無意識日記
宇多田光 word:i_
 



さて『PINK BLOOD』のミュージック・ビデオもあと28時間程で公開になる。6秒、15秒と小出しにされてきた映像の全貌がいよいよ明らかになりますよっと。

ワクチン接種スピードの違いもあり英国の制限は随分緩和されているらしく。ヒカル自身はもうかなり動けてたのかな。果たして撮影はどのタイミングで、どんなフォーメーションで行われたのだろうか? ディレクターの谷川英司氏は英国在住だったりする?しない?知らない。

ここ二作のミュージック・ビデオは幾らかの制限の下で作られたものだった。『Time』は自宅撮影素材を加工したものだったし(更にワンコーラス分短いしな)、『One Last Kiss』は小旅行で得た素材を遠隔地で編集して作ったものだった。『PINK BLOOD』はみたところ(といっても15秒だけだけど)特に何らかの制限が入った感じはない。久々にスタジオで普通に作られたミュージック・ビデオになるのか。ライブテイクを除くと、え、2018年の『初恋』以来になる?? そっか、『Too Proud』も『Face My Fears』もヒカル出演のビデオ作ってないんだわなぁ。『誰にも言わない』もだが。

兎に角前作(になるのかもう!)の『One Last Kiss』MVが人類史上最高傑作映像となっただけに結構な期待が寄せられている気がするが、まぁ力まず待ちますかね。特に、制限無しなんだから色んなこと出来たでしょ?というプレッシャーが仮に有り得るならそれはちょっと可哀想ではある。現代はビデオの人気が「YouTubeの再生回数」という逃げ場の無い数字で示されてしまうのでそれも気の毒といえば気の毒。そこらへんは「不滅のあなたへ」のノンクレジットOP90秒の再生回数あたりと比較して評価して欲しいかな。曲自体の人気が、何よりもまずベースだからね。

あとは今度こそプレミア公開にヒカル本人がやってくるかどうかという……いや、来ちゃったらビデオ鑑賞どころじゃなくなるか。終わった頃にツイートするくらいの方がいいかもね。取り敢えず今日はたっぷり寝て明日の寝不足夜更かしに備える事に致しますわ。

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週末は大坂なおみが全仏オープン2021の記者会見を拒否した事が話題になっていて。どうやら運営側が大坂選手の四大大会出場停止も辞さない模様。こういう場合に選手を守らず(しかも女子テニスの看板選手を!)敵対的な態度を取ってくるとかどれだけメディアの力が強いかがわかる。

彼女か「change makes people uncomfortable.」とツイートしているように、変化を起こす為には時としてドラスティックな行動に出る事も必要だ。テーマによっては従順なふりをして時間をかけて崩していく手法も取られようが、大坂なおみは現役のスポーツ選手として競技生活のタイム・リミットに敏感なのだろう。1.5万ドルの罰金も承知の上で迅速に行動した。四大大会出場停止はそこを更に攻め立ててくる案だが、果たしてここからどうなるのやら。

メディアというのは本当に厄介な存在で。我々の写し鏡でもある訳だ。何故彼らが居るかというと、彼らの産む記事を我々が読むからである。我々がそこに自覚的にならない限りメディアの横暴は無くならない。

2013年のヒカルにメディアから与えられた心の傷は如何ばかりであったかを思うと未だに心が痛む。いや、ヒカルの痛みに較べたら痛みでもなんでもないけれど、苦々しい思いは残っている。よくぞ今それなりに回復してテレビとか出てくれてるよなぁ、と感謝せずにはいられない。

あたし個人も、地上波テレビが無ければヒカルに出会えていなかった訳でそれに対する感謝が消える事はない。昔からそういう愛憎相半ばする存在なのが大型メディアというものだ。彼らが居ないと知れない、だけど彼らの言動は許せない──という情報を人質に取られた膠着状態は、インターネットが隅々にまで行き渡った令和の今も厳然と残っている。

大手メディアへの反発心で担ぎあげられた中小のメディアは公益性の建前を持っていない分大手とは比べ物にならない程に情報の質が落ちる。「貴方は詐欺師に騙されていますよ」と言い寄ってくるのは更に無責任な詐欺師に過ぎない、と大半の人達が気づくまでにあと何十年掛かるかわからない。そんな状況で大手メディアの情報の質が上がるとは思えない。寧ろ現況は両者が情報の質を下げあっている状態だ。

暫くはどうにもならないだろう。ヒカルもこのあと、六月以降、もし仮にニューアルバムの話が出てくるとなれば大型メディアとの交流が始まってしまう。携わる人達一人一人に悪気は無くともシステム自体が牙を剥く現状では、誰も責任をとらない、いやとれない時間帯が続いていくだろう。ボトムアップで地道にライブ活動や草の根運動を続けてファンを増やしてきた訳では無いシンガーソングライターにとって大手メディアは令和の今でも生命線だ。新劇エヴァは日テレの全国ネットによって今の興行成績に辿り着けたし、「不滅のあなたへ」は全国規模の受信料に支えられている。そこでのタイアップでの恩恵を無視する事は出来ない。まぁもうどちらかというと恩恵を与えている立場かもしれませんが。いずれにせよ、このスケール感との関係性はデビュー22年経った今もさほど変わりはない。


うちらファンからすれば、自宅からインスタライブしてくれたりスタジオからストリーミングしてくれたりすればそれで十二分なのだが、それはもう既にヒカルを知ってしまっているから故の「既得権益」でしかない。これからヒカルを知ってくれる人々(うちらの将来の友人たち)にとっては、やっぱり何らかの大型メディアが必要なのが現状だ。誰のわがままが次世代の利益になるか、苦渋の時代はまだまだ暫く続くと思うよ。

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嗚呼、週明けから怒涛になるかもしれないのか。明けて火曜日の夜には『PINK BLOOD』のプレミア公開だからな。それと前後して6月のインスタライブの日程が発表になるかもしれない。ふむ、明らかにてんやわんや。ゆっくりしてられるのも今週、或いは来週月曜日までかな? Tシャツプレゼントの締切も近いんだったな〜当選者発表をどんな新情報と絡めてくるのやら。


自分語りをさせて貰えれば、今年は、私が今まで生きてきた中で最も新譜の充実している年だ。自分の中でプライオリティの高いミュージシャンやバンドたちが悉くニューアルバムを出してきていて、それらが押し並べてクオリティが高い。もしかしたら一生のうちでこれがピークなんじゃないかと思うくらい。いいのか本当に。そんな今の悩みは、それぞれの新作を聴き込んでる時間が足りないということ。まぁ、TRANSATLANTICが60分と90分の二枚同時発売、LIQUID TENSION EXPERIMENTが二枚組二時間のニューアルバムだったので、この二作を聴くだけで四時間半要るんだからそりゃ時間も足りなくなるわな。しかも一回や二回聴いた程度では構成が把握出来ない程中身が凝っててなぁ。映画なら一度観てストーリーが把握出来ればまぁいいか、と思えるんだけど音楽って色んな疑問が氷解し切った時点で初めてやっと素直に楽しめるとこあるからさー。なんとかそこまでもっていきたいのよね。


という訳で、前回、前々回の日記のように拙速だと謗られる事も気にせず未だ全貌が明らかになっていない『PINK BLOOD』の歌詞の来し方行く末を占っていったりしている訳だ。この勢いでヒカルが年内にニューアルバムなんて出されたら全く何も消化し切れないからなっ! あたし2002年の3rdアルバム『DEEP RIVER』を12曲全曲通して一気に聴けるようになるまで半年掛かったのだが(凄く雰囲気の重いアルバムだったので1曲ずつ聴いてたのだ)、なんか次のアルバムってそれに近い事が起こりそうな気がしててな……凄い重量感というかスケール感というか。実際現時点で『Face My Fears』『Time』『誰にも言わない』『One Last Kiss』〜『Beautiful World (Da Capo Version)』っていう流れを連続で聴くとなんかもうそれで満腹というか。150分とか118分とかの作品と日々格闘しているある意味“鍛えられた”私のような人間が、たった4,5曲の濃度と密度に辟易させられるのだ。なんなんだコイツ? お前だよお前、宇多田ヒカルだよっ!

勿論、ヒカルはPop Artistなんだからその気になれば気楽に気軽に聴き流せる曲を書いてくれている。ヒット曲ってそういうものだ。だけど、そうやって聴き流す事なしにひとたび歌と真正面から向き合ってみると、そこに背負われた歴史の長さと広さと濃さみたいなものが見えてきちゃってもうなんていうかあなた本当に何してくれてんの人生何回目なのよとこの22年間ずっと言ってきた事をまた言う羽目になっていくのだ。有り得ない程凄い。ニューアルバムにはそんな予感が漂っている。

きっと世間的にも『One Last Kiss』の特大ヒットを追い風にした大注目の新作という事になるんだろうから、嗚呼、何ていうんだろ、久々に「事件」になるんでないの。アルバム発売が。それに向けて、まだまだその世界観に分け入っていかなきゃですわ。でも今夜はちょっと小休止。疲労回復しなきゃなのですっ。

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最近のヒカルは歌詞の中にある「大きな流れ」を隠さなくなっていて。いや別にもともと隠していた訳じゃないけど、それまでにリリースしていた曲たちと繋がる歌詞を入れ込むのに躊躇いがないというか。焼き直しとか使い回しとか言われる心配をしなくてよくなったというか。

そんな大きな流れを意識して私は断続的に「傷・喪失・記憶」というテーマであれやこれや書いている。『PINK BLOOD』の歌詞を直近の楽曲たちの歌詞の力を借りて読み解こうとしているのも、そういう大きな流れを感じ取っているからだ。


これ、来るべき次のアルバムが結構大変な事になる予感が止まらない。今までのアルバムは「あの名曲とあの大ヒット曲が詰め込まれてる! リカット候補のまっさらな新曲がまた凄い!」みたいな感じで個々の楽曲の力量の集合体みたいな雰囲気だったが、次のアルバムはそれらが渾然一体になっているというか、総てが縦に繋がって襲ってきそうな、そんなおぞましい恐怖感がある。今現在はまだ背後にしかないその「大きな流れ」が、アルバムという形態によって眼前に現れる。そういう予感。

今のご時世はアルバムをリリースしたとしても1曲ずつ摘み食いをされるに留まる事が多いので、その「アルバムとしての凄さ」がどこまで伝わるだろうかという懸念はある。なので、もう思い切ってどんどん曲を繋いじゃえばいいんじゃないかと思ったりもする。『One Last Kiss』と『Beautiful World (Da Capo Version)』がそうであったように。


って、そういやこの曲順、アルバムではどうすんだろね? YouTubeで『One Last Kiss』を堪能してきた人は気にすることではないのだが、ミニアルバムで親しんできた人は『One Last Kiss』が終わったらすぐにダ・カーポしてくれないと落ち着かない、という人も多いのではないか。その我々の慣性、慣れをアルバムにした時にどう打破するのか。

ひとつには、『One Last Kiss』をアルバム本編最後に配置して、『Beautiful World (Da Capo Version)』をボーナス・トラック扱いにしてそのまま収録する、というやり方がある。『HEART STATION』アルバムでの『Flavor Of Life』が本編ラストの『虹色バス』の後に収録されていたように。まぁそっちは繋がってる訳じゃないけど。

でも、『One Last Kiss』はオープニングに相応しい楽曲でもあって。『Fantome』の『道』に雰囲気似てるしね。似るから避けるというのもあるけど、でも景気のいいオープニング・ナンバーとしてこれ以上ない楽曲で。何より特大ヒット曲で掴みとしては申し分無いし。

一方、シンエヴァのイメージを重視するなら先述のように楽曲本編最後に持ってくるのがドラマティックでいいやね。

そしてそもそも『Beautiful World (Da Capo Version)』がオリジナル・アルバムに収録されるのかどうか、というのが問題ではある。『Beautiful World』自体は既に『HEART STATION』アルバムに収録されていて。でもそれももう13〜14年前の話だ。今回初めて『Beautiful World』という楽曲自体を知った人も多かろう。映画の興行収入も、シンエヴァは序の4倍以上だそうだし、初めての宇多田ヒカル主題歌映画館体験という人も多かろう。

そして、何より、ヒカル自身が「大きな流れを隠す必要は無い」と思っていること、もう焼き直しや使い回しと言われるような立場ではないことなども考え合わせたい。となると、『Beautiful World (Da Capo Version)』が次のアルバムに収録される可能性はそこまで低くないのでは無いか、と推理される訳だ。2ndアルバム『Distance』に『DISTANCE』を収録しておきながらそのバラードバージョンである『FINAL DISTANCE』を次の3rdアルバム『DEEP RIVER』に収録した実績もある。初めての事ではないのだ。今のヒカルなら、作品にとっての最善を以前にも増して躊躇わずに選択決断実行できるだろう。果たしてどんなアイデアで来てくれるのか、楽しみ以外の何ものでもないのですわ。

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『王座』や『椅子』といった語は役割や立場を示している筈だ。そこがちょっと興味深い。というのもその前段の歌詞が

『自分のことを癒せるのは
 自分だけだと気付いたから』

だからだ。ここだけを読むと、では他人に頼る必要がなくなったんですよね貴方、という風にもとれる。その為、ここで他者自体が不要になったのねと解釈してしまうとそこでわからなくなる。

実際は寧ろ逆で、人に頼る必要がなくなって始めて人は社会などの属する集団の中で自分自身の立場を確立し役割を担う事が出来るようになって他人と協力し始められるのだ。自分じゃ何も出来ないから群れて誤魔化す、のではなく、出来ることがあるから人と群れて大きな事を成すようになれる。

そういう、人としての「自立観」がこの『PINK BLOOD』には通底しているように思われる。

『自分の価値もわからないような
 コドモのままじゃいられないわ』

の一節などはそのまま「自立したオトナになりなさい」というメッセージだろうし、

『心の穴を埋める何か
 失う事を恐れないわ』

の一節も、心の穴を埋めてくれる何かを誰かに頼る事無く『癒せるのは自分』と言い切れるようになったからこそ出て来ているのだと言える。なおここでも『失う』という『喪失』シリーズに連なる語が出てきてますねぇ。『Time』での『失ってから気づくのは』、『One Last Kiss』での『止められない喪失の予感』などからの流れをここでも引き継いでいる。何れも、失う事自体を肯定的にというか、受け容れる感覚を歌っている。

そして、その失うことへの受容と肯定が「自立観」を構成する重要な要素のひとつだということなのだろう。失っても自らの手で埋められる、転んでも自力で立ち上がれる。自分自身の足でいつでも立ち上がれるから自らすすんでそこに座る。それが『王座』であり『椅子』なのだろう。ヒカルがインスタライブで「挫折」について語った時に「そんなのはただの概念」と言い切れたのは、挫け折れそうになっても自分の足でまた立ち上がれるからだった訳だ。しっかり歌と繋がっているのでした。


なお、『王座』というキーワード自体はこのあと「不滅のあなたへ」のストーリーが進んでいくとそれに該当するキャラクターが現れるのでそれを指してもいるとみるのが適当だろう。間違いなくヒカルのお気に入りキャラだと私は思っているのだが、下手にインスタライブとかで触れたりするとネタバレになるかもしれないので控えているのだろうかな。アニメで登場するとなると30話くらい後になる、か。楽しみではあるのですが、そこまで果たして行くのかどうか。アニメスタッフの皆様におきましては、NHKからの潤沢な予算に胡座をかくことのなきよう、しっかりとプロモーションしていって欲しいものっす、、、。

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『サイコロ振って出た数進め
 終わりの見えない道だって
 王座になんて座ってらんねぇ
 自分で選んだ椅子じゃなきゃダメ』

ここには『サイコロ』『道』『王座』『椅子』といった具象物が並んでいる。それぞれ、どういう意味を持つだろうか?(承前)


『サイコロ』はこれからの運命を決めるものの象徴であるように思われる。自分の手には負えない何かの力によって進む道が決まっていくようなそんなイメージがある。運命を委ねる何かということでは『Face My Fears』の『地図』や『One Last Kiss』の『(あの日動き出した)歯車』なんかを彷彿とさせるな。

OLKの『歯車』は、歌詞中では言及されていないが文脈から「運命の歯車」の意味であることが容易に想像され得る。タロットカードに「運命の車輪(Wheel Of Fortune)」というカードがあって転機とか変化とか好運不運などを暗示するようだが、歯車と言った時にはひとつのことが他の事と噛み合って次々と連鎖していくイメージも託されているのだろう。20世紀的にいえばバタフライ効果のような。

『Time』で『零した水はグラスに返らない』という一節によって「時間(Time)の不可逆性」に言及したヒカルだから『サイコロ』という歌詞によってアルバート・アインシュタインの「神はサイコロを振らない」という有名な一言を想定したのかも、と想像する事はそこまで突飛ではないのかもしれない。無限の知を誇る神であればサイコロですら未知のものではなく決定論的な存在だが、有限の知しか持ち得ないヒトという存在にとっては、神の用意した無限に続く道をサイコロを振りながら進むしかない、という含意がここの歌詞にはあるのではなかろうか。

そういう読み解き方を許せば、次に『王座』という語彙が出てくるのもさもありなん。ヒトでありながらヒトの上に立とうとする存在。言わば神に成り代わろうとするヒトだ。日本でもいつのまにか現人神扱いされるようになっとったっぽいからね。王や君主や皇帝も、権威を強んじれば次第に神性を帯びさせられていく。 

そういった「運命を力尽くで自らの望み通りに改変していく存在」として『王座』があり、その一方で抗えない運命の象徴として『サイコロ』があり、その二つの間に(或いは上位に)ヒトに『終わりの見えない道』を与える神の存在を匂わせる、という三つの要素の互いの対比によってこの段落は構成されているように思える。そこからの結論が『自分で選んだ椅子じゃなきゃダメ』なのだ。

ここの含意を読み解く訳だが、まず、通常の歌詞なら『王座になんて座ってらんねぇ』という一節に続くのは例えば「走り続けるぞ」とか「成長しよう」とかいった内容のものになりがちだという点は踏まえておこう。日本語だと「王座に座る」という表現は「胡座をかく」という慣用表現を連想させるからだ。辞書を引き移せば「のんきにかまえて、何の努力もしないことのたとえ」といった意味になるようだが、この『PINK BLOOD』の歌詞に関してはそちらの意味へと流れているわけではないことに注意したい。「怠けるな働け」というメッセージではなく、あクマで、座るなら王座でなく自分で選んだ椅子なんだという話なのだ。座るなら、ね。

そこを踏まえつつまた次回……ってこのペースだとそのうち発売日になっちゃうね……。

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ヒカルの作詞術のセオリーのひとつに「具象から抽象へ」というのがある。誰でも思い浮かべられる具体的な名詞・名称を歌った後に感情や思想といったものを織り込んでいく歌詞の流れの作り方だ。

例えば『初恋』なんかはその手法が顕著で、歌い出しから

『高鳴る胸』
『竦む足』
『頬を伝う涙』

と畳み掛けるようにありありと情景を思い浮かばせてる道具立てをしておいてから

『これが初恋』

と繰り出す。早速メイン・テーマをぶっ込んでくるのよね。そして『人間なら誰しも……』と思いを語り出すのだ。王道である。ひとつひとつの場面設定や道具立てが、次々と抽象美や感情表現に結びついていく。それは他の多くの曲でも同様である。

ということは、だ。逆から見れば、そういった具象物(『初恋』での『胸(の音)』『足』『頬』『涙』など)の持つ含意を辿る事で、その歌の「言いたい事」を推し量れるのではなかろうか。


例えば『Time』で具象物といえば

『降り止まない雨』
『零した水はグラスに返らない』

といったところが思い浮かぶが、これらはそれぞれ「Time/時間」の主要な性質、「無限に続く事」と「不可逆な事」を表現している。この性質なくして時間を歌って切なさは表現出来ないだろう。

『誰にも言わない』でも

『完璧なフリは腕時計と一緒に
 外してベッドの横に置いて』

という名センテンスがあるが、ここの「腕時計」は時間の流れに追われながら社会的な役割を果たしている状態を指し、それを外すことでハダカの貴方になって欲しいというメッセージを構成している。腕時計は社会性や管理された時間感覚を象徴していて、そこからの脱却がこの歌のテーマとなっている。


というのをみていくと、では、未だに全貌が明らかになっていない『PINK BLOOD』に於ける具象物をみることで、この歌の持つであろう感情や思想を予測できないだろうか?というのが今回以降の主旨となる。

みていってみよう。


『サイコロ振って出た数進め
 終わりの見えない道だって
 王座になんて座ってらんねぇ
 自分で選んだ椅子じゃなきゃダメ』

ここには『サイコロ』『道』『王座』『椅子』といった具象物が並んでいる。それぞれ、どういう意味を持つだろうか? そんな話から以下次回と相成ります。

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一昨日『不滅のあなたへ』第7話が放送された訳だけど、あれ?オープニングアニメーションがマイナーチェンジしてる? 見覚えのなかったカットが加わっているような。新編突入毎にこういうのやってくるんだろうか。第1話からジャナンダ(次の舞台)全開のオープニングだったからきっとこのまま行くんだろうと思い込んでいたのだけれど、違ってたみたいね。あらら。最近予想が悉く外れてるわ。いやま、当たってる予想があってもスルーしてるってのもあるんだろうけど、外すと目立つなぁ恥ずかしっ。

でも確かにオープニングアニメはあたしにとって鬼門でねぇ。アニメを観るのが配信主体になってからは特にまとめ視聴する時はとっととスキップする事が多いから、たまにある「特殊オープニング」をスルーする事があるのですよぅ! 忘れもしない、第何話かは伏せるが「ジョジョの奇妙な冒険第3部」でオープニングからそのまま本編にアニメーションが繋がってるエピソードがありましてね……危うくそこスキップするとこだったのよ……半年以上かけて漸くそこに辿り着いたというのに何という勿体無い・クリエイターの思惑を無視した所業だった事か……そうだよね、そこはそう繋がるよね、第1話の時点からずっと仕込まれてたのよねぇぇぇぇ、って頭抱えてましたんや。昔の話。

で。これ、こうなってくると、「不滅のあなたへ」に関しても毎話ちゃんとオープニングをチェックしないと、いつ『PINK BLOOD』の別パートを挿し入れてくるかわかったもんじゃないんじゃないの。今は配信後日観返しにしてリアルタイムで観れてるからまだいいんだけど、そう出来なかった時に後から観る時にオープニングを習慣で飛ばさないようにしないとだわさ……。

特にもう6日後にはフル解禁だからねぇ。そこから先は歌のどの箇所を使ったっていいわけだから。特殊な編集なんか施されたら『PINK BLOOD』のエディット・バージョンとして認知しなきゃいけなくなるし、警戒を解くわけにはいくまい。まぁ切り貼りするにはヒカルからの許可が必要になるかもしれないけれどね。

で同じく6月2日に『PINK BLOOD』のミュージック・ビデオも解禁になるのだけど、アニメ・バージョンのビデオは作らないのかな。今までミュージック・ビデオをひとつの曲で複数作るってのは『桜流し』や『花束を君に』といった前例がある訳で、今回それに倣っていけない道理は無い。ノンクレジットOP90秒には随分お世話になったし、ここから更にお互いをプロモーションし合う為にも考えてもいいアイデアかもしれないぞ。編集大変だろうことは、オープニング観ててもわかるけどね。あれフルコーラスでやるとか目眩がするわな……。

アニメのストーリーの方は相変わらずのじっくりペースで、うーん、これだと視聴者数伸びないかなぁ。タクナハ編全体は間違いなく好評になると思うんだけど、それも観て貰えないと届かない訳でね。来週の『PINK BLOOD』フル公開がいい後押しになってくれたらいいんだけど、寧ろフルで聴けるようになったらアニメ観なくなる? まぁそこで惹き付けられないなら作品自体の魅力の話になるわな。さてどうなりますかねぇ。

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腋が美しいといえば『Forevermore』のコンテンポラリー・ダンスも素敵だったな。もうヒカルが踊るような事はないんだろうかな。本格的なものでなくとも、この時のように歌のメッセージ性を補強するような使い方ならまたやってみて欲しくもあり。


古来から「歌と踊り」という営みはヒトにとって欠かす事がなかったものだ。その意図は娯楽であったり求愛であったり儀式であったり様々で、ヒト以外の生物にも歌や踊りはみられる。生命の印といえる。

それでふと気がついたのだが、踊ることと歌うこと或いは楽器を演奏することって本質的には同じことなのだなと。何をもってそう思ったかというと、例えば打楽器奏者が鈴や太鼓を打ち鳴らす姿は「演奏」ではあるが、もしその時その演奏者が持ってるバチやスティック、そして叩く鈴や太鼓やシンバルやコンガやカウベルや何やかんやといった打楽器たちが総て透明だったらどう見えるだろう?と疑問を抱いたからだ。実際スケルトンのドラムセットとかあるけど、あれが枠も含めて全部透明になったとしたら……その演奏者の“振る舞い”は「踊り」そのものに見えるんじゃないかなと。楽器は透明で見えないけれど、打楽器の奏でる音は聞こえてくるとすれば、その演奏者は聞こえてくるビートにジャストフィットするダンスを踊るダンサーにみえるのではないかなぁ、ってね。ちょっと、いやかなり滑稽ではあるかもしれませんが、だとすると演奏と踊りの境目とか区別とか要らないんじゃね?ってね。

打楽器だと想像しやすいけれど、他の鍵盤楽器や弦楽器だって、腕や指を駆使した踊りだということも出来るんじゃないか。これが吹奏楽、つまりラッパや笛となってくると歌うことに近づいてくるが、そもそも歌うことや息を吐いたり吸ったりするのだって「運動」であることには変わりがない。ある人間の運動が何らかの表現になっているという意味ではそれは踊りと言えなくもないものであって、そこにあるものは共通しているのだ。歌と踊りって、ヒトが身体を動かした時に、それを見てもらうかそれを聴いてもらうかの違いに過ぎないんじゃないかなと。

ヒカルはシンガーソングライターとして、例えば歌って踊れる安室奈美恵なんかとは一線を画して、ひたすら歌うことに注力してキャリアを積んできた。そんな中で『Forevermore』では初めてといっていいほど振り付けの決まった踊りを披露した訳で、あれが単発になってしまうのは少々勿体無いかなというか。

踊りというのは言葉を介さずに直接「力強いなぁ」とか「美しいなぁ」とか「楽しそうだねぇ」とか「悲しそうだな」とか様々な表現を伝えることの出来る方法だが、一方で言葉を伝える時には余り力がない。メロディで表現を伝えた上歌詞で言葉まで伝えられる歌という有り様はホントに凄いなと思う反面、嗚呼、そういえば踊りに手話を取り入れたら面白いんじゃないかと昔から考えていた事を思い出した。多分どこかで誰かがずっと取り組んでいてくれてるだろうけど、取り敢えず今私は具体的に知らない。

前回のインスタライブでは視覚障害者の方々の話が議題に上ったが、一方で宇多田ヒカルファンという枠組みに於いては聴覚障害者の皆さんとはなかなか馴染みが無い。音楽を楽しむには聴覚が極めて重要だからだ。しかし、聴覚障害といっても様々な様態があるのであって、例えばコンサート会場に赴けば音は聞こえなくてもリズムの振動が身体に伝わってきて心地よい、と仰る方の話も聞いたことがあるし、、、そういえば昔酒井法子がドラマ「星の金貨」の主題歌「碧いうさぎ」を手話を交えて歌って紅白歌合戦に出場していた事もあったな。音楽を楽しむのに聴覚は極めて重要だとはいえ、必須ではないのだ。届く人が居るなら、届くと素敵だ。ヒカルの歌なら尚更だ。

もしヒカルが歌を歌いながら、一方で手話を交えて踊ったりもしたら、今まで興味を持っていなかった人達にも新しく届くかもしれない。歌と踊りは基本的には同じものなのだから。伝わるのであれば、届くのであればチャレンジしてみるのも悪くない。くまちゃんが

『歩けないけど踊れるよ
 しゃべれないけど歌えるよ』

と歌うのは、何か歌と踊りの特別さを真っ直ぐ伝えてくれているからなんだと思えてくる。まだまだヒカルの歌の可能性は拡がっていける筈なんだ。

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@utadahikaru : 脇 posted at 2021/5/26/01:58:03


史上最短ツイートにも程があるわ。昨日公開になった『PINK BLOOD』のミュージック・ビデオ15秒スポットに伴うアー写を貼り付けたスタッフツイートを引用してのこの一言。いやまそりゃ脇が綺麗って即日評判になってたけど自分から触れていくスタイルでしかも簡潔極まりないという。これで伝わるっつーんだから超一流の作詞家の言語センスよ。それとこれとは関係ないかもしんないけど。

これ「腋」って書いてたら印象変わってたろうかなぁ。「脇」というと人体の一部とは限らず「道路脇」みたいに傍とか横とかいう一般的な意味も持つが、「腋」の方だとほぼ完全に人体(生物)の一部を指す為より生々しくなる。もともとフェロモン部位らしいのでここを晒すのはセックス・アピールともとれ、ヒカルさん、まぁ大胆になられたことだわね。三年前の今日のツイートもブラの話だしもともとあけすけ気味ではあるのですが。

欧米では(って書き出しなんか頭悪い感じで気に入ってる。オバQのドロンパみたいなもんか)、セレブ女性が腋毛を剃る剃らないの話が度々話題になっているようで。古くはマドンナから最近ではローデス・レオンさんという方が……ってこの人そのマドンナの愛娘っすな。あとレディーガガ様も体毛に関しては積極的に発信していた。かなりの超有名セレブが議題に上げてくれてるけど、まぁそんなにこの“運動”が広がっている印象はない。

多分欧米ではこれはフェミニズムの文脈で語られていて、性別で社会的な圧力をかけていること自体への疑義という側面が大きい。生やしてようが生やしてまいが剃ろうが剃るまいがその人の自由なのだが、世間からの有形無形の圧力がかなり大きい事への違和感。そこに抗う事がメッセージになっている。

日本では脱毛広告の圧が凄まじい。Web広告でも頻繁にお目にかかる……とか書いたら今の時代私が腋好きな性癖なのだと吐露してるだけの話になるけれど、電車とか雑誌とかパーソナライズされていない広告でも脱毛のヤツは物凄く目立つ。ちょっとかなり多い。それはお前がそういうのを気にして生きているから以下略。

勿論、自分の身体は出来得る限り自分自身の自由であるべきでそれが基本中の基本なのだが、この広告量、そして広告内容─言い方とかフォントとかレイアウトとかですね─の持ってる「これはしないといけませんよ」な押し付けの義務感みたいな感じは確かに非常に不愉快だ。いやそれはお前が腋毛フェチなだけだろとまたまた言われそうだけど、「こんなん生えっぱなしでええやん、特に困ることもないし。いちいち処理面倒くさい。」と思ってるけどとても口に出して言える雰囲気ではないと思ってる女性の皆さん、いらっしゃいませんかね? どうなんでしょね。

今回晒したヒカルの腋はつるんつるんでお手入れが行き届いていて非常に美しい。惚れ惚れ致します。それはそれでひとつの魅力として素晴らしいのだが、一方でこのタイミングでヒカルが生えっぱなし或いは毛並みを整えてアー写をカットさせてたとしたらどんな反応になってたろうなぁ?という興味はやっぱり少し残った。今の日本だとこのつるんつるんが正義なので現実にはどう足掻いてもこうなっていたのだろうけれど。宇多田ヒカルの世間でのポジションてのもあるからね。

勿論世論が(例えば喫煙に対する態度が昭和と令和で大逆転したように)今度は「腋毛はそのままにすべし」に傾き過ぎたらあたしは「脱毛の自由を!」と唱えるだろうから、あれだ、腋も好きだけどやっぱり自由がいいんだろうね。でないと自然な必然は手に入れられないからさ。……何の話だったんだ今回。

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『PINK BLOOD』の15秒スポットが公開になった。前にチラ見せされた6秒ティーザーと当日フル公開の間にこれを挟んでくるとは予想してなかったぜ。だって既にアニメ側で90秒ノンクレジットOP用意してくれてたんだもの。今更15秒スポットって……って、今まで公開されてなかったパートが含まれてる〜っ!(泣) ちっ、心憎いぜ。焦らしやがって。

にしても、ややこしいな。これで『PINK BLOOD』のYouTubeのURLが

・6秒ティーザー
・15秒スポット
・90秒ノンクレジットOP
・フルMVプレミア公開

の4つになっちまったぜ。どれがどれだかわからんわ。まぁ6月2日を過ぎればフルMVが常駐になるんだろうからそうなったらそこに焦点を絞ればいいんであと8日間の辛抱だわいな。

そして、たった15秒だというのにヒカルパイセンの美しいこと! 一体何歳なのかさっぱりわからない。もうここまできたら10万38歳のエルフだとかなんだとか言われた方が納得するわ。我々とは寿命の感覚が違うんですよとでも言いたくなるヤツ。

そして、バラバラの写真だった各カットがやはりそれぞれにミュージック・ビデオ内で活かされているのもみてとれた。ダーク・オフィーリアは水中ってより森の中な感じだが、UFO誘拐事件カットも映像として動いていたし増殖したHikkiのカットもあった。鏡像ではないという事は合わせ鏡に映してるのでもないようで……なかなか謎めいているがそういえばこの間『Time』のMVでパイセン増殖したとこだし今回そこで増えたまんまでそのままみんな出演したのだろう。そゆことにしとこ。となると『One Last Kiss』のミュージック・ビデオって撮られてるのも撮ってるのもメイク道具忘れてきたのも似顔絵持ってるのも全て別々に増殖したHikkiだったのではっ!? ……あ、そゆの別にいいですか? すいませんねっ。

15秒スポットなのでフルMVの中にあの15秒が連続してる保証はないし、なんだったら画面と音声も合ってないかもしれないが、もしあのまんまがフルMVに収められてるとしたら、カット割の多い、複数の場面がシパシパと移り変わる、まぁありがちなMV文法なのだろうかなとも思うけどそんなことよりやっぱりパイセンが美し過ぎてね。『One Last Kiss』でも「Hikkiがカワイイ」だけで総てもっていってたけれど今回も「Hikkiが美しい」だけで総てが解決しそうだ。いいのかそれで。いいんです。その場面で『キレイなものはキレイ』って歌われたら視聴者が一斉に「確かに……」って納得してしまうわな。プレミア公開でもみんなそうコメントしてしまうのではないだろうか。


だがいちばんの注目は、新しく聞こえてきたワンフレーズが

『傷つけられても自分…』

だった事だわ。既に公開になっている部分で『自分のことを癒せる』というフレーズがあるからには至極当然なのかもしれないけれど、この曲でもしっかり直接『傷』が出てくるんだな! 先週書きかけていた「喪失・傷・記憶」の話うち“傷”がここにも、というね。これじゃ逆に続きが書きづらいわっ。もう一週間余りで『PINK BLOOD』の全貌が明らかになるとなるとね。まぁいいや、いよいよですよ皆さん!3月から随分引っ張ったなもう!

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さて5月15日に告知のあった6月のインスタライブが間近に迫っている…かどうか、まだわからないんだったな。日程が発表になっていないもんね。去年も今年もインスタライブの日取りが告知されたのが当日1週間前あたりなのでそれ自体は予想の範囲内。そして、来週から6月に入るのでそろそろ告知があってもおかしくない、というタイミングに差し掛かってきた。

だが何よりもまず来週水曜日、6月2日に『PINK BLOOD』のリリースが来る。順序としてはその次の日曜日あたりがインスタライブの有力候補日っすな。6月6日の日曜日だね。いちばんシンプルに考えると『PINK BLOOD』の発売に合わせて日にちを発表してくるというのがオーソドックスなプロモーション。テレビでも取り上げられたりするんかな? わからんけど。こゆとき民放のドラマ主題歌ならその局に網を張ればいいんだろうけどねぇ。

ということで、今週はそれに向けての準備期間になるかもしれない。いや勿論6月は30日まであるのでそこまでのうちのどこかでインスタライブをやるとしか言ってないから何も確定はしていないんだが。そうなりそうな可能性が高いってだけだね。

まず今夜は『不滅のあなたへ』の第7話が放送される。ここのエピソードで劇場版一本作れるよね…というそんな感じのストーリーとなっているので、今まで観ていなかった人も今週から観ても入っていけるかと思われる。オープニング・テーマ的には、歌詞を二番に変えるとかオープニング・アニメーションが刷新されるとかはなく今まで通りだろうかな。まだひと月半だしね。

インスタライブの方は『ヒカルパイセンに聞け』ハッシュタグに順調に連日質問が寄せられている。既に1000件を大きく超えているのでヒカルも読むの大変だろうな。まぁ昔は一日700通の『mail to hikki』を読んでいたというから速読はお手の物だろうけれど、ただ読むのでなくて「ここからどれかを選ぶ」前提で読むから余計に労力が要る気がする。やはりここは、一問一答で答えられるものはガサッと集めて即答連発する一方で、人生相談的な真面目なツイートには時間をかけて真摯に答えるという両極端対処でいくのがいいんじゃないかなと。名前呼ばれただけで嬉しい人もいるだろうし。ヒカルに「知るか!」って返されただけで「ありがとうございます!我々の業界では御褒美です!」ってなるかもわからんし。そこらへんはヒカルの自由にすりゃいいか。

だが流石に1000を超えてくるとハッシュタグを手繰るのも(ダジャレじゃないぞ??)手間が掛かってくるだろう。こっそりうちのTogetterを利用して欲しいものだが、リプライ見てくれてるかなぁ。それもわからんなぁ。あ、まだツイートしてなかったっけか次回分。あとでリンク投下しときますねぇ。

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前回はヒカルの

『その一個の勝負に勝つことが目的でやってるわけでもなくて』

という一言に対して

「一回こっきりの勝負に賭けてる人が挫折すんのよ!」

と楯突いてみた。無駄な話もしちゃったけど。今回はもう少し範囲を拡げて、挫折についての一般論を語ってみる。


挫折の構成要件で大きな面積を占めるのは

「無自覚な期待」

だ。自分がそれに期待している事を自覚していない、理解していない、意識をしていない人が、挫ける。折れる。

「それ」とは何か。前回高校野球の話を出したのでそれに準ずれば、例えば自分は野球が上手いから名門校に推薦で入学できる筈だ、とかレギュラーポジションが取れる筈だ、とか必ず県予選で優勝して甲子園に行ける筈だ、とかいった事を、明確にではなく“何となく当たり前の前提としてしまっている”人が、挫折し易い。自覚していないと、意識していないとそこに批判的な検討や洞察が加えられない。「もしかしたらもっと凄いやつがチームメイトに居てレギュラーの座は安泰ではないかもしれない」とか「中学の時のチームメイトが進学したあの高校はうちより強いかもしれない」とか、考えてみれば当たり前のことを考えない。こういう人は躓いた時に立ち上がれない。そんな所で躓くなんて思っていないから何の準備もしてなくて慌てふためき狼狽える。予定表にはそこ「徒歩5分」とだけ書いてあるだけだからね。下駄の緒が切れて歩けなくなるとか脚を挫いて動けなくなるとか、そんな事を予想していない。だからどうしていいかわからなくて混乱したり絶望したりする。

挫折しない人はそういう態度はとらない。「人生一寸先は闇」を毎日毎秒実践していて、どんな時も常に「自分の想定外の出来事は起こるものだ」と思って人生を歩んでいる。更にその上で、例え何かで失敗や失態があっても『二寸先は明るい未来』と笑って歌えるのだ。そう、宇多田ヒカルが「挫折なんてわからない。そんなのはただの概念(思い込み)。」と言うのは、正に本当にその通りなだけなのだ。何があってもめげない。やると決めたらやるし、やめると決めたらやめる。ただそれだけのことなのだ。

故に、挫折という思考的枠組みから解放されるには呪文のようにいつでもその『人生最高の日』の『一寸先が闇なら二寸先は明るい未来』の一節を歌うのがいい。躓いたら、埃を払って立ち上がればいい。足を怪我したなら、じっくり癒せばいい。元通りという意味で治るかどうかはともかく、兎に角、「そもそも自分は何が欲しかったのか」を常に顧みる事が肝要だ。甲子園で優勝したいと思ったのは何故だったのか、それは人生の中でどういう意味を持つのか。大学野球で優勝するのでは駄目なのか、日本のプロ野球やアメリカのメジャーリーグは…いやそもそも、プロになるって…とか、そういう自らの目標設定を徹底的に自覚して洗い直していける人は挫折にどんどん強くなる。どんな失敗もトライアンドエラーのプロセスのひとつに過ぎない、と笑い飛ばせるくらい豪胆になれれば、挫け折れる必要のない場面で挫折しなくて済むようになる。

とはいえ人生は一期一会。たった1回巡ってくるチャンスなんてのもあったりする。ハレー彗星観れるの一生で一度か二度、みたいなね。でもそもそも、なぜハレー彗星が観たかったのかというところにちゃんと立ち返って、自分が当然のように前提にしているものがなんなのかを常に洗い直せるようになれれば、失敗体験を美味しいと思えるようになりますよきっと、という話でしたとさ。…あれ?今回の日記単に俺がひたすら語っただけじゃね? ま、いっか。

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インスタライブ最初の一時間最後の質問が「挫折について」だった。ヒカルの言うことは余りにも的を射ていてぐうの音も出ないというか、そうだよね、うんうんと言うしかないほど真実味が溢れるものだった。

だけど、これ本当に挫折についてたった今悩んでる人にとって有用なのかなぁ?と思うとそこがなんだか心許なくてな。

というのも、ヒカルは、挫折する状況、即ち人生に於ける勝ちや負け、成功や失敗に関して

『その一個の勝負に勝つことが目的でやってるわけでもなくて』

というたった一言で片付けて本論に移ってしまったからだ。画面を見ながら「そのいちばん肝心な所をほぼスルー!?」と心の中でツッコンでしまったよ。いや、皆そこで躓いて悩んでるんだと思うんですけど…。

特に若い子たちにとっては社会生活において「勝負は一度きり」という局面が余りにも多い。しかもそれがそこからあとの人生を、大きく大きく左右する。いや実際はそんなの大した事ではなくて後からいくらでもカバーできることなのかもしれないが、悩んでいる人にとってはその時点での認識が総てなのだ。その時点で、その目の前の勝負が貴方の人生の成功と失敗を分ける、と思い込んでいたり思い込まされていたりするから、そこでの一度の負けや失敗が挫折の経験となっていつまでもいつまでも尾を引くのである。

だってそうでしょう、私立中学の受験失敗した人が留年してもう一度受け直せるか?無理なんだよそれは。生殺与奪を握っている親のような存在から物凄いプレッシャーをかけられて試験に挑んでそこで失敗したら小遣いを減らされるとか門限が厳しくなるとか交友関係を制限されるとか言われて更に挑んで負けて死ぬほど罵倒されてそこで「これはただ一度の失敗だからまた次頑張ればいい」と“その時点で”開き直って前向きになれる?? これは本当に“その時点で”そう思えなければ意味が無い。というのも、統計の教える所に拠れば、10代などの若い層での自殺理由のかなり多くがそういった学業等での挫折経験&体験によるものらしいからだ。……統計が信用出来るかという問題は大きいのだけが悔しいけどここでは深入りしないでおく。

中学受験だけでもない。他の資格試験、高校や高専や大学などの更に進んだ場所に行く為の試験もある。スポーツであれば、「甲子園で絶対優勝する!」という目標を掲げて頑張る若人には最大でも5回しかチャンスがない。彼らにとってそれは趣味ではない。なぜなら、それを理由にして高校に通わせて貰ってる人が殆どだからだ。れを理由に高校に入学させて貰えてそこからの進路も部活の成績次第というギョーカイがそこにあるのよ。大人の仕事と同じかそれ以上に切実に人生が掛かっている。或いは、そう、ただそう思い込まされている、そう洗脳されているだけなのかもしれない。ヒカルはそこを「ただの概念」としてスパッと斬り捨てていて、いや確かにそれはそうなんだけれども、現実にそれを価値として人生を賭けている人達がいるのだ。

実は私は、その点についてヒカルよりもっとドラスティックに「アホだなぁ。バカバカしいなぁ。」と普段から思ってるクチなので「野球したいなら身体が動かなくなるまでずっとやってりゃいいじゃん。動かなくなったらコーチでもすれば。」とか平気で言っちゃうデリカシーの欠片もない人間として実は全くエラそうなことは言えないんだけどね。同じスポーツでも例えば卓球なんかは野球と違って協会自体が昔から「生涯スポーツ」としての地位を重視していて、ギョーカイとしても死ぬまでピンポン玉を追いかけていたい人生を送ってる人が大量に居るもんだからあそこではそんなに「挫折感」ってないのよね。40代カテゴリーでタイトルがとれなかったら次は50代カテゴリーで頑張るか!みたいな事でずっと続けられる。勿論負けた時は人生終わった勢いで悔しがるんだけどね。それで辞めるという人が他のスポーツに較べて劇的に少ないというのが肌感覚だ。何より、人に自慢するとか承認欲求とかそういうのから離れて「やってて面白いから」っていう動機が(国際的にも)強いっていうこのスポーツ自体の特性が効いてるんだけれども。

うわ、余計な話をしていたら長くなったな。このままぬるっと次回に続けよう。…ってまた他の話題を差し挟むかもしれませんが。

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三浦建太郎が亡くなっていたそうな。うわぁ。長編漫画「ベルセルク」の作者さん。私は「ベルセルク」のアニメも観てないし漫画も読んではいないのだけど、「作者が死ぬまでに終えられないかもしれない」作品の代表格として常に名前が出ているのをみていて、他の漫画は読まなくなったけど「ベルセルク」だけは読んでいるという人も居たから、いつ終わるのか、果たして作者は描き切る事が出来るのかとそんな懸念が雲のように辺りを覆っていたのをずっと見てきていた。このまま未完になるのかな。

漫画ではなく小説だが、中島梓の「グイン・サーガ」は130巻まで刊行された時点で作者が逝去しそこで一旦絶筆・未完となった。がその後複数の作者によって正史の続編が紡がれ続けている、らしい。こちらも読んでいないから詳しい事はわからないのだが、そういうケースもあるのだと知っておいて損はないだろう。

勿論私は尾田栄一郎の事を心配している。多くを語る必要はないだろう。彼には適度に休みながら働いて欲しい。

あと、萩原一至は諦めているなぁ…メタラーとしては完結させて欲しいけどね。

ヒカルが気になっているとすれば「HUNTER×HUNTER」だろうかな。冨樫義博は長期休載の常連なのだが、でも本来創作家ってそんな感じじゃないのかね。殆ど毎週19ページ仕上げながら100巻目前の尾田が異常なだけで。

ストーリーものはどうしても作者が生きてるうちに、となるけれど、小説や漫画やアニメでは「キャラクター」が作者の死後も生き続ける。ディズニー兄弟が居なくなってもミッキーマウスは世界中で健在だ。日本でも藤子・F・不二雄が居なくなったあともドラえもんは毎週元気だ。なんだか、凄いことだねぇ。

くまちゃんはどうなるんだろう?とふと考えてしまってね。それでこんなことを書いている。自分はヒカルより歳上だからその行く末を見届ける事は出来ない可能性が高いし、だから諦めているという意味でそんなにシリアスに考えてはいないのだけど、2006年の絵本付きCD『ぼくはくま』がリリースされて以降様々なグッズにくまちゃんが登場してくれていて、シンガーソングライターなのに自分自身を象らない「キャラクター」というものが認知されて皆に愛されてきた。宇多田ヒカルという人は不世出且つ一世一代であって、歌舞伎や落語のように名前や演目を代々継いでいく存在ではないと思ってはいるんだが、くまちゃんに関してはなんだか別な気がする。


…1回その「くまちゃん」の歌う曲をリリースしてみてもいいかもなぁ。ヒカルが演じてもいいし、VOCALOIDを使ってもいい。物凄くイロモノな企画に思われるかもしれないが、すんごく長い目で物事をみた時に後々凄く効いてくる気がする。昔劇中の役になり切って歌をリリースした人もいたな。それをいうならジギースターダストのデヴィッド・ボウイか。それはそれとして。くまちゃん、ぬいぐるみではあるのだけれど、永久(とわ)に繋がれ継がれるとしたら彼しか居ないよな。「うたうくま」として、物凄い未来にも生き継がれていたらなんて、益体のない事を考えてしまった。改めて、三浦建太郎氏に謹んで哀悼の意を捧げたいと思います。お疲れ様でした。54歳か…若ぇなぁ…。

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