無意識日記
宇多田光 word:i_
 



「やるせない」を和英辞書で引いてみると「cheerless, disconsolate, dreary, helpless, inconsolable, miserable, uneasy, wretched」とある。それぞれ、「意気の上がらない、慰めの無い、侘びしい、どうしようもない、慰めの無い、不幸、難儀、惨め」という意味なのだが、さて、桜流しに出てくる「やるせなきかな」を、Hikaru自身がどの英単語に訳したか皆さんは覚えているだろうか。

答は「helpless」、そう、「どうしようもない」だ。

そういえば、同じく桜の散る歌に、『好きで好きでどうしようもない』という歌詞が出てきたなぁ、という連想は容易にはたらく。

対照的である。桜流しでやるせないのは『見ていた木立』の方だ。つまり、"動きたくても動けない"と。一方、SAKURAドロップスの『好きで好きでどうしようもない』は、『どうして同じようなパンチ何度も食らっちゃうんだろう それでもまた戦うんだろう』という事だから"どうにも止まらない"という意味なのだから、どうしようもなさはまるで逆の方向を向いている。

また、細かい話だが、Hikaruによる『見ていた木立の遣る瀬無きかな』の英訳は『The trees stood by, Helpless』だ。どうやらhelplesslyではないらしい。lyがつくと「木が、どうしようもなさそうに生えていた」という風な意味になり、lyがつかないと、「木が生えている。何ともやるせないことだ。」という風になる。本当に些細な違いだが、Hikaruは「何とも~」のニュアンスを採用した。無力感に苛まれているのは直接、この歌の主人公であり、その情景として木立がある。

その順序だと、つまり、歌の中で静的な植物と動的で流動的な人間という対比があり、その間を繋ぐ比喩として「散る桜/落ちる花びら」があるという事になる。

SAKURAドロップスは、一度花を散らしてもまた翌年美しい花を咲かせる桜の木の"めげない生命力"を比喩として人間賛歌を歌っていた。一方桜流しでは、人間自体が咲いて散り流されていく桜の花びらとして描かれていて、まさにその事が揺るぎない木立との悲しい対比として描かれている。まさに正反対の比喩として桜とSAKURAは描き分けられている訳だ。その対比が最も鮮烈なのが『どうしようもない』と『遣る瀬無きかな』という、一見同じ意味の2つの単語なのである。従って、この2曲を並べて聴くと、桜流しの描く痛切な絶望が如何に深いかがよくわかる。その感情をベースにして『私たちの続きの足あと』と『愛』の言葉を耳にすると、希望の光がどれほど尊いかを痛感できる。春も終わり初夏の日差しが照りつけ始める中、今一度この2曲を聴いてみる事をお薦めする次第であります。

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美宇美誠凄いな~。特に、福原が負けた為、美誠に上位進出のチャンスが巡ってきたのは大きい。

福原の実力は大体世界ベスト8程度なので今回の敗退は取りこぼしといえる。一方美宇美誠の2人は実力でいえばTop40程度、素質でいえば世界ベスト4レベルだ。将来2人揃ってオリンピックに出られたならば、半分以上の確率で銅メダルを獲得出来る事が期待される。いやはや、とんでもない才能である。

2人の特徴は、福原に較べて全体のプレースタイルの設計が優れている事だ。一言で言えば、旧世代に較べてアップデートされている。ただ能力が優れているだけでなく、過去の財産から更に学習して現代的なスタイルを作り上げている。


商業音楽にも、かつてはそういう側面があった。旧世代の思い込みや慣習をあっさり打ち破り、悪弊を改善して前に進んでいく気概があった。今はそれがあまり見られない。ド派手に新しいジャンルが生まれなくなった事が大きいだろうが、21世紀はどうにも低迷している感覚が否めない。


Hikaruの場合、そんなに流行とか最先端とかのアイデアを取り入れずにここまで来ている為、作風として古びるとかいう事は少ない。せいぜいマスタリングにその痕跡が残る程度だ。だからといって前進していない訳ではない。ならば、どうやって…と考えるところだがまずは「過去の自分の作風を省みてそこから始めている」というスタンスが思い浮かぶ。

自分を素材と土台にしてまた新たな自分を作っていく究極の自給自足スタイル…と思ったが、そういう側面もなくはないものの、完全にはしっくり来ない。Hikaruの場合、デビュー以来の百曲程度を作るにあたってボツにしたのが金閣寺一曲、というくらい一曲々々丁寧に作り上げる。従って、完成した楽曲に対する満足度は相当のものがある筈だ。あまり"省みるべき点"が残っているようにも思えない。せいぜい、"あぁ、このアイデアはもう使っちゃったのか、次は使えないな"と可能性を除去するような消極的な貢献をするくらいだろうか。

とすると、Hikaruの"成長"って何だったのだろう、と立ち止まってしまう。毎度言っている通り、似通った曲調を二度作らない人なので楽曲の"優劣"は判別しづらい。ひとつのミニジャンルの最高傑作を作ってはまた新しいミニジャンルを、という前進の仕方をしてきたのだ。

とすると、非常に単純に、バックカタログ全体自体がHikaruの成長そのものなのかという気がしてくる。今作った曲が昔作った曲に較べてどうのこうのというより、作った曲の集合が大きくなっていく過程自体がHikaruの成長の記録なのだ。そう考えたらスッキリした。つまり、Hikaruは常に"全体"という作品の制作中なのである。過去は常に"今ココ"に存在していて、それらはひとつの塊であり、お互いを比較し合うようなものではないのである。シンプルに、曲数の増加自体がHikaruの成長なのだった。嗚呼次の曲が待ち遠しくて堪らないわよ。

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低音軽視といっても、例えばヒカルはこんな発言をした事がある。「ベースの音色はジャンルを決める」、と。いつ頃だったか忘れたけれど。ベース・サウンドの重要性なんてとっくに御承知、まさに釈迦に説法だ。

ただ、この発言からわかる事は、ヒカルがベースという楽器・音域を、フレーズというよりはサウンドで捉えているのではないかという事だ。実際、そんなにベースレスの曲は多くない、というか今とっさに思い付くのはStay Goldだけだし、そのStay GoldもLIVEバージョン(In The FleshもWILD LIFEも)ではベースがしっかり入っているのだからベースレスにこだわりがある訳でもない。寧ろ、だからこそ比重が小さいままだともいえる。いつも当然のように入っているけれどもうそれ以上にはならないポジションで落ち着いてしまっている、と。

桜流しでは、ヒカルの編曲では過去最高といえるくらいにベース・ラインがメロディアスだが、これもポール・カーター@Thisisbenbrickによるアイデアかもしれず、ヒカルの志向性に変化が出てきたと言い切るのは早計かもしれない。しかし、このアイデアに"OKを出した"のは間違いないのだから、その意味では次の曲以降も注目である。

嗚呼、もう少し歴史を遡ったら―そうか、もうシンコレ2の曲も"歴史上の楽曲"なのか…5年も経てば仕方がないか―、Show Me Loveも強いベースラインをフィーチャーした曲だがこれも共作(withマット・ローディとドイツのスタジオの皆さん、かな?)なのだからやはり…という気がする。

一度ヒカルと"ベース談義"を繰り広げてみたいものだ。

こんな時の為のKuma Power Hourだろがッ! 復活希望。これはピーター・バラカン師匠に言った方がいいのかな? スネア特集みたいにベース特集やってくれたらええねん。

ラジオなー…。テレビを観る習慣を失った私も、ラジオを聴く習慣は変わらない。ポチッとスイッチを押したら歌が流れ出す…別にAMでもFMでも長波でも中波でも短波でもインターネットでも何でもいいのだ。宇宙のどこかで奏でられたメロディーがこちらに届きさえすれば。

宇多田ラジオ…インターネットを使えばいつだって可能だわな。家でラジオ番組制作出来る位なんだから弾き語りを録音する位は訳がない…例えば、それを有料のポッドキャストにしてチャリティーにすればどうだろう。何らかの寄付や援助が必要だなとヒカルが思った時にはアコギやピアノで弾き語りしてポッドキャストを有料配信するのだ。iTunesStoreでもdmusicでも何でもいいよ、取り敢えずシステムだけ用意しておいてそれに我々は課金しまくる。自分の曲でもカバー曲でもいい。難しいのは著作権の管理だが、JASRACと公取委の動向によっては、新しい波も起こってくるかもしれない。まぁそこらへんはどうにも出来ない事なのでな…。

ラジオを聴いていると、歌ってもっとフットワーク軽くてええやんという気がしている。せめてシングル曲やリーダートラックはラジオで流れ出したその瞬間にiTunesStore等で買えるようにしておいて欲しい。「ああ、この曲いいじゃん」と思っても「来月発売です」と言われたら、忘れはしないけれどその間に他の曲を聴いてそっちに気をとられるなんて事もあるんだから。

いや勿論現状では難しいという事はわかっている。これだけスマートフォンが出回ってるのにストリーミングでラジオを聴いている人は少ないし、手癖のように配信購入をスマホのワンタップで済ませる生活を送っている人もそんなに多くない。儂なんかブクマ代わりに配信購入しとるんに…いや私みたいなのがまだマニアックにみえる現状がもどかしい。そういうのが当たり前になってくれれば快適だなという話でした。


あれ、なんか途中で話題がガラッと変わったな…ま、いっか。

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昔ヒカルの歌声、特に低音部をを「チェロのように豊かな響き」だと形容した事があったが、楽器によって奏でるべき旋律が変化するように、歌声の質によっても適切な旋律は変わってくる。そうである以上、そして、ヒカルが自分で歌う事を前提に作詞作編曲を行っている以上、その歌声は遡及的に創作過程に影響を及ぼす。

要するに声に合ったメロディーをいつの間にか選択しているという話だが、これは歌の場合、作詞にも及んでくる。"光"と"Simple and Clean"のサビを比較した時、単純に日本語のそれより英語の歌の方が音が低い。

ここでもまた違った角度からのアプローチが必要となる。歌詞の内容だ。"光"の方が『どんな時だってずっと二人で』と前向きな歌詞であるのに較べ、"Simple And Clean"では『When you walk away』である。「あなたが立ち去る時に私の声は届かない。どうか行かないで。』だ。仮定の話とはいえ寧ろ悲しいトーンである。音程の高低の原因は、実はこの内容のトーンの明暗から来ているのかもしれない。

実際、"嘘みたいなI Love You"では同じメロディーで日本語の歌詞を歌っていてしかも内容は『感動的に終わるストーリー』である。ハッピーエンドだ。こんなに前向きな歌詞もない。メロディーが甘過ぎるってんでバランスをとるためにアレンジはデジタルロックになった程。

さぁわからない。何が原因で何が狙いで何にどう落ち着いたのか。書いてる方がわかってないんだから読んでる方はもっとわからない。すいません。

ただ、整理しておきたいのは、今新しく持ち出した論点は「英語の発音の方が低音の響きをより"含んでいる"」とか「日本語には低音の響きが少ない」とかいった、言わば倍音成分の話であって、それが即音程の高低に結びつく話ではないという事だ。これは、サウンド全体のバランスの中で考えるべき事で、それに加えて、ヒカルの歌声や、メロディーの質や、歌詞の内容など、幾つものレベルとサイドから問題が吹き上がってくる、というのが問題なのだ。

今更やけど、ようこんなんで一曲仕上げてくるもんやな。おっちゃんアタマこんがらがって何が何だかわからんようになってるっちゅうのに。アルバムとなるとこれが12曲とかやで。頭痛いわホンマ。

そんななので、ヒカルが例え近い未来、もしかしたら今、創作過程で行き詰まっていたとしても「そんなん、こんなことずっとしてたらそうなるわなぁ」と生暖かく見守ってあげるのがファンの務めなのだと思う次第でありますですよ、えぇ。

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日本人は低音に関心が薄い―少し似た切り口で別の面から論じた事もあった。日本の住宅事情では音楽を大音量で聴く事が出来ず、それが、爆音での再生を前提とするロック・ミュージックとはソリが合わなかった原因の一つなのではないか、という仮説だ。

そして、確かに音量が小さい時に最も割を食うのは低音であろう。

従って、そもそも日本人は会話時に低音を使わない事と、再生環境が大音量や重低音にそぐわない事の両方が相俟って、日本人の低音無関心が醸成されてきたのではないか、という合わせ技の推論が出来上がる。

実際、電気楽器やPAの発達によって、20世紀の音楽がそれまでと比較してもかなり低音が増量されている。ロックは言うに及ばず、ジャズもダンス&ディスコ・ミュージックもヒップホップも極端なまでの低音を押し出している。

勿論、下地があった。西洋音楽には低音専用の楽器がある。弦楽器でいえばコントラバスやチェロ、アップライトベースといったもの。鍵盤楽器もえらい低音まで出る。金管楽器や木管楽器も然り。それが電気の導入によって一気に花開いたといいますか。

日本古来の楽器で、低音専用の楽器はどれ位あるのだろうか。私が知らないだけで、或いは気がついていないだけであるかもしれないが俄かには思いつけない。あったとしても印象が薄いのだろう。


さて前フリはここまで。ここからが本題だ。Hikaruの話である。Hikaruの曲は、特にHikaruの編曲は、何度も言及してきたようにベースの存在感が異様に薄い。ライブでは必ずダブル・ドラム、或いはドラムスとパーカッションの両輪を取り揃えて低音をカバーしてきた。果たして、このHikaruの特性も日本人固有の低音への無関心からくるものなのだろうか?

これは難しい問題だ。たとえそうだとしても、Hikaruはそれに対して自覚的ではないだろう。それに、英語で歌う時も、日本語で歌う時程ではないが、低音、特にベースは薄く、その分を打楽器で補っている。

勿論、ベースが活躍するケースもある。ブリッブリのベースラインが心地良い甘いワナはHikaru編曲ではないから例外としても、日曜の朝の『だゆ~ん だゆ~ん だ』&『んだゆ~ んだゆ~ ん』はこだわりの低音アレンジだし、EclipseとPassionは共通のベースラインをもって組曲を成している。でもやはり、少数派である事は否めない。


全く別の論点から考える事も出来る。Hikaruのバック・コーラスだ。Hikaruは本人が『おっさんみたいな声』とまで言う低い声を出してバックコーラスを構成する事がある。その音域の深さと広さゆえ、低音を分厚くすると中央付近のミックスに支障が出たりするのかもしれない。或いは、そもそもHikaruの歌声自体が低音部の倍音を豊かに含んでいて、それを響かせる為には低音を除去した方がいいのかもしれない。これらは、音響学的な観点である。


こういった、日本人と日本語という人文学或いは民族学的といってもいいだろうか、歴史的な経緯からのアプローチと、純粋に物理学的な音響特性からのアプローチの両方が必要になるなんて、"歌の解析"とは何と豊かな事かと嘆息する。今の私はどちらからのアプローチが正解に近いかわからないが、面白いもんだ、と自分で書いていて思う。


少し寄り道をしたかな。Hikaruの日本語の歌と低音については、この後もう少し掘り下げていこうか。話はややこしいが、歌とは至極シンプルなものだ。肩肘張らずに参りましょうぞ。

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昔から「ビッグ・イン・ジャパン」と言って、同じ洋楽でも日本と他の国では人気に落差のあるバンド/ミュージシャンは多い。日本でだけ人気がある、とか逆に日本では何故か人気が無い、とか。

自分の知ってるジャンルの話をすると、例えば日本では大昔から70年代のハードロックといえば「レッド・ツェッペリンとディープ・パープルの二大バンド」という言われ方をしてきていた。これが、欧米でのチャート実績などをみると、ハードロックのジャンルでいえば、レッドツェッペリンだけが突出していて、次に来るのはブラック・サバス、ディープパープルは更にその下のグループだ。つまり、昔から日本ではディープパープルの人気がやたらと高かった。天国への階段とスモーク・オン・ザ・ウォーターだったら後者の方が知名度は上なのではないかという位。

それは、相対的に見れば、レッドツェッペリンの人気が日本ではさほどでもないという事でもある。先述のブラックサバスもそうで、オジー・オズボーンの人気がなければ恐らく来日公演もままならないだろう(ギャラ的な意味で)。他にも、世代を下ればアイアン・メイデンなども欧米に較べて人気が無い。さいたまスーパーアリーナや武道館でライブが出来ていても、相対的には不人気だ。

何か、そういった、日本で何故か過小評価されているバンドたちに共通点がないかと考えてみたら思い当たる点に行き着いた。それらは皆、ベーシストが実力者なのだ。レッドツェッペリンのジョン・ポール・ジョーンズ、ブラックサバスのギーザー・バトラー、アイアンメイデンのスティーヴ・ハリスなど、あぁ、そういえば欧米ではスタジアムでばかりライブをするカナダのラッシュも日本での人気がないが、ここには泣く子も黙るゲディ・リーが居る。

一方で日本で人気の高いディープパープルやクイーン、スコーピオンズやジューダス・プリーストなどは徹底的にベーシストの影が薄い。音楽的には実力者揃いだが、全体のアンサンブルの中では比重が小さい。ギタリストやキーボード、ヴォーカルの方が重視されている。


思うに、日本人て昔から低音に鈍いんじゃないか。思い当たる事があった。前にラウドネスの二井原実がB'zの稲葉浩志と対談した時、「日本人が英語を喋ろうとするとどうしても口先だけの発音になってしまう。ちゃんと低音を響かせればそれだけで英語らしく聞こえる」と言って実演してみせてくれたのだが、成る程、確かに口先の発音は同じでも一気に英語らしくなっていた。つまり、英語圏の人間は普段の会話から低音を効果的に使っていて、聞く方もそれを捉えるように出来ているのではないか。

翻って、日本人は普段の会話であまり低音を使わない為、聞く耳の方も低音に注意を払わずに来てしまうのかもしれない。人間の聴覚がいちばん使われるのはやはり人との会話だろうから。

何故そうなったか、は興味のある所だがそれは置いておくとして、現実として仮に日本人が低音に弱い傾向があるとしたら…という話からまた次回、かな?

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前回の続きを書こうかと思ったけど面白くなりそうな予感がしないから止めにして(期待してた人が居たらごめんなさい)、他の話題を。


Hikaruはこの5年間、折に触れて「日本の歌と音楽のルーツ」について考え、調査し、行動に移してきたと思われる。薪能等に関心を示したのもそういった線での事ではなかったかと推察している。

日本の商業音楽市場は基本的に海外の音楽性を輸入し日本語を載せられるようにリアレンジして披露する、というサイクルを繰り返してきている。商業音楽に限らず、教育現場での音楽、或いは国公立の学校に学科を構える音楽もその殆どが欧米(特に西欧)からの輸入となっている。その為、わかりやすくいえば、日本国内のコンクールで受賞するより、国外で受賞する方が格が高い。映画でもそうだろう、カンヌやベネチアやアカデミー賞での受賞の方が、日本国内での国際映画祭での受賞より重宝される。ひとつひとつの作品は兎も角、全体として、総てが輸入から始まっているのだ。賞の事をいえば、価値観すら輸入品である。

実際、日本から世界に飛び火した"音楽のジャンル"は果たしてどれだけあるのか。日本のレコードショップに行っても、ジャンル分けはクラシック、ロック、ソウル、ヒップホップ、ジャズ、フォークにブルーズ等々様々あるが、いずれも日本発のジャンルではない。演歌やJpopといったジャンルは確かに日本独自だが、日本国内限定のジャンル分けである。ようやくこの20年、アジア圏ではJpopに人気が出るケースも現れてきたが、それが一定の音楽性を指しているかといえば疑わしい。

こういった現状でHikaruは、日本語で歌う音楽について何を思ったのか。ルーツ、という言葉は結構難しい。例えば私の場合、小さい頃気に入っていた曲を並べたらブリティッシュ・ロックの日本語カバーにソウルのイントロをリフ化したインストにアメリカの映画音楽だ。日本の曲じゃなくて英米の曲に惹かれていたのだからストレートに言ってしまえばルーツが日本の音楽かというと難しい。勿論それらの曲と共に童謡やアニメソングも聴いていたのだが、まず印象に残っているのがその英米の3曲なのだから仕方がない。いずれも、今聴いてもいい曲だなぁと思う。特にヒゲ(ダンス)のテーマは今聴いてもベースが走り出した瞬間に両手首を直角に曲げてしまうんだぞ。三つ子の魂百までだこりゃ。

何が言いたいかというと、音楽的ルーツと住んでる国や話す言葉はバラバラで構わないという事だ。実際Hikaruも、自身の根源にあるのはスコットランド的な感性ではないかと気がついた訳でな。それで何の問題も無いのだ。今後どんどんそこを突き詰めていけばよい。

それとは別に、"日本語で歌う"というハッキリとした事実がある。歌う時、音楽性というのは大きい。ロックにしろソウルにしろ、明らかに音楽性そのものが英語の歌向きに出来ている。音楽性が仕上がっていく過程においてヴォーカルが常にそこにあった為共に進化してきたからだろう。日本語が本当に馴染む音楽性、日本語が最も活きる"ジャンル"は、日本語の歌と絡み合いながら生まれてくるべきなのではないか、そう考えても不自然ではない気がする。

難しいのは、Hikaruが"ジャンル"を生み出すのに拘っていない事だ。ある意味Jpopの鑑である。他のJpopと異なるのは、他の雑駁性が"いろんなジャンルからの引用と寄せ集め"であるのに対し、どの曲もジャンルが困難な事だ。端的にいえば、日本で最も独自の音楽性を生み出せる人間が、今まで全く"公式"や"マニュアル"を編み出してこなかったのである。ここがややこしい。

Hikaruは日本語の歌と音楽のルーツについて随分詳しくなっただろうが、いちばんの真実を見落としている。もし日本語の歌と音楽について最もルーツとしつみなせる音楽、即ち真の日本独自の音楽を生み出せる人間がHikaru自身である事を。Hikaruは、日本史上最高の作詞家・作曲家なのだからそれこそが真実に最も近い。その人がそれを"拒否"しているのだから、そりゃあきっと、いつまで経っても見つかりっこないのである。

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テレビやラジオでスポーツニュースが出る度に思う。何故これがコンサート情報じゃあないんだろうかと。まぁ今、プロ野球のシーズン中は百歩譲って仕方ないとしても、シーズンオフは連日日本全国のドームや球場でコンサートが開かれている。何が言いたいかといえば、集客力では野球と変わらないという話。確かに、12球団が入れ替わり立ち代わりで顔ぶれがいつも一緒なのとおしなべて何年ぶりという公演だらけの音楽興行とを比較するのはフェアではないが、ニュース規模としては同じ、という事も出来る。

スポーツニュースの場合公共性という点で疑問を呈す事も出来る。何だかんだで私的な企業が営利宣伝目的で冠スポンサーとしてついているのだから連日携帯電話会社や飲料水のブランド名を連呼するのは、特にNHKはどうなのかという話になる。裏を返せば、興行だろうが何だろうがニュースバリューがありさえすればNHKで取り上げても問題なかろう。

ポール・マッカートニー来日のニュースは、流石に一般ニュースでも取り上げられた。人類史上最も巨大な商業的成功と音楽的影響を維持する歴史上の偉人なのだから取り上げて当然なのだが、つまり彼くらいになればそれが興行でも何ら問題はなくなる。もっとそのラインを下げられれば話は変わってくる。

プロ野球ニュースの最後に明日の予告先発を読み上げるように、例えば明日の東京ドームと福岡ドームでは誰々の公演が行われる予定ですとか言えないものだろうか。今日の試合はデビルレイズがエクスポズに3-0で勝ちましたみたいなノリで、今日はB'zが横浜スタジアムで太陽のKomachi Angelを歌いましたと映像が放送される事はないのだろうか。

現状では「何を言っているんだ」という感じだが、スポーツも音楽も純粋な趣味的興行であるという意味では同じである。ただ、スポーツの方が関心を集める人口が多く、長年視聴率が圧倒的で、更に昨今は国際試合での日本代表の人気が高い(錦織の活躍なんかもそのひとつだ)のも大きい。

音楽は、確かに1つ々々の公演の規模はそこいらのスポーツと互角以上だ。サッカーの日本代表試合とサザンのコンサートならいい勝負だろう。しかし、あまりにタマが多すぎて関心が分散している為、じゃあニュースになるかというと様々な意味でしづらい。しかし、不可能ではないだろう。

特に男性はピンと来ないかもしれないが、毎日一般ニュースでプロ野球を取り上げる事について釈然としない人は沢山居る。いやそっちが多数派と言ってもいいくらいだ。ある意味、戦後の数少ない娯楽の中で頂点だった余韻を、21世紀になった今でも引きずっているといえる。だから、一般ニュースで扱われる正統的必然性は余りない。「昔からやっているから」の前例主義であり、それが客層の再生産に荷担しているだけだ。

なので、別に今からでも音楽興行、コンサート公演の情報を毎日一般ニュースの隣で伝えてくれるニュース番組が登場してくれても何の問題も無い。それで視聴率が取れたらいいんだけどねぇ。


で。現状でヒカルが復帰したとして、一般ニュースで取り上げられるかなぁという話からまた次回。

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一人称と二人称の組み合わせで最も幻惑的な歌詞を持つ曲といえばやはりGoodbye Happinessだろうか。何度聴いても何が何だかよくわからない。幻惑的な歌詞を知恵の輪を解き解すが如く鮮やかに解説出来たらいいのだが今の私は色々確認しつつ「やっぱりわからん」と言うしかない。出だしがまずこれだ。

『甘いお菓子消えた後には
 寂しそうな男の子
 雲一つないsummer day』

これを歌っているのは誰だろう。この曲の"ナレーター"だろうか、それともこの歌の描く世界の中でその男の子と一緒に居る登場人物の1人だろうか。だとしたら女の子だよな…と思っていたら次がこうだ。

『日に焼けた手足 白いワンピースが
 汚れようがお構いなし
 無意識の楽園』

前節の"雲一つないsummer day"から"日に焼けた手足"なのでここは場面転換が行われていない。同じ地続きの情景だ。ここらへんのさり気ない繋ぎがまた巧いのだがそれは今は本題ではないからいいとして、白いワンピースを着ているからには女の子だろうに、ここを歌ってるのは誰だ? またもやナレーターか、それとも男の子にバトンタッチしたのか。まぁずっとナレーターだったらいいか、と気持ちに整理をつけたらこれが来る。

『夢の終わりに待ったは無し
 ある日君の名を知った』

え。君っていうからには歌の中の登場人物だよね~。いやナレーターが実は時間が経った後の登場人物で、なんていう朝ドラ的手法もあるから油断は出来ないが何より"君"ってどっち?? 男の子?女の子?それとも両方? ラノベ的に書けば『『ある日君の名を知った』』なの?? どっちどっち??

『So Goodbye Loneliness
 恋の歌口ずさんで
 あなたの瞳に映る私は
 笑っているわ』

あーもうややこしい。私、というからには、というか恋の歌口ずさんでサマになるのは女の子の方ということで!

『So Goodbye Happiness
 何も知らずにはしゃいでた
 あの頃へはもう戻れないね
 それでもいいの Love Me』

ここは語尾からして女の子!

『考えすぎたりヤケおこしちゃいけない
 子どもだましさ 浮き世なんざ』

ん? いきなり男性的な口調になったかな?

『人は1人になった時に
 愛の意味に気づくんだ』

これはどっちとも取れるけどやっぱ男の子かな~。

『過ぎ去りしdays
 優しい歌を聴かせて
 出会った頃の気持ちを
 今でも覚えていますか?』

あー、さっき歌を歌ってたのが歌ってたのが女の子だったからそれをおねだりするのは男の子の方だね。

『So Goodbye Innocence
 何も知らずにはしゃいでた
 あの頃へはもう戻れないね
 君のせいだよ Kiss Me』

うわ、なんかイケメンのセリフ。じゃなきゃ激しく勘違い野郎。どっちにしろ男の子だわこれ。

『おお、万物が廻り廻る
 Oh ダーリン ダーリン
 誰かに乗り換えたりしません
 Only You』

っとと、ダーリンっていうからにはこれは女の子のセリフかなと思いきや英語だと男女どちらもダーリンなんだよね~。だからこれはどっちともとれる。またもや『『~』』のパターンか!?

『ありのままで生きていけたらいいよね
 大事な時もう一人の私が
 邪魔をするの』

私、っていうから女の子かな~?

『So Goodbye Happiness
 何も知らずにはしゃいでた
 あの頃へ戻りたいね Baby
 そしてもう一度 Kiss Me』

Babyっていうからには男の子のセリフっぽいんだけど、これもダーリン同様英語だと両性の可能性があるから、わからん!


という訳でこの歌は視点があっちに行ったりこっちに行ったりしてどっちのセリフかわからん所がたくさんあるってこった。でも、ただ一つ確実に言える事がある! どっちのセリフにしたってどうせ2人とも相手とKissしたがってるんだから「2人は幸せなKissをして終了!!」ってこった! お二人さん末長くお幸せに! 以上!

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歌詞の「あなた」と関連してよく言われるのが「君(きみ)」との使い分けだ。「私」と「僕」のようにかなり性差がハッキリ区別される(「私」は両性、「僕」は男性)のに対し、あなたと君は「なんとなく女性から男性へかな~」と「なんとなく男性から女性へかな~」と"ちょっとだけ偏ってる"感が漂ってくるので、歌詞を解釈する時に幅が広がりやすい。

結論から言ってしまえば、ヒカルの場合、それほど「あなた」と「きみ」の使い分けに神経を尖らせている訳でもない。「私」と「僕」も同様だ。「君と僕」の関係と「私とあなた」の関係を対比させる、なんて事もしない。では何故これらがヒカルの歌詞の中でも使い分けられてるかというと、毎度お馴染みメロディーの尺と音韻の制限によるものだ。

例えばPassionでは前半で『僕らは少しだけ怯えていた』『僕らはいつまでも眠っていた』と“僕ら”が二度出てくるが、最終パートでは『わたしたちに出来なかったことを』と“わたしたち”になっている。この僕らとわたしたちが同じ意味なのか違う意味なのか、文脈だけでは判断がつきづらい。いやそもそも、“僕ら”自体、ヒカルが「過去の僕、今の僕、未来の僕を合わせて“僕ら”」だと言っているくらいだから、歌詞だけでその"正統な"解釈を当てられる人は殆ど居ないだろう。それを考えると、僕らとわたしたちの違いなんて我々には到底"正しく"解釈できそうもない。

それより、それぞれのパートでメロディーに割り当てられる文字数がそれぞれ3文字と5文字だったからこうなった、と解釈する方がよっぽどわかりやすい。確かに、作詞という作業はどちらが先というのはたとえ本人ですら難しいので、予め文字数がそれぞれ3文字と5文字に決まっていたと言い切るつもりは毛頭無い。それどころか、Simple And Cleanにみられるように、歌詞に合わないからとメロディーの方を変えてしまう荒業だって使える。作詞と作曲両方を1人でやっているからの特権ではあるのだが。

そういった、恐らく錯綜したであろう創作の過程は我々には与り知らぬ事なので、今ある歌詞を出来るだけ素直に解釈するのが気楽である。そうなった時に”尺の都合"というのは明解である。それだけだ。

何より、歌詞の解釈に"正統性“、つまり作者本来の意図を斟酌するべきだなんていうルールは一切存在しない。読んだ人が読んだように、聴いた人が聴いたように解釈すればよい。そこで生まれた誤解や誤読の数々が次の創作を生むのだから。ただ、解釈に際して「ヒカルはこういう気持ちで書いたに違いない」と言い始めるのであれば話は別で、その場合は本人にしっかり問い質さなければいけない。それをするかしないかだ。今はしない。が、深読みのし過ぎは作詞者にとって"負荷"読みになってしまうという事だけは肝に銘じておいてうただきたい。いやまぁ、のんびり聴こうぜ。

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自分が最近聴いて気に入った曲メモBの欄…Barren Earth、Bluey、Bourez…ふむふむ。そういえばBlueNileは元気に活動しているのだろうか。Hikaruもとっととポール・ブキャナンに「一緒に曲を作ろう」とか声を掛ければいいのに。あとBjorkだ。イギリスじゃなくアイスランドだが今どこに住んでるか知らないし。いつまでもファンやってないで一流のアーティストとして接してくれんかの。ビンと来ないのかなぁ。

確かに、Hikaruの楽曲は作風が予測不可能だから誰か"それとわかる"程の個性とは相容れないかもしれない。STARGATEのように、「後は頼んだ」と言えるような"ヘルプ"みたいな役割の方がHikaruは欲しいか。それを考えるとExodus'04を生み出したTimbalandとのコラボレーションは結構奇跡的だったんだなぁ。

「ジャズやロックのように、複数のブレインが集まって音楽を作っていったのが20世紀商業音楽の特徴」と前に言ったが(言えるほど19世紀以前の音楽について知っている訳ではないのだけれど)、Hikaruの場合そういう意味では"古典的"なのかもしれない。一方で、ラップトップ一枚あれば曲を書けてしまえるスタイルはモダンだ。紙と鉛筆とラップトップがあればOKというのは如何にも21世紀のシンガーソングライターという気がする。

そこらへん、Hikaruは全く意識していないだろう。今までそうしてきたし、これからもそうするだろうから。共作自体はこれまでに何度もしてきたし、いちばん新しい(二年半前の)桜流しだって共作曲だ。しかし、その具体的な方法論が明らかになっていない為、Hikaruが共作活動をどう捉えているかは未だに見えてこない。

サザンの「葡萄」について、「そこで原由子なんだよな」みたいな事を書いたが、Hikaruもそこらへんは昔から弁えていて、先述のExodus'04もそうだし、Takuroとの共作やThe Back Hornとの共演など「最後の一押しとしてのスパイス」の必要性は重々承知したはる。

で、2つの可能性がある訳だ。一つは、誰かとガッツリタッグなりトリオなりを組んで真正面からコラボレーションをする…つまり一曲だけではなくて、アルバム一枚とかコンサートツアーとかそこまで発展するようなスタイル。椎名林檎とのコンビは、恒久性はお互いのファンが望まないだろうがミニアルバム以上一枚、十回以上のツアー程度なら「面白いんじゃないか」となりそうだ。これは双方のファンが昔から言ってきた事だ。さっき私がポールブキャナンやビョークについてコメントしたのもそういう趣旨だ。

もう一つの可能性は、Hikaruが様々な人と一曲ずつコラボレーションしてアルバムを一枚作る方法論だ。その昔「逆・徹子の部屋」といって、Hikaruがテレビ番組をやるなら各階の著名人が毎週入れ替わりたちかわりHikaruにインタビューする番組を作ったらどうか全12回位で、という案を出した事があるが、その音楽版である。Hikaruと曲を作ってみたい人は山ほど居る筈だ。ただ、井上陽水をみればわかるように、レベルが上がれば上がるほど皆Hikaruに対して恐縮していきそうでそれは懸念だな。

ただのアイデアのひとつであって、私がHikaruにそうして欲しいと言っている訳ではない。ただ、宇多うたアルバムへの返答として、カバーしてくれたアーティストの曲をカバーし返すよりは、参加アーティストたちと新しく曲作りをしてみる方がやや現実的かな、とは思った。いずれにせよ喫緊の希望ではなく一案である。しかし、案は多いに越した事はない。

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物凄くわかりやすい『あなた』もある。Making Loveだ。特定の1人に宛てた公開ラブレターなのだから当然なのだが、この曲はそれとは別に"謎のオチ"が用意されている。そこまでは彼女に対するメッセージとして聴けば何て事ないのだが最後のパート、

『私を慈しむように遠い過去の夏の日のピアノがまだ鳴ってるのに もう起きなきゃ』

―この部分だけは彼女と直接関係無い。それどころか、最後の最後のSEとして『ジーッ_』という音が入っている事を考えるとこの歌は夢オチだったのかと訝りたくなってくる。現実の対象に対するメッセージだったのが、この最後のパートのせいでいきなりふんわりとした存在感に変換される。ちょうど、抽象美から具体例に帰着したPassion Single Versionの逆である。聴き手によって差はあるだろうが、これによって『あなた』は具体的な1人の人物から何か普遍的な象徴へと変換された…かな?という感触が残される。ここらへんの匙加減は繊細だ。

もういっちょULTRA BLUEからBLUEはどうだ。詩的な言葉が居並び私的な独り言で埋めつくされているかと思いきやまず『darling』が出てくる。これ、日本語に訳すと『あなた』だ。Youというよりは、奥さんが旦那さんに向かって発するあの『ねぇ、あなた』の『あなた』である。日本語の歌の中で英語を持ってきてあからさまさを避けているのもまた手法だろう。

それ以外はずっと独り言かと思いきやかなり唐突に『あんたに何がわかるんだい』が挿入される。この一節はショッキングだが、あなたではなくあんたにしたのはメロディーに合わせてという事もあるし、darling的なあなたとは別ですよという意味も含まされているのだろう。とするとこのパートは、ラブソングより応援歌やメッセージソングの立ち位置に近いのではないかという気分になってくる。確かに、この慟哭ぶりは、自分を奮い立たせているようでもあるし、自分を諦めさせようとしているようでもある。実際の所、揺り動いていたとみるべきか。

その流れでの吐き捨てるような『あんた』だから扱いに困る。何がわかるんだいと言われても未だに何もわかんないよ。


斯様に、ひとくちに『あなた』といっても様々なバリエーションがある。「二人称の音楽」とは、それらの間をいったりきたりするかなり幅の広い、かつ制御の難しい類の音楽なのだ。

次回にこの話が続くかはまだ決めてません。どうなりますことやらですわ。やれやれ。

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ちょっと難しい話をしているが、更にここから難しくなる。覚悟。

歌詞の「あなた」にはとても大きく分けて二種類ある。「君」でもいい。要はYouである。

ひとつは、聴き手が歌い手に感情移入して「私」になって歌う「あなた」。聴き手はそれぞれの思い人を頭に心に思い浮かべて歌を聴く。或いはもう自分で歌っちゃおう。

もうひとつは、聴き手の方が実際に「あなた」になるケース。つまり、歌い手がそのまま「私」になって、こちらに何か言ってくる歌だ。

前者は大体ラブソング、後者は応援歌やメッセージ・ソングになる。

ヒカルの場合後者の例が少ない。どちらかというと歌詞がストーリーテリング的だからだ。その数少ない中の代表曲は当然「応援歌のパロディ」“Keep Tryin'”である。『とっても気にしぃなあなたは少し休みなさい』は、ヒカルが我々に送るメッセージだ。お父さんお母さんお兄ちゃん車掌さんお嫁さんに贈るKeep Tryin'のメッセージね。ただ、キメのフレーズの『あなた』は…という話は後に回そうかな。

ちょっとした変形もある。Deep Riverだ。『全てを受け入れるなんて しなくていいよ 私たちの痛みが今 飛び立った』―本質的にはこれはヒカルが自分に言い聞かせているものだが、形式的には我々に歌いかけているという意味で応援歌やメッセージソングに近い。『私たち』は『私とあなた』或いは『ヒカルと僕ら(聴衆)』である。

ただ、Deep Riverには他に『あなた』が出てくる場面がある。『何度も姿を変えて私の前に舞い降りたあなた』だ。ここはラブソング的、と言ってもいいが、寧ろもっと象徴的な、神格化された存在、英語でいえば"thee/thy"、日本語に無理やり当てはめるなら"汝"に近い。英語では神格化された対象は三人称より二人称で呼ぶ事を好む。ここらへんは感覚の話になってくる。

先程先延ばしにした話はここで出てくる。Keep Tryin'に出てくるもうひとつの『あなた』、即ち『どんな時でも価値が変わらないのはただあなた』の『あなた』だ。これはかなり両義的である。我々1人々々がそれぞれかけがえのない大切な存在なのですよ、というメッセージソング(そして真の応援歌)であるようにも受け取れるし、歌い手にとって誰か唯一無二の存在(恋人とか親友とか親とか憧れの人とか)に対してあなたの価値は変わらない、という堂々たるラブソングであるようにも捉えられる。ここの見極めは難しい。

恐らく、この部分は両義性自体に価値があるのだ。Deep Riverの『あなた』は『舞い降りる』くらいだから普通の人間とは異なる神格化された存在で故に歌自体が神話的な色合いを帯びている。一方、Keep Tryin'はその神格化された存在が"世俗にありふれている"事を示唆している。

思うに、間にPassionが入るのである。どこか果てしない聖域からまさに舞い降りるが如く『年賀状は写真つきかな』と歌うあの感じだ。Keep Tryin'の"地に足のついた感じ"は当時のヒカルの楽曲制作の順序に対する考察抜きでは語れない。


うぅん、本当にこの"あなた"の話は難しい。しかしもう幾つか例を見ていってみようかな。次回へ続く。

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二人称の音楽をPopsに持っていくのは難儀である。不特定多数を相手にする三人称は、最初から相手が仮想的な存在だ。勝馬に乗る、という表現をしたように、それこそ皆が趨勢を見定めながら動く為、誰の内面にも依拠しない勝馬がせり出してくる可能性もある。それを見極めるには、日本語的にいえば"空気を読む"能力が必要になってくる。

一人称では、相手は実在している。自分自身だ。自らの感性に妥協しない事もまた熾烈を極める所行である。他者の目の無い所で妥協の誘惑に打ち勝つのは難しい。だからこそアートにはリアリティが宿り、Popsはどこか浮き足立っている。集団とは幻想の共有で形成されるのだ。

二人称は、そのどちらにも属さず、且つ両方の性質をちょっとずつ備えている。ただ、それを大衆音楽として昇華させるとなると、本来ある1人の実在として想定されるべき"あなた"が一般化され抽象化され得なければならない為、そこの処遇が難しい。それが他の難儀との差だ。

ひとつの方法論は、徹底して具体的な"あなた"を列挙していく事である。身の回りの人、友人、家族、テレビで見た有名な誰か、そして名前を覚えてしまったファンの1人々々に至るまで、1人々々に伝えたいメッセージを思い浮かべ、それを要約していく作業だ。最終的にそれが一曲の歌、一枚のアルバムに収束すればOKである。仮想と実在の中間を相手にする作業だ。

と、いう風なプロセスを想定している為、ヒカルがこの5年でいちばん疎遠になった"会って話した事もないのにずっとこっちを見ている(気持ち悪い(笑))ファンという謎の種族"との対話の展開が難しくなっているのでは、という話だった。それすらすっ飛ばして、家族との対話だけで普遍性まで辿り着いてしまう事をヒカルには期待してしまうところだが、はてさてどうなっているものやら。

1stアルバムで、その、"ファンからの目線"のない状態での曲作りを経験しているから、ある程度は大丈夫だろう。それと同時に、今までに浴びせ続けられてきた"大衆の目線"、"ファンの目線"の無い状態を、不安ととるか解放ととるかで大分違ってくる。Hikaruにとっての、歌の中の"あなた"は、今度はどんな人になるのだろうか。

なお、歌詞に出てくる単語としての"あなた"は、多くの場合直接的には我々聴衆の事を指さない。その話は長くなるのでまたの機会という事で。

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「他者の目線を気にして作った音楽」は、不思議な事に、他者の目線を気にして生きている人に響く。それぞれ話のレベルは違う筈なのだが、そうならないという論拠もまた、無い。音楽を聴き慣れた人間の感想なのかもしれないが。

少し言い方を変えれば、自らの耳目に基づいて価値判断をせず、人の顔色を窺い、趨勢を読んで有利な方につくスタイルの話である。俗に言う“勝馬に乗るタイプ”だ。

それを音楽的に実践し続けているのがU2だ。昨年私のところにも御多分に漏れず彼らの新譜がやってきたのでその時に聴かせてもらったが、その「最大多数を狙って勝ちに行く」姿勢は相変わらず健在だった、というかかなりわざとやってんじゃねーかコレ感が強かった。彼らくらいビッグになると彼らが勝馬に乗っているのか彼ら自身が勝馬なのか最早わからないが、まさにこれこそ「他者の音楽」のお手本に相応しいPop Musicそのものという作風だった。サウンドは基本ロックなのにね。

こちらは根っからのメタラーなので、勝とうが負けようが、追い風だろうが向かい風だろうが、雨の日も風の日も自らの愛するものを愛するのが基本だ。そんなに人目を気にして音楽に接して楽しいかねぇ?と思って生きてきた。「しゃらくさいなぁ」と。でもまぁ、歳をとったせいでそういうのもまたアリだなと思えるようになってきた。好きな音楽のタイプは相変わらず変わらないけれど、「それはそれで」と楽しみ方を増やした気はする。

Hikaruの音楽はその点、ずっと難しい。この「ずっと」は時間的に続いてきた事と程度が甚だしい事の両方である。テーマとして、人との距離をはかりながら如何に自分らしい生き方をするか、自分らしい歌を歌うかというのがテーマだった。For YouからDISTANCE、そしてFINAL DISTANCEから光へという流れを思い出せば明らかだろう。

『誰かの為じゃなく 自分の為にだけ 歌える歌があるなら 私はそんなの覚えたくない だからFor You』―ここでは歌の在処が自分の内面だけでなく他者の存在を必要とする事があからさまに表現されているが、しかしその他者とは"You"である。

U2が勝馬に乗ってる乗ってないの話に出てくる“他者”とは“第三者”の事だ。皆は今何をどう感じているのだろう、と探りを入れたり訝ったり信じたり疑ったりする立場である。

しかし、Hikaruは一貫して、他者として「あなた」という二人称に狙いを定めている。つまり、自らの表現としてのアート、或いはアートとしての音楽が一人称で、U2のような"大衆"を相手にした他者の音楽は三人称といえ、そしてHikaruの音楽は二人称なのだ。

EXODUSのOpeningでもこう述べている。『私が飛び越えたいのは、ジャンルとジャンルの間ではなくて、あなたと私の間なの』。今私が訳しただけだから新谷さんの訳とは異なるかもしれないが、ジャンル分けとはまさに三人称の仕業である。彼はあちら、彼女はそちらという風に。あなたと私ならば、ジャンル分けなんて要りはしないのだった。

そこが、Hikaruの特異性である。Popなのに誠実さを感じさせるのは、つまり、勝馬に乗ろうといつでも寝返るような尻軽さがないのは、"あなたと私"に焦点を絞っているからだ。確かにそれは他者だが、Hikaruに魅了された人は多くが「私だけのヒカル」「彼女は私の事をわかってくれる」と口にする。歌があなたとヒカルを「あなたと私」の関係に持ち込むからだ。歴史の何が凄いって、その二人称の音楽が三人称の音楽のどれよりも売れてしまった事だ。この国では。

とすると、1999年ってもしかして、この国で「他者の集合体」即ち「皆」が壊れ始めたタイミングなのかな、だから虹色バスは…という話は流石に今は持て余すのでまたの機会にしましょうか。

それにしても。U2が三人称の音楽で、U3 MUSICの人が二人称の音楽だなんて奇妙な捻れ方をしているものだな。面白いもんじゃわい。

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