特に、ヒカルはポップ・ミュージシャンであるから、"役に立つ"即ち"誰かのしたい事を助ける"という機能は全く持たない。繰り返すが、これは"実感"の話である。ヒカルがボランティア活動等に興味を持ち、恐らくこの3年で取り組んできた事は、私の想像になるが、その日その場で「手伝ってくれてありがとう」と言って貰えるような様々であったのではと考える。それは、歌を作って歌う事では得られない"人の役に立つ実感"であり、まさに人間活動の中核を担うものであったのではないか。

この勝手な妄想に拠って立てば、ヒカルがミュージシャン活動に戻るという事は、そのような地道な実感を再び手放すハメになる、という結論になる。それは、ヒカルの性格上、結構キツい道な気がするのだが、音楽に携わるというのは、本来そういうものなのだ。歌は何も出来ない。人に何かを、自然に何かを強いる事は出来ない。ただ空気に溶けて消えていく存在だ。ピタゴラスの定理のように、未来永劫人類の役に立ち続ける業績とは正反対。歌が未来永劫語り継がれても、未来の人も私たちと同じように鼻歌を歌って楽しむ。何も違う事は起こらない。人を病から救う事もないし宇宙の星々に連れて行ってくれる事もない。

それでも歌う気になれるのなら、戻ってくるべきだと思うのだ。ヒカルは音楽以外の才能もあるから、人の役に立つ業績を別の分野であげられるかもしれない。その可能性を捨ててまで"誰の役にも立たない"この仕事に戻ってこれるなら…もっといい歌が出来るだろうなぁ。そうなったら、私は嬉しい。

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宇野維正さんがFL15用の「本」の制作を終えたという事で、これは限定盤に付属するものと考えていいのかな? 160頁という大ボリュームは凄いが、これが宣伝されると予約も伸びるだろう。BOXSETものというのはどれだけ付録が充実するかで随分変わる。このままいけば今回の限定版は15000セットで確定しそうだけれど、内容の充実度によってはこれではやや数量が足りないかもしれない。いやまぁファンには十分行き渡りますけれどね。

特に反応が大きいかもしれないのは発売週一週間の各ニュースだ。この数が一週間で捌けると、かなりの確率でアルバムチャートTOP10に入ってくる。発売曜日が中途半端だし同週に何が発売されるか私は把握していないからそれ次第なんだけど、このニュースによって改めて記念盤の発売を知る人、及び価値を見直す人が出てくるだろう。そうなった時にどれだけの反応が返ってくるやら。あれ、今のオリコンとかって限定盤と通常盤って別集計だっけどうだっけ。まぁ一万枚ちょっと売れれば可能性が出てくるのでいいんだけど。要はニュースになればいいのだから。

で、反応があった時点でどれだけ中古盤が売られていて値段はどれ位なのか、というのがポイントになるのだが、「本」が充実しているとなるとここで状況が違ってくるだろう。また、勿論、未公表音源の評判も主にWebを中心として上がってくる。そこらへんの動きまで加味して「15000枚の行方」を注視しなければならない。

まぁそんな市場的な話はいいんだ、本来。これを買ったあなたが満足するかどうか。何よりそれが大切である。15000円って大金で、iTunesStoreでアルバム10枚、100曲以上購入出来る。ジャンプコミックスならスラムダンク全巻買えるかな? 今の値段よくわからないけど、果たしてそこまでの満足感をこのBOXSETは与えてくれるかどうか。

勿論、ここを読んでくれている読者なら、寧ろ今回の購入は「デビューしてくれて有難う」という感謝の気持ちをダイレクトに伝えられるよい機会になる訳で、購入を躊躇う必要は全く無い。たとえコストパフォーマンスに合点がいかなくても、支援というのはそういうもんだ。これからの活動に対する期待料である。その期待が裏切られれば当然ファンも減るだろう。いろんな意味で3月の発売は試金石になりそうだ。そろそろ生産が始まる頃だな~。

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ヒカルは、中途半端なものだったら出さない方がいい、という哲学で今まで来ている。世に出すものには責任を持ちたい、という理念があるからだろう、その態度は、ちょうどインターネット時代に最適だった。少しのキズから瞬く間に傷口が広がっていくリスクを考えると、出力は極力吟味し、絞り、選りすぐるのがよい。

これは学習の結果であるので、もう後戻りをする必要もないが、今初期のメッセージを読み返すとやっぱり懐かしい。今は感じられない、「共に悩んでいる」感覚が、そこにはある。ヒカルとファンの間には同時性があった。今それをやってもやたらと炎上するだけなのでやらなくてもいいけれど、あの頃は単純に「ヒカルの言葉がたくさんあった」のだ。その点については「昔はよかった」と言っていいかもしれない。

もっとも、それは「過去のある時期が羨ましい」というだけで、例えば2006年度前半はもうず~っとヒカルだらけだったし、離婚してから後も新曲攻勢もあって随分ヒカル尽くしだった。単に今が人間活動で言葉が少ないだけで、戻ってきたらまたそういう時期が来るだろう。楽しみである。

ただ、ポジションは「姐さん」なんだろうな、とは思う。共に悩むというよりは、有り難い教えを請う相手、みたいな感じになっていきそうだ。何ていうの、彼女は今まで余りにも悩み過ぎた。苦悩を知り尽くした。よって、人々の悩みは総て彼女の通ってきた道、或いは解き解いた道となっている。彼女に人生相談を持ち掛ければ、たちどころにとは言わないまでも、よい糸口が必ず見つかるだろう。

それでも、彼女の悩みは尽きない。そしていつものように、1人で悩むのだろう、かな。話し相手はくまちゃん位。彼女が"悩みの途中"を我々に吐露する事は、もうないだろう。何か出来上がってからでないと口を開かないのだから。それはそれでいい。多分そういう面は、実際に身近に居る人にしか出さないのだろう。我々は、もう知れない。

確かに、それは寂しい事なのかもしれない。しかし彼女はもう31歳、何をやってもプロフェッショナルだ。どうしてもそうなっちゃうよ。"一緒に成長していく"、というのも烏滸がましい。でも、なんだろうね、そこまで人間強くない時もあるんじゃないかな。誰かを信じられるのなら、信じてみてもいいのかもしれないよ。俺の言える科白じゃあ、ないのだけれども。

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そういえば今は表現規制というとある民放ドラマの話が盛んなんだっけか。昨日のエントリーは一般論についてであって、個別の事例は頭になかったという事は強調しておきたい。

やはり、いちばん大事なのは「知らない」「わからない」と平気で言える空気を作る事だろう。何がいちばんまずいって、情報も出揃わないうちから価値判断を持ち込まれる事だ。無関心にならず、しかし知識は蓄える、というのはかなり難しい。みんな真っ当な議論なんかしたくない。とっとと自分の立場をハッキリさせて、考えるのを止めたい。この誘惑に抗うのはとても難しい。

確かに、時に慎重さは初動の遅れを招く。しかし、あなたが時事ニュースの中で"初動"に入れるような当事者であるケースは、一体生きているうちでどれ位あるだろう。殆どのケースでは"蚊帳の外"ではなかろうか。あなたは当事者ではない。ほぼ総てのケースで、そう言える。


宇多田ヒカルとその周辺に関していえば、私は全く当事者ではない。何も力になれないし影響力もない。なので、数少ない情報の中から、こうだったらこうだろう、ああなったらそうなるかもしれない、という仮説と妄想を繰り広げるだけだ。私は常に当事者ではないので、特に"自分の立場"みたいなのを表明する気はない。その為、今日言っている事と明日言っている事が正反対になる事もある。それを"ブレている"と評する事も可能だが…されないか。

なので、立ち止まって考えるのを止めないで欲しい。悪者を作って攻撃して、早く安心したい気持ちはわかる。自分が当事者ならそれもありだろう。アニメの中のキャラクターに感情移入するように、しかし、現実の他人に対して感情移入し過ぎるのはよくない。もしそれをするのであれば、"悪役"の人たちの気持ちになってみる事も必要だろう。味方の気持ちを、あなたは本当に理解できるのか。敵の気持ちを、あなたは本当に理解できないのか。結局は程度の問題なのだが、そこらへんの中途半端さにも耐えられる…愛せるヨユウを生み出すのが、いちばん難しいだろうな。必要な事なんだけれど。

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前回は国、という括りを意識して発言したが、どうにも感覚として大事なのは、まず、日本語を使っているかどうか、そして、価値観が共有できるかどうか、だろうか。

極端にいえば、同じ日本人より、地球の裏側に居るUtada Hikaruファンの方が気が合うかもしれないし、生涯に渡っての関わり具合も多いかもしれない。インターネットの存在がそれを可能にしている。

となると、ここでも話を飛躍させれば、Hikaruは、この国が窮屈になったら飛び出せばよい。あれ位の知名度があれば、それなりの文明国で就労するなり国籍をとる・亡命するのは可能な筈だ。ユニバーサル所属というのはこういう時に強い。今や、企業体というのは巨大化の一途を辿り、小国に匹敵する規模を持っていたりする。レコード業界では、UMGがその最有力だ。それはまぁいいんだけど。

つまり、何が言いたいかというと、たとえこの国で言論弾圧が始まったとしても、どこかもっと安全な国や地域で活動を続けると、日本語による表現であっても、その弾圧を逃れられる可能性がある、という話である。Utada Hikaruとして音楽活動を続けるのは、この国がおかしくなっても支障はない。

真に問題を抱えるのは、そう、勿論我々の方である。たとえHikaruが海外で日本語の歌を作っても、日本語でメッセージを発したとしても、果たして我々に届くかどうか。検閲というのはそういう事だ。今の大国について伝わってくる話。検索にひっかからないとか、アクセス禁止とか。そうなってくる。

ただの妄想の話だが、政治的な状況によっては、そう遠くない未来にそれが危惧される状況がやってくる。その時、Hikaruはどういう手段をとるか。コトは単純ではないが、この国に留まるか否かの選択は迫られるだろう。何しろ、「前世」が「ゼンセ」に変えられた事ですらギリギリの決断だった人なので、大幅な検閲が行われる国で活動を続けるとも思えない。そうなる前に政治的活動に手を染めるか、或いは、創作活動に専念し、国に拘らずにその時々で最適な環境を求めて移り住んでいくか。今んとこ後者な気がするが、いちばん平和なのは勿論、この国がそんな風にならない事だ。これからも当欄では政治的な話題を取り上げる機会は少ないだろうが、表現の自由の確保にだけは、こだわり続けたいと思う。でないと、結構あっさりHikaruは、この国から身を引いてしまうかもしれないと思うから。でも日本という土地から離れても、日本語という言語から離れるのは容易ではないかもしれないな…という話からまた次回。いや、話題変えようかな。あんまり楽しくないよね
、こういうの。

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この日記は、読み物としては啓蒙からぐっと離れて、娯楽に近いものとして書いているつもりだ。常々、「自分で読み返してみて面白いと思えている限りは続く」と言っているのも、他者に何かが"伝わる"かどうかを第一目的としてはいない事の顕われである。勿論、それが目的のように読める内容も含んではいるのだけれども。

そんなattitudeなので、政治ネタを扱う事は少ない。極力排除している、と言うより、読み返してみたらつまらない可能性が高い内容になりがちなので、自然と候補から外れる感じである。従って禁忌ではない。ただ、それが「表現の自由」と関連するとすれば話は別となる。何故なら、こういったBlogに書く内容を外側から制限されるかもしれないとなれば、存続自体が危ぶまれるからだ。

今の日本は、政治的にはまだまだそこまでは行っていない。しかし、なぜだか普通の一般人の方から、表現について圧力をかけるような風潮が、インターネットのみならず増えている。これはどういう事なのか。

第二次世界大戦までは、この国は完全には民主制が機能していなかった訳で、それぞれの戦争は極一部の人間に責任を押し付けておけばよかった。天皇が、内閣が、政府が、軍が、新聞社が、それぞれ暴走したと言っておけばよかった。しかし今の制度下では、最も権力を持っているのは一般大衆である。クーデターでも成功しない限り、民主的に選ばれた人間が権力を持つのだからなかなか言い訳がきかない。

つまり、この、日本語を最も使う国は、自分で自分の首を絞める可能性を持っているという事だ。確かに、多数決が主体の方法論では、少数派には言いたい事が山ほど出てくるだろうが、問題は、本来の民主制の主旨である"少数派にも配慮した"体制を維持できなくなる事だ。つまり、言論の自由、表現の自由、多数派に抗う自由である。

私が前から言っている"謳う自由"とは、そのまま表現の自由である。そしてもう一対、"疑う自由"とは、表現が攻めなら守りの方、多数派の意見、即ち宗教的政治的多数派の思想信条に抗う自由、受け入れないでもいい権利を保証する事である。今の日本は、前者にも検閲や規制が強すぎるように思うが、そちらはまだまだ耐えている。問題は、後者が守られているか否か以前に、意識すらされていない、蔑ろにされている現状の方だ。法的に保証される前に、大衆レベルでの圧力が増している気がする。それに対しては、何としても抗わなければならない。

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で、昨日その「2013年HR/HMで印象に残った曲」をYoutubeのリンクで呟きながら思ったのだ。「これってラジオやな」と。

あれは私も曲を聴きながらかけた。というか、曲を聴くついでに呟いていた。私のコメントはツイートなので勿論字だが、読み上げソフトを使って音声化し、続いてYoutubeのリンクを踏めば、DJが曲紹介して曲が掛かる、というラジオ番組の流れが出来上がる。Youtubeのリンクはどれもオフィシャルなものだし、例えばもう一歩踏み込んで読み上げ音声をYoutubeにUPLOADしてそのオフィシャルリンクに挟み込んでプレイリストを制作すれば、本当に疑似ラジオになるだろう。いやはや、凄い時代になったものだ。

私がここで言いたいことは簡単である。「クォリティーを無視すれば、一時間のラジオ番組なんてすぐ作れる。」

さて、Hikaruは今後どうすべきだろうか。体調不良になったら、番組を休むべき? ここで立ち止まって考えてみよう。本来なら、仕事に何度も穴を空けていけばおろされる。クビである。しかし、体調不良なんだし、何より、Hikaruは請われて受けた仕事だ。そこは何というか、許される。

でもHikaruはそうは思っていない。今のように「許される」と開き直れる性格ならよかったんだけども。今も申し訳無くしょぼんとしているに違いない。笑っていいともで3年越しにタモリに謝った人である。そんな昔の事はもういいよ。

それだけなら、まだ、なんだな。ここに足し算して「凝り性のクォリティー厨」という性格もあるから、話がややこしくなる。「やるからにはクォリティーの高いものを」と頑張ってしまうのだ。そこで力み過ぎて、放送に穴を空けてしまう。

幾つか私も案を出してきたが、予め不測の事態に備えて一時間分の編集音源を作っておけばいいのに、クォリティー厨はこう考える。「そんな余力があるんなら、番組制作に注ぎ込む」と。だから、Hikaruの場合楽曲制作がその最たるものだが、没がない。いや、あるにはあるよ。Celebrateの身代わりになったバラードとかね。しかし、基本的には、今やってる事を最高のものにするまで妥協しない、という態度で来ていて、今までの熊泡七回からしても、やる毎にクォリティーが上がっていて凝っている。それ自体は素晴らしい。

問題はそこなのだ。楽曲制作にその態度を貫くのはいい。しかし、ラジオ番組制作もそれでいいのかと。もっと肩の力抜けばいいんじゃないのかと。一度スコッチを飲みながら番組を収録していたけれど、あれも多分「飲まないとどうしても余計な事を考えてどうすればいいかわからなくなるから」みたいな真面目な理由なのだ。赤塚不二夫か君は。真面目も度が過ぎると中毒になるんだぞ。

そうか、もうひとつ足すべき性格があった。「ギリギリアウト」だ。彼女は、境界線とか限界を追求したがるたちなのだが、しばしばそのラインを超えてしまうのだ。Passionの話が未だに印象的だが、Popsの枠のギリギリを狙って、その内側に留まろうとはせずその外に出てしまう。「宇多田、アウトー」である。年末かよ。

その性格も、災いしているかもしれない。「ほどほどに頑張って、これくらいでいいか」が全然出来ない。だから、番組が出来てそれが頗る楽しいか、番組休止かの2択に収束してしまう。ほどほどを保ってコンスタントに、というのが出来ない。それがお陰であの最高の作曲能力が担保されているのだから、痛し痒し。この問題は、そうそう簡単に解決出来るもんじゃないな。

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昨日の夜は「2013年HR/HMベストチューン13選」を呟いてみていた。今の邦楽を聴いていると、なかなか名曲に巡り会えず「ひょっとしておいら若い子たちの感性がわからなくなってる?」と自分の老いを心配して不安になるのだが、こうやってHR/HMを聴いていると大ベテランから中堅から新人まで満遍なくチョイス出来る。このジャンルが伝統芸化している、というのも多分にあるのだが、まぁでも結局、「今の邦楽シーンには才能が集まっていないのだなぁ」という結論に落ち着いて、今度は逆に「今の若い子はこの程度で満足しているのかなぁ」と彼らの事を心配し始める。

何しろ、我々の世代からすればブルーハーツも XもドリカムもB'zミスチルも何もかも皆デビューをみた"新人"だった訳で、その上彼らは概ねデビュー2、3年目位にはもう才能が全開だった。しかし今のアーティストは成長までに時間がかかる。デビュー10年で漸く芽が出るとかそういう感じ。青田買いが進みすぎたせいなのかどうかはわからないが、デビューしてすぐ若者を全国規模で熱狂させるような感覚は少ない。そう考えると、いきなり一曲目から別格扱いだった宇多田ヒカルのデビューなどは彼らにとって御伽噺でしかないのではないか。

この度その、"千年紀最後にして最高のデビューアルバム"である「FIRST LOVE」が、15周年記念盤として再発される。後にHikaruが作り上げていく数々の名盤たちと較べれば少し素朴な感じもあるが、楽曲のクォリティーは最初っからバカ高い。今の若い子たちがこのアルバムを聴いてどう思うのか、その点に興味がある。

もう15年だ。もしかしたら若いファンの中には、このアルバムを通して聴いた事がない人も居るかもしれない。Single Collectionだけ買って、或いはUTUBEだけ観てそこで止まっているかもしれない。彼らはAnother ChanceもGive Me A Reasonも知らないのだ。そして何より、このようにデビュー一発目からクライマックスという贅沢感がわからない。当時16歳の少女がここまでやってのけたという事実と、今自分たちが聴いている音楽とを照らし合わせて、老人の懐古趣味ではなく、本当に「昔は凄かった」んだという事を実感してうただきたい…

…のだが、安い方でも4000円するCDいきなり買ったりしないよねぇ。寧ろ、今回の発売で話題になって、あらためて中古盤コーナーで投げ売りになっている15年前の「FIRST LOVE」を買う気になってくれれば、いいんだけどな。

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「体調不良」という四文字熟語がこれ程不気味というか不穏というか薄気味悪い感じを出す事も稀ではないか。妙な沈黙が妄想を加速させる。勿論、悪い方にだが。

圭子さんの30年前の"小綺麗な"歌声を聴いて、そういえばHikaruは扁桃腺どうしたんだろうというのが頭を過ぎった。若干病名は違うかもしれないが、2009年5月に引き続き2013年5月にも似たような部位、似たような症状で仕事に穴を空けている。それに責任感を感じて、扁桃腺の切除などの手術に踏み切っていたとしたら。そして、その後に「流星ひとつ」を読み、圭子さんの声が手術によって変わってしまった事を初めて知ったとしたら。(彼女は扁桃腺じゃないけど)

と、いう風に悪い方向に妄想が進んでしまう。恐らく、そんな事になっている可能性はほぼ無い。色々理由をつける事は出来るが、宇多田ヒカルが藤圭子のコアなファンであり続けた以上、70年代と80年代で藤圭子(藤圭似子)の声質が変わってしまった事なんぞ、疾うの昔に御存知だろう。今更ショックを受ける事ではない。

いや、声質の変化は聴けばわかるが、もしかしたらその原因が手術だった事は知らなかったのかもしれない…とも考えてみたが、その可能性も低いだろう。圭子さんの喉にメスが入ったという話は昔から知られていて、別段新しい事実ではない。それに、母親なのだから、娘にそういった話をした事もあったのではないかとみる事も出来よう。やはり、今更そんな事で驚きはしないだろう。

それでもやっぱり不安である。ヒカルの声だって唯一無二だ。それが損なわれでもしたらと思うとゾッとする。

ただ救いなのは、もし万が一仮にそんな事態に陥ったとしても、Hikaruはソングライターなので、その"新しい声質"にそぐう楽曲を創作すればいいのかもしれない。言うは易し行うはキヨシ、じゃなかった行うは難しだが、そういう事をすればカバー出来るかもという"望み"があるだけ随分マシである。


冒頭で不気味とか薄気味悪いと書いたのは他でもない、「体調不良」以上の公式ステートメントを"出す事ができない"状態に、マネジメントもレコード・レーベルも本人も陥っているのではという懸念が出てきてしまっているからだ。ファンとしてはここで疑心暗鬼にならず、「信じて待つ」のが正解なんだろうけれど、やっぱり何かが引っ掛かるのだ。これ以上憶測と妄想を垂れ流すのは憚られるのでここらへんで打ち止めとしておくが、ここまでワクワクしない"悪い予感"は久々である。単なる杞憂であってくれればよいのだが。


こんな時こそ、くまちゃんが登場してくれればいいんだけどなぁ。「千円~! 富~!! 名声~!!!」 …いやそっちじゃなくて。(笑) でも、確かに、扁桃腺炎の話より"返答千円"の話の方がずっと楽しいやね(笑)。

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例の"新曲"2曲を聴いた。母子舟の方は世間の荒波に揉まれながらも女手ひとつで子を育てる母の物語で、恋して母はの方は子持ち主婦の不倫の話。いずれも藤圭子としてのリアリティはなく、普通のド演歌の役回りを演じた、というだけの事で、何だろう、正直ほっとしたかな。ヒカルがこれを聴いてもそんなに精神的に大きなものが来る気配はなさそうだ。親が不倫の歌(っつってもシングルマザー設定なら不倫じゃないか、その場合はネグレクトだな…)を歌ってるのは気分のいいものではない…ってお互い歌手だからそこらへんはわかってるか。この頃は照實さんとも別れてないだろうから女手一つというのも違うだろうし…ってスタジオ代の為に車売り払う家庭をそんな常識的な感覚で捉えようとしても仕方がないかな、ハハ。ともあれ、曲調としても、あと2、3年早ければウケたかもしれないって感じのやや時代遅れなものだし、「圭子の夢は夜開く」みたいな私小説的存在感もなくただ普通の演歌を歌っているとくればまぁお蔵入りもむべなるかなというか


そんな事より驚いたのは彼女の声である。最初、本当に「藤圭子の真似が上手い誰か」が歌っているような感覚に陥った。これが、「流星ひとつ」で圭子さんが最も拘っていた"声質の変化"なんだね…何故彼女が復帰した時に"藤圭似子"なんていうよくわからない改名をしたのか謎だったのだが、確かにこれでは合点がいってしまう。技術的には全く衰えていないし、寧ろもっと様々な曲調に挑戦できる普遍的な声質になっていると思うが、確かにこれは"あの藤圭子の声"ではない。単刀直入に言えば、あの声からこの声になったのだとすれば気が狂っても仕方がないかもしれん。となると、病院嫌い医者嫌いになっていた可能性もあるな…。

「流星ひとつ」を読んでない人に解説しておくと、藤圭子はキャリア中途で喉の外科手術をして以降声質が変わってしまった、という話である。原因がハッキリしているらしいだけに、及び、その手術は圭子さん自身が望んで受けたらしい事を考えると、彼女の性格も相俟って、自身の事を怨む以外なかったのかもしれない。自分自身を呪う事は世界全体を呪う事と同義である。事情を知らないでこの2曲を聴けば「へぇ、藤圭子も随分小綺麗な声になったじゃないか」と軽く捉えるだけだけれども、そういう意味では、ヒカルにとっても改めてショッキングなトラックかもしれない。歌詞じゃなくて声質が、ね。

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昨年紙ジャケ再発されたスイスのプログレ・バンドIslandの唯一作「Pictures」(1977)を聴いているのだが、このアルバムの何が問題ってボーナス・トラックの"Empty Bottles"がいちばん素晴らしい曲だという事実。しかも23分半もある。どうみてもこのアルバムのメインこの曲だよね…

…だなんて風な書き出し方で始めてみたくなったのは他でもない、一応この日記は"ある一人のミュージシャン"について語る日記だという事を思い出したくなったからだ。今月音楽の話題が少なすぎるんじゃないかと自戒中でござる。

本来なら、昨日放送される筈だった熊淡8の選曲をネタにあれやこれやと語る流れだったのだが、そうもいかず。さて果たして、藤圭子の"新曲"2曲は、語るに足る内容なんだろうか。

そもそも私は元々藤圭子のファンでも何でもなく。ヒカルが絶賛するから聴いてみた、という順番だ。なので、光は嫌がるかもしれないが、いつまで経っても彼女は私にとって「宇多田ヒカルのお母さん」である。

歌手として母親であるという側面をみせたレパートリーが他にあるのかあったのか、私は知らないのだが、ひとつ言えそうな事は、その内容によっては、今後のヒカルの活動の参考になるかもしれないなという点だ。

ヒカルもいつか子を生み母となるかもしれない。ならないかもしれない。それはわからないが、そうなった時、ヒカルは母としての歌を唄うだろうか。これはずっと語られてきた論点だが、今回のリリースのお陰で、ぐっとその可能性が身近に感じられるようになるかもしれない。ちょっと期待している。

まだ私は聴いていない。聴いちゃったら言えないような事、言えなくなるような事は、今のうちに先に言ってしまっておきたい。

まだクレジットも見ていないのだが、話によると作詞に圭子さんは関わっていないんだとか。お馴染み石坂まさを氏の名前があるようだが、「流星ひとつ」をよんでみるに、彼の才能とはつまり藤圭子あってのもの、という雰囲気が漂ってくるので、つまり藤圭子の歌声が彼をインスパイアして歌詞が出来上がる、という構図を今私は思い浮かべている。なので、もしかしたら、圭子さんが作詞に携わっていなくても、随分と彼女の心情を斟酌した内容になっているかもしれない。わからない。

ただ、今までお蔵入りになっていたというんだから、彼女自身もそのクォリティーに満足出来ていなかった、という解釈も出来る。歌には果てしなく厳しい人であったらしい事が窺われるので、そういう意味では故人の意に反するリリースなのではないかという懸念は、どこまでも残る。

あ、Amazon在庫切れなんだな。「通常2~4週間以内に発送」になってるね。

で、だ。ヒカルは詞が書ける。それも日本一巧く。そういう人間が、他の人の作った歌の歌詞からインスパイアされると想定するのは何ともこそばゆいが、まだまだ遠い未来かもしれないとはいえ、この2曲がもたらす影響は無視出来ないものとなろう。そういう意味に於いても、冒頭で私は藤圭子のファンではないと言ったが、ちゃんとチェックしておこうという気になったのだった。

さて、どうなるやら。ちゃんと"ある一人のミュージシャンについての日記"の体裁を整えられますかどうか。少しばかり、楽しみです。大半の感情は不安と心配だったりするんですが、この際なのでそれについては予め諦めておきます。どうしようもないからね~。やれやれだぜ。

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