無意識日記
宇多田光 word:i_
 



さて明日映画「パラレルワールド・ラブストーリー」が封切りになる。ヒカルがツイートした事で幾らかは観に行くファンも増えたかもわからない。

ここでいつものようにチェック・ポイントのお浚いを。

もういいかなとは思うがまずはサウンドのチャンネル数のチェックだ。『嫉妬されるべき人生』はオリジナルが普通のステレオ即ち2chだがこれが5.1chや7.1chにリミックスされていないかどうか、ね。まぁ無理だとは思ってるんだけど万が一リミックスだったりしたら(少なくとも暫くは)映画館でしか聴けない音源になる訳で、そうなると何度も足を運ばなくてはならなくなるかもな。『嫉妬されるべき人生』の壮大なサウンドは広がりのある5.1chや7.1chで遺憾なく効果を発揮して大きなスケール感を演出してくれるだろう。

それに関連してもうひとつチェック・ポイント。これもほぼ有り得ないとは思うが、劇中に『嫉妬されるべき人生』のインストゥルメンタル・バージョンが使われていないかどうか、な。テレビドラマでは前例があるが映画では期待出来ないというのが正直な所。でも望みを捨てずに耳を欹てていたい。とはいえ、ベースラインだけ抜き出してとかだったら果たして気付けるかどうか…。

そして、エンディング・テーマ曲ということでフルコーラスで流れるかどうかということと、エンドロールと歌詞のタイミングだな。前の「鎌倉ものがたり」は歌詞の流れを意識したエンドロールで非常によかった。森監督がそれを意識していない筈が無い。最も効果的なタイミングで使ってくれている筈だ。この2つはセットで覚えておきたい。構成の為に歌詞をショートカットしたり順番を入れ換えたり…まではなくとも、やや長さを編集したりは有り得るかも。一度『嫉妬されるべき人生』を聴き直してみるなり歌詞カードに目を通し直してみるなりして歌詞の構成を予め頭に入れてエンディングロールに臨みたい。案外把握出来てなかったりするからね。


…ん? 映画の内容?? 面白かったら儲けもの、くらいのテンションで!(笑)

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明日公開になる映画「パラレルワールド・ラブストーリー」の主題歌『嫉妬されるべき人生』。歌詞にあるように英語で表現するなら『A life to be envied』だ。。

ヒカルの歌でenvyなんて単語使われたことがあったかなとふと思い。そういや『Apple And Cinnamon』に『everybody used to be so envious of us』って歌詞がでてきたなぁと。

訳すと「皆が僕らをとても羨んでいた」、つまり「私達は羨望の的だった」という意味。でもこの歌は「私達はアップルとシナモンみたいに相性がよくて、でもよすぎて続かなかった」と2人は別れて終わる。死を看取る覚悟の『嫉妬されるべき人生』とは対照的だ。

"to be envied"と"so envious of"ではこうも結論が違うものなのか。英単語のニュアンスとしては言うほど違いを感じないが、やはり"everybody"が明示されるか否かで大分違う。

恐らく、『Apple And Cinnamon』での"相性のよさ”は"everybody"からみたものも含まれていたのではないか。周りからみて「お似合いの2人だね」と言われるような関係だったのではないかと。一方『嫉妬されるべき人生』では嫉妬する主体が明示されておらず、要は"嫉妬されるべき”という感情は主人公に内在する確信のようなものを指しているものと思われる。似ているようで全く異なる関係。50年続くかすぐ別れるかの差は、このほんのちょっとの差の中に隠されている訳だ。"envy"なんていう何気ない一言も、歌詞の歴史を背負うと様々な表情を見せてくれるものなのだな。

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電子版の仕様は3つ。まずiTunes Storeで配信購入。買い切りだね。次にスカパーオンデマンドのペイパービュー。レンタルだね。そして3つめはNetflix。サブスクだね。

この買切、レンタル、サブスクの3つのうちどれが1番人気か。サブスクだわな。Netflixに加入してさえいればいつでも観れる。宇多田ヒカルって有名だな、ちょっとライブでも観てみるかとなってくれれば後はもう魅了されてくれて何度も足を運んでくれるだろう。視聴者数は最も高いとみる。次にレンタル。税込594円はやや高い気はするもののコミックス一巻分位のお値段となればそれなりに気軽に払えるんじゃないか。欲を言えばレンタルDVD並みの値段まで下げて欲しかったけれど。まぁそれはしゃあないか。

となると、iTunes Storeが、従って、1番人気が無いと思われる。携帯からイヤフォンで聴く為の音源をダウンロード購入で済ませるのに抵抗がない人でも普段はテレビで観るフルライブコンサート映像をフィジカルなしで3500円出費するのはかなりまだまだ抵抗が大きい気がする。パソコンとかがテレビに繋がってないと尚更だ。パソコンとかのちっちゃい画面&貧弱なオーディオじゃなあ、と。『Utada In The Flesh 2010』の円盤化を望む声が途切れないのもそういった不便さがあるからだろう。

なので、ここは考え方を真逆にしたらどうか。iTunes Storeで『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品を購入すると、いつでもどこでもiPhoneかiPadかiPodで“ライブアルバムが聴けるよ”という風にアピールするのだ。映像商品の購入というとどうしてもリビングの大きな画面で、となってしまうところを敢えてそのポータビリティに注目して宣伝してみてはどうだろうか。

まぁ別途音だけのライブアルバムも売って欲しいというのは前々から言ってはいるのだけど差し当たって現実的に次善の策だ。映像があるとどうしても観ないといけない気がするけれども、別にiPhoneをポケットに入れたままで映像を流しイヤフォンで音を聴いてるだけだっていいのだ。そういう楽しみ方が出来ると聞けば全20曲3500円と言われて購入したくなる人が幾らか新しく出てきてくれるんでないか、と想像するのでした。どうかなぁ。

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東京五輪の1回目のチケット申し込みが今日の正午で締め切られる一方、『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品の予約受付も今週金曜日で締め切られる。毎日隈部くんのカウントダウンツイートがあるけれど、夏休みの宿題を最後まで溜めるタイプの人はまだ購入を迷っていたりするのだろうか。

今回は思い切った二極化を図ったので、そういう「買おうかどうしようか悩む層」は比較的少ないように思える。一万円というと欲しい人は躊躇い無く、場合によっては2枚以上買うだろうし、反射的に「うわ高ぇなぁ」と思う人はまぁ手ぇ出さないでしょ。

でそこから零れる「普通の一枚の値段なら買ってたのになぁ」という層をどれだけ拾えるかは電子版にかかってくる。普通の値段というと4000円~7000円あたりか。7000円で一枚買える人は3枚組で写真集もついてくる今回の10000円もあっさり買いそうな気がするな。まぁ4,5000円狙いの層かな。

その人たちがiTunesStoreで配信購入するかというと難しい。というか、宣伝や啓蒙が足りてないように思う。そもそも、iTunesでライブ映像鑑賞という習慣が根付いてない。

なので、恐らくだが、この週末にフィジカル申し込み受付を終了した時点で各電子版のプロモーションが始まるのではないか。これまでは単価の高いフィジカルを優先して推してきたが6月以降はどれだけ推しても生産数は増やせないのであんまり意味がない。店頭にどれだけ並ぶかわかんないしね。電子版であれば「いいな」と思った瞬間に購入して貰える。そこら辺を狙い目にした方法論にどうシフトしていくか、それを次回考えてみますかね。

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平たく言えばヒカルは初の全曲日本語タイトルのアルバムである『Fantome』をロンドンを拠点にして制作していた事になる。

場所が重要になるのは、これまた平たく言えば誰がそこに来れるかが変わるからだ。流石にこのレベルのミュージシャンはその気になれば地球の裏側からでも呼び出せるだろうが(例えばクリス・デイヴはテキサス出身で…今どこに住んでんだろね)、そりゃ近所に居てくれる方が都合がいい。エージェントにブッキングを任せていたのかもしれないが、兎に角事実として英国系のミュージシャンを起用する機会が増えた。

更に、ロンドンには東京に負けず劣らず世界中のミュージシャンが集まってきてライブをし、ヒカルは顔をさされないし出てくれとも言われない。様々なコンサートを観ていると思う。

『初恋』では英語タイトルの曲も復活したが、やはりまだ日本語重視の傾向は持続している。ヒカルは日本語の外に居て日本語を選んでいるのだ。

ヒカルは別に好きで東京とニューヨークを往復する生活を選んでいたわけではない。幼少の頃から両親に連れられていただけだ。しかしロンドンは自ら選んだ街である。出来上がった価値観に基づいているので、普通はこれをアイデンティティーとは呼ばない。その価値観がどこから来たのかが帰属意識だからだ。

『KUMA POWER HOUR』のエピソード6はスコットランド特集だった。ロンドンはイングランドだけど、あの島国あたりに何かを感じている事は強く推測できる。何故ヒカルはそこを選んだのか。まだ真正面から語られてはいない。

上坂すみれが好んでソ連とロシアを取り上げる程には入れ込んではないが、ヒカルも英国にはかなり愛着が出てきたんじゃないか。そろそろ英語でのインタビューやラジオも聴いてみたい。英国訛りが混じり始めているかもしれない、よ?

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林檎嬢の苦労はアングラで時々サブカルめなのにメジャーになってしまった事にあると思っていたが実際にこうやってアルバムを聴いてみると、西洋商業音楽の歴史を概観する事で日本人としてのアイデンティティーに常に向き合わねばならないこと、更に自作自演屋を標榜しつつも自身は(或いは共同制作者の誰かかもわからないが)プロデューサーとしての資質に傾いていることの2点もまた苦悩の源泉なんだろうなぁと想像した。ほんとあんたの生き方は大変だわね。

サブカルかつアングラで、なかなか纏まらない才能あるミュージシャンたちを統合する機能としては、こうなってくると、椎名林檎と較べれば知名度も予算も体質も従って品質もまるで及ばないが、システムとしての優秀さは今や上坂すみれの方が上回っているようにみえる。アングラもサブカルもメジャーでなければなんでもありの趣味の広さが持ち味な彼女だが、林檎嬢に較べてずるいのは、自身が自作自演屋でもなければ日本人としての拘りもない事だ。御存知の方は御存知だろうが彼女は一介の声優に過ぎず、更に度を越したソ連&ロシア・フリークだからだ。

声優なので歌手としてのクォリティーやキャリアに拘泥する必要はないし、日本が潰れたらロシアに行くだけ(上智のロシア語学科を卒業しているので気合が違う)なので日本人の洋楽コンプレックスで遊ぶ事すら出来る。しかもベースが東欧文化なのだから西洋商業音楽を相対化する事すら出来るだろう。まだそこまでいってないけども。言い方は悪いが逃げ道盛りだくさんなので腰掛けのフリをして音楽活動を続ける事が出来る。正直敵わんよ。

なんだかこういう視点でも世代は動いてるんだなぁと痛感せざるを得ず。前向きかどうかはわからないけども。

…という前フリをすれば話の流れはわかるかな。アメリカと日本の2つのルーツ・アイデンティティーをもつとされているヒカルさんの現状はどんなだという話になる訳ですね。御存知の通りイタリア人と結婚して離婚してロンドンに住んでいるヒカルさんの現在の帰属意識はどうなっているのやら。それを改めて考えてみたい、かな? はてさてどうなることやらねー。

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「三毒史」がストリーミングに置いてあったのでさっき聴いてみたんだが、いやぁ凄いね。全然味わえてないのに満腹だよ。椎名林檎様!

宇多田ヒカルと椎名林檎の兼ヲタ多いよねぇ。いや、それで正解なんだけど、何故若い子達があっさりそこに辿り着けるのかが不思議で。そんなに皆真剣に音楽を聴いているのだろうか。うちらオールドファンは早い内に“東芝EMIガールズ”で2人が仲良しだと報されてたのでそもそも辿り着くも何もなかったのだが、若い子達が"I won't last a day without you"知ってるとも思えんし。唄ひ手冥利とか後回しにされるアルバムなんでねーのか。まぁいいか。これでいいんだから。

で聴いてると「日本で大衆音楽をやっていく大変さ」みたいなものをどうしても感じてしまって溜息を吐く。これだけやらなくちゃいけないの?─いけないんだよねぇ、やっぱ。それ考えるとホント宇多田ヒカルは異端にして化け物だね。いつも俺ヒカルに「もっと楽しそうにしろよ」って言ってる気がするけど、いやぁ、林檎嬢と比較するとヒカルめっちゃ楽しんで音楽作ってるわ。普段そんなに邦楽のアルバムなんて聴かないから考えた事がなかったわ。こういうことなんだねぇ。これが現実。

一言で言えば衒学的だ。映画音楽を中心として古今東西の楽識がこれでもかと詰め込まれている。しかも曲間も埋め尽くしてミュージカルの如く流れるように相交わらない音楽性同士を繋いでいく。その音楽的語彙の豊富さは文字通り目も眩むレベル。こういうことさせたらほんと日本人は強いよね。で、何を表現したかったのかは、結局私にはわからなかった。この徒労感に平気で居られなければ、日本で大衆音楽になんか携われないのよね。

この、“日本人論”に帰着させたがる傾向は林檎嬢の趣味なのだろうか。否が応でも意識する。衒学的なのも科挙制度の伝統であってそれすらも輸入モノだ。こんな場所で戦い続けてたらそりゃヒカルは救世主にしか見えんだろうね。手の届かない、だけど。オアシスの蜃気楼みたいなものか。

(6人の男子とデュエットしているが、日比谷カタンとやって欲しかったなぁ。彼のみ、互角に戦えそうだ。趣味以前に基本技術の精度が違う。)

クレジットを見てないから知らないけれど、サウンドプロデュースは林檎嬢メインなのかな。これは最早シンガーソングライターの作品というよりサウンドプロデューサーの作品に思える。5年ぶり6枚目のオリジナルアルバムということらしいが、比較してばかりで申し訳ないのだけれど、プロデューサーとして順調に成長しながらシンガーソングライターとしてのアイデンティティーを強化し続けているヒカルって本当に凄いんだな。「三毒史」は誰にも真似出来ない高品質な椎名林檎の作品だが、この上に立っても宇多田ヒカルは憧れでしかないだろう。ゆみちんとひかるちんのいちゃつきぶり、やっぱりヒカルが主導権か。麗しいぜ。

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@utadahikaru : 来週公開だ〜 いい映画だといいな〜

@utadahikaru : (´-`).。oO(既出の歌を映画に使いたいって言われるパターン初めてだな…今までは私が映画の内容に合わせたり、わざとズレた要素も含んだりしながら作って…「嫉妬されるべき人生」は自分でもすごく好きな歌だけどシングルって感じじゃないからこういう機会嬉しいじゃんな。よしオッケーしよ!)

@utadahikaru : つまりなんとなく勘でしかないけど監督さんがそんなに合うって言うんだったら合うんだろうなと思って「では是非使ってください!」という流れです ^^;

@utadahikaru : こだわりと情熱だけで良い作品は作れないけど良い作品にこだわりと情熱は不可欠。森監督のオファーにこだわりと情熱を感じたからオッケーしたというのもあったかも、振り返ってみると…(←情熱的な人に弱い人)


…特に言い足すこともない、か(笑)。「パラレルワールド・ラブストーリー」に『嫉妬されるべき人生』を提供した経緯を語ってくれている。森監督と何らかのカタチで接触したのなら、ヒカルの勘もしっかりはたらいているだろう。写真一枚で人の性格を見抜く人だ、理屈より先にファーストタッチで「あ これはいけそう」と判断したような気がする。

『嫉妬されるべき人生』は懐の深い曲。大抵の展開は包み込んでみせる。そこから+αがあったかどうか。もう今週の金曜日には判明する訳だ。

ツイートが日曜日の夜、というのはどれくらい狙ったのだろうか。朝のワイド番組とかに間に合うのかな。夕刊になら載るのだろうか。ウェブでニュースをチェックしているとそこらへんの感覚がなくなってくるんだが、ある程度話題にしても大丈夫というこれまた勘がはたらいたのだろう。

既存曲の提供は、映画では初めてだがテレビドラマなら『Eternally』という前例がある。ミックス違いではあるが。その時はほぼタイアップ相手に触れず無関心に近かったので今回もその路線でくるのかなと思っていたらこういう感じ。『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品受付締切直前だし『嫉妬されるべき人生』収録の『初恋』も依然最新アルバムだしで状況の違いはあるものの、ヒカルの勘はほぼ確信に近いのかもしれないね。

これで動員数が増えて映画館が混雑し鑑賞環境の快適度がやや下がるのが若干憂鬱だが、そんな心配を忘れさせてくれるような108分を期待したいですよ。ヒカルの勘のよさを証明して貰う為にもね。

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音楽も小説のように売ってくれればいいのに、といつも思う。小説に長さの定型は無い。掌編、短編、中編、長編、大長編と様々だ。星新一の掌編小説には1,2ページのものもあるし、中島梓のグインサーガは130巻を超える(何ページあるんだろうね)。兎に角、内容次第で長さはどうとでもなる。

そして基本的に、書籍は長さ(文字数だわな)に応じてお値段が変わる。200ページの文庫本と400ページの文庫本を同じ値段で売っている訳ではない。薄ければ安く、分厚ければ高くなる。到って自然。

音楽も同じようにすればよかったのに、どうにも「長さ」(こちらの場合は“演奏時間”だな)を定型化してしかも同じ値段で売ろうとしてきた。シングルとアルバムに大別されていて前者が1000円で後者が3000円で…っていう風に。どうにも自由度が低かったのだ。

読書好きは掌編も短編も中編も長編も読む。大長編までいくと覚悟が必要だけど、逆に言えば長さなんて関係ないのだ。そんなものは内容に付随して変化する二の次要素に過ぎない。なのに音楽の方は、長さをかなり狭めてきた。特に商業邦楽勢は4,5分の曲が12曲程集まって1時間程度のアルバムを形成して、という定型が大勢を占めた。自由度が低かったのだ。


…本当は、ここで「それも今は昔」と言える筈だったのだ。ダウンロード販売でバラ売りが可能になり、ストリーミングで好きなプレイリストを自由に組めるようになった今、1曲の長さもアルバムの曲数も好き放題できるようになっている筈なのに…どうしてもまだまだ小説のような自由さは生まれてきていない。うぅむ。

勿論、いちばんの原因はリスナーにある。昔ながらのフォーマットに慣れきってしまって最早疑問を抱かない。しかしそのせいでもっと豊かになれる筈の音楽鑑賞生活の幅を狭めてしまってはいないだろうか。掌編小説のようにサクッと終わる歌もあれば、大長編小説のように何時間も、いや何年も格闘しなくてはいけない歌もあったりしたらもっと楽しいだろうに…。

それを考えるとクラシックの作曲家は今の商業邦楽勢に較べてなんと自由だった事か。1分程度の小品から何時間もかかる受難曲まで。その時代の音楽家だって流行を気にせねば職業として成り立たなかったろうにねぇ。

小説のように自在な長さで色々音楽を楽しめる時代はいつやってくるのやら。もうシングルやらアルバムやらのフォーマットでリリースする必要はないんだ。78分を超える曲だって何の問題もないのよ。

いや勿論、マイナーでいいのであればそういう風に自由に創作している人なんて幾らでもいらっしゃるんだろうけど、それを商業音楽市場のサイズで成し遂げてくれた方がよっぽど風通しがいいじゃない? うぅん、もう10年くらい、様子を見てみるかな。

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同じく"部屋"が印象的な歌といえば『For You』がある。

『散らかった部屋に帰ると
 君の存在で自分の孤独確認する』

これは正確には“不在”だと思うが、『In My Room』で『君がいるなら同じ』とも『君がいないなら同じ』とも歌っているのでその区別はそこまで重要ではない。『君』の在不在を問うてる時点で既に気を囚われているのだから。


『あなた』では、しかし、『この部屋』に2人でいる。確かに明言はされていないが、曲中ずっと『あなた』から離れるつもりは毛頭なさそうなのだから自然な類推だろう。

これに近いのは『日曜の朝』か。

『デートだとかおしゃれだとか
 する気分じゃないから部屋でいいじゃん
 カーテンは開かないまま
 ゆっくり過ごす日曜の朝だ』

これと『あなた』の歌詞とを対比してみる。

『戦争の始まりを知らせる放送も
 アクティヴィストの足音も届かない
 この部屋にいたい もう少し』

『日曜の朝』ではカーテンを閉め切って外界からの影響を排除しているが、『あなた』では放送や足音といった“予感”を匂わせつつもそれでもこの部屋にいたいと歌う。『もう少し』に、やがてこの空間から出て過酷な現実と向きあわなければならない日々がやってくる事への自覚がみてとれる。『日曜の朝』は如何にもモラトリアムな若者の歌で、『あなた』は人の親の歌だわね。


勿論、いつも通り歌の登場人物は様々に入れ換えてもらって構わない。『日曜の朝』が親子の歌だってよいし、『あなた』を恋人だと思っても大丈夫。それぞれの部屋の風景から君やあなたが何を思い浮かべたか、それが大切なのですよん。




 

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ファンタジーである「鎌倉ものがたり」のエンディングを飾るだけあって、『あなた』の歌詞はどこか浮世離れした側面をもみせている。のだが冷静に考えるとなかなか一筋縄ではいかない。

『燃え盛る業火の谷間』とか『天上天下』といった言葉のチョイスからはここに天国と地獄のような世界観を持ち込んでいるように思える。映画の影響だろうか。一方で、『戦争の始まりを知らせる放送もアクティヴィストの足音も』といった一節は過酷な現実世界の話だろう。そのどちらからも距離を置きながら『あなたと歩む世界は息を飲むほど美しい』と言い切っているのが『あなた』のアイデンティティである。

この前リアリティの話をしたが、2番の歌詞に出てくる、幻想とも現実とも異なる『この部屋』とは一体何なのか。

ヒカルの歌で"部屋"といえば『In My Room』だ。そこで歌われていたのは

『夢も現実も目を閉じれば同じ』
『ウソもホントウも口を閉じれば同じ』

という2つの極のどちらからも等距離を保つアティテュードであった。そして『In My Room』は次の2つの節で楽曲を纏め上げる。

『ウソもホントウも君がいるなら同じ』
『ウソもホントウも君がいないなら同じ』

今や『君』は『あなた』となり『あなたのいない世界じゃどんな願いも叶わない』とまで歌うようになった。同じ部屋に居るのでも何やら随分と違うようだ。



…確実にこの話は長くなるな。次回続きを書ける気がしない…。

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@utadahikaru : よく筋肉痛めるなあと思って整骨院行ったら見事な過剰運動症候群だって言われた、なんで36になるまで気づかなかったんや…子供の頃からやたら体柔らかくて筋肉痛めやすい人はこれの可能性高いかも

@utadahikaru : あ、病気とかじゃないよ!ただ関節が普通より柔らかいってだけね


ほへー、"Hypermobility Syndrome"なんて症状名、初めて聞いたよ。そのまま訳せば「過剰可動症候群」て名前になるところを「過剰運動症候群」とした事で"Over-exercise Syndrome"と解釈する人多数という状況なので、こうやって有名人が啓蒙するのは大事な事かもわからんね。

実際検索してみると「オーバートレーニング症候群」というのもヒットする。これは文字通りトレーニングのし過ぎで慢性疲労や免疫力低下などを引き起こす症状の事を言うそうだけど、日本語の感覚としてはこっちの方が「過剰運動症候群」っぽいよね。

mobilityってのは可動性、動きやすさとかって意味だからそれを運動としちゃうのは…医学系と化学系は日本語強い人少なかった(というか無頓着)けど、今でもそういう傾向あるのかなぁ。

それはさておき。筋肉や関節を随意で自在に動かす能力が高い、高すぎる位だ、ってのがHypermobility Syndromeの概要なら、同じく筋肉である声帯のコントロールも人よりずっと自在なのかもしれない。つまり、ヒカルが歌が上手いのとHypermobility Syndromeなのは表裏一体なのかもしれないってこと。そして、操るのが自在過ぎて本来の可動域以上に使おうとして声帯を傷めてしまえる可能性も人より高いかもしれないって訳か。これは要注意かもわからんね。何しろ36歳になるまで気づいていなかったんだから…。

とはいえ、知らないまま20周年を迎えて今の喉の状況が『Laughter in the Dark Tour 2018』で聴ける通りなのだのしたら、ちゃんと壊さずに来れている訳でその事は称賛に値する。今回症状に名前を得た事でますます注意深くなっていってくれればまた有難い事なのです。

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『一日の終わりに撫で下ろす
 この胸を頼りにしてる人がいる
 くよくよなんてしてる場合じゃない』

『コートを脱いで中へ入ろう
 始まりも終わりもない
 今日という日を素直に生きたい』

『あなた』と『テイク5』の歌詞を見較べながら、「随分変わったなぁ」と溜息を吐く。歌詞なので別にヒカル個人の感傷と直結している必要はないのだが、それぞれに歌の説得力が有り過ぎて「この人は実際にこう感じたからこんな風に歌えるのだ」としか思えない。

『テイク5』の時の空虚感。『会わない方がケンカすることも幻滅し合うこともない』とひとりでいる事を敢えて選ぶ。コートを脱いで中に入ってくるのはひとりだろうし出迎えもないだろう。そこに及んで『今日という日を素直に生きたい』と呟いて自分が生きたいのだと初めて気づく。素直になりきれてなかったんだろうな。

『あなた』の方にそんな余裕はない。生きるも生きたいも素直も捻くれもヘッタクレもあったもんじゃない。この子を抱えて生きるに決まっているのだ。そんなところで悩むだなんて"しゃらくさい"んだろうね。くよくよしてる場合じゃないわなそりゃ。

こんな風に全く異なる一日の終え方を見せられているのに、どこか同じにみえるから不思議だ。ヒカルからすれば、ひとりで一日を終えるのもふたりで一日を終えるのも、基本的な思想信条感性悟性自体は変わらない。ただ、もう一人居るか居ないかだけなのだ。変わったのはそこだけ。それに合わせて変わる所は総て芋蔓式だかドミノ式だか。どれも必然で自然な事なのだ。

『あなた』と『テイク5』は、それぞれ関連する作品「鎌倉ものがたり」と「銀河鉄道の夜」いずれもが「生の世界と死の世界の境界を行き来する」作品であるという点で共通している。そして、今見たように、その生と死の狭間に立ちながら今日という一日をどう捉えるかについて言及している。息子が出来た事で、そのトーンは大きく変わった。ヒカルにとってとても大きかった。しかし、だからこそそこにヒカルの変わらなさがよく見える。変と不変は一体となって光を見せてくれるのだ。

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『あなた』の歌詞からは「家」が生まれた感覚がよくわかる。『戦争の始まりを知らせる放送もアクティヴィストの足音も届かないこの部屋にいたい もう少し』。自分自身のリアリティがどこにあるか。今ココ、だ。当たり前過ぎる程当たり前だが、情報の波と社会での役割を演じる事に疲れてしまうとそんなことも忘れてしまう。もっとも、この歌だって宇多田光さんが宇多田ヒカルの役割を演じる中で生まれてきてはいるのだけれども。

自分自身のリアリティがある場所に他の誰かが居る場合、そこは「家」に成り得るだろう。光は「日常」と表現していたが。これも相対的なものでその他の誰かがその時間空間にリアリティを感じていなければそこはその誰かにとって家や日常にはならない。母と子とて例外ではない。しかしヒカルの場合漏れ伝わる“微笑まエピソード”の数々から察する限り仲良くやっているようで。

2人でいる時はステージで歌っているヒカルはそれこそ別人のように感じられている、かな。ヒカルは『Laughter in the Dark Tour 2018』映像商品の編集作業には関わっていない、んだろうな。自分の作品や歌唱はプロデュース出来ても、ステージ・パフォーマンスやアピアランスまでプロデュース出来るかというとわからない。『Goodbye Happiness』MVを観る限り能力的には問題なさそうだが単純に手間暇が要るし他の誰かが出来るのなら任せれるところは任せてヒカルは自分にしか出来ない事をしていよう。こどもの世話もあるしね。

先程引用した歌詞、『戦争の始まりを知らせる放送もアクティヴィストの足音も届かないこの部屋にいたい もう少し』。『いたい』で終わらずに『もう少し』でしめている。ずっといたい訳ではなく、期限を自ら切っている。また放送や足音の届く場所に戻ってくるつもりがあるという事だ。良くも悪くも、家以外の場所が要る。また歌う為に。家でも童謡歌ってんだけどね。

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根っからのメタラーなのでエレクトリック・ギターの栄枯盛衰にはそりゃあ興味はあるけれど、そもそも別にあんな楽器要らないからねぇ。


20世紀の音楽で最も影響の大きかったものといえばPAだ。パブリッシング・アドレス。要は、スタジアムの最後尾にも音が届く仕組みだ。お陰でコンサートの規模が桁違いになった。

アコースティック・ギターはピアノやバイオリンやラッパに較べて音が小さく、フルオーケストラで目立つような楽器ではなかった。室内楽で繊細な音色を響かせていてくれたら、という程度だった。

それが電気の力を借りればいきなり何十万人という人に自分の演奏が届けられる事になった。そりゃテンション上がったろうね。


21世紀。PAはますます発達し、生楽器をマイクで拾って増幅する技術もライン直結のシンセサイザー・サウンドも格段に発達した。大きな音を出して数十万人に聴いて貰うためには必ずしもエレクトリック・ギターでなくてもよくなったのだ。結果、今の商業音楽にエレクトリック・ギターの居場所はなくなりつつある。冷静に聴いてみれば、汚いもんね音色。バイオリンに敵うはずもない。スカイギターだって粗いもんだ。


という世情だから、ヒカルなら逆張りしてくるんじゃないかと思っている。次のアルバムではエレクトリック・ギター・サウンドが増えるのではないか。好きなのは相変わらずジミ・ヘンドリックスとかレニー・クラヴィッツみたいなブルージーかつソフィスティケイテッドなスタイルなんだろうが、その気になれば誰でも連れてこれるんだからね。宇多田ヒカルのネームバリューよ。またTAKUROさんでもいいしな。

しかしやっぱり、そろそろ、ねぇ? ヒカルさん、御自身でエレクトリック・ギターを弾いてみやしませんか。『Laughter in the Dark Tour 2018』では『SAKURAドロップス』の終局部でキーボード・ソロを見せてくれた。こういうプレイは往々にして次のアルバムに活かされる。ヒカルがキーボードソロタイムを設ける曲が出来上がる期待。そこから更に一歩踏み込んでエレクトリック・ギターソロもいいんじゃないか。『Be My Last』では曲作りにエレキを用いて新境地を開拓した。今度は曲作りのみならず演奏面でも新境地と洒落込もうじゃありませんか。どうでしょうか。

「手の指が短い」という弱点だけは、どうしようもないけどね~。“小4”の手足な。溜息。


ところでところてん、前回引用した後藤氏の話だけど。これって多分みんなギターが鳴り始めたら「あ、間奏だ」と思って曲変えちゃうってだけなんじゃないのかな。別にギターの音色が人気ないんじゃなくて、ギターが鳴り始めた時の「本格的な間奏が始まった感」が他の楽器に較べて甚だしいって事じゃないのかしらん。こういうのって、データからどんな解釈を導くかは慎重にならないとだよねぇ。さぁ真相や如何に? でもアメリカの(&インターナショナルの)チャート上位からギターサウンドが消え去っているのは事実ですよ。なくはないけど、昔みたいなギャンギャンな使い方は、されてませんわね。これからギターサウンドは、どう生き残っていくのだろうか…。

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