無意識日記
宇多田光 word:i_
 



『あなたに出会えて 誰よりも幸せだったと 嫉妬されるべき人生だったと 言えるよ』─これだけならありふれた文章だ。この前に『今日が人生の最後の日でも 五十年後でも』があるから、『嫉妬されるべき人生』の歌詞は特異な響きを持つことになる。

特に、『五十年後でも』というのはかなり妙だ。『今日が人生最後の日でも』という一文が説得力を持つのは人間がかなり年老いてからだろう。十代の若者側がそこで人生最後の日を迎えてしまうとなるとかなりやるせない。

かといって、60歳70歳が五十年後を語るのもまた難しい。平成までの世の中では、少なくとも、110歳以上生きるのはかなりのレアケースだ。歌詞にするには不穏当。両方を同じ場面で語っているとするならばやはり20代30代あたりがギリギリ適当か。

一方で、この歌の歌詞には『今日が人生の最後の日でも』と同じ節のまま『今日が人生の最初の日だよ』と歌う箇所がある。これは親が生まれたばかりの赤子に話し掛けていると解釈するのがいちばん自然で、そうであれば『五十年後』というのは、前回見たとおり、「あっという間に過ぎる人の人生」のことを指すのだろうという推測はつく。ちゃんと序盤に『長いと思っていた人生 急に短い』とエクスキューズしているところが憎い。

他歌の出だしは『軽いお辞儀と自己紹介で』なので、お見合いでもしたか友人の紹介で巡り合ったか、兎に角大人が運命の人と出会う場面から始まっている。やはり、20代30代の若者だろう。

斯様に、『五十年後』という同じ言葉が少し違った意味で使われてそうなのがこの歌の歌詞の特徴だ。それがどういった効果を齎すのか? …いや、大した話にはならないのだけれど、こういう作詞が出来る事自体はやはり偉大だと思うので、次回はその先の話を続けてみることにしよう、かな? …例によってすぐ気が変わるからなぁこの男は。

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『嫉妬されるべき人生』の歌詞で目を引くのは─大体全部目を引く気がするけれど─『五十年後』というフレーズだろう。なぜそこが具体的な数字なのかというのはやっぱり気になる。

「五十年」といってまず思い出されるのは織田信長が好んだといわれる「敦盛の舞」の一節「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり 一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」だ。これの解説は…面倒くさいからWikipedia丸写ししとくか。


── 「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり」は、「人の世の50年の歳月は下天の一日にしかあたらない、夢幻のようなものだ」という意味になる。現代において、「(当時の平均寿命から)人の一生は五十年に過ぎない」という意味としばしば誤って説明される場合があるが、この一節は天界を比較対象とすることで人の世の時の流れの儚さについて説明しているだけで、人の一生が五十年と言っているわけではない。


、、、なんだそうな。へぇ。

ということなので、『嫉妬されるべき人生』にある『五十年』とは、この一節を念頭に置いたならば、日常の感覚では「ずっと先」かもしれないが、実際には瞬く間に過ぎる儚い時間でしかない、とかいった含意を持っている事になる。そう思えば『今日が人生の最後の日でも 五十年後でも』という一文の響きも幾らか違ってくるだろう。

解説にある「天界」というのは、ヒカルの作詞感覚からすれば「輪廻転生観」に基づいているように思えるのだが、その話は長くなるからまた稿を改めて、かな。

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もう少しenvyとjealousyの話を。違いは何なのか。この日記なりの解釈を書いておく。

この2語は幾らか意味が重なる。というか、そこまではっきりした区別がある訳ではない。ただ、envyを嫉妬と訳すケースよりjealousyを羨望と訳すケースの方が遙かに少ない。基本的には、envyは羨望かつ嫉妬ではあるが、jealousyは嫉妬ではあってもなかなか羨望にはならない。この非対称を生む理由についてはかなり長くなるし余り重要でもないので割愛する。


『嫉妬されるべき人生』は『A life to be envied』だから“嫉妬=envy”という図式が成り立つ。“人生=a life”だし“されるべき=to be”だ。それで間違い無い。

仮に『A life to be envied』を「羨ましがられる(べき)人生」とでもしたらメロディーには乗せづらい上に表現としてはごく普通だ。羨望は好ましい感情だからね。他方、嫉妬は醜く歓迎されない感情である。それを敢えて『嫉妬されるべき』と好ましい事であるかのように用いたからこそこの曲のタイトルにはインパクトがあったのだ。

嫉妬と羨望の違いは話者の現在の立場への評価である。「なぜ私ではなくアイツがそこに居るのだ?」即ち「お前そこ代われ」が嫉妬であり、「羨ましい。自分もあんな風になりたい。」即ち「あなたと同列に居並んで同じ景色を望みたい。」というのが羨望である。……それぞれの具体例を出そうと思ったが荒れそうなのでやめておこうか(笑)。

誰かを押し退けて自分が代わりたがるから嫉妬は忌避される。周りからすりゃ人が入れ替わっただけだし特にメリットはない。イザゴザがあっただけマイナスだ。羨望は、それに向けて誰かが新たな努力を始める契機になるから歓迎される。周りからすれば新たに高みを目指す人間が生まれる訳で大きくプラスだ。好ましいか好ましくないかはそこらへんの違いに由来する。


さて。こういうエントリーが人気無いのは解っている。まぁいいじゃないか。そしてここで問題になるのは『to be envied』という3語の並びとなる。羨まれるべき、という響きをどう捉えるか。今回書いた事を踏まえた上で具体的に歌詞を見ていきたいと思っていますよ。── 例によって、本当に続きを書くかどうかはわかりませんがねw

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映画「パラレルワールド・ラブストーリー」への『嫉妬されるべき人生』の起用は、監督が同曲を気に入ったゆえのものだという事で映画に合わせて制作された訳ではない。エンドロールで流れるという事らしいから逆に映画の方が楽曲への繋ぎを意識して作られている可能性の方が高い。そしてまた地上波初放送でバッサリカットされると。映画の場合劇中歌の方がオイシイのだろうか。それはさておき。

ヒカルの場合タイアップ相手をどの程度意識するかというと本当にケースバイケースで。テレビドラマだと歌詞の2、3行にそれっぽいフレーズを入れて済ませたりもするし(キャンシーの『迷宮入り』とかね)、エヴァやキンハではタイアップ相手のマニア達から絶賛されるようなシンクロ度を誇ったりもする。『Eternally』のように隠れた名曲として引っ張り出されてきたりね。色々だ。

今回は、トレーラーを見た限りだと「嫉妬」と「人生」というキーワードが通底するのだろうなという想像はつく。大概の映画は「人生」を描いているのでそちらはどうとでもなるが、「嫉妬」が主題となるとそう簡単にはいくまい。

『嫉妬されるべき人生』における「嫉妬」は、歌詞にもある通り『A life to be "envied"』であって、jealous/jealousyではない。つまり、ねたみ(嫉み・妬み)よりもどちらかというとうらやみ(羨み)即ち羨望の意味の方が強い。

これもトレーラーを見る限りだが、映画の内容は親友と恋人を取り合うだのなんだのという話らしいので、うらやみよりねたみの方が近いように思える。勿論そこから話を展開させてうらやみの話にしていった挙げ句のエンディングに『嫉妬されるべき人生』がどーん、という流れであれば納得もできるし映画としても名作になるだろう。主役の人がジャニーズという時点で内容が少々詰め切れてなくても公開されるだろうという見込みを立ててしまうものの、こればかりは蓋を開けてみないとわからない。出来れば「またひとつ前奏2時間のミュージックビデオができてしまった」とか言われない充実した内容を期待したいですわな。

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第33回ゴールドディスク大賞受賞作品が発表された。邦楽のベスト5アルバムスに『初恋』がサザン・AKB・星野源・ミスチルと共に入っているのは想定内だが、楽曲の方の『初恋』が「ベスト5ソングス・バイ・ダウンロード」に入っているのには驚いた。他の楽曲はというと、まず大賞が米津玄師のLemon。これは順当だな。他受賞楽曲はネットでもバズりまくったDA PUMPのUSA、朝ドラの主題歌星野源のアイデア、GReeeeNのHIDEをフィーチャーしたMISIAのアイノカタチと、何れも話題性抜群の楽曲ばかり。これらとともに『初恋』が入っているのだ。

ずっとファンをやっているからこそわからないのだけど、『初恋』ってそんなに話題になってたっけ? 主題歌として放送させてもらったドラマの方はキンプリの宣伝程度の印象しか残していなかったんじゃなかったんかいな。その認識で合っているとすれば、これは楽曲の威力でダウンロードを伸ばしたということで宜しいか。

今回の対象範囲は「2018年の元日から大晦日まで」の売上実績とのことなので、『あなた』までのシングル曲はそんなにカウントされていないだろう。なので、まだ数字を確認していないからわからないがアルバム『初恋』最大のヒットシングルと思われていた『あなた』より売れたかというとそこまでは行っていないかもしれない。しかし、年間5曲に入った、しかも周りは話題沸騰系の曲ばかりとなると、ヒカルの地力の凄さと『初恋』という曲の強さを再確認することとなったのではなかろうか。だってアルバム自体は前作の半分しか売れていない訳で、復帰のご祝儀相場や朝ドラドーピングがない状態なのに…。いやはや、見識を改めないとな。

今年から(一部は昨年末から)ヒカルもサブスク参戦しているので、今年集計分(来年発表分)のゴールドディスク大賞からはまた違った意味の数字が出る事になるだろう。それはまたそれとして楽しむとして、はい、久々に珍しく売上の話をしてみましたよっと如何でしたか。

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おやまぁ、『嫉妬されるべき人生』が映画のエンディングテーマに選ばれたのか。2月が終わる前にひとつニュース。いい感じ。

映画は5月公開ということでまだ若干先だが、これはまたひとつ楽しみが増えたということでよろしいか。映画が歌の初御披露目でない場合はそうそう熱心なファンでも興味の無い場合は観に行かないだろうが、観るかどうか迷ってた或いは観に行ってもいいかなとか思ってた人には一押しとして効果的だろう。なおあたしゃこんな映画が公開されるということをたった今知った。これもまたいい宣伝効果な訳だな。

原作東野圭吾、監督森義隆、出演玉森裕太、吉岡里帆、染谷将太他。…特にこの布陣に感想は無い(笑)。強いて言えば、『Forevermore』を提供したTBSドラマ「ごめん、愛してる」のヒロイン吉岡里帆とまた相見えることか。ヒカルは高畑充希とも「とと姉ちゃん」「DESTINY 鎌倉ものがたり」が連続でタイアップのご縁があったので、こういうのは続くものなのかもしれないね。連ドラと映画の両方でヒロインを務めれる女優が限られているというのもあるかもしれないけれど。

映画のタイトルは「パラレルワールド・ラブストーリー」。最初見出しかと思ったがこれがタイトルなんだそうな。一般名詞としても使えそうな説明的なネーミング。大きく出たもんだな。シャーロック・ホームズの映画に「推理探偵物語」ってつけるようなもんじゃないの。東野圭吾ということで内容はミステリーか。叩き文句でも頭使えや的な事言ってたのでそれなりにめんどくさい内容なのかもしれない。


ふむ。まだニュースが出たばかりなので細かい話はまた次回から。

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あんまり楽しい話題じゃないが前回の続き。

残念なのは、レーベルメイトがまた“居なくなった”ことだ。

ヒカルがSONY内に出来たサブレーベル「Office RIA」の一員となり、そこからの第二弾アーティストとしてなりくんがデビューした。昨年は結構な数のライブパフォーマンスをこなし、ソロシンガーとしてそれなりに順調にスケジュールを消化していたのだが、ここにきて本来の彼の仕事である自身のレーベル経営に一段ギアを上げて本格的に取り組もうということでイギリス移住を決意した訳だ彼は。流石に、なりくん本人も語っている通り、彼のセカンドアルバムは当面出そうにない事となった。

レーベルメイトというのはファンからすれば本来嬉しい存在である。自分の好きなアーティストが一年中出ずっぱりで活躍してくれるなんてことはほぼない。休みが一日も無くても制作期間中は露出がなく我々にとっては休まれているのと変わらないからだ。更にヒカルはプロデューサーだ。制作過程の殆ど全部に立ち会わなければならない。一年中働いていたとしても、我々の目の前に現れてくれるのはせいぜい1年あたり2~3ヶ月がいいところ。プロモーションスタッフはその前後フル稼働しても半年も仕事がないだろう。該当アーティストの制作期間はやることがない。なので、レーベルというのは普通複数アーティストを同時に抱えて総露出が途絶えないようにする。

そこには“レーベルカラー”というのが存在し、フィーチャーされるアーティストは音楽性や人脈が近くなるのが基本。レーベル経営が軌道に乗ってくると“レーベル買い”するファンも出てくる。そうなればしめたものだ。レーベルの方は途切れなく複数のアーティストを売り込み、レーベルのファンは毎月飽きることなく間を空けることなく様々なニューリリースやライブ・イベントなどを楽しめる。ひとつレーベルが確立すれば、ファンのライフスタイルに必要不可欠な存在になれるのだ。

なのに、嗚呼。今回なりくんの活動が結果的に“1年限定”となったことで、またヒカルはひとりぼっちに逆戻りしてしまった。RIAは、ヒカルの稼ぎが非常に大きいので焦って新しいアーティストと無闇に契約などせずお眼鏡にかなう逸材が目に止まるまで待つのだろうけど、折角のこちらの期待感がまた萎んでしまうのはやっぱり寂しい。まぁそもそも昨年のなりくんがヒカル・ファンの支持を大きく受け たとは言い難いんだがね。まぁそれはやってみた結果なので私は評価しているよ。(上から目線で偉そうに(苦笑))

レーベルメイトが活躍してくれればヒカルの負担や重圧が減る。滅多に居ないだろうがその人達が売れてくれたらヒカルも(ほぼ初めての)ライバル心みたいなものが芽生えて奮起するかもしれない。それでなくても、自分の支持層が他のアーティストを気に入る状況というのは刺激になるだろう。ちょっと夢見過ぎかもしれないが、あたしはRIAにそういった状況を期待しているのだ。

だが現状は全然である。今の@RIA_staffのフォロワー数は、例えば宇多田共和国@hikkicomを下回っている。較べるものではないのかもしれないが、公式アカウントが非公式ファンアカウントに周知規模で負けるのは流石にマズいのではなかろうか。大体今の共和国アカウントなんて今日は何の日しか呟いてないんだから大したことしてないのにそれでもこんな感じなのだ。正直、奮起を期待したいのですよ。是非頑張ってくださいな。

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なりくんがロンドン移住だってさ。なんとも「間が悪い」としか言いようがない。

なりくんは今や、というかこのところかなりの重要人物だった。『Fantome』発売時は『ともだち』のバックコーラスに参加しただけで当時目立ってたのはちばくんの方だったが、収録曲の『荒野の狼』のタイトルがほぼ彼由来だったというのが発覚し、『初恋』では『パクチーの唄』の作曲クレジットに名を連ね、人脈を駆使してクリス・デイヴなんていう超大物は連れてくるし、果てはヒカルの所属するRIAから第二弾アーティストとしてヒカルのプロデュース&ボーカル参加でソロアーティストデビュー、更には『Laughter in the Dark Tour 2018』のセットリストを任されるなどまぁそれはそれはよく耳目に入る人だった。更には自身のラジオで3週にわたりヒカルと仲の良い所を見せつけ「丸ノ内サディスティック」でデュエットも果たし、いやはや、レーベルメイトならではの押し売り、いや違うか、抱き合わせでかなり目立ってやってきてたのだ。

これだけベッタリの中でヒカルが居を構えるロンドンに移住するなんて言えば勘繰られるのは自明の理。それを察知してなのかこの度30分番組をフル活用してその経緯の説明に努めた訳だが効果の方は如何ばかりか。

時系列を追うと相変わらず不可解だ。去年の6月以前に11月から始まる『Laughter in the Dark Tour 2018』のセットリストを任されながらも9月10月にあったと思われるツアーのプリプロダクション、リハーサルに呼ばれなかったように言う。そしてこの度ロンドン移住を決めて即日動き出したのが10月の事だったと。何がどうなってこんなスケジュールになったのやらさっぱりわからない。きょとんとするしかない。

何らかの理由で彼がヒカルのツアー関連の仕事から離脱したせいでヒカルがツアー開始直前までスコアを書くような羽目になったのかとか思うとねぇ。当初は「時期的に遅すぎるし、『Face My Fears』にストリングスが入っていてその追い込みだろうか?」とも思ったのだが完パケ聴いてみるとそんな弦なんか入ってなかったしな。ツアーが始まるまでの妙な違和感も彼の離脱のゴタゴタのせいだったんじゃないかって要らぬ詮索をしてしまいそうだ。

円満とは言い難い離脱だったとしたら、ヒカルの居るロンドンに乗り込むのは更に不自然で、それなら確かにヒカルとは無関係だということになるが、となるとどっちでもいいからそこのところを説明しないと要らぬ勘繰りを止めるのは難しいだろうね。本当に、何とも間が悪い人だわ。

本来ならRIA第二弾アーティストなんてかなりの確率でスタートダッシュを決められるような立場だったろうに、どうしてこうなった、ですよ。溜息しか出ないや…。

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「第11回CD ショップ大賞 2019」の入賞10作品に『初恋』が入ったのか…それを喜ぶ前についつい「CDショップ大賞」なんていつまで在れるんだろう、と心配になってしまっていた。

音楽をフィジカルに入れた商品は無くならないだろう、とは思う。スーベニールというか、例えばプレゼントとして音楽を選んだときに配信音源という訳にはなかなかいくまい。そういう機能あるけどね。やっぱりレコードであれテープであれ CDであれ、何かの物質に宿ってくれていないとリボンが掛けられないよ。まぁあれだ、オルゴールみたいなもんでね。…先祖返りかな? でも、つまり、それくらいしか生き残らないんじゃないかな、ってな。

となると、『One Night Magic』の『どんな歌彼女に車の中で聴かすの? あげたい、君の知らないCD1枚』の歌詞は、これからの世代の人たちにどう響くのかなと。何段にも積み上がったCDチェンジャーとかまさに平成の遺物になるんだろうかな。もしかしたら『君の知らないCD』の意味が「あなたくらい若いとCDってもんを知らないかもしれないけどね」とかいうのにシフトしちゃうんじゃないかなと。それはそれで意味が通じるから面白いは面白いけど、ちょっぴり切ないよね。

ヒカルは歌詞にPHSをはじめとした“時事ネタ”を躊躇無く織り込んできたのでそれで歌詞が古びることに抵抗はないのだろう。気にするのはそれを愛して生きてきたファンの方なのかな。そのうち『CDショップ大賞』も最終回を迎え、その際には「オールタイムベストCDショップ大賞」が企画されて『First Love』が受賞するんだろうか。そうなったらそれはそれで感慨深いかもしれない。色々思い出しちゃうかもね。ちょっと見てみたいかもしれないな。

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昨日のニュースといえば『Face My Fears』が日米のiTunesチャートで1ヶ月間1位を獲得中、という報。へぇ凄い。あクマでもダンスチャートという特定のジャンルでの話ですけども。

前から言っている通りこういうのは煽ったもん勝ちだ。ストリーミングのポイントが重要な現在、発売後も続報を次々打ち出して関心を引き続けるのがよい。発売後1ヶ月で初めて『Face My Fears』を聴く人も同然沢山居る訳でそのキッカケ作りだ。紛らわしい見出しは逆効果だと思うのだけれども。

そもそもダンスチャートでいいのならUtaDAの『Devil Inside』が2004年にトップを取っている。こちらはビルボードだが当時iTunes Music Storeはまだ始まったばかりで注目度も高くなかったからね。

だから大したことないというのではなく、もっとUtaDAのサウンドも評価して貰えれば、というところなのだが今のSONYはUtaDAの音源を云々する立場にはない。ファン心理からすれば来月『This Is The One』が発売10周年なのだから記念盤としてリマスター再発&ボーナストラック盛り沢山、とかやってくれたら嬉しいんだけど『EXODUS』10周年だってスルーだったんだし現実的には難しいだろう。

それに、仮に今SONYにUtaDAを扱う権利があるとしても(原盤はU3が持ってるんだっけか)、『This Is The One』の周年は必ず『First Love』アルバムのそれと重なる。きっちり10年後の3月にアルバム発売だから。となるとレコード会社としては当然常に『First Love』の周年行事を優先させてゆくことになるだろう。全く以て不憫極まりない。残念至極。

というわけなので開き直って来月は『First Love』アルバム発売20周年記念企画が来るのをのんびり待とうと思っています。やれやれだぜw

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「シン・エヴァ」って2020年公開予定になってるのよね。実は2020年37月でしたみたいなことにはならないのよね? もう来年なのです。

今回もヒカルが主題歌を担当するのだろうし今やそこに何の不安も心配も疑問もなく、ただただただただ楽しみなだけだが、映画本編の方には一抹の不安がある。この時代に「エヴァンゲリオン」の居場所はあるのやら?とついつい思ってしまうのだ。

ヒカルはエヴァを「ダシ(出汁)」だと言い切った。物語の旨味を抽出しきっているという意味だろうが、その発言から干支が一回りし、アニメーション及びアニメーション映画は格段の進歩を遂げた。今この世で、エヴァの特異性は輝けるのか?

旧世紀の時点では他の追随を許さぬほど個性的だったが、その後に自ら影響を与えた後続たちが市場を一気に活性化し、一方で本家は新世紀で喝采と迷走を同居させるというある意味“らしい”展開を見せた。

エヴァのような作品は人生の意味を問う。一方で現代のアニメーション及びアニメーション映画は娯楽としての洗練を続けている。特に日本では特定の思想・信条に偏った作品は好まない。そういう世情ではなんだか隙間がなさそうに感じられる。

旧世紀に感銘を受けた世代を取り込めればよい? 否、やはりエヴァにはその時代の“14歳”に響いて欲しい。それが私の願いなのよさ。

とすれば、私はヒカルにも“14歳に響く歌”を求めている訳だ。十代のファンを確実に増やす中その時の心境になって、いやさなりきって名曲を書くか。何しろ『Beautiful World』と『桜流し』の次に来る歌なのだ。生半可は通用しない。だからヒカルに気合を入れろと言っているのでなく、そういう優れた歌が来るのは確定なんだから本編頑張ってくださいよ庵野さん、と言いたいのだよね。また「Casshern」の時みたいに「エンドロールはよかった」とか言われないようにしないとね。さて、どうなるでしょうかな。

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さて、英語版の方が先に出来ていた、という仮定に基づいて『Faith My Fears』『フェイス・マイ・フィアーズ』の歌詞を見直してみよう。『Face My Fears』の方から。

『Breath, should I take a deep ?
 Faith, should I take a leap ?
 Taste, what a bittersweet
 All my, all my life』

これに対応する『フェイス・マイ・フィアーズ』の歌詞はこう。

『ねえ どれくらい
 ねえ 笑えばいい
 今伝えたいこと よそに』

これを見れば、最初の『ねえ』は『breath』と、次の『ねえ』は『Faith』とそれぞれ置き換わっている事が見て取れる。しかし、『Face My Fears』の方は実際のところ、

『BREATH, should I take a deep ?
 FAITH, should I take a leap ?
 TASTE, what a bittersweet
 All my, all my life』

と大文字で強調した『BREATH』『FAITH』『TASTE』の3つが並列して並んでいるのだ。メロディー上もこの3つのラインは似たような動きをする。しかし『フェイス・マイ・フィアーズ』では3つ目の『TASTE』に対応する語は『今』であって『ねえ』ではない。ここが『フェイス・マイ・フィアーズ』の日本語詞の要点となる。

2番も同様に1つ目の『ねえ』が『lose』に、2つ目の『ねえ』が『space』に対応しているのだが3つ目の『ねえ』はなく、『いない』が対応している。即ち2番の歌詞は

『(ねえ)生まれつき
 (ねえ)臆病な人なんていない
 初めてのように歩きたい』

という表記になっているが、

『ねえ 生まれつき
 ねえ 臆病な人なんて
 いない 初めてのように
 歩きとに』

と書き換える事ができる。これを眺めれば、英語詞の方、

『Lose, don't have nothing to
 Space, this is what I choose
 A mile, Could you walk in my shoes
 All your, all your life』

との対応がよりわかりやすくなるだろう。


こんな感じで歌詞を整理し直して──さて続きを次回書くかどうかは神のみぞ知る(笑)。

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何故か過去2作についても日記で触れているので今回も触れておこう。IRON SAVIORの新作が発売された。期待に違わぬ正統派メタルサウンド。相変わらず素晴らしい。まだ1回しか聴いていないが、メロスピ超特急"Heroes Ascending"、キャッチーな"Never Stop Believing"、ラストを飾る"Legends Of Glory"あたりが今日の好みかな。押し並べて安定のクォリティーなので日替わりで気に入る曲が違いそうだ。


…てな感じで日々自分は様々なアーティストの新譜チェックに勤しんでいる。たまたま「IRON SAVIORの新作だから日記に書こう」と3作連続で思ったから書いているだけで、他にも沢山レビューできる作品はあるのだ。まぁ最近はその受け皿に#i_utaタグを選んでいるのだけれど、なぜだかなかなか日記には書かないね。意図している訳ではないんだがいろんな話題を書いているつもりでもいつの間にかヒカルの話になっている。もうこれは習慣というか癖だろうな。

前回IRON SAVIORの新譜の話で始めた日記も、今読み返してみたら最終的には『花束を君に』などのヒカルの曲のサウンドの話になっていた。全然関係あらへんやん、とツッコミたくなるんだがこれが凝り固まった芸風というヤツなんだろうなぁと諦めて今に到る。

そういえばヒカルの芸風も最近固定化の傾向があるわね。『真夏の通り雨』のメロディーは『Letters』に似ているし、『フェイス・マイ・フィアーズ』のメロディーは『大空で抱きしめて』に近い。どうも、昔に較べて「別にいいんじゃない?」とヒカルが思い始めているように思えてならない。

今までは、というか9年前までは既存曲と同じような或いは似たようなアイディアが出た場合にはヒカルはボツにしていたように思う。『DEEP RIVER』の『幸せになろう』『Lettets』『プレイ・ボール』の3曲でイントロを敢えて似せてきたりしたようなケースでもない限りね。

しかし今は、そういう拘りがなくなったのではないか。ある意味自分のメロディーの癖を素直に受け入れているように思える。稀に気づいていないこともあるらしいが、大抵のミュージシャンは既存曲に似ているものがあるかはわかるものだ。今のヒカルは、恐らく、ではあるものの、昔に較べて自分の指紋やら匂いやらが音楽に刻まれていてもそれを好きで居られるようになっているような気がしてね。有り体に言えば自分の書いた曲が昔より好きなんじゃないの?ってこと。相変わらず完成品を聴き直す事は少なそうだが、自己肯定感は昔より増しているように思える。ちょっと願望が入った妄想かもしれないけどね…


…ね? 結局ヒカルの話になったでしょ? 別にわざとじゃないんだけどねぇ…これが芸風ってヤツですよ。

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『Face My Fears』はどうやらヒカル、Skrillex、Pooh Bearの3人がスタジオで一緒になって制作した、ということのようだ。今時珍しい? 最近はデータのやりとりだけでコラボレーションが完結する事も珍しくなかろうに。2人のみならず3人て。皆バラバラに住んでいるだろうにな。

でも、最近というが10年前の『This Is he One』の時に既にUtadaはStargateの2人とあんまり会ってなかったような風に言っていた。一方でトリッキー・スチュワートとはなんかホームパーティーに呼ばれたような言い方もしていて(ただの“そういうことしてそうな人”という意味の喩えだったのかもしれないけれど)そちらは膝を突き合わせて制作していた風にも思われ、なんだ、ケースバイケースなんだろうなという特に面白くない結論だな。

で。つまり『Face My Fears』は3人で制作したのだからやりとりは英語だったろう。となると、その時の(恐らく仮の)歌詞は英語だったのだろうと推察される。制作のキッカケがSkrillexからだったので、ヒカルから日本語の歌詞を最初に提案して…という流れは考えづらい。まず3人でサウンドを作りヒカルがそこに仮の英語詞を付け加えていったのでは…と想像される。

サビのメロディーのアプローチからもわかるように、Skrillexはある程度東洋風しかし基本無国籍風、という雰囲気を出したかったようだ。ディズニーキャラクターが活躍するとはいえ、やっぱりゲーム制作が極東だもんね。その意図をヒカルが汲んで、その後日本語詞も書かなくてはならないことを念頭に置きつつ中間部の『ナヤムナヤムナヤムナ…』のパートが出来上がっていった、と解釈してみる。なぜ無意味な言葉の連なりにしたのかといえば日本語版にも英語版にもそのまま使えるから、ではなかったろうか。

故に『Face My Fears』はまず英語版が完成してその後に日本語版の『フェイス・マイ・フィアーズ』が出来た、という順序だったと推理される。勿論、英語版が8割くらいできたところで日本語版に着手しそこからのフィードバックを得て英語版の残りが埋まっていく…といっまような行ったり来たりの同時進行もあったのかもしれないが基本英語版が主軸になっていたのではないか。まずはこの見地から話を進めたい。

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『Message from Hikki』開通20周年記念日。今は蔵に仕舞われているようなもんだが、これがなかったらこの無意識日記も存在していなかった訳で、自分にとっては親の誕生日のような建国記念日のような元日のような…兎も角、大事な日というか大事なスタートの日なのだという認識だ。リアルタイムで見てた訳じゃないから実感は薄いのだけど、親の誕生日や結婚記念日だって自分はリアルタイムで目撃してた訳じゃないんだからその記念日を祝う事に関しては何の抵抗もない。

そんな風だから昔のメッセを読み返していると親のこどものころのアルバムを見させてもらってるような感覚と、親戚のお嬢ちゃん(従妹とか姪とかだな)が育っていくのを眺めるような感覚と、なんだか両方あるような不思議な感覚に囚われる。これは、ブロガーとしてずっとやってきている人間ならではの不思議だろうかな。

今はメッセも見る影がない。が、こうやってツイートがバズったりしている訳でキッチリヒカルからの発信自体は続いている。誰だ「Twitterって期間限定だったんじゃないんですか?」とか余計な事を言うヤツは?(私ですね) せっかくこうやって無期限に続いているのだから是非ヒカルにはそんな初期設定は忘れっぱなしでいて貰いたい。


それに。もう一つ、メッセが無くても大丈夫なのかもねと思わせる安心材料がある。復活してから十代のファンが増えているのだが、何故か彼女ら彼らも、我々と同じ感じでヒカルの事が好きなのだ。正直、音楽性は9年前以前とかなり違っていて、『Fantome』から『初恋』で歌を聴いてファンになる人は昔ヒカルの歌に接してファンになった人たちとは音楽の趣味が大分違うんじゃないかというおそれまであった、筈、なのに、一言で言えば最近ファンになってくれた十代の若い人たちも我々古参と実によく似た「ノリ」でヒカルへの愛を叫んでいる。それが不思議でねぇ。

昔はね、歌は兎も角メッセを読んでファンになるとかザラにあったのよ。で、そういう人たちってのはヒカルの物事の考え方や感じ方に共鳴している訳で、そういった「メッセから入るファン」同士が同じノリになるというのはそれはわかりやすいというか必然であったとは言えたのだ。

しかし今のファンはヒカルの考え方や感じ方をそれなりに長い文章で披露して貰う機会も少ない訳で、なのにきっとこの人たちもうちらと似たような感じ方や考え方に共感するんだろうなというのがかなり強く伝わってくる、のだ。勘違いなのかもしれないが、昔オフ会に初めて行った時から感じ続けている「取り繕わなくても構わない」あの感覚が今でも健在なんですよ。昔から知る者同士にも相変わらず変化は少ないし、新しく知り合う人たちに対しても取り繕わなくていい。一言、居心地がいいままなんです。

なぜ君らはメッセもなしにヒカルの人間性を知れるのか。やっぱり不思議で仕方がないが、これは望ましい事なので余り深く考えずに、今の時間を相変わらず楽しむようにしようかな。“ここ”から離れない限り、これは、きっと変わらないのだろう。そう願うと願わずとにかかわらず。うん、いいことだ。

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