無意識日記
宇多田光 word:i_
 



固定化されたファンクラブを持たないヒカルにとって、最大の顧客は浮動層である。我々がどんなに頑張ったとしても、売上上は極々少数に過ぎない。彼女が大ヒットを飛ばしたらその勢いで吹っ飛んでしまう程の人数しか居ない。悲しいけどこれ、現実なのよね。

桜流しも、PC配信だけで25万DLを超えたから(プラチナ認定らしい。おめでとう!)、やっぱり我々の存在感は非常に薄い。しかし、DVDシングルとなると違う。今週のオリコンチャートで1000枚弱積んで累計で3万枚を突破した。これ位になってくると我々の存在感は非常に大きくなる。"計算の立つ層"が固定されているのは強い。

ある意味、ヒカルが売れない曲やらをリリースした時こそが我々の出番なのである。結構誇らしいかも。またヒット曲を出したら影が薄くなるんだけども。多分、次の大ヒット曲が出た時私は「なんとなく寂しいなぁ」なんて贅沢な呟きを書いているのではないかな。それでいい。それがいい。

とはいえ、そんな事ばかりも言っていられない。我々の他に、あと何万人かは浮動層で、「他の作品を買っていたかもしれないけれど今回は桜流しを選んだ」という人々である。ちな!みに今私が書いている「我々」とは「ヒカルのリリースなので選ぶまでもなく当然買った」という人々を指す。もしかしたら次にヒカルが出す曲がつまらなかったら私は買わないかもしれないので私はもしかしたらその「我々」に入らない潜在的可能性もあるにはあるのだが、未だかつてヒカルがつまらない新曲を出した事はないので行動主義的には後者の「当然買う」層に分類されていても当面は(もしかしたら永遠に)支障がない。まぁそんなどうでもいい話はさておいて。

桜流しは、特にそのミュージックビデオは浮動購買層の心をどれ位動かしただろうか? DVDシングルで3万枚を越してくるというのはなかなかに好成績だ。

何度も書いてきたように、日本の音楽ファンにはDVDシングルを買ってきて鑑賞するという"習慣"がない。この障壁はとても大きく、クリティカルだ。その中でヒカルと河瀬監督は1~2万人のファンの心を掴んだ。あとの何千、何万人かは"EVA関連のオフィシャルリリースがあれば取り敢えずおさえる"層である。これも結構大きいが、総てではないだろう。と信じたい。

ここらへんのジレンマが難しい。今回のDVDシングルという体裁は、極力EVAQを感じさせないものとなっている。もっといえばあの映画から独立して桜流しが輝く為の触媒としての役割も果たしているのだ。

と言っても、桜流しは"必然的に映像を欲する"ような類の楽曲でもない。映像がないならないで別に構わない。いちいち、孤高の楽曲だなと思う。



…話がとっちらかってきた。ややこしい。考えれば考える程、こんな爆弾を商業音楽市場に投下したヒカルのチャレンジング・スピリットに戦く。売れセンの楽曲を書く事も出来た中でのこの選択。まだ何か私は真意を汲み取れていない気がしてならない。どこまでEVAQから離れて桜流しを論じられるか。悪戦苦闘の日々はまだまだ続く…。



全く関係ないけど隈(クマ)って影の事だよな。

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今の傾向として、俗に言う「ファンの蛸壷化」がある。特定のアイドルやミュージシャンを主に追っかけているようなファナティックは、いつの時代も一定数居るものだが、商売をする方がそちらに狙いを定めてきているのが時代の変化と申しましょうか。

例えばこれがアニメの世界だと、シーンをいちばん支えているのは「アニメファン」だ。3ヶ月毎に大量に新作が投下されるシステムも大きいが、特定の作品のファン、特定の監督やアニメーターや声優のファン、といった層より何より「今季は何を観ようかな」といった感じの"浮動票"の動きがいちばん影響力がある。その為、市場が活気を失わない。常に面白い方面白い方へと人の関心が移動しているからだ。

今まで何度も指摘してきたように、J-popが絶滅感を出して久しいが、それにはこういう"浮動票"の激減も大きいのではないかと思える。つまり、「今週は何を買おうかな」みたいな、購買行動を前提とした選択、みたいな事が減っているような感じがする。突き詰めていえば、音楽消費行動が日常生活の中で習慣化せず、特定の才能のその時々の頑張りに大きく依拠する事態となっている。例えば今、秋元康氏が今やってる仕事全部をやめて引退するとなればCDの全体の売上は大きく落ちるだろう。「じゃあ他のを買うよ」とは、ならないのである。この流動性の有無が他の業界と大きく違う。

ヒカルの場合、どういうファン層に買い支えられているのだろう。何度か述べてきているように、「宇多田ヒカル名義で出たものは(内容の如何に関わらず取り敢えず)必ず買う」という層はそんなに厚くない。人間活動によって多少変化はあるだろうが、せいぜい1万人位ではないか、というのがこちらの見立てである。もしそうだとすれば、ヒカルの作品を購入する層の殆どは、作品毎に買うか買わないか判断して買ってくれている事になる。つまり、ほぼ"浮動票"の動き次第で、売上が変わるのだ。という事は、宇多田ヒカルを支えてきたのは、「今週何買おうかな」というスタンスをもった"J-Popファン"であるのではないか。

J-Popファンが減れば、ヒカルの売上も下がる。シーンに依存した体質の商売をしているといえる。一方でヒカルは、一世一代の感が強い。余りにも孤高で、ライバルやコリーグスが居ない為、「今回の宇多田の曲はイマイチだからこっちを買おうか」みたいな事になりにくい。ヒカルの曲がダメだったら、購買行動自体を止めるのではないか。ここらへんの、ファン層・購買行動・シーンの中での位置付け、といった点が、私の中でなかなか整理がつかない。人間活動中に、ある一定度の目処をつけて次の新曲を迎えたいところである。

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桜流しミュージックビデオの構成は明白である。1番が森、2番が街、後半が赤子である。この点は、素直に曲構成に従っている。

細かい所も少しずつシンクロさせているように思える。エレクトリックギターの明朗かつ哀感溢れるフレーズが嘶き響く時同じくして森の小径に木漏れ日が落ちる。後半、ドラムが激しくなる場面ではそれまでになくカメラの動きが早く、大きくなる。後半部分、導入は赤子でその後森と街のカットを経た後、「全ての終わりに愛があるなら」を歌い始める瞬間に、また赤子のカットに戻る。確かに、曲構成に準じたカット割りが為されている。

しかしだからと言って編集のテンポやリズムが、音楽のテンポやリズムとまるっきり同じかというとそうでもない。合っているような合っていないような、意識しているような、そうでもないような。今まで長々と「ミュージックビデオのあるべき姿」について書いてきたが、再度付言すると、この「つかずはなれずぐあい」がどれ位かによってビデオの評価が決まるのだ。それこそがセンスであると言っていい。言いたい。

しかしだからこそ、言葉で評価するのが難しい。どこまでも感覚の話で、定量的な比較論等に到達できそうにない。確かに、これ以上映像が音楽に寄り添い過ぎるとなんだか映像が音楽の付属物、従属物になってしまったようで何だか物足りないし、かといってこれ以上好き勝手されると「別に桜流しに合わせなくてもいいじゃん。」という事になってしまう。そのどちらの印象も受けないのだから河瀬監督は絶妙のバランスを具現化したのだと賛辞を送るべきなのだが、はて、どこらへんがどうだからと言うのが出来ない。いや、さっき書いたようにある程度はわかるのだ。ここはこの歌詞に合わせた、こちらは演奏のこれに合わせた、等々と。だが、では他の部分をもっと合わせたら行き過ぎになるのか、もっと合わせなかったらよそよそしくなるのか、どうも判然としない。確かに、これはこれでいいのだが、もっとよく出来たかもしれないし、これ以上は無理だったかもしれない。

ただビデオを観て歌を聴き、そして感銘を受けるという時、そのような分析は野暮だし邪魔ですらある。そこまででよいのならそこで止まろう。しかし私は、気に入った作品は出来るだけどこがどうだからよいものだと理解したい。でなくば、これは経験則だが、未来の自分に今の自分の感動を正確に伝えられないのだ。こうやって書き記しておくことによって私は感動の記憶を見失わずに済む。忘れる、とか覚えてる覚えてないの問題というよりこれは、自分が自分を誤解しない為の方策なのだ。

確かに、書く事によって感動は少し変質してしまう。それは避けられない。しかし、もうそこから先は変わらない。書いた文字はもう変わらないからだ。これは、予防接種の概念に近い。最初に自らわざと有り難くない変化を受け入れ、それを受け止め、自分の中に望まれない変化に対する耐性をつける。言葉で記す事はワクチン(vaccine)なのだ。そして、その予防接種によって感動は時の流れの中で真空パック(vacuum packaging)される。その為に毎度ああでもないこうでもないと書き悩んでいるのである。

桜流しのビデオは、確かに、素晴らしい。初めて観た時そう思った。それを一生掴んで離さない為、私はここでこうして話し続けるのです。ワクチンと悪戦苦闘する姿を暫しお楽しみあれ。

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音楽が先に出来ている、という前提で話を進めているが、これもあクマで仮定の一つである。宇多田河瀬ラインが、楽曲制作の過程のいつらへんに出来たかは、実際は定かではない。各種発言からある程度推測できるとはいえ、ね。もしかしたら、このコラボが、若しくはこのコラボの計画自体が、楽曲制作に何らかの影響を与えたのかもしれない。しかしここはひとまず、この仮定の上に立って話を進める事にする。

楽曲が先に出来ている以上、映像に課せられる制約は大きい。楽曲内容の変更を伴うよいアイデアが思いついたとしても即座に却下だからだ。かといってその制約を意識し、歌詞をそのまま説明するような映像を添付した場合、ビデオの"蛇足感"は増す一方だろう。さてその間の振幅で、2人はどこらへんをついてきたのか。

日本の自然、山並みを基調とした導入部は、確かに歌詞の云う『開いたばかりの花が散るのを』という場面の背景として相応しい。が、実際に花の散る映像を被せたりはしない。中間ではどこぞの街中の民家を撮影したと思しき映像が連なる。これは確かに『あなたが守った街のどこかで』に示す場面の具現化だが、この歌詞のモトになったEVAでの台詞が街全体を眺める俯瞰の位置からの発言だったのに対し、ここではまるっきり局所的な、まさに"街のどこか"、しかも室内のようにみえる。極々個人的な心象風景の投影は、"守った街"の俯瞰とは対極にあるといえる。

そして、そんな中でいちばん"歌詞そのまんま"に近いのが、『今日も響く健やかな産声』をベースにした赤子の場面である。産声というからには出産前後を示唆するのだからこれはもうそのままの映像と言っていいが、この赤子は静かだ。黙々である。産声をこの前に上げたのかもしれないが今は静かなものである。つまり、一字一句正確に映像化した、という訳でもないのだ。ここらへんの歌詞との距離感の取り方に、前回まで長々と論じてきた「ミュージックビデオはどうあるべきか」という命題に対する哲学が反映されているように思える。以下次回。

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そうか、COLORSから10年なのか。こういう場合「あっという間だった」というのが通例なのだろうが、僕の場合は「思えば遠くへ来たもんだ」という感じ。それ位に、ヒカルの10年分の成長は著しい。その積み重ねが遠大な景色として見えるから、やっぱり10年前はとても遠くに思える。年をとったら10年なんてあっという間というのは多分真実なのだろうが、ヒカルに焦点を当てて鑑みてみたらなんだかそういう感慨にはならなかった。長かったな、と思える。


話を前回の続きに戻そう。つまり、端的にいえばミュージックビデオって「要らない」のである。映像作品において音声部分は殆どの場合必須であるのに対し、音声作品にとって映像は必ずしも必要ではない。そういう認識にヒトが立つのは、ラジオや電話、蓄音機といった「音のみで成り立つメディア」に人々が慣れ親しんだ為だろう、というのが前回の見立てだった。

その慣れ親しみに依拠する事で、音声作品はそれ単独で娯楽として成立する自立性を持つ事を無意識裡に要請され、実際そういった作品が出来上がる。その為、映像はどうしたって"蛇足"にならざるを得ない。長らく"プロモーション・ビデオ"という呼称が使われてきたのは、それがテレビで音楽を流して貰う為の言い訳、方便である事の証だった。

そんな経緯である認識なので、私もこの連載を書きながらミュージックビデオだのビデオクリップだのとしっくり来る言い方を手探りしている。映像と歌の関係性。これを考え直してみないと、作品の立ち位置は見極め難い。


桜流しは映像ありきの作品か? 否。EVAQは確かに契機として重要ではあるが、作品としては互いに独立である。エンドロールでの威力は皆もご存知だろうが、別にあそこで「初めてシンの力を発揮する」訳ではない。真の、だな。この曲は単独で100%だ。完結している。

よって、河瀬監督は、ここは言葉を選びたいところだが、ヒカルと"共作"した訳ではない。まずヒカルが作品を完成させて、その出来上がったモノを素材として新しい作品を作り上げた。例えていえば、俳句を短歌に援用したような感じに近いか。例えば小説の挿し絵などに較べれば、あとから付け足す方はひとりのクリエーターとしての"エゴ"がある程度要求される。既に完成した他人の作品を渡されてエゴを載せろとは無理難題だが、ミュージックビデオとは結局そういう事なのではないか。最初っから音楽と映像のコラボレーションを狙うなら、両者は"切っても切れない関係"となる筈である。桜流しはそのケースにはあたらない。

となると、これはひとりずつ自立したクリエーターとクリエーターの、何といえばいいか…ああ、ややこしい事実が、桜流しにはあるんだな、そうか、河瀬監督とミーティングしている時の光はヒカルというより、2年前にGBHPVを撮影した"映像作家・宇多田光"であると考えた方がいいのか。であるならばこのミュージックビデオの制作は2人の"共同作業"であると言って差し支えないのかもしれない。ヒカルは曲を書き詞を書き歌も歌いプロデュースまで手掛けた訳で、更にその後に名を成した映像監督と話をした、というプロセスか。そうなった時には、自分の為した仕事を、まるで他人のした事みたいに客観的に眺める必要が出てくる。その目線を携えて、桜流しのミュージックビデオは作られている。どこまでが光のインプットかわからないが、次回はそこら辺から攻めてみたい。っていうかまだ桜流しの話になってない!

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ミュージックビデオの持つ映像の「不必要さ」は宿命みたいなもので、基本的には拭えるものではない。映像というのは、それ単体で作品として成り立っているケースが非常に少ない。静止画ならまだしも、動画となるとかなりのケースに於いて、話し言葉も含めた音声が付随して作品として閉じる。実写ドラマだろうがアニメ映画だろうがニュース番組やデモンストレーションに至るまで、音声なしの動画をただひたすらじっと眺める機会はなかなか訪れない。

一方、音楽の方は必ずしも映像・動画を必要としない。それ単体で作品として成り立っている事がとても多い。音声だけを収録したCDなるものがあれだけ売れたのも、「音だけあればいい」と、無意識のうちにリスナーが思っていた事を意味する。でなければ、もっと"DVDシングル"という媒体が育っていた筈だ。

これは何故だろうかと考えると、案外不思議だ。聴覚という感覚の利点は、視覚と異なり360度全方位からの情報を受け取れる事にある。従って、"音がするとそちらの方を向いて見る"のが人間の、そして動物の本能だ。最終的には"音のした原因を目で確認"して一連の動作を終了する。音楽でいえば、歌っている人や鳴っている楽器を見て納得するのだ。

にもかかわらず、人は音楽を"音だけ"で満足しているように思う。でなければ、先程触れた通り、CDシングルよりDVDシングルの方が隆盛を極めている筈である。或いは、配信も動画が主流になる筈である。

この疑問に対する答を私は持ち合わせていない。ただ、ひとつ考えられるのは、この感覚は最近の時代特有のものなのかもしれないという事だ。つまり、ラジオや蓄音機の出現で、"音だけを出す機械"が人にとって身近になった事が大きいのではないか。音声を出さないテレビはないが(映像モニターはあるけど)、映像を出さないラジオは…それが普通のラジオだ。つまり、人は"近現代の習慣によって"、映像なし音楽のみの状態に慣れていったのではなかろうか。これには"電話"も加えていいだろう。目標物を視認する事なく、音声だけのやりとりで完結するという能力と習慣は、もしかしたらこの一世紀半限定の事かもしれない。糸電話やらをはじめとした導音器械の歴史自体は、もっと古いだろうけれど。

そういう"習慣"の身についた現代人にとって「ミュージックビデオ」というメディアの立ち位置は難しい…という話から桜流しPVについて語るつもりだったがちと長くなりすぎたようだ。次回に続く。

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@utadahikaru: 新宿のバルト9で「ヱヴァQ」みたーーー!( ̄ ≡ ̄)



えーっ、今頃っ!?

…と、思ったが、ちょっと待て。「今日初めてEVAQをみた」と考えるのは些か無理がある。というのも、もしそうならTwitterでのあの大量の@utadahikaru宛のメンションの数々に目を通していないという事になる。といいのも、数は少ないものの、その中には確実に着実にEVAQの内容について触れる呟きも含まれていたからだ。それら総てを回避する為にはメンションを全く見ないようにするしかない。ネタバレOKの覚悟だったらわかるが、わざわざそんな事するかな。ここはやはり、試写会で一応観ていて、今回初めて(ですらなくていいけど)映画館で鑑賞した、と信じておくことにしたい。でないと、この日記だって一切目を通していない事になるじゃないかーっ! …それはまぁ、いっか。

でも、もう一つある。「桜流し」みたいな曲を書いておいて、みんなからの反応が気にならないなんてこたぁ有り得ない。そのクォリティーは誇らしくもあり、また、その冒険心・実験精神と果敢さは不安と期待の両方を齎すだろう。作者本人が#sakuranagashiタグをチェックしていないとは思えないし、であるなら映画を観ていないと彼らの感想が何を意味するのかも判然としないだろう。やはり、映画を"初めて"観たというのは不自然だ。照實さんがそれらしきツイートをした時に一緒に観たとでも考えるのが自然だろう。うむ。

では今日のツイートは一体何なのか。「誰にも気づかれなかったぜーっ、へっへー!!」とでも言いたかったのだろうか。だって場所言う必要ないもんね普段なら。それをわざわざ新宿バルト9でだなんて…Qと9をかけてるんだろうか…(※ バルトナインと読みます)。

あと、確認していないが、今はレイ(仮)か誰かのポストカード貰えるんじゃなかったっけ? 自慢したいならそれの写真をUPしそうなもんなんだが。なんだか中途半端な呟きだなやっぱ。

まぁ、「みた」と言っても今朝の事なのか昨夜の事なのかそれ以前の事なのか判然としないし、それを明らかにせず「新宿バルト9」だけ具体的なのはアンバランスなのだが、果てさてこれはどう読むべきなのかな。このままでは、最近バルト9で映画を観た人たちが「もしかしたら宇多田ヒカルとすれ違っていたかも!?」と無駄に色めき立つ結果を残すだけなんだがなぁ。

他のセンから考えてみる。「今東京に居るよ」というサインと「EVAQ」というキーワードから、つまり次作「シンEVA:||」の主題歌について早くも都内でミーティングをもった、とか。或いは初めて正式なオファーを貰ったのかもしれない。それを機に、もう一度EVAQを観て次作への構想を練ろうというタイミングだったのではなかろうか。多分に願望を盛り込んだ妄想だが、ならば色々と辻褄が合うだろう。


或いはもっとシンプルに、上映館の推移を見越して今一度ここで「みんなもう一回位EVAQ観にいってみれば?」という提案をしてくれたのかもしれない。言い方を変えればテコ入れ中押しの宣伝ツイートだ。と、言ってももしそうならカラーから頼まれたとかではなく光の自主的な呟きだろうが。なにしろ120万に迫ろうかというフォロワー数だ。宣伝破Q効果、いや待て(笑)、宣伝波及効果は抜群である。

或いは。もうこれからは映画館で私を探しても無駄だよ!という"ゲーム・オーバー"宣言なのかもしれない。光が映画館でEVAを観に行きたがっていたのはファンなら周知の事実であり、「もしかしたらHikkiに会えるかも」と期待して映画館に足を運んだ人たちも多いのではないか。(ファンてバカですねぇ(笑)) そういう人たちに「わっはっは、もう諦めたまえ!」という…なんかそれは一昔前のノリな気が。


いずれにせよ、光がツイートするとこの日記の筆致のテンションが上がる、という事だけは確実にわかった。間違いない。(笑)

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公務員の退職金問題というのがメディアを賑わせていて、その話自体には詳しくないので特に感想もないのだが、やたらに「事前に容易に予測できた筈なのに」と報じる側が繰り返すのをきいて思わず「素人か!」と愚痴ってしまった。やれやれ。

予測は、事後に出来たか出来なかったかを論じても仕方がない。実際に予測行動を取ったか取っていなかったか、予測していたかしていなかったかについてしか論じる事が出来ない。何故なら、如何に論理的な必然性のある推論と予測であっても、"実際に"その議論が存在する事に気がつくのが容易であるか否かについてはほぼ全く関係がない。実際に気がつけるかどうかが予測の難易度を測るのであって、その議論自体の難易度の話は二の次である。そういう一連の事象を指して"コロンブスの卵"と言うんだが、まぁなかなか浸透していない。その価値がわからない事に加え、エピソードとしてわかりにくいというのもあるんだがまぁそれはさておき。

今回の報道に関していえば、そんなに予測が容易であったのなら実際に退職者が出る前にこの報道規模で騒ぎ立てておけばよかったのだ。それをしなかった報道側が「なんで事前に予測できなかったの?」と皮肉られても仕方ない。まぁいずれにせよこういう話は泥仕合なのでもういいや。

大事なのは他山の石とすることか。当欄も、事後からみれば容易に予測できたであろう案件を昨年も悉く取りこぼしてきた。実際にはEVAQのテーマソングは新曲だったがBeautiful Worldの新バージョンが来るだろうと予測を立てて話を進めていたし、その新曲がDVDシングルとして発売されるであろう可能性については言及すら為されなかった。発売がDVDシングル"のみ"となった点については何をか況や、である。

また、プロフィールに近影ではなく貞本絵を使ってくるというアイデアも、毛の先程も思いつかなかった。一体何の為にこのペースで更新しているんだか。予測できる機会など幾らでもあった筈なのに議論の端緒すら掴めなかった。事後から考えれば「どうして気が付かなかったのだろう、明らかだったはずなのに」とついつい思ってしまいがちだが、それは事後に眺めているから、に過ぎない。事後に簡単な事でも事前には難しい。事後からみて容易であるという事実は、参考にはすれど捉え方を間違うとまた同じ過ちを、いやもっと酷い過ちを繰り返すだけだ。肝に銘じて今後も予測を色々立てていく事にする。

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光が人間活動中に生まれてくる音楽的アイデアの数々の行方とは、一体どうなるのやら、見当もつかない。

音楽家にも様々なスタイルがある。ジャズ・ミュージシャンなどは一期一会、喋るように楽器を弾き次から次へと新しい楽想を生み出していく。お笑い芸でいえばフリートークの達人で、その場その場で笑いを生み出していくのと同じように、その時にしか生まれ得ない感動や感情や感覚を齎してくれる。極端な話、彼らの音楽を隅から隅まで知っていたければ、24時間一緒に過ごすしかない。

全く逆のパターンもある。ひとつの楽想のタネを大切に大切に育て上げる。ああでもないこうでもないと試行錯誤を繰り返し再研鑽と再検討を繰り返し、凝縮された楽曲を練り上げ編み上げ作り上げてゆく。アルバムとアルバムのインターバルが8年にも及ぶThe Blue Nileなどは一例だろう。お笑いでいえば、作家が台本を書く漫才、或いは、何百年と語り継がれる"古典"をも生み出し得る落語といった所か。

とにかく数を打って総体で人生の機微を表現する即興型と、ひたすらベストに特化していく職人型と。どちらも魅力的だがヒカルは後者に分類されるだろう。分類されるの嫌いそうだけども。

後者の作品の純化の過程、結晶化にあるのは、兎に角不要なアイデアを捨て続ける事である。ああでも"ない"、こうでも"ない"、という試行錯誤を通じて、大量の"ああ"や"こう"は捨てられていく。美しく結晶化した音楽の背後には、夥しい数の"死体"が転がっているのだ。物騒な言い回しになるけれど。

実は即興演者も同じだったりする。次の音を出すとき、その特定の音以外の音を出す可能性を捨てているのだ。あらゆる即興演奏は、生まれてきた時に既に生まれ得なかった音の数々に立脚して存在しているのである。

音楽が救われるのは、だから、生まれた音が、選ばれた音がまた誰かの心に鳴り響いて、また新しい音楽が生まれる事だ。それが延々と、連綿と、永遠に続いていく事が、生まれてきて捨てられたこどもたちと、生まれる前に捨てられたこどもたちの供養になる。我々が生きていく、というのにも似た側面があるが、あんまり概念的になりすぎてもいけないかな。

だから、ヒカルのような、あらゆる音楽が生まれたがる人が新曲を出すのは殊更意味がある。桜流しがリリースされた事で、どれだけの音たちが救われたか。そして、これから新しい音たちが生まれるか。まさに、それこそが『私たちの続きの足音』なのだ。街に響く事の出来た産声は、大切に大切に育んでいかなければならない。

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オリコンチャートによると桜流しのDVDシングルは4週目も順調に積んで、来週には3万枚を突破するかという勢いだ。何というかまぁ、嬉しい誤算である。

こういう数字をどう見るか、だ。今週のチャートを見ると、シングルが売れないのは前からだがアルバムもまた売れていない事がわかる。1万枚売ればトップ10に入れるのだ。いや勿論凄い数字なんだけど昔に較べればそりゃあ見劣りするってなもんだ。

先日、14年ぶりに音楽ソフトの売上が前年を上回ったというニュースが流れた。各記事掲載の分析では「昨年の落ち込みの反動」と「たまたまビッグタイトルが重なっただけ」と冷静だが、逆にいえばそろそろここらへんで一旦底を打つのかもしれない。単純に、もうCDでいいや配信とかよくわからないしという層が一定数固定化してきたのではないかと。カセットテープユーザーが今でも元気なように。いやまぁ極一部ですし流石にここは"世代交代"とか極少だと思いますが。

そんな中で桜流しDVDシングル3万枚はどんな意味があるか。正直、解釈に困る。EVAも宇多田もブランドとして強すぎるのだ。どれ位曲の力で売れてどこからがブランド力なのか、見分けがつかない。

EVAの方はインディーズである。というか、株式会社カラー自体、今んとこEVAの為に設立されたようなもんだ。会社ひとつ起こさせるだけのソフトパワー。こんなものの恩恵を受けているとあっては、数字に影響がないわけじゃあない。

それを「宣伝効果」と呼んでよいものか。人に聴いてもらうまではいい。そこから先。中身を評価して貰った上で購買行動を決定してくれているのだろうか。ただコレクションとして買ってくれた人たちは、封を開ける事をするのだろうか。いや、それは流石に開けるかな。2枚目以降は構いませんが。

そんな事を考えていると、数字に素直に喜ぶチャンスを逃してしまうな。まぁ、私は売る側じゃなくて買う側として書いているから、少しはいいんじゃないか。ヒカルだって映画の力ばかり強調されるのはイヤだろうが、桜流しが図抜けた名曲だからこそ、この曲が響く層がどこにどれ位居るのか知りたいのだ。ファンの中でも、随分気に入った人とほぼスルーの人と、結構わかれちゃっているからね…。

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桜流しのビデオ、技術的な事はわからない。となれば感性の話ばかりになるかといえばそうでもない。何といえばいいか、そこにヒカルの匂いがあると嗅ぎ付ければ割って入ってでも掬い採るのが当欄の特徴だ。

興味があるのは当然、どこまでがヒカルのインプットであるか、だ。前作では監督を務めている人が此度びは一歩退いている。にしても、何度かはミーティングを重ねたようだ。具体的にどの部分が、という話も知りたいが、何よりも、今後またヒカルが、いや宇多田光が映像を監督するとなった時、何をどれくらい期待できるのか、という点について知りたい。その為の分析と言っても過言はない。

勿論、このビデオはそれ単体で素晴らしい。と同時に、何やら少し「限定的」な匂いもする。例えば紀里谷監督がFINAL DISTANCE, traveling, Sakuraドロップスの3作で"あの世界"を追求した時のようなアーティスティックなパートナーシップを余り感じない。もっと踏み込んでいえば、このコラボレーションは今回一度きりなのではないかと言う話である。

ここは(私にしては珍しく)誤解を招かないように書きたい。つまり、河瀬監督は"桜流し"だから連れてこられた、この曲との相性を重視した人選だったと言いたい訳だ。今後も2人がコラボする可能性はゼロではないが、それは、"それに相応しい楽曲"が次に生まれるまでないのではないか、と。

この仮説の示唆する所は重要である。裏を返せば、光にとって彼女こそが桜流しのビデオを撮影するのに最適任だという事実を、光が予め感知していたという事になる。とすれば、光の頭の中にかなり早い段階から桜流しの映像が、具体的であるかどうかは別として「こんな感じに撮りたい」という方向性があったという事になり、もしそうであれば光はかなり入れ込んで彼女とのミーティングを重ねたと推測できる。一期一会の精神を発揮するにあたって、ここらへんが光のインプット具合を決めるキーポイントになっている見立てをしたい。嗚呼、光にインタビューしてみたいなぁ。何万時間あっても足りないけど。

しかし、ならばそこらへんのバランス、つまり宇多田vs河瀬のインプットバランスを見極める為には、河瀬成分を引き算できるようになる為に河瀬監督固有のカラーみたいなものを把握する必要があるな。あらためて彼女の他の作品を見てみて、そこからこの話を続けるべきだ。うむ、乞うご期待。

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隣の芝生は青く見えるもので、日本のアニメーション技術の日進月歩ぶりには恐れ入る。米国のピクサーもそうだが、この業界は、若干のタイムラグがあるだろうものの、基本的にその時最も技量の高い人材、新しい技術やノウハウが、商業的に規模のある作品に於いて使われている。つまり、売れているものをみれば、ある程度最新の体験が得られるのだ。

音楽は違っていて、特に邦楽はそうだが、新奇で面白いサウンドは、例えば上位に入ってくる事はないし、技術的に高いミュージシャンが売れるかといえば専門ジャンル内ではまだしも音楽市場全体でとなると無視に等しい。売れているアイドルの曲のバックのサウンドに新しいものが隠れていたり技量の高いミュージシャンが演奏したりもしているみたいだが、それは単に"隙につけこんで"入り込んでいるに過ぎない。新しい"から"、巧い"から"売れている訳ではないのである。

まぁ、だからフェアだし正直だし、何より大衆的な文化であったといえるのだ。普通に音楽を聴いていて、他と較べて新しいとか古いとか上手いとか下手だとか、いちいち気にするものでもない。気に入るかどうか、それだけである。ただ、昨今の邦楽は規模として「大衆的な文化」として維持出来ているのか微妙なラインに入りつつあるが…。

で。これがミュージックビデオの世界の話となると、私はさっぱり知識がない。普段PVを観る習慣がないから、例えば桜流しのビデオで何か最新の技術が使われているかとか今流行の手法が云々といった事がまるでわからない。これで分析を進めるのは少々無理がある。

しかしそこは、宇多田河瀬という組み合わせに甘えておこうかなとも思う。勝手な想像だが、この2人は桜流しのビデオを制作するに際して世間の流行がどうのという事は大して考慮に入れなかったんじゃないかと思えるからだ。技術的には何か新しいものを用いているかもしれないが、それはあちら側の話であって、実った果実をもいで食べるこちら側はあんまり気にする事でもない。「どうしてこうなった」という結果に対する解釈を連ねるだけで十分だろう。多分、次はカメラワークの話。

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もっと言えば、桜流しのビデオには「音が鳴っている場面」が皆無なのだ。ナチュラルな音をつけるとすれば、自然を映す時には風の音、人の居る地はガヤの音、即ち、何れにせよノイズしかない。鳥が二羽飛び立つ場面はあるが、著しくピント、焦点が外れている。ピントの合っている、即ち映している対象物自体は一切音を出さない。

この事は、大きい。視覚と聴覚は我々が思っている以上に緊密な関係にある。無音の映像であっても、人は無意識に音を当てはめて解釈してしまう。ホームランを打つ無音の動画を見ると知らず知らずのうちに「カッキーン!」という音を想像してしまうのだ。或いは、まるで逆に、打球音を期待してしまうからこそエアポケットのように無音動画を感じてしまい、途端にリアリティが失われてしまったりもする。どちらにも転び得るのが音と映像の関係だ。

本来音が鳴る場合であっても無音のまま映像が流れ続けるミュージックビデオを観た場合我々はどう感じるか。シンプルに、歌を「こちら側」、映像を「あちら側」と認識する。ガラスの壁一枚隔てた向こう側の出来事として映像を捉える。他方、歌は身近に感じ得る。

桜流しの映像のテーマは「静寂」である。どの場面も、実際にその場に居れば風の音や雑踏の音しか聞こえない、もっといえば「遠くの方でしか音が鳴っていない」状態が、次々と捉えられている。L字型の紙切れにこどもの絵が描かれている場面なんかは特に秀逸だ。ああいう風にモノを見ている時、あらゆる音、そしてリアリティはとても遠くに感じる。自己との対話、もっといえば経験である。

その「隙」に、桜流しの音は流し込まれる。それが何になるかといえば、歌がそのまま自己対話、自問自答の声となっていくのだ。世界の見え方、世界との接し方の設定次第で、この歌は人の心への沁み込み方がまるで違ってくる。そこを強化するからこそこの河瀬作品は秀逸なのである。

この歌は問う。『もし今の私を見れたならどう思うでしょう』と。この歌は謳う。『聴けたならきっと喜ぶでしょう』と。この心の声、心の叫びが如何に"自分のものとして"響くかがこの歌の齎す感動を左右する。繰り返す。そこを強化するから、この河瀬作品は素晴らしい。

本来なら、日常の中でふと陥る"音の無い世界"。何かに吸い込まれるようにして何も聞こえなくなる瞬間を選んで、桜流しが鳴り響く。どこまで意図的なのだろうか。わからない。

映像が描くのは、日常の中で音を失う時間帯。だからこそ音楽が生まれ得る。この動画は、実際の赤子が生まれるだけでなく、人の心に音楽が生まれる瞬間もまた内包しているように感じられるのだ。静寂が描く響く歌声。確かに、DVDシングルとして出す価値がある。力感溢れた作品である。

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桜流しのビデオに於いて、前々回も触れたように「赤ん坊が泣かない」というのがポイントのひとつとしてあると思う。

あの場面、生まれたての赤子が大人の指をその小さな掌でぐっと掴んで離さない、一心不乱に父を飲み、臍の緒が切られる。何かを断ち切る事で親と子という新しい絆が始まるとは象徴的なイベントだなぁと思うが、ヒカルの歌詞は取り敢えず『今日も響く健やかな産声』であるにもかかわらず、肝心の産声が(画面の中では)響かない。

距離感、というのはここらへんに顕れているように思うのだ。産声、というのをそのまま映像にすると"あからさまに過ぎる"。これは、映像作家の本能というか基本というか、兎に角歌詞をそのままなぞる"だけ"の表現をよしとしない。

それでも、ここでのその"選択"は大胆であるように思える。何しろ、歌詞の中で最もインスパイアされた一節なのだから。

ただの比喩、という事も無理ではない。産声を上げる=生まれる、確かにそうだ。だから気にする必要もない。が、ならば響かせる事もまたよい。どちらかはわからない。

全体として、このビデオ、画面から音がしないのである。言い直せば、音を示唆する映像が極端に少ない。河瀬監督はミュージックビデオを撮るのは初めてじゃあなかったんだろうか。これが統一された意志基準となって、ビデオの方向性が明確になったように感じられる。

つまり、映像が歌を邪魔しない。鑑賞者が映像から音を想像しない為、歌とサウンドはその存在を遺憾なく発揮出来ている。音楽家としては、有り難い。映像は独自性を発揮しているが、音楽を浸食しようとはしない。このバランス感覚と、それを実現する技術。素晴らしい。

そして、そこからもう一段。そうであるにもかかわらず、音の示唆が無いにもかかわらず、映像が「ただの静寂」に留まっていない事が大切である。次はそこらへんの話から。

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「習慣化」については度々当欄でも触れてきた。要は、ある事を為す時に躊躇わない様だ。例えば、この日記が私にとって習慣化している、する事が出来たのは、書く話があるとかないとか以前に、日記を書くか書かないかで迷う事を私がしないからなのだ。兎に角書き始める事が出来るから続いている。

音楽ソフトが売れていない、という状況で何が深刻になるかといえば、音楽を買う事、更には音楽を聴くという行動に対して躊躇いや迷いが出てくる事だろう。"自然に"音楽と触れ合うというのは、考えてみると難しい。考えなければなんともないのだが、だから考え始めさせてしまうと厄介だ。「俺、何でこんなことやってんだろ」「あれ、私これやってる時どんな顔してたんだっけ」となるとゲシュタルト崩壊が起こる。これがいちばん怖く、深刻である。

小さい頃、CDラジカセに買ってきたばかりのCDをトレイに乗せプレイボタンを押すのに何の迷いも躊躇いもなかった。それが今では…あら、もっと躊躇いがないわ私。特にiPodでiTunes Storeで買い物するとすぐさまそのまま聴き始められるので実にいい。家で寝転がりながら新譜を購入、すぐさま鑑賞、うーんやめられな…って話の趣旨が違ってきたな。私を例に出したのがよくなかったようだ。もっと一般的なケースを…


いやね、そもそも私自身は今のシーンに特に不満めいたものはないのだ。オリコンチャートの上位が秋元康とジャニーズに牛耳られているからといって、何の影響もない。今年は遂にオリジナルBLACK SABBATHの初来日があり、サマソニにMETALLICAがやって来、もしかしたらIRON MAIDENがLoud Parkのヘッドラインかもしれない…HelloweenはGamma Rayと二回目のジョイントツアー、イタリアンプログレッシブロックは最終章、遂にあのバンドやこのバンドも…若手でもMoon Safariは今夏に新作リリース予定、もしかしたら年内に二回目の来日公演も…楽しみばっかりなんですよ、ハイ。

だから私の事はいいんだ。そういう話ではなくて、宇多田ヒカルという人が邦楽市場の趨勢を握る位に影響力の強い人だから、音楽と触れ合う習慣を失いつつある人々に対して、何らかの劇薬的効果があるんではないか、という話をミュージックビデオ話を中断してまでしてみたかったのだが、それを書こうという私自身に対してそういう"危機感"めいたものがリアリティとして全く無い事に気が付いてしまっていやまぁなんて欺瞞的なんだろう…となって今ココなのである。

ミュージックビデオ話を中断してまで、というのはそこに少し関連があるからだ。人々の中に、ミュージックビデオを鑑賞するという行為を習慣化している向きがどれ位在るか、在るとしたらそれは具体的にどんな鑑賞視聴形態なのか、それによってミュージックビデオの評価のし方も変わってくるよね、という話。

実際に観てみた事がないから想像でしかないのだが、MTVの普及していたアメリカでは「TVでPVを観る」という行為が習慣化しやすく、故に音楽購買行動までが"自然に"為されていたのではないかという気がする。

DVDプレイヤーを持っている人に訊いてみたい。買った当日はともかく、普段の生活の中でわざわざ桜流しのDVDを取り出してトレイに入れ5分足らずの映像を鑑賞する、という行為が生活の中でどれだけリアリティを持っているか。それが、何気なく出来るか。私が小さい頃CDをCDラジカセに放り込む事に何の躊躇いもなかったように、何も考えずにDVD鑑賞できるか。難しいと思う。

装置に、よる。リビングのステレオシステムの中のDVDプレイヤーだと敷居が高そうだ。テーブルの上のポータブルDVDプレイヤーだと或いは…。

しかし。そもそも、桜流しに限らず、"たった一曲だけ入ったDVDを鑑賞する"という行為自体が、人々の習慣にない。私にもない。桜流しのビデオを観たい時は、手元にあるiPodか、前に居るならPCで配信ファイルを再生するだろう。まぁ、DVDがトレイに入れっぱなしならそっちを再生するが、それは流石に"人々の習慣"から逸脱している。つまり、ここらへんが結構悩ましい。

話は、このビデオを鑑賞する時、我々はどのような態度を取っているか、である。そこら辺も絡めながら、前回の続きを次回に回したい。

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