無意識日記
宇多田光 word:i_
 



染髪強要にせよLGBT揶揄にせよ人種差別にせよ、そこにあるのは圧倒的な同調圧力だ。自分と異なる者を排除する思想。嗚呼、私からは遠い(たぶん)。

よくもまぁそんなに他人の人生に関心を持てるものだと感心するが、それは私がそれなりに自分の価値観で物事を選別している(と少なくとも思いこめている)からだろう。彼らにあるのはアイデンティティ・クライシスだ。自分の価値観が不安だから周囲を自分と同じにする事で不安を解消しようとする。要するにごまかしだわな。いつまで経っても問題の解決しない対処法だ。風邪を引いて熱が上がって熱いからと服を脱ぐようなものだ。ますます悪化する。

しかし、アイデンティティ・クライシスに見舞われていない人間は、当たり前だが他人をどうこうする事に興味が無い。それぞれの人生、それぞれに生きればいい。同調するなら随伴するし、意見を異にするなら袂を分かとう。それだけである。故にアイデンティティ・クライシスに興味見舞われている人間が居たとしても、向こうから相談してこない限りは動かない。一方、問題の設定からして間違っている方は、そのままでは永遠に答に辿り着けない。ナチスを生んでホロコーストを起こすような事があっても、まだ気づかないでいるかもしれない。自然、徹底的な断絶が起こる。

最初に人生を見誤れば見誤るほど、己の人生を肯定できると思える材料を探したくなる。勿論いつまでも見つからないので偽りの答を掲げて進むしかない。必要なのは内省や反省なのだが、そもそもそんな事やった事ないからやり方がわからない。そのまま突っ走っていくしかない。

無謬性神話という言葉は、2017年だ、もう市民権を得ているだろうか。「私は間違わない、間違っていない。」と思い込みその力で世界をひっくり返す事。つまり、「裸の王様」である。服などないと言ってくれる人と「もしかしたらそうなのかもしれない」と素直に疑う心のどちらも持ち合わせていなければ、無謬性神話は突っ走る。どこかで間違い、誤謬を認めなければならないが、大概の人生、もう遅い。

差別の心は脆弱を鎧で固める事で育つ。アンバランスなのである。どこかでバランスをとらなければならないが、脆弱は人間の本質だ。弱さを知る事が知恵による生存戦略を発達させた。打ち倒さなくても、逃げ切らなくても、かわせばいいし、だませばいいし、ごまかせばいい。罪深いとはよく言ったものだ。知恵とは原罪なのである。


主題の周りをぐるぐる回っている。どう踏み込もうかあぐねている。さて、ヒカルのメロディーはどこから来たのだろうか。

私なりの言い方をすれば「思われたが鳴らされなかった音の総て」がメロディーだ。ふとひとつに収束する。大きな生命の為にはより多くの屍が必要である。「あなたは間違いだった」と死を与え続け弔う墓標が新たなる生命となる。だからたぶん、ごまかしているうちはメロディーは生まれない。裸の王様に「お前は裸だ」と言い続けた先にメロディーは生まれる。ならばやはりメロディーは真実である。いつも通りの主題、「メロディーは嘘をつかない」に帰着するトリビアルで他愛ない。

ここから先が難しい。ダヌパに対する愛情が、我々に見えているより遥かに深く大きくもしかしたら"常軌を逸している"かもしれない、と考える。世の母親は「当たり前でしょ」と心得る。冷静に考えよう。あの溺愛至極のくまちゃん(Kuma Chang)相手より更に愛情を注いでいる筈なのだ。綿と、自分で生んだ人間である。較べるのは変だが、甚だしい事は明らかだろう。即ち、今のヒカルはスマしている筈なのだ。その話から11月を迎えよう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




LGBTが差別と戦う(というのかはわからないが)にあたって権力側とのやりとりは非常に重要だ。

その点、昨年、NHK「SONGS」で『ともだち』を歌ったのは画期的だった。特に重々しく捉えるのではなく新曲のひとつとしてサラリと流したのがよかった。ご存知のようにこの歌は同性愛のあるあるについて歌った歌だが、地上波テレビ局の、しかも受信料徴収局のゴールデンタイムで歌ったのは大変意義深かった。

無論、一回や二回歌を歌った所で現状に変化がある訳ではなかろう。しかし、こういった歌が"普通に"テレビから流れてくる事が続いていけば、それは少しずつ世間の空気を変えてゆく。気圧に変化が訪れるだろう。

Utadaの時も、同性愛者のコミュニティーで人気が高いという話があった。今でいうLGBTを扱ったテレビドラマの挿入歌として使われた事もあるらしい。詳しくは知らないけれど、元々Hikaruのファンベースにはそういう所があったのだ。宇多田ヒカル避難所も出自は同性愛板だったし。ヒカルがこの話題について英語でツイートした時もリプライの多くは英語だった。まぁ半分当たり前だけどね。

そのUtadaの活動において、特に米国本土で「アジア人に対する人種差別」はあったのかなかったのか。具体的なエピソードは浮上していないので、「なかった」という風に捉えておくか。スポーツ業界と音楽業界の違いも大きいかもしれない。エルビス・プレスリー以降、と言っていいかはわからないが、かの国も白人と黒人のせめぎ合いの象徴として音楽が扱われていたきらいがある。ヒカルはハイブリッドに、白人音楽からも黒人音楽からも影響を受けた音楽性をアジア人のルックスで提供していた訳で、人種の狭間で苦悩していてもおかしくはなかったのだが、『In The Flesh 2010』を観る限りにおいては、人種の坩堝に歓待されている事が見受けられる。見た目ではわからないが、中には当然LGBTの聴衆もいた事だろう。Utadaのライブ会場には差別は存在していなかった。

今後海外の活動がどれ位あるかわからないが、人種や性愛のスタイルで少数派や弱者が虐げられる状況に対しては静かに抵抗を続けるだろう。具体的な事はわからないが、こちらもヒカルのそういったアティテュードを静かに後押ししていきたいものである。気持ちだけでも、ね。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




前回は「力の極端な差」が差別という呼称の要諦だと纏めたが、どの程度からを「極端」と呼ぶべきかは個々の事例によって判断されなければならない。例えば2017年時点の日本では地上波テレビ局とLGBTでは影響力・発信力等々、全く勝負にならない(故に"話にならない")程に地上波テレビ局が強いので議論の余地は無い。

が、我々自身非常に微妙だったケースを知っている。1999年の10月から11月にかけて、18年前のちょうど今頃の季節である。ヒカルが『Addicted To You』発売のタイミングでルックスを大幅に変えてきたのだ。この時の騒動である。

同年6月に地上波に初登場し、歌のシリアスさとは比較にならないほどおちゃらけた(?)キャラクターとリラックスしたメイク&服装で登場したヒカルはその「自然体ぶり」も大いに好評だった。しかしそこから僅か4,5ヶ月後には髪型を変え黒髪を茶髪に変え太かった眉毛も細く剃り落とし、バッチリメイクでミュージックビデオに登場した。所謂イメージ・チェンジである。

16歳の女の子の少し遅めの二学期デビュー、というだけで済まなかったのが当時の注目度。何しろ初日フラゲ日だけでシングル盤を100万枚を売りさばくレベル。皇室並み、とか書いたら誰か叩きに来てくれるかな、ヒカルのイメチェンは国民的議論となった。

「あの自然体がよかったのに」と太眉や黒髪を懐かしむ声があちこちで聞こえた。

ここである。勿論個々の感想は自由である。しかし、数千万人単位の人間がヒカルのイメチェンに難色を示したかと思うと、たとえ一つ一つの声はか弱くて控えめでもそれを言われるヒカルにとっては物凄い「圧力」だったに違いない。『私はプレッシャーに鈍いと思う。鈍くなければこんな大きなプレッシャーに耐えてられる筈がない。』とはまさにヒカルの名言だが、ヒカルが繊細かつタフだったからこそ何事もなく切り抜けられたけれど、心の弱い人であれば容姿だけで、髪を染めただけで数千万人単位の人間からやや否の声を聞かされるのはとても耐えられない「圧力」になっていたのではないか、そう回顧する次第だ。実際、ヒカルも珍しく自棄気味のメッセを書きかけた。しっかり踏みとどまったけどな。

日本は民主国家、国民主権国家であるから最高権力は勿論国民である。しかし、その構成要員1人々々に最高権力の自覚がある筈がない。よってヒカルの髪型や髪色に難癖をつけるのを「差別」という議論はなかった。実際、ヒカルの髪色を変える権利など誰も持っていなかったからよかった。そこが教育現場の教師と生徒の関係とは違う…と書こうとしたが、地毛を強制的に染色させる行為は明らかに身体の自由を侵す憲法違反行為であって万が一そのような校則が明文化されているとすればその執行者は犯罪者に…となる所をわざわざ裁判するしないの話になっているのは、国民世論の中に一定度それを許容する「空気」があるのだろうな。いや、そこから先は知らないが、そういった「空気」による圧力即ち「気圧」こそが最高権力たる我々国民が最も責任を持たなくてはならない領域だ。つまり、宇多田ヒカルに対する注目度が高いのであるならば、不用意にヒカルを傷つけるような言動は慎むべきなのである。注目度が高ければ高いほど気圧も高くなる。より気を遣った言動が求められる


一方、我々個々がもつ「表現の自由」の権利は最大限守られればならない。思った事を口に出来ないような強い気圧もまた率先して忌避せねばならない。常に、表現とそれに対する危険性は随伴しており、都度個々の事例に即して問題を抱え合う双方の主張の自由が担保され交渉に入らなければならない。気圧を支配する圧倒的大多数の第三者は、起こった問題に対して、特に弱者に対しては細心の注意を払う義務がある。それが国民主権の自由な国家の構成員に求められる態度であろう。呉々も非対称性を無視しない事である。

コメント ( 1 ) | Trackback ( 0 )




週末は随分「染髪強要学校」のツイートを見た気がする。服装のみならず身体的特徴まで強要を迫れるのは単一民族国家幻想を維持できるほどに人種的偏りが大きいこの国ならではで、今が21世紀である事を忘れそうになる。

こういった話題で髪の色の是々非々をあげつらっても議論は進展しない。事をシンプルに人権問題、更には「差別」に絞るのなら話はクリアである。

「差別」の"要因"は様々である。髪や瞳や肌の色、人種、部族、国家・国籍、出身・出自・所属団体から宗教に至るまで個人をその属性をもって不正確な認識と非生産的な対応を行う現象、という感じだが本質はその要因とされる属性固有の性質ではない。差別を行う側と被る側の属する属性から構成される集団の構成数の非均衡にある。

敢えてややこしい書き方をしたが、強い方が弱い方をいじめるのが差別だ、と当たり前の事を言っているに過ぎない。染髪強要案件も、教師に権力があって生徒にはないから起こる。本当にそれだけなのである。だからこそ教師側は髪の毛の色も服装も咎められない。どちらの集団に属するかが重要であって、その判定が済んでしまえば構成員の実際に持っている属性は捨象される。

先般の地上波テレビにおける石橋貴明のコント案件も同様である。これを「差別」の文脈で捉えた時、コントの内容や性質自体は問題ではない。精神的被害があったと主張する側に較べ、「地上波テレビ」という存在が余りに影響力と権力を持ちすぎているから問題なのだ。石橋貴明が個人で配信するコントだったら問題はまるで違う場所に生まれるだろう。

例えば、私(黄色人種)がニューヨークの真ん中で白人(一応そこでは最大多数派)に向かって「この白んぼう、ウキャキャキャキャ」と嘲笑したとしてもそれは単なる侮辱であって差別とは言わない。しかし、白人の方が、先日ダルビッシュがされたように、両目を釣り上げる仕草を私に向かって放てば差別と言われるようになる。要はその行動の主体と被体がそれぞれどの属性として捉えられ、属性間に議論が成り立たない程の"極端な力の差"があるかどうかで差別と呼ばれるかどうかで決まる。

石橋貴明の問題も、フジテレビや石橋貴明といった権力・財力・影響力等々が桁外れな主体が行う行為だから差別の文脈で捉えられただけで、この極端な非対称がなければ各々がそれぞれの表現の自由と人間の尊厳を掲げて納得や妥協を引き出せるまで議論すべき問題であって、力の非対称が存在する以上、第三者が「表現に問題はない」等と発言するのはそれだけで力の非対称を利用した、民主的な議論を封殺する不適切な発言となる。言い換えれば、権力側は力が大きければ大きい程マイノリティに対して細心の配慮を求められるのであって逆ではない。権力側及びそるに与する者が、相手の主張を封殺する形で「それは問題ではない」と発言する事こそ民主的かつ文化的な相互理解と共存の福祉に反する行為であって、これこそが咎められなければならない。議論の本質を見誤らない事である。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ラジオ番組「MUSIC HUB」はなりくんの喋りが合わなくて普段聴いていないのだが、先日の(先週かな?)「ドラマー国籍当てクイズ」は不覚にも面白かった。ドラムプレイを聴かせてその特徴から演奏者の特徴、国籍やジャンルを当てるというシンプルなクイズで、音楽に興味の無い人詳しくない人にはつまんなかったかもしれないがあれはどちらかというと昔の「カルトQ」みたいな感じで、「本職のドラマーさんってそんな細かいとこまで…」と専門家ならではの知識や聴覚、見識の深さを楽しむもののような気がする。クイズそのものにリスナーが参加できる類のもんじゃない。

3月に同番組に於いて「写真で性格が当てられます」と特技を宣伝したヒカルさんもこのクイズに強そうなので是非参加してうただきたい。寧ろ率先して「耳のよさ」をアピールしに来てくれるんじゃないか。顔写真でその人のプロフィールを語れるならドラムプレイで語れたっていい筈だ。

企画の発案者さんの言い分だと「国籍以外のプロフィールも当てられたら加点しよう」ということだったのだが、ヒカルなら何点加点出来るだろうか。関根勤のように細かいプロフィールまで妄想して欲しいものだ。

演奏には人柄のどこまでが出るのだろう。イングヴェイ・マルムスティーンのプレイを聴いて「この人ワガママなんだろうなー」と思ったり、エディ・ヴァン・ヘイレンのトーンを聴いて「この人いつも笑顔なんじゃないの」と思うなら「当たってる」となるんだが、それは先入観のなせるワザなのか。確かに、我々の根本問題としてヒカルに対して「最初歌を聴いた時はまさかこんな女の子だなんて夢にも思っていなかった」というのがあった筈だ。歌で人間性なんかわかんないよ、というのがこれを書いてる人と読んでる人の通奏低音。歌と性格のギャップこそがヒカルの魅力で…

…と書いてて、ヒカルの歌から入った人と性格から入った人(≒メッセ読んで魅了された人)も普通に仲間になってるこの感じをどう説明したらいいんだろう?と悩ましい気持ちになってきたのだった。大体自分からして「魅力的な人で・魅力的な歌で」と両方を絶賛して10年以上日記を書いてきている訳で、あらやっぱり音楽性と人間性って関係あるのかな、でもそれってワガママイングヴェイやスマイルエディみたいなわかりやすい関係性じゃないよな、と思ったり思わなかったり。こう考えてみたら結構な謎なんじゃないか。

話が混濁しているな。寧ろこれは、「昔は熱心だったけど今はそうでもない人」に訊いてみたい事かもしれない。が、当然ながらそういう人はこんな日記読みに来ない訳でな。程度問題ではある。概ね好きは好きなんだけど『忘却』はどうにも好きになれない、とか、『あなた』はどうもピンと来ないなぁ、とか。そういう人はその時々で「いったんお休み」という感じで、ヒカルに注目する日々まで引き上げる訳ではなかったり、そういうのが続いているうちに徐々に興味を失っていったり。1人々々違うだけに、一般論は難しい。

逆に、人には興味ないけど歌は好き、とか、歌には興味ないけど人は好き、と割り切ったファンの人はどれくらい居るんだろうな。『Fantome』の売上枚数とリツイートの数のスケールからして前者が最大多数な気がするけれど、こんな辺鄙な日記にまで辿り着く人は後者の割合が多いかもしれない。この二択でいっぺんツイッターアンケートとってみる? …ふむ、ちょっと面白いかもしれないな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




歌詞サイトのしおりプレゼント企画は月末締切という事で、何か新情報があるなら月明け以降になるだろうか。情報の少ない期間は気楽だが寂しいし、情報が発信されると嬉しいけど煩わしい。ほとほと自分(たち)のわがままさに呆れる次第。

でもそれが本音なのは間違いなく。丸一日ごはん食べてなくて漸く晩御飯にありつけると思ったらフルコースが出てきて食べ切れなかった、軽いものばかりでいいから朝昼晩3食おやつつきでほどほどに食べれたらよかったのに、という話。確かにワガママだけど、そういう事なのです。

マスメディアに対しては瞬発力が大事というのはわかる。少しずつ情報を出すより、「本日は発表がありますのでワイドショーの皆さんは是非取り上げてくださいな」と1点集中した方が注目度が上がる。取り上げる方としても毎日あれやこれやと提供される話題の中からその日のトピックを選ぶ訳なので、毎日小出しの情報源よりは、その日の注目として見出し記事をどん!と扱うのがわかりやすい。もちつもたれつである。

できればこちらとしては濃縮還元ニュースを更に薄めて毎日小刻みに消費していきたいところなんだが、それをやってるとモタモタしてるうちにイベントが終わっていってしまう。渋谷のプラネタリウム企画、『大空で抱きしめて』が使われているそうだけど、一昨日と、今日だっけ? こうやって通り過ぎていくのだ。いやはや、何とも勿体無い。

結局、来月もきっとこうやってアタフタしているうちに終わるのだろう。半ば諦めの境地だが、出てきた歌だけは慌てず騒がずじっくり堪能したい。どうせ長さ5分の曲を楽しむ為には誰だって5分必要なのだ。音楽鑑賞に速読はない。

12月8日の『あなた』の発表までにまだ何かあるのだろうか? 梶さんの事だから逆算はきっちり準備できているに違いない。沖田さんは煮詰まってきた時期でテンパってるかもしれない(笑)。ヒカルはそれ以上だろうから、まぁ慌てず騒がず落ち着きましょう。照實さんと三宅さんは全然呟かないから近況がわからないが、いつもの通りプロデューサーとして制作に携わっているのだろうか。皆さん、忙しいだろうけれど体調に気をつけて頑張ってうただきたいものである。勿論、誰よりもダヌパの肝っ玉母ちゃんが頑張らないとだけどなっ!(笑)

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『大空で抱きしめて』と『Forevermore』にゴールド認定が出たそうな。めでたい。なんだろうねこの「現役感」は。年齢やキャリア年数について言わなくてもやっぱり宇多田ヒカルの新曲は待たれていれんだなと。

一方で、この程度の売上では物足りないという向きも在るだろう。宇多田といえば売上の権化、というのは言い過ぎだが、実質年間1位くらいとってもらわないと…なんて無茶ぶりに、昨年の『Fantome』は応えてしまった訳でして。そりゃあ今年のハードルは上がるわな。

実際、一年半が経って『花束を君に』がダブル・プラチナ、『真夏の通り雨』がプラチナだ。つまりそれぞれ50万ダウンロード以上、25万ダウンロード以上だと。また2つともいい歌なので数年後にまたワンランク上になっているかもしれない。

ダウンロードランキングとは面白いもので、累積でゴールドやプラチナやミリオンが出るものだから「配信開始10年目にしてゴールド到達!』とかが普通にある。長年愛される歌がその時々に購入される事で文字通り頭角をあらわしてゆく。そういえばヒカルもこの間『DISTANCE』がゴールド認定されていたな。アルバムを買っていない人々がこんな所にも名曲が、と買っていくのかな。

それを考えると『花束を君に』50万ダウンロードのうち、フィジカルで『Fantome』を購入した人はどれくらい重なっているのだろう。いい歌だから配信で済ました人、そもそも配信じゃ買わなくてフィジカル発売まで半年以上待った人、色々だろうが、例えば重複が少なければ『花束を君に』はミリオン・クラスの大ヒット曲にあたるかもわからない。

市場自体のサイズが頭打ち、というのもあるが、年に数作ミリオンヒットがあるならそこまで参考にならない訳でもないだろう。そんな中で存在感を示し続けるヒカルは素晴らしい。物足りないのもよくわかるけど、ひとまず、次の基準が定着するまでは配信ダウンロードランキングは有用である。細かい不満は一旦置いておいて、最初にまず喜んでから話を始めよう。そこからでも遅くないから。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




実を言うと私は音楽にとても疎い。と言っても説得力が無いというか意味がよくわからないというか。

昔、「あたしゃ何故こんなにヒゲダンスが好きなのだろう?」と疑問に思っていた。探検隊ネタや教室コント、いかりや母さんに早口言葉、仲本工事の体操などなど、ドリフターズの「8時だよ全員集合!」には優れたコーナーが目白押しだったが、いちばん気に入っていたのがヒゲダンスだった。ヒゲダンスのなかった週の落胆ぶりは目に余るものがあった。「先週もなかった、今週もない…」を何週か繰り返して「あ、終わっちゃったんだ」と気がついた時の寂しさといったら…(ちっちゃかったので、「コーナー終了」という事実そのものに対して気付くのに時間がかかった)。

実際、すぐに終了するのもやむを得ないコーナーだったのだ。加藤茶と志村けんが口ヒゲをつけてモーニングを着込んで掌を妙に反り返して奇妙なダンスを踊りながら一芸披露する、という笑いを至上としたドリフターズにしてはやや洒脱な(?)印象を与えるコーナーで、そんなに笑いがとれていた記憶もない。しかし小さい頃の私は2人がつけヒゲ姿で袖から出てきたらもうハイテンションだった。なんでだ。

「あ、曲が気に入ってたからか!」と気がついたのは随分あとだ。「ヒゲのテーマ」。ソウル・アーティスト、テディ・ペンダグラスの「ドゥ・ミー」という曲のイントロをひたすらループさせるだけのトラック。今聴くと随分ファンキーなグルーヴが売りのトラックだが、幼稚園児だか小学校低学年だかの私をハイテンションにさせていたのはそのクールでファンキーでグルーヴィなベースリフだった。いやはや、気づくのが遅い。そういう意味で私は音楽に疎いのである。何かに触れた時に自分の感動が音楽由来であった事になかなか気づけない、という意味で。

先日久しぶりに「カリオストロの城」を観て、自分が何となく気に入っていると思っていた場面の多くが、「曲のよさ」に由来している事に改めて気がついた。あの映画、案外「トムとジェリー」的な音楽の使い方をする。キャラクターの動きに合わせてリズムとメロディーが動くアレだ。

というのなら、自分が「トムとジェリー」大好き人間だった理由も、その巧みな音楽SEのお陰だったと気づいたのも随分後だな。あのアニメは動きの滑らかさもさる事ながら場面々々を盛り上げる効果音楽(音程のある効果音、だな)が秀逸で、目をつぶって音を聞いているだけでもトムとジェリーの攻防が思い浮かぶ程だ。確かに、理屈抜きに幼児の心を捉える要素が満載だ。小さい頃の私は「トムとジェリー」の楽しさの源が音楽にあったとは気づいていなかったのだ。嗚呼、疎い。

しかし小さい頃なんて人間大体そんなもんじゃないの、作品に触れる時に作画が脚本が演技が音楽がなんて分析的になれないよ。触れて楽しい!退屈ぅ…ってもうそれだけだったでしょ…?と文章を締めようとして気がついた。5歳の宇多田ヒカルさん。アニメ「CITY HUNTER」のエンディング・テーマ、TM NETWORKの「GET WILD」の魅力に関して、随分と自覚して分析的だったねぇ…二番サビ後のボイスパッドが何だって? 5歳の女の子がアニメソングをそこまで詳細に冷静に捉える事が出来たのか。やはり家業を継いで二代にわたって日本最高記録を作った家系は違うなぁ。エリートのサラブレッドが努力を重ねたら、そりゃあ名作・名曲ばっか生みますわな。スタートラインからして違ったのだ。それがヒカルにとって喜ばしかったかは別だけど。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『宇多田ヒカルの言葉』は電子書籍版出るのかな。

『線』を電子書籍化しても「サイトで読めるじゃん」と言われそうだったが、『宇多田ヒカルの言葉』も「Uta-netにでも行けば?」ってなるんだろうか。あっちはリアルタイムでアクセス数が変わり、曲毎の人気もわかる分『言葉』を電子書籍化したのより楽しい―まで言われる可能性があるか。いやでも352ページだと大半が歌詞じゃないページだろうしそれはないか。

VOGUE JAPANは電子書籍版があって重宝した。フィジカルは大きな雑誌だし引っ張り出してくるのが難儀。電子書籍ならクリックひとつで…いや10回位かな…呼び出せる。拡大縮小も出来るしスクリーンショット撮り放題(?)。寧ろ何故紙で買うのか。紙の方がまだまだ大きくて写真が美しいからそれはいいのだが、文章部分は大体電子書籍で十分だと思う。

そろそろ漫画「ONE PIECE」の新刊(第87巻かな)が発売される時期だが、こやつは非常に卑怯な手を使う。電子書籍版を1ヶ月遅らせて売ってるのだ。いち早く読みたい人はフィジカルを買うしかない。87冊もある漫画、全巻持つなら電子書籍がベターだからどうせなら最初から電子書籍版を購入したいのにこれでは同じ内容を二回買う事になってしまう。今度から1ヶ月我慢しようかなぁ…いや無理か(汗)。

流石に『宇多田ヒカルの言葉』はそんな手段は使ってこないだろう。出さないか、出すとしたらフィジカルと同日か。書籍にフライング発売はないとすれば、日付が変わった瞬間に電子書籍版を購入すればいち早く読める。いち早く、と言っても10時間位の差しかないので1ヶ月待たされる「ONE PIECE」と違って別にそれ位なら、となるのだけども。土曜日だし朝から買いに行けるわな。

書籍という事で「語句全文検索」が出来れば嬉しい。「私」と「君」と「あなた」がそれぞれ何回使われてるかとかたちどころに集計出来てしまう。ヒカルの歌詞好きとしては遊べる要素満載になるだろう。勿論書籍フェチのHikkiが編集に関わる以上今後も書籍を出版する場合は必ずフィジカルを出して装丁や手触りやフォントや段組にこだわった"作品"を出してはくるだろうが、様々な遊び方が出来るという意味でも電子書籍版のリリースも検討うただきたいものである。私は勿論紙と電子の両方買いますよ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「顔色を窺うんじゃない、呼吸を合わせるんだ。」とは、他人と演奏する時などの合い言葉だが、スポーツなどの勝負事にも通じる考え方だ。

顔色を窺う、というのは相手の出方に合わせて動くという事で、出方を見てからこちらの動きを決めるので絶対的にこちらが遅れる。他人と合奏する時にこれでよい筈がない。同じタイミングで演奏する為には、最初から示し合わせて、予め同じつもりで事にあたり始めなくてはならない。

合奏では他人は味方同士だから、通じ合えば通じ合う程加速度的に成果は上がっていく。お互いが呼吸を合わせようとするのだからさもありなん。この考え方をスポーツに適用すると、味方同士ならチームプレイ、敵同士なら「先手の取り合い」となる。

スポーツの試合に「流れ」と呼ばれる何かがあるのはご存知だろう。実力が拮抗しているからといって必ずしも1点ずつを交互に取り合う訳ではなく、それぞれが有利な時間帯というものが形成される。その間に連続得点、連続失点も珍しくない。

自分に不利な流れになった時というのは、相手に先手を取られている。ラリーの展開がまず相手の意図から始まってしまい、こちらは相手方の出方を見てから動く事になり、何をするにも後手に回ってしまう。何とかして先手を、流れを奪い返さなければならない。

こういう時に、相手の顔色、相手の出方を窺うのではなく、「呼吸を合わせる」のが大事となる。勿論、相手は味方ではなく敵だから「予め示し合わせる」事は出来ない。やるべきなのは「相手の意図を読む」事だ。次に相手は何をやりたがっているか、何をやろうとしているかを読んで、それに基づいて動き始める事が出来れば勝負の流れが変わる。そこで先手を奪い返す事が出来るのだ。

先手後手というのは攻めと守りとイコールではない。相手の誘いにのって"攻めさせられて"いる場合なら、それはたとえ見た目は攻撃しているようにみえても後手なのである。向こうは守りながら反撃への流れを形作ったり、ミスを誘ってきたりする。"術中に嵌る"といヤツである。幾ら攻めても得点にならない。先手後手と攻守は等しい概念ではないのだ。

味方と協力する為の「呼吸を合わせる」というコツも、敵と対戦する競技において有用な訳である。相手が敵であれ味方であれ、顔色を窺うのではなく、つまり「この人何考えてるかサッパリわからないよ、次はどうしてくるのかな」と怯えるより、「きっとこの人は今こんな事を意図しているだろうから、こちらはこんな備えをしておこう」と一歩踏み込めた方が、色々とうまくいく。「顔色を窺うんじゃない、呼吸を合わせるんだ」とは、様々な局面で役に立つ合い言葉である。


無意識日記を読み返してみると、力んで力説した時より、さりげなくふとその時に思った事を徒然なるままに書き記しておいた時の方が"予想"としてよく当たっていたりする。私はどちらかというとヒカルに対しては「次は一体何をしてくるのだろう、全然わからないや」と思っていて普段はそれこそヒカルの顔色を窺うような気持ちで居ると思ってるんだけど、素に戻って、リラックスして、自然な感情を書いたらヒカルと妙に呼吸が合ったりする瞬間がある。そういう経験則に従って、この日記でも時に取り留めのないだけの事を書いたりもしているのだが、はてさてそれがいつどこでヒカルの気持ちと合う、いや、"逢う"のか、勿論今はわからない。しかし、言えるのは、兎に角こうやって何かを書き記しておかないと何も始まらないという事だ。的外れなのか的に当たるのか、まずは投げかけてみないと始まらない。日記を記すってのはそれだけで前進なのだ。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




「アプリ」という呼び方は、つくづく新しい文化だなぁ、と思う。そういう略し方がなかった訳ではなかったが、"公式な略称"として定着させた手腕は凄い。

PC世代はプログラムとかソフトウェアとかアプリケーションとか呼んでいた。ソフトやアプリという略し方もないではなかったが、スマートフォン世代のポップな"アイコン"を指す感覚は、なかった。フィジカルと連動している訳ではないので若干わかりにくいが、ファミコンのROMカセットに匹敵するインターフェースメソッドだと感じる。

ファミコンのカセットか。それまでのコンピューターのソフトウェアだって、フロッピーディスクやカセットテープといった"単位"は存在していた。しかし、ファミコンは「ROMカセットを抜き差しして入れ替える」というイメージで次々とゲームを楽しめる、というシステムを構築したのが大きかった。今の"アプリ"も「アイコンをタップする」というわかりやすい動作と連動したポップな呼称である。全体のイメージと親しみやすい呼称。原因と結果を考えると難しいが、事実としてそうなっている。


音楽ソフトも「CD」というフォーマットと呼称を手に入れて80年代末から大いに飛躍した。それ以前もアナログレコードやカセットテープは存在したが、あのキラキラとした薄い円盤は象徴的に光り輝いていたのだ。カセットテープの不便さや鈍重さとは一線を画すイメージと使い勝手。それこそ、ゲームだって94年にPlayStationが登場するが、CD-ROMが受け入れられ易かったのも音楽CDの普及が大きかった。

今の音楽ソフトは、どうにもその"入口"が不明瞭、不透明に思える。ファミコンカセットや音楽CD、そしてアプリアイコンのような一次的な接触機構が確立されていない。勿論ミュージックアプリを立ち上げて選べばいいだけなんだけど、ログインしたり検索したりとどうにも一手間二手間かかる。

配信のブランドとして一番定着したのはiTunesだが、CD並みに普及したとは言い難い。Androidユーザーだって多いしねぇ。今必要なのは、パッと聴いてパッと見て、すぐにアクセスできる親しみやすい何かなのだ。アプリアイコンをタップしたらもう何かが始まるその手軽さで音楽が始まるような。今のストリーミングにはその"最初の一歩"が足りないように思う。が、その話について語り始めると路頭に迷う気がするので、余り踏み込まないようにしておきますかね。悩みは尽きない。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




SONYに移籍して、今の所違和感は無い。クマベくん(片仮名で書くとマクベと空目するな…)という新メンバーが加わったとはいえ、プロモーションのメインは相変わらず梶さんだ。勿論内情を伺えばあれやこれやとあるのだろうが、外から見ている分には彼自身の感性に従ったコンセプトを打ち出せているようにみえている。EMIレーベル時代と何も変わらない。

アルバム制作が終盤に入ってくればコ・プロデューサーや担当ディレクターの仕事ぶりも重要になってくるが、これも照實さんと沖田さんで変わらない。つまり、SONY/EPICレーベルに移っても驚く程何も変わっていない。

タイアップも、EMIレーベル時代から続くサントリー天然水をそのまま引き継いでいてレコード会社を移籍した事実を忘れてしまいそうだ。ノイキャンワイヤレスイヤホンはいよいよSONY移籍の効果が…と力もうとしても古参ファンからすれば1999年にSONYのMDのCMに出てしまっているのでこれまた何の驚きもない。

ここまで来ると本当に移籍したのか疑わしくなってくる程だ。それは言い過ぎか。

自分のようなCD世代の人間からすると、まだSONY/EPICからリリースされたフィジカルのCDを手に取っていないのが大きいような気がする。まだ配信シングルしか出てないからね。CDを手にとって帯などに記載されている商品番号を見て「ああ、Tから始まらない番号だ…」とか思って初めて移籍を実感するんじゃないかと予想するのだ。

勿論これはCD世代の感覚であり、配信を主に貪ってきた新しい世代のファンはそもそもレコード会社の移籍になんて興味が無いかもしれない。しかし、これはヒカルが特異なのだ。周囲のスタッフがまるごと移籍、しかも新しいレコード会社でもその"発言力"は健在だ。有り体に言えば、やりたくない仕事は断れる身分のままなのである。SONYからすりゃドル箱間違いなしのアーティストと諍いを起こしていい事なんかありゃしないからね。

でも油断は禁物である。どれだけ偉かろうが収入や能力が高かろうがレコード会社の人間は所詮はサラリーマンだ。会社の為に身を粉にするかというとわからない。ましてや「日本の音楽市場の未来の為に」とか考えていると期待してはいけない。皆が皆そうだと言っている訳ではない。1000人の組織の中に1人でもそれなりの役職に就きながら保身に走り誰も得をしない決断をする場合があるのだ。いや本当に。でないと『Utada The Best』なんてリリースしないよ。Hikaru本人が嫌がってるってのに。

なので、まぁ大丈夫だと思うが、一通りのルーチーン(アルバムをリリースしてコンサートツアーを完遂して出来ればライブDVD/Blurayをリリースするとこまで)が終わるまでは、やや訝しげに、バカな事をしやしないか見守っていった方がいいと思う。背信行為に身を落とした人間に顧客(うちらファンの事ね)の声が届くとも思えないが、何もしないよりはマシであろう。宇多田ヒカルを蔑ろにしたら許さない、という位の強い態度で、引き続き新レーベルのお手並みを拝見しよう。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




目下上陸中の台風21号はアメリカ名をラン(LAN)ちゃんと言うそうな。嵐(らん)からとったとかとらないとか。台風に名前をつけるというと「ドラえもん」のフー子ちゃんを思い出してしまうのですが歳ですかね。

衆院選の投開票と重なってえらく賑々しい情報合戦になっていたようだが、投票を済ませてしまえば後は何をするでもなく。水害の心配をしなくてもいい土地に住んでるからというのもあるんだが。戦闘機や輸送機の墜落、暴走トラックの突入なんかの方が余程心配だわい。

iphoneXの顔認証技術の精度が十分高いのなら、電子投票の実現も…とか一瞬考えたけれど、技術的ハードルより政治的ハードルの方が遥かに高いので要らぬ心配だわな。

理屈は幾らでもつけられる。もっともらしい理由なら幾らでも。毎日理屈ばかりこねてる人間が言うんだから間違いない(笑)。

選挙のたびに「Hikkiは今回どうしたんだろうね」という話題が出る。在外者投票(というネーミングだったかは定かではないが)に失敗した経験談がたんまり読まれたせいか…いやそれもう14年前の話やないか。

でも、長く生きてきたからわかるが、情報や知識に対して時間や時期はそれほど重要ではない。14年前でイメージが止まっているならば、それは"つい最近"と何も変わらない。重要なのは「情報更新頻度」なのである。対象に対して何回アクセスして情報をアップデートしたかで時間の感覚は決まる。対象にアクセスするだけではダメである。ルーチンワークになればなるほど、情報のアップデートはなされない。新しい情報が得られないからだ。そして日々の生活でルーチンワークが増えれば増えるほど1日の中で情報更新頻度が落ちていく。

2つの問題がある訳だ。ひとつは、対象に対する印象だ。宇多田ヒカルの歌を最後に聴いたのが『Automatic』の人にとって宇多田ヒカルは今でも15歳のままである。実際の時間経過は関係がない。そんな人が『あなた』を聴いたら「大きく変わったな!」と驚くだろう。見た目の若さに対しては反対の驚きがあるだろうが。

もうひとつは、お馴染み。年をとればとるほど時間の流れが早く感じる話だ。対象に対する情報更新頻度は対象の時間の流れの認識だけでなく、更新主体の時間感覚にも影響を及ぼす。主体の行う全情報更新の総体が主体の時間の流れの感覚を形成するのだ。よって、ルーチンワークの多い人ほどあっという間に時間が過ぎ去る。


即ち、新鮮な経験を日々重ねる事が"長生き"の秘訣である。新しい歌を探す日々は、確かに中々日が経たない気がする。気のせいかもしれないが、時間の感覚なんて気のせいの集大成。気にせず生きる事にする。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




ヒカルにはヒカルの「やりたいコンサート」があるだろう。そして、うちらリスナーにも勿論「観たい聴きたいこんなコンサート」ってヤツが存在する。

私の場合、今週の流れから察せられると思うが、「極上のサウンドのコンサート」が観たい、聴きたい。照明? 舞台装置? 凝った演出? いやいや、サウンドエンジニアリングに予算を全フリして欲しい。いい音でヒカルの歌を聴く。まさに天国。世界一腕の立つPAマスターを雇ってくれるならチケットの値段は十倍で構わない。本気だ。

本当はホールやアリーナではなく、もっと近くで観たいし聴きたい。しかしそれは叶わない。いや勿論、『Utada Hikaru Unplugged Part 2』が開催されて当選すれば別ですけど。

でも実際、どこか音のいい会場で最高のエンジニアリングでサウンドメイキングしたスペシャルコンサートをヒカルが開いたとしたら、チケット代が5万円とか10万円程度ならどれ位売れるだろう。土日の都心のマチネーなら1000人や2000人は瞬時、いや10000人でも埋まる気がする。そんなサイズで音のいい会場知らんけど。

いい音はそれだけで溶ける・蕩ける。それがヒカルの歌となると本当にどうなるかわからない。感動に打ち震えるどころの話ではないかもしれない。

現実は異なる。ヒカルは、ツアーをやるならば来てくれる人たちを最大限楽しませようとするだろう。自分のファンが、何をどうしたら喜ぶかを考え抜く筈である。そしてヒカルのファン層は幅広い。老若男女に娯楽を提供するのだ。歌だけではない合わせ技で来るに違いない。

私はその幅広さの端っこの方に居る人間なので、自分の言っている事が少数派なのは承知している。普通、音がいいだけでただでさえ高価なチケット代を十倍払ってもいいだなんて言わない。でも本音なので仕方がない。「いい歌をいい声といい音で」。うーん、書いているだけで気分がよくなってくる。魔法かこれは。

『In The Flesh 2010』の時、スタンディングの5〜7列目位で観ていた。随分近い。しかし出音は、ギターの音が大きすぎて辟易していた。それも暫くしたら改善されて、サウンドメイキングは気にならない程度になったのだが、仮にあの距離感でサウンドも極上だったらもうその場でどうにかなっていただろうな。あと笑顔がかわいい。近くで観るとよくわかる。なおラジオの公開収録が狙い目だ。かなり近くで太股が拝めた。何の話だ。脱線したわ。

まぁ『In The Flesh 2010』でも太鼓を叩いた時の逞しいTシャツごしの背筋は忘れられないのですが。やたらリズムが正確で驚いたんだよな。

という訳で読者の皆さんもヒカルにどんどん要望を言うべきだ。ヒカルサイドはファンがコンサートに何を求めているかを知りたがっている。というか、言うだけ言ったら「じゃあ」となるかもしれないじゃない。気にすることはない。こんなライブに行きたいこんなコンサートが観たい。大いに結構。今私は記した。音のいいライブが観たい、と。Twitterのメンションとかでどんどん呟いてしまいましょう。そうこうしてるうちにきっとツアーが決まるんだから。後悔せぬよう、言いたい事は言っちゃいな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )




『Eternally Drama Mix』発売から9年ねぇ。後にコンピレーションに収録される事でCD化を果たしているとはいえ基本は配信限定だった。その前の『Prisoner Of Love』まではフィジカルシングルが出ていた訳だから、ヒカルの新曲が配信限定になってちょうど9年という事になるのか。Drama Mixを新曲と呼んでいいかはわからないが。

良し悪しは当然ある。そもそもフィジカルを買わなくなったリスナーが"悪い"訳で、なのにフィジカル発売したくなった途端に「CDで欲しい」と言い出すから始末が"悪い"。…こう書く事も出来るし、「時代に合わせてフィジカルを値下げしなかったレコード会社が悪い」とも言える。しかし悪者探しは私たちには関係ない。

やはり、まず店頭で買うというのは高揚感を助長する。店内のレイアウトをみて、今回の新曲は力入ってるなーと何となく思うだけで歌の伝わり方が変わってくる。アナログレコード時代はもっとサイズが大きかったし再生行為も恭しかったから、更に高揚感が増していた。儀式の力で音楽の価値が上がっていたのだ。自然と聴く耳にも力が入った。

配信時代はあっさりし過ぎているほどあっさりしている。その軽さに合う音楽ならいいのだが、例えばヒカルの『Be My Last』などはアナログレコードで買った方が評価が高かったのではないか。音質の問題ではなく、リスナー側の心構えの違いで。

本来なら、だから配信限定シングルは気楽に聴けるタイプの曲を選ぶべきだ、と話が続くのだがヒカルは全くその点に関して頓着していない。『真夏の通り雨』なんて12インチシングルに針を落として聴くような重厚さだ。それに見合ったフォーマットを考えたい所なんだが現実はまだいい案が思い浮かばない。できればリスナーの心理を誘い込める"聴かせ方"を見つけたい所なんだがな。

コメント ( 0 ) | Trackback ( 0 )


« 前ページ