無意識日記
宇多田光 word:i_
 



記念すべき光の1000ツイートめは『我が父ながら激しく嫉妬』であった。

今夜はこのタイトルで「嫉妬」について書く事になったので渡りに船過ぎる。やっぱアイツここ読んでるな。奴ならこのタイトルを予測出来たハズだから。いや、でも何も知らずに照實さんのカプツィートから2日半経ったこのタイミングで書いたとすればそっちの方が凄いんだが。

まぁそれはさておくぜ。

前にくまちゃんが対岸の親子に対して抱いた感情は"嫉妬"なのかもしれない、と言いかけて控えめにその時は「という仮定もありえる」位のニュアンスに抑えておいたが、やはりあれは嫉妬であると断言した方がいい、のかな。やっぱ弱気になるわ。

というのも、光が嫉妬するケースってそうそうないのだ。フレディーの直筆サインを持ってるぜ的な自慢をしたとしても彼女が抱く感情は羨望程度である。羨ましがられはしても、別に妬まれない。嫉妬とは何より、「そこは私の席なのにっ!」という感情が必要不可欠である。自分が居るべき場所に他人が居座っている、おかしい、間違っている、そう思わなければ嫉妬ではない。

光は宇多田ヒカルという席にずっと座っていて、平穏無事にメディアの目を気にする事なく過ごせる学生時代を、まぁ少々羨みはすれど妬み嫉むようなことはなかった。誰よりも、自分の席はここであるという確信が強かったからだ。Deep River+の最後の方で呟いている通り、光は光の道を歩み続ける。そんなだから去年、三宅さんの10年前の発言を引用した記事に噛み付いたのだ。光は、イヤだなと思った事はあってもそれを後悔なんてしてないのである。誰も妬みようがない。

そしてくまちゃんは、光にとって感情の補完的存在である。くまちゃんは自信家で尊大であり、登場時から宅前に座って「カンタンだよ。出来るよ。」みたいな事を言っていた。あれ、正確にはなんつってたんだっけ。すまん、忘れた。

そういった甘さや侮りといったカテゴリーは光には、ない。他にも、カンシャクを起こしたり富と名声に目が眩んだり(1000円でだけど)と宇多田ヒカルからは程遠い感情を次々と表現してきた。

そんな中で、メッセ愛読者にとって最も強烈な印象を残したのが、仕事から帰ってきた光に対して「他のくまと会ってたんでしょ」と光を疑うくまちゃんの写真である。あれは息を呑んだ。あの写真こそが"嫉妬"なのだ。


…あとでリンクはっとくか…

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しかしこれだけ連日妄想を繰り広げていても光から新しい情報が入ってこない以上"実体・実態"と照合する事は出来ず、総ては宙ぶらりんのまんまだ。まぁ、わかってたことだけど。

色々と考えた挙げ句に光の新しい言葉とソリが合わなかったら、あっさりそれを棄てる踏ん切りが必要だ。棄てるといっても削除する訳ではなく、まぁ言ってみれば現実をモデルにしたフィクションを書いたと思えばいいだけの話である。或いは異なった世界線上のお話とか、言い方は何でもいいんだが、結局いちばん興味があるのは今を生きている宇多田光なのだから間違いは間違いである。

しかし一方で、そのような妄想・虚構自体もまた、こうやって文字にし人の目に触れる事でその実体・実態に影響を及ぼすという側面も存在する。特に光本人が某かの経緯でウチのエントリーを読んで、『あぁ、今までそんな風に考えた事なかったけどそう捉える事もできるかぁ』と思った時に、この虚構だか何だかわからないものの描写は効力を発揮する。虚構自体はどこまで行っても虚構だが、虚構の描写は現実を変える力を持つかもしれない。虚構の描写は実体であり虚構ではないからだ。いや"構"って漢字が入ってるから描写って意味まで含むかな。なら妄想、想像って言い方でいいけれど。

光の目にとまる所まで行かなくても、これを読んだ読者諸氏がその考え方に基づいて、或いは共感してくれて光にメールを送ったりなんかしてくれると、遠因ではあるがやはり現実に影響を与える事がある。多分に傍観者的なスタンスをとる当欄だが、こうやって文字にして発信している以上ただの傍観者たりえず、その"中"に巻き込まれてしまっているのだ。インターネットって素晴らしい。

まぁ、とはいっても、今の光はインターネットを利用しているかどうかすら定かではないのだから、そんな当て所ない事は差し当たっては考えず、まず今読んで面白い事をただ書き続けると致します。書けてるかっていうと、うーん、だけれど。

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