無意識日記
宇多田光 word:i_
 



今回のろきのんじゃぱんのインタビューでいちばん不満だったのは、新曲2曲についてまるで触れていない点だろう。先月号見開き2ページを使って「宇多田の新曲2曲凄い! インタビューはもうとった!」と煽っておきながらこれである。確かに、あのタイミング(6月末時点)で既にインタビュー収録済みというのは早いなとは思ったのだ。今思い返すと確かに、「インタビューはもうとっちゃったからたった今届いた新曲について何か訊けるようなタイミングではなかったのよん」とも読める。嗚呼、大人ってずるい。私も人の事言えませんが。

そういや新曲についてはおろか移籍についてすら触れてなかったかも。本当にいつ録ったんだろ。肩透かしにも程がある。右肩覗かせちゃうぞ。透かすってそういう意味だぞ透かして見せるっていう。まぁそれはいいや。

そして新曲の話をせずに渋谷陽一がヒカルに何を訊いているかというとひたすら「『真夏の通り雨』は凄い」という話と「遂にヒカルが自分から音楽に取り組んだ」という話。どちらも全く同感だしさして異論もないのだが、兎に角しつこい。どんだけ言いたかったねん。こちらとしては『真夏の通り雨』なんて一年前の曲だし目下の感心は「あの大名曲からヒカルはどう歩を進めたか?」という点に尽きるというのにひたすら『真夏の通り雨』を絶賛…それこそ、J-popファンにとっては「最新の常識」とも呼べるもので、幾らその時点で新曲が聴けていなかったとしても「それは大前提として、じゃあ」という話にもっと踏み込めなかったか(多少は話してくれている)という不満は残る。

そして、ヒカルの活動の能動性に関してである。「宇多田ヒカルは巨大な才能で周囲の感情を読み取る事に長けていたから今迄は…」云々、「それが今、こうやって自ら音楽を…」云々云々。はいはい、間違っちゃあいないが、お得意の「事前に自分で思い描いたストーリーにインタビューイ(interviewee/インタビューされる方、ね)の発言を嵌めていく伝統的な、というか彼が作り上げた「ロッキンオン話法」が炸裂し続けている。50年彼はこれをやり続けてるんだから本当に伝統芸能かもしれない。恐れ入る。

しかしこれに関しては、今回ばかりは勇み足だ。今のヒカルについて「モチベーション」は非常に込み入った、というか不変と変質の両方を孕みつつまだまだぐるぐると熱をもって回転している状態だ。要するにごった煮である。それを読み解くのは容易ではない。


しかし今のヒカル、いやヒカルパイセンはそれに関して非常にクリアな考え方を持っている。『ヒカルパイセンに聞け!』においてはっきり、楽曲に対する自分のニーズと周囲のニーズをどちらをとるかという質問に対して『両立させるのがプロ』と答えている。そうなのだ、この人は昔から鬼のように欲張りで、「どっちが欲しい?」と訊かれたら「両方!」と答えてしまう人なのだ。今は直接関係ないが「人間、2つのものまでなら手に入れられる。なぜなら手は2つあるからだ。」みたいな事も言ってましたねぇ。

そう、「世の中にはクリスマスが好きな人とクリスマスが嫌いな人が居る。プレ・クリスマスシーズンに新曲をリリースするなら、どっちに受け入れられる曲を書く?」と訊かれて「両方!」と答え実際に『Can't Wait 'Til Christmas』を作ってしまえる人なのだ。欲望が人の倍ありかつ能力も人の倍ある。

つまり、ニーズが誰のものかなんて些細な事なのだ。「私がこんな曲を書きたい」という欲望も「あなたはこんな曲が聴きたいのね」という他者からの要求はヒカルの前に来ればいずれも同等な動機なのである。そして、目に入った動機は自らの能力が許す限り総て昇華させる。まったくマグマのような凄まじいエネルギーをもった生命体なのだ。

だから実は、ヒカルが「自らすすんで音楽に取り組み始めた」のも大きな物語のうちの1つの真実に過ぎない。「ファンを大量に待たせている」も「まだ契約が残っている」も「お母さんが」もどれもこれも、相対的且つ総体的にみればどれも等しく大切な、叶えるべき「欲望」や「願望」や「希望」なのだ。だから渋谷陽一の思い描いた「ヒカルが初めて能動的に音楽を始めた」という感動のストーリーもまた一面の真実でありつつ、宇多田ヒカルはそれだけにはとどまらないのである。その凄まじいスケール感を炙り出すのもインタビューアの仕事だとは思うがそれは確かに渋谷陽一の芸風ではないわな。また次の機会に他の人に期待するとしよう。

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ろきのんじゃぱん9月号を読んだ。まだ前の月ならわかるが、9月って再来月でしょ。えらい先じゃんね。そのまま早さ合戦してたらそのうち6月号になるよ(11ヶ月先)―なんて事を小さい頃は考えたりもしたな。


内容はといえば。表紙をはじめとして写真がたくさん載ってて大変よろしい。昨年からだが、ファンはアピアランスに飢えている。音は桜流しがどどん!と三年分位繋いでくれたのでよかったのだが写真や動画はなかったからね。今後もバンバン表に出てくれれば。それにしてもこれだけクォリティーの高い写真が続くとますます(以下略)

そうそう、インタビューだけでなく、巻末に新曲2曲レビューと編集後記とサイン入りポラ&ポスタープレゼントが載ってるのでチェック怠りなきよう。新曲のレビューのページって、「DISC REVIEW」って書いてあるけど、円盤出てなくても取り上げてくれるんですねー。


さて、重箱の隅ツツキから始めますか。見出しにもある「壊れてたのが、直った」というのにひっかかった。壊れて、直った。これは、字面のままとれば、本来正常だったものが、一旦異常をきたし、また正常に戻ったという意味だが、ヒカルの発言の流れだと、「もともと持ってないものを身につけた」話にみえる。それを「壊れて直った」と表現したのは、さて?

「見方が変わった」というのがひとつの解釈だろう。「自分では異常ではないと思っていた、或いは問題ではないと思っていたが、実は異常であり問題であったと気がついた。だからそれを正常にしようと努めた」と。つまり、自分自身の状態が変化したのを「壊れた」と表現したのではなく、「壊れてないと思ってたんだけどホントは壊れてたと気がついた」を略して「壊れてた」と言った、と。

何を細かい事を、と自分でも思うが、それが言葉が細かいだけで現実にあてはめると結構でかい。つまり、ヒカルの私生活が何らかの意味で壊れていったのではなく、実際は順調だったのだが、ある日突然(なのかな)、"壊れて見えた"から人間活動期に入った、というのだから。我々の人生を左右する"些細な違い"なんですよこの「壊れて、直った」は。

つまり、みる基準が変わったのだ。これでますます、ヒカルは「げいのうじん」から距離を置くようになった、とみるべきなのだが、葬儀の時のエピソードは若干混乱している。「自分が注目を浴びる存在である事を忘れていた」風な描写と、「適当な喪服が見つからなかった」描写がどうにもチグハグに感じられた。社会人だったら、喪服まではいかなくてもいざというときの正装位は持ってるでしょー、という「壊れていない方からのツッコミ」が可能だからだ。事実ヒカルもそれを突っ込まれたようで…

…この話の続きに実はあるかな。不安だけどこのまま続けるか。

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『Forevermore』のサウンドは生理的快感に満ち溢れている。『大空で抱きしめて』では構造に感情を埋め込むとか難しい事にチャレンジして(成就させ)こちらの脳みそを刺激しまくってくれたが、当然こちらも歌詞に構成はあるものの、インストがインストとしてユニークに魅力を放ってくれているお陰で容易に切り離して音楽を楽しむ事が出来る。要は歌詞を無視できるのだ。これは(ただ楽しみたい向きには非常に)ありがたい。

その生理的快感の源泉は過去初とも言える正統派ジャズ・ロックみたいなリズム隊、ドラムス&ベースである。ドラムスの方は盛んに梶さんがアピールしていたクリス・デイヴ。恐らく間近でそのプレイを見る事が出来たのだろう。自在なシンバル・ワーク、微妙なニュアンスで強弱をつけていくバスドラとスネア、左右の手足でバラバラのリズムを乱れず統率するバランス感覚と、一流ドラマーらしい妙技をみせつけてくれている。ただ私はクリスのプレイに親しんでいる訳ではないので「これぞクリス・デイヴ!」と膝を叩くべきなのかどうかはわからない。

ジャズロック、と言ってしまったが、この『Forevermore』の所謂16ビートシャッフル的なリズムはお洒落世代のジャズ・フュージョン・サウンドと言えるかもしれない。ただ、こんな荘重な弦楽によるイントロダクションからの展開となるとまるでマハヴィシュヌ・オーケストラの大曲みたいな…って書こうとしたんだが案外彼らの曲にそういう展開の曲思い当たらないな。いやいいんだ、そういう重い雰囲気とフュージョン的な軽快なリズムが同居している所が『Forevermore』の魅力の肝なのだ、とわかって貰えさえすればよい。

このテのスウィングするリズムでは、他のジャンルに較べてドラマーによるシンバルワークの比重が大きくなる。ジャズを聴いてるとハイハット・シンバルの相手ばかりしてスネアに手が伸びない、なんて事はよくあるが、『Forevermore』のクリス・デイヴはロック的なまでにリズムの骨格の骨太さを主張しつつもジャズ・フュージョンならではのスウィングするグルーヴも失わない。この彼のプレイなくして『Forevermore』の「シリアスなのにウキウキ楽しい」という一見矛盾した魅力は成り立たない。ライブが今から心配だ。多分またパーカッショニストを迎えてダブルドラムで保険をかけていると思う。所々、クリスのプレイに「あれ今2人で叩いてなかったか?」と思わせるプレイもあるし妥当だろう。

ヒカルのフュージョン・サウンドといえば"Spain"を大体そのまま引用した『Hymne a l'amour 〜愛のアンセム』がある。この曲も勿論素晴らしかったが、今回は完成度においてそれを遥かに上回ってきた。いやはや、多分私この曲一年中聴いてると思うわ。それ位に理屈抜きにサウンドとグルーヴが心地いい。「鳴ってるだけで気持ちいい」という点では『Passion』と並ぶ最高傑作ではないだろうか。ライブで聴ける日が、いや、ライブで"体感できる"日々が今から楽しみで仕方ない。いつになるやらですがなっ。

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『Forevermore』が遂に全編解禁になった。いやはや全く以て素晴らしい。絶賛する以外無い。もう慣れっこになってしまったが、たったひとりのアーティストの出す新曲がいちいち素晴らしいだなんて奇跡的以上だよ。もう藤井四段の29連勝か双葉山の69連勝かと。「勝って騒がれるより負けて騒がれる横綱になりなさい」ってなもんで、宇多田ヒカルの新曲が名曲なのは当たり前過ぎてニュースにならないかもしれない。「安定の宇多田クォリティー」っつって放置か。

いやいやいやいや、そんな事は言わせませんよ。こんな曲他じゃ聴けないし、今までのヒカルのレパートリーにもなかったんだから「世界が新曲を生んだ」と言いたくなるくらいに鮮やかです。

ミュージックビデオも朝から解禁になった模様だ。なんとヒカルが踊っている。次から次へと流れてくる情報に踊らされて新曲の素晴らしさに胸踊らせている身としては踏んだり蹴ったり泣きっ面に蜂ってなもんで勝った白鵬のダメ押しかと(さっきから何なの謎の大相撲推し)思ったが、世界的にアクセスできるようになるのは8月10日頃らしいので、まぁそのあたりで触れる事にして。


『Forevermore』フルコーラスを聴いて最初の呟きが「オートクチュール」だった。ここでは「オーダーメイドの高級品一点モノ」という意味だ。まるで私がヒカルに「こういう曲を聴きたいから作ってくれ」と偉そうに頼んで出来上がってきたみたいに、身体中にしっくりくる。着た瞬間に、「あ、俺んだ」と錯覚できるくらいにハマっている。ただひたすらにサウンドが心地良い。

『大空で抱きしめて』は、ポップに始まって夕暮れから夜に描くグラデーションのように徐々にシリアスさを増してヘヴィな境地まで導く傑作だったが、『Forevermore』はストリングスの荘重な響き(というには若干音が軽い気がしますが)から始まりつつ次第にジャズの軽快なリズムに巻き込まれていく、大体真逆な構成を持っている。とはいえ楽曲自体の雰囲気が変わるというよりは、聴いているこちらが"楽しくなってくる"楽曲だと言った方が的確か。

その性質は、この曲が主題歌を務めるTVドラマ「ごめん、愛してる」との体質面での共通点であるともいえよう。同作もまた、重いテーマを扱いながらも観ている方は深刻になるというよりは、ご都合主義的展開やドラマのお約束も含めて案外気楽に楽しんで観ている。そこらへんの体質に関するバランス感覚は、『ドラマのあらすじに感化され』たという通りの出来映えである。『Forevermore』もまた、ムードはシリアスでありながらひとつの楽曲としてのエンターテインメント性がとても高い。思わず踊り出したくなったのも納得の出来である。

人によって違うのかもしれないが、これでますます私は「ごめん、愛してる」を観るのが楽しみになった。シリアスなムードを纏いつつベタで大衆的な娯楽作品という点でほどよくシンクロしている。眉間に皺を寄せずに楽しませて貰う事にする。恐らく、二番以降の歌詞はドラマの後半で生きてくる筈である。ヒカルがそこまで考えて作詞したのは想像に難くない。『Forevermore』、予想以上に楽しめそうだわ。

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ロキノンジャパンに期待すること、か。いろんな答え合わせが出来るのかな。渋谷さんどんな事訊いてくれてるだろうか。2万5千字のロングインタビューだそうだが、それって大体無意識日記三週間分位だろうから…そんなに多いか?(麻痺)

ヒカルの事を理解したい、という気持ちは確かにあるし、多分"並々ならぬ"と形容していい程その思いは強いのだろうが、どうにも力が入らない。というのも、ヒカルの真実を知るには"直接本人に訊く"以外にないからだ。昔からロキノンインタビューのパロディや揶揄といえば記者が脳内ストーリーをすっかりアーティストに押し付けて悦に入るのが定番なのだが、そういうのがどうも私には違う。それに、私はヒカルに質問できる立場にない。そりゃあ力が入らない。

それよりも、この日記では、ヒカルからのアウトプットを題材にして「こんな風に考えたら面白いんじゃないの」という着想や着眼点を提供する事を主眼に置いてきた。何が本当かなんて本人に訊かなきゃわからない。訊いたってわからないかもしれない。それよりもっと宇多田ヒカルを面白がろうこの人はこんなに魅力的なんだという事をアピールした方がずっとしっくりくる、そういう芸風でやってきた。だから私は自分の言っている事が正しいなんて思ってないし、正しいかどうか検証する事もない。全部口から出任せ、いや指から出任せなので何の真実保証もない。読んで、「へぇ」と思って、ヒカルの歌を聴き直してみて、「なるほどなぁ」と思えれば無意識日記のサイクルの完成である。年間500回、これをひたすら繰り返してきた。

…という感じなので、よく知らない人からしたら私はロキノンのライターや記者や編集の皆さんと同じ人種だと思われがちなのかもしれないが、「だいぶ違うよ」という事を繰り返しておきたくてな。私は何も主張していない。強いていえばヒカルの魅力を声高に叫んでいる事と、「今書いたの、面白いでしょ?」という些か勘違いを含んだ自己(?)アピール、主張なんてそれ位なもんである。読む前より読んだ後の方がほんのちょっぴり人生面白くなっている、と思って貰えれば私はガッツポーズ&ザッツオールなのである。

という訳で、ロキノンジャパンのロングインタビューに何を期待しているかというと兎に角今のヒカルを伝えてくれたらそれで、というのしかないので、内容はVOGUEのと似たようなもんでいい、というか工夫は要らないから素材を提供してくれ、というべきか。ジャーナリストという側面があるならば、うーん、それはそれです。

渋谷陽一は毎週(最近月末は削られてるけど)NHK-FMの「ワールドロックナウ」でその声を聞いているので、ある意味私の生活においてはヒカルよりずっと"浸透"している声(の持ち主)なのかもしれない。つまり、いろんな彼のものの考え方を学んである。いや彼の場合、考え方より「言い方」を学ぶ方が遥かに多いけどね。彼こそまさに「Mr."ものは言いよう"」だ。言い方ひとつでどうとでも転がす事が出来ると半世紀体現し続けている"日本で最もギャランティの高い音楽評論家"なのだ。

彼がインタビューをしたかどうかは知らない。しかし彼は社長だし、方向性は決めているだろう。内容によってはヒカルから「もうこんな雑誌要らなくね?」と突っ込まれてしまう立場だ。ヒカルは気遣いが出来る女だが不要な気遣いはしない。案外、今回試されているのは「Rockin' On JAPAN」の存在価値の方なんじゃないのという考え方に行き着いて、俄然読むのが楽しみになってきた。次のインタビュー時は渋谷氏が引退していないとも限らないので、存分に楽しませてうただく所属です。

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いよいよ今夜『Forevermore』が解禁になる。待ち草臥れた、と言うと語弊があるだろうか。待ち遠しかったのは勿論だがそれ以上に「宇多田ヒカルの新曲を聴く恐怖』が大きい。

普通、好きなアーティストの新曲を迎える時の心配や不安といえば「つまらなかったらどうしよう」とか「自分に合わなかったら嫌だな」とかそんな風なのだが、ヒカルの場合そんな生易しいものではなく、「頭と心を激しく揺り動かされる恐怖」が中心にくる。つまらないとか合う合わない以前に音楽が存在としてデカ過ぎる。

『大空で抱きしめて』だって、こちらは最初「TVCM曲だし手堅くPopにまとめてくるだろう」とタカを括っていたのにそのタカをほどいて天上に向かって強引に引っ張られた。「痛てててててて」なんて新曲を聴いた感想にゃならないだろ普通。混乱と当惑、そして恐怖。そういった感情を与えておきながら気がついたら「雲の中〜」と鼻歌を歌っていてCMソングとしての機能も言う事なしだ。ただひたすら翻弄されている。

今夜また一曲解禁されて同じ事を繰り返すのかと思うと憂鬱だ。ブルーである。しかしこれは蒼い炎なのかもしれない。普通は好きなアーティストの新曲が出るとなるとファンは盛り上がる。情熱の紅い炎で燃え上がる。しかし、現実には紅い炎より蒼い炎の方が遥かに温度が高い。我々は熱量が上がり過ぎていて"ブルー"になっているのかもしれない。

そんなレトリックは兎も角、これでまた"脳が切り替わる"のは避けられない。『大空で抱きしめて』がTVでCMソングとして違和感なく機能しているのと同様、『Forevermore』もドラマのエンディング・テーマとして何の違和感もなく機能している。狙いが古典的過ぎて、「本当にこんなにベタでいいのか」と疑念が湧いてくるくらいに。そう、もう既に罠に嵌められているのだこれはきっと。

かと言ってじゃあフルコーラス全編聴いたら何が変わるのかって、聴く前は一切わからない。リアルタイムとはこういう事だ。アルバムなら兎も角、シングルたった一曲でここまで身構えさせるのだから、嗚呼、アルバムリリースの頃には私"心の廃人"になってやしないか心配である。心が灰燼(かいじん)に帰しているかもわからない。ヒカルの歌は精神的な兵器かもしれない。心に踏み込んできて抑圧し蹂躙し陵辱する。常にクォリティーが高すぎて安心すらままならない。当たり前過ぎて。異常事態、だな。

まぁいいさ。歌なんて、なんでもない人にはなんでもないないのだから。聴いて「ふーん」で終わらせられる人が世の中99.9999%だろう。それでなんら構わない。歴史があるから、制作の苦悩をトレースでき(た気にさせられてしまって)るから、こうやって煩悶しているのだ。ある意味、今夜この宙ぶらりんから解放されるのだと考えれれば、それもまた救済なのかもしれない。尤も、きっと聴いた後は歌詞とサウンドに苛まれ続けるのだけれど。

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『Fantome』からの流れで、ヒカルが作詞すると即座に母・藤圭子/宇多田純子を連想するようになってしまっている。それが正しいのか間違っているのかはわからないが、作詞のインスピレイションの根源的存在である事は間違いがない。

ヒカルの歌詞の受け入れられ方の特徴として、その全方位性が挙げられる。最も極端な例が『Can't Wait 'Til Christmas』で、この歌はクリスマスが大好きな人もクリスマスが大嫌いな人も同じように愛し愛される歌詞をもっている。これは本当に特質が一曲にまとまった特異な楽曲(まぁ何しろ第一期宇多田ヒカルを締めくくった歌だものな)だが、ヒカルの歌詞は正邪愛憎悲喜明暗いずれに流れてもハッキリとしたリアリティを持っている点が突出している。リアリティが消えているのは全方位への原点を描いた『Passion』くらいなものだろうか。

普通歌手というものはどちらかに得意技が偏るものだ。暗い歌が得意な人は「明るい曲も書ける」場合もあるが、主従はハッキリしている。ヒカルにはそれがない。

暗い歌を書いても一筋の光明を見いだすのを忘れないし、明るい歌を書いてもそれだけに終わらないフックを入れてくる。常に両面があって、その時々でどちらの横顔を主に見せるかの違いがあるだけだ。


そんな風にモノを見れるようになった源流は、母との関係にあったのではないか。ヒカルには、母親と愛し愛されの睦まじい時間を過ごした記憶もあれば、悪魔と罵られて傷ついた思い出もある。そしてそれは、多分(全くの勝手な憶測だが)その時々でコロコロと不意をついて入れ替わった。どちらかだけに期待する訳にはいかなかったのではないか。

普通は片方だけである(普通って何の事だと問われたら押し黙るけど)。親との関係が良好な場合は、勿論時には喧嘩したり険悪なムードになったりする事はあるだろうが、基本的な方向性として、そこに愛を感じる事ができるだろう。一方、親を殺したいほど憎んでいる人も、時には少し明るい材料を期待した事もあったかもしれないが、基本的にはその憎しみや恨みの感情は消えない。いずれもどちらかに偏っている。

ヒカルの場合、それが綺麗に真っ二つに別れたのではないか。それはつまり、直観に著しく反するが、ヒカルの精神的アイデンティティが母親ではない事を意味する。「どちらでもない」と決断できるからには、本当にどちらにも頼らない「自己」がそこにあったと解釈する事になる。親を愛する感情も親を憎む感情も、どちらからも離れる事が出来たからヒカルは書ける。どちらも外側から描けるし、どちらも内側から生み出す事が出来るから。

この論理的帰結は経験にそぐわない。「ヒカルのバランス感覚は唯一母親に関しては崩壊する」というのが長年の(メッセを最初からずっと読み込んでいる)私の持論だからだ。ヒカルの精神的アイデンティティは、圭子さんの存命中からずっと彼女に在る筈なのだ。それがそうでないとすると、しかし、『真夏の通り雨』や『大空で抱きしめて』のような歌詞が書けるような気がしてくるのだ。筋は悪い。しかし、そこを切り込んでいくのが老害の役割なのだ。諦めよう。

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ろきのんじゃぱんの表紙カットがVOGUEや『Forevermore』を上回る人気でロック指定されている。まさにロックスクリーン・ロッキンオン・ロックオン状態。それが言いたかっただけかい。

これだけファンから数々のフォトセッションが絶賛される流れの中でアルバムジャケットを発表すると「まぁこれはこれで」とやや微妙な評価を受けるのがHikkiクォリティーではあるが、果たしてこの先どうなりますやら。まだまだわかりませんな。

『Forevermore』があと数十時間で発売になるのだが、歌詞かどのような位置付けになっているのかちらちら気になって仕方がない。フルコーラスを聴くまでは全容は把握できない、ともうしつこく繰り返してきたので90秒のサンプルについては殆ど語ってこなかったが、ここに来て『大空で抱きしめて』の歌詞を探るうちに、『Forevermore』の歌詞が手招きしているような、していないような、そんな幻想に惑わされている。幻惑されて、Dazed And Confusedである。

一見したところこの『大空で抱きしめて』と『Forevermore』の歌詞観にそこまでの共通項はみられない。同じ作詞家が書いているのだから通低するテーマは似通っているがその程度だ。ましてやドラマの主題歌でそのあらすじを視野に入れた歌詞だというのだから今回は別物と捉えた方がいいだろう、筈である。

しかし、こうやってあと少しでフルコーラス聴けるという状況になった今、あとちょっと待ってちゃんと『Forevermore』を聴いてから『大空で抱きしめて』を聴いた方がいい気がしている。将来の印象の記憶を思い出してみると、まず間違いなくこの2曲の記憶は「こんがらがって」いる筈だ。『Forevermore』のドラマ初披露の一時間後には『大空で抱きしめて』の配信が始まった。その『Forevermore』がエンディングでかかるドラマ「ごめん、愛してる」のスポンサーのひとつはサントリーで、ヒカル出演のCMが放送されて『大空で抱きしめて』が流れる訳だ。今がCD時代ならまず間違いなく"両A面シングル"で売り出される2曲になろう。

それを踏まえるとどうしたってその歌詞観は"2曲揃った状態で"眺めないと全容が掴めないのではないかという妄執が頭から離れない。フルコーラスを聴かなければならないのみならず、"2曲聴かなければわからない"状態でこの2曲が制作・発表されていたらと考えるとそれはもう様々を躊躇う。どうしたものか。

いつも通り行くか。知らない時点では知らないなりの事を書き記しておけばいい。そうすれば答え合わせが出来るだろう。なぁにあと一度も眠れば出逢えるのだ。しっかりと体調を整えて(仮眠をとって)『Forevermore』の配信の解禁を迎える事に致しますかな。

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なんだかパズルを解いてるみたいだ。全然ほどけてくれないけどなっ。

『time will tell』での『雲』は太陽を遮り雨を生む"邪魔な"存在だった。しかし『大空で抱きしめて』での『雲の中』は"夢の叶う"場所だ。かなりニュアンスが違う。

更にこの『夢』も両方の意味で使われている。今言った"叶う夢"と"夜見る夢"だ。歌の最後の『夢の中でしか会えない』の『夢』が"夜見る夢"だとしたら、この歌の主人公は『Beautiful World』のように眠りに就く選択肢を選ぶだろう。しかし実際に続くのは『天翔る星よ消えないで』だ。つまりここでの『夢の中』は「願いの叶う場所」という意味だ。

しかし、そう、一番の歌詞では『夢の中でしか会えないなら』に続くのは『朝まで私を抱きしめて』であり更に『涙で目が覚めた月曜日の朝』と続く。こちらは"夜見る夢"と解釈せざるを得ない、が、既に混ざっている訳ですよ"夜見る夢"と"叶う夢"が。

この歌は、Aメロで日常的に始まってBメロで『雲の中』が出てきた途端に内面の話になる。『大空で抱きしめて』がカップルのスカイダイビングだと解釈した人は居ない。少なくとも私は見かけていない。聴いたほぼ全員が何らかの比喩だと受け止めしかし何の比喩かは説明が難しいのだ。

恐らく、『雲』と『夢』が繋がっているのだ。あからさまに『雲の中』と『夢の中』という同じ使い方をしているのだし。しかしだからといって『雲』=『夢』だと解釈すると無理が出てくる。月曜日の朝に涙で目を覚ます感じはしない。


…この歌の恐ろしいところは、こんな風にウダウダ考えなくても歌の主旨がしっかりリスナーに届く点だ。わかりにくくなるのはより深くわかろうとするからであって、聞こえたままを受け止めるのであれば何も難しい事はない。誤解を恐れずに言えば「歌詞がPop」なのである。手軽で大衆的だ。ミネラルウォーターのCMソングなんていうマスな立場を担っているのだから当然といえば当然なのだが、そこから一歩でも踏み込んだら斯様に迷宮に迷い込む。しかし、幻惑しにかかっているのでもない。最初から言っているように、歌詞の構造自体に感情の表現が投影されているので、認識と解釈のあらゆる階層において「作詞家宇多田ヒカルの意図」が潜んでいるだけでなのである。


…話を戻そう。『雲』と『夢』は同じではないが、相通じる何かを孕んでいる。一方で『雲』は伝統的に宇多田ヒカルの歌詞においては太陽を遮る"悪役"を担い、『夢』はいちばん歌いたい『愛』の対義語としてしばしば登場してきた。『Show Me Love (Not A Dream)』という歌とそのタイトルは一つの到達点であったといえるだろう。"夢じゃなくて愛を見せて"と。


そんな悪役だった『雲』と『夢』が…という話から又次回。1つ1つ解き解してきますよ。

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『真夏の通り雨』の時点でも、『今日私は一人じゃないしそれなりに幸せで』とあるように、起きた悲劇からは随分と(時間的な)距離がある。『大空で抱きしめて』も、日曜日や月曜日といった言葉から、"日常"がそこにあって『夢』から遠い事が示唆されている。

ただ、『真夏の通り雨』では最後のパート(『ずっと止まない止まない雨に』)にみられるように、終わり無き絶望の中に沈み込んでいる感覚があったが、『大空で抱きしめて』にはそこまでの希望の無さはない。より願いや祈りの感情そのものにフォーカスされている。

『真夏の通り雨』でのモチーフはそのまま「雨」であった。空を覆い太陽を遮る雨。一方『大空で抱きしめて』でのモチーフもそのまま「空」そして「雲」だ。「雨」は出てこない。

繰り返すが、ヒカルの比喩の中心は「母=太陽」だ。そこに空(青空)が様々な(恐怖や畏怖の感情も含めた)例えられ方で登場し、雨もその中で扱われる。デビュー曲2曲からして『rainy days / sun will shine』(『Automatic』)、『雲の上へ飛び出せば Always blue sky』(『time will tell』)である。デビューから一貫したテーマだ。

『time will tell』では『雲』は上へ飛び出すものだった。しかし、『大空で抱きしめて』では『雲の中』、通過しきらずに共にある存在だ。この表現の違いには何か意味があるのだろうか。以下続。

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『大空で抱きしめて』でキーセンテンスはどれか?という問いに多くの人が『天翔る星よ消えないで』だと答えるだろう。しかしこれ、冷静に考えてみるとよく意味がわからない。

『星』が何の比喩かと問われれば、『道』に登場した『消えない星が私の胸に輝き出す』の『星』だと答える。これはつまり『私の心の中にあなたが居るいついかなる時も』そのものだ。『星』は直接『あなた』そのもの、或いは『あなた』の象徴だ。まぁこれは賛同を得られるだろう。

しかし、だとすると何故『大空で抱きしめて』で『消えないで』と強く願わなければならないのだろうか? 『道』において『消えない星』と言い切っているのに。どこかで消える危険があるの?

いや勿論『道』と『大空で抱きしめて』は別の歌なのだから物語も別なんだと言われればそれまでだし、その解釈に間違いはない。仮にこの2つの歌を繋げて解釈したらどうなるだろう?という話だ。そうでしかない。

さて、冷静な解釈をすれば、「私の胸に輝き出した星」と「天翔る星」は、在る場所が違う。胸と天。心の中と空である。それをそのまま受け止めるには、『大空で抱きしめて』を『道』よりも前の段階の歌だと捉えねばなるまい。『道』は、曲調からもわかる通り"吹っ切れた"歌だ。『真夏の通り雨』で絶望と悲嘆に暮れ、『花束を君に』で何とか折り合いをつけた"私"が力強く前に踏み出す歌である。

一方『大空で抱きしめて』は『夢の中でしか会えない』〜「夢の中で会う」歌だ。これは、『夢の途中で目を覚まし瞼閉じても戻れない』と歌う『真夏の通り雨』と同じフェイズにあると考えるしかなくなる。果たして、『道』にまで辿り着き、『Fantome』という本人が『二度と作れない』と形容する名作の次のステップの最初に、こんな"後ろ向き"な"過去に遡った"歌を出してくるだろうか? 次回はそこら辺について考えてみたい。

…もし全く違う話題に移っていたとしたら、どうか察してあげてね…今ちょうどオシシ仮面状態だからね…(それは言わない約束でしょ(笑))。

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『Forevermore』の発売週。ドラマ『ごめん、愛してる』の放送途中でサントリー天然水のCMが流れ『大空で抱きしめて』がかかるもんだからますますまぎらわしい。7月28日に間違って『大空で抱きしめて』買っちゃう人きっと居るよ。「あれ?これドラマのエンディングと違うくない?」って言う人きっと出てくるよ。配信なので、既に買っている人には重複購入防止機構がはたらいて大丈夫だとは思うけれども。

ドラマの方は如何にも順調に進んでいて、観てない人はもう観てない(笑)。今週『Forevermore』が発売になれば、主題歌目当てでチャンネルを合わせていた人たちも見なくなる。まぁ過疎る。取り敢えず私は、歌詞のインスパイア元があらすじだという事なので、歌詞次第になりそう。

ドラマとしてはよく出来ていて、ところどころご都合主義的展開がみられるが、テレビドラマという1秒単位で尺の取り決めのある世界では尺調整でストーリーをショートカットする事もある。もしちゃんと時間があったらきっちりと丁寧に描写できるところでもね。まぁ、今のテレビ視聴者の感覚はよくわからないが、こちらの感覚からすれば許容範囲というところ。

それより、いよいよ『Forevermore』の歌詞が内容に寄り添ってきたかなというのが興味深い。話数が進むにつれて更に馴染んでくるだろうし、前にも書いた通り、発売日以降は歌のまた違った部分の歌詞の所も使われていくかもしれない。第1話のように挿入歌として使われていくのもいい。

いずれにせよ配信が開始になって歌詞が(オフィシャルで今回も何らかの形で)発表になってしまえば様々なバリエーションが広がってゆく。そこを境にドラマの様相も変化するかもしれない。配信開始まであと4日、またまた色々な事を妄想しながらその日を迎える事になりそうですよ。

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先週述べた通り(嗚呼、この書き出し月曜日に使うつもりだったのに何やってんだかもー)、『大空で抱きしめて』において特異な点は、感情の強弱が直接「歌詞の構造」として埋め込まれている点にある。言い回しや歌い回しのバリエーションで「ああここはよりエモーショナルなんだな」と感じさせる方法はよくあるし、実際ヒカルもある程度この楽曲で実践しているのだが、そういった血肉や服飾の部分だけでなく骨格そのものから感情表現を演出にかかっているのは、作詞作曲編曲歌唱を総て独力で行う利点を最大限活かしているといえる。

何が恐ろしいって、骨格が既に示唆だから、楽曲のアレンジも構成自体が表現になっている点だ。一見(一聴して)アドリブ紛いのフランクなフレーズが散りばめられているように見せかけておきながら、まさに"いつのまにか"最後の『消えないで』にまで導けるのは、作詞と編曲が共通して構造を持っているからである。

逆からいえば、構造上不可避的に結論に至らざるを得ないので、自由度の高いアレンジを実践したとしても楽曲が破綻しないのだ。何をしていても最終的に構造に絡め取られるのである。


抽象的な表現だけでは腑に落ちない。具体的にみていこう。

…と思ったが、いざ書き下そうとしたらその余りの複雑さに断念してしまった。仕方がない、もっと基本的な所から。


『大空で抱きしめて』に"騙されてしまう"のは、ひとえにポップなイントロによるところが大きい。VOGUEの動画で聴く事が出来る通り、あのフレーズが繰り返されると基本的には「うきうきした気分」になれる。心と身体が軽くなったような気分である。

このフレーズはAメロの間中流れた挙げ句、Bメロに突入するや否や音が高くなる。まさに浮き立った心が雲の中に吸い込まれていくような感じで。当然ここはそれを狙って構成してある。日曜日浮き立ち過ぎて雲の中、である。

で、そこまではいくのだが、サビに至る場面でこの印象的なフレーズは消える。だが、ここで「あ、消えた」と思わせない工夫が細かく施されていて、リスナーはいつのまにか歌に引き込まれていて気がつかない。思い出せるのは二番になって月曜日を迎えてからだ。

つまりここは、現実から地続きで夢の中に入り込んでいく(ベタに言えば村上春樹的な展開だわな)プロセスを丁寧に描いて、1番のサビから2番のAメロに至る部分で一旦『(涙で)目が覚めた』過程を描いている訳だ。歌詞の構成とフレーズの構成が見事に対応しているのだ。流石である。


…まぁこんなのはヒカルにとっては基本的な事でしかなく、今回のアレンジの凄みはそんな所に留まってはいないのだが、果たしてそんな"高み"を私が語れるのだろうか。不安しかないのだけれど取り敢えずは来週の更新をお楽しみに。

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リンキン・パークのチェスターが自殺とはね。流石に目が覚めた。先般逝ったクリス・コーネルの誕生日に、か。

特にリンキン・パークの大ファンだった事もないのだが、その影響力はまさに計り知れない。グリーンデイとオフスプリングが90年代以降のパンクとメロコアのメロディーを決定付けたとしたら、00年代のヘヴィ・ロックのメロディーを定義づけたのがリンキン・パークだった、と言っても暴論にならないだろう。あれほどの(8桁の)売上をもつと好むと好まざるとにかかわらず大きな影響力を持つものだが、彼らはまさに桁外れだった。ヴォーカルとの死別で今後バンドがどうなるかはわからないが、既にその功績は十分過ぎる。所謂殿堂入りレベルのバンドである。

今朝は思わず「日本でいったら浜崎あゆみが自殺したくらいの衝撃」と呟いたが、歌詞のスタイルから服飾に至るまで「00年代の色」そのもの。21世紀は最早ロックの時代ではない、というのは2001年にスリップノットが「アイオワ」で全ヘヴィミュージックを網羅した事で既に示唆されているが、そういう意味では、20世紀の最後の打ち上げ花火のようなバンドだった。21世紀にもアクティブロックやオルタナティブのチャートに新人が顔を出しているが、最早20世紀からの繋がりは希薄だ。このままリンキン・パークが解散すればまさに「一時代の終わり」だろう。あと誰が残ってるかな。ニッケルバックにコールドプレイに…どうだろう、もうベテラン過ぎるかな。

…とファンでもないのに朝から感傷的になってしまう程のショッキングなニュースだったという話。


ヒカルさんはよくもわるくも「一世一代」で、有名ではあるが影響力は限定的だ。あゆは歌詞からメロディーからメイクからファッションからありとあらゆる角度から真似され続けたが、ヒカルの場合は「デビュー時の倉木麻衣」が全部持っていったので何も起こらなかった。"二代目"がたむたむらりかるミラクルひかるだというんだからその荒野っぷりたるや。意味違うし。

その分、生きてる間に目一杯楽しまなくっちゃね。ヒカルは遺伝子を残さない。残せない。もう二度とこんな音楽家は、人間は出てこない。いきあたりばったりとか、未来の約束より今だとか、そういった刹那主義とも捉えられかねないポリシーは、そのまま我々がヒカルに対して採用しなければいけないポリシーなのだ。居なくなったら、ただひたすら悲しい。前向きに捉えれる理由がひとつもない。宇宙にとって純粋な損失だ。得るものはない。逆に言えば、『生きてりゃ得るもんばっかりだ』。その有り難みを感じながら、リンキンパークのVo.チェスター・ベニントンに哀悼の意を捧げたい。Rest In Peace.

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千葉くんのバカな行為について何か記しといた方がいいのだろうか。私は『星』の話がしたいのに。

千葉くん(忘却のKOHH。クレジットでは千葉くん。)が販売サイトでヒカルのメモを1700万円で出品していたという話。金額的に冗談か風刺(デュシャンの泉みたいなな)としかとれないが、インターネットでアクセスできる場所で内輪な洒落を書いてはいけない、という現代の日本に生きる人間にとって基礎的な常識以下の、「道端でうんこをしてはいけないよ、うんこはトイレでしようね」という低い低い低い低いレベルの話―裏を返せば、現代人として最も肝に銘じておかなければならない大切な大切な大切な大切な話―で、私が時間を割くような話題ではない。兎に角全く基本的に興味をそそられない話題なのだ。昨夜もこの話題で愚痴っていたら結論が「乳繰り合うも多少のエロ」となっていた。うむ、確かに乳の話をしていた方がよっぽど楽しいな。

しかし。冷静に記事を読み返してみると、レコード会社から"日をおいて、"「ノーコメント」という返答"が返ってきた、とある。ここがかなり危ういのだ。ユニバーサルにしろソニーにしろ大企業。内情は知らないが、コンプライアンス部門も充実しているかもしれない。

結論から言えば、今後ヒカルのコラボレーションに制限がついてしまうかもしれないのだ。勿論コラボの選定なんて総て水面下で行われるのだから、我々はおじゃんになった企画について知る事も出来ない訳で、何も知らない状態から何も知らない状態に遷移するだけ、即ち何も起きないのだから、今回の千葉くんのバカ話は表面上は「さほど悪影響はなかった」で済ます事が出来る。しかし我々の知らない所で様々な素敵な可能性が潰されていくとしたら、我慢ならない。いや、知れないから何もできないんだけどね。

ロジックをいえば、犯罪云々にかかわりそうなミュージシャンはお断り、とレコード会社から言われてしまうかもよという話。犯罪者なら兎も角(それでも変だが)、まだ犯罪者でない者まで排斥されたらたまったものではない。しかし、コンプライアンスというのは昨今本当に何でもありなのだ。

如何にヒカルがSONYとそのスタッフを気に入っていたとしてもそこは大企業、皆が皆ウマが合う筈もない。ヒカルに出て行って欲しい背信的な人間が居ても不思議ではない。そんな人間が深慮遠謀をはたらかせて、ヒカルがSONYを離脱したがるように仕向け…

…嗚呼、なんてつまらない妄想。考えるだけくだらない。でもなー、ヒカルのファン層は一般市民だ。「入れ墨ならヤクザさん」という感じの人、「ラッパーさんはギャングスタ」と思ってる人、たくさん居るだろう。それだけでもKOHHは不利なのに、こんな事をしたら『忘却』に失礼だよ。いや半分彼の曲だけど。

いや偏見を是と言っているのではない。そういうファン層を相手にしたという認識を持っていないなら浅はかだと言っている。落ち度とかいい悪いの話でもない。さっきから千葉くん、ただただただただバカなのである。もうそれだけだ。「忘却マイナスKOHHバージョン」でもリリースしてみたら? 現実が何なのか知れるよそれで。

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