無意識日記
宇多田光 word:i_
 



と、いうわけで今の2人相手にもう気遣いは不要だと思うので、普通に接する事にする。遠すぎて接せられないけど。

要するに、ただ落ち込んでいるだけの時間を過ごす気は多分ないだろう、という推測だ。人1人死んでいるのだからまだまだやり残した事があるかもしれないが、葬儀を始めとして法要の類がないのなら、2人ともそれぞれ独自のやり方やタイミングで弔いを行うだろう。

純子さんを喪った悲しみが癒えてきてる訳でもない。特にHikaruにとっては、普通の意味での母親以上の存在だった訳で(この仕事の先輩という意味でもね)、何かする度に頭をよぎるだろう。ある意味、ずっとこれからも追悼は続いていく。忌明けも何もない。最早、彼女が死ぬ前には戻れない。ならば、ただ落ち込んでいる事はしないで、動き始めた方がいい。

手始めに、In The Flesh 2010 footageはどうなったのか。8月中に何らかの発表がある筈だったが、当然「今はそれどころじゃない」という感じか。しかし照實さんとしては、例えば「発表の延期」についてTwitter上で発言する義務があるだろう。如何に元妻が亡くなったとはいえ、「葬儀はしない」と公言してしまった以上、時間をかけた弔いは社会的には許されない。厳しいようだが、それはそういう意味なのである。何らかの宗派の伝統的なやり方を踏襲する事によって、社会的に、極々個人的な心の平静を取り戻す過程を、社会に受け入れて貰うのが儀式の要諦だ。それを省いたからには、それが幾ら故人の意志とはいえ、いや、故人の意志だからこそ、早々に社会復帰しなければならない。圭子さんの真意なんてわかりゃしないけど、葬式するなってメッセージは私が死んだ時に色んな人の時間やお金や手間をかけさせるな、って意味になるんだから。

という訳で、今日は1日照實さんかHikk_Staffか、或いはレコード会社からの情報を待つことにします。今の時点では照實さんしかこの件について発言していないので、彼が口を開くのが筋かな。それにしても、暑い暑い8月でした…。

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強さ  


特にこだわりもなかったのでヒカルが助手席に乗っている映像を見てみた。当初は、ヒカルも別に悲しい顔見て欲しい訳じゃないだろうと思って見なかったのだが、助手席にわざわざ座った、というのでじゃあそれは撮影される事を覚悟の上だったのかと思い直した次第。

Youtubeにあった40秒ほどの動画。あんまりにも切ないので見たファンが罪悪感に駆られるという話だったのだが、ふむ、私が見た分に関してはしっかりと堪えきっていて見上げたものである。確かに、ここまでコントロールできなくては人前に出られないだろう。

悲しみは全く癒えていない。それどころかこれから時と共に増していくかもしれない。母が偉大であったのなら有り得る。たとえ普段全く行き来がなかったとしても、その存在感は、重い。

ヒカルは沈黙の5日間で、しっかりと理性を整えてきた。沈黙の間、一体どんな表情をしていたのか私は怖くて想像が出来ない。しかし、ちゃんと人前に出れる所まで持ってきた。悲しみが癒えたからではない。ただ、暴れ馬の乗り方を覚えただけだ。暴れ馬の方の体力は尽きる事を知らず、大人しくなる気配はまるでない。

個々がどういう捉え方をして罪悪感に苛まれたかはわからない。ただこちらから言える事は、あれは余所行きの顔だから、存分に見てあげて下さい、という事だ。見せる為の顔なのだから、ヒカルに気兼ねなく、見たいだけ、どうぞ。彼女はそのつもりだろうから。

「あれのどこが余所行きなんだ!」と憤る向きもあるかもしれない。ヒカルに慣れているファンは、あそこからヒカルの悲しみを読み取れてしまう。しかし、今はそのレベルの話はしていない。大多数の人たちは、あの顔を見て、「沈痛な、落ち込んだ表情」と見て取るだろう。それでいいのである。その為の顔なのだから。

しかし、実際はあの顔は戦いの真っ最中の顔だ。悲しみに圧し潰されぬよう堪え抗い耐え操る戦士の表情である。理性を発達させる人間とは基本的に感情過多である。理論武装とよく言うが、大きすぎる感情の振幅を理性の鎧に押し込めて操る事が、まともな生活を送る上で欠かせない。だから間違いなく、理屈っぽい奴は怒りっぽい。すぐに冷静さを失ってしまうから理屈を並べて平静さを保つのだ。

宇多田ヒカルの感情の振幅は途轍もなく激しい。ヒカルの理性は日本人女性の中では間違いなくトップクラスだと思われるが、その感情の暴れ馬っぷりは凄まじく、時折振り落とされ暴走を許す事もあるだろう。それを音楽という表現手段で対象化し対称化し何とか社会的な状態にもっていくのだ。99年の狂騒は、即ち、一億人を巻き込んでの宇多田ヒカルの感情表現の一環だったと思っている。それ位のスケールの助けを借りなければ表現仕切れない、それだけの強い感情が、彼女の理性を育ててきた。いや、育んでこざるを得なかったのだ。

その彼女が今、今まででもトップクラスの感情の振幅と対峙している。感情そのものを減らすなんて事はまだ出来ない。宥め賺しして何とか制御しているに過ぎない。まだその感情と心を同化させ消化し昇華させるまではいかない。それはこれから何年、何十年、もしかしたら死ぬまでかかる。死んでも解決しないかもしれない。

しかし、あの5日後に開かれたメッセージと助手席での沈痛な面もちは、果てしなく気丈である。確かに危うい。危なっかしい。暴れ馬はラオウの国王号並みの、いやラオウ並みの強敵である。しかし彼女はしっかりとそれと戦い、食い止めている。その意味において私は安心した。彼女は生きる気満々なのだ。少しでも気を抜けば感情の奔流に押し流され踏み潰されるだろう。そうなっては精神の崩壊だが、今の彼女はファイティング・スピリッツに満ち溢れている。この悲しみを乗りこなす。それを支えているのは間違いなく純子さんへの愛である。彼女を喪った悲しみを、彼女を喪った悲しみでより強くなった彼女への愛で迎え撃つ。まるで天使と悪魔、神と魔王との争いだが、鍵を握るのは真面目な話、表現力だ。何をすればこの感情を"表現しきって"昇華する事が出来るか。勝負である。長い長い戦いは、まだまだこれからも続いていくのだ。一見沈痛で悲しみに落ち込んでいるあの助手席での表情に、私はこうキャプションをつける。『負けちゃいけない。』

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藤圭子さんが亡くなってから7日が経過した事だし、そろそろ軽めの話題でも…と思っているが、無理かなぁ。

葬儀を行わないのなら、そこから後の法要もないのだろうから、遺族は気持ちの踏ん切りをみつけるのが難しい。忌明けをキッカケに気分一新、とはならない。儀式は精神の現象化なので、特定の宗教に頼る必要はないが、何らかの形ではあった方がいい。光の悲しみの深さを考えると、周囲もその手助けをするべきだ。

とはいえ具体案がこちらにある訳でもない。儀式とはいえ極々プライベートな話なので宇多田光氏の私生活を知るものでないとアドバイスはできない。

メディアを通じて(といってもオフィシャルサイトやメルマガやツイートはかなり"直接"なので"中間"という感じは少ないのだけど)接している身としては、そちら側の顔を考えてアイデアを出す事になる。

すぐさま思いつくのは、KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru だろう。以前述べたように、タイミングとしては9月の放送は休んでも仕方がないだろう。寧ろファンからは積極的に休んで欲しい、という意見も出てきそう。それはHikaruの状態次第だが、"全く何も触れない"のは流石に違和感がある為、放送するならちょっとだけでも言及する必要がある。

一時間まるまる藤圭子追悼特集というのは、私は望む所だが、放送局としては少し無理かもしれない。国際色を押し出しているInterFMで一時間演歌が可能かという問題。それならば、例えば藤圭子が好んで聴いていた洋楽特集、なんてものなら可能かもしれない。

しかしいずれであっても、Hikaruの精神状態次第であるというのは変わらない。ほんの少しでも肉声で追悼の気持ちを公に伝える事で、Hikaru自身も吹っ切れるキッカケを掴めるかもしれない。吹っ切らなくてもいいじゃないという見方も有り得るけれど。そうなるとこれは先述した"儀式"にあたるだろう。プライベートはわからないが、社会的な存在としてのUtada Hikaruは、人間活動中とはいえある意味「復帰」できるかもしれない。

この「賭け」を実際に行うかどうか。Kuma Power HourはHikaruの独力で成立している番組であるから、相談相手が居ない。今のHikaruに冷静な判断を下せというのも酷だ。照實さんに出向いてもらって…と思っても、彼だって悲しみの深さはHikaruと変わらないだろう。付き合いはずっと長いんだし。となると、ここで詰む。正直どうしていいかわからない。


この小さな小さな家族が背負ってきたものの大きさに、あらためて溜息を吐く。この、何の後ろ盾もない"ユニット"が昔も今も日本中を騒がせている事。不可思議だが真実だ。芸能界とは、馴染まない筈である。

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そろそろ月末なんだな。In The Flesh 2010 footage の発売について発表がある頃だが、流石にその件について照實さんにツイートで質問する猛者は居ないか。…私か。んじゃま音沙汰が無ければ週末にでも。みんな訊ね難いだろうし。


「くまちゃんとHikaruを入れ替えて考える」というアイデアは、どこまで何に適用出来るかはわからない。一体どうやって"ただの綿"をあれだけ愛する事が出来るのか。ぬいぐるみを愛用した事のある人には案外大体自明というか愚問というか「そんなこと言われても。気がついたら話し掛けてるんだから」って感じだろう。あらためて訊かれても困ります、と。それに、人を愛するのと綿を愛するのに本質的な違いがあるかというと、これが結構わからないし。

基本に立ち返ると、綿と会話していると、自分が独りで考え事をしていても考えつかないような、思いも寄らない"返事"が返ってくる事がある。作家が「キャラクターが勝手に動き出す」と言う事があるが、その効果を綿は持っている。そういう意味において、実際に生きている人間と何ら変わらない。アニメのキャラクターをまるで生きているかの如く扱うように、綿もまた生きている。Hikaruにとっては、そうとしか言えない。

くまちゃんを考える時、キーワードのひとつとして必ず出てきたのが「母性」だった。Beautiful Worldを初めてフルで聴いた時、私は「まるでお母さんみたいな曲だなぁ」と呟いた。Stay Goldの、年上のお姉さんが年下の男の子を優しく見守る姿は、まんま(でもないか)くまちゃんを見守るHikaruみたいだ。2006年~2007年あたりから、Hikaruにこういった側面が表れてきたように思う。

当時は、それを年齢に起因するものとして捉えたり(23,4歳の頃だ)、EVAというテーマがそうさせたと考えたりしていたが、今、ひかるの「本当のお母さん」との事についても考える機会を得ている。それは、喪失感だったのか脱却だったのか。まだまだ情報は少ないが、作風の変化どころか生き方にまで関わる事なので肝心である。

Hikaruは、CMでもグッハピでも、ギガントを"脱ぐ"仕草をする。また、ギガントがHikaruを脱ぐ落書きも書いた事がある。一言で言ってしまえばこれは色即是空空即是色であって、くまちゃんだと思ったらひかるで、ひかるかと思ったらくまちゃんで…という幻惑的な様子を描いている。もっと言ってしまえばこれが宇宙の真理、本質という事だろう。「ぼくはくま」が最高傑作と言った当時のヒカルからすれば、そういう風に言い切った方がしっくりくる。

とすると、やはり同じ疑問に戻るのだ。ぼくはくま。なぜくまちゃんは男の子なのか。色即是空空即是色に当てはめてみれば、男かと思ったら女で、女だと思ったら男で、という感じ。そういえばHikaruは落書きする時に「自分の胸を描き忘れる」と言っていたな…まだツイッターの画像残ってる?


それは、男の子になりたかった願望なのか。男の子だったら、母にこう愛されていたかもしれない、というシミュレーションをくまちゃんとひかるで展開しているとしたら、何か泣けてくるぞ。

しかし宇多田光はもっと多義的である。彼女は純子さんの事を「かわいらしい人」と言った。ここが何となく重い。そういや「なんとなくインディーズ特集」の記事まだ途中だったな。どーにかしないと。それはいいとして(いいのか)、この、「かわいらしい」という感覚は何なのだろう。男性的な感覚なのだろうか…という言い方には百合男子としての俺(そんなペルソナがあるのかキミは)が待ったをかけたくなる。女性が女性をかわいらしいと言って何が悪い、と…。ひかるの男性性や少年性は、5歳の頃以降…嗚呼、では、母にどう罵られたことがあるか、って話になるのか…ここでこの連載中止しないといけないかもな…一晩考えますわ。兎にも角にも、今危なっかしいテーマ扱ってるわ無意識日記は。

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5歳の頃から、となると様々な事実関係を、殆ど最初っから再構築する事になる。あれをああ解釈していたのは実はこうで…というのを延々と。

解釈なんて1人1人の自由だし、そのお互いの自由を侵害し合わない限り正誤も真偽も議論する気はない。何より、後から何かが発覚したからといって今までHikaruが作り上げてきた作品群の素晴らしさが損なわれることはない。いい曲はいい曲のままなのだ。昨日までと変わらず。

ただ、今回の事で"新しい光の当て方"は見いだされたと思う。違う角度異なる側面から詞世界を見直す事によって新たな魅力も発見されるかもしれない。となると、結局やっぱり事実関係を詳細に知りたくなる。それは、Hikaruの好きな音楽や書物と同様、創作のインスピレーションの源泉のひとつとして扱われるべきだ。

問題なのは、そうやって詞世界を掘り起こしていくこの過程自体が、Hikaru自身に影響を及ぼす可能性である。歴史上の人物について研究するのと、今を生きている人物を見守るのとでは大きくそこが違うのだ。その相互作用。勿論、Hikaruがこの日記に目を通す機会があったならの話だが。

そういう意味においては、私が幾ら藤圭子さんについて語ろうが、彼女にこれから影響を与える可能性は間違いなくゼロである。今までだって一度も読んだ事はないだろうが、この純粋なゼロは重い。最早、何を言っても何を書いても問題ない。彼女の人生に影響なんてないのだから。終わってしまったものに影響なんてない。そういうことなのだこれは。


話を戻そう。Hikaruが純子さんとどういう関係性をもってきたのか、時系列上にまとめなおして歌詞の再解釈を試みる作業。どこまでできるかわからないが、やってみる価値はある。この作業自体がレトリックそのものになりそうな予感もするけど。

で、手始めに「ぼくはくま」から始めたつもりだったんだけどなぁ。なかなかうまくいかないや。

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読者層を考えて、だなんて柄にもない事を言ってしまった。自分が読みたいもの、読んでよかったと思えるものを書くという基本スタンスは変わらない。心境の変化でもあったのか私。多分、日記を書くにあたって色々な人たちから沢山情報を貰っているしそれがないとそもそも何も書けないのでその感謝の気持ちも多少あるんだろうな。でもまぁやっぱりマイペースでいきましょう。


全部すっ飛ばしてくまちゃんから始めてみよう。彼は男の子である。長らくそう思われてきたがゲイだとHikaruが勝手にカミングアウトしてくれたお陰で性別が確定した。レズの場合もゲイと呼ぶ可能性が微レ存とか言ってたらキリがないので確定で。

なんで男の子なのだろう? 見た目?名前?それともテディベアって女子居ないの?あれがオランウータンなら性別わかりやすいのに。これは根本的な疑問である。Hikaruも深く考えずにいつのまにか、という事だろうか。

恐らく、最も尤もらしいタイミングは、Hikaruがベッドでくまちゃんとじゃれあってて不意に口をついて出てきたメロディーが「ぼくはくま くま くま くま~♪」だったまさにその瞬間だったのではないか。自然に歌った歌が「ぼくはくま」だったのだから、くまちゃんは男の子だろう。男の娘な可能性が微レ存とかもういいから。歌が生まれた瞬間に性別が確定したとすればこれはもうHikaruにとっても理由は「よくわからない」のではないか。

そして、最終的にHikaruはくまちゃんになりたがる。百万円だかそれ以上だかをかけてギガントを作り上げる。並々ならぬどころか常軌を逸した情熱だ。ここがまた興味深い。幾ら溺愛してるからといって、その愛情の対象に、自分がなりたいと思うのか? 例えば私が「宇多田ヒカルになりたいか?」と訊かれても答に窮してしまう。「なってみたいか?」という質問なら即座にYesと答えるが、それは「どんな感じか知りたい」という意味であって、なりたいのとは訳が違う。そう考えると、「なってみたい」人はたくさん在るが、「なりたい人」って俺居ないんだな。自己実現云々より、前も書いた通り「ただ知りたい人」なので誰かとかいう前に「何かになりたい」という感情が果てしなく薄い。そんな事より知りたいのだ。くまちゃんは何故男の子?

Hikaruがギガントを着るに際して、特に性別は重要ではなかっただろう。そんな事よりくまちゃんになりたい。ただひたすらそれだけだ。いつの間にか決まってしまっていた設定なんてどうでもいい、と。

なりたい何かがない私がなりたい何かが溺愛の対象であるHikaruの気持ちなんてわかる筈もないのだが、ほんの少しだけ考えてみたい。

Hikaruの自己実現がくまなのだ。安らぎや癒やし、元気を与えられる存在になりたい、といったところか。

しかし、現実にくまちゃんとの会話を見ていると、Hikaruは彼に対してどう振る舞っているかといえばお母さんだろう。色々と教えたり諭したり、遊んだり宥めたり抱き締めたり。それに対して無邪気に返すくまちゃん…いや勿論彼は対等な目線で話している為親子という感じでもないのだが、Hikaruはくまちゃんと話している時は異様に包容力があり、異様に幸せそうだ。

逆から考えてみるべきだったかもしれない。いちばん重要だったのは、Hikaruが、くまちゃんと話してる時に"なってる自分"の方だったのではないか。くまちゃんと話す事で、優しく、穏やかな口調、気持ちになれる。そして、それは何かといえば、"憧れの母親像"だったのではなかろうか。それは、部分的には純子さんが体現していた事で、また、部分的には純子さんに足りない部分でもあった。憧れというより、理想の、と言った方がいいのかもしれない。Hikaruが本当に欲しかったのは、くまちゃんのように奔放に無意味に自信家に甘えん坊に振る舞っても優しく受け止めてくれる存在、つまり、彼女はくまちゃんと話している時にだけ演じられる"あの役割"が自分にも居てくれたら、と願っていたのかもしれない。

それなら、私にもギガントになる理由がわかる。くまちゃんになる事で、Hikaruが演じる"あの役割"、即ち「憧れの理想の母親像」を得る事が出来るようになる。そうなって初めて、秘められたHikaruの願いが叶うのではないか。でも実際にギガントになっても、肝心のその役割を担って演じてくれるHikaruがどこにも居ないのだが…。


そうすると、くまちゃんとHikaruの会話の正体がみえてくる。あの時、くまちゃんとして話しているのがHikaruで、Hikaruが演じている方が、何か別の誰かなのだ―とそう考える。ややこしいぞ。ややこしい。でもこれは、俺が話さなくてはならない。キリヤンはCasshernで似たような演出をしていたが、あれではまだまだ不十分だ。通じ合った2人は、自分の思う事を相手が、相手が思う事を自分が話すようになる。要するに入れ替わるのだ。Hikaruとくまちゃんはそこまでの関係なのである。


流石に難易度が高いな今回は。ひとつもわからなくったっていい。仮説としても大胆を通り過ぎて誇大妄想に近い。しかし、何か本質を掠っている気がしてならない。だからくまちゃんは男の子なのだ、とこの先に言える気がしてならないのだ。しかし、本当にそこまで辿り着けるだろうか…。

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ヒカルの映像やら写真やらは、もう日本では数千万人単位で出回っているのだろうか。私はシンプルに、多分Hikaruは本音をいえばそっとしておいてほしいのだろうから特に観ようともしないのだが、何だこの疎外感。ヘンなの。実際にスルーしてる人は一切発言してないだろうからこんなもんなんだろうけど。

話を大幅に短縮して結論だけ書けば、私はテレビ新聞雑誌に"権威"を感じていないんだと思う。用があれば使わせて頂くし、でなければスルーする。それだけの事なのだが、多くの人はかなり無自覚的にマスコミ依存なのだろう、見た上であーだこーだと愚痴を言い、何一つ改善されない。確かにメディアは余りにも巨大で、一朝一夕には何も変わらないが、自分の行動も変えられないのにそんな巨大なものを動かせ…るのが今の時代ってもんか。何だか総て対岸の出来事という感じで。私はネット依存だけどマスコミ依存ではないのでとっととスルーしときますね。…この話はやっぱり長くなるなぁ。いちばん向こうが嫌がるのは「無関心」なのだが、依存してると無理だわね。

2人が伝えたい事はメッセージに書いてある事だろう。こっちはそっちがベースだ。宇多田ヒカルはデビュー時から発信基地を持ってきた。マスコミが如何に正確な情報を伝えるにあたってアテにならないか。私は優しくないのでわざわざ不快感を訴えて抗議するなんて親切はしない。Hikaruが発信する情報だけで十分だ。尤も、そもそもヒカルの事を知れたのもそうやってマスメディアが大騒ぎしてくれたお陰なので、その大恩を忘れるというのも人としてどうかと思うけれども。


読者層を想定して話を整理するだけでも字数を使うなぁ。マラソン覚悟でないとこのテーマにはおいそれとは踏み入れられないんだな。一生ズシリと重くのしかかるもんな。母親を自殺で喪った事実。


今回もひとことだけ付け加えておくか。こっちが主文なんだけど。

メッセージを読んで安堵した理由は幾つかあるが、ひとつは、それだけ長い期間苦しんできたのなら、「死」の衝撃自体は、そんなに唐突ではなかったかもしれない、という事。精神疾患の部類に分類される人のみならず、話を認知症患者さんまで広げれば多くの人も当事者になるのだが、生きているうちにこちらの顔や名前がわからなくなったりというのは相当のショックで、往々にしてそれは、後から振り返ってみるとその人が実際に死んだ時よりも精神的打撃は大きかったりする。家族との闘病の記録は、本人の結末が死であった場合、家族にとってそれは長い長い"入院"生活からの"退院"みたいなものだ。妙な響きだが、前も述べたように喪失感と後悔と居心地の悪い安堵感の複合が心に去来する。死は衝撃的だが、ある意味その深さや大きさについてはある程度"予習済み"ともいえる。だから、2人は今毅然とした対応を取れているのだろう。勿論文章ではある程度「やせ我慢」が出来るので、会って話してみれば憔悴しきっているのかもしれない
が、赤の他人に"そう受け止めてほしいからそう書いた"のだろうから、こちらもそう受け止めた上で発言する。今までもそうしてきたし、これからもそうしますよ。

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何かズレているなぁ、と思ったら前提を確認していなかった。私は精神的なタイプとして、圭子さん側の人間だ。世間的には彼女の方が病気なのかもしれないが、脳というのは多義に渡る器官であり、病気かどうかなんて社会性以外の定義は持ち得ない。ややこしい話を全部すっ飛ばすと、繊細過ぎる人間は世の中生きにくい。誰よりもちゃんと事実や真実が正確に見えているのに、少数派だからといって異端扱いされる。端的にいえば、世間は絶対多数の至極鈍感な者たちがいちばん快適に暮らせるように設計されているのだ。少数の天才は大多数のバカに合わせなくてはならない。大変ね。

私は自分の事をその少数の天才だと言ってる訳じゃない。ただ、大多数鈍感者が、そのことにすら気付かないのは欺瞞だと思っているだけだ。貴方が正常だと言われているのは貴方が世界に対して正しいからじゃない、ただ、たった今人数が多いというだけだ。それを忘れてはいけない。遺伝子に正解なんてない。ただ生き残れてきた一例でしかないんだから。

圭子さんは少数派だった。そういう風に私が言いたいだけである。その気分をもって、こちら側だと言ったのだ。


心の病という時、本人がその事について困っている場合と、そうではない場合の両方が考えられる。前者は病気だと言ってあげた方がいいことが多いし、後者は社会性次第となる。照實さんが「気まぐれ」の一言に集約させたのは、彼にとってそれが生きていく為の障害だとは認識されなかった、彼と彼女の作る関係性(小さな社会)においては問題がなかったという事だ。そこは、少しヒカルと温度差があったように思われる。


…いかんな、語る事が多すぎて、くまちゃんになかなか辿り着けない。どのルートを通ればいいのやら…


ひとつだけ、メモしておこう。ヒカルは自分の事を『EVAでいうならアスカがいちばん近いと思われてる』と分析していたが、今思うと、ヒカルがアスカと自分を重ねたのは、旧劇版を観た方なら思い出すだろう、母親が自分の事をわからなくなった経験をもつ者としての共感からだったのかもしれない。そう考えると本当にいたたまれない。また、ナウシカの母親は…っとそこまでいくと長くなりすぎるな。今回の更新はあまり読まれないだろうし、ここまでにしておきます。

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くまちゃんとは何だったのか。何であるのか。そしてこれからのくまちゃんとは。

文体と「くまちゃん」の響きのミスマッチが面白くてついベタな書き出しをしてしまったが、今回2人が純子さんについて告白した事で、くまちゃんの位置付けは大きく…でもないな、幾らかは変化する。

ファンなら薄々感じていた事だ。「藤圭子自殺」の報が入ってきた時、事の真偽やタイミングは兎も角、「恐れていた事が起きた」と思った人が多いのではないか。2人にとっても同じだっただろう事も又容易に想像がつく。だからといってそれを阻めなかった後悔の念が消える訳ではない。寧ろ「だのになぜ」の方が大きいかもしれない。どうにかならなかったのか、と。

周囲は「そんな事はないよ。責任なんてない。仕方なかったんだ。」と言っておけばよい。気持ちは伝わる。だが、後悔の念、それは一生ついて回る。その覚悟も、恐らく出来ているだろう。

話が逸れた。いや語るべき事が多すぎるから言える所から言っておいた方がいいか。取り敢えず軌道修正。


今回の注目点は、照實さんが「この感情の変化がより著しくなり始めたのは宇多田光が5歳くらいのことです」と語っている所だ。すぐさま、浦沢対談でヒカルが「5歳の時にMONSTERを見た」と発言した事を想起した。2つに関連があるかどうかはわからない。同じを指しているかもしれないし、全く別かもしれない。わからない。いえるのはこの頃、光は自らの生き方を左右するような大きな感情の揺れを経験した、という事だ。

5歳の頃から、ときいて「そんなに早くから!?」と少々驚いた事は正直に告白しなければならない。恐らく、何らかの精神状態にはなっていたりするのだろう、とは推察していた。今回のヒカルの記述で、薄々とだが病名も察せられる。どこかでそれは専門家が分析してくれるだろうから置くとして、問題はその程度とその期間、How & When 或いは How longであった。断片的にではあるが、時折、圭子さんが普通にヒカルのマネージャーとして振る舞っている映像も残っている為、一体いつ頃から、どの程度にだったのかが、こちらからはわからなかった。ついぞ今までヒカルが語らなかった事だし、こちらもそういった点がわからない為どこから手をつけていいかわからない。その為、今まで何かを語る時圭子さんのそういう面に関しては触れずにきた。

しかし今。時期や程度も含め、2人からの説明があった。こうして公表した以上は、今後公の場ではこれを前提に話が進む事になる。茨の道だが、2人の決断を支持しよう。

くまちゃんがやってきたのは2006年1月19日。今までは、やがて終わる結婚生活や、そういった面を勘案しないで純子さんと絡めて解釈してきた。しかしこれからは、もっと包括的に、くまちゃんの存在について語る事が出来る。少し時機を急ぎ過ぎている為若干不謹慎にも響くかもしれないが、どうか御容赦願いたい。なんか、引っ張っちゃったw

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人に「愛してる」と言うとき、それはどこまで"純粋"だろうか。「○○のこと好き?」とこども(の頃の私)に訊けば、食事を与えてくれる人やおもちゃを買ってくれる人、一緒に遊んでくれる人などの事ならそれを思い浮かべて「好きー」と答えるだろう。現金だが、そんなものである。というか、そういった"なにがしかのやりとり"を通じてでしか、愛情の確認なんて出来ない。それは抱擁や口づけかもしれず、お小遣いかもしれず、言葉かもしれず。

もしかしたら、それは一方的なものかもしれない。こちらからずっと与え続けているだけで何の見返りもない、こちらが奪い続けているだけで何のお返しもしていない。しかしそれでも、それは"なにがしかのやりとり"のひとつだ。無償の愛とか献身的な愛とか、言い方は色々あるが、一方的に施し、一方的に施されるのもまた愛だろう。Give&Give, Give&Take, Take&Give, Take&Take総てが愛情表現のかたちである。そう思う。


しかし片方が死んでしまった時。もうそういった"なにがしかのやりとり"は出来なくなる。与える事も、奪う事も。微笑みかける事も、話し掛けられる事もない。一方通行ですらない。こっちから投げるあっちがもうないのだから。投げつける事も押し付ける事も出来ない。おはよう、と言っても返事はない。それが死である。


しかし人は。誰かが死んだ時、その人の事を「愛してる」「愛してた」ときっぱり言う。もう何のやりとりも対話も不可能なのにその人への愛を語る。事実、死んでしまった人の事を愛していると真剣に語る。今でも、そして、いつまでも。



今回メッセージを寄せてくれたヒカルと照實さんは、純子さんへの愛を強く強く打ち出している。純子さんからは様々なものを与えられ、様々なものを奪われた。様々なものを彼女から奪い、様々なものを与え続けた。その関係性が今や総て溶けた。溶け出してなくなった。強烈な後悔と居心地の悪い安堵の狭間から、娘と元夫が強烈に放つのは、母への、元妻への愛の言葉だ。その力強さ。邪推を承知でいえば、2人は今、今までのいつよりも純子さんへの愛を強く確信しているのではないか。

世間的・常識的感覚でいえば、2人は彼女から何年も迷惑を掛けられ続けた、という言い方もできるだろう。ある意味、今回の自殺で解放されたともいえるし、事実そうなのではないか。平たい言い方をすれば、もう2人は純子さんから迷惑を掛けられる事もなくなった、という寂しさに見舞われているともいえる。奇妙な共依存関係である。


しかしやはり、この力強さはそうではない。もう、なにがしかのやりとりを純子さんとする事は出来ない。最早、今後の彼女の行く末を心配したり不安になったり機嫌のよさに安心したりする事もできない。煩わしさや、依存や、被依存といった関係も構築出来ない。


それでもなお、残った感情がある。それが愛だ。剥き出しの、損得も計算も何もかも削ぎ落とした、私が居て、貴方が居た、ただそれだけの事で生まれ育んだ感情、それを愛と呼ぶ。呼ぶしかない。私は他に思い付かない。

『すべての終わりに愛がある』とは、そういう事だったのか、と私は思った。一緒に過ごすと楽しいとか煩わしいとかその人に対していろんな感情が湧き上がる。しかしその人が死んでもう何のやりとりも対話もできなくなった時、その時にその人に対して抱く感情が愛なのだ。ヒカルと照實さんは、彼女を喪った事で、今までも勿論そうだったろうが、今まででいちばん、純子さんを愛していたと強く感じたのではないか。彼らのメッセージには、その強さが漲っている。桜流しの最後の言葉。Everybody finds LOVE in the end. 純子さんの最期にあたって、如何に彼女が2人から愛されていたか、その事を今まででいちばん強烈に感じた。それがまず、2人からのメッセージを読んだ第一印象だ。


そして、第一印象は序章に過ぎない。私は踏み込んでいくつもりだ。何故なら、ヒカルが今、とても強く在るからである。母親の事をあそこまで赤裸々に、今、語れるというのは並大抵の精神力ではない。少なくとも、そう振る舞っているからにはそう見られたいのだ。それが、形式的であれ彼女の"希望"である。私はそれに応える事にする。みんなは、そっとしておくもよし、Mail To Hikki するもよし、それぞれの心の声に従ってくれ。私は止めない。私も止まらない。



さて、本題。くまちゃんの話である。「5歳」から始めようか。躊躇してられる程、人生は長くないのだから。いや私はおばあちゃんを見習って100歳までは生きる気だけど、それでもやっぱり短いもんね。

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なんか、ゆっくりいこうか。そんな気分である。焦っても苛立っても事態は何も変わらない。我々に取材能力があるわけでもなし、そういうのはいずれにせよ、本職さんたちに頼るしかない。その出来不出来に言いたい事もあるのだろうが、まぁ、言っちゃえばいいか…それが自由の国ってもんだ。

ただ、なんだ、あれだ、@utadahikaruにお悔やみツイートを送りつけるのは如何なものかというのは如何なものか。チャットでも書いたが、母親が亡くなった時にTwitterなんてしてる暇なかろう。空き時間にダイレクト・メッセージをチェックするくらいじゃないか。こんな時にファンの反応を気にする余裕も必要も責任もない。読みたくなったら読めばいいし、読みたくなければ読まなくていい。まさかこんな時まで「有名人はメンションに総て目を通すべき」だなんてモラルを振りかざすんじゃああるまいな。それはないか。Hikaruがどんなツイッターアカウントを使っているかはわからないが、あれだけの数のメンションは数日も経てば流れちゃって読めなくなる。送る人批難する人双方ともHikaruの事を思いやっての言動だろうに殺伐とした空気になっているのは何ともいたたまれない。双方静観或いは放置がよいかと。端的にいえば、Twitterってのはそういうツールだよ、とそれだけの事だ。こんな時に連絡を取り合うべき知人とは必ず他のツール、電
話やメールやFacebookやLINEや…なんでもいいんだけど他のチャンネルを共有している筈だし、使うとしても先述の通りダイレクトメッセージまでだろう。そこまで気にするようなツールじゃない。Hikaruに対して酷い事を言っている人は今回の事がなくても普段から言い続けているし、Hikaruもイヤならブロックすればいい。それでも全部読むというのなら覚悟の上なんだろう。彼女は誰が思っているよりメンタリータフである。『私、誰よりもプレッシャーに鈍感なんだと思うの。でないとこんな仕事やれないよ。』


しかし、その屈強なメンタル・バランス(フィジカル・バランスは結構何度か崩れてるわな…)を、平常時に崩していたのが母の存在だった。どんな罵詈雑言や誹謗中傷を送りつけられてもそれを優しく包み込む位に対応してきたHikaruも、こと母親に関するメッセージを書く時は冷静さやバランス感覚をあっさり失う。母親のポスターを部屋に飾ったり、名言『ダウンロード違法化がなんぼのもんじゃい』を残すほど動画を漁ったり。また、インタビューでの発言をはっきり『後悔している』と断じたのは、後にも先にもあの時(2007.3.22のメッセ参照)くらいではないか。世界で唯一、何があってもフェアに、且つ人間的な情感をもってバランスをとってきた精神が唯一崩れるのが母との空間だったのだ。

それは、世界で唯一甘え頼り崇められる存在であった事も意味する。バランスを取り続けるには集中力と緊張が居る。誰しもを柔らかにするHikaruの笑顔は、その緊張の裏返しでもある。そういう事を気にせずに思うままにいろんな表情が出来る相手が母だった。私はずっとそう思ってそう書き続けてきた。それが正しかったかは、今に至ってもやっぱりわからない。これから先は、もっとわからなくなる。それでも時計は動き続ける。それだけのことなのだ。

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人が死んだ時の反応には二種類あって。「どうしたら助けてあげられただろう」というのと「どうやって弔ってあげよう」というのと。

両方ないと世の中回らない。しかし、直接の遺族はまず後者に頭を回そう、と提案したのが22日夜の私の日記だった。今の光に前者と向き合えというのは酷過ぎる。何かやらなきゃいけない事があった方がいい。

光の絶望と悲しみがどれ程のものか想像もつかないし、というか想像しようとしただけでこちらの涙腺が決壊してしまいそうなので素直にそれは避けとく。ここはもっと無責任に、いちファンとしての要望とそれに伴う気持ちを素直に書く事にしよう。

話はシンプルで。今Hikaruとこちらを結ぶ線は3つしかない。Message from Hikki & Mail To Hikki と @utadahikaru と KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru だ。最初の2つはHikaruの気持ちが整った時に書いてくれればいい。相変わらず待つのは慣れている。ここはあんまり義務感にかられる事なく、純粋に、書いて伝える事が光の力になる時に書いてくれれば。

問題は3つめ。ラジオ番組だ。気が早い? いやいや、かなりあの番組気合い入ってるぞ。かなり早い段階から準備を始めないといけないクォリティーになりつつある。今月中にも、やるかやらないか決めないと間に合わないかもしれない。

勿論、今回の事態は、もっともっと重いものだ。まるで小津を喪った後の原節子のように、もう二度とHikaruが人前に姿を現さない事態も我々ファンは覚悟せねばならない。そこまでになる事を斟酌し、受け入れる事が「光の気持ちを思いやる」事だと思う。つまり、永遠の引退である。私は今回の衝撃はそこまでのものだと思っている。

だから、彼女の事を真剣に思うなら、私はここで筆を止めるべきだ、という事になる。しかし私は筆を止めるつもりはない。彼女の気持ちを踏みにじった上で、「まだまだ光の声が聴きたい」とワガママを言う事にする。自分勝手ってこういう事かと感心せざるを得ない。

しかし。そうであるからにはKUMA POWER HOUR with Utada Hikaru がepisode 4で番組として終了してしまっても仕方がないし、ましてや来月の放送を期待するだなんて馬鹿げているにも程がある。しかし、ラジオで喋るHikaruは本当に楽しそうだ。あれをもっと聴きたい。あの声をもっと聴きたい。一縷でいいから、番組が存続する方法を考えてみたいと思う。

現実的に行こう。ビジネス上は、今、圭子さんはU3MUSICと関わっていなかったとみるべきだろう。つまり、仕事上で穴が空いているという状況ではない。しかし、遺体の身元引受人を照實さんが請け負ったという報道もある。彼によるマネージメント業が暫く機能せず、スケジュールの回復に数ヶ月を要するという可能性も考えられる。幾ら制作をHikaruがひとりで請け負っているとはいえ事務所が機能しないのではそもそも仕事の話が出来ないだろう。まずある懸念はその点だ。

反対側の懸念もある。Episode 5の放送予定日は9月17日。藤圭子さんが亡くなって1ヶ月にも満たない。このタイミングで、果たしてリスナーの方は冷静にHikaruの話し声を聞けるだろうか。何とか格好がつくのは藤圭子追悼特集だが、これから方々でそんな番組があるだろうし、何より、光の精神にとってそれは公開処刑になるかセラピーになるか非常に難しい。物凄く判断がつかない。本人も、かなり気持ちが落ち着いてきた段階でもやってみないとどうなるかわからないのではないか。しかし一方で、それが非常にいい区切りになる場合もある。危険な賭けになる可能性が高い。


InterFMの方は、担当者の方々には申し訳ないが、少なくとも9月の放送が無くなる事には文句は言えないだろう。局の体質もあるだろうが、一般的に現在の日本では50日目の忌明けまでは供養の期間として認められてもいいと思われる。しかし、労働者・会社員の感覚としてはたとえ実母の逝去とはいえ忌引きは一週間から十日くらいが限度では、という意見も有り得る。難しい所である。

ここでまた、22日夜の議論を蒸し返さねばならない。人間活動をどこまでどう捉えるか、である。当然宣言をした三年前はこんな事態は想定していなかった訳で、あらゆる前提が覆ったのだから「総てはなかった事に」となっても筋は通ると思う。しかし、Hikaruの決意がかなり重いものであったのもまた事実で、であるならば、"親が死のうが"、最初の決意の通りに、普通の人間としての活動をすべきという言い方もできるし、"親か死んでしまったからこそ"余計に人間活動の精神を徹底すべきだという事も出来る。ここはまさに、光がどれほど自分の人生を大切に考えるかにかかっている。

自分の人生を大切に考える、と一口に言ってもそれには3つある。ひとつは、今まで生きてきた自分の人生を大切にする事、ひとつは、これから生きていく自分の人生を大切にする事、そしてもうひとつは、今を生きている今の自分を大切にする事である。

今までのHikaruがその人生で築き上げてきた様々な功績は素晴らしいの一言に尽きる。そして、その中でHikaruは様々な人々に大きな大きな「生きる力」を与えてきた。寧ろそれこそがいちばんの功績かな。Hikaruに対する感謝の気持ちを伝え切れていない人間が世の中には山ほど居る。そのお礼を受け取る権利がHikaruにはある。その為だけにでも、生きねばならない。しかし、Hikaruには関係のない事と言ってしまえばそれまでかもしれない。

Hikaruが今後も音楽家を続けば生まれる筈の音楽が、必ずある。未来。しかしそれを生むか生まないかもHikaruの自由だといわれればそれまでかもしれない。うぅむ。

今を生きている光。生きてくれ。これは俺らが毎日祈っている事だな。特に今回の事態とは関係がない。

生きていくのに、音楽活動を辞めるのがいいならそうしてくれ。生きていくのに、表立っての活動も必要になるというのなら、時機を見計らってラジオ番組にも復帰してくれればいい。


という訳でワガママプランを。KUMA POWER HOUR with Utada Hikaru は続けるべきだ。まず、9月の放送は休んでも構わないだろう。聴く方もまだ気持ちの整理がついていないかもしれないし。もし放送をするのであれば、全く何も触れないのは不自然だから、少しは(或いはまるごと)番組内で追悼の気持ちについて触れた方がいいだろう。しかし、実際に番組作りをする過程では感情が抑え切れなくなるかもしれない。なので、例えば少し締め切り日を早めに設定し、もし出来上がらなかったらごめんなさいという事でInterFMに予め断りを入れて制作に取り掛かってみる、というのでもいいかもしれない。そこは、柔軟にいきたい。

9月に一度休むなら、10月からは通常の番組構成でいいだろう。世間的にも、落ち着いている筈だ。ただその場合、メッセかツイートで予め今回の事に関してメッセージを送っておいた方がいいかもしれない。放送にしか触れない人も中には居るかもしれないが、そういう人は、時間経過的にも「ああ宇多田頑張ってるのか。健気だねぇ。」位に捉えてくれると思うのでそんなに気にしなくていいだろう。メディアのみなさんも宣伝してくれるだろうし。2ヶ月という時間は、かなり強力に協力してくれると思う。


もう一度繰り返しておくが、今回の件は、Hikaruがこれっきりで一生表舞台に姿を現さなくなっても全く不思議ではない位の、重い重い出来事である。私だってそれ位わかってる。わかってるから、だからワガママを言うのだ。感情の問題はどうしようもない。しかし、Hikaruが歌っているのを俺が聴いていない世界は俺は嫌だ。うん、それだけ。

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大切  


このぞっとするような何かが闇に潜んでいつ襲いかかってくるかわからない感覚がいつまで続くのか。まだ暫く続くのか。しからば、暫しの間出来るだけ慣れるようにしよう。

光にとって母は最愛であり、尊崇であり、そして守るべき脆弱であった。母と娘としての、深い深い、我々には欠片も知る由ない愛情と関係性を持ち、同じ職業を選び、世界広しといえど似た足跡をその職業で辿った人はその人以外にないという希有な存在であり、即ち大人として人生の師でもあり先駆者でもあり、こどもとして憧れ、出来れば甘えたくもあった対象であった。また、同じ道を他に知る者が居ない同士として、その孤独を共鳴し合える唯一無二の同志、親友の側面もあった。そして、その特別を支える繊細な感性は、その脆さと弱さ故、幼き日の光に、「この人を守らねば」とまで思わせた。その大切は、何にも代え難いものであった。

光は人間活動に入る直前、最後の演奏会でこう歌った。『大切な人を大切にするそれだけでいい』。こう語った。『私の願いは"みんな自分を大切に"』。切実だった。

今。光は最も大きな大切を失った。願いが、いちばん届いて欲しい人に届かなかった。ささやかな、だからこそ大きな大きな、強い願いだった。でも、届かなかった。

どれほどの大きさを失ったのか。繰り返そう、彼女は、純子さんは光にとって愛する母親であり、尊敬する師匠であり、憧れの先輩であり、会いたくても会えない、恋い焦がれる想い人であり、世の中でただ一人、自分の事をわかってくれるかもしれない唯一無二の親友であり同志であり、守るべきか弱い人でもあった。母と師と先輩と想い人と親友と恋人をいっぺんに、いっぺんに光は失った。もう、二度と誰も還ってこない。

まだまだたくさんの家族の中で誰かひとりを失った悲しさとはまた異質な、寧ろ、家族をまるごと失って1人取り残されたような絶望と悲嘆の方が、今の光の心境により近い。

確かに、生きてりゃ得るもんばっかりだ。しかし、だから、生きていなければその限りではない。残酷。しかし悲しい哉現実である。

もう何処にも戻れない孤独。
地を削られた闇の虚空から、人はどうやって1人で立ち上がり、歩き始めるか。まだ私にはわからない。ただ、ただひたすら時が流れ時が満ち時が来るのを生きて生きて生きて待つのみである。

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KUMA POWER HOUR with Utada Hikaruは音楽番組である。トークが幾ら優れていようと、やはり音楽が"語って"くれないと体裁が整わない。そこらへんの流れを、Hikaruは自然に作り上げている。

一曲目が非常にわかりやすい。「インディーズって、どんなの?」という事で、"メジャーレーベルがいちばんやりそうもない"放送禁止用語を連発するPeachesの曲を選んだ。まずベタでわかりやすい所から行こうという意図がよくわかる。

最初にしたのはお金の話だ。これは、直接音楽と関係がない宣伝の規模とは素直に話が結び付くけれど、じゃあラジオで曲をかける時にいちばん誰にもわかりやすい音楽上の違いはあったりするの?という疑問に対して「放送禁止用語を連発する」という曲を選んだ。これは、こどもがやたらウンコだなんだと連発してゲラゲラ笑ってるのと大差無い。というか同じである。Shitって連呼してるんだからね。これはウンコというより(Hikaruさんの大好きな言葉でもある)クソの方だけども。

こういう無責任で自由でこどもっぽく、誰にも共感できる音楽上の「インディーズ感」を一曲目に提示する。トークでお金と宣伝という音楽ファンでなくてもわかる話をし、一曲目で放送禁止用語というとても食い付きのいいテーマで切り込んでくる。その食い付きのよさは、Hikaruが先にツイートした事があざといステマだと批難を受けた事からも伺える。どうしても聴いてみたくなるキーワードでないならば、ステマだとの謗りを受ける事もないからね。それがトークでの話か曲での話かが最初あやふやというかわからなかった所も味噌だろう。

こうやってHikaruは、実に自然に冒頭から、いや、事前のツイートから最小限の手順で一曲目を聴かせる所まで持っていく。気楽に制作しているようでいて、その実非常に無駄の少ない構成である。どこまで意図的なのかは、やっぱりよくわからないのだけれど。

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宇多田光の人生の中で最も衝撃的な出来事のうちのひとつだ。もしかしたら、これ以上にショッキングな"事件"はもう二度とないかもしれない、という位の。

ならば、デビューして十数年、Utada Hikaruをどこかからかの時点で応援してきたファンの人たちにとっても、最も心揺さぶられた出来事となっただろう。結婚報道の比ではない。それはまた(何度か)あるかもしれないが、これはたった一度しか起き得ない、何であれば、一度も起こらないかもしれない事件なのだから。ここに於いて、2013年8月22日木曜日に於いて、宇多田光の人生は分断される。ここからは、地を底からくり貫いて作り替えたような異質な旅が始まる。最早一度日は暮れ、この日は終わり、新しい一日を今を生きている我々は、迎える。

さて、何をさておいても、話の本筋とは無関係なのだが、これだけは言わずに居られないので、失礼を承知で記しておく。


藤圭子さんが亡くなって、俺はとても悲しい。


以上。では本日の本題に入ろう。

私は22日の昼、藤圭子自殺かの報を受け取った。喪服姿で、だ。今日は私の祖母の葬儀の日。2013年8月20日の朝、先月満100歳の誕生日を迎えたばかりの彼女は眠るように静かに息を引き取った。21日の夜に通夜を済ませ、今日火葬され骨を拾った所。故人との思い出を話し出すとキリがないが、"大好きなおばあちゃん"との別れの日を過ごしていた。

そのタイミングで、光の母の死を聞かされた為、私は通常よりもかなり冷静で居る事が出来た。勿論この日に飛び降り自殺か何かがあるなんて事は夢にも思えなかったけれど、丸2日間ずっと、人の死について、人を喪う事についてずっと考えていたから、恐らく私の人生の中でも、最もこの報を冷静に受け止められる希有な日のうちのひとつであった事は間違いない。

なので、敢えて言おう。光。貴方はまだ暫く、悲しみに沈んでいる暇はない。貴方は純子さんの一人娘であり、最も親しかった人間のうちの一人。今は、彼女を弔い、見送るべき時だ。しっかり、やんなさい。


もし彼女が今。アーティスト活動の最中であれば、エモーショナルに振る舞う事もまた受け入れられる事もあるだろう。しかし、今光は人間活動中である。人とは異質な人生を送ってきたからこそ、人が人として人並みにやれる事が一通りできるようになりたい、とアーティスト活動を休止して作った時間であるはずだ。ならば、30歳の一人の大人の女性が、自分の母親を喪い、且つ彼女の長女・一人娘であるのなら、喪主を務める可能性が高い。人間関係や家族構成、信仰の差異などで変わる事かもしれないが。

今回私は孫というかなり気楽な立場で葬儀に参加しているが、次、いつ自分が主となって誰かを送るかわからない(勿論私が送られるかもしれない)、そう思いながら、母を喪い喪主を務める伯父や父が、"実務上"何をしなければならないかを細かく観察していた。それは、ほんの小さな事や日常的な事の集積である。食事を何人分用意するかとか、花はどんな名義で誰と誰が出すかとか、乗用車の分乗とか電報の管理とか、そういった様々な雑務の数々だ。今の時代は葬儀会社が殆どの煩雑な手続きを肩代わりしてくれるのでかなり楽にはなったが、喪主として葬儀を回す役割は、相変わらず忙しいもので、正直、(彼にとっての)母の死を悲しんでいる余裕などなかった。今夜あたりは漸く一息つけて思い出に浸りながら一杯飲んでくれてるかな。

光の場合は、母が突然の死、しかも自殺の可能性が高いという事で衝撃度が非常に高く、その悲しみと絶望は察するに余りあるが、しかし、ここを乗り切らなければ人間活動を一年半続けてきた甲斐が大きく薄れてしまう。ある意味、人間活動最大の課題といえる。我が親を弔うという行為は。我々はまだ生きていて、やれる事があるのだ。


それに……やる事があるというのは、何より悲しむ人にとって救いである。もし今直ちに自分の感情と向き合ってしまったら、光は、数ヶ月、或いは数年は立ち直れない。弔いは、無論死者への尊敬と愛が第一であるが、同時に、まだ生きている者が生きていく為の工夫と知恵の伝統的結晶でもある。私の祖母は生前の御縁から真言宗(あの空海のひらいた密教である)で送り出したが、形式は何でも構わない。一人の普通の人間として、一人の母親の娘として、一人の30歳の女性として、やるべき事をやるべきだ。それがいちばん、貴女の為になる筈だから。それ以上は、今の私にはわからない。

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