無意識日記
宇多田光 word:i_
 



透明とは何か、まで立ち返ってみる。ただ何もないのではなく、そこにあるのに見えないから透明なのだ。存在を、光によって知れない、そんな何かを透明と呼ぶ。ただ暗くて見えないのではなく、光に満ち溢れた中でも見えないのだ。

世の中で、その意味において、そこに間違いなく存在しているのに決して見えないものとは何か。どれだけ光を当てても見えないもの。それは光自身である。

光は、人が何かを見る行為を媒介する存在だが、それ自体は決して見えない。光る何かを見た時我々がみるのは太陽であり松明の炎であり蛍光灯そのものだ。なにかじんわりふんわり滲み出ているように見えるが、それが光の当たり方だと言うだけである。

ただ、これはただの"言い方"の問題であって、我々が見てるものは総て光だと言ってしまう事も出来る。そうなると我々は光以外の何かを"見る"なんて事は一切出来ない。"目に入る"ものは総て光でしかないからだ。

なにやら禅問答調で退屈な話だが、これはそのまま宇多田光の比喩である。私の目に入るのは彼女だけ、なんていうお約束も一応書いておくが主題はそこではない。光は透明になる事で、つまり見えなくなる事で本当の光になるのだ。

"光"という漢字をひかりと読むかひかると読むか、それはあらゆる場面において貴方の自由だ。光は本当の光になる為に透明であろうと欲する。青空は、透き通る事の目に見える極致である。悔しがるというか、嫉妬しているかもしれない。

話が退屈の次は何回になった。今夜はここらへんで止めておこう。


話をがらりと変えまして。昨日UTUBEでAutomaticのPVが200万回再生を達成した。GBH,PoL,FL,FoL,traveling,桜,COLORSについで8曲目である。多分、知名度の点では最も抜きん出たPVだろうが、案外伸びてないな、と思ったのは私だけではないだろう。"低い天井の部屋で歌っている"と言われて愛されたこの一品、もしかしたら定番過ぎてわざわざ見ようという気が起こらないのかもしれないな。

勿論、有り体にいえばこの曲の人気はこんなもん、と言ってしまう事もできる。デビュー曲だからというインパクトを差し引けばこれ位が妥当かな、とも思えてくる。ファンとしての実感からは乖離しているかもな。UTUBEは一般の方々も(というか大半か)利用する訳だからね。

8cmと12cmのシングルの合算だと200万枚を超えて、FoLのユニット数を除けば宇多田ヒカルで最も売れた曲ではある。time will tellの効果を評価して判定するのは難しいけれどもね。何しろ、UTUBEで一年以上かけて獲得した再生回数よりまだ多い数のCDシングルを売ったのである。買ったほぼ全員が1回以上は聴いただろうから、(実際には測定不可能な)全累積再生回数はとんでもない事になるだろうな。なんといってもいちばん古い曲だし。という感じで来週はデビュー13周年記念Weekなんですね~。勿論Wild Life一周年だったり、うちの子(非生物)が5歳になったりするんですが、取り敢えずはAutomatic/time will tellだろうね。なんなんだろ今夜のエントリーは。(笑)

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「透明」とはしばしばネガティヴな意味で用いられる。輪るピングドラムでは(今の所)"アイデンティティの崩壊と喪失"という意味で使われていて、それをどう阻止するかが目下の論点となっている。(まぁ尤もこのあとどんでん返しが待っているかもしれないが)

なのに光はその「透明」になりたい、と言う。何か破滅願望でもあるのだろうか、会いたいと願う気持ちが溢れ返る巷間でセットリストの最後にじんわりと沁み入るMCから『誰も居ない世界へ私を連れて行って』と歌うからには何か厭世感のようなものがあるのだろうか。死を身近に感じたり生きてる感じがしなかったり。そういう人間が『何も知らずにはしゃいでたあの頃へ戻りたいねbabyそしてもう一度KissMe』『生まれ変わってもあなたを愛したい』と現状肯定の肯定を繰り返す様は、何か突飛な印象を受けなくもない。

勿論、ただ制作時期が違っていてその時の状況や気分に左右されたのだ、と捉える事もできようが、ならばどうにも人間活動に突入する気運が生じないように思うのだ。ただの現状肯定であれば、今アーティスト活動を休む必要はない。「これでよかったんだ」という肯定自体が前に進む力を与えてくれる、そんな構造がどうにか存在する筈である。まさにGoodbye Happinessである。

Happinessとは充足した状態、満足した状態の事だ。器があったら空っぽでない、何かで満たされた感覚。"透き通った"とか"透明"とかからは程遠い領域だ。かといって、Happinessに別れを告げたとしてもそれが透明に向かう力になるかというと弱い。

『こんなに青い空は見た事がない』とは、昔から青い空を透明の象徴として使ってきた光にとって、そして嵐の通り道を歩いて返る光にとって、この道を行けば透明に至るという感覚が存在する事を意味する、のかな。うーん、続く。

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光の「いい音」に対する態度はよくみると(いや一目瞭然か?)かなり露骨である。前も書いた通りWild Lifeの特典映像でアコースティックギターを見つめる眼差しは慈しみそのものだし、他方Heart Station PVで着用した連邦の白い奴、じゃなかった、四角て白いヘッドフォンは落書きし放題である。あれ音よくないんだよね。

光は割と好みのハッキリした人間で―いや、より正確にいうと好み自体は割とどころか誰よりもクッキリハッキリしていて、それをどう表現するかについては割と温厚というか穏当というか、結構気を使いながら発言をする人だなぁ、と思う。「あれで!?」と思う人は光の嗜好の明瞭さを侮っているのかもしれない。誰にも譲らないと自負できる強烈に個性的な価値観がないと作曲なんて出来ないよ。

案外ここは弱いのかな、と思うのが食べ物の好みで、今まで色々と嫌いな食べ物についてコメントしてきたが説得力のあるヤツが思いつかない。ハンバーグなんて挽き肉の存在意義に異議を呈しているがおまぃら家族は餃子関連だろうがと思わず突っ込みを入れたくなる。圭子さんはラー油(太陽神ラーだっけ)、照實さんは酢キングなのだ。あれヒカルは何なんだ?

多分光は食べ物に好みってあんまりないんだと思う。その時食えるもん食ってきたんだろうな。あるもん食っとけな感じで。納豆が好きだというのは滅茶苦茶納得なのだが多分それも理由は蓋を開けてすぐ食べられるからだろう。ポッケにタレ入ってるヤツ便利だよねぇ。人間やるならあそこまでものぐさにならなければ。

まぁその食生活は兎も角、本来クセの強い嗜好をもつ光が「ガスになって地球を覆い尽くしたい」みたいな事を言い始めたのがしないなんというかよくわからない。いや私が「わからない」なんて言っちゃいけないんだろうけど、何故なんだろうかホント。

宇多田ヒカルという人は"Automatic"でデビューした。これは"マニュアル"の反対語である。我が世の春を謳歌するJ-popシーンが最高潮の市場であった98年にヒカルはデビューした。もうその頃にはヒット曲の方程式みたいなもんが確立され物事が形骸化形式化し、何もかもがマニュアル化されスノッブなニヒリズムが幅を利かせ総ては実感の乏しい型の集まりと化していた。そういった文化の頂点のアンチテーゼとして、心底エモーショナルで人間的で何ものにも代え難くそれそのもの以外のなにものでもない何かとしてヒカルは現れたのだ。

そういう、実体そのもの、実存と実感の人であるヒカルが虚ろさに惹かれるようになったのは何故なのだろうか。答えを知っているのか知らないのか、答えがあるのかないのかも含めて次回考えてみたいと思う。さぁどうなるか。自分がいちばん楽しみである。

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10年前、とまではいかないが、New Hikki's Worldの管理人、ヨイショの金さんがヒカルの5で大量に新しいファンが雪崩込んできた時にいちばん人気の曲が「光」である事を不思議がっていた事を思い出した。当時も今もヒカルの曲で一曲選べといわれたら光を選ぶ私も、その感覚はよくわかる。確かに、この曲はそれまでのヒカルの曲からすると異質だった。

この、ファンの世代ごとの嗜好の差異は即ちヒカルの作風の変化に対応しているのだがもっとそれ以上に宇多田光自身のパーソナリティの変化に対応しているように思える。

いやまぁアーティストとしての志向と個人としての嗜好が連動する事は当たり前っちゃ当たり前なのだが、それにしたってこうあからさまだと何なんだろうと不思議に感じてしまうのである。

ただ、こうやっておおっぴらにアーティスト活動を休止している今の時期は光のパーソナリティの変化に対応する手段というか繋がりが絶たれている訳で、この断絶が将来どう効いてくるかは興味を引く。年齢・世代的なものも含め、ここだけ人がぽっかり空きはしないかと何だか妙な虚しさを覚える。

光は、わざと断絶を作ったのだろうか。金さんが「光」を今までの流れと異なる楽曲だと感じたその時点で、まだデビューして3年とちょっとである。その短期間で、新しい世代のファンがわんさか入り込んできて軸足のずれた趣味嗜好を披露する、昔からのファンはそういうものかと違和感を感じながら、新しい世代とコミュニケーションをとったり、距離を置いたり、或いはヒカルそのものから離れていったりする。

私の場合、冒頭で述べたようにヒカルの曲で一曲選べといわれたら今でも光と答えるが、それは一曲に絞るのが難しいから「いちばん好きなのは光本人です」と云う代わりに選んでいるという側面がある。裏を返せば、特にあの時代にだけ思い入れが強い訳でもないし、実際、なんだかんだで今の作風がいたくお気に入りだ。あんまり昔に戻りたいという気分はなく、ここからどうなるんだろうという気持ちの方が遥かに強い。

ただ、光の頃の光は、幸せそうだったなぁ、という以上に、元気でパワフルでイキイキしていたなぁ、という印象は強い。作風とパーソナリティとは連動して当然、とはいったけれど、この頃の連動ぶりは確かに特別だった気がする。まぁだからこそ自分の名前の漢字を曲名にしたりしたんですわね。

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traveling発売10周年。普段そんなに考えないけど、これはかなり感慨深い。特に、宇多田共和国関係者は10年経つのかと思わずにいられないだろう。当時私まだ居なかったけど、あれから10年だと光にいえば彼女もグッとくるに違いない。お陰様で毎年この一週間、あの家族は祝いっ放しである。生きてるって、強い。

関係者以外何の事かわからない事を書いてしまった。話を戻そう。traveling10周年だ。

今や、この曲をLIVEでやらない事は考えられない。In The Fleshじゃやらんかったけど。そう言いたくなる位LIVE映えする曲だ。サビは勿論歌うだろう。『目指すは君!』って指ささなくっちゃいけないだろう。のちに「20代はイケイケ!」と宣言する光だが、ノリノリイケイケの決定版といえばtravelingだ。

何が凄いってワンワードリフレインがここまでキャッチーな所。全く他の邦楽にはみられない。小室哲哉も全盛期は英語リフレインの鬼だったが、何だかんだてツーワード、スリーワードだった(Self ControlからBe Togetherに至るまで。あ、鈴木亜美のね)。ワンワードを刷り込む力は恐らく邦楽史上最強の部類に入るだろう。

そして、そこから更に凄いのはイントロからアウトロに至る迄全くテンションが落ちない事である。特にDeep Riverアルバムの曲が最も顕著なのだが、イントロ、ヴァース、ブリッジ、コーラス、展開部、アウトロととにかくずっと張り詰めているのだ。

これより後、ULTRA BLUE以降はヴァースとコーラスのテンションに落差をつける傾向が強くなっていく。This Is Loveがその代表格だし、何より、最近作のGoodbye HappinessとCan't Wait 'Til Christmasは非常に際立ってヴァースとコーラスの落差が強調されている。そのしなやかなダイナミズムが成熟であり、選択と集中を極め熟れた作曲術の顕現ならば、どこまでも張り詰めているtravelingは青く堅い果実のようだ。歌詞の中にも出てくる通り、若さに溢れ、且つその時期に音楽的才能が溢れ返っていなければこんな曲は書けない。天才の女子が、18歳で、最高の集中力を以てして描き上げた楽曲、それがtravelingだ。

昔からよく言われるように、女性が最もその年齢のアドヴァンテージを発揮できるのが17歳、18歳だ。その瑞々しさと青い果実の硬質感、そしてクールなベースラインのオブリガード、と"その時にしか生まれ得なかった"瞬間の数々がリレントレスリィ・ハイ・テンションで詰まりまくっている。こんな曲がLIVEに向かないわけがない。嗚呼、生きてるって強い。やっぱりそう感じさせてくれる生命力に満ち溢れた楽曲である。10歳の誕生日、おめでとう。

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UHFアニメFate/Zeroは余りに原作の設定や心理描写が精緻な余り、原作既読者からは「描写が足りない」という不評も一部出ているようだ。原作有りアニメの宿命みたいなものだな。

私は原作未読なので特に気にする事なく楽しんでいる。確かにどう漢字をあてるかもわからない専門用語やらやや唐突にみえる台詞回しや登場人物の行動などがない訳ではないが、そういうもんだと割り切って見ていれば気にならない。

そういう"割り切り"ができるのは、2つの事を区別しているからだ。口上や行動の動機理由が明晰で、確り言葉に出来る状態と、動機理由は不明だが、何か筋の通った説明が存在する、という状態である。平たくいえば、説明はちゃんと存在していて、それが作中で明示的に時間を割いて表現されているか否か、だ。

この2つの状態と、説明がどこにも存在しない、或いは存在しても考察の詰めが浅く粗がすぐ指摘できる、というケースさえ区別できれば事足りる。私はそういう態度で見ているから少々画面上で説明不足でも気にならない。

肝心なのは、その作品と作者に対する信頼、そして作品中の整合可能性である。それまでの展開や描写の丁寧さからして、恐らく後から説明の辻褄は合うだろうという信頼と、限定された描写が破綻を現時点で含みそうにない感覚。それさえ共有できれば視聴継続の理由には足りるのである。


ミュージシャンに対する態度もほぼ同じだ。仮にその時点で動機や理由が不明確な状態が続いても、それまでの実績や経過からして信頼に足ると判断できるのであれば"視聴の継続"を絶つ理由には、私はならない。

しかしながら、上記のように、逐一動機説明の明確化を要望する層も存在する事は確かだ。彼らに対する宇多田ヒカルのケアは十分であるとはいえないかもしれない。人間活動に入るっつって音沙汰なしだもんね。

そういう人たちに対して"視聴の継続"を求めるのは無理強いだと思う。自由にやってくれたらいい。しかし、理由や動機の説明が今の時点で明確に目に入ってこないからといって、実際に我々を納得させられる説明が存在しない事にはならない。有無についての情報の到達と有無の是非自体は別問題なのだ。そこの所はハッキリと区別しておいて欲しい。人間活動期間中の事も"いつか"我々の許に明確な説明の情報として到達するかもしれない。その情報の無さを埋めるのは過去の実績に基づいた信頼だろう。それに関しては、宇多田ヒカルの右に出る者は居ないと思うのだが如何だろうか。

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ツイッターを始めた後に人間活動に入るという流れ、何となく妙な感じだ。

「ほぼ独り言を呟け」というコンセプトは秀逸で、お陰で多くの知人の息災をAutomaticに知る事が出来る。BBSに何か書くには主張だとか情報だとか中身がなくちゃいけないんじゃ、と力んでしまう人も多いし、Chatは"入室"という高い敷居がある。どうしてるかな~、と思ってもそれだけでEmailを送ってしまうと意味深に受け取られてしまいかねない。いろんなツールは気を使うが、twitterは取るに足らない事を書いてもらえて実にいい。ああ、あの人もこの人も今日も元気なんだな、ああこの人は風邪引いたのかお大事に、てなもんである。実にいい制度設計。mixiと30日に共同会見って何なのだろう、不安しか喚起しない取り合わせだ。いやまぁ今それはさておき。

光も、そうやって呟く事で我々を喜ばせてきた。含蓄のある事をついつい呟いてしまうのは才女な為致し方ない。でもぼんじゅーるの一言で十分なのだ。じゅうぶんぼんじゅーるなのだ。なんのこっちゃ。

いやいや、元々期間限定の筈だった所が、こうやってアカウントを存続してくれている事が有り難い訳で、それについては文句はないのだが、周りのみんな(といっても全然全員とかじゃないんだが)の消息をツイッターで確認するクセのついた人間にとっては、いちばん知りたい女性の声が聞こえないというのは、やっぱり、何だか妙だ。

こうやって、ネットから隠れているといったって、本人は普通に生活し、周りの人と交流して生きているだろうから、何も妙な事はない。今まで通り、音沙汰無し期間を互いに満喫すればいい、と思うのだが。


思うに、光は結局、無意味な事、でもないか、"手軽な一言"を沢山呟き過ぎたのではないか。言葉の中身が軽くなればなるほど言葉は挨拶となる。つまり、言いたい中身の話なんかじゃなく、言葉を交わし合う行為自体に意味がある。そういった"やりとり"にたった数ヶ月間慣れてしまったせいで、メッセをただ待っていた時とは異なった感覚が立ち上がるのだ。

twitterの特徴は、全世界に独り言を振り撒く事。そこに中身なんて必要じゃない。呟く行為自体に意味がある。呟きは世界全体への挨拶なのである。つまり、光がメッセージを書かない事とぼんじゅーるを呟かない事は機能的意義が異なるのだ。前者は、今光が何を考えているか、感じているか、我々に対して伝えたい事は何なのか、といった事が主眼だった。つまり、光の頭の中身があって、それを知れるか知れないかがメッセ更新の機能だったのだ。ツイートが教えてくれるのは、光がそこに居る事。つまり、かなり純粋に肉体性の話になってくるのだ。勿論錯覚なのだが、肉体感覚は大抵錯覚である。身体を自分のイメージ通りに動かせる人なんて滅多に居ないのだから我々のもつ肉体イメージ、肉体感覚は間違っている。言語だからといってその肉体的側面を否定する事はない。


あら、話がややこしくなってるな。ツイートがなくてさみしい、ってひとことで切り捨てようと思っていたのに。いずれにしても、"ファン"という奇妙な立場に居る事は、本人が不在だと益々奇妙さを増していく。私が言うと説得力が有りすぎるので、今夜はこれ位にしておこう。

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さてSC2発売が1年が経過した。で、今小さく悩んでいるのが「宇多田ヒカルのアルバムの通しナンバー」をどうするか、だ。

いやいや、普通の話だ。First Loveが1stアルバム、Distanceが2ndアルバム、Deep Riverが3rdアルバム、ULTRA BLUEが4thアルバム、HEART STATIONが5thアルバム、と少なくとも当欄ではそう呼んでいる。Single Collection Vol.1を通しナンバーに入れてこなかったのは、単純にそこに新規音源がなかったからだ。では、新曲を5曲も含んだSC2はどう扱うべきなのだろう。

勿論、しれっと"オリジナルアルバムではないから"と次の作品が出た時に「宇多田ヒカル6枚目のオリジナルアルバム」と言ってしまえば事足りるのだが、それではまるでSC2D2(スターウォーズみたいだなこの略し方)の5曲が"番外編"みたいな扱いに思えてしまう。シングルのカップリング曲のような"嬉しいボーナス"と異なり、ファンの実感からすれば、光の人間活動中におけるひとつの道しるべであり拠り所であり希望でもあるのだ。寧ろ、普段のオリジナルアルバムの楽曲より重みのある存在群だとすらいえるかもしれない。そんな楽曲たちを"キャリアから外れた"ように扱うのは、どこまでも違和感を感じざるを得ないのだ。

ヒカルがインタビューで言うには「私の作品は総て後から手に入るようにしておきたい」との事だが、SC2D2の楽曲はSC2に収録されている限りそれで十分なので、今後発売されるかもしれないB-tracksに収録される事も望み薄だ。勿論そのB-tracksの通しナンバーをどうするかという問題もあるのだが。

そもそも、通しナンバーとはアーティストの作風の変遷を捉える為につけるものだろう。この、宇多田ヒカルという歴史的なアーティストの作品群を把握するにあたって、SC2D2の5曲は欠くべからざざる楽曲群なのだから、何らかの方法でオリジナルアルバムの流れの中に位置付けておきたい。その"流れ"というものを重視するのであれば、後から他のコンピレーションに収録されても意味はない。2010年の秋冬にリリースされた事自体に意味があるのだから。

正直、うまい解決策は思い付かない。こんな話は些事であって悩むまでもない、という意見には全面同意するが、書き手の感覚として、「5枚目のHEART STATIONに続く6枚目のオリジナルアルバム」と書く時に、何やらSC2D2をオミットしたような妙な感覚に襲われそうでイヤなのだ。筆先が鈍る。

まぁ、それを言ったら間に挟まれたUtaDAの2枚のオリジナルアルバムはどうするんだって感じなんだけど。

どうせなら、クラシックのアーティストみたいに宇多田光の作品群に全部の通し番号をつけて把握したいもんだ。宇多田ヒカル名義もUtaDA名義も何もかも。ったく私が勝手にやってやろうか。

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楽曲を制作しておきながらリリースしたりしなかったりしていくとすれば、仮に今までと同じ制作ペースを維持したとしても確実に発表の間隔は長くなってゆく。

実際、長く続けてきたミュージシャンは大抵キャリアの後半になってゆくにしたがい、リリースペースが落ちてゆく。それは、既に地位を確立していて若い頃のように自分の事を証明する必要がなくなってくるからでもあり、知名度とともにゆったりしたレコード契約を結べるようになるという事もあり、又、ツアーがどんどん大規模になってゆき単純に創作に費やせる時間の割合が減るということもあり、結婚して家族ができて家で過ごす時間が確保したくなるからでもあり。理由は様々だが、なかなか後期になるにつれリリースペースが増してゆく例はない。

光の場合、まだ28歳である。復帰するとしてもまだ30代、普通であるならまだ成長過程であってもいい筈の年齢だが、やはりここはスポーツ選手同様勤続年数を考慮すべきなのだろうか。

SC2DISC2の新曲が"幻の6thアルバムの楽曲"だという私の解釈に立つならば、光は作曲家として成熟期に差し掛かっており、これから質の高い曲はより高く、研ぎ澄まされ、しかし間隔は大きくなってゆく、というのが見立てられる帰結である。

光自身が、どう考えているかはわからない。

ただ、その前に、何度も指摘してきたように、"アルバム"という形態が存続するか、という問題もある。例えば一年半位かけてシングルを5枚リリースし、そこから半年間ツアー、なんてサイクルも考えられる。遅くなる創作ペースに従ってそれを4曲とか、3曲にすればよい。体力的な問題さえ起きなければ、ツアー自体はあと2~30年は定常的に敢行できるだろう。

しかしそれもまた妄想だ。

ヒカルは、恐らく、邦楽市場に於いて稀に見る"無期限複数枚契約"を結んだアーティストなのだ。10枚か何かは知らないが、1年1枚の縛りを気にする事なくアルバムを制作できる環境にある。まぁ、無期限といってもヒカルはレコード会社の事情を聞き入れる方だから、ついつい決算間際の3月リリースが多くなってしまっているが。

その契約がある以上、そして、恐らくそういった側面においては伝統的なフォーマットを好むであろう性格(つまりファンが戸惑うような事は敢えてしない人で―いやしまくってきた気もするな…どっちだろう特技惑わす事の人)を考えると、4年に一枚とか、8年に一枚とかのペースになっていくかもしれない。遅かれ早かれ、そうなる事は避けられないのだ。成熟していくアーティストというものは。

いや実は、この人間活動がよいリフレッシュとなって、熟れて熟した実だった創作能力がまた青く堅く若々しく瑞々しいものに変化するかもしれない。光はそれを狙っているかもしれない。

しかし、今週何度も繰り返してきた"成熟"という過程は、非常に一般性の高い"自然現象"なのである。生物の一生でも星の一生でも芸の遷移でもいい、時と共に変化する事物にとって不可避的に訪れるものなのだ。光がもしそれに抗おうというのなら、何か"自然の摂理に反する"行為をしなければならない。

でもそれは、"Wild Life"というキーワードと相容れなかったりします。難しいなぁもぉ。

ファンとしては、ペースは好きにしていいからカラダ壊さないでね、というのが最優先だったりするので、そこもまた奇妙な螺旋の絡み合いになりそうだ。

この問題は、まだまだしっかり考えにゃあ、ならんな。

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光が一曲として手を抜きたくない、と思うのは、標準的な邦楽プロアーティストからは外れている感性だ。だからこそ規格外のヒットを連発出来た訳だが、この13年間(いやまぁ去年までだと12年間)その矜持を一度として解かずに駆け抜けた。既にこれで稀有だ。いやまぁデビュー曲で既に唯一無二でしたけどもね。

それについてはまだ続きの考察も有り得るが、そこを一旦すっ飛ばして復帰後の事を考えてみる。果たして、この「捨て曲なし」の矜持は、今までと変わらず堅持していけるのだろうか。

ひとつすぐ考えられるのは、作り上げた曲総てを発表する今のスタイルを捨て、完パケを作りながらリリースする作品を選ぶ事である。勿論、今までだってそうやって"お蔵入り"になってきたアイデアは沢山あるだろう。特に、Celebrateの影に隠れたバラードなどはかなり完成品に近かったと考えられる。然し乍、基本的には光は「リリースの約束(〆切ですね)があるから完成させる」人であって、その逃げない感性がここまでのテンションを担保してきた訳だ。果たして、世に出さない曲を生産する"やる気"みたいなもんを、維持出来るかどうかは疑わしい。

でもそこをクリアーしないと、「出す曲総てに捨て曲なし」の看板を捨てなくてはいけなくなる。どちらをとるか。

そこでひとつ考えられるのは、"プライベートでの音楽活動"だ。宇多田光という人は、デビューから、いやデビュー以前から、歌い始める時からしてスタジオで両親に「歌ってみない?」といわれてスタートしており、日本デビューアルバムもレコード会社から(三宅Pから)の依頼で始めたのだ。常々、楽曲制作は依頼ありき、仕事ありきだったのである。そこに生来の負け嫌いとプロフェッショナリズムが重なってこのキャリアを築き上げてきたのだ。成り立ちからして違うのである。

勿論、普段からMacを引っ張り出してきてアイデアを生み出し整理するような作業、遊びはしていただろう。インタビューの節々で、過去に書き貯めておいたアイデアを援用したととれる発言は幾つかしている。

今回は、そこから一歩踏み込んで、仕事以外でも完パケとしての"楽曲"を生み出す側面も持ってみたらどうか、と提案してみてる訳である。

成熟したアーティストとして、選択と集中が特化し、仮にその事態が避けられなくなるのならば、そして、捨て曲なしの矜持を堅牢にしたいのならば、そういったアプローチもまたアリなんじゃないか、そういう事なんだが、でも、創作発表のペースが格段に落ちるのが難点なんだよねぇ。そこの所についてはまた次回。

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仮に時間があってもフルアルバム分の曲数を揃えられなかったのではないか、という話の続き。

しかしこれは、一般論である。人は、青く硬い実から次第に熟していき枯れ落ちる。人の営み全般にいえることだが、作品作りにもその傾向はみてとれる。

若い時は常に全力で、力を抜くという事を知らない。時に手当たり次第にに、時に隙無く、作品の密度を上げていく。妥協を許さず、総てをハイクォリティーに揃えようという気迫がある。

これが成熟してくると、"力を抜く"という事を覚え、肝心要のポイントにだけ注力するようになる。若い頃と違い、自らが操れるエナジーの総量が見えているからだが、平時はぼーっとしているようにみえて、要所を占めるようになる。

これが、果実が熟す様に似ているのだろう。茎を細らせてでも、実に栄養を集中させようとするような作用。人が成熟していく姿と実の熟す姿がイメージの中で重ね合わされている。本質は、選択(と排除)と集中である。

そして、実った実はそうやって枯らした周囲に呑み込まれるようにして腐り落ちていく。世の常人の常だ。エナジーの総量自体が減じていくのである。

音楽でも、全曲充実したアルバムを作ったアーティストが次第に捨て曲の多い、ひとつふたつの名曲に焦点を絞った作風に変化する事もある。肝心要の楽曲にとことん集中し、他が疎かになってゆく。メタルでいえばブラインド・ガーディアンがそうだったが、まぁそれはいいや。

光は、それが我慢ならなかったのではないか。邦楽市場というのは伝統的に、一年に一枚のアルバムを作る契約を結ぶ事が普通だった。これは非常なハイペースだが、従って全曲が充実したアルバムに出会う事はなく、大抵はシングル曲以外は穴埋めといった感じだった。

宇多田ヒカルは、この原則に当てはまらなかった。兎に角結果はどうあれ全曲に全力を傾けそして実際にHEART STATIONのように全曲捨て曲って何ですか意味がわかりませんなアルバムを作り上げた。とんでもない努力の結晶だったと思う。

そんな光でさえ、曲作りに於いて自分が熟していき、"うまい具合に力を抜いて"曲作りを始めそうになっていきそうだった…自分のそんな変化を、事前に察知していたのではないか。

熟す、といっているが、このプロセスは意志の力ではどうしようもない。人の営みに於いて、いや自然の営みに於いて本質的な事であるから、我々はそれをただ時間の流れるままに眺めている事しかできない。あわよくば、その流れの中で曲を作ってみたりして爪痕を残す事は出来るかもしれないけれど。

今までアルバム全体をハイクォリティーに仕上げてきた"感性の若い"光が、適度に成熟して力の抜き加減を覚えた大人びた作品にするよりは、その中で集中力を発揮したメインとなる楽曲"のみ"を世に出したかったのかもしれない。斯くして、"全曲全力の宇多田ヒカル"という(本質的な)ブランドは守られた、そんなストーリーを描いてみたのだが、さてどうだろうな。

勿論、"実に栄養ばかり行って茎とかが痩せ細った"描像は光の言い出したイメージである。それをよしとしなかった、アーティスト活動を休止するに足る理由であると判断したこの光の価値観、価値基準が、光の個性そのものである気がする。SC2はその価値基準の許にプロデュースされたから、ヒカルの作品としてのオリジナリティが前面に押し出される事になったのだ。

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何故6枚目のオリジナルアルバムを作らずシングルコレクションを制作したのか。時間が足りなかったというのは勿論事実だが、2010年一杯で活動を休止すると決めたのは他ならぬ光自身であって、光がもしオリジナルアルバムを作ると言い出せばEMIは断らなかったのではなかろうか。実際、人間活動に入ると申し出た光にそれなら休止前にシングルコレクションを、と持ち掛けたのはレコード会社側だった筈だ。

で、ここが分岐点なのだが。もしここで光がその(SC2をリリースするという)案を快諾したとしても、何もここまで気合いを入れてもらう必要は、レコード会社側にはなかったのではないか。つまり、そうか宇多田さん休むならこちらで既存音源を使ってコンピレーションを作って場を繋ぎますよ、と最初は思っていたのではないかな。つまり、大体SC1と同じ体裁を想定していた、と。勿論、光が乗り気で新曲からアートワークやら手掛けてくれるのであればそれに越した事はない、とも考えていただろうが。

何しろ、シングルコレクションの付録、オマケにしては新曲5曲が充実し過ぎているのである。当欄で何度も主張してきたように、このクォリティーは過去最高レベルだ。これだけの曲をこの数作れるのであれば、どうせならもう半年~1年曲を貯めてフルアルバムを作ればよかったのに、と言い出したくなる位の出来なのだ。

ここで、事情をしっかり把握している者ならば、「それはつまり、宇多田光としては今すぐにでもアーティスト活動休止したい、勤続疲労があるから。しかし一方で契約の残るレコード会社に対してもファンに対してもけじめをつけておきたい、そういった気持ちのせめぎ合いの中で、落としどころがちょうど新曲5曲をフィーチャしたシングルコレクションだったのだろう。」と正しく解釈するだろう。その通りだ。光自身も、そう解釈しているだろう。確かに、それならそれでいい。

しかし私は、別の考え方をしている。もし光がこの後も時間をとって、半年、1年と時間を掛けてフルアルバムを制作したとしても、その結果は芳しくなかったのではないかと想定する。この5曲のあと、幾ら音を積み重ねようとも、シングルコレクションに入る曲は結局この5曲であって、他の曲は一般的に宇多田ヒカルに求められているシングル曲クォリティー、或いは彼女に限ってはほぼ同じ意味だがアルバム曲クォリティーに、達する事ができなかったのではないかと思うのだ。

そして、光はそれを本能的に察知してその事態を回避したのではないか。


その辺りの考察は、長くなるのでまた次回。

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そういえば今週はSingle Collection Vol.2発売一周年記念週間である。この一年この作品について結構語ってきたように思っていたが、肝心な所を落としている。即ち、「宇多田ヒカルにとってこの作品は何なのか。」という非常に漠然とした、然し確実にクリティカルなイシューである。

周知の通り、光のこの作品への力の入れ方はVol.1とは訳が違う。2004年にVol.1で光がした事といえば「手書きで"思春期"と書いた」だけであったが、今回は新曲5曲を短期間で設え、装丁からおまけから総てをトータル・プロデュースした。この力の入り具合の違いは一体何だったのだろうか。

一般的には"シングル・コレクション"としてのVol.2の評価は必ずしも芳しくない。理由は単純で、日本中を熱狂の渦に巻き込んだ最初期3枚からのシングルに国民的大ヒット曲COLORSまで加えたVol.1と比べると、2枚のアルバムからの抜粋であるVol.2は些か物足りない、というかまだシングルコレクション出すタイミングじゃないでしょ、という感じになっている。確かに、ULTRA BLUEの濃厚さとHEART STATIONのスケール感は、各自名曲をズラリと並べた威風堂々さを源にしている訳で、即ち初期より遙かにアルバム曲が充実しているこの2枚からの抜粋では、Vol.1のようなシングルで固めたお得感みたいなものがない。

それでもなお、このコンピレーションのリリースを快諾し、力の入った作品に仕上げた光の真の意図はどこにあったのか。考えてもみて欲しい、もしこのリリースが決まる前に、「ヒカルがアルバム2枚でシングルコレクション出すと思う?」と訊かれたら、多くのファンが「彼女なら断るんじゃないかな」と答えた筈である。複数枚商法等、商売っ気のない事で有名な宇多田ヒカルがたった2枚でそんなの出して小遣い稼ぎに走る筈がない、と。

そこで考えた。もしかしたら、ヒカルは、"(幻の)6枚目のオリジナルアルバム"からのシングルも、このアルバムに収録したのではないか。即ちVol.1と同じ、3枚のアルバムの楽曲から成るコンピレーション、それがSingle Collection Vol.2なのではないか。

世に出ていない、誰も手にとった事のない宇多田ヒカル6枚目のオリジナルアルバム。そこから抜粋された楽曲が、Single Collection Vol.2のDisc 2に収録されたのだ、と考えるのだ。そういう風に眺めれば、光がSC2に気合いを入れた理由がみえてくる。

勿論、ヒカルが実際に6枚目のオリジナルアルバムを制作した訳ではない。それは時間的にも体力的にも無理だったのだろう。然し、彼女が仮にオリジナルアルバムをもう1枚作ったとして、その上でSingle Collection Vol.2に収録するならどんな楽曲になるだろう、という想定の許であの5曲が生まれたのだ、と考えると光の真意が見えてくる。

何故彼女はこの作品を、Disc1とDisc2併せて(続けて)聴くように促したのか、何故Disc2がDisc1を優しく包み込むようにCDジャケットを誂えたのか。それは、これがひとつの連なった作品であり、Disc2はDisc1のおまけ、或いは独立した作品なのではなく、真に"シングルコレクション"としての機能を2枚併せて初めて果たす、そんな意図があったからではないか。

そう考え直してこの2枚組を通して聴いてみると、つまり、Disc2が幻の6枚目のオリジナルアルバムからの抜粋だと思って聴いてみると、このVol.2はVol.1を遥かに上回るスケール感を我々の眼前に表してくる。いや、あのVol.1もこのVol.2のイントロダクションに過ぎなかったのかもしれない。というのも、さっきはVol.1の光の仕事は思春期と手書きしただけ、といったが、忘れてはならない重要な仕事がもうひとつあった、あの、表紙に描かれた短い詩である。あの世界観を、嵐の女神や愛のアンセムが引き継いでいるのだ。Vol.2とVol.1は繋がっているのである。

こうやって見方を変えてみると、このSC2という作品の存在感すら違ってみえてくる。宇多田ヒカルの4~6thアルバムの集大成だと思って2枚通して聴けば、物足りない抜粋だと思っていたDisc1まで違って聞こえてくる。

ならば、だ。何故ヒカルは、6枚目のアルバムをすっ飛ばしてこのSC2を作り人間活動に入ってしまったのだろうか、それが疑問として浮かんでくる。のだがその話は今夜は手に余るからまたいつか稿を改めてということで。

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今回もYoutubeネタから入ってみる。UTUBEでは、ないけれど。

週末、UtaDAのCome Back To Meが500万回再生を達成、それとほぼ時を同じくしてEasy Breezyが120万回再生を、You Make Me Want To Be A Manが60万回再生をそれぞれ達成した。この3つともUpload日は2009年10月5日(あれ、EXODUS全米発売5周年記念日じゃない?)となっているから、この累積再生回数は大凡曲ごとの人気を表しているとみていいだろう。

やはり、1stの2曲と較べて2ndのCBtMは非常に高い人気・認知度・知名度を持っている事がわかる。デイリーでも、先週紹介したように日本のUTUBEでいうオートマやキャンシー並の人気なのである。これからみても、UtaDAの2ndはかなりの規模で成功を納めたとみていいだろう。実際、iTunesStoreUSA総合チャートで18位まで上がったんだしね。

事前の期待が高かっただけにどうやら光の全米デビューに関しては"進出失敗"が定評となっているようだが、このCBtMの浸透度をみるだけでもそれをいうのはかなるの無理がある事がわかる。もうほぼ全くメディアでも取り上げられない楽曲が毎日5000回再生されるのだから発売時にかなりの範囲に響いていたに相違ない。勿論、それもこれも楽曲のよさあってこそなんですが。

UTUBEから得られる教訓は、経済活動から離れて、"実際に聞かれる"楽曲には、新旧が余り関係がないという点だ。7年も前の曲であるEBとYMMも、自らの楽曲としての力でこの人気を獲得しているとみてよい。

この、"ファン・ベース"のようなものがある限り、光が次回英語曲を英語圏で発表する頃には、かなりの注目度が集まり得る事が予想される。発売時に病欠した印象が強い為全米をはじめとした各国での知名度が見え難くなっているが、あまり怯まず、次を待っている人の多さをしっかり胸に刻みつけておく必要があるだろう。EMIでの世界契約には、かなりの勝算(商算?)があるとみるべきなのだ。

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『予期せぬ愛に自由奪われたいね』

愛と自由は対義語である。日本文化のマイルストーンである漫画「ONE PIECE」の主題が自由なら、日本文化の発展的消滅を担う宇多田ヒカルの主題は愛である。

愛の不自由さは度し難い。何しろデビュー曲が"Automatic"である。日本語にすれば"いつのまにか"位が適当だろうが、人としての意志や選択を超えた所で物事が決まるからには"自動的"なのだろう。

この精神は近年に至るまで徹底している。何しろ"Prisoner Of Love"である。愛に囚われ、愛に生きる。

主題としては、自由なんかなくても、それが受け容れられるか否か、望ましいか否か、願いが叶っているか否かが愛にとっては重要となる。

夢を追う人生は、自由への探求である。目の前の不自由から解き放たれ、意志による選択を繰り返して夢に近づいていく過程。それは彼が次第に自由となる事なのだ。

愛に生きるからには、そこにはどうしようもなさやせつなさが溢れ還る。モンキー・D・ルフィにとって最も遠い感情はせつなさだろう。悔しがり、怒り、悲しみ、目を輝かせ、笑い、塞ぎ、どこまでも天真爛漫な彼に、せつなくなる瞬間はない。どうしようもない事は諦めるか打ち崩すか統べるかするものであって、そのどれでもない空間を揺蕩う事はない。信念を決して曲げないからだ。

現実。抗い難く、どうしようもなく、時に受け容れ難く、時に有り難い。それに対して目を瞑って肯いて目を見開いて笑いかける事。光から溢れる愛は、自由を手に出来なかった、しかしそれでも生きている者達に響く。

なぜルフィを持ち出してきたかって? 結局どういう事なのか知りたいからだ。輝くとは何なのだろうかと。Dの名が何なのかは知らないが、彼もまた太陽のように辺りを照らす輝きである。

光は光の名を持つ。それ自体が輝きなのだが、愛とは輝く事なのか。何か少し違う気がする。ただ、愛から始めて、そこから何かに辿り着くというか、結局ずっとここに居るというか、自由への希求のような生き方とは対極な、不自由と愛を湛えた声の持ち主としてこれからも歌うのだろうかと思ってみたのだ。

要は、ヒカルってONE PIECEの話しないね、ドラゴンボールやHxHの話はするのに、っていう事なのだが、産業規模として負けているのは悔しいというか仕方ないというか、上述のように対極の世界観にある二人なので比較するのもばかばかしいというか。閉塞感漂う世相だから自由をひたすら求めるワンピは支持を受けるのだ、とかホントどうでもいい事も言いたくなってくる。

焦ってはダメだ。自分にそう言い聞かせる為にこのエントリーを書いた気がする。何かをしようとしない、ただ受け容れる。それもまた生き方だと、自由が好きな私に言い聞かせる。ワンピが面白いのは最早国民的百も承知な事実だし、宇多田ヒカルの歌が素晴らしいのもまた然りだが、うーん、まぁ焦らずいきますよ。どうしようもないんだから。

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