無意識日記
宇多田光 word:i_
 



じゃあじっくりLUV LIVEから行こうか。間もなく公演自体からも15周年だしな。

まずは一曲目、甘いワナ~Paint It Black~から。

このライブ・テイクの特徴は、ヒカルのリズムが上擦り気味な事だ。まぁこの曲のアッパーぶりからすればそれ位で丁度いいんだが、基本的にリズムから遅れて粘り気味に音符を乗せていくいつものヒカルのスタイルからすれば、この曲は珍しい例といえるだろう。

理由としては、単純に緊張してた上興奮しちゃったからだろう。イントロからスタジオ・バージョンと同じフェイクを交えながら『すげー!』って「お前は観客か」と突っ込みたくなるテンションで叫んでいる。(この時の弾ける笑顔が堪らない) ヴィニー&ニールのリズム隊が非常に正確・ジャストなので(特に、ヴィニーのアウトロにおけるプレイは一瞬で裏と表を切り替えながら一切リズムがぶれない彼お馴染みの「なんだ神か」的な神業技術の片鱗を控えめに見せてくれている。スタジオバージョンのアウトロと聴き比べてみよう)、ヒカルがやや前のめりなのが余計に目立つ。スタジオバージョンではキッチリ決めてくるヴァースの混合拍子フレーズ(「いーつもあぶない」と「そーんなあなたの」)も、ややアタックが弱く効果が薄くなっている。「逸るな逸るな」と諌めたくなる感触だ。まぁ、この曲に限ってはヴォーカルは突っ込み気味位で正解なので、これでいいんだが。一番のサビ最後でリズムだけでなく音程も上擦り気味になるが、そこからのオリジ
ナル・フェイクによるフォローが素晴らしく、メロディーの印象を綺麗に纏めている。ライブ経験の数からいえばこのアドリブ力は天性のものとしかいえない。なんちゅうシンガーか。

アドリブといえば、この曲のハイライトのサビである。メインのフレーズを総てマニピュレーターからのバックコーラスに任せて全部アドリブで駆け抜ける。初ライブのオープニングならではの初々しい高揚感の中でこのパフォーマンスはもう度胸満点と言わざるを得ない。しかし、本当のハイライトはストーンズのパートに入る前、キーボードによるホーン・セクションに合わせてワンフレーズだけ『タッタッタラッタ』とユニゾンをかます場面だ。この時に感じられるいたずらっぽさと楽しさがコイツの真骨頂なんだと思う。いやぁ、一曲目から痺れさせてくれるぜ。

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さて、気分としては今日から新年度。笑っていいともは今日で終わるんだっけ? タモリさん、長い間お疲れ様でした。

どんな番組もそうかもしれないが、最初はこの番組が32年だかという長寿番組になるだなんて思いもよらなかった。前番組のタイトルが「笑ってる場合ですよ」で次が「笑っていいとも」。作ってる方も半年もてばいい、くらいのテンションだったんじゃないか。それをここまで持ってきたタモリは本当に凄い。

継続は力なり。どれだけ最初くだらないと思われていようが、最終的に生き残れればこうやって賞賛を集める。いやそればっかりがいい訳じゃない。原節子や山口百恵のように、スパッと辞めて一切姿を現さないのもそれはそれでひとつの生き方だ。宇多田ヒカルは、これからどうするのか。

こういう、過去を振り返る企画が出てくるというのはベテランミュージシャンの宿命である。年月を重ねれば重ねるほど、ライバルとは同世代のミュージシャン以上に、過去の自分の業績となる。ファンの方も、年月を重ねれば重ねるほど、昔はよかったと繰り返し、過去の名曲に固執していく。ずっと現役感を出して新曲で勝負し続けるのは至難の業だ。

一方で、過去を振り返る事で今現在の創造性を触発する事もある。Hikaruが今回どれ位自分の音源を振り返ったかは定かではないが、Demo音源の選定を通して、今までの15年間でどれだけ自分が成長したのか、そして、それと共に失ってしまったものはあったのかなかったのか、あったとすればそれは何だったのか、頭の片隅にでも、そういった論点が浮かんだのではないか、そんな風にも思うのだ。完成品ですら普段振り返る事が少ないHikaruなので、作りかけのトラックを振り返るだなんてもっとレアな事だろう。こういう企画でもなければ、一生封印していたかもしれない。つまり、こういうのは、ファンにとって意義があるのみならず、ミュージシャンにとっても創作上の転機になり得る。

具体的にそれはどういう効果をもたらすのか―それこそ、次の新曲が出来上がるまではわからない。本人ですら、作ってみて初めて影響が出ていた事に気がつくかもしれない。まるで「テイク5」の最後の歌詞が「今日という日を素直に生きたい」と書いた事で自分が「生きたい」んだと気が付いた時のヒカルのように、出来上がってから眺めてみて気がつく事も、多いのだ。

その視点に立ってみると、過去の自分の音楽というのは、他者の作った音楽と何等変わりなく、同じように聴いた今の自分に影響を及ぼすものなのだともいえる。熊淡でAutomaticをかけて昔を振り返った時のように、他のアーティストの曲と並べて並列に列んで味わうものになりつつある。過去の自分の楽曲というのは、殆ど他人の作ったもののような、それでもやっぱり今の自分の一部のような、不思議な間隔に陥るものだ。この振り返り企画が軌道に乗って以降の名盤たちも再発される事になれば、Hikaruのキャリアはまるで螺旋を描くかのように前に進んでいく事になるだろう。楽しみですな。

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年度末かー。まだ来週の月曜日は3月とはいえ、気分的にはそこから新年度スタートだよねぇ。

今年に入ってからというもの、向こうがリマスターだSHMだハイレゾだと言うものだから、こちらも柄にもなく音質に拘ってしまっていた。いかんいかん。私が絶対にならないと決めているものが(取り敢えず今思い付いたもので)3つあって、ゲーマーとコレクターとオーディオ・マニアなのだ。

その3つが嫌いな訳ではない。全く逆である。どれもやりたくて仕方がない。だから止めておくのだ。私がゲームを始めれば間違い無く廃人まっしぐら。週末には食糧を買い込んで一切外に出ないだろう。週末だけで済んでいるならばよいが…(苦笑)…という訳なので、キングダムハーツやってみたくて仕方がないのだが、ハナからプレイは切り捨てて、Youtubeでエンディングだけ見て済まして早12年なのである。次のキングダムハーツ3もきっとヒカルが歌うだろうから何とも歯痒いが、これもハナから切り捨てて誰かがクリアーするのを待つとしよう。

2つめのコレクターも、正直羨ましい。財力が無いというのが一番ではあるが、それと共に、これを追究するのは生半可な覚悟と手間と時間では済まないのがわかっているからだ。「コンプリート」という言葉には憧れがある。宇多田ヒカルだけで済めばいいのだが、多分私の事だから"タガが外れて"しまえば、アイアン・メイデンのブートレッグをコンプリートしにかかるだろう。一生が潰れる事決定である。てか、"宇多田ヒカルだけ"だって、一生涯じゃ絶対に済まない。兎に角怖いので私は手を出さない。@Mikihhi が居てくれて本当によかった。また彼の家を訪問したいものである。

そしてオーディオ・マニアだ。これも資金力が最大の問題なのだが、今回のFL15リマスタリング騒動(?)で痛感した。こいつはイイ音を追究し始めたら借金も自己破産も厭わないだろうと。真の廃人確定である。これではいけない。なのにMTV UnpluggedのDSD版が存在するだと…やめてくれぇ…

という訳で、この年度末を以て私の中の"音質厨"っぷりはある程度封印する事にしよう。今後Hikaruの作品がハイレゾで販売されたら買うだろうが(買うのかよ)、それ位で留めておくことにする。


そうやって、私が羨んだり憧れたりする立場を離れていちばん拘りたいのは、何といっても「いい曲」である。Hikaruの事は、何よりもソングライター/コンポーザー/作曲家として尊敬しているし、大好きである。そして、Hikaruの作ったいい曲は、1000円で買えるAMラジオや投げ売りのMP3プレイヤーで聴いてもいい曲なのだ。ゲームに感動を増幅して貰う必要もない、グッズを翳す事も要らない、高音質なんてクソ食らえ、いやいや、音質どころか、MIDIでインストを聴くだけで感動出来るのがHikaruの音楽だ。昔携帯で着信音を手打ちした事がある人なんかだと知っていると思うが、彼女の描くメロディーは、歌を伴わなくてもそれはそれは美しい。無意識日記としては、まずそれを第一に讃えたい。そして、そこに作詞家Utada Hikaruの書く歌詞を載せて、歌手Utada Hikaruが歌う事で「いい歌」が完成する。まず何よりもそこにこだわろう。その自戒を以て新年度を迎えたいと思います。

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明日で甘酔の再放送も終わりかと思うと、何だか切ない…と言う間もなく旋風のようにこの番組は駆け抜けていった気がする。30分番組の癖にやたら曲をかけるのでトークの方が添え物みたいな構成だった為、また、その添え物のトークもまさに放課後の女子校生そのものといった感じで、この頃既にテトリス名人だった事に違和感が…なくもないか、そんなもんか(笑)、まぁそんな感じだったので特に内容について語る事もなかったが、15年前のあの頃、僅か半年の間にどれだけ状況が激変したかが手に取るようにわかる…事が殆どない(笑)、まさに、本人が言ってた通り「一枚売れたくらいで変わっちゃう人なんているの!?」を地でいく、売れる前も売れた後も殆ど変わる事のないマイペースさ―如何に、本人にとって「売れる」という事が他人事であったか、彼女にとってそれは、周囲に煩わしい取材陣が急増するだけであってこの時点では全く何のメリットもなかったのではないか、もしかしたら、本気で「売れたことのメリット」って、この
次の4月に間違いなく超高額ギャラのヴィニー・カリウタ大先生を雇えてデビューライブを華々しく成功させた事が初めてだったのではないか、そう勘ぐりたくなるくらい、まぁずっと第一回の印象のまんま、クソ小生意気なガキんちょのまんま、半年間が過ぎていった事が伺えて、実に楽しかった。

明日は1999年3月21日と3月28日放送分。二週分ずつ放送という事で、途中何度か回を飛ばしつつ、一週ずつ季節を詰めていって、最後に漸く…一日だけ日付が追い付かないまま(笑)、最終回を迎える訳だ。今年になって、何ピースマックナゲットを食べた事やら…途中からテリヤキマックまで加わりやがって…それも楽しかったからいいけどね。

熊淡の最後にHikaruが、今後のラジオの在り方について一言語っていたが、意地悪な見方をすれば、そういった状況が改善されないのなら、暫くラジオの世界には戻ってこないよ、といった宣言にもとれる。意地の悪くない見方をすれば、そういった問題が絡んでこない状況を準備する用意が今後あるよ、というサインともとれる。例によって、きっと、本人は思った事を口にしただけなんだろうが、まだラジオから気持ちが離れた訳ではない、というのが、意地のよくもなくわるくもない中立的な解釈だと思うので、また次の番組を待つとしようか。




…でもその前に「トレビアン・ボヘミアン」の再放送だよな…(ボソ

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「実は本物の方がやる気がない」みたいな書き方を前回はしたが、多分そこらへんを日本人(?)は勘違いしているんだろうなと思う。他分野は知らないが、こと日本の商業音楽市場史上の精神構造的な問題点は、模倣の方しか評価されない、いや出来ない事にある。そもそも、本物の生まれてくる過程を知らないのである。

まず間違い無く、LED ZEPPELINが日本に誕生しても誰も評価出来なかっただろう。音楽だけでなく、評判まで輸入して初めて、この国の市場は動き出す。

何故、宇多田ヒカルのような「本物」が評価されたか。これは、未だに私も全く理解出来ない最大のテーマの一つなのだが、考えるに、大きく分けて2つある。一つは、出てきた途端に完成度が異常に高かった事。14~15歳にして、本物として生まれてくる過程の途中ではなく、既に他の大人達も太刀打ち出来ない、年齢など全く関係なく音楽の質が高かったのだ。まぁこれに異論を挟む人は居ないだろう。

もう一つは、まるで矛盾した言い方になるが、まだヒカルがオリジナルなアーティストとして完成されていなかった事、だ。ヒカルの音楽的な金字塔はまず2002年の「DEEP RIVER」アルバムであり、その前はまだ未熟である。しかし、だからこそ"付け入る隙があった"とも言えるのだ。それがR&Bへのカテゴライズであった。

これは、歴史の偶然と言っていいかもしれない。もしヒカルが「DEEP RIVER」でデビューしていたら、あんなに売れなかっただろう。クォリティーの話ではない。あんな作品を、どう売り出せばいいかわからなかったのではないか、と仮想するものである。その実例が「EXODUS」で、何を思ったかエルトン・ジョンが名を挙げて評価を与える程の作品であったのに、当時のレーベルは完全にプロモーションを諦めていた。「匙を投げた」と言ってもいい。

ヒカルのデビューは違ったのだ。折しも、1998年は日本でもR&Bの人気が出始めたかな?という時期。今振り返ると、MISIAのデビューは本当に大きかったと思う。つまり、機運があったのだ当時。話のポイントはここである。「R&B」というジャンルは(一応若いファンに向けて言っておくが、R&Bという音楽は甘酔でヒカルが言っていたような"リズム&ブルーズ"とはもうかなり別物である。確かに言葉としてのR&Bはリズム&ブルーズの略なのだが、違うのだ)、既に欧米で評価されていた。ここが大きい。ただ音楽を輸入するだけでなく、そのジャンルのイメージも一緒に輸入するのが日本流だ。98年頃には、R&Bはカッコいいというイメージが出来つつあった。そこに宇多田ヒカルが乗っかったのである。

何故そんな事になったかといえば、そう、ヒカルにサウンド・メイキングに対する明確なコンセプトがなかったからなのだ。だからこそ、周りを固めたアレンジャー達は、当時流行っていたR&Bのサウンドを少しばかり取り入れた。実際の調合配分は重要ではない。R&B云々というイメージをつけて売り出せるだけの色づけがあればよかった。三宅Pによれば、R&Bをやっているつもりはなかったというから、売り出すと言ってもレコード会社の戦略ではなかったようだが。

つまり、本物のミュージシャンが本物として未完成であったが故に、そこに「似せもの」を紛れ込ませる隙があった。そして、日本人(?)は本質的に、そっちの似せものの方しか(アプリオリには)評価出来ない。評判ごと輸入する必要があった。そうやって、本物がちょっとした似せもの感を纏う事で売れまくったのがこの「First Love」アルバムなのだ、と思いながら豪華盤の4枚組を聴いてみれば、ちょっと違った感じに聞こえてくるかもしれない。そして、すっかり本当の本物になってしまった宇多田ヒカルの現在の感覚で振り返るインタビューの中身にも、より共感を覚えられるのではないだろうか。

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「本物と偽物」というキーワードが最近勝手に目につくので、それについて書いてみようかな。

偽物、ニセモノというのは文字通り「似せ物」であって、何かを参照して作られたものを指す。本来それだけの話で、それ以上の事はない筈なのだが、人の創作物を偽物呼ばわりすると恐らく名誉毀損になるのだから、何らかのネガティブなイメージが本質的にまとわりついている事は疑いがない。

似せる、という行為はただのコピーとはちょっとばかし違う。本当に"本物"と寸分違わず作られたモノは最早偽物と呼ぶのは憚られる。実際、外から見て区別のつかないコピーは、有り体に言ってしまえば本物である。

美術品の贋作があれほど問題になるのは、それが普通は本物と区別がつかないからだ。私なんかはそれならそれでいいじゃん、と思ってしまうが、鑑定家が躍起になる程、真贋の鑑定というものは重要視される。

「似せる」という行為は「似る」という状態とはかなり異なる。そこに作為があるかどうかだ。

宇多田ヒカルは常に「本物」として扱われてきた。後続の人が「あれお前のパクリやん」と糾弾されるからには、ヒカルはオリジナルとして扱われているのだろう。確かに、ヒカルが何かの偽物であったとして、それが何に似せたものなのかはさっぱり定かではない。

理由はあっさりしていて、ヒカルが何かを作る時、特に何かを参照したり参考にしたりする事がないからだ。何故彼女がそんな風なのかといえば、特にあれがやりたいとかこれがやりたいとかいう欲望が、創作の事前にないからだろう。

人は夢を見る。「売れたい」とか「お金持ちになりたい」とか「あんなバンド組んでみたい」とか。その時人は、その時売れてる人、お金持ちな人、バンド組んでる人を参照する、参考にする。自分を彼らに似せていこうとするのだ。

ヒカルは、特に音楽活動をするに際して、そういったものがない。日本語でアルバムを制作したキッカケは、今回三宅Pが語っていたように、彼がそう提案したからだ。そしてその時、ヒカルは日本語の歌に関して「ママの歌以外まともに聴いた事がない」と言っていたそうな。そんな状況で最初に作られたのが、STINGのShape of My HeartをフィーチャーしたNever Let Goだった訳だ。恐らく彼女がこの時点で参照したものがあるとすれば、邦楽以外の日本語の経験であった事だろう。

何かを目指していなければ、何に似せる事も出来ない。本物というのは、実はただそれだけの事である。ヒカルの、ある意味での「やる気の無さ」が、最終的に皆が本物と崇める創作物に結実する。面白いものである。

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うむー、火曜日の朝から書き始めたからってIn My Roomを選んでみたが、time will tellとかの方が聴き比べ所が多いではないか。でもま・いっか。

LUV LIVEのヒカルの歌唱の特徴を抽出する為に、スタジオ・バージョンに引き続き聴き比べてみたのが皆さんお馴染みボヘサマ・バージョンだ。…今気が付いたが、間にNatural Breezeがあるではないか。まぁ今回は置いておこう。

ボヘサマ・バージョンを聴いてまず感じたのはそのライブ・シンガーとしての成長ぶりだ。LUV LIVEでもしっかり歌っているが、やはり千葉マリンでの歌唱の余裕綽々さには及ばない。

「ライブシンガーとしての成長」と書いたが、ここには大きく2つの軸がある。ひとつは、ヒカルのシンガーとしての人生全体における成長。そしてもうひとつが、ツアーをやっていた2ヶ月の間の成長である。

前者の"成長"は、経験として蓄積される為彼女が生きている限り蓄積される。しかし後者の"成長"は、言い換えれば"慣れ"の事であり、ツアーが終わって間が空くとリセットされてしまう。

つまり、2ヶ月間で20回も2時間3時間のライブをし続けていると、身体がショウ全体の流れを覚えてしまう為、よく考えなくとも次から次へとステージ上での振る舞いが出来てしまうようになる。ボヘミアンサマーのDVDに映っているヒカルはまさにそれである。俗に言う"自動運転"、即ち"Automatic"である。つまり、最初は意識的にしていた活動を、無意識的に出来るようになる訳だ。

これが、自転車の乗り方であればリセットされずに一生残るのだが、セットリストの入れ替わった新しいライブツアーだと、その都度新しく覚えていかなくてはならない事がある。

例えば、ヒカルは今や"Automatic"をライブで歌うのは簡単である。元々レパートリーの中では歌うのが簡単な曲だが、それに加えてヒカルの身体がこの曲を覚えてしまっている為、新しいツアーが始まってもカンを取り戻すのは容易である。実際、WILD LIFEなどは2日間しかなかったにも関わらず見事な出来映えだった。

で、だ。これは歌手に限った事ではない。演奏陣も同じである。千葉マリンでの演奏は皆さんもう殆ど自動運転になっていて、もう余り何も考えなくとも身体が勝手に音を奏でてくれる状態になっている。この余裕の有る無しが、テイク全体の印象を左右している為、正直リズム隊の面子の違いによるサウンド云々というのは、少しわかりにくいかもしれない。出来れば、ヴィニー&ニールにも2ヶ月間ヒカルとツアーしてもらって、楽曲に慣れ切った状態でショウを撮影して欲しかったかもしれない。

それを考えると、LUV LIVEの上出来さ加減は改めて驚異的であるように思う。集まったミュージシャンたちがプロフェッショナルだったというのも大きいが、それを可能にしたギャランティーの大盤振る舞いが凄い。やはり、売れたら音楽のクォリティーを上げられるのだ。売れるっていいねぇ。

いや勿論それはヒカルの歌唱力あってこそ、という大前提ありきの話ですからね。それにしても、今回は話がいろんな道に逸れまくったな。結局In My Roomの話をしなかったし。でもま、いっかな。

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radikoがエリアフリーになるのか。有料という事だが、普段NHK受信料をラジオ受信料のつもりで払っている身(利用時間20倍以上だからねぇテレビ:ラジオ比)としては抵抗はない。地方局で放送されている良番組をリアルタイムで補足出来るのは有り難い。そうか、ゆりゆららららゆるゆり放送室がラジオ大阪で聴けるようになるのか…って今でも響と音泉ですぐ聴けるんだけれども。

そうなのだ、radikoのやっている事は大きなマイナスが少し大きなマイナスになっただけで、相変わらず"余計な事をしている"のにかわりはない。ラジオなんてWebストリーミングで十分なのだから、エリア制限をする方が難しい。オンラインで著作権使用料を払う仕組みが作られさえすればいい。

いやそんないつもの話はいいや。一点だけ。望みは薄いが、RadikoにもしAFNが加わったら大変な人気になるのではないか。私ゃ有事には戦闘機だか輸送機だかの騒音に悩まされる場所に居るのでAFについて良い感情を持っている訳ではないが、それと洋楽満載のプログラムとは別の話である。音楽は関係ない。洋楽ファンは全国でAFNを聴くようになるのではないか。望みは薄いけど。

6年前の今頃は、HEART STATIONの恐るべき充実度に圧倒されていた時期だった。このSTATIONという単語、シングル盤のジャケットデザインの通り、駅というより局という訳がより相応しいが、ラジオを中心としたプロモーションを展開して話題になった。FIRST LOVE発売までの1998~99年も、ヒカル自身がラジオ番組を2つ持ち、梶さんがFM局を半年かけて全国行脚するなど、やはり徹底してラジオ(と有線)優先の活動をしていた。

そして、間もなく終わる2013年度はKUMA POWER HOUR with Utada Hikaruと共にある一年だった。あっさり一年、しかも全9回で終わるだなんて少年ジャンプの打ち切り漫画も真っ青のスピード感だが、俺達の戦いはこれからだ感にあんまり嘘はなさそうだ。

しかし、復帰となると、やはりまたテレビや雑誌に沢山出るような展開が待ち受けているんだろうか。Radikoのエリアフリー化で、今までみんなでシェアしてきた各地域の番組出演が全国どこでもカバー出来るようになったのは嬉しい事だ。後はRadikaやRadikoolが頑張ってエリアフリー化に対応してくれる事を祈るのみ。欲を言えば、日本だけでなく全世界で同時に聴けるようにして欲しいんだけど、流石にそれはまだ無理な相談というものかな…。

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「LIVE DAM」の「まま歌」サービスって一体何なんだ!?

いや、サービス内容に文句がある訳ではない。LUV LIVEの映像を観ながらHikkiと一緒にカラオケを楽しめる。大いに結構。確かに楽しそうだが、私が引っかかったのはそういう話ではなく、こういうサービスをこのタイミングで展開してくるプロモーション態勢についてだ。

普通に考えれば、タワレコ渋谷のメッセージ・ノートが撤去されると共にFirstLove15周年祭は終焉を迎え、甘酔再放送の終了と共に状況は収束に向かう筈だった。それなのにこれは…勿論、ただ単にカラオケ関連のサービスはスタートまでに時間がかかるのが通例だからここまでズレ込んだ、とも解釈できようが、こちらとしては、こうやって話題を提供してきてくれるという事は「復帰が近いのではないか」という風に思ってしまう。或いは、本当にファンにシグナルを出しているのかもしれない。三宅Pが「もうすぐかもよ」とラジオで言ったのは、照實さんが言うのとは訳が違う。何の信憑性もなくあんな事を言う人ではない。何か具体的な動きがあるのだ。

しかし、だとすれば気になるのが、熊淡の1月のお休みである。あのタイミングでヒカルがSuper-depressed(チョー落ち込む)するとは、本人も含め誰も予想していなかったのではないか。それが、今年の予定に狂いを生じさせている遠因になっていたりすると、例えば今回のLIVE DAMのサービス開始は、随分前から準備されていただろうから、シグナルとしてはやや的外れとなってしまっている恐れもある。これは、なかなかわからない。

でもな。そもそも、この人は「シン・エヴァンゲリオン」と「キングダム・ハーツ3」というビッグ・コンテンツを抱えているのである。両方とも、「今更宇多田ヒカル以外だなんて有り得ない」というファンの空気が出来上がっている。特に後者は、日本語版と英語版の両方を歌える人でなければならないので、そもそもの選択肢が少ない。国際的な人気、というのみならず、突出した日本での人気にまで配慮しなくてはならない。

両コンテンツとも、今年から来年にかけての何処かで発売の発表があるだろう。当然、ヒカルの貢献は桜流しスタイル―即ち、近影は見せず、楽曲だけは提供して、人間活動は継続する、という可能性も残されているが、こうやって様々なシグナルが宇多田陣営から発せられるのを見ていると、寧ろこれで年内に復帰しなかったらおかしい、という流れが強くなってくるだろう。本人の心づもりがどこにあろうと、ファンの方が「もう活動再開してるようなもんじゃん」という気になってきてしまう。

つまり、ここらへんの「心理のあや」の勝負なのだ。向こうからのシグナル自体も、もしかしたらレコード会社による、まだ揺れているヒカルの心に対する揺さぶりかもしれない。つまり、既成事実をやんわり積み重ねて「はいどうぞ」と言わんばかりの体勢に入りつつある、という事だ。特に梶さんなんかはそういう事をしそうにないけれども、しかし、一言で言ってしまえばそれがムードというものなのだ。日本語では。ここらへをの微妙な心理の駆け引き、実際どうであったかは、年末までには明らかになっているだろう。果たして我々は今年どんな表情で年を越すのか。今から楽しみになってきた。

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火曜日の朝は~♪という訳で、まずはLUV LIVEからIn My Roomを取り上げてみようか。

TV Mixを聴けばわかる通り、というか、今回TV Mixを聴く事で改めて確認した事なのだが、In My Roomのバック・トラックというのはFirst Loveアルバムの中でも取り分けシンプルである。イントロ等を除けば、一部分を取り出して聴いた時にいちばん"何の曲かわかりにくい"トラックだともいえる。

そうだけあって、いちばん歌唱の空間に余裕があり、歌に耳を傾けるのが容易い楽曲となっている。それと共に、サウンドの密度が薄い分、一音々々の全体に与える印象の大きさが相対的に大きくなり、従って演奏者一人々々が持つ個性から来るニュアンスの違いがより如実に反映され易い構造となっている。

取り分け、リズム隊の影響は大きい。幾らシンプルなトラックでも、この曲は曲中でリズムが途切れる事がない為、リズム隊の2人はほぼ出ずっぱりだ。


さて、ここで先にヴィニーとニールの特徴について書いておこう。2人とも白人プレイヤーである為か(レイシストって言わないでぇ~)、必要以上にファンキーになったりグルーヴィになったりする事がなく、どちらかといえば生真面目で、正確な(今のヒカルに言わせるなら"正義"の)演奏を披露している。また、2人で組んだ経験が余りないのだろうか(調べりゃええやん>自分)、或いは、スペシャルライブである為リハーサルの絶対時間が足りなかったのか、あうんの呼吸、という訳にはいかず、両者とも正確なタイム感で演奏する事で演奏の縦線を揃えているような印象がある。

そうやって出てきたリズム・サウンドは非常にコレクト且つタイトで、どこか四角張ってすら居るアクセントの強調が強いものとなった。ある意味、堅さを伝えても不自然ではない系統のサウンドなのだが、ヴィニーのタッチの微調整の効果か、最低限のスムーズさを失わないバランスの演奏となった。2人ともソウル/R&Bは専門外のジャンルだと思うが、それを感じさせない確実なプレイである。


これにヒカルの歌唱がどう影響されたのか。それが本題だよね。でも字数が来たからまた次回ね。(笑)

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さて、いろんな話をまだらに彩っていきましょうかね…。

今夜はLUV LIVEの話をしてみようか。大したLIVE経験もないのにいきなりZepp Tokyoの2700人(MCじゃ"3000人以上"っつってるけど流石に本来のキャパより10%も詰め込むのは無理なんじゃないですかね…消防署から怒られるよ…)の前に放り出されてこの舞台度胸と歌の出来は大したもんだ。ざっと観たところ歌の差し替え等もない。引きの場面はわからないけど。

差し替え云々の話なら、このデビューライブの出来は絶賛されて然るべきだが、先に一つクレームを入れておこう。前も少し触れたが、歓声がわざとらし過ぎる。特に音だけ聴いているとドン引きである。どれだけ熱狂的なファンをかき集めても、Zepp Tokyoでこんな歓声は聞こえてこない。まるでスタジアムみたいな歓声で、否応無しに「ドリフ大爆発の笑い屋のおばちゃんたち」を想起させるわざとらしさに満ちている。画面を観たら、シングル曲以外では観客の皆さん完全に様子見なのがそのドン引きさ加減に拍車を掛ける。遠慮無く言ってしまおう。こ れ は ひ ど い 。

しかし、それ以外に関しては文句のつけようがない。画質や音質は15年前という点を勘案すれば十分だと思われるし、何より、先述の通りヒカルの歌唱が素晴らしい。一時間とはいえ、よくこれだけ連続して歌えるものだ。もしかして、実際はもっと休憩を挟んでいたのかな? そうだとしても凄い。元々通りのいい歌唱法ではないため、時としてバックのサウンドに飲み込まれかけたりもするが、それはスタイル自体の問題である。ライブ・シンガーとしては、デビュー時点で一流だったのだなぁと改めて思い知らされた。


このライブで私がいちばん注目したのはヴィニー・カリウタ&ニール・スチューベンハウスのリズム隊2人のプレイである。特にカリウタ先生は、ヒカルもMCで触れている通り、恐らく凄まじいギャランティーを支払う必要があった事は想像に難くない、20世紀を代表する伝説的とすらいえる超絶技巧のドラマーさんだ。ぶっちゃけ、この後12年間を合わせて考えてもキャリア・テクニック共に、Hikaruと共演した中でも最高峰と言っていい。相性でいえばジョン・ブラックウェルの方かもしれないし、テクニック&パワーという面ではジョン・セオドアの方が上かもしれないが、ドラマーとしての総合力ではカリウタ先生に一日の長がある。


…ドラマーの話なんて興味ない、私はヒカルの歌にしか興味がない、と言いたくなってる人もちょっと待て。実は、ヒカルのライブでの歌唱というのはその時のリズム隊の特性に大きく影響を受けるのだ。特にフェイク/アドリブの部分では、ドラマーの個性にそのメロディーラインは大きな影響を受ける。"何故ヒカルは今回フェイクをこんな風に歌ったのか"の理由のひとつに、ドラム・サウンドがある事に疑いがない。

何故"疑いが無い"と強い調子で言えるのか。それは、三宅さんが言っていたように、そもそもヒカルがドラムを初めとした「リズム」から楽曲を作っていくからである。編曲に大きく関わってはいなかったこの「First Love」アルバムからして、リズム・ループを流しながら曲を作っていった、と三宅さんは明言している。それならば、そのリズム・サウンドのニュアンスがプレイヤーによって異なるならば、メロディーラインの解釈も変更を余儀無くされるという訳だ。これがヒカルが言うところの「スネアの切なさ」の部分なのである。リズム隊の話抜きに、ヒカルの歌のライブ・バージョンの話は始まらないのだ。

さてそれでは具体的に…見ていくのはまた次回だな。いつになるかわからんのだけど。

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この三連休で、何となく祭の雰囲気も落ち着いてきたかな。あとはMusic Plateの放送(まだ特集があるのか知らんが)と甘酔の最終回があるけれど、土曜日に@Mikihhiが甘酔の放送が最後だと勘違いしていたのは偶然ではなく、流れとしてここらへんが区切りだという感覚が先に立っていたのではないか。春が来たんだろうな、これは。

熊淡が終わるのも、この流れに沿った感じといいますか。4月5月6月はHikaruも結婚式の準備~実施~等々が主だった所になると思われるので、次のワンクールは一旦凪になるとみるのがいいのかもしれない。こちらも少しゆっくり出来るかな。

こちらからすれば、毎回の熊淡振り返りも消化不良だし、In The Flesh 2010 footage の感想もそんなに書き切れている感じがしないし、FL15DXに至ってはまだ内容の3割も触れていない。語る事はわんさとあるので、次にワンクール凪が来るのであれば結構都合がいい。

にしても、出てくる時は一気呵成なのが宇多田ヒカルのプロモーションだ。土曜日に渋谷に行ったら、まだSMプレイが続いていた。あんな世界的な一等地に宣伝を十日間だか掲げ続けるだなんて、一体宣伝費幾ら使ってるんやという気分が甚だしい。タワレコ渋谷にあるヒカルのCDが全部売れても一日分の広告費にも満たないだろう。それでも、こうやって、他国と比較しても高価なCDを売る為には、マスな手法を取る以外にない。そういうクラスのアーティスト/ミュージシャンなのだ。

この"足腰の弱さ"は、常に指摘してきた点ではある。その上、キャラクターとして、藤圭子と同じく"一世一代"な為、他の誰かとセットで売り出す、とかライバルとかコリーグスとか、そういうのもない。なので宇多田ヒカルファンには、ひたすら暇な日常と忙しくて仕方がない非日常の波を毎度味わわされてきている。

熊淡は、そんな中で、"ちょうどいい"ペースを提供してくれた希有なイベントだった。極端な話、ずっとこれ位でもよかった。でも、終わってしまった。また我々には、日常のペースを再構築する季節がやってきたのだ。朝の光が眩しい。

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季節が季節だけにラジオからは桜ソングがしこたま流れてくるが、流石にまだ桜流しはかからない。SAKURAドロップスもそうだけど、試験に落ちた人にとってはハマり過ぎるのかもしれない。

それにしても桜流しは素晴らしい。このまま行くと私生まれて初めて三年連続再生回数No.1な楽曲と巡り会った事になっちゃうんじゃないだろうか。普段ラジオから流れてくる邦楽曲を聴いて積極的に「この曲はここがいいよね、そっちはサウンドが面白いね」といい所を探しに行く癖がついている私からすれば、日本語で歌唄うのもうコイツだけでいいじゃんという強烈なインパクトしかない。いや勿論英語曲でもこのクォリティーは稀なんだが、このサウンドストラクチャー、ドラマティックな展開、美しい旋律、漲るダイナミズム、絶品の歌唱力、といった私の大好物の数々を日本語で堪能出来るというのは幸せ過ぎて御免なさい満たされ過ぎてすみませんというレベルである。

女性ヴォーカルでドラマティックなサウンド、というのは英語でならそれなりにある。最近ではWithin Temptation、一昔前ならEvanescence、20世紀の大御所ならRenaissanceといった所が思い浮かぶが、日本語曲となると皆無である。Zabadakですら、女性ヴォーカル時代に遺した大作は数える程しかない。そんな中で、宇多田ヒカルのようなドメジャー・アーティストがここまでドラマティックな楽曲を書いてくるのは、それこそKremlin Dusk以来の衝撃だった。あの曲は英語だったが、桜流しは8割型日本語詞である。ここがとてつもなくデカい。

普段聴く歌入り音楽は殆どが英語な私だが、直接歌詞で歌われる世界を理解できるケースは殆どない。大概が歌詞カード(或いは歌詞サイト)と睨めっこして漸く情景が浮かぶのだ。

しかし桜流しは違う。慣れ親しんだ母語で、美しくイマジネイティブな歌詞が並び、即座にそれが情景を呼び起こす。この詩情の豊かさたるや、世界中の日本語のわからないUtada Hikaruファンの皆様すみませんと謝罪を申し出たい程である。その上この歌唱力。この人は本当に凄い。


なんで今こんな事を書いているかというと、First LoveやSweet&Sourによって齎されている「あの頃は凄かった」感に思い切り水を刺したくなったからだ。今日雨だし。宇多田ヒカルは今がいちばん凄い。いやそんな事はわかりきってますよとここの読者は言ってくれると思うが、今月で熊淡も甘酔も初恋も祭りタイムが収束していく中で、こういう事を実際に口に出して言うという事が重要なんだと思う。宇多田ヒカルは今がいちばん凄いのだ。何度でも書いてやる。

しかし、その"今"というのも2012年の話。流石に二年前では説得力に欠ける。この度の15年前回顧ムードに触発されて今のヒカルが「いや今の私の方が凄いんだってば」と自らの力を証明したくなってくれたりなんかしたら僥倖なのだが、そこらへんを「健気」の一言で片付けてしまうあたり、この人は余裕である。何も力んではいない。それもまたある意味「自信」のひとつのカタチだろう。じっと、私は新曲を待っている。あ、勿論英語でもいいですよ。フランス語でも、イタリア語でもね。

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Web上の週刊誌由来の記事で小某方さんが巨乳だという話をみて「なぬ!?」となった。のぶりんは下世話だとして切り捨ててたような気がするが、私はこういうのに引っ掛かる。胸囲の話にするから下世話に聞こえるし実際下世話なんだけどこれを「クレオパトラの鼻がもう3cm低かったら」というお馴染みの言い回しに差し替えると途端に歴史浪漫に足を一歩踏み入れるのだから、同じ内容を口にしやすい言い方にすげかえる作業って大事だな。明石家さんまは偉大だわ。しかし、「小某方女史の胸囲がもう3cm小さかったら」って書いたら一昔前のラノベタイトルみたいになるな。

歴史や科学界の政治の話ですらそういった容姿が問題になるのだから、エンターテインメント業界では更に重要である。最重要と言ってもいい。Hikaruのデビューのキッカケは、今回三宅PがラジオやCSで語っているように、彼が彼女とすれ違った時に「誰だ今のカワイイ女の子は」と引っかかった事だった。歌を聴いた訳でもないし―順序としてはCubicUは知っていたけどその目の前の女の子とは思わなかった模様―、ましてやあの藤圭子の愛娘だというのも知らなかった。この時、彼が彼女の可愛さにひっかからなかったら、その後の邦楽市場の歴史は大きく変わっていた事だろう。胸や鼻に代わるポイントは思い付かないが、言うなれば「もしHikaruの笑顔の輝きが今ほどでもなかったのなら」みたいな感じだろうか。なかなかウマいこと言えんもんだな。

Hikaruの笑顔の輝きが最も際立っていたのは、12年前の今日シングルCDが発売された「光」の頃だったように思う。あのPV(とメイキング)での楽しそうな笑顔は、他の時期と較べても異質と言いたくなる位輝いていた。これが新婚オーラというヤツか。31歳の今、二回目の結婚を目の前にした今の時期に、そのHikaruの幸せそうな笑顔を見る機会がないのがちょっと悔しいけれど、メディアに晒されて周囲の心労に心を痛める姿を見せられるよりはずっとよい。あと2ヶ月とちょっと、プラスハネムーンの間くらいは、そっとしておいて欲しいですと週刊誌やタブロイド紙の皆さんには進言したいが、科学界のスキャンダル話に最初に食い付いたキーワードが「巨乳」だったヤツに言われたくないですね、すいません。

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熊淡が終わったというのに、締め括りの言葉を発する気がしないのは、単に現実が受け入れられないからなのかもしれないが、それ以上に昨夜の一時間が"いつも通り"滅茶苦茶楽しかったからだろう。これから1ヶ月、私はこれもいつものように、熊淡の録音を何度も聴き直して、聞き取れなかった英語(と時々日本語)を確認し、各アーティストのWikipediaをチェックしたり、細かいHikaruの言い回しやニュアンスを掬い取り、声の調子からどんな表情をしているのかを想像しながら、次の放送に備えるのだ―いつもなら1ヶ月後にある放送を。今まで3回も梯子を外されてきたから、別にいいっちゃいいのだが、やっぱりきっと、本当の喪失感を感じるのは、来月の第三火曜日に「本当に熊淡ないんだな」と確認して通り過ぎる瞬間なんだと思う。どうにもならない。しかし、そうなるまでは、いつものように、まるで1ヶ月後に次の放送があるかのようなペースで、この番組について語っていきたいと思う。

結局、いつも通りの熊淡だった。最初と最後に今回で最終回である事について触れた以外、テーマを決めて後はひたすらHikaruの好きな曲をかけてそれについて語るという、手慣れた、聴き慣れた構成である。今回のテーマは「デュエット」。最終回だからといってもそんなに特別でもないチョイスといえる。いや、毎回特別な回だった、というだけなのかもしれないけれども。

つまり、「何故最終回にデュエット特集なのだろう?」と考えるのは意味がないという事だ。ただ、今回はデュエット特集でしたというだけの事。次回の放送がないというだけである。

特集全体を通して聴くと、Hikaruが「デュエット」というものをどう捉えているかというのが見えてくる。真ん中あたりで言及していたように、番組の前半は恋人・夫婦・家族とえらく密接な関係同士のデュエットが選ばれていた。これまた選んでみたらそうなっていたのか狙ってこういう構成になったか推し量りどころではあるのだけれど、Hikaruがその点に注目したのは間違いない訳で、それはつまり、もしかしたら「ゴールデン・エラ」をどうしても掛けたかったから周りを固めてきた、という風に勘ぐれるのだが、にしてはこの曲にどれ位思い入れがあるのかというと、ちょっとピンと来なかった。コメントからしても、ある時代の家族のスナップ写真だから気に入っている、という感じがした。でも、そういう選曲こそが寧ろ"庶民的"な訳で、ウケのよさは結構なものだったろう。実際、初めて聴く人も多かったみたいだし、First Love 15thでDemo音源を惜しげもなく披露したのに続き、こういったところはHikaruの"心境の変化"
として、捉えてもいいかもしれない。受け手に喜んで貰えるならそれでいい、というアティテュード。ありそうでなかったような気がする。はてさて如何かな。

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