無意識日記
宇多田光 word:i_
 



復帰第一作めがカバーアルバム、という事はないと思うので、Hikaruが作ってみたいと言っていたカバーアルバムが形になるのは随分と先の事になるだろうなぁと思うが、作ったらそりゃあ素晴らしいものになるに違いない。

i_の庵背無…って何だよその変換…愛のアンセムは、カバーでありながらソングライターとしてのセンスを前面に押し出した作品だった。Spainのトラックをシャンソンのスタンダードナンバーに使うって発想は一万年待っても出てこない。

Hikaruがカバーアルバムを作るとなると、そういった"発想勝負"になるのだろうか。何の変哲もない、「それってコピーっていうんじゃないの?」ってトラックは作って来そうにない。ソングライターの矜持にかけて。

しかし一方。そう、Wild Lifeの愛のアンセムを聴いた時、皆が「何て素晴らしい歌唱力!」と驚嘆したと思うが、それは何故かというとあのバージョンが「何の変哲もないカバー」だったからだ。ピアノ一本でヒカルが朗々と歌う。ただそれだけ。ソングライターとしての矜持とか全然関係ない。いや、詞は自分で書いてるから、半分は関係あるんだけど、何が言いたいかといえば、お客さんが期待してるのはこっちなんじゃないの?という事だ。

何も知らない人は、ジャズのサウンドに無理矢理シャンソンを併せたバージョンに「?」となっても不思議はない。リズムが複雑になったお陰で歌い方が窮屈になってすらいる。多くのリスナーにとって、トラックの面白さなんて二の次だろう。皆こう思う。「あの名曲を宇多田ヒカルの抜群の歌唱力で」と。作曲家宇多田ヒカルの出番はなしである。

確かに、言いたい事は痛い程解る。私も、SMAPxSMAPで「青いイナズマ」をヒカルが歌うのを聴いた時、「ジャニーズの子たちに潰されてきた名曲佳曲の数々をヒカルが全部歌い直してくれたら」と思わずにはいられなかった。明らかにヒカルの歌唱力は日本の至宝である。しかし、作曲家Utada Hikaruは世界の至宝なのだ。彼女自身は、歌に対してどういう思いでいるかというと、あれだ、青いイナズマと同じ時に、かの"ジャニーズ・シンガー"の代表格中居クン(てもう四十路のオヤジだっけな)が「ぼくはくま」を歌っている時の嬉しそうな顔。あれである。作曲家Utada Hikaruは、自分の書いた曲を人に歌ってもらえれば、それがどんなに下手でも嬉しいのだ。ぼくはくまはその中でも突出しているけれども。そういう人なのです、たぶん。

とするなら、Hikaruがその歌唱力を"ひけらかす"カバーアルバムを作ってくるとは、到底考えられない。やはり、愛のアンセムのように、一捻りも二捻りもある"作曲"をしてくるんじゃあないかというのが(私の)専らの予想である。歌唱力を"誇示"(本人にそのつもりはないだろうが、形式的にそう書いておく)するような場面は、尾崎豊にしろGREEN DAYにしろ、LIVEの場面に限られるだろう。そこを踏まえておきたい。

つまり、もしHikaruが今後カバーアルバムを"スタジオ・レコーディング"で制作しようというのなら、恐らく皆の期待とは違う、凝りに凝ったカバーバージョンがずらりと並ぶだろう、という事だ。もしそっちに行かず、ただ歌いたいだけ、というのなら、カバーアルバム制作は"ライブ・レコーディング"でやるべきかもしれない。

いずれにせよ、Hikaruに関しては常にソングライター/作曲家としての側面とシンガー/歌手としての側面を分けて考えなくてはならない。それぞれの思考は異なるし、成長具合もまちまちであるから、いっぺんに考えると誤解が招かれる。まぁ、いちばん理想的なのは鼻歌がそのままになったぼくはくま…つまり、歌う事と作る事が同時におこなわれてしまう事だが、そういう理想形はなかなかないからなぁ。

なので、もしかしたら、みんながいちばん欲しいのは、一晩だけHikaruがカバー曲を歌うだけのコンサートをやって、その公演をDVD化したものなんだろうな。そっちなら、結構可能性があるかもしれない。いずれにせよ、でも、やっぱり、ずぅっと先の話だろうなかなぁ。

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昨日のHikaruのジャコランタンの写真を開いた途端、「わ、くまちゃんだ」と思った。カボチャを掘ってもそういう顔になるんだなぁ、と。オーソドックスなジャコランタンだと目元があんな風にはなっていない。別にHikaruがくまちゃんを意識した訳ではなく、自分の好みで掘ったらそのままあんな風になるのだろう。

絵に描く方はわかる。自分で作るんだもんね、ランタンと似たっていいさ。しかし、写真に写るくまちゃんもこういう顔のような? 写真の腕次第でそういう風にみえるのか、それともこちらの偏見と錯覚か。

順序が逆か。腹綿のくまちゃんが好き過ぎて絵を描いてもランタンを掘ってもああいう表情になってしまうのか。だとしたら2006年1月19日以降、宇多田画伯の画風は劇的に変わった事になる。のだがそれ以前のHikaruは所謂「かわいらしい絵」を殆ど残していない為(ウニとかイクラとかうんことかそんなん…あ、ウニとイクラはくまちゃん後か)画風の比較が困難なのが残念だ。

本人曰く高校時代に「美大に行くような人しか受けないコースでガッツリと」美術を学んだとの事だが、それを裏付けるに足るだけの画力は節々で発揮してきた。「For You/タイム・リミット」のアートワークは自身のものだし、ベルサイユのくまの画力の高さはしょこたんか宇多田ヒカルかと言われる程のものだった。何故か媒体ではアイドルの事も「アーティスト」と呼んでしまうので(場合によっちゃあそれでいい気もするけれど)そう呼んでもあんまり特別な感じが漂ってこないのだけど、音楽も奏でられて絵も描ける彫刻(?)にも手を出したとなると、こういう人はやっぱりアーティストって言いたいなぁと思ってしまうのでした。

メッセのURLも改まった事だし、一度宇多田画伯の筆による作品のリンク集でも作ってみたいところ(←現時点ではただ言うてるだけ)だが、果たしてそこから「くま以前くま以後」の傾向は見て取れるのか、そもそも何点くらい絵を描いて公表してきたのか、そこらへんからまず把握したい。9割方他愛ない落書きばかりだけどね。いちばん人気はやっぱり…うすた京介も絶賛の宇多田メロンかな…(んなこたぁないw)。

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EVAでも渚カヲルが「歌はいい」と言っているし、ナウシカでも墓所の主が「人間にもっとも大切なものは音楽と詩になろう」と言っている。歌とは(理想的には)音楽と詩の結婚なのだから歌はやはり最終的には究極のものである。結局は、何を頑張っても歌い手にはかなわない。

…と私はいつも書いているが、この常套句を書く時にいつも頭を過ぎる一言がある。曰く、「耳の聞こえない人はどうするんだ?」

声が出ない、という人も何らかの楽器は演奏出来るし他人が歌うのを聞いて楽しむ事もできる。しかし、耳が聞こえない/聞こえなくなった人たちにはどうしようもない。そもそも先天的に耳が聞こえないのなら、歌はおろか、音楽、いや音という現象自体が理解不能だろう。一体それが何を意味しているかすらわからない筈だ。そんな人たちに対して「歌は究極だから」と言っても何ら響かない。

確かに、歌詞は書いて見せたり点字を触ってもらったりして伝える事は出来る。しかし、メロディーの美しさをどう説明したらいいのか全く見当がつかない。音楽って何。そういう不可思議な感覚しか残らないんじゃないか。

こんな大それた問題に一朝一夕で答が出るとは思わない…それどころか、我々の生きている間に何か進展があるかすらわからない。お手上げと言うのが正しい。

夢見物語な解決は2つある。ひとつは、医術と技術の発達によって、聴覚器官一式が人工的に用意できるようになる事。たとえ先天性であっても構わない。いつか人類がそこまで進歩するのを夢見よう。


そしてもうひとつは…歌の聞こえてくる歌詞を書く事だ。歌は究極だが、その究極さを表現した歌は歌の究極であろう。であるならば、その歌詞とメロディーはわかちがたい、もうそれしかない組み合わせである筈だ。つまり、この歌詞ならこのメロディーしかない、という場所が「行き着く場所」となる。そして、本当にそれが真実であり真理ならば、そこにメロディーが生まれてくる筈である。そのメロディーだけが生まれるのではなく、メロディーという概念自体が人の心の中に発生するのだ。であるならば、耳も聞こえず音の概念も知らない人の心の中にも、メロディーは響いてくるんじゃないか。これは「途方もない夢」である。しかし、宇多田ヒカルを語るにはこれ位でちょうどいい。

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STINGの"I Burn For You (live)"はもろブリティッシュな曲で、Hikaruがロンドンに住みたいと言い出すのもわかる気がする―ってロンドン移住"説"は公式発表なんぞされてなかったな。まぁあんまり言及しない方がいいのはマスコミさんたちの対応を見ていれば明らかなんだけど、それも少し寂しいねぇ。別に隠しているわけじゃなく言わないだけなんだが、どうもそういう理屈は通じない。ロンドンでのエピソードとか、普通に話してはくれているんだけれど。

本来ならば、「留学」という単語がよく似合う生活を送っている筈だ。虹色バスかな。しかし、ニューヨークと東京のシャトル生活の印象が強すぎて、コスモポリタンが第3の拠点を構えた、という風にしかみられていない感。それさえなければ今は留学生活と呼ぶべきなんだろう。いや、今は今はと言ってるけれど、9月で年度変わりなら、本当の今現在はまた違う生活になっているのかもだけど。

住む土地の気候風土文化、何より人。そのテイストが今後の創作活動によって我々に還元される事を期待したいが、贅沢を言うなら、その「今」を切り取ってすぐに作品をリリースするような、いわば現地の風がそのまま吹いてくるような曲も聴いてみたかったかな、とは思う。STINGや4ADなどHikaruにとって特別なアーティストたちを生み出した土壌、そこから今度はHikaruがどんな花を咲かせるか。卑近な例でいえば、桜流しはPaul Carterとの共作だったが、彼はイギリス人なのだろうか。だとすれば、でもないけれど、それならば桜流しに英国の薫りが漂っていてもおかしくはないが…桜とつくだけあってあの曲はかなり"和風"だなぁ…。

無国籍風というとちょっと違うけれども、Hikaruの作る音楽にはアイデンティティという色が薄い。Popsなんだからそれでいいのだけれど、日本以外の国で受け入れてもらうにはそこをどうクリアするのか。偏見は認知認識の第一歩である。知ってもらわなければ偏った見方すらされない。英国でどんな人脈を作ったかはわからないが、その根っこの無さを面白がってくれるコリーグが見つかっている事を祈るばかりである。

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熊淡の最大の関心事は、「いつまで続くのか」という点である事に異論を挟む余地は少ないだろう。いつまでやってくれるんだろうねホント。月イチなんだから、復帰後も気軽に録音しては送りつけ、録音しては送りつけを繰り返してくれればいいのに。

しかし、前回指摘した通り、この番組でのHikaruのスタンスは「いち音楽ファン、いちリスナー」としての立ち位置により近い。皮肉な話だが、本格的に創作活動に突入した場合、あんまりこの番組モードに戻ってこれないんじゃあないかとついつい思ってしまう。人間活動中だからこそ取り得るスタンス―そう考えてしまって、なんだか寂しい。

実際、ラジオのDJ・パーソナリティという仕事は、Hikaruの中でどこらへんを占めているのかというのはちょっとわからない。トレビアン・ボヘミアンの頃は、変な言い方になるがアイドル扱いだった。宇多田ヒカルという人に人が集まっていただけだったから、何でもよかったのだ。(一生懸命番組を作ってくれていたヒカルをはじめとしたスタッフの皆さんには大変失礼な言い方になってしまうけれども)

今はそういう事もない。ゴシップに人は群がるが、それはつまりHikaruを人間扱いしていないという事なので(でなければ霊柩車の前に立ちはだかるだなんてそうそう出来る事ではない)、あんまり考慮に入れなくていいだろう。

細々とだが、しかし、もしかしたらInterFMを通じて、Hikaruと同じ音楽の趣味の人がどこかに見つかっていくかもしれない、という期待は常にそこはかとなくある。それは、実は貴重である。作るものと聴くものが同じ方向性の人であれば、その人のディスクジョッキーぶりはその人の作る作品のファンの人たちにとって非常に感性に見合ったものとなるだろうが、Hikaruのようにそれがズレている場合、作詞家宇多田ヒカル、作曲家宇多田ヒカル、歌手宇多田ヒカルのそれぞれのファンが期待して周波数を合わせてきても必ずしも感性と合致するとは限らない。それよりも寧ろ、「宇多田ヒカルの歌はあんまり好みじゃないけれど、彼女がラジオで掛ける曲は凄く自分の趣味に合ってて好き」という人が出てくる事を祈りたい。

更に言えば、そういうリスナーを一定数獲得してしまったら、この番組は結構末永く続いちゃうんじゃないかという予感すらする。ちょっと面白いじゃないか、歌手宇多田に興味なし、DJ宇多田に興味あり。誰かどこかに居ませんか。


ただ、現実を鑑みると、それは非常に難しく思ったりもする。Hikaruのように音楽を聴く人間は、日本には少ない。いや、世界のどこの国でも、日本ほどではないにせよ、なかなか居ないタイプな気がしている。だから、そういうリスナーからお便りが来たら、Hikaruは是非大切にして欲しい。極端な話、個人的に連絡をとるべきだと思う。生涯にわたって友人となり得るような人間は、この惑星に人口がたとえ70億人居ようとも、なかなか見つかるもんでもない。誰々のコンサートに行きたい!と思った時に、いつでも、"付き合いじゃなく心の底から喜んで"ついてきてくれる、或いは引っ張っていってくれるような友だち。Hikaruに居たらいいのになぁ。Hikaruに出来たらいいのになぁ。もう既にそういう友人がHikaruに居るのであればもう言う事はないのだが、しかし、その友だちはHikaruから『今度私ツアーやるから観に来てよ』と言われても「ううん、興味ないから。」と断るのだろうか。面白過ぎる。そして何て贅沢な奴だ。
なんか、そして、嬉しいな、喜ばしいな。想像しただけで。



何だか我々に関係のない話だが、Utada HikaruがDJをやるという時の特殊性を突き詰めるとこんな風に話が変な方向に広がる。本人におきましては、難しい事を考えず、リラックスして好きな曲選曲して楽しく前向きにラジオ収録と編集を執り行って欲しいものでつ。

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作る曲と聴く曲、更に歌う曲でそれぞれ志向・嗜好が異なるのはHikaruも最初から自覚している事で、今更こちらが言う事ではないのだが、こうしてラジオという媒体での活動が新たに(あらためて)加わる事で、リスナーとしては少々バランスが変わる。

世の中にはその人が自身のいちばんのファン、という人も居る。あれだけ多忙の中帰宅して自分の出演番組の録画を観て自画自賛する明石家さんまなどはわかりやすい例だが、Hikaruはそうではない。リラックスしたい時は、それこそスティングやブルース・スプリングスティーンの曲を聴いたりするだろう。そして、ラジオで流れるのはそういう曲である。さんまがラジオではないけれどお勧めのテレビ番組を紹介する番組をやったら自分の出演番組を推すだろうが、Hikaruはやっと最後に自分の歌を流して2番が終わらないうちにフェイドアウトである。

しかしお陰で、僕らはリスナー・宇多田ヒカルを知る事が出来る。作曲家としての側面もちらちら垣間見せてはいるものの、基本は音楽の消費者としての態度である。この場合、何故彼女のラジオを聴こうと思ったのか、個々の理由の差異を訊いて印象がどう変わったかちょっと教えて欲しいかなと思ったりもする。

ここを読んでるような人は「宇多田ヒカルとつけば何でも」という姿勢の人が多いだろうから、わざわざコンポーザーだからリスナーだからという区別もする必要がなく、ありのまんまを喰らい尽くせばいいだけなので難しく考える必要はない。しかし、彼女の創造する音楽にのみ注目している人にとっては「リスナー・Utada Hikaru」は違う人である。そのギャップに慣れれば、ラジオも素直に楽しむ事が出来るだろう。

しかし、いちばん大きなギャップを感じるのは、彼女の人柄に惹かれてここに居る向きかもしれない。そもそも音楽番組というだけでそんなに居心地がよくないのに、その上大半が洋楽で英語の歌とあっては、どうにもどうやらとっつきにくい。それでもヒカルちゃんが楽しそうに喋っているからいいかなぁ、と納得できればかなりの上級者だが、そう考えるとやっぱり日々の何気ない呟きは大事だろうな、と思う。ラジオとTwitterと、両輪をぼちぼち回していく事が、人間活動中の最大限のサービスとなる。今思えば、期間限定予定だったんだよなぁ…有り難い話やでホンマ…。

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EVAQの賛否両論の焦点は、要するに、新劇は序破で旧劇とは異なる娯楽性と完成度の高い活劇を構築していたのにも拘わらず、旧劇でみられた概念的で不透明な部分を再び取り戻した事だった。その為賛否と言ってもシンプルなもので、要するに旧劇版のテイストを受け入れられる派は賛、序破のテイストを引き続き期待した派には否となった、という事だろう。そういう意味においては迷いというか紛らわしさはない。

しかし、したがって、EVAQは、今まで誰も観た事のない新しいストーリーを初めて最初から提示した作品だったのに、観た方に良くも悪くも「昔に戻った」と感じさせた点が、疑問といえば疑問である。それでよかったのか、という点に関しては、次作を観てから判断するしかないが、そういうモラトリアムを与えたという時点で、"ひとつの独立した作品"としては、EVAQは問題作となる。

ここらへんの評価は難しい。例えば、前回取り上げた「魔法少女まどか☆マギカ新編:叛逆の物語」は総集編前後編を予め観ておかねばどういうストーリーなのかさっぱりわからない。それを指して「叛逆の物語は独立したひとつの作品としては評価できない」のか、というと、全くとは言わないまでもやや的外れであると言わざるを得ない。というのも、逆からいえば、総集編前後編を観てさえいれば必ず「新編が何を言っているのかが明確にわかる」という事は間違いないのだから。いや多少詰め込みすぎで一度観ただけでは理解出来ないかもしれない強烈な密度の作品ではあるけれど当然乍そういう話ではなく。

EVAQに関しては、そう言い切れない。つまり、「序破さえ観ていればこれが何を言いたかった作品かは理解出来る」のか、といえば、私は無理だと思う。つまり、価値判断の保留が次作に持ち越されてしまっている為、消化不良、中途半端なのだ。その点は否めない。私はそういう中途半端さも是認できる方なのでEVAQは優れた作品として気に入ってはいるが、やはり第1作第2作第4作~の存在がなければそんな風に言えない気がする。そういう意味において独立した固有の作品として評価するのは、ちょっと難しい。

そういう映画に対して、桜流しがどう作用したのか。前フリが(毎度の事ですけど)長くなってしまったが、勿論私がいちばん興味があるのはその点だ。

結論から言ってしまえば、序破とBeautiful Worldの"二人三脚ぶり"と較べると、やや桜流しの方が"先行"してしまっている気がする。それはまるで、Qのラストでシンジがアスカとレイ(仮)に引きずられていってる様子そのまんまな気もするが、歌詞にしろサウンドにしろ、Qの世界観からはみ出しているというか、実はこのエンディング・テーマが殆ど"次回予告"のように作用しているのではないかとすら感じる。何しろ破ではQへの次回予告が(結果的に、なのかもしれないが)フェイクにすらなっていたのだからEVAの次作に対しては何らの予断も許されないが、桜流しの強烈さは、そういった"騙し討ち"を悉く凌駕する気がするのだ。つまり、EVAは最早 こ の 歌 か ら 逃 れ ら れ な い のではないだろうか。次作の劇中で桜流しが流れるかというと違うかもしれないが、この歌で描かれてい
る風景に、必ずやEVAは"辿り着いて"しまう。そんな予感がするのである。

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「魔法少女まどか☆マギカ」のテレビシリーズ終了以来、この日記でもアニメの話題が格段に増えた訳だが、この度公開された新編「叛逆の物語」の続編らしい名作ぶりをみるにつけ、まだまだ勢いは衰えそうもないなぁと痛感するに至った。

アニメについて取り上げるのは、今の勢いが誰か天才に依拠したものではなく、業界全体が文化として隆盛を誇っていると感じたからだが、ますますその感じは強くなっている。時間経過につれ確実に制作側が様々な学習をし修正を施しクォリティーを上げている。勿論粗製乱造状態なのだが、なんだかんだでこういうのは作ってみないとわからない。それを下支えするだけの支持者が居る。羨ましいものだ。

隣の芝生は青く見えるというけれど、多分そうだろうな。「叛逆の物語」を見て、しかし、「EVAQに桜流しがあって本当によかった」と思ったのも事実だ。映画を観てないと何のこっちゃわからないだろうが、全部すっ飛ばして結論だけ書けば、扱っているテーマの普遍性に関していえば、他業種といえどヒカルに敵うパターンはなかなかない。こちらは、業界の盛り上がり云々に関係なく、個人の才能によって成功を収めている。孤軍奮闘というと言い過ぎだが、庶民にとって、宇多田ヒカルは"最後の良心"のうちの1人だろう。

業界全体が文化として栄えている時には、トレンドというのも大きな意味を持つものだなぁ、と私らしくない事を感じている。何しろ、アニメーションとは制作の都合上、どうしたって数百人単位で動くプロジェクトにならざるを得ず、従ってその全体を牽引するのにトレンドは強力なグルーたりえるからだ。個々人がただバラバラに個性を発揮してもまとまらない。監督の強力なカリスマが必要なのは勿論だが、時間的制約を考えるとやはりトレンドに"頼った"方がいい。

シンガーソングライターは真逆な存在だろう。自分の書いた曲と歌詞は総て手元にあるのだから、大事なのはそのまま強烈な個性である。彼らが流行に擦り寄るのは、成功する例もあるにはあるが、やはり期待されるのは時代に左右されないその人の個性である。大規模プロジェクトにはない強みといえるだろう。

しかしHikaruは…いや、これからの事はわからないか。現に、桜流しはJ-popのトレンドとは無関係な、EVAという作品と向き合ったのみの作風だった。一方で震災という時事性も頭にあったろうから素直な判断は難しいけれど。そして、EVAというコンテンツは一昔前のトレンドを作った化け物であり、Rebuildという手法を通じて、新しい境地に足を踏み入れようとしている作品だ。そこには庵野秀明という人の作家性が強く反映されているが、と同時にアニメーションという巨大プロジェクトならではのトレンドの影響も強い。様々なバランスの中で、ヒカルの歌は鳴り響いている。正直、どこが立ち位置かわからない。尤も、私からみればそこが世界の中心なので、迷っている訳ではないのだけれど。

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何度か書いてきた事だが、これもまたもう一度整理してみよう。Utada Hikaruの楽曲と日本語・英語の扱いの関係性についてだ。

まず、日本語曲を歌う時と英語曲を歌う時を基本的に分けるやり方。アーティスト名まで変えた宇多田ヒカルとUTADAはこれにあたる。とはいっても、シングルのカップリングに英語曲を入れたり、お互いの名義のLIVEで双方の歌を歌ったりといった事はあったが。

次に、日本語曲と英語曲を、分け隔てなく歌う、というスタイル。Utada Hikaru名義はこれになるんじゃないかというのがオーソドックスな予想だろう。別名義にするよりずっと両方の楽曲が密接になるだろう。LIVEもちゃんぽんである。

それともうひとつ、更に踏み込んだスタイルがある。完全にバイリンガルな楽曲を作ってしまう事だ。今までも日本語曲に英語を織り交ぜたり、英語曲に日本語を入れたり(コニチワ,サヨナラ~♪)してきたが、いずれもあクマで付加的なもので、それぞれ邦楽曲、洋楽曲の枠組みの範疇のものだった。しかし、このバイリンガル曲は、日本語と英語が均等に扱われる事を想定している。メイキングなどで、Hikaruが日本語で喋っていたと思ったら急に英語で喋りだし、なんだなんだと思っていたら今度はまた日本語で喋り出す、というのを皆見た事がある筈だ。あのノリを歌に持ち込んでしまうのだ。Aメロ日本語Bメロ英語サビは日本語と英語のコール&レスポンス、みたいな感じ。えらくせわしないねぇ。

という訳で、バイリンガルの歌うPopsと言っても、上記のように様々な状況が考えられる訳だ。ひとくちに、「これから名義を統一してUtada Hikaruとして活動していきます」と言っても、やはり今までと同じように、宇多田ヒカルな時期とUtada Hikaruな時期が交互にやってくるかもしれないし、その"交互"が、アルバム単位でなく曲単位になるかもしれないし、曲の中で起こるかもしれないし、結構わからないものなのだ。或いは、それらのハイブリッドも勿論考えられる。完全バイリンガルの曲、日本語曲、英語曲をいずれも対等に扱うスタイル。結構聴き手はついていくのが大変かもしれない。

そんな中で、例えば「日本語曲はシングル主体、英語曲はアルバム主体」なんていうやり方はどうかと提案したのだが、肝心なのは、日本でHikaruが英語曲を発売しても果たしてウケるかという点なのだ。レコード会社、特にEMIレーベルを外から見ている輩からすれば、Hikaruのミュージシャン・シップ云々を考えず、「無理して英語曲なんぞ歌わんでも日本で日本語売っとくのがいちばん確実に稼げるのに」というのが本音なんだと思うし、何より、ユニバーサルになってからはその声が多数派を占めるのではないか。ここで参考にすべきは、This Is The OneとSingle Collection Vol.2の売上である。それぞれの数字に、果たしてレコード会社内の外野連中は満足なのか。Vol.1とEXODUSはあれだけ売れたのに、と。その声は無視しても構わないものなのか、ちゃんと聞き入れないと立ちゆかなくなるものなのか、完全外野な我々には推し量るのも難しいのが歯痒い所。

結局は、Hikaruがどうしたいかなので、ここでこうやっても仕方がないのだが、母親は19歳にして「自分からあれがしたいこれがしたいというのはない。周りからああしろこうしろと言われて動く」と言い放った人物だったので、そのイズムをどれだけ受け継いでいるのやら、そこらへんにかかっているんだろうな。

何しろ私は元々、「何でマーケットを気にするの?」と思ってるので、「自由に作って発表すればいいじゃない。出来たものがどこで売れるかを見つけるのがマーケティングでしょ。」と理想論を言う事しか出来ない。Hikaruがバイリンガル、或いはこれからトリリンガルになる、というのならそれを含んだ作曲家として歌を作るまでだろう。悩む所はそこじゃない、と思う。でも、そんな考え方じゃない子だったから売れてきたんだよねぇ。ほんに、難しいわ。楽しいからいいけれど。

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前回はラジカルなロジックの進め方をした。熊と戯れてみた、じゃないや、態と戯れてみたのだ。でも、こんな帰結が出てしまう程、Utada Hikaruの世界契約には難問が多い。

同じ世界規模での活躍をしているミュージシャンなら、お馴染みDir en greyが居る。彼らはスタイルがあんななので、市場に合わせた音楽という主軸はない。あの音楽性に合わせた市場を吟味していたら海外でも受けた、というか、あのジャンルはそもそも国際的な活動が前提みたいなものだから、マーケティングやプロモーションでの気苦労はあっても、制作の根幹を揺さぶるような影響力はない。

Hikaruの場合、少なくとも今までは日本語曲と英語曲に関しては明確に線引きをしてきた。Simple And Cleanがその最たる例で、言語を変えるとメロディーが変わった。あれの場合寧ろ日本語か英語かというより歌詞の内容が影響しているようにも思えるが、それもこれも結局は歌詞を入れ換えた事が原因である。

となると、だ。仮に日本語曲も英語曲も分け隔てなくひとつのアルバムに収録するとしよう。第3の道ともいえる方法論だ。そうしたとすれば、今後元々日本語の曲の英語曲化や、元々英語の曲の日本語曲化は一体どうなっていくのか、と立ち止まってしまう。特にKingdom Heart 3のテーマ曲はどうなるか。恐らくこれは、従来通り英語曲と日本語曲の両方が作られるに違いない。となると、その曲をアルバムに収録する段になったらどちらを選んだものか非常に悩ましいだろう。実際、Simple And CleanとSanctuaryは、大袈裟に言えば"数奇な"運命を辿っている。一旦宇多田ヒカル名義で発表された曲が"移籍"してUTADA名義でもリリースされた。これは、契約のタイミングと、今と違い異なるレコード会社に所属していた事に起因した現象だったが、果たして現在であるならばどういう扱いになるだろうか。両方をアルバムに収録できる状態にはなったが、アルバムの作品性を考えるとかなり難しい。

Flavor Of Life Original Versionはボーナストラック扱いになった。あれと同じような感じになるのか。或いは、日本国内版と国外盤で扱い・曲順を変える事も考えられる。This Is The Oneは、Come Back To Meのヒットを受けて同曲を1曲目とした盤が幾つかの国で発売された。それ位の融通なら利くかもしれない。国内盤では英語曲をボーナストラックとし、国外盤では日本語曲をボーナストラックとする、というような。でも、それをするにしたら、最初の仮定である"第3の道"日本語曲と英語曲の混在アルバム、という方法論は何なのだ、という事になる。かといって日本語曲と英語曲を非ボーナストラックとして平然と収録するのも何か違うという気がするし…本当にこの問題、考えれば考える程わからなくなっていくなぁ。こうやってアーティスト活動休止期間を取っていて本当によかった。まだ準備はしやすいだろう。たぶんね。

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整理してみよう。邦楽の宇多田ヒカルの方は、2ndアルバム以降5枚前後のシングル盤を出した後にアルバム制作に取り掛かり、シングル収録曲と同数程度のアルバム曲を揃えてアルバムを作っていた。これは、単純に邦楽におけるサイクルを踏襲したものであり何ら特別な側面はない。一方、洋楽のUTADAの方は、一通り楽曲を揃えてから2曲ほど先行公開する形でアルバムを発表している。こちらも単純にアメリカ市場での習慣に則ったものだが、2枚ともそれぞれの理由でアルバム発売後のプロモーション活動が機能せず、「第2弾第3弾のシングルカット」という雰囲気は作れなかった。まぁここらへんは些か片手落ち(毎度お馴染み放送自粛用語)な感は否めない。

さて。では、と当然みんな考えるだろう、これからは一体どうなるんだ? ユニバーサルミュージック内の国際レーベルEMIと世界契約を果たして、一体何をどういう形態で発表するのか。今までもさんざシミュレートしてきたが、勿論の事何の結論も出ていない。出せる筈もない。何しろ、肝心のHikaruがどうしたいかを、誰も知らないからだ。もしかしたら、Hikaru自身も知らないかもしれない。

邦楽型でも洋楽型でも、どちらを選んでも恐らく「アルバムとしての作品性」は板挟みになる。日本語で歌うか日本語で歌うかで市場は変わり、アルバムの質も変化する。事前に余程綿密に計画を建てておかないと、自分が今一体何をしているのかわからなくなってしまいそうだ。

「アルバム」という単位は、アメリカ市場ではまだまだ根強い。配信の割合はあちらの方が大きくなっているらしいのだが、何故だか向こうがシングルチャート主体に変化しているという話はきかない。ここらへんは当地に住んでいない私にはわからないが、少なくとも「アルバムを楽しむ」という娯楽の枠組みは、アメリカではまだまだ健在な感じがしている。

私が「宇多田ヒカルの次のアルバムはSingle Collection Vol.3になるのではないか」と言う時、それは邦楽市場のみを想定した物言いである。洋楽作品を作る事は想定していない。なので、例えば、だ。ひょっとすると、Utada Hikaruは、日本語曲はシングル盤で出し、英語曲はオリジナルアルバムでまるごとどんっ!と提供する、なんていうサイクルを持つようになるかもしれない。いや、"サイクル"って単語がいちいちいちばん当て嵌らない人ではあるんですがね。

そうすると、色々とやりやすいのではないか。日本語曲のアルバムは、シングル曲が揃うまで待つ。英語曲は、アルバムでたっぷりと楽しめる。何より、こちらがわかりやすい。ツアーは、その都度いろんなバランスでやればいい。In The Fleshだってあれだけ日本語曲を歌ったのだからその時のコンセプト次第だろう。

そうなると、しかし、勿論、「日本語のアルバム曲」の名曲が、誕生しなくなる。これはとても痛い。例えばテイク5が生まれてなかったらと思うとゾッとする。なので、今まで通り、名義だけ統一して、日本語曲盤と英語曲盤を交互に出していくのが現実的な路線か。何より、いちばん収益を上げるのが今のところ「日本語曲アルバム」なのだから、レコード会社はこれを必ず作れと言ってくるに違いない。しかし、本当にそんな感じの活動でいいのかな。世界には、英語で歌うHikaruを待ち望んでいる人、或いはこれからそれに魅了され得る人々が、やまのように存在しているというのに…。この問題、まだまだ終わりそうにない。活動が始まってないんだから当たり前なんですがね。やれやれ、だ。

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なんでまぁこう延々とポール・マッカートニー御大の話を続けているかというと、大局的・総合的な意味においてこうやってHikaruの参考になる・尊敬できるミュージシャンが世の中には極端に少ないからだ。P.J.Harveyの話をきいて私が喜んでいたのも、Hikaruにそういった存在が現存する事を知れたからである。

アルバムという"単位"については、過去に結構話してきたのであんまり繰り返さない。Hikaruの次作はもしかしたらオリジナル・アルバムすっ飛ばして「Single Collection Vol.3」になるかもしれない、という結論だった。アルバム・アーティストとしてみられている割に、アルバムの作品性という点に関しては、シングル曲の大ヒットがいずれも存在感強すぎて霞んでしまっている印象なのである。

確かに、制作途上でそのアルバムの作品性という観点からも曲作りに取り組んでいる風は垣間見れる。HEART STATION制作時、最後の締切間際に"しみったれたバラード"とやらをお払い箱にしてCelebrateを突貫工事で仕上げた話は記憶に新し…って書こうとしたけどもう5年以上も前の話か…。

なので、今までのHikaruのアルバムは、てんでバラバラなシングル曲の合間を"アルバム曲"で埋めてひとつの作品にまとめあげられていた、いう風な言い方が出来ると思う。違う言い方をすれば、アルバム制作というプレッシャーがあったからこそ生まれてきた作風もある訳なのだ。シングル曲ばかり作っていると、そういった面が失われてしまうのでは、という懸念もある。

最近はどうか知らないが、洋楽ではまずアルバムを作って、そこから順次シングルカットをしていく、というのが伝統の手順だった。その為アルバムがロングセールを記録した。邦楽では、まず何曲もシングルヒットを出してから、ヒット曲満載ですよとアルバムを出す。よって初動重視型。そういった違いがあった。

これを当てはめて考えてみると、アルバムアーティストとしての方向性について眺めてみる場合、宇多田ヒカルのアルバムとUTADAのアルバムで区別する必要がありそうだ…という話からまた次回。

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ポール・マッカートニーの何が凄いって「曲」とは何か、「アルバム」とは何かについて、深く深く理解している事である。

何らかのアイデアに気がついた時、何がどうなったらそれが「曲」になるか、「曲」としての顔を持てるか。そこを解っているからどの曲も個性的で、存在感がある。音楽的アイデアがひとつの楽曲にいつ"なる"かを見極めるのは大変難しい。そうやって出来上がった楽曲は余りにも自然にあるべき姿をしているので、何もない所からそこに着地したプロセスになんてリスナーは思い及ばない。しかし、この曲は間違いなく、誰かに書かれたのだ。

何だか抽象的でわかりづらい話になっているが、それ位に御大の凄みというのは控えめで玄妙である。出来上がったのが何の変哲もないポップ・ロック・アルバムであるから余計にだ。実にさりげない。そこが凄い。

そこまではまだいい。「曲」という単位に関しては、もう人類は何万年も取り組んできた。しかし「アルバム」となると話は違う。それは即ち「曲集」或いは「小曲集」であり、幾つかの独立した楽曲を集めてそれをひとつの作品と見做す"習慣"である。我々はその文化に慣れきっているが、原点に立ち戻って、何がどうなったらそれがひとつの作品としての"アルバム"に"なる"、のか。これは「曲」以上に、いや、遥かに難しい。

御大は凄い。この新作「NEW」でも、ひとつひとつの楽曲を独立した存在として扱いつつ、それらまるで異なる楽曲群が丁寧に絡み合って、ひとつの単体としての「アルバム」という作品を作り上げている。やってる事は5歳児でも親しみやすいシンプルでポップなロックなのに、なんかこんな大仰な事を言いたくなってくる。

繰り返しになるが、このアルバムにはThe Beatles時代のような突出した名曲もないし、別にそんなに大ヒット曲になれるポテンシャルのある楽曲もない。しかし、聴いているとそのカラフルな楽曲群のバリエーションに魅了されていき、最終的に全曲聴き終わった時の「満足感」「充足感」は、他では得られないものだ。そして、言うのである。「アルバムってこゆんだろな」って。何気ないが、これを言える作品に出会える事は滅多にない。

ただ、歴史を紐解いてみれば、御大がそのような作品を作れるのは必然である。何しろ、シングル盤主体だった音楽業界を一気にアルバム主体に変革したのが後期The Beatlesだったのだから。「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」で、"コンセプト・アルバム"或いは"トータル・アルバム"という手法を世に知らしめた。別に彼らが最初という訳じゃないだろうが、実際に最も大きな影響力を発揮したのはThe Beatlesである。彼ら以降、特にロックバンドは「名曲」よりも「名盤」を作り上げる存在になってゆく。

であるならば、御大が「アルバム」というものを作るのにこの世で最も秀でていたとしても驚くにはあたらないという訳だ。アルバムという手法を開拓したオリジネイターの1人、しかもその代表格なのだから。


私は前々から言っているように、配信購入が普及すれば「アルバム」という単位より「楽曲」という単位の方が強くなっていくだろう、と考えている。着うたでも歴史に残る大ヒットを飛ばした宇多田ヒカルにおいては、アルバムはおろか楽曲という単位すら崩壊させて数十秒のフレーズで世間に親しまれた。一方で宇多田ヒカルはシングル盤の売上に対してアルバムの売上が大きい事から世間一般では「アルバム・アーティスト」と見做されている。では、実際のところどうなのか、ポール御大のように、「アルバム」という単位において作品性を自立させる事が出来てきたのか。次回、入念に検証してみよう。(あクマでも予定…)

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ポール・マッカートニー御大の最新ソロアルバム「NEW」がオリコン総合チャート初登場2位を記録した。彼自身にとっても31年ぶりだったり43年ぶりだったりするらしく、市場としても史上最年長でのTOP3入り。今回は来日公演も間近に控えているとあってレコード会社も気合い入って留なぁという印象だったが、ここまで来るとは驚きだ。尤も、2.3万枚という事らしいから宣伝費考えたら赤字かもしれんが。来日公演で荒稼ぎするからOKなんだろう。この何倍もの人間が押し寄せる。新譜中心の選曲だったらどうするんだみんな。

そうなのだ。そんな心配をしたくなる程、新譜は現役感が強い。確かに、いつもどおり、曲のクォリティーはThe Beatlesのアウトテイク程度なのだが、この「年齢を考えさせない感」は凄い。「年齢を感じさせない」と言う時は「年齢の割にはまだまだ若々しい」という意味だったりするが、今作は、作ってる方も自分の年齢なんて頭になかったんじゃないかと思うほど徹底して普通である。完全に「また出た新作」でしかない。作風のバラエティーは広いが、集大成と呼ぶほど肩に力が入っていない。何も聞かずに聴かされたら、これが70歳を過ぎたお爺ちゃんが作った作品だとは全く思わない。無理して若作りする事もなく、自然に普通のアルバムを作れる。何とも凄い。

先述の通り、曲のクォリティーが飛び抜けて高い訳ではない。しかし、この魅力は本当に抗い難い。「The Beatlesと較べて云々」という無茶を言わない限り、洋楽ファンが彼のこういった作品を否定するのは難しいだろう。嫌われないアルバム。そう言ってもいいかもしれない。

普通、そういう八方美人な作品を創ったらどうしても最大公約数的になり、箸にも棒にもかからない、帯に短し襷に長しなものが出来上がりそうだが、彼の場合基本的な作曲能力が高い(って人類史上最高クラスなんだが)為か、そうやって導き出した最大公約数が物凄く大きな値に落ち着くのだ。馬鹿デカい素数。誰にも割って入れないオリジナリティの持ち主とでも言うべきか。

この凄みは、音楽を沢山聴いてきた人程感じるものなのではないか。この、さり気なくPop Musicとして成立してしまってる感覚。このアルバムは誰でも気軽に楽しめる。しかし、いざ作ろうとなったらこんなに難しいものはない。どうやったらこんな作品になるのだろう。どこから手をつけたらこう成るのか、皆目見当がつかない。Legendary, Historicalだからといって、威圧感はなく親しみ易いのに、冷静に考えると真似できない。何とも不思議な、言ってみればcuteなアルバムである。

この作品からHikaruが学べる事は多い、という話からまた次回。(てか本来それがメイン)

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笑っていいともが来年3月で終了するんだってねぇ。増刊号ですら見なくなった身としては「寂しくなりますね」なんて口が裂けても言えないが、私は多分前進番組の「笑ってる場合ですよ」をリアルタイムでテレビで観ていた最後の世代なので(当時4~6歳)、それを思うと感慨深いものがある。

当時の「笑ってる場合ですよ」のメンバーは吉本カラーが濃く、関西(と東海)のテレビで育った身としてはすんなりと馴染みやすい番組だった。漫才ブームの中核を担っていた人たち即ち関西圏のお笑い芸人主体の番組からタモリの抜擢というのはこちらからすればやや奇異にすら感じられた。

当時の彼は私には「今夜は最高!」のイメージが強く(何故幼稚園児が深夜23時の番組を知っていたのか結構不思議なのだが。そもそも関西でネットしてたっけ、読売テレビだぞ)、大人向けの音楽バラエティーをやってる洒脱かつ冗談のキツい人、という感じに受け止めていたから違和感は強かった。そもそもこどもにわかる笑いのセンスでもないし。そうやって始まった「笑っていいとも」は初期こそ前番組の「笑ってる場合ですよ」の色を引きずっていたが、直に東京カラーが強くなっていき、当時の私の言葉を借りれば、「関西テレビの番組からフジテレビの番組になっちゃった」のだった。何でもいいが6歳かそこらで「ネット局」という概念が頭に入ってるって当時の私が猛烈なテレビっ子だった事実を如実に表している事よなぁ。

その、キー局らしい「メジャー感」を出したタモリの功績は大きく、ご覧のように31年半も続く超長寿番組となった。様々なコーナー、様々なタレントが入れ替わりたちかわり登場したが、"森田一義アワー"という名そのままに、この番組は結局タモリの才能で延命してきた点に異論を唱える向きは少ないだろう。

私にとっては、この番組はタモリという人を学ぶ場でもあった。初期の頃は鶴瓶が何か言おうとする度に横から潰しにかかるので「ふざけたグラサンだなぁ」と思っていたものだったが、その横道逸れっぷりがさんまと化学反応を起こすのを観て「これでいいんだ、へぇ」と感心するようになった。彼のスゴ味は、こどもにはなかなかわからなかったのだ。

言い直してみれば、タモリを楽しめるようになればそれは「大人」なんだという事だった。「こどもなんて大っ嫌いだ」と言う彼に対してこどもだった私は…

…いかん、これじゃ彼が死んだみたいじゃないか。話の矛先を変えよう。

笑っていいともでいちばん印象的だったのは勿論ヒカルの初登場の回と照實さんが出た回だろう。むっちむちの露出バディに釘付けになり「ハプニング起これ!いや起こるな!」とよくわからない興奮状態になっていた事が昨日のように思い出される。変態で悪かったな。

そして、やっぱり2002年の照實さん代打回は、ヒカルの容態が心配でならず気もそぞろけんもほろろ(それは違うヤツや)な状態だった。観客を150人入れての生放送のトークコーナーという事で、その時その時のヒカルの世間での扱いみたいなものが露骨に出る番組だった。あれ、そういえばヒカルって徹子の部屋には出たことないんだっけ。年末のタモリは必見なんだがなぁ。関係ありそうで関係ないけれど。

残念ながら、あと半年という事ではHikaruがテレフォンショッキングに登場する望みは殆どない。人間活動中は「声は届けても姿は見せない」のが基本だったから。過去形になってしまうのが切ないのだけれど、そういう例外的な事情を除けば、やっぱり無いだろうなぁという予測になる。代わりに照實さん行かない? まだ2人ともネームプレート持ってるよねぇ。

仮に万が一出る事になったら(それはつまりこれからの半年の間にHikaruがアーティスト活動を再開するという意味だが)、是非2人で「亀仙人とクリリン」のコスプレをして欲しいものだ。タモリが亀仙人やったらヒカルはクリリンやってくれるらしいから、是非。ずっとイグアナやってたんだから爬虫類になるのはお手のものだろう。いや甲羅だけか…。

まぁ2人の共演はこれからもミュージックステーションなんかで期待出来るだろう。残念なのは、そこに生出演して名前を間違えるべき他局の音楽番組がもうどこにも残っていない事なんだが。


このまま続けていても取り留めがなさそうなのでここらへんで切ろうか。本当はポール・マッカートニーがオリコン初登場2位を記録したニュースについて触れたかったのにこんな事になってしまった。そっちの話は長くなりそうなのでまた次回と致しますかいね。

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