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無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『Fantome』は、恐らく、ヒカルが2010年にアーティスト活動休止を宣言した時には全く想像していなかったアルバムになったのではないかと踏んでいる。

人間活動に入ります、と言った時に『2年になるか5年になるかわからない』とは言っていたが、それでもヒカルは、朧気ながらも、自分がアーティストとして復帰してまた創作や公演に取り組む姿を想像していた筈である。想像ができたからこそ、"引退"という表現を選ばなかった、ともいえる。感覚的にわかっていたのだ、時間が解決してくれる類の問題であると。

もうたらればを言っても仕方がないが、仮にSCv2から休まず活動を続けて次のアルバムを作っていたとしても、それは『Fantome』で見せたハイ・クォリティーに遠く及ばなかったに違いない。というか、ヒカルはそう感じ取っていただろう。努力とか何とかではどうにもならない、ごまかしようがない位に、それは不可避的に襲いかかって抗う術もない。まさに「運命」そのものをヒカルは事前に感じ取っていた。

普通は、だからといって既に結んでしまった契約を反故にする訳にもいかずに活動を無理に続けていわゆるアーティストとしての「低迷期」と呼ばれる時間帯に突入するものなのだが、ヒカルは思い切ってまるまる休んだ。それが奏功した事は、いや、奏功したか否かは各自が『Fantome』を聴いて判断すべきものだ。

というのが元々なぞられるべきロジックだった、筈なのだ。事態は藤圭子の死で大きく変わった。アーティストとしての低迷期をまるまる引っ込む事で回避しようというヒカルの意図は、まるまる崩れた。『人魚』を書くまで、また再び音楽を生み出す自信も予感も総て喪ってしまう程の出来事だった。2010年当時の目論見は、全くと言っていい程消え去った。

更に結婚もして子も授かる。こちらはある程度予想とか期待とか願望はあったかもしれないが、勿論意味合いがまるで違う。一つの生命の死と一つの生命の誕生が対になって記憶に刻まれる。僅か2年の事なのだ。もうすぐ2歳だし、今年初四回目の命日だ。


つまり、何が言いたいかといえば、ヒカルは2010年当時に思い描いていた「復帰作」にあたるものを、実はまだ作っていないんじゃないかという事だ。『Fantome』は人間活動からの復帰というより、母の死と向き合いながら作ったセラピーのようなアルバムだろう。低迷期なんて生易しいものではない、音楽家としての死とギリギリの所で対峙して出来上がったような、そんな重さを感じさせる。これを復帰とか復活というのなら、寧ろ「音楽家宇多田ヒカルの再生」に近い立ち位置かもしれない。

なので、改めて次のアルバムで、いよいよ本来の意味での「人間活動から還ってきた宇多田ヒカルのアルバム」が聴けるんじゃないか、という仮説も立ち上げてみたくなる。折しも、『Fantome』というアルバムを挟んでここで初めての本格的な「レコード会社の移籍」を成したのだ。次の新曲、次の新譜はまるで新天地からの再々…々デビューのような扱いになるかもわからない。Hikaruは一生のうちに何度デビューする気なのやら。

つまり何が言いたいかというと、もしそうなるなら、実は『Fantome』より次のアルバムの方が、『HEART STATION』〜『This Is The One』〜『SCv2d2』という流れの自然な続きとして認知される、そんな作風になるような可能性が考えられるのである。そうなると、一部のファンから「今度こそ本当に"あの"宇多田ヒカルが還ってきた!」と興奮されるような方向性を持ち得ているのではないか、と。

勿論『Fantome』からの流れも消えない。『SCv2d2』から『桜流し』、そして同曲を含む『Fantome』へと脈々と受け継がれているものがあるのも又事実であり、ひとりの真摯なアーティストである以上、嘘のないその作風がなかった事にはならないだろう。つまり次作は、『Fantome』を愛したファンと、どちらかといえば昔の宇多田ヒカルの方が好きだったファンの両方を取り込める作風になる可能性があるのではないか、とそう憶測しているのである。

さて、どうなっていますやら。神のみぞ知る。あと1ヶ月位で新曲かな?

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アリアナ・グランデ凄いな。事件から2週間足らずでチャリティーコンサートの開催に漕ぎ着けるとは。一体どんなオペレーションをしたらこんな短期間で5万人規模の会場で世界のトップスターたちが集結する催しをオーガナイズできるのか、想像もつかない。コンサート・スタッフたちも世界有数の有能揃いという訳か。

また集めた面子が凄い。ジャスティン・ビーバー、コールドプレイ、ケイティ・ペリー、マイリー・サイラス、テイク・ザット、ファレル・ウィリアムズ…って既に本来であれば30万人くらい集客できそうなラインナップだ。これが今週の日曜日に一堂に会する。もうどこまで本当なのかよくわからないレベル。いいのか。仮にも超一流のエンターテイナーたちが日曜日にこれだけ暇だったのがよくわからないが、もしかしたら事が事だけに先に入ってた仕事をキャンセルしたのかもしれない。それだけインパクトの強い事件だったのだ、マンチェスターでのテロリズムは。

日本でここまで迅速に慈善コンサートの段取りが組めるかどうかというと、わからない。スタッフの鍛えられ方という点では、来日公演を催す外タレの皆さんの評判をきくに、リップサービス分を差し引いてもなお日本の運営力は世界的にみても随一らしい。

ただそれは、出来上がった企画を仕様通りに遂行するのが巧いだけで、このような不測の事態に対しては未知数だ。アリアナは夏に来日公演も控えているが、目下直近の公演はキャンセルして陣容を立て直すようだから、諸問題をどう解決していくか見守っていくとすしますか。


一方その頃ヒカルさんは、息子の「よしよし」に身萌え悶えていたようで。机の下に落ちた消しゴムを拾おうとしてしゃがんで潜り込んで顔を上げようとしたら机の庇に頭をぶつけてうずくまった、といったところだろうか。ただ母親のする事を真似ているだけなのだろうが、そりゃもうお母さん抱き締める勢いですわな。何とも平和な光景。こういう日常を守る為にも、テロリズムによる犠牲などは総て回避していきたいものだが、現実は悲しいものだ。その現実と真っ向から向き合う勇気ある方々に心から敬意を表したい。頑張れ、負けないで。

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『Goodbye Happiness』と『愛のアンセム』と『Can't Wait 'Til Christmas』の3曲については「アンチクライスト」な面があるがもう2曲、『嵐の女神』と『Show Me Love』についてはどうか。こちらはイエス、いや、宗教自体が出てこない。母の歌だからだ。

『嵐の女神』が母の歌だというのはほぼ自明だろうが、『Show Me Love』が母の歌だとは直接的には言い難い。何を根拠に、と言われると確かに決定的な要素はない。従って断言はできない。

が、それを伺わせる歌詞がある。『紫の信号』と『Inside My Lavender Dreams』だ。かなり強引だが、この二色、紫とラベンダーは藤色に近い、だからこれは「藤圭子」を現す暗号なのではないかと解釈する。…かなり苦しい。しかし、ヒカルは成人式の折り藤色の留め袖(だっけ?)に腕を通していたし、意識していない事もないかと思われる。

…という風に、今まではかなり強引だったが、『Fantome』がリリースされたことでこの『Show Me Love』の歌詞の意味がよりわかりやすくなったように思えてきたのだ。それでますます、『Show Me Love』が母の歌なのだと確信…まではいかずとも、そうなのではないかと邪推できる領域にまできたように感じられている。

どう読み解くか。『道』の歌詞と比較するのである。

『Show Me Love』の歌詞は『自信の無さに甘えてちゃ見えぬ』とか『自分でしか自分にしてあげられない』『初めて自力で一歩踏み出す』といった「自分の力で頑張れやコラ」というのがテーマだった。

一方『道』は『調子に乗ってた時期もあると思います』『人は皆生きてるんじゃなく生かされてる』と実に謙虚。まさに『Show Me Love』と正反対の感慨が歌われているのだ。これを「6年経った心境の変化」と捉えるか「歌詞なんだからただ単に別々の物語」と捉えるのは自由だが、それを置いておいたとしても『道』が母に宛てた内容である事を疑う訳じゃあないだろう。何がどう対比されている事で『Show Me Love』が母の歌に"なってゆく"かの話は、また次回のお楽しみで。

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昨日の2つの日記は一体何なんだか。自分の週末といえば『ぼくはくま』を聴き直して「やっぱり名曲だなぁ」と浸ったり、「歌詞が日本語とフランス語で構成されてて輪廻転生を歌ってる(『ゼンセはきっと』『生まれ変わっても)という点で、『ぼくはくま』と『愛のアンセムは同じ世界観を構築してるんだな〜曲調も歌い方もまるで別なのに、作者はやっぱり同じな訳だ」と前にも思っていた事を反芻してみたり、「…やっぱりヒカルの喋り声はいいな…」と相変わらずの声フェチぶりを発揮したりしていたのに、なぜあんな話題に。他にやってた事といえば百合漫画を読み漁ったり、卓球世界選手権個人戦の情報を収集したり…そういう話題に触れた方がよっぽど私らしいのに。まいっか。

『愛のアンセム』で思い出したが、『Single Collection Vol.2』での新規収録楽曲って歌詞に「反キリスト教的思想」が埋め込まれてる、って話したっけ? したような気がするが検索も面倒なので、先週の「踊場」の話の続きもあるし、一回復習しておくか。

『Goodbye Happiness』のテーマは、非常にキリスト教的な、「楽園追放」の物語だ。アダムとイブが知恵の実たる林檎を食べて、それまで無垢に暮らしてきたのが恥じらいを知り知性を身に付け神の逆鱗に触れ楽園を追放される、というのが主な筋らしい(そういや俺原典(の訳)を読んだ事ないからな…全然間違ってる可能性もあるのか…)。『Goodbye Happiness』には林檎の代わりに『甘いお菓子』、無垢や無邪気の象徴として『白いワンピース』云々(いや寧ろその"云々"の方が大事なんだけど)が出てくる。で、何が違うって最後に楽園追放を全肯定する点だ。『も一度 Kiss Me』…ってここだけ書くとリンドバーグ臭が漂ってくるな…(余計なお世話だ)。

キリスト教では、なんだっけ、厳しい現世に落とされた人類はひたすら神に祈って最後の審判で天国へ召される事を望む事になっているのだが、ヒカルはそこには目もくれず、生まれ変わったらもう一度この人生を歩みたいと思うほど今の人生を気に入っていると歌う。生まれ変わりを歌う時点で最後の審判を強調するキリスト教的思想に真っ向から対立するのだが、『愛のアンセム』では原曲で天国に召される話をわざわざ自力で改ざんしてまで生まれ変わりにこだわる。ゼンセはきっとチョコレートなのである。(意味不明だなぁ)

そして『Can't Wait 'Til Chrirtmas』は言わずとしれた「クリスマスが(楽しみ過ぎて)待ち切れない」と「クリスマスなんて特別な日でも何でもないんだからそれまで待たせんな。今すぐ愛し合え」のダブル・ミーニングを持つ歌だ。「クリスマスなんて特別な日でも何でもない」というのはまさにキリスト教に喧嘩を売るようなものなのだ。一応社会通念上クリスマスは「イエス・キリストの誕生日」って事になっているからの。この正面突破ぶりは、ある意味いちばん危険である。

なぜ当時こんな歌詞を書きたくなっていたかはよくわからない。今や敬虔なカソリックの家庭に嫁入りした事になっている。いや婿とったのかもわからんけど、旦那やその家族はこういった歌詞を御存知なのだろうか。一度感想を伺ってみたいものである。…いや、そんな機会も手段も気力も何も一切ないのだけれどなっ(笑)。

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週末は「イカをしめる動画」の記事が随分アクセスを集めてたようで。生きたままさばく様子を動物虐待だ可哀想だと。昨年、人里に降りたヒグマを射殺したら非難の声が届いた(追い払うとか麻酔銃とかは無理だったのかと)なんて話もあったな。動物愛護法が出来てだいぶ経つし、意識のズレがあちこちで見受けられる。あぁ、私にとっては先週触れた「本丸」の話でもある。

ヒカルさんは今は熊についてどうお考えなのだろうか。何しろ6年もブランクがあるのだから、興味関心が移ってしまっても致し方ないところ。とはいえ、態様が変わろうと、くまちゃんに対する愛情が6年やそこらで無くなるとも思えない。落ち着く事はあるだろうが。

こちらが気にしているのは、現実の「熊」にまでその愛情を敷延させようとしていた点だ。人間の「熊崇拝文化」については当日記でも取り上げた事があるが、現実の熊、特にヒグマなどは歴とした害獣である。ただ作物を荒らす他の小動物たちとはレベルが違う。人里まで降りて人間を虐殺する肉食獣なのだ。二足歩行とその強さから熊が崇拝の対象になるのもよくわかる。神を宥める為に宗教が発達するのはいつの時代どの地域でも似たようなものだろう。

そういえば昨年、山梨で熊肉を食べてきた。印象としては猪と牛の中間のような感じで割と食べやすい肉だったな。ヒカルは熊肉を食べた事があるのだろうか。

海洋学の権威(っていう言い方で合ってる?)であらせられるさかなくんさんは、魚を全般的にこよなく愛していく中で「魚を美味しくいただく」事に関しても並々ならぬ知識と技術をお持ちである。あれだけ愛した魚を食うんかい、という非難も、今は殆ど見なくなった。彼の言動が一貫しているからだろうか。

なんて事を書いてはいるけれど、特に今、ヒカルに熊についてコメントして欲しいと思っている訳ではない。寧ろ、今の空気を存分に読んで欲しいと言いたい。

イカの記事に関しては実はよく読んでいない。いや記事は読んだが、具体的にどんな反応があったのかは知らない、というところ。ただ、日本人は昔から、特に業に対して屈折した感情を持っている事は特記しておきたい。今でいえばあれだけお世話になっているセクシー女優の皆さんを賤業扱いするのに似ていて、業の皆さんがさばいてくれるから我々はお肉を食べられているというのに彼らの職業もまた賤業扱いして忌み嫌う、というような事をしてきた。イカが相手だと随分とスケールが小さいだろうが、お世話になっているのに自らの食欲を肯定しきれない感情というのが、どうしてもついて回るのが肉食の特徴である。これは日本に限った事ではなく、様々な宗教、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教やヒンズー教などで、牛や豚はそれぞれに"特別扱い"している。神聖視して食肉はおろか自体を禁じていたり、或いは汚らわしいものとして疎んじたり、忙しい。イカの場合は吹っ切れてる人も多そうだが、牛や豚となるとなかなかそうはいかない人も在りそう
だ。いわんや熊肉をや。人間を虐殺する猛獣であるとしても、熊を殺してその肉を食うのは抵抗があるだろう。何しろ今殺した熊は、人間を1人も殺した事がない、見つけてもすぐ逃げ出してしまう臆病で心の優しい熊だったのかもしれないのだから。人間そこまで割り切れないやね。

話が突飛だな。本当に最近の私は何を書くのかよくわからないぜ。

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アリアナ・グランデはテロリズム当地に対してチャリティーライブを行うという。歌手は歌う事しかできない。賢明な判断だ。社会に身を置く以上、貢献したくばひたすら自分の得意な事を供給する以外にない。…6年前の自粛騒動の時も、そんな事言ってたね。それ自粛じゃなくて他粛、って誰かさんも言ってたな。

特にたかが表現活動で自粛を求めるのは筋違い、お門違いだ。厳粛な場にお笑いを提供するのは不謹慎、とかそういう指摘もあるが、お笑いなどはその場の流れ、雰囲気を読んでネタを選択するものだ。お笑い会場に行っておきながら笑いたくない、という人はそう居ないだろうし、お笑いに相応しくない場所にはそもそも呼ばれない、というのは緊急時も平常時も変わらない。最初から棲み分けが出来ている。

問題になるのは、地上波テレビだ。テレビをつけっぱなしにするのが当たり前、という空気に対してはかなりの配慮をもって臨まないと叩かれる要素満載である。現実には、放送局の方が"民意を忖度"して過剰に自粛するケースが圧倒的に多い。テレビ東京が毎度他局が臨時ニュースを放送している場合でも通常放送を流すのをネタにされているが、そっちの方が異常である。まぁ民放だから、「臨時ニュースの方が数字がとれる」という判断をしているだけかもしれないが。

問題なのは、その"地上波テレビの異様な状況"を他のメディアにも無批判に当てはめてしまう事だ。敷延、だな。メディアが変われば状況も対処も変わる、とわかっていれば地上波テレビ以外のメディアには殆ど自粛は必要ない事がわかる。基本的に、どんなメディアも、誰しも自らが選択しと目を耳を指を通しているからだ。勿論最初に初めてそのメディア自体に接する場合は注意が必要だが、成人の場合そのようなケースはそうそうない。ただ単に、地上波テレビがいつも点いていて向こうから勝手に情報を押し付けてくる状況に馴れ切ってしまう事が不要な自粛、ひいては他粛を生んでしまうのである。チケットを買わないと体験できないような表現活動に自粛なんてそもそも要らない。今の状況ではコンテンツの内容的に客が入らない、或いは入っても悪評を生む、という純粋に商売上の判断から中止する事はありえよう。しかし、そこに外野が入っていって不謹慎だ何だと謗るのは、ひとつの感情の情報としては有益だが、それに過剰反応するのは全体の利益に反する。なん
とかして過剰反応を抑制せねばならないが、そうそうこれは簡単な事ではない。せめて我々は、もう少し冷静になって、そういった萎縮を招く行為に対して油を注ぐような真似だけは避けたいものである。いやはや、月曜の朝から堅い話題だなw

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歌の名前と人の名前、どちらが有名かというのは大きなテーマだ。昔「唯一、宇多田ヒカルという名前の大きさを越えて生き残る歌があるとすれば『ぼくはくま』ではないか」と書いた事があるか、これを例にとれば「『ぼくはくま』の名は「宇多田ヒカル」という名より大きい」という言い方になる。

卑近な風にいえば、歌は知ってるんだけど誰が歌ってるかわからない、みたいな状況だ。「プライベート・アイズ」という歌は知ってるけどホール&オーツって誰?みたいな。彼らはそうでもないけれど、世に言う一発屋、ワン・ヒット・ワンダーの皆さんは大体そんな…と思ったけど、日本の場合大事マンブラザーズバンドの「それが大事」みたいに、一発屋ネタって人名と曲名が大抵セットだね。まぁ兎に角そんな話だ。

ヒカルも、宇多田ヒカルという名より有名な名曲をまた書けるようになれればそれは凄い事になるだろう。何しろ、名曲を生み出し続ければ更にヒカルの名が轟いて歌の名前より有名になってしまうのだから。差しつ差されつ抜きつ抜かれつ。そうやって有名になった自分の名前より更に、となれれば永遠に成長を続けられる。今から日本でそれをやるのは至難の業だが、ライバルの居ない今の状況だとそれ位の目標を置いてちょうどいいのではないか。


2010年に『Goodbye Happiness』を発表した時、私はこの曲を「最後のJpopソング」と言って絶賛した(余談だが、勿論Jpopの象徴的であるZARDの名曲「Goodbye Loneliness」を念頭に置いて、ね)。しかしそれとともに「ヒカルが熟れ落ちる直前まで来ている」という話もした。つまり、ソングライターとしてのピークをこれから過ぎていく予感を、この曲から感じ取ったのだ。(だから人間活動に移るには絶妙のタイミングだったと今でも思う)

後日、ヒカルはこの曲について「Aメロにうまく歌詞を載せられなかった」と珍しく口にする。まさにその部分が、私が「熟れ落ちる寸前」と思った根拠だったのだ。作曲家が熟れ落ち始めると、曲の魅力的な部分は最高に魅力的(『Goodbye Happiness』でいえばSynergy Chorusやサビのメロディーや中間部のヴォーカル・ソロや…って楽曲の大半やな)になるのだが、一方で楽曲を細部まで完璧に整えられなくなっていく。まさに実が熟して甘さが最高潮になる一方でそろそろ腐り始めるように…。(また余談。それと対比して細部までガチガチにコントロールできているが甘さはまだそこまで行っていない、即ち"青い果実"の代表例といえば『traveling』ですね。あれはまさに"完全無欠な"ポップ・ソングでせう。)

…と、当時は「作曲者であるヒカルの立場に立った」見解を書いた。しかし今振り返ってみると、歌の側から見る視点が欠けていた気がしてきたのだ。つまり、『Goodbye Happiness』という歌の側からみれば、「宇多田ヒカルという音楽家は私を完璧に捉えるだけの"器"ではなかった」という事だ。たかが曲が何を尊大な、という気がするが、そう言って貰った方が作曲者としては、傷つくけれど"腑に落ちる"のではないか。『traveling』クラスならヒカルの力量を持ってすれば完璧に捉えられたが、『Goodbye Happiness』クラスだと、熟れ落ちる寸前の最高潮になった瞬間に手は届いたけれど全てを掴み取るまではいかなかった、と。

つまり、有名無名とはまた別の次元で『Goodbye Happiness』の名は宇多田ヒカルという名前より"デカい"のだ。今、7年前を振り返って、そう捉え直した方がいいのではないかと考えている。

というのも…って随分長くなったな。続きはまた次回だな。…あれ? もしかして来週になっちゃうかな。…暫し待たれよ。

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今朝も11年前のメッセ【ふんどしで寝不足】を読んできた。タイトルからしてもう無意味でバカバカしい内容しか想像できないがその期待に違わぬどうでもいい本文である。

嗚呼、めっちゃ楽しい。楽しそう、か。11年前だもんなぁ。今もこんな文章書けるんだろうか。随分落ち着いちゃったなぁ。

でもその11年前ですら「Hikki随分落ち着いたねぇ」と言っていた気がするから、10代の頃はどんだけハイテンションだったんだという話に。

もしかして10年後に今を振り返ったら、「30代の頃のHikkiも随分ハシャいでたな」って言い合っているのだろうか。なくはない。

ちゃんと歳をとってるんだなぁ。顔は相変わらず童顔だけど。もうそれは一生変わらんかな。ネオテニーみたいなもんだろ。

10年以上の前のメッセを読んでたら、Webの流行もかなり動いてたんだろうなと感慨に耽ってしまった。昔はテキスト系サイトといって筆力だけでアクセスを集める"ホームページ"が沢山あった。今も変わらず続けている人もいれば、はてな民やアルファブロガーを経てツイッタラーやらメルマガ執筆やらに拡散している。

一方、端末性能の向上と無線ブロードバンドの普及で動画系サイトが次々と立ち上がり人気を博した。YouTubeが2005年からだからその頃以降だ。それでアウトプットの幅が一気に広がり昨今は動画の広告収入が本業になっている人まで居る。いやはや、年寄りな言い方になるが、時代は変わった。

ヒカルの方も別に手を拱いて見ていた訳ではなく、メッセに写真添付はそれこそ2006年以降常用になったし(それ以前は滅多になかったのだ)、UtadaではMySpaceに動画を上げる事もした。くまちゃん会社訪問も動画コンテンツだわな。今ではいつのまにかちゃっかりインスタグラム常習者になっている。いやまだ動画はあげた事はないかな。それなりに時代に対応してきているのだ。

それでもやっぱり、テキスト系としての『Message from Hikki』のスタイルは恋しい。今はただの御本家ニュースリリースページになってしまっているが、昔はふんどしをクラシックパンツと呼ぶ事に延々憤慨するだけのテキストが掲載されて皆楽しんで読んでいたのだ。アホかと思うが、アホになれる時間が生活の中にあるって豊かですよそりゃ。

コンテンツ消費はますます性急になっている。私なんかツイッターに貼られたネタ動画のランニングタイムが20秒を超してるともうクリックしない(笑)。それは極端にしても、確かに、パッと見パッと聞きで消費できない"冗長な"テキスト系は最早今の僕らの生活リズムに合わない。とっとと結論を出せ、てなもんである。

しかしそこで、日々の忙しさを忘れて夢中で読み込むようなテキストがあってもいい。前回述べたように、だからといって「『Message from Hikki』の"復活"を!」と声高に叫ぶのもまた違うかなとも思っている。自分でもじれったいが、ヒカルだって書きたくなったらまた書くだろう。自然にそう思えるようになるまで、気長に待っているしかないんじゃないかな。

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最近日記でヒカルの話をしてない(時々漏れてるけど)のには明確な理由がある。私今完全に「『Message from Hikki』欠乏症候群」なのだ。毎朝昔のメッセを読み返していると「この人はこういう出来事をこんな風に捉えるのだなぁ」というのが次々と流れ込んできて、「今の(34歳の)ヒカルはどういう考え方をするんだろう?」という疑問が浮かんでくる。いや昨年沢山(でもないか)インタビューに触れて、創作に対する感覚やスタンスはある程度頭に入っているのだが、ほんのちょっとした事についてどんな風に感じているのか、や、世の中の出来事について何か言いたい事はないのか、とかそんな風な発言はめっきり減ったように思える。

そういうのが無い分、自分で「オピニオンめいた日記」を暫く書いてみたのだが…似合わねー(笑)。やっぱあんま得意じゃないみたい、この人。そういうのは。

でも、確かに、時代が違う。スマートフォン世代は絶対数が多い。即ち、発言者の発言内容の平均は確実に質が落ちる。従って炎上が増える。書いてある事をまともに読み取る人が相対的に減るからだ。誤解に基づいた炎上を防ぐのは極めて難しい。何しろ、何を書いても効果がないのだから。

だから、今の、たまに思い出したように出てきて一言呟いてまた居なくなるスタイルは、ちゃんと時代に合っている。インスタグラムの拾ってみたシリーズも、炎上からはもっとも遠いアイデアだ。本当にうまくやっていると思う。今昔のメッセのような生々しいオピニオンを書いたら炎上必至だ。いや当時ですら、随分と抑制的な書き方で、誰よりも巧く書き、多くの尊敬を集めていた。より経験を積んで物事の見極めも正確になった今、昔のような手法を選択しないのは、やはり極めて正しい。

しかし、メッセ欠乏症は、なんというかこれはこれで仕方ないのだ。宇多田ヒカルという人をずっと追い掛けているコアなファンというのは、その音楽性のファンではない。ただ人として好きなのだ。あれだけ毎曲々々音楽性の変わるミュージシャンを好きで居続けるのは至難の業だ。自分のように好きが高じすぎてヒカルがその時々に聴いている音楽をチェックしながら消化・吸収してきた人間なら、どの作品もそのまま愛せるようになるのだが、それもこれも、「この人を追い掛けたい」と最初の最初に思ったからだ。つまり、メッセ欠乏症とは、「今のヒカルが見えない」というシンプルな"叫び"なのである。

なので、今は逆から攻めている。今日こんなニュースを聞いて、自分はこう思った、ヒカルはどう思っているだろう?という順番だ。ただおろおろうろうろしているだけでは、ヒカルの思考や感性をトレースできない。自分が『Kuma Power Hour』を繰り返し聴く事で"ヒカルの最近の音楽的な趣味の傾向"を自分の感覚と融合させながら身に付けていけたので『Fantome』での音楽的な変化にも抵抗が無かったのと同じように、まず自分の感性や考え方と向き合う事で今生きている「宇多田ヒカルという人」の思想信条をトレースする下地になる力をつけておきたい、とそう考えている。灯台のように光を発する事は出来ないまでも、灯台がどこに向かってどれ位の光を出しているかを的確に読み取れるようにしておきたい、っていう比喩で通じる?(笑)

本当はもっと色々思った事を素直に発言して欲しい、という本音と、いやいや、炎上して活動に支障が出てはどうしようもないから不用意な発言は避けて音楽に集中しようよ、という建て前が自分の中に同格として存在している。生きていく上では本音と建て前の間に価値の貴賤は無い。どちらももっともだからだ。そしてそれこそが本当の価値観である。あとは、何がやりたいかという話にしかならない。特に何も、というのなら、思った事をそのまま書けばいい。何がどうなるか見てみよう。ここは「迷子になろう」とエミリーみたいに言えばいいのかな。

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タバコだアルコールだと影響力の大きいものの他に、最近「これは今後どっちに転ぶのだろう」と注目してるイシューがある。「エスカレーター歩くか立つか問題」だ。

都会の、特に鉄道駅のような急ぐ人々が行き交うエスカレーターでは、基本的に片側(東では右側、西では左側)を空けて、急ぐ人たちがエスカレーターを歩いていけるように配慮するのが常だ。もう片方は棒立ちで、エスカレーターで歩くのを休みたい人と、エスカレーターを使ってちょっとでも早く移動しようという人々が棲み分けをしている。実際、過密ダイヤの都会の鉄道では、数秒の違いが後々大きく響いたりするので「一秒でも早く」という気持ちはよくわかる。

しかし最近、少しずつではあるが、まずその鉄道会社の方から駅の中に「エスカレーターは歩くな」という主旨の掲示がなされるようになってきた。要は危険なのだと。おそらく、耐久性テストの折には積載物が移動する事を考慮に入れていないのだろう。安全基準に照らし合わせて「責任もてませんよ」という訳だ。

そもそも、「歩く人々の為に片側を空ける」という習慣も、利用者の自主的な配慮でしかない。目下急いでいない人が急いでいる人の為に片側に寄っているのだから行為の主体にはなんらメリットはない。非常に公共性の高い行動だとは思う。

ここらへん、「常識」がどちらに揺らぐかを観察したいところなのだ。今のところ圧倒的に「片側を空ける勢」が優勢で、歩くサイドを誰も利用していなくても律儀に並んでエスカレーターの片側だけに次々と乗り込んでいっている。片側にばかり荷重がかかりメンテナンスが大変になるんじゃないかと要らぬ心配をしてしまうところなんだが、それは置くとしても、長年培われた習慣はそうそう簡単には消えない。

タバコの場合も、似たような風に思っていたのだ、昔は。幾ら健康被害が露わになっていこうとも、長年、いや数千年以上をもつ人類の習慣がそうそう変わる事がないだろう、と。それが一世代分の時間も待たずに今こうやって追い詰められている。

エスカレーターにも、同様な事が起こるだろうか? 今は過去の習慣の圧勝だが、徐々に歩く事の危険性が浸透していくにつれ、皆二列に並んで棒立ちで乗るようになるのだろうか? これはまだまだわからない。しかし例えばエスカレーターで人身事故がありそれが全国ネットのニュースになれば、流れが変わるかもしれない。或いは鉄道会社をはじめとしたエスカレーターの設置者側の地道なキャンペーンが奏功するかもしれない。エスカレーターの効率的な利用法についての画期的な論文が突如登場するかもしれない。ただ、今は、ほんの少し揺さぶり始めている、という段階である。常識と、常識を覆そうとする動き。その間にどのような力学がはたらくか、傍観者はこれからもつぶさに、思い出したように無関係そうな顔をして眺めていこうかなと思ってます。

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私の考える「テロリズムに屈しない」精神とは、憎悪と報復の連鎖に絡め取られない事だ。彼らに煽られて、彼らと同じように暴力による報復を選ぶのは、まさに彼らと同じ思考になる事そのものだろう。実際に近しい人たちが"闇堕ち"してしまうのはある意味当然で、誰もそれには抗い切れない。人が人を殺めた時、周りで生き残った人間も同じ修羅の世界に落ち込んでいく。だから悲しい事なのだ、避けるべき事なのだ、人が人を殺める事は。昨日まで素直に世界平和を祈っていた人たちが、生きる誰かの命を殺す事をだけ願って生きる人生を歩み始める。これが悲しくなくて何が悲しいか。そしてこれこそが、真のテロリズムの効果なのだ。悪循環の連鎖の中、皆がテロリズムの思想に染まっていく。

踏みとどまろう。せめて、近しい人を喪っていない貴方だけでも、正気を保とう。遺族の皆さんが抱く無念と憎悪に同情する事はあっても、共感が過ぎてどこかの誰かを憎悪しその死を願う自分にならないで欲しい。人間の共感力や想像力が道を踏み外させる大きな一例である。想像力を制御して、憎悪から身を守らねばならない。

「テロリズムは絶対に許せない」と言えば確かに受けた心理的衝撃の受け皿にはなる。裏を返せば、青天の霹靂過ぎて心の準備が出来ていなかったのかもしれない。この意味では、日々テロリズムのニュースを目に耳にする事で慣れるのもまた重要である。常に世界中のテロリズムの話題に触れ続けていると「またか」という具合に感覚が麻痺してくる。「いやいや、それではいけない。」とかぶりをふる人も多いだろうが、それでいいのである。麻痺しないとやっていられない程世にはテロリズムが溢れている。そうなっていれば、心構えが出来ているともいえるのだ。これもまた、世界観に絡め取られているうちのひとつに数えられるのかもしれないが、自覚がある分、退ける。何もしない、何も変えない事もまた大きな抵抗、強い意思表示なのだ。報復を賞賛する悲劇に陥るくらいなら、麻痺してそっぽを向いて昼寝している方が、世界平和に貢献できるかもしれない。

お前はそんな事を遺族の前で言えるのかと質されるのだろうか。言えない。だからこそ悲しいのだ。誰かを喪えば世を恨むのも道理。だから喪う事は悲しいのだ。何度でも言おう。憎しみに基づいて動く位なら後ろを向いて昼寝しておこう。大きなマイナスよりゼロの方がまだプラスなのだから。

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昨日のマンチェスターでのテロリズムはイスラミック・ステイトから犯行声明が出たらしい。狙われたのがアリアナ・グランデという世界的に有名な歌手であった為もあり衝撃度はことのほか大きい。夏場には来日公演も予定されている。中止にならないか、とかセキュリティー強化は、とか種々の心配事が増えた。

どうにも対策をとりようもないのが現状である。テロリズムに遭ったら「運が悪かった」としか結論できない。いや、悪いというのなら犯行グループではあるのですが。どのような思想信条が背景にあろうとその手段は許されるものではない。許せない、と言った後、しかし、我々は短絡的になり過ぎる。ただ潰せば済む問題であればいいのだが、今世紀に入ってから途切れる事のないテロリズムの波を思い起こすと、それもなかなかに望み薄だ。庶民からすれば絶望的としかいいようがない。

しかし、であるならば、いつも以上にいつも通りに過ごす必要がある。至上最悪のかまってちゃんであるテロリズムのモチベーションを下げるには、テロリズムの影響が実社会に皆無だと実感させる事だ。かといってイベントの主催者たちは何もしないという訳にはいかないから難しい。確かに、何の答もないのだが、何も対処方法が見いだせないのなら開き直って普通に過ごすのがいちばん合理的だ。なんら解決方法を見いだせない時点で、何もしていないのとそうかわりはない。気分だけでも、いや気分こそ、テロリズムに屈しない事が求められる。テレビから流れてくる凄惨な様子に惑わされる事なく、そんなニュースなんてなかったというくらいの態度を心掛けたい。失われた生命は、何をどう足掻いても戻ってこないのだから。

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イギリスのマンチェスターで行われたアリアナ・グランデのコンサートで爆破テロがあり、現時点で20人以上の死者と50人以上の負傷者を出しているとか。如何にテロのニュースが21世紀、ありふれているとはいえその衝撃度に些かも変わりはない。本当にいたたまれない。

イギリスといっても、アリアナ・グランデならロンドンでもコンサートを開くだろうからもし仮に観に行きたいと思ってもわざわざマンチェスターまで出向くような事はないだろうとはいえ、ヒカルファンの皆さんはイギリスのコンサート会場で爆破テロ・死者多数というニュースを目に耳にした瞬間はドキリとした事だろう。非常に心臓に悪い。既に20人以上の方々が亡くなっているというのに不謹慎な書き方になってしまうが、知る人の無事を確認したいと思うのもまた人情だ。

自滅型のテロリズムは誠に如何ともし難い。人間同士の駆け引きというのはそもそもからして各々が生き残りたいという欲望を持っている事を前提として成立している。そこを突き破られるのだから交渉も何もない。何とかして彼らを突き動かす「生き残る以上に大切な事」にアクセスして説得や交渉に望まなくてはならない。即ち、生き残りたがっている指導者の説得である。

日本も20年以上前にカルトによるテロリズムを経験している。若い人は知らないかもしれないインターバルになった。「テロリズムには断じて屈しない」とまず声明を出すのが通例になっているが、戦略的な意図がどれほど存在するかよくわからない。まぁ、そう言っとかないと騒ぎ立て始める人たちが居るのなら、口先だけでも合わせておけばいいのかもしれない。が、上記のように組織から発生する自滅型テロリズムは、その宗教的熱狂をコントロールできる立場の人間を動かす以外ない。そこの所をどう考えているのか…専門家たちに任せるしかないのか。くれぐれもよくわかってない素人が口を挟まないようにしよう。911以降の21世紀型テロリズムへの対処は、極めて難しい。それだけは伝わるわ。

こういった事が頻発していけば、コンサート会場でのセキュリティーチェックはますます混迷を極めるだろう。マニアックなバンドとかなら注目度も低いから狙われないだろう、とか油断してたらイーグルス・オブ・デス・メタルだったときいて「なんでもよかったのか」と愕然としたのがあのパリでのテロだった。

まだ日本は海外からのテロの標的にはなっていないかもしれない。国内の犯罪者の方がずっと恐怖かもわからない。こういうのは一般人にとってはどうにもならない。交通事故と違って、気をつけていたら防げるケースがある訳でもない。ただもうひたすら平和主義を貫いて八方美人と謗られようが全方位に対して「あなた方の敵ではないですよ、共に生きましょう」と言うしかないんじゃないかと、理想論ではなく思う。単純に他の方法論が思い付かない。20世紀までのように「あそこを敵に回したら怖い」と恐怖に訴えかけるやり方では自滅型テロリズムには太刀打ちできない。死の恐怖を凌駕した連中に効果的とは思えない。寧ろ「あそこを敵に回したら損だ」という価値観に訴える戦略の方がまだ実効性を見いだせるのではないか。生き残る戦略。見栄や沽券や面子なんて余裕のある時にみれる夢でしかない。21世紀は生きるのは楽なのに生き残るのは大変だ。ヘンな時代になったものだが、兎に角感情に流されず、打算的なまでに冷静にテロリズムを避ける方法を実践してい
かねばなるまい。


…と、威勢のいい事言ってたってさ、庶民レベルで出来る事なんてないよね。せめて、テロリズムを起こした人たちと同じ人種や国籍だからといって何か言うような極めて短絡的な言動だけは注意深く避けるよう自制する、くらいかな。できるだけそういうのに巻き込まれないように、心身を理性的に保って自衛を心掛けよう。あとは祈る。どうか人による残虐な殺戮がこの世から消えてなくなりますように(;人;)

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「本丸」の話までは余計だったかな。まぁいいや。これで書き手側のスタンスは定まったように思うのでそれを前提としていきますよっと。

ミュージシャン稼業なんぞをやっていると、そういった嗜好品の数々に対する心理的抵抗は各段に低くなる。特に、飲酒をしないミュージシャンを見つけるのは、少なくとも30代以上のミュージシャンでは極めて難しい。飲まない、という人も居るが大抵「若い頃に暴飲し過ぎて身体を壊した」為断酒せざるを得なくなった、とか反対側に振り切れている人ばかりだ。

勿論、「ミュージシャン」という括りが乱暴なのはわかっている、が、業界全体としてそういう体質だというイメージは共有できるんじゃないかなとは思う。

喫煙に対しても似たような感じではあったのだが、昨今の急進的な嫌煙主義の台頭に対して些か鈍いんじゃないかと思わされる事もしばしば。逆に日々追い詰められているという実感から過剰に反発する人も中には居るけれど、やっぱり油断してるんじゃないかとも思える。

特に、国会(っておおざっぱな括りだな我ながら)で議題になった「未成年者喫煙店入店禁止」は音楽業界にとってボディブローのように効いてきやしないかと危惧すべき問題だ。

ライブハウスの多くは、飲食店としての営業許可で経営している。チケットの他にドリンク代を請求するライブハウスは軒並み飲食店である。勿論ソフトドリンクも売っているので今までなら未成年者もそれなりに気軽に入店できたが、果たしてそういったライブハウスが全面禁煙を打ち出せるだろうか? まず無理だ。ミュージシャンが来たがらない。では、となる。喫煙OKの飲食店としてライブハウスを経営していくとなったら「未成年者入店禁止」となるのだ。これってどうなの。

些か議論を端折り過ぎてる自覚はあります。が、ライブハウスに未成年が来れないってのは特に若いファンを相手にするミュージシャンの場合致命傷になるだろう、という危惧は先に共有しておいた方がいいのではないかと思いまして、こうして記しているのであります。

ただでさえ若年層は音楽ソフトを買わず、ライブやフェスが生命線だ、若い人を惹き付けるには現場主義だと言っている昨今、その基礎ともいえる飲食店型のライブハウスから未成年が締め出されては大変だ。こういう法律の話は「大山鳴動して鼠一匹」である事が大半なので、杞憂といえばその通り。付帯決議ひとつくっつくだけで「実質的には骨抜き」になる事も多いのだ。それはそれで怖いもんだが。そんななので話半分以下で聞いといとくれ。

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嗜好品が「観察」に最適なのは、単に私が嗜好品の不要な生活をしているからだ。大麻も煙草も不要、たった今から禁酒法が施行されても何も困らない。好物はお茶、そして水そのものなのでね。嗚呼、今日も水が美味い。

嗜好品の中でも、昨今の日本の場合、大麻は最初からNG(部分的に合法な国や地域も幾つか存在している)、煙草はかなり押し込まれている、一方でアルコールは飲酒運転厳罰化程度で、飲酒習慣自体はまだまだ揺るぎないようだ。私は個人的にはどちらに転んでもいいので「世の中の趨勢」(主に日本だけど。日本語の記事を主に読むので。)がどう転んでいくか、具に観察していく事にしよう。

こういう「観察」の個人的な本丸は、他にある。「ベジタリアン」だ。逆から言えば即ち、「肉食」がどこまで押し込まれるか、という観点。

流石に肉食は嗜好品云々のレベルではない、何百万年と受け継がれてきた遺伝子の営みなのでそうそう覆る事はないだろう。しかし、酒飲みやドラッグ中毒者だらけと思われているロック・ミュージシャンの中にすら、ベジタリアンやヴィーガンが居るのだ。ハラワタぶちまけるとかさっきまで歌ってた人が「動物性食品は一切口にしません」とかどういう事だ、おい。

つまり、現時点でもベジタリアンは一定の勢力を保っている。インド人の3分の1はベジタリアンだという記述もある。数億人単位となると、流石に無視できまい。

個人的には、家訓を「あるもん食っとけ」に設定している位なので「この食材がない人生なんて考えられない」とは考えない。文字通りあるものだけ、手に入るものだけを食べるだけ、という主義なのでどこかでまかり間違えてこの日本が私の生きているうちにベジタリアン大国になっても何も困らない。よって観察に集中できる。チーズが食べられなくなるのだけはちょっと痛いけどねぇ。(←めっちゃチーズ好き) 実際、肉食抜きを試してみた事があるが体調に負の変化は見られなかった。正直「いつでもどうぞ」である。

この「観察」を動機づける論点のひとつに「ベジタリアン嫌い」の存在がある。ベジタリアンの話になると、わざわざ乗り込んできて声高にその害を訴える方々だ。どうみてもベジタリアンの皆さんの健康を本気で心配しているようには見えず、ただひたすらベジタリアンに対する嫌悪感を連ねる人たちを、インターネット黎明期から沢山見てきた。

彼らの言動は「ホモフォビア」の皆さんに近いようにみえている。ホモフォビアとは、同性愛者の皆さんを過剰に怖がり攻撃する人々だ。一般的には、自らが同性愛者になる可能性を感知するとそういう状態になる、という風に解釈されているが、それにならえば、私がたくさん見てきたベジタリアン嫌いの皆さんは、自らがベジタリアンになる可能性におののいている人々、ともいえる。

そこで少し見方を変えれば、彼らは結局、現時点で既に肉食に対して潜在的な嫌悪感や罪悪感を持っているのではないだろうか。彼らが何とかしてその嫌悪感や罪悪感を押し込めて社会生活を送っているのに、ベジタリアンの人たちはいけしゃあしゃあと「動物を殺してはいけません」と言う。そりゃあ確かに腹が立つし、肉食を続けている自分はそれとわかって罪を犯し続けている事になる。そりゃあ、「ベジタリアンは間違っている」と攻撃的になるのも致し方ないかな、と少々同情する。

同情、と言ってもそれは喫煙者に対して「最近タバコ吸いづらいですよねぇ」と同情するのとほぼ同じで、傍観者ならではの無責任な発言と感情である。当事者たちからすれば苛立つヤツだ。なので私は実際には同情してますなんて言いにいかないけれど、他人の葛藤を眺めている時点で我ながら相当悪趣味だなとは思う。

そういったベジタリアン嫌いの皆さんが沢山居れば居るほど、ベジタリアンが勢力を持っていく可能性は高くなる。その逆説的な状況は、端から見ている分には確かに面白い。これを面白がれるのは「いつ菜食主義になってもいいよ」と開き直れている人間だけなので、まぁきっとなかなか仲間は見つからないかもねぇ。

まぁその「本丸」が本格的に面白くなる状況は、自分が生きているうちは無さそうかな。実際に害のあるアルコールですら社会通念が常勝なのだから。いずれにせよ、無責任な傍観者として今後も色んな世の中の推移を観察していきたいと思ってますよ。

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