無意識日記
宇多田光 word:i_
 



初めてアルバム『BADモード』で『Time』を聴いた時、その鮮烈さにかなり驚愕した。2020年5月に発表されて以来何百回と聴いてきて慣れ親しみまくっているこの曲がどうしてここまで違って聞こえるのか!? アルバムリマスタリングの効果も勿論あるだろうが、やはりそこは曲順の妙だったのではないか。『PINK BLOOD』の次、というのがやはりポイントだったのだ。

『PINK BLOOD』という歌は、かなり大雑把に分類すれば『Passion』の系統に近い楽曲である。どこか人間味のないコーラス(『ダレ・ニモ・ミセ・ナク・テモ…』etc...)、どこからどう打ってるかよくわからないリズムパターン、捉えどころの一切無いアレンジと、兎に角とっつき辛い所が結構共通している。その上、どちらの歌も「歌詞が基本的に独り言」なのだ。誰に対するでもなく、ずっと自分自身に言い聞かせる言葉が並ぶ。例えば『PINK BLOOD』では『あなたの部屋に歩きながら』と一度だけ『あなた』という単語は出てくるが、これはその“あなた”に向けて歌った訳でも何でもない。主役は自分が落とす涙の方だ。

『Passion』も同じ系統だった。同曲の歌詞にも呼び掛けたり訴え掛けたりする「君」や「あなた」は出てこず、辛うじて『僕ら』『わたしたち』が出てくるのみ。確かに独りではないのだけれど、とことん自分自身との対話となっている。抽象的で捉えどころの無い雰囲気からラスト付近でとっかかりのあるキャッチーな歌メロがやっと出てくる構成も、『Passion』と『PINK BLOOD』は共通しているわね。

翻って、『Time』は徹底的に「あなた」に訴え掛け続ける歌だ。

『あなたが聞いてくれたから』
『あなた以外の誰が』
『抱きしめて言いたかった、好きだと』
『誰を守る嘘をついていたの?』

なんていう風に。そして最後には

『友よ
 失ってから気づくのはやめよう』

だなんてかなり大仰な台詞が飛び出すまでになる。そこに到るまでひたすら言葉を投げ掛け続けるのだ。歌詞の示す物語としては、この魂の叫びの数々を果たして実際にその“あなた”に対してぶつけたかどうかという所がひとつ焦点にはなるのだが、ただ歌を聴いている我々としては別にそこに拘らずともその切々たる思いの丈の強さを感じ取れていればそれでいい。

この、能動的に訴え掛ける指向性と積極性を、ヒカルはメロディと歌い方で表現するのに物凄く長けている。『Passion』や『PINK BLOOD』が“そこに在る歌”である一方、『Time』のような歌は“届ける歌”/“伝える歌”であって、そういう曲調の時宇多田ヒカルの歌唱スタイルはその長所を存分に発揮する。

アルバムリスナーは、まず『PINK BLOOD』に対して、こちらからやや踏み込んで幾許かの注意力を払って耳を傾けている。幾らかの負荷がそこに生じているのだ。他方、『Time』では、こちらから踏み込んでいかずとも、ただ受身でいるだけでヒカルがその長所を活かしたエモーショナルな歌唱によってこちらに歌を届けてくれる。その意味において、リスナーの心持ちとしては些か楽ちんなのである。…もっとも、そうやって届けてくれたメッセージの熱量を消化するためにまた別のエネルギーを費やさなければならないのかもしれないが。

なので、このアルバムの流れで『Time』を聴いた時に我々は、そのエモーショナルな曲調とは裏腹に、リスナーとしての負荷から解放されてほっとひと息つけたりするのであった。『Time』でのヒカルの歌唱がアルバムの流れでより鮮烈に輝いたのは、そういったマジックがあったからではなかろうかな。



うむ、概念的、抽象的な歌はリスナーに負荷が掛かりがちだというのは、なんとなく覚えておいて損は無いと思うぜよ。

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歌詞の解釈ってリスナー次第な比重が結構大きくってな。

例えば『BADモード』の1番、

『いつも優しくていい子な君が
 調子悪そうにしているなんて
 いったいどうしてだ 神様
 そりゃないぜ

 そっと見守ろうか?
 傷つけてしまわないか?

 わかんないけど
 君のこと絶対守りたい
 絶好調でも BADモードでも
 君に会いたい…』

という歌詞。これをヒカルに歌われた時、リスナーであるあなたはどこに自分を位置づけているだろうか? 前に「『君のこと絶対守りたい』とHikkiに歌われて女子狂喜乱舞」的なことを書いたが、これはあなたが歌詞の中の『君』の立場に立ってヒカルが話し掛けてきてくれてるのを受け取る構図になっている。ヒカルと面と向き合ってる感じだね。

一方、『いつも優しくていい子な君が 調子悪そうにしているなんて』と歌われて、「そうそう、自分の周りにもそういう子が居るよ」なんて風に思った場合、これはあなたがヒカルと同じ立場に立っている事を意味する。『君のこと絶対守りたい』と歌われて「俺も守りたいわその子のこと」と共感する感じ。これもある。

更に、そんなやりとりをしている『君』と『僕』を第三者の立場から眺めて歌詞を聴くことも可能だ。「宇多田ヒカルが親しい子を慰め励ましている。これはなんとも美しい絵であることよ。」と詠嘆に暮れるあなた。百合男子的に言えば「壁になりたい」「観葉植物になりたい」といった趣だね☆

当たり前だが、どれが正解という訳でも無い。いや、確かに、『そっと見守ろうか? 傷つけてしまわないか?』といった『僕』の『自問自答』の数々は『君』に直接話して聞かせている台詞ではない(一方で『メール無視してネトフリでも観てパジャマのままでウーバーイーツでなんか頼んでお風呂一緒に入ろうか』なんかは『僕』が『君』に直接話し掛けてる台詞に成り得る)から、それを『君』たるリスナーが斯様に聞かされているのはおかしい、みたいな指摘もあるかもしれない。でも、これも例えば『僕』の独り言を隠し撮りしたビデオを『君』が見せて貰ってる、なんていう解釈も可能だ。それでも『絶対守りたい』と言われたら「キャーッ!」ってなるですよ。結構何とかなるものなのだ。

そんなだから、歌詞なんでなそれぞれが好きに聴いて楽しんでくれればいいのだけど、反対に歌詞の書き手としては、これはなかなかどうにもしようのない事態なのだ。リスナーが『僕』の立場に立とうと『君』の立場に立とうと『君』と『僕』の両方を見守る立場になろうとそれは完全にリスナーの自由なのだから。こちらの意図を正確に伝えたいと思っても限度がある。

そして、それはある意味でリスナーがその体質毎に分かれるという事も示す。ヒカルパイセンが『BADモード』で歌って踊る姿を観てどうドキドキするかは、それぞれの人生経験や感性以前に、「リスナーが自身をどこに置いて歌詞を聴くか」という、たった今選択可能な要素に大きく左右される。その事自体をよくよく自覚しておくことが、様々な体質のファンが渾然一体となっている現況に対してよりよい接し方を齎すことになるのではないかなぁと思うのでありました。
 

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前回と前々回の話は歌詞についての論ではない。曲を聴いたときのフィーリングに関して綴ったつもり。確かに、『先読みのし過ぎなんて意味の無いことは止めて今日は美味しいものを食べようよ』なんかはヒカルが実際に言ってそうだけど、そういうことだけでもない。あの光り輝く曲調が如何にもヒカルっぽいのだ。

でそのヒカルらしさというのも年月を経て随分と落ち着いてきていて、今の自分には『誰にも言わない』が如何にもヒカルっぽいなぁと感じられる。大人っぽさや艶っぽさ、遊び心にほの寂しい心持ち、歌が好きであることなど、歌詞からもそういったことを読み取れはするけれど、あの、サウンドに宿る曰く言い難い無限の透明感と超越的且つ抽象的な美しさは現在のヒカルならではだなと思う。

とりわけ、インスタライブでも垣間見れたヒカルの頼もしさと心細さの同居は、現在の曲調と切っても切り離せない。あの感じだから『BADモード』で力強く『君のこと絶対守りたい』と宣言してリスナーの女子を狂喜乱舞させる一方で、『気分じゃないの(Not In The Mood)』に於いて『雨 雨 どっか行け また今度にして』と弱気な所を見せたりもできるのだ。強気になるのを躊躇わず、弱さを見せる事も厭わない。ある時は強がりまたある時は弱ってたりをずっと繰り返して二十年以上やってきて今はどちらも私と思えているのが感慨深い。ここに到れば、16年前に歌った『幸せとか不幸だとか基本的に間違ったコンセプト』という『日曜の朝』の歌詞の説得力も増すだろう。当時この詞を聴いてよくわからないと思った人も、今聴くと何となくヒカルの言いたいことがわかる気がするんじゃないかな。まぁそもそも、間違ってるからってそれが何?と思えていればそれでいいんだけどねこの歌に関しては。

って曲調の話をするつもりが歌詞の話になっちゃった。てへ。まぁそこらへんから伝わる事もあるからこれはこれでいいか!

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前回書いたことを(自分の頭を整理する為に)もう一度纏め直してみる。


母親譲りの歌声を最大限活かした作品群─『Automatic』や『Can You Keep A Secret?』や『Prisoner Of Love』のような─は、例えばレストランのシェフが我々に振る舞ってくれる料理のようなものだ。それはヒカルの「仕事」「作品」であって、我々は席に座って料理がサーブされるのをただ待っていればよい。後は舌鼓を打つだけである。

『光』のような曲は、仕事というより、プライベートでヒカルと接するようなものだろう。仕事ぶりよりその人となりと接する。我々と人間同士として触れ合うそんな親密さがある。

『Passion』のような楽曲は、そこから更に踏み込んで、ヒカルと様々な言葉を交わし合って考え方や思想、哲学といったものを知る段階だ。そこからヒカルの人間性や仕事ぶりが導ける所まで網羅してるからこの曲は凄いのよね…。

その『光』と『Passion』のちょうど中間くらいに位置するのが『誰にも言わない』なんだけどこの話はまた長くなるだろうから今回は置くとして。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』は、お金を払って仕事を提供して貰う関係性でもなければ、友人として親密に接する関係性でもなければ、一緒に語り明かすような関係性でも、ない。いわばそれらは、順を追って「宇多田ヒカルがどういう人なのか」という事を、ヒカルにより近づいていくカタチで示してきてくれた。ヒカルも、得体の知れない大衆を相手に徐々に自分を曝け出していってくれた訳だ。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』に至って、我々はヒカルに「なった」。なったといっても、物凄く歌が上手く歌える訳でも無いし、オールストレートAの成績が取れる訳でも無いし、出会った人を魅了する素敵な笑顔が出来る訳でも無い。その“なる”ではなくて、もっと受け身な、受動的な性質の話だ。宇多田ヒカルの目や耳を通すとどのように世界が見えているのか、どのように物事を受け取っているのかがここでは表現されている。故に我々はこの曲によって、2021年12月28日のロンドンにワープして、そこでカフェやバーに居るヒカルの姿を目にするのではなく、ヒカルの目を通してその様子を眺めることになる。これは確かに、ヒカルに「なる」ことだ。

これが何故驚異的なのかといえば、表現活動というのは非常に能動的な営みだからだ。筆を動かすのでも歌を歌うのでも踊りを踊るのでも、なんであれ、情熱に突き動かされてようがやる気がなかろうが、ひとつのまとまった運動を我々は制御する事、それを表現活動という。それは能動的どころか能動そのものであって、ただ見るとか聴くとかの受動的な営みとは対極にあるものだ。お正月にコタツに寝そべって延々テレビを眺めている事は表現活動とは呼ばない(人間にとってとても大切な時間だけどね!)。だが、それだけに、そういった受動的な状態を“表現”するのは、極めて難しい。

歌う時に「私は歌う」と歌うのは、メッセージとして成立しやすい。まさに今歌っているのだから説得力がある。みたまんまなのだから説得するまでもない、と言うべきか。しかし、「私にはこう見えている」というのを“伝える”とすれば、それは途方に暮れる。本来なら『差し出されたコーヒーカップ』と歌われた時に我々はヒカルになれない。隣のテーブルからヒカルにコーヒーカップが差し出されたのを眺めるだけになるのだ。何故なのかは全くわからないが、『気分じゃないの(Not In The Mood)』はここをクリアしてきやがる。ヒカルの目線を共有できるのだ。何故そんな事が出来ているのかはサッパリわからないが、この歌を聴き終えた時に感じる「宇多田ヒカルの実在感」は、ヒカル自身の本名を冠した『光』のそれをも凌ぐ。そして、その尊さに気が遠くなる。


この領域はヒカルにとってもまだ始まったばかり。締切ギリギリに出て来た歌詞なのだから。しかし、だからこそこれから未来にやるべきことは山ほどある。あなたが『BADモード』の最高傑作ぶりにまだまだ慄いているのなら、今後のヒカルの活動は心臓によくないレベルとなるだろう。本当に注意と注視が必要になるぞいや。

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『光』の次に取り上げるべきは『Passion』だろうか。情熱というともっと熱い曲調を想像しそうな所を温度感の無い抽象的な感覚を中心にしているこの名曲は、いわばヒカルが何をどう理解しているかを表現した楽曲だ。自分の中から生まれてくるものが何がどうなってそうなっているのかを種明かしをしたような。特にシングル・バージョンはその抽象的な感覚からいつものお馴染みの宇多田ヒカル節が生まれてくる様をそのまま描き出していて見事過ぎる。

そこから『Passion』以降も幾つもの「ヒカルが自分自身を表現した曲」があったが割愛する。(メチャメチャ長くなるので)

そして『気分じゃないの(Not In The Mood)』でヒカルは「自身が世界をどうみているか、世界がどう見えているか」を表現するに至った。

初期から連綿と続く「所謂宇多田ヒカルらしい音楽性」というのは、例えば『BADモード』でいえば『Time』だが、非常に直接的で具体的でわかりやすく、向こうからこっちに飛び込んでくるような感触が特徴だ。ラジオから流れてきたら自然とそっちを向いてしまいそうな。こういう楽曲を「能動的」と呼びたい。我々が受動的なままでいていいという意味で。こっちが読み取ろうとしなくても理解しやすい楽曲な訳だ。歌手が「これを伝えよう」という確固とした意図と情熱をもって伝えてくれるもの。「ヒカルがしてくれること」である。

『光』はいわば、宇多田ヒカルという人がそこに居たときに、人として出会ったときに我々が得る感触を表現した楽曲だといえる。明るくてキラキラしていて、しかし背景には限りない闇が拡がっていて…みたいな。「ヒカルの在り方」である。

『Passion』は、この流れでいけば「ヒカルの考え方」を表現した楽曲だ。この曲に関していえば、こちらからやや踏み出して「読み解く」という行為が必要だろう。ラジオから流れてきてもボーッとしてたらスルーしてしまうような。リスナーの方に幾分かの能動性を要求する楽曲である。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』は、したがって、最も受動的な表現の楽曲となる。「ヒカルの受け取り方』とでもいうか、ヒカルは歌詞の中でただその日にあったこと、その日に見たことを呟いているだけで、それ以上の事は大して言わない。人によっては「…で、何?」と結論を迫りたくなるようか。『君のこと絶対守りたい』みたいな強烈なメッセージは一切飛んでこない。

そこが、凄いと思う。リスナーに届くようにと情熱を込めて歌うというのは表現活動としては王道だ。それは、向こうから我々に届けてくれるもの。こちらは余計なことはしなくていい。ただ受け止めればいいだけだ。

『気分じゃないの(Not In The Mood)』のヒカルは何もしない。こちらに何も投げ掛けてこない。だが、今迄でいちばん、そこに宇多田ヒカルが居る─その日、2021年12月28日に宇多田ヒカルがそこに居たという事実を強烈に感じさせる。そこがとんでもなく凄いと思う。受動態、passiveな感覚を結果としてこちらに伝えてくれるというのは、一体どうやっているのかよくわからない。何なのだろうこれは。

『光』の時点で「ヒカルをこうも表現できるだなんてどうやったらこんなことが出来るんだ!?」と思っていた。『Passion』でヒカルの頭の中の、抽象的な思考に触れた気がした。しかし『気分じゃないの(Not In The Mood)』は、何もしない。こちらに何も齎さないヒカルが、確かにそこに存在することをこちらに伝えて…いや、ここで“伝える”という言葉を使うから紛らわしいのか、「ヒカルの存在を直に感じさせてくれる」と言うべきなのかもしれない。我々がまるでその日のヒカルに“なる”ような、そんなフィーリングがこの楽曲には宿っている。もともとその才能は飛び抜けているのだけど、この曲でいよいよ別次元に突入した感が強い。なかなか私もうまく書いて伝えられていないが、そのもどかしさを共有するところから始めるのが今のヒカルのフェイズであると言えばいいのかもしれないな。

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毎度新譜を出す度に「今までになく自分を出せた」と言ってきたヒカルさん。それを誰かに指摘されたのか今回は「自分の違った側面を表現できた」的なやや迂遠な言い方をしてきている。うむ、やりおる。

今回の『BADモード』アルバムでそこが最も先鋭化したのが『気分じゃないの(Not In The Mood)』だった…という話は何度もしてきたし今後も幾度となく繰り返していくつもりだが、それをキャリア全体の中でどう位置づけるべきかというのが今回の話。


宇多田ヒカルが「自分を出した」最初期の作品は『光』だ。先週発売20周年を迎えた同曲。本名の漢字をそのままタイトルにしたのだから推して知るべし。その曲調は、そこまでヒカルのシングル曲の主流だったエモーショナルで歌謡曲的な歌メロと洋楽由来のサウンドの融合という路線(『Automatic/time will tell』から『Can You Keep A Secret?』までのシングル曲群ですね)からは一線を画していて、タイトルも御覧の通りそれまでの欧文主体から漢字一文字、シングル盤のブックレット掲載の歌詞も縦書きという異例尽くしのシングルだった。

なのにこれがそれまでのどの曲よりも「ヒカルらしい」と感じられたのは、その“らしさ”をどこに求めるかに違いがあったからだ。踏み込んで言えば、ここでファン層の色合いに推移が見られたのよ。

それまでは、藤圭子譲りの哀愁と陰のある歌声でマイナーコードの楽曲を切なく歌い上げることが宇多田ヒカルの“らしさ”であった。ところがそんな楽曲を引っ提げてテレビ出演するヒカルちゃん本人の方はこれがもうよく喋る明るく楽しい女の子でそのギャップが凄かった。TBSテレビの「うたばん」に出演した際に中居くんに「宇多田お前いつも楽しそうだな-」的なことを言われて呆れられる、そんなテンションが持ち味だった。

その、テレビに出てはしゃいでる方のテイストが曲調として色濃く出たのがこの『光』だった。その前の『traveling』にもその兆候は出ていたが、こちらは商品としての完成度が図抜けていた一方で『光』はもっとパーソナルな魅力に溢れていた。

ファン層の色合いに推移があったというのは、この曲を境にしてそれまで宇多田ヒカルの音楽性のファンというのが多かった印象から「人が好き」というファンが増えたという話。メッセを読んで、というケースが多かったけれどそのイメージにそぐう音楽性が『光』だったのだ。


ここらへんが一度目の分水嶺となっている。今までになく自分を出せたというひとつの結節点。しかし、ヒカルが今回言っているように「自分を出す」と言ってもどの側面をいつどう出すかというのはかなり多岐に渡る。このあとそれこそ20年にわたって、だからまだまだこの話は続きますわね。

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『Hikaru Utada Live Sessions from Air Studios 2022』で何が残念だったかって、当然『気分じゃないの(Not In The Mood)』と『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』が歌われなかった事である。選曲の問題以前に、非常にシンプルに、2曲ともスタジオライブ収録時点で曲が完成していなかったのが理由だ。こればっかりはどうしようもないわね。

そこの残念さを『Hotel Lobby』と『About Me』で帳消しにしたのは流石だった…と私が言えるのは『EXODUS』への思い入れがあるからで、18年前の全編英語歌詞アルバムを今のファンがどれくらい聴いたことがあるかというと未知数だ。まぁここ読みに来てる人はあらかた聴いてるだろうから気にしないでいいかな。


話を戻そう。特に『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』に関しては、『BADモード』アルバム内で最も「これライブでどうやるつもりだ?」感が強い1曲だったから、これの初御披露目は本当に注目の的となるだろう。ある意味、スタジオライブで初披露でなくてよかったのかもしれない。というのも、この手の長い曲を観客の居ない場所でミュージシャン同士のみでセッションさせるとリスナーの手の届かない世界まで飛んでいってしまう事が往々にしてあるからだ。まぁそのお陰でジャズやプログレが発展したのだからそれ自体は様々なのだが、宇多田ヒカルはPop Musicianなので、やはりそこはリスナーを、オーディエンスを巻き込んでいく事を期待したい訳で。となるとそこは、ちゃんと目の前に聴衆が居てそのリアクションを感じ取りながらセッションが進んでいくのが望ましい。

その受け皿として『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』は打ってつけだ。イメージとしては『WILD LIFE』の『Eclipse』がマッチョにパワーアップしたものを思い浮かべるといいだろう。生身の人間が演奏すると熱気が違う。LSAS2022でも、恐らく譜面上は基本的に同じであるにも拘わらず、『PINK BLOOD』などには人力演奏の魅力が溢れていた。あれが更に甚だしくなるのが『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』なのだと予測される。

一方、『気分じゃないの(Not In The Mood)』はそれとはまた全然違った意味でライブ演奏に対する興味が尽きない。何しろ歌詞がある日のヒカルの日記なのだ。『作詞をまるでmixiの日記をつけるかのような作業だと勘違いされることもあるけどネ。』と言っていた人がまるで日記をつけるような歌詞を書いてきたのをどんな顔して歌うのか。いや、下世話な意味ではない。それくらいに今迄になかったコンセプトの歌詞に対する生歌のアプローチもまた、今迄になかったものになるだろうから、ね。

その意味で代わりに歌われた歌が『About Me』なのがヒントになる…という話は前に一度したっけね。てっきりこの歌を生で歌うときはギターを抱えて弾き語りだと思ってたのだけどそんなことはなく。今のヒカルは、どこか淡々と生で歌を歌える感じがしてとてもよい。『嵐の女神』も期待できる程に。

だが、そこまで来ていても『気分じゃないの(Not In The Mood)』を歌うのは難しい気がする。この歌って、誰に向けて歌えばいいかわからないからね。というか、お客さんに向かって歌う感じでこのトーンが出せるのか? 今度は『Somewhere Near Marseilles ーマルセイユ辺りー』とは真逆に、一度スタジオライブで歌っておいた方がよかった気もしたな。アリーナでこの独り言みたいなのを聴かせる感じを掴むのは、ある意味、アリーナやスタジアムに慣れまくってからでないと無理かもしれない。その昔ジョン・ボン・ジョヴィがスタジアムツアーに慣れ過ぎた所為で横浜アリーナでコンサートをやるときに「まるでバーみたいに近いね」と言っていたのだが、それくらいの感覚を持てた方がいい気がする。

その、ライブで演奏される事を考えたときに、ではこの曲でいちばん映えるなと思うパートはどこになるかなといえばダヌくん提案の『Not, not, not in th mood~♪』の所なんじゃあなかろうかなぁと。あそこでなんとなく聴衆と歌い手が共有と共鳴を持てる気がして。あやつ6歳にして既に天才な気がするわ。次のヒカルのアルバムでも仕事しそう。いやその前に、夏休み中のツアーだったらもうステージで歌ってそう。

そんなあんなこんなが楽しみになる次のコンサートツアーは果たしていつになるのやらですわねぇ。やれやれ。

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ヒカルの『最近ウクライナ侵攻のニュースばかり追ってて日本のニュースチェックしてなかった』ってツイートがずっと気になっててね。ニュースって日常の中でどんな位置付けなんだろうかという。

ヒカルの歌詞の中には、テレビも新聞も出てくる。秋のドラマ再放送だったり深夜放送テレビが青い目で見てたり戦争を始める放送だったり新聞なんか要らなかったり様々だが、そういう距離感というのは日常の中でどんな位置を占めるのか。

一般的には、テレビを観てても対岸の火事を遠くに望む場合と自分ごとの一部としてみるものとの両方ある。同じ宇宙開発でも意味の分からない高度な科学実験の話はふーんという感じだけど新しい放送衛星が動き出したとなると観られるチャンネルが増えたりして急に今の自分の部屋にまで影響が出てくる。エチオピアやケニアで干ばつが厳しいというニュースより、今週末にまとめて報じられるだろう日本国内での食料品の数十円の値上げのニュースの方がここでは人々の関心を引くだろう。ニュースのバランスというのは周りからみると滑稽だったり残酷だったりするものだ。

例えば『桜流し』の強烈さは、東日本大震災の体験無くしてはなかったのではないか。実際に揺れを体験し、その後の寄付や現地での復興活動への従事などを通してヒカルが体感した事が歌詞に反映されているとみるのが…なんだろうな、素直な見方?(ちょっと違うかな)になるのではないか。

翻って、今年のロシアウクライナ侵攻のニュースをどう受け止めるかは人によって異なるだろう。ウクライナは遠い国だと感じる人も居れば、ロシアは日本の隣国で国境を接しているのだから他人事ではないと捉えてる人も居るだろう。これもまた様々だ。

一点、即ち、そんなニュースばかり観てるヒカルのこれからの歌詞に戦争はどんな影響を与えるのか。気になるのはそこである。メタラーやってるとアルバム丸ごとテーマが戦争というケースに出会すのも珍しくないので(ちょうど先月もサバトンの新譜がそうだった)、歌詞のテーマに取り上げてくれるのは特に抵抗はないのだが、Jpopシンガー宇多田ヒカルとしてはどうなのか。一方で『BADモード』によって日本語と英語の垣根が取り払われたのだから、英語でなら歌うなんて可能性も出てくるかもしれない。ロンドンに住んでいて、どんな肌感覚でニュースを見ているのかをもうちょっと知りたいところなのだけど今何かそれについて事細かにヒカルが呟いたら大体炎上だろうからそこは期待しないでおくのがこちらとしては得策かな。

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ヒカルが頻りに歌の中に「ん/N」の音を入れ込んでくるのは、別に『Find Love』&『キレイな人』に限らない。例えば『One Last Kiss』の『この世の終わりでも』なんかも「こんのよのおわりでも」と歌っているように聞こえる。な行とま行の音を強調する時には自然とこうなっているのだ。

しかしながら、『Find Love』&『キレイな人』では『Find Love』という歌詞の"Find"の"in"の音を中心にして歌詞の音の手触りを統一してきたので「ん」の音がやたらと目立つのだ。

『12時の鐘に』は『12じのかんねんにぃ』だし
『汚れたドレスに』は『汚れたどれすんに』だし
『いつまでも物足りない』なんか『いつんまでんもものたりんない』なんて風に

それぞれなっている。流石にこれだけ徹底してきたのは初めてではないか。

その徹底ぶりが新しいグルーヴを生み出したのだとも言える。今回はそこを詳細にみてみよう。


リズムというのは表と裏がある。「リズムの表を打つ」というのは「タン・タン・タン・タン」という感じ。一方、「リズムの裏を打つ」というのは「ンタ・ンタ・ンタ・ンタ」という感じだ。要は一瞬だけタメを作って拍をずらすことを言う。

この裏打ちの効果が、『キレイな人』では日本語歌詞によって実現されている。ヒカルが「ん」の音を差し挟んでくるのはすぐ次の音が「な行」か「ま行」の場合である。上記の歌詞の表記でいえば「んね」「んに」「んま」「んも」「んな」という具合に。

これらの発音が裏打ちの「ンタ」に近いのはわかるだろうか。ヒカルが「ん」の音を挟むのは必ずその"後の"音に先んじて、である。前の文字は然程関係が無く直後の文字の影響が大きい。つまり、必ず「ん」とその"次の"音がペアとして歌われる。「ドレスんに」は「ドレスん/に」ではなく「ドレス/んに」なのだ。他の場合も同様である。

これらが、楽曲の中で、1箇所や2箇所ではなく、やたら頻繁に現れる。その為、歌の流れが全体的にリズミカルに裏打ちをフィーチャーしているように聞こえてくるのだ。例えば「汚れたドレスんに」ならリズムは「タン・タン・タタ・タタ・ンタ・タタ」、「いつんまでんもものたりんない」は「タンタン・ンタタン・タンタン・ンタタン」みたいな流れになる。

その上、基本的に、歌詞で表記されている文字というのは表の拍に合わせて割り振られているのである。その為、「ん」の文字が入って裏を打っている筈の音が実際は表の拍を打っているという奇妙な状況が形作られるのだ。ここがポイントである。

つまり、ヒカルは、恐らく然程意識せずに、「裏拍を打ちながら更にそれを表拍に少しずらして歌っている」のである。ヒカルの『ライナーボイスプラス』での発言をもう一度振り返ってみよう。

『(前略)その、どうしても、同じメロディ歌ってても全然ノリが英語に…英語の時のノリと、こう、凄く、印象が、変わって。ノリが変わっちゃうんですね、ホント。譜面に書き起こしたら同じだとしても、あの~自分でもなんか日本語で歌ってて「あれ?なんか場所が、なんかあたしズレてきてる? なんかおかしい、のかな?」って思うような時があったり違うメロディに聞こえてきたり、段々こうゲシュタルト崩壊してきて(笑)、あの~混乱したりってするくらい大分印象が違くて。(後略)』

そう、ズレているのだ感覚的に。歌詞カードに書いてある、譜面に書いてある歌詞はちゃんと音符通りに割り振られているのだが、この「ん/NまたはM」の音を頻繁に差し挟んだ事で裏拍的なズレが何度も訪れて、全体のメロディやリズムの印象を変えているのである。このNとMの音による「ん」の作る「タメ」が、『キレイな人』に於ける、英語歌詞の『Find Love』の方にはない、日本語歌詞による独特のグルーヴを生んでいるのだというのが私の現時点での解釈である。NとMのタメ。これは多分、今後のヒカルの歌にまた新しく表れてくると思うのでこれからも注意して聴いてみるといいんじゃないかな。

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特に悩まずに前回からの続き(なんか薄情やな?)。『Find Love』&『キレイな人』の曲構成は独特だ。一応踏まえておこう。

基本的にオープニングの印象は「ダンスチューン」である。Aメロがイントロからのあのユーモラスな音色を受け継いだリズムを続行し、Bメロで例のシンセベースが切り込んできてリズムが加速する(といってもテンポは同じだ。体感の話だね。)。ここらへんまで聴いて「あぁ、ダンサブルな曲だな」という印象が固まるのだが、サビで一転、ドラムとベースが黙りこくって歌とシンセベースの2つだけが残る。そこからまた2番はAメロBメロと加速し直してまたサビでリズム隊が引っ込む…という構成が再現された後2:16でエレクトリックピアノのクイックアルペジオから曲調が大人しくなっていく、という構成になっている。

これは、謂わば『One Last Kiss』の真逆な曲構成みたいなものだ。同曲は1番2番と徐々に加速していき(それには途中から切り込んでくるジョディの生ベース演奏なんかも含まれてる)、後半そこから更に加速して私が勝手に「A.G.Cookのリミックスパート」と呼ぶ非常に分厚いダンスリミックス演奏に突入していく。要は、2回のブレイクを除いて1番2番以降終始加速していくのが『One Last Kiss』だ。翻って『Find Love』&『キレイな人』は1番2番と加速してから曲の真ん中で急に減速局面に方向転換していく。全く以て対照的である。

ここらへんの構成について、ヒカルの歌い方の意識はどうなっているのかなというのが私の当初の関心だったのだが、LSAS2022の映像でその一端を確認することができた。

「歌い方の意識」とは何かというと、『Find Love』&『キレイな人』って、バックの演奏はストップ&ダッシュな一方で歌自体はずっとダンサブルというか、テンション自体はそんなに上下しないのね。後半でもしっとりとしたエレピをバックに『til I find love...』って速いパッセージを十数回繰り返したりするし。これ、ヒカルはバックの演奏をまるっきり無視してるのかな?とトラックだけを聴いた時点では訝しんでいた。

だが映像でスタジオライブを観て、どうやらそうではなさそうだと確信できた。というのも、ヒカルさん、歌ってる時に腰でリズムをとってるのよ。特に、背後のガラスに写ってるフリフリのお尻が何とも以下自主規制なのだが、それによってどうバックの演奏を感じ取っているかが窺えるのだ。

ヒカルさん、1番2番はサビでドラムがストップしてもそのままシンセベースに合わせてリズムを取り続けている。つまり、2:16までの前半部分はヒカルにとってこの曲はバックの演奏がどうだろうがノリノリのダンスチューンなのだずっと。しかし、2:16以降は(少しわかりにくいが)もっとゆったりと身体を揺らすようになる。テンポの解釈が半分になるのだ。実際、後半の後半ではドラムの刻むビートが前半の4分の1という至極なゆったりモードへと移行している。音だけ聴いていると前半と変わらないテンションで歌っているのかなと思っていた後半部分もヒカルはちゃんと「バラードとして」捉えているのが、そのかわいいお尻の振り方でよくよくわかったのだった。

ここらへんが、私が繰り返し「『Find Love』&『キレイな人』の本質はバラードだ」と宣う理由の一つとなっている。この独特の曲構成と歌詞がどう結び付いているかという話から前々々回の話題の続きに戻れるといいんだが毎度の事ですがそういうのって書いてみないとどうなるかわかんないのよね私の場合っ!

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っとと、「あ、ノってるな」の回で、大事な事を書くのを忘れていた。というか書きたいことの半分しか書いてなかったのを思い出した。

同回では、『Find Love』&『キレイな人』の1:30~1:45のパート、それぞれ

『Find Love』では

『For now committed to my therapy
 I train with Vicki 3 to 5 times a week
 Getting stronger isn't easy baby』、

『キレイな人』では

『もういい女のフリする必要ない
自分の幸せ 自分以外の誰にも委ねない』

と歌っているパートで、それぞれにノリが極まる部分が異なるという話をした。

一方でこのパートにはもうひとつ、「楽曲全体の構成の中で最も盛り上がる部分」が含まれているのど。今回はこの話。

これに関しては英語でも日本語でも、即ち『Find Love』でも『キレイな人』でも同じ箇所となる。それは最後の

『isn't easy baby』

『委ねない』

の符割である。それぞれ、この直後にある

『Do I dare be vulnerable』

『12時の鐘に』

と繋げて歌っている所がポイントだ。より具体的に言えば、それぞれ『isn't easy baby』を『isn't easy ba/by』、『委ねない』を『委ねな/い』と切って

『isn't easy ba
 by do I be vulnerable』

『委ねな
 いじゅうにじの鐘に』

という区切りで歌っている。ここが非常に効果的だ。というのも、ここが2番の歌詞だからである。

1番でも同じ箇所で同じ歌詞が歌われている。『Do I dare...』と『12時の…』の所だ。なので、我々はここであのパーカッシブで印象的なベースラインが切り込んでくる事を予め知っている、或いは予感しながらここまで2番の歌を聴いている。

その意識下の流れを、ここの歌の繋ぎ方によって先んじるのがここの狙いである。もしここを歌詞を繋がずに歌ったら、「あぁ1番と同じようにベースラインが響いてきたな」という感じに受け止めるだろう。盛り下がる訳ではないがかといって特別盛り上がる訳ではない。

一方でこうやってうしろにハミ出すように歌詞が繋がると、我々は一瞬その歌に気をとられる。1番には歌がなかった部分に歌が追加されているのだから。その為、ベースラインへの予感が一瞬だけ遅らされて、ベースラインが切り込んできた瞬間に「あ、そういえば! ここでさっきもこのベースが流れてきたな!」と改めて"驚ける"のだ。繰り返しになるが、ハミ出た歌詞にリスナーが一瞬気をとられるのがポイントだ。

この細かい技巧によってリスナーの昂揚感は最高潮に達すると言っていいだろう。「あ、ノってるな」
と直前に感じて俄然ノリがよくなっているリスナーのハートが更にもう一段ギアを上げてきてこの1:45以降のパートで気分はもう「ノリノリ」になるのだった。本当に巧い。ヒカル天才。


と、こ、ろ、が!


ところが、ですよ。『キレイな人』&『Find Love』はここから畳み掛けてこない。それどころか、2:16から後(エレピが優しく切なくポロンと弾かれる場面から)はもうずっとリズムがスロウで控えめになっていく。ここらへんの構成は、めちゃめちゃノリノリのサビから更に一つ二つ三つと畳み掛けまくってくるタイトル・トラック『BADモード』の大変な盛り上げ方とは対照的だ。そして、これがこの曲『Find Love』&『キレイな人』の本質なのである。前にも一度触れたが、この曲(たち)は基本的にバラードソングなのだ。次回はそこらへんの話…に行くか、前回の続きを改めて書くか悩み中です…。

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『キレイな人』は歌詞を字のまま歌わずやたらと「ん」の音を挟んで歌ってくるのが特徴的だ。

例えば歌詞カードだと

『欲しいものを手に入れるだけでは
 なれないよ、なりたいような人には
 いつまでも物足りない』

と書いてあるところでも実際の歌は

『欲しいものぅをぅ手に入
 れるだけではなれないよん
 なりたぃよな人には
 いんつんまでも物足りない』

みたいに歌っている。こうやって文字に起こすと「宇多田さん大丈夫ですか!?」と心配になりそうだが、耳にすると結構ちゃんと馴染んでいて格好がついている。

何故こんなに「ん」の音を多用するのか。例えば上記の「欲しいものぅをぅ」のように「ぅ」の音を挟んだりするケースがもっとあったっていいところなのに。

これに対するシンプルな解答は、この曲全体で『Find Love』というフレーズの"Find"の"in"の"n"の発音を大々的にフィーチャーしたかったから、というもの。日本語でいえば「ん」の音ですね。

日本語の「ん」の音は、正確を期すなら英語の"n"や"ng"とは別の発音なのだが、ヒカルはこの曲ではかなりの場面で"n"の発音として扱って重視している。

これは原曲の『Find Love』から徹底していて、

『Well I don't wanna lead them on
 But I don't wanna let them go
 Cuz I don't wanna be alone』

と"wanna"を連発したり

『Not gonna park my desire』
『Gonna find out if ...』

と"gonna"を強調してきたりしている。"n"だらけだね。"wanna"は"want to"、"gonna"は"going to"のそれぞれ口語体である。

wannaやgonnaを使うだけなら在り来たりでまだ拘りとまでは言えないのだが、

『I'm just tryna find love』

と、"trying to"を"tryna"と発音することを歌詞に書いてくるとなるとこれは"n"の発音に対する拘りがあったと言って良いのではないだろうか。この表記はwannaやgonnaに較べればずっと少ないからね。

『キレイな人』に於いてその拘りがはみ出すほどに強調されるのが、

『Slow down, 焦りも道程(みちのり)』

の歌い方だ。"Slow down"は『Find Love』の方でも同じ歌詞で歌われているのだが当然のことながらそこから先の『あせりもみちのり』という日本語は『キレイな人』独自の歌詞。この箇所をヒカルは、『down』と『あせり』を繋げて

『すろう・だうんな・せりも・みちのり』

と歌っているのだ! いや英語内でなら前の単語の末尾の"n"の発音が次の単語のアタマの母音と繋がることもあるだろう。『in a』が「いんな」になるように。しかし、英単語と日本語の歌詞を繋げてくるとなると相当珍しい。歌詞カードでアルファベットと漢字になっているから尚更そう感じる。

そこまでしてヒカルはこの『Find Love』&『キレイな人』の歌に於いて『Find Love』の"Find"の"in"の"n"の音を強調して、歌の基軸として拘ったのだというのがわかるかと思う。その拘りをベースにして日本語歌詞の中に隙あらば「ん/n」の音を盛り込んできていることで、恐らくヒカルにとっても予想外の事態がこの歌に生じたと言えるのだがそこら辺の話からまた次回、かなぁ?(かなり不安)

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『キレイな人』に関する『Liner Voice +』でのヒカルのコメントは次の通り。

『えっと、ボーナストラックとして入っている「キレイな人(Find Love)」。えと~、ん、正直入れるかまよ…迷ったんですけど、まその、一部出来た歌詞、ま「日本語のバージョンも書いてみよう」ってまぁふと思って。ま、一部凄い好きな歌詞とかも出て来たので、取り敢えず完成させようと思って完成させて歌ってみたんですけど、その、どうしても、同じメロディ歌ってても全然ノリが英語に…英語の時のノリと、こう、凄く、印象が、変わって。ノリが変わっちゃうんですね、ホント。譜面に書き起こしたら同じだとしても、あの~自分でもなんか日本語で歌ってて「あれ?なんか場所が、なんかあたしズレてきてる? なんかおかしい、のかな?」って思うような時があったり違うメロディに聞こえてきたり、段々こうゲシュタルト崩壊してきて(笑)、あの~混乱したりってするくらい大分印象が違くて。でそれがいいのかどうかわからなくって、まぁ迷ったんですけど。までも出来たし、あの~ま、興味がある人がいたら、ま是非、聴いて下さい。』

…読みにくいなぁ…。でもこうやって書き起こすのが昔からの私の芸風なのでご勘弁を。

要約すると「同じメロディでも日本語と英語でノリが違う」ということだ。

では、具体的に『キレイな人』と『Find Love』のどこがどう違うのか。これを指摘するのは結構難しい。ノリって言葉にしない領域の感覚のことだからねぇ。そこに乗っかった上で何かをするものだからさ。

そんな中で以下のパートを取り上げるのが理解の一助になるのではないかなと思う。というのも、同じパートであるにも拘わらず、日本語英語それぞれで「あ、ノってるな」と思わせる部分が“別々に”あるからだ。

『Find Love』では

『For now committed to my therapy
 I train with Vicki 3 to 5 times a week
 Getting stronger isn't easy baby』、

『キレイな人』では

『もういい女のフリする必要ない
自分の幸せ 自分以外の誰にも委ねない』

のパートである。それぞれ同じく1:30から1:45の15秒間。

英語の方で「あ、ノってるな」
と思わせるのは『Getting stronger isn't easy baby』の部分。日本語では『誰にも委ねない』の箇所なのだが、同じメロディなのに英語の方がより“瞬発力”を感じさせる。特に“stronger"という単語が“str"という3連続の子音を持っているのがポイントが高い。細かく密度が濃いアタックを繰り返せる為、音を跳ね上げるイメージが日本語より強く出ている。実際、ヒカルもかなりノっているのか"stronger"の"ger"の発音が嗄れてるのだけれど、勢いが宜しかったということなんだろう、そのままこのテイクが採用されている。私もここの嗄れ声大好きなのよねぇ。うむ、子音を2つ3つ並べられるという英語ならではの特徴を活かした見事なノリの、グルーヴの生成であろう。

一方、日本語の『キレイな人』で「あ、ノってるな」と思わせるのは『する必要ない』の部分だ。1:35~1:38の約3秒間なのだが、英語ではこの部分を全く歌っていない! 日本語独自のメロディと符割とリズムになっている。

細かいことを言えば、ここは混合拍子気味になっていて、強拍が2回ズレる(『ひつよう』の『つ』と『よ』)事によって新鮮なグルーヴを生んでいる。日本語の方(『キレイな人』)にだけここのメロディと歌詞が足されているのは、歌詞の意味が通るようにという理由もあったろうが、必ず母音と子音がワンセット(単母音も含めてね)で発音される日本語の歌は、折り目正しく規則正しく音が音符に乗っている為、こうやって敢えて強拍をズラした時に余計に耳を引く効果が高い事を念頭に置いたからではないだろうか。そこまで『も・お・いい・おん・なの・ふり』まで「タン・タン・タタタン」と素直に乗せている所から『ひーつ・よーう・ないっ』と「ツータ・ツータ・タンッ」とアクセントを循環してずらすことで新しいリズムの呼び水にしている。ここの『必要ない』の歌い方がやけに気持ちいいなと感じる人は多いんじゃないかなぁ。


このように、同じパートであってもノリのピークと言える部分が別々になるような点を指してヒカルは「日本語と英語でノリが違う」と言っているのではないか、というのが今回の要点でしたとさ。まる。

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『キレイな人』の話に行く前に、「イントネーションの威力」の一例を取り上げておきたい。グルーヴ重視とのいい対比になるだろう。取り上げるのは皆さん御存知『BLUE』である。


この曲は、Bメロ(ブリッジ)がメロディ重視、サビメロ(コーラス)が歌詞重視─この場合は「イントネーション重視」になるわけだが─、という明確な役割分担が為されている。具体的に見てみよう。

『BLUE』のBメロとは以下の部分のことだ。

『もう一度 感じたいね 暗闇の中で
 希望が織りなす あざやかな音楽』
『もう何も感じないぜ そんな年頃ね
 道化師のあはれ まわりだす照明』
『もう一度 信じたいね 恨みっこなしで
 遅かれ早かれ 光は届くぜ』
『もう一度感じさせて
 技よりもハートで』

これらの箇所、皆さんも同じだろうかな、鼻歌で(ハミングで「ふんふふ~ん♪」と)歌おうとするとスラスラメロディは出てくるけど具体的に歌詞を歌おうとすると少し思い出しにくくないだろうか? なんとなく言い回しも凝っていて小難しい印象もあったりで。特に

『希望が織りなす』
『道化師のあはれ』
『遅かれ早かれ』

といった言い回しは、日常会話で耳にすることが余りなく、耳から聞こえるより目で見る機会の方が多い。その為、耳から聞こえてきても馴染むより違和感がまさる。

一方でサビメロはどうなっているか。歌い出しの所を切り出してみるとこんな具合だ。

『どんなにつらい時でさえ』
『恋愛なんてしたくない』
『全然なにも聞こえない』
『全然涙こぼれない』
『こんなに寒い夜でさえ』
『原稿用紙5、6枚』
『栄光なんて欲しくない』
『もう何年前の話だい?』
『幻想なんて抱かない』
『あんたに何がわかるんだい?』

どうだろうか。これらのフレーズは、Bメロのそれの異なり、メロディも歌詞も渾然一体となって思い出されないだろうか。Bメロのように、鼻歌で歌うのはすぐ出来るけど何て言っていたのかいまいち思い出せない…みたいなことはなく、必ずといっていいほど言葉のインパクトを伴って「歌」として印象に残っている。

これがイントネーションの威力である。この『BLUE』でヒカルは、サビメロの歌い出しに於いては必ず実際の喋り口調の時のイントネーションに近いメロディを宛てている。或いは(実際には)、そのメロディで表現できるイントネーションで話す言葉を次々に当て嵌めていったと言った方が適切か。兎も角、イントネーションとメロディが合致すると、歌が言葉として眼前に迫るインパクトを持つようになるのだ。

翻ってBメロの方は、話し言葉ではない言い回しも交えながらメロディ重視で、言葉の方も意味内容を重視した歌詞と音符の組み合わせで構成されている。サビメロの前に必ずこのパートを通過することで、更に対比をあざやかにしてサビメロ冒頭の言葉が聴き手の耳と心に突き刺さる構成になっているのである。


斯様に、ヒカルはイントネーションの重要性がわかっていないのではなく、その威力を熟知した上で自由にイントネーションを重んじたり軽んじたりしながら効果的に歌詞を音符に載せていっている。この(従来からずっと持っている)巧みさを踏まえた上で、『BADモード』アルバムに於ける歌詞の技巧についても語っていくつもりですよっと。

 

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ちょいと道草を食う。「アクセント」と「イントネーション」についてのお話。

この2つの違いを踏まえておくことは重要である。ひとまず日本語の発音の基準・権威といえばNHKということで該当サイトから引用させてうただく。

「単語レベルの音の高低をアクセントといい、文章全体の高低の調子をイントネーションといって、同じ音の高低を分けています。」
https://www.nhk.or.jp/bunken/summary/kotoba/uraomote/027.html

簡潔に纏まってるな。単語の抑揚がアクセントで、文章の抑揚がイントネーションなのだ。

日本語はかなりの部分でイントネーション重視である。単純に、日常会話で「イントネーション」という言葉を使う頻度の方が「アクセント」という言葉を使う頻度よりも随分と多い。

自分は関西のテレビも見て育った人間だが、お笑い芸人が「イントネーションがおかしい」とツッコむ機会は多かったように思うが「アクセントがおかしい」とツッコむのを見る機会は余り無かった。寧ろ、アクセントというべき場面ですらイントネーションと呼んでいた気がする。それだけ、人に話し言葉で伝えるときにイントネーション、即ち文章全体の抑揚が重要視されていたのだろう。ニュースを読むような場面のみならず、日常会話の延長線上でボケとツッコミの遣り取りをするような場面であっても、だ。

一方、アクセントの方はといえば、従来から「アクセントの平板化」が取り沙汰されてきたように、寧ろ無くす方向にすら流れてたきようにもみえる。重視や軽視を飛び越えて無視である。

これが英語の授業になると一転、ひたすらアクセント、アクセント、アクセントだ。日本語(外来語)で打ち消されているアクセントの数々を、英語の授業では悉く生き返らせていかねばならない。一方そこでイントネーションの話は殆ど出ない。疑問文では語尾を上げましょうね、くらいだろうか。いや実際はもちろん英語の話し言葉での文章にもイントネーションはあるのだが、意識して指導はされていなかった。現代はどうなのかは知らんけど。

もう一度纏めると、日本人にとって、日本語はイントネーション重視、英語はアクセント重視なのである。


…つまらない話が長くなった。故に日本語の歌では、という所に持っていきたかったのよ。

故に日本語の歌では、歌詞を乗せるときに出来るだけ話し言葉のイントネーションを残す方向で進めた方が歌詞に託したメッセージがリスナーに届きやすい。歌詞を先に作って、そのイントネーションに合わせてメロディを当て嵌めていくのが穏当・妥当となるのだ。

宇多田ヒカルはこれを全然気にしなかった。「イントネーション?何それ美味しいの?」てなもんである。メロディを徹底的に重視し、話し言葉のイントネーションなど気にも留めずに自由に音素を音符に乗っけていった。それによって、(何度も言ってるけど)『Automatic』の『な/なかいめのべ/るでじゅわきを』が生まれたわけだが、正直ただイントネーションを無視しただけでは「歌詞を乗せるのが下手なだけ」でしかない筈なのだ本来は。ヒカルは、しかし、イントネーションを犠牲にすることで歌詞によって楽曲にグルーヴを与えることに成功したからこそデビュー当時絶賛されたのである。

その伝統はデビューから23年を経た最新作『BADモード』にも受け継がれている。特に、全英語歌詞の楽曲『Find Love』の日本語バージョン『キレイな人(Find Love)』に於いてそれが顕著である。ボーナストラック扱いだけれど。それについての話からまた次回かな。

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