無意識日記
宇多田光 word:i_
 



Another Chanceがセカンド・シングル候補に上がっていた(とまでは言ってないけどまぁ)というエピソードは、つまり最初っからガッチガチに三枚のシングル・カットの予定が決まってはいなかった事を意味する、という所までは言っても構わないのではないか。

というのも、当初からAutomatic~Movin' on without you~First Loveというのは「付き合ってる最中」~「別れる時」~「別れた後」という時系列に沿って一人称の恋愛を描く"恋愛三部作"として認知されてきたからだ。実際、アルバムにおいてもこの3曲はIn My Roomを挟んでリリース順に並んでいる。そもそもの"デビュー曲"であるtime will tellはB面トップの位置である。(実際のアナログ・アルバムのじゃないよ念の為。アルバムの中での位置付けの話です)

こういう認知のされ方をしていたのだから、基本的に最初っからこの3枚のシングルはこの順番で行こうという計画が(決定事項ではなくとも)あったのだろうと思われてきた、いや取り敢えず私はそう思っていたのだが、ここにアナチャンが話として入ってくるのだとしたら「後付けだったのかな?」という疑いが擡げてくる。

いや、実際の所はどうでもいいんだ、シングル・リリースの順番なんて。言ってる割に大して気にしていない。どちらかといえば気になるのは、結局この"アルバム"も、個々の曲が愛されていて、アルバム全体として評価されている訳ではない―というか、そもそも単なる"曲集"なのだからそれが普通だ。

今まではそれでよかった。しかし、ipodの出現以来"アルバム"という概念は解体されてきている。要らない曲まで買わせるな。それが皆の本音だろう。

だから、こういう"三部作"みたいなコンセプトに、これからはもっと自覚的になるべきなのではないかと思うのだ。シングルカットされた曲の「続き」がアルバムに入っていて…という風になっていればどうか。もっと言えば、三部作が4つ入った12曲ならアルバムとして買いたくなるのではないか。そういう工夫を明示的に出来ないものかと。

ヒカルが最後のシングルCDをリリースしてから6年が経った。あれが最後かもしれない。私は更に踏み込んで、アルバムなんて要らないんじゃないか、次のLPはSingle Collection Vol.3でいいんじゃないかと何度も書いてきた。

ロックやクラシック、ジャズといった各ジャンルはアルバムとしての様式が確立しているからそれらのジャンルのファンはアルバムを買い続けるだろう。私もその1人だ。それらは、ちゃんと最初からアルバムをひとつの作品として捉えて作られているから、ちゃんと全曲聴かないと物足りない。しかし宇多田ヒカルのアルバムにはそんなものはない。あの素晴らしい曲順を誇るHEART STATIONですら、ヒカルは曲順会議に参加していない。せいぜい、最後の曲のチョイスにはアルバム作品としてのバランスを考えたのかな?とは思うが。しかし、Celebrateの代わりに他の曲が入っていたとしても、HEART STATIONは名盤だっただろう。逆説的な話だが、あれがただ曲を寄せ集めただけの作品だったから、そう言う事が可能なのである。全曲あんなクォリティーで仕上げる宇多田ヒカルにそういう意味での死角なんかなかったのだ。

つまり、まだ問題は起こった事がない。だからこその提言なのだ。次のLPは、余程の工夫をしないと売れないんじゃないか。これだけスマートフォンが普及してしまっては、かなりの人間が何かタイアップのついたシングル曲をダウンロードするだけで済ませる。それならいっそアルバムを諦めるか、そうでないのなら何かアルバムに"音楽的な興味"を喚起するものがないと、それはSingle Collection Vol.2に遥かに及ばない売上になるだろう。例えAmazonMP3やiTunesStoreで年間No.1をとるような大ヒット曲が出たとしても、だ。そこに作り手側が危機感を持っているかどうか。全曲に思い入れを抱かせられる工夫をどうするか。それでもLP売りたいのなら頑張るしかないんじゃないか。

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上半期の総括か~。取り敢えず結婚なのだろうが、本人からのステートメントがあれだけなのでそれだけかなという感じ。彼は一般人なのだからもっと静かでもよかった。

しかし、シンガーソングライターの場合、私小説家以上に私生活に興味を持たれるのは致し方ない所。それが嫌なら最初っからテレビでのプロモーションを諦めた方がよかったのだがこれも今となっては後の祭り。どれだけ売上が落ちぶれようとも「嘗て一世を風靡した人」は延々ゴシップの種として扱われ続けるのだろう。

とはいえ、そこまで今回の結婚話が盛り上がったかというとよくわからない。ああそういえばそんなこともあったねという程度で済まされるレベルだろう。毎日とか毎週とかテレビに出てる人たちとの差はこんなところにも表れる。何もかもがピンポイントなのだ。皆にスタジオで「結婚おめでとう~」と祝福される場面もない。しかしパパラッチには追い掛けられる。ネタの出来たテレビや雑誌新聞紙や、ある程度宣伝になったレコード会社には多少メリットはあったかもしれないが本人はひたすら損ばかりしている。割に合わないねぇ。システムの外に居るのにシステムに利用されるとは。

あんまり総括っぽくないが、それが今の"宇多田ヒカル"ブランドの立ち位置だという事だ。多少はFL15の販売に好影響があったのだろうか。でなくば報われぬ。このまま行くとずっと損をしたままという流れになりそうだが、結局先の事はわからない。今の現状は、ただ単に、これ位の宣伝をすればこれだけの人たちが買ってくれる、というだけの事。FL15豪華盤に関しては9割方の人間が何らかの形で@utadahikaruや@hikki_staffの発言をフォロー出来ているだろうから、連日Botで宣伝ツイートを入れておけば最初の5000セットは完売していただろう。そこまでの広告宣伝費はほぼ0に近い。渋谷のビルボードは、いわば「存在感」を敷衍する為の手段なので、その意義は復帰後に品定めされるだろう。今はまだわからない。

何もかもが中途半端な立ち位置だ。しかしそれこそがHikaruの元々望んでいた事だろう。No Genre/ノー・ジャンル。音楽的にどこにも属さないだけでなく、活動のスタンスやファン層などもノー・ジャンル。そりゃあゆらゆらふわふわもするわいな。

こうなってくると、例の、"スコットランドにルーツを感じる"発言はどう捉えるべきか。スコティッシュ・ミュージシャンたちとのネットワークの中に入るか。新居をそちらに(も)構えるか。これもまた様々な兼ね合いで決まる。ただ、ゴシップとパパラッチに本当に嫌気がさしてきているのならメジャー・レーベルから一旦ドロップした方がいいだろう。ファンの方は"個"を発信するツールさえ確保しといてくれれば大丈夫。なんだけどそれってもう庶民レベルで実現しちゃってる訳だから結局は「何も特別な事はしなくていい」。新曲が出来たらYoutubeにCD以上の高音質でアップロードすればいいし、インディーズ向けの配信システムもあるにはある。制作資金がなければクラウド・ファンドでも何でも方法はある。要は、何でも出来るのだ。この半年、「昔は凄かった」というサイドの話ばかり目にしてきた気がする(15周年記念企画だからそれも当然)が、今後もそれに乗っかっていくのだろうか。何がしたいのかがわからな
いならやった事をただただ示していくしかないだろう。待ちの姿勢です。

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こうしてFirst Loveアルバムを聴いていると、つくづく「惜しいアルバムだなぁ」と思う。メロディーのバラエティーをサウンド・メイキングが受け止めきれていないのだ。やや画一的ともいえる、所謂"90年代後半らしい"サウンドになっている。それが、必ずしも各曲の個性を活かしきる方向に振れているとはいえない。

"その当時の流行のサウンド"というか"その時のリスナーの耳にすっと入っていけるサウンド"を狙って作ったアルバムは他にもあった。Utadaの2ndアルバム「This Is The One」である。彼女はインタビューできっぱり「メイン・ストリーム・ポップ」を標榜してこの作品を発表した。では流行にすりよった作品になっていたかというと全くそんな事はなく、寧ろ彼女にとって、少なくとも歌手という目線からすれば"最も得意な事"に焦点を当てたアルバムとなった。この15年の作品の中で、オリジナル・アルバムの中で"最もUtada Hikaruの歌がうまい"のは同作だ。私が彼女の"歌唱を堪能"したいと思った時は決まってこのアルバムに手が伸びる。…っていう言い方をしたんだよ昔は。今と違って、レコード棚からアナログやカセットやCDやMDを取り出していたからね。時代は変わった。

確かに、First Loveアルバムは、当時のリスナーの耳に馴染み易いサウンドを持っていた。それがあの驚異的な売上を推進する要素の1つとなっていた可能性は否定出来ない。しかしそれと引き換えに、以後のアルバムで聞かれるHikaruの"カラフルさ"がやや薄い。"メインストリームポップを狙って作った"「This Is The One」ですら、B面ではカラフルな作風の広がりをきっちりと見せていたというのに。カラフルさが極まって"極彩色"とまでいえる境地にまで至った「HEART STATION」と較べるともうモノクロ写真とフルカラー3D写真くらいの差がある。

しかし、歴史的には、これでよかったのだろう。後からバックカタログを聴く新しいファン(そういう人が今の時代居るのかどうかすらわからないが)は、2ndアルバム以降と較べて何故1stだけ突出して売れたのか、もしかしたら不思議に思うかもしれない。確かに、あっさり「AutomaticとFirst Loveが入っているから」とファイナル・アンサーで答えてあげてもいいのだけど、もう1つ、少々サウンドから個性の漲りが失われてでも、その時の時代の空気と同調していた事も大きかったのだよ、と教えてあげるのも一興だ。そして、ここが恐らく、邦楽市場にとって本当の意味での最後の「歌は世につれ世は歌につれ」を体現していた時代だったんだよ、ともね。



嗚呼、そういえばそろそろ上半期が終わるんだな。来週の月曜日までか。トピックとしては、Hikki's Sweet&Sourの再放送、First Love15周年記念盤の発売、Kuma Power Hour最終回、そして結婚といった所だろうか。人間活動中だというのに騒がしい人だなぁ。ここらへん、次回と次々回で振り返れるかどうかは…相変わらず、その時になってみないとわかりませんな。まだまだ拾いきれていないところも多いし、ネタが尽きる事はない。あとはその時の気分次第です。それが私の性格らしい。

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今朝になって気が変わったので別の話を。(笑)

Demo Versionというと歌詞やメロディーが完成品とどう違うか、という点に注目が集まるものだが、ヒカルの場合「コーラス・ワークの鬼」と呼ばれる三宅プロデューサーが居る為、バックコーラスの当て方にも随分変化が見て取れる。その代表例が『言葉にならない気持ち』である。

そもそも、セカンド・アルバムの楽曲のデモが今回の企画に紛れ込んでいるのが特異だ。御承知の通り、Interludeで先に御披露目されていたせいだが、やはりこうやってワンコーラス収録されてしまうとある意味"場違い感"は否めない。ただそれは聴き手としての理屈であって、制作サイドからすればこの時期のDemoなんだから一緒に収録するのが筋なのだろう。という事は、既に1stアルバム制作時点でこの曲は大体大枠が出来ていた、という事になる。どういう経緯でセカンドアルバムに収録される事になったのか事実関係を整理したい所だがちと資料が足りないな。

話を戻そう。Interludeだけならよいが、セカンドアルバムのフルコーラスの『言葉にならない気持ち』を知っている身からすると、このデモ・ヴァージョンには違和感を拭い得ない。そのいちばんの要因は、バックコーラスの重ね方が異なる点にある。スタジオバージョンの『言葉にならない気持ち』の場合、サビの『言葉にならない気持ち いつか伝えたい』のうち、『言葉にならない気持ち』の部分にハーモニーが入り、『いつか伝えたい』の部分がバックコーラス無しのリード・ヴォーカルオンリーの歌唱になっているのだが、このデモヴァージョンの場合、『言葉にならない気持ち』の部分がシングルのリードヴォーカルで『いつか伝えたい』の部分の方にバックコーラスが入っている。しかもこちらはハーモニーよりユニゾンが主体である。このアレンジの違いによる印象の差は大きい。

ハーモニーと言った場合はメインのメロディーの上や下のラインをなぞる事、ユニゾンは同じメロディーを(時にはオクターブ違いで)歌う事だが、このユニゾンにもちょっと幾つか種類がある。ちょうどこの『言葉にならない気持ち』の中でもその使い分けが為されている。

ユニゾンをスタジオ・レコーディングする時(ミックスダウンする時)に重要なのは定位を何処にするかを決めなければならない。左右に大きく散らしたり、中央に寄せたり。或いは声部によってかけるエコーの深さを変えたりして距離感を演出したり。そんな中で全く同じ定位で自分の声でユニゾンを録音する事を慣例として「ダブル」と呼ぶ。この『言葉にならない気持ち』でもダブルになったヴォーカルを聴く事が出来るし、またユニゾンを左右に散らしたパートもある。それぞれでどう感じが変わっているのか、注意して聴き比べてみるのもよいだろう。

このコーラス・アレンジの違いは、もしかしたらアルバムの中での位置付け、曲順の変化が理由なのかもしれない。が、今回収録されたDemo Versionはワンコーラスだけなので(とは言うものの、最初っからワンコーラスしか出来てないデモなのかもしれないが)、詳細を推理するのは避けたい。いずれにせよ、発表のタイミングや場所によって、曲のサウンドが変遷を辿る事もあるんだな、と思わせるヴァージョンである。なかなかに興味深かったわ。

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Demo VersionからStudio Versionへ、最も劇的な変化を遂げたと言えるのが、Automaticに続くセカンド・シングルの座をAnother Chanceと争い見事勝ち取ったMovin' on without youだろう。

驚いた事に、あの楽曲の印象を決定づけるオープニングから全開のエレクトリック・ギターも、大昔の小室哲哉風に混合拍子でリズムを刻むピアノによるコード・アタック(これが進化したのがBeautiful Worldだ)も、歪ませてサンプリングされた弦楽器サウンドによるオブリガードも、何もかもがない。

最初このDemo Versionのイントロが喋るヒカルのバックに流れてきた時私はこれがどの曲のデモなのかわからなかった。Hikaruが口遊み始めて初めてそれがむびのんだとわかった。なるほど、確かにコードはこれでOKかと。これは本当に全く別の曲になったといえる。

それにしても、歌メロが乗ってしまえばこれは紛う事なくMovin' on without youだ。この強烈なメイン・メロディーを、全くサウンドのインパクトなしに最初に書き上げていたとは驚き以外の何もない。確かに、Tribal Mixの時点でもそう感じていたが、この曲はサウンドのインパクトがなくとも、歌(メイン・ヴォーカル&バック・コーラス)だけで楽曲として成立しているのだからそういう"成り立ち"であっても不思議ではないが、改めて事実として突き付けられるとこの15歳のとんでもなさに目眩を起こしそうな気分である。

歌詞の世界観も流石の一言。細かい話だけど、前半では『ガラスのハイヒール見つけないでね』になっているのに後半ではしっかりスタジオ・バージョンと同じ『ガラスのハイヒール見つけてもダメ』になっている。この変化が"この間"に起こった事の明白な記録だ。

メロディーが同じなだけに文字数は同じだけれど、言ってる内容は一歩前進というか、より濃密なメッセージになっている。『見つけないでね』だと、もし見つけられたらまだ心が揺らぐ可能性を残しているようなニュアンスになるが、『見つけてもダメ』だと、たとえ追いすがってきてロマンチックな言葉をかけてくれてももう私の心は揺らがないんだから―と、"強がり"を言っているような描写になる。何しろこのあと更に一時間枕元のPHS相手に葛藤を繰り広げているのだから…って、あららこれスタジオバージョンの歌詞の話だわね。そうね、折角なのでもうちょっとこの有名曲の歌詞について触れてみてもいいかもしれない。では次回はその話からという事で。

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一方でFirst LoveのDemo Versionは、また違った意味でデモっぽくない。まるでこちらの方が後に出来たんじゃないかと思わせる、という意味で。

First Loveのオリジナルのスタジオ・バージョンは、ピアノと弦楽器が壮大に盛り上げ、スネアも深めにエコーをかけてスケール感を大きくした「これぞザ・バラード」という雰囲気のサウンドだった。事実、この国ではまさにバラードのお手本、スタンダード中のスタンダードという風に認知されている。

しかし、このDemo Versionはもっとレイドバックしているというか、こぢんまりとしてして、どこか親しみやすく素朴なアレンジである。

これは、オリジナルにはないパーカッションの存在が大きい。レゲエ並み、とまではいかないかもしれないが、まるで南国リゾートでのんびり過ごしているような空気さえ漂ってくる。どちらかというとリラクゼーション・サウンドである。ここには、オリジナルに見られるようなスケール感は無い。

どちらかといえばこういうのは後からリミックスとしてリリースされるんじゃないか、というのがひとつの印象だ。「光」と「光(Godson Mix)」みたいに。オリジナルの力強さが力んで聞こえてくる頃に、肩の力を抜いて同じメロディーをゆる~く楽しみたい、といった動機から聴きたくなるようなな。

と、思っていたのだが、改めて聴き直してみると、こういう順序で曲が"進化"したケースが過去にあったな、と気がついた。ホイットニー・ヒューストンの"I will always love you"である。「えんだあああああいあああ~♪」っていうアレね。映画「Bodyguard」の主題歌だっけ。忘れちった。この曲のオリジナルは元々もっと素朴なフォーク・ソングで、それこそフォーク・ギター片手にまったりしながら呟くように歌う"小品"という感じだった。それを、ホイットニーの圧倒的な声量によって壮大なラブ・バラードに仕立てあげて全世界的な大ヒット曲になった。映画のサウンドトラックアルバムとしては史上屈指の売上を誇る筈である。

恐らく、そういった"化学変化"が、このFirst Loveの制作途上で起こったのだろう。或いは最初のヒカルの意図が河野さんに伝わりきっていなかったか。いずれにせよ、Another Chanceのケースとは異なり、こちらは寧ろ「よくぞこの完成版になってからリリースしてくれました」と言いたくなる。でなければ、冗談抜きで邦楽の歴史が変わっていたかもしれない。デモの時点で既にメロディーは美しいが、オリジナルにあるあの「ベッタベタな王道感」がない。ホイットニー同様、こうやってスタンダードとして愛されるには王道感は非常に意義がある。デモを聴き返すことによってスタジオバージョンの成功が確認できる、デモバージョンかくあるべしというトラックだった。ある意味、First Loveは、デモもデモとしての"王道"を歩んでいたのだといえる。歴史的価値の高い収録である。

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普通、Demo Versionというのは、取り敢えずコード進行とリズム・パターンが決まったから歌を乗せてみる為のガイド・トラックを打ち込んでみましょう、という感じで制作されるもので、当然ながら完成品と較べれば荒削りで練り不足、細部の詰めが甘く表情も装飾も乏しい、というのが通例になっている。というかデモというのはそういうもんだ。

しかし、私の耳にはこのAnother ChanceのDemo Versionに関しては、完成品より「こっちの方がいいんじゃないの?」という風に聞こえた。要するに好みの問題なんだけど、15年越しに私にとって「よりよいアレンジのバージョン」が聞けるというのは結構得した気分である。

元々、Another Chanceのオリジナル・スタジオ・バージョンのサウンドに対して、私はあまりいい印象を持っていなかった。ヒカルは今回そのサウンドを「アーバン」と形容していて、うまいこと言うもんだと感心する一方、なるほどなとも思った。私は都会っ子ではないのでアーバンなサウンドに何の思い入れもない。

まず、サウンドのバランスがよくない。やたらにボトムの効いたリズム・セクションに対して、あまりに貧弱なイントロのあのメロディー。左右のギターも殆ど聞こえやしない。初めて聴いた時思わず「クソだせぇな」と呟いてしまった。アーバンでお洒落なサウンドの筈なのに「田舎い」と言われるなんてかわいそうだなこれ。

それだけビッグなリズムセクションなのにスネアがクラップなのがまたまずい。この曲のメロディーはスケールの大きなロマンティシズム溢れるところが魅力なのにこのスネアサウンドはそのスケール感をスポイルしている。その癖音はやたらデカい。言う事に中身はない癖に声だけやたら大きくて他の人の発言の肝心な所を聞き逃すみたいな感じ。嗚呼なんて都会的なの。

曲全体としても、ヴァース~ブリッヂ~コーラスとダイナミックに推移するメロディーを見事にサポートしない。何もやらずに淡々と音を繋ぐだけだ。嗚呼クールを装ってお洒落だこと。何しに出て来たんだあんた。

ところが、である。これがDemo Versionだとかなり違う。スネアはノーマルで歌に響く空間を与え、各音色もバランスよく間抜けに響くこともない。何よりベースラインの意図がベタなまでにハッキリしている。ヴァースで曲全体を引っ張り、ブリッヂで歌に主導権をバトンタッチしてサビではスッと引いて歌メロを盛り立てる。あまりにベタなのでこのままではダサいと思ったのだろうが、この歌のメロディーの強烈さを考えると寧ろこの愚直さの方がよかったと私は思った。音質自体はデモなだけに芳しくないがバランスもこちらの方がいい。

このAnother Chance、Automaticに続く宇多田ヒカルのセカンド・シングル曲として検討されていたらしい。結局Movin' on without youに決まる訳だが、確かに、オリジナルのスタジオバージョンだとシングルとしてはインパクトに欠けるサウンドかな、と常々思っていた。しかし、このDemo Versionだったら、もしかしたらセカンドシングルとして起用しても当たっていたかもしれない。歴史にたらればは禁物だが、そんな事を想像させるくらいに私はこのバージョンに魅力された。出来れば、フルコーラスで聴いてみたかったな。特に、ラストのアレンジが、Demoの時点で出来ていたかどうかは気になる。その部分に関しては、オリジナルのが秀でていると思うので。でも流石にもう陽の目は見ないか。残念だ。

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一体どこでどうすればコロンビア人の友達が出来るのか(笑)。

というわけでサッカーワールドカップが終わった。と書き出しても違和感ないんだろうな、これからが本番の決勝トーナメントなんだけど。日本代表が終戦した。事前の予想通り、というか単純に世界ランク通りに順位が決まっただけなので何も悪い所はなかったのだろう。極普通。

しかし、錯覚している人は多そうだ。今回のいちばんの番狂わせは日本がギリシアに引き分けられた事だろう。本来なら大健闘といえる。しかし、メディアは決勝トーナメント進出の可能性を煽った。商売上これは正しい。誰しも応援するチームが勝つ所を見たいからだ。視聴率をはじめとして注目度を上げる為には「勝てる」と煽らなくてはいけない。そこまではいい。

ここからが問題だ。なぜか、これから「敗戦の分析」に取りかかって何故勝てなかったのかが延々論じられる。何故も何もただの実力不足だ。今までの実績通りである。大会前に勝てないとわかっていて勝てなかった。そこに何の不思議があろうか。今まで通り実力の底上げをするだけなのだ。なのに、それがこうなるのは、商売上の都合で煽った人も煽られた人もいつのまにかその建て前を真実だと錯覚し始めてしまうからだ。

この現象は至る所で起こる。ポジティブなケースもある。「地位が人を作る」という奴だ。実力はまだまだ不安定だが、取り敢えず大関に昇格させてみる。すると周囲も本人も自覚が高まりサポートが増え稽古に力が入り結果実力が伴ってくる。錯覚は斯様に有用だ。しかし、使い方を誤ると今回のように(ってこれからだけど)皆で罵り合うような展開が待っている。両刃の剣であることよ。

それにしてもサッカーの広報戦略は凄い。何故こんな事になっているのか。世界ランクでTop40にも入れない(つまり本来ならワールドカップに出ている事自体がおかしい)実力しかないのにこの視聴率。前回の試合は33%だったらしい。朝の通勤通学の時間帯でこれって凄い注目度だ。やはり「世界中が注目している中で国代表が」という雰囲気作りをしているのが大きいのだろうか。

そういえば高校野球が盛り上がるのも、都道府県代表が頑張るという構図が大きそうだ。いや高校野球が派手なのはプロ野球より歴史があるからかもだけど。

紅白歌合戦も、男女対抗をやめて(途端に"紅白"じゃなくなるけど)、各都道府県出身者が出場して東日本対西日本の構図にすればもっと盛り上がったりするのかな。そうするとAKBとSKE、NMBとHKTという風に別れる訳か。どうせ高校野球だって日本中から才能をかき集めてチーム作りしているのだから個々の出身地などどうでもいいだろう。代表が居るという状況が必要なのだ。

となると、今度から宇多田ヒカルが紅白歌合戦の出場を断る理由が変わりそうだな。「私はNY出身なので、都道府県対抗に参加する事は出来ません」と。そこで「では国別対抗も加えますのでアメリカ代表で出て下さい」とNHKが食い下がるという展開になったら面白そうだ。人間、なりふり構わない位でちょうどいい。

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@utadahikaru
ここんとこ左半身をやたら重点的に蚊にさされてるんだけどなんなのこれ…
2014年6月24日 12:23

人間の神経系は、右半身が左脳と、左半身が右脳と各々繋がっている。もし右脳に異常があれば、ないしは、右脳と左脳のはたらきにズレが生じれば、右半身と左半身の状態が異なる、という可能性は十分有り得る。例えば、左半身のみ発汗量が多くなるなど。蚊は二酸化炭素濃度を探知して接近してくるんだったか、詳しい事は知らないが、発汗による気化によって体表面の空気の拡散度に違いが出るかもしれない。交感神経・副交感神経の機能に異常が出ていないかどうか調べてもらうのもいいだろう。

ただ、事実は恐らく、風向きが陽の向きなどの自然条件なのではないか。また、31年も生きていれば蚊に刺される経験回数も増える。たまたま左半身に集中する日が1日あってもおかしくはない。平均すれば左右均等に刺されているだろうが…いや、そうとも限らない。人間の身体は左右対称ではない。もしかしたら、Hikaruは普段から左半身の方を多く刺されていたのに、31年経って初めて今日、その事実に気がついたのかもしれない。発汗量の話をしたが、例えば汗腺の密度が左半身と右半身でそもそも異なるというのは有り得る。実際私も、手汗をかくのは右手で、左手はあまり濡れない。そういう個人差もある。いずれにせよ、身体の何処を蚊に刺されるかなんてどうでもいい。感染症にだけは気をつけて。


Another ChanceのDemo Version、再生時間にして1:11のところだろうか。Hikaruはこう話しているように聞こえる。

『Let's combine the two good ideas, make a great idea.』

囁くように言っているので正直よく聞き取れないのだが、つまり「2つのよいアイデアを繋げれればもっといいアイデアになる」と言いたいのだろう。

これを聞いて、即座に星新一の事を思い出した。皆さんご存知、掌編小説を1001編書いた天才作家だ。余りに多作な彼にある人が「どうやってアイデアを生み出しているのですか?」と問うたという。彼はこう答えた。

「異質なもの同士を結び付ける。これに尽きる。」

Hikaruの言っている事とは若干ニュアンスは違うが、いずれも、アイデアにとって本質的に重要なのは「Combine=結び付ける事」なのだという事は伝わってくる。星の方は青と赤を混ぜたら紫になった、という意味だろうし、Hikaruの方はハンバーグにチーズを載せたら美味しくなった、みたいな意味だろう。どっちにしても「結び付ける」事で新しい局面が開ける、と説いている。Hikaruのは独り言なだけに余計に説得力がある。

「結び」とは終わりの事だ。「千秋楽結びの一番」みたいなね。「結ぶ」とは端と端を繋げる事で、アイデアの限界=終端を乗り越える事を意味する。何かと何かを結ぶ為には、アイデアの限界まで辿り着かなければならない。その為には、まずは手を動かしてみる事だ。なんだろう、これは私の独り言。

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さて、書いてみるしかないか。

バグダッドカフェという映画は見た事はないが、主題歌は知っていた。というか、歌は知ってたけど、あぁそうか、これは映画で使われていたんだねという具合。そういう事はよくある。

昔のミュージカル映画の主題歌・挿入歌などは、先に歌だけに親しみ、それが映画に使われていたのを知るというパターンが殆どだった。こどもにとってはその傾向がより顕著で、サウンド・オブ・ミュージックやメリー・ポピンズやチキチキ・バンバンや…いずれもファミリー向けというかこども向けの内容なのだが、小さいこどもにとってスクリーンの前で2時間じっと起きてるのは無理な話だ。眠るかはしゃぐかどちらかだろう。しかし、歌なら3分5分だから何とかなるもんだ。

それに、映画本編は映画館に行かないと見られないが、歌なら家に居てもテレビやラジオから流れてくる。いきおい、歌に親しむ人が増える。そうやって、映画発のスタンダード・ナンバーは形作られていく。

「残酷な天使のテーゼ」は、UHF系アニメ初でありながらスタンダード・ナンバーになった希有な例だ。あからさまに言うと、Beautiful Worldがそれに迫れなかったのはちと悔しい。何より、カラオケで歌いやすい使いやすいというのが残テの強みなので、本人ですら歌うのに苦労する美世界はスタンダード・ナンバーにはなりにくいのかもしれない。

何より、美世界は宇多田ヒカルにとって「数ある名曲のうちのひとつ」でしかない。これが案外大きいのかもしれない。宇多田ヒカルといえばBeautiful World、ではまるでない。それが証拠に、EVA序破において、より大きく取り上げられるのは「主題歌がBeautiful World」である事よりも「主題歌が宇多田ヒカルであること」の方だ。曲より人の話題性がまさった。これが現状である。

桜流しはもっと違う。あそこまでいくとサウンド・トラックの一部、映画の一部であって、映画を離れたスタンダード・ナンバーとはなかなかなりえない。カラオケにも全く不向きだ。ラジオでさえ使いづらい。何より、キャッチーじゃないし。そういう意味においては、少し作品性を高めすぎたかなという気はする。私自身はそういう事は全く無く、ひとつの楽曲として単体で捉えているが。

ヒカルは、バグダッドカフェを観てこの曲、Calling Youを選んだのだろうか。それとも歌を先に知ってから映画を観たか、この時点では映画も観ずにただ歌を知っていただけか。いずれかはわからないが、映画をイメージするかしないかで歌へのアプローチは変わっただろうな。私は映画を観ていないからその差があったとしてもわからない。最初に聴いた第一印象といえば、イントロのピアノがFINAL DISTANCEの出だしと同じコードなんじゃないの、という事だった。もし仮に、このカバーがこのあと2,3年後のヒントになっていたとしたらそれはそれで興味深い。もし当時先にこちらのカバーが発表されていたとしたらFINAL DISTANCEの印象はどう違っていただろうかな。発表順というのは本当に重要だ。

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歌は世界の印、世界の標、世界を知る術、歌は世界のシルエット、、、

歌は人への道しるべ、歌う人への未知を知る術、歌は、、、

世界と人とは因果なものだ。人は世界がなくては生きられないが、世界も人が居なくては知られない。世界があるかどうかもわからない。時間の刻みを通して、人と世界は対話を続ける。

人と人は世界によって分けられている。人と人を分けるのが世界だともいえる。

同じ歌を歌う違う人。歌はどこにあるだろう。


詩なのか何なのか知らないが、出てきたので書いてみた。書いてみたらこれだった。

歌うのに訳なんて要らない。復帰々々と騒いでいるが、何故こーもあーだこーだと理由がつくのか。歌が出来た、歌った、歌おう、で何がいけないのか。

他の人ならまだわかる。お金を稼がなければならない。その為に、時機を見、人を調べ、時の刻みを数えもする。

Hikaruは何も必要ない。何故、プロのミュージシャンをやっているのだろう。もっと自由でもいいだろうに。

かいつまんで言えば、次は「何がしたくてこうなった」のかを教えて欲しいという事だ。目標があったのか、なかったのか。わかっていたのか、わからなかったのか。その答は「そんなものなかった」で十分だ。「歌が出来た。歌った。ただそれだけ。」―それでいい筈なんだが。好きでも嫌いでも、やる気があろうがなかろうが、ただ事実だけあればいい。そこまでなかなか、いかないか。

『暇…。』『曲作れよ!』というやりとりが妙に印象に残っている。締切がなくても、契約がなくても、Hikaruはこう思うのだろうか。

仮定の話をしても仕方無い。実際どうだったかだけが重要だ。


要するに今私は、未来への希望や展望が語れない状態なのだ。出来た歌に触れる事、そしてそれについて語る事、それならできる。宇多田ヒカルという『約束』が保留になっている今は、うねうねと曲がりくねってそういう気分。何が出来るか、わからない。出来たものだけが確かなものだ。しかし、これでは「過去の人」みたいだな…。


出来てた歌について語るのは、まるで化石を掘り起こすかのよう。それ自体はとても楽しいが、ロマンが無ければ途絶えてしまう。歌は、過去と未来を繋ぐもの、人と人とを繋ぐもの、過去の私と今の私を繋ぐもの。そうやってあらゆる糸を繋ぎながら世界は少しずつ紡がれていく。織られていく。歌に未来を見ようとしないのは、歌が始まるのが怖いから。歌に昔をみようとしないのは、歌が終わるのが怖いから。今歌う歌に耳を傾けないのは、"今"から、世界から逃げ出したいから。

人は沢山幸せなのに、どうしてこうなっているんだろう。歌は標、歌は知る術、歌は光のシルエット、、、、、。

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先週は大体独り言に近かったのでもう少し読めるように纏めておく。同じ内容を言い方を変えて書くってだけ。

英語ツイートの方は問題にしていない。あれが適切な発言だったかという点についてから議論は別れるのだろうが、それでいいのである。取り敢えず言ってみて、後から皆で検証する。もし不適切と判断するだったら後から訂正すればよい。何ら問題のない、通常の営みである。

で、それを次に日本語ツイートで謝罪にくる訳だがこのやり方がまずかった。自分の発言を「失礼な冗談」と切り捨てたのだ。実際に失礼な冗談だったらそれでよかったかもしれないが、違うだろうそれは。細かい事情は兎も角、「国際的な友好を促進するべく行われているスポーツで相手の国を嫌うような人々が出てくる事のないように」という、いつものHikaruらしい心根から出た発言だった筈である。何かまずい事があったとすればその部分々々を訂正すればよいところを、「失礼な冗談」と言う事で、Hikaruらしい真心ごと打ち捨ててしまっているのが問題なのだ。周囲の発言を鵜呑みにした、というのも自分自身の価値判断を蔑ろにしたという点で同方向の匂いがする。いわばHikaruはHikaruらしさを真っ向から否定しにかかっていたのだ。本来第一に守るべき自らの心の願いと祈りをなかったことにしようとした。本人が自らやっているからわかりにくいが、これを他人が発言していたとしたらどうか。最初のツイートを「失礼な冗談」と言われたら、私は怒
る。それが今回は本人の口から発せられたのだ。戸惑うのも無理はないでしょうに。

更に悪い事に、こういう形で"謝罪"してしまった事で、ここからの訂正が非常に難しいものになったのが…もう痛い。最初に、取り敢えず発言して、間違ってたと思ったら訂正して前に進めばいい、という風に書いたが、そういったやり方自体を、この発言は封じ込める。発言自体をなかったことにしようとしているのだから、ないものをなおすことはできなくなるのだ。要するに自分で自分の首を絞める発言なのである。

私は、ヒカルを蔑ろにする何か、大切にしようとしない誰かが居るとしたら、それがたとえ本人でも許せない――、と、言おうと思ったんだけど、これ以上追い詰めるような事を書き綴り続けても何も事態は改善されないだろう。最初の最初に言った通り、この件は「まるごと忘れて許す」のがいちばんである。ただ、それをすると今後ヒカルに浴びせられる心無い中傷に対して「それはおかしい」と踏み出す勇気が鈍る。彼らの発言もまた、まるごと忘れて許さなければならなくなるからだ。それでいいのかな。そっちは修羅の道だと言ったのはそういう意味だ。

先週の私の発言の幾つかを回収したつもりだがどうだろうか。今書いたようにとっとと忘れて次に行きたいがこればっかりは書くモチベーションに関わる感情の問題なのでどうにもならない。書く以上は正直に行く。こちらの筆と心が折れていては話にならないのだから。

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今にも筆が止まりそうな一週間だったが、何とか一回も飛ばさずにここまで来れた。踏ん張ってるな~と自分では思う。周りからみたらいつも通りかもしれないけれど。

自分でも何をやっているのかよくわからない。今週は疲れた。それがいちばんの感想だ。つくづく、幾つものチャンネルを持っている事が大事だなと思う。矛はひとつあればいい。しかし盾は何枚あってもいい。躱したり翻したりいなしたり壊したり。幾らあっても足りない。総てを打ち破られたら終わりなのだから。

先週の今頃は、多分ここを書き始めてから初めて、ヒカルの話題はしなくていいか、と思っていた時間帯だった。駆け込み乗車ネタとか一体何だったんだろう。

ミュージシャンやアイドルとファン、というのは不思議な関係だ。ライブで実物をお互い遠まきに(或いはうんと近くで)観た事はあるとはいえそれは「会った事がある」のとは違うし、時間としてもお互い特殊な心持ちである。シンプルに、普通に知り合った知り合いではないのだ。

そういう関係性だから、メッセージは非常に重要な役割を果たす。実際に会った時の実在性は、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚と総てのチャンネルが開かれ、何より行って帰って(言って返って)くる「対話」が成り立つ。その相互作用の有無は大きい。

宇多田ヒカルとそのファンにとって、Webに踊る言葉はそのまま両者の関係性のアイデンティティである。顔も見えない、声も聞こえない状態でその人がその人であると認識する為には、言葉に"その人らしさ"がないといけない。非Web世界でその人に"らしさ"を要求し過ぎるのはいただけないが、残念ながらWebではそうはいかない。発する言葉と受け取って返す言葉同士の中から"その人"を見いださなければならない。そこまで来て初めて、"おはよう"や"おやすみ"などの「挨拶の言葉」が意味を持つ。逆に、そこまでやらないと、非Webに見られるような"極普通の人間関係"が、Webに於いては築けない。つまり、築ければ大したもんだ。

だから私にとって、@utadahikaruのツイートは常に@utadahikaruらしくあってもらわないと、Hikaruの存在をそこに感じられないのだ。普段の何気ない、何の変哲もない呟きも、アタマに@utadahikaruとつくだけで無性に嬉しくなる、そう思えるまでに築き上げた関係性を、なし崩しに出来るのもまた同じ言葉だ。人間関係としてはとても奇妙、しかし、それが21世紀の、神千年紀の人と人の新しい在り方なのだ。20世紀の有名人たちを巻き込んで、世界は続々とフラット化する。そんな中で、"中の人"を疑われない為の工夫は、自然に為されねばならない。


やっぱり、難しい。この傷は古傷として一生残る。どうやって忘れたものか。そればかり考えている。出来れば、そうしたい。でも、それって、思い出も共に見捨てる事になりはしないか。道連れない保証は、どこにある。私には、わからない。

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今朝のラテ欄を見て笑ってしまった。NHKを含む在京(圏)FMラジオ局の殆どがサッカーワールドカップのギリシャと日本による試合の生中継を予定していたからだ。普段からプロ野球を生中継しているAMラジオ局の面々以上に横並びにみんな、だ。Nack5などは地元という事で普段から西武ライオンズの試合を中継する事もあるとはいえ、こういう公共の電波を用いた"にわか"っぷり。普段FMラジオを聴いている層というのはきっとこういうノリなんだろうなぁと想像せざるを得ない。今その放送を聴きながらこれを書いている私も相当なにわかだしな。

そんな中、放送大学と共に1局だけ(はオーバーなんだけど印象としては、ね)、サッカー生中継をせず普段通りの編成で放送をしているFMラジオ局があった。それがInterFMだ。それを見つけた瞬間、思わず「テレ東かっ!」と突っ込んでしまった。テレビ東京といえば、どれだけ大きなニュースがあろうと普段の編成を崩さない姿勢が賞賛を浴びている。それと同じアティテュードをInterFMに感じる。

「Real Music Station」を標榜するFMラジオ局の矜持というものなのだろう、折角の高音質を提供できる帯域を使える立場に居ようが音楽番組をなかなか放送できない民放局が多い中、音楽を主役として打ち出していこうという方針。ピーター・バラカンを登用した効果がしっかり出ているのだろうな。

そういう、今の時代には珍しい"意地"を見せてくれているラジオ局で、Hikaruは去年一年間放送を持っていたのだ。返す返すも、三度も休まなければならなかったのは残念と言うしかない。穴埋めという訳でもないのだろうが、1月~3月にはあの伝説の(という形容が如何にも不似合いな15歳のクソ生意気なガキんちょが喋っていた)番組、"Hikki's Sweet&Sour"まで再放送されて、これがまた30分番組の癖に次から次へと曲をかけやがって、思いがけず15年前の洋楽シーンを思い出させる効果もあったりして非常に素晴らしい時間を過ごさせてうただいた。そこには感謝しかない。

Hikaruの体質って、どっちなんだろ? 別に片方に偏る必要はなく、時にはにわかになり時にはこだわりを発揮し、という事でいいと思うがHikaruは元々こういうバブリーなお祭り騒ぎとは距離を取っていたような? いや、邦楽市場史上最高にバブリーなお祭り騒ぎをもたらした張本人ではあるのだけどね。その点に関して、Hikaruはどう思っているのだろう。15年前あの喧騒と狂騒のただなか、ど真ん中にあって、台風の目のように自らは静かに見つめていたのではないだろうか。そういう中で、その時にだけ集まってくる大多数の振る舞いについて、言いたい事はなかったのだろうか。当時と今では状況が違うだろうが、Hikaruがあやふやな盛り上がりにのっかったりする時に感じるのはただの危なっかしさだけでなく、16歳のHikaruの静かな目線のような気がする。今のHikaruが15歳のヒカルを「健気だな」と愛でる一方、15歳のヒカルは今の31歳のHikaruをどのように感じているのだろうか。叶わない話だが、一度
訊いてみたい気はしている。

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@u3music
作る方はそうはいかないよ。命削ってでも作るんだから。teruzane RT @fyuya1980 はっきり言ってもう待たせるにも限界が来ていると思うよ。ファンは、イライラしてるよ。完璧なんか誰も望んでいないんだからよ。
2014年6月19日 16:03

私は完璧以上を望んでいるのですが、とツイート投げたらこの人は前言撤回してくれるのかなぁ。別に撤回しなくていいのでツイートしませんが。

命を削る、って何かしれっと書いてるけど、そうだよなぁ、と特に「DEEP RIVER」アルバムを思い出しながら納得する。あれは削って出来た作品だよね。確かに、あのアルバムに与えられた栄誉の数々をAKB如きに踏みにじられたのだとしたら、ヒカルは怒っていい。秋元康を詰っていい気がする。彼も流石に「すいません」と言うのではないか。でもまぁそんな話も私は特に興味がないのでいいかなぁと。当時凄く時間を費やして同アルバムの全曲に耳を通した事を思い出した。あんなに「重い」アルバムはあれっきりかもしれない。単純な、絶対的な重さならULTRA BLUEの方が、大きさならHEART STATIONの方が上だと思うが、DEEP RIVERには何か、クォリティー云々以前の「特別さ」があったように思う。妙な言い方だが、命を削るのも慣れてしまえば何て事ないのだ。キツいし辛いし錯乱するが、既にそこを一度以上通り抜けているのだから、必ずトンネルは抜けられる筈だという信念を自分に持つ事が出来る。要するに自信である。特にHEART STATION
は自信満々のアルバムだった。あれだけの作品を作っておいて自慢しないのは罪なのでそれでいいんだが。

DEEP RIVERには「今までに一度も踏み入れた事のない領域に踏み込む」気持ちが最も込められたアルバムなのだ。そして、その新鮮な瑞々しさは、もう二度とHikaruの歴史にも現れないかもしれない。言いようのない不安と、どこまで行けるのかという期待と、何より、何に対して不安や期待を抱けばいいかわからないという「わけのわからなさ」がしっかり封じ込められているのが楽しい。そして、ここが天才の天才たる所以なのだが、Hikaruには、もう既に確信があったのだ。これは凄いものになるという。それは、一度も踏み入れた事のない領域の先の先にある筈のものなのに、最初から光の手の中にあった。何とも言いようのない、まさに「わけがわからないよ」な感覚なのだが、それがこのアルバムをただの混沌から救っている。よくぞこれが「音楽の形を成した」なぁと思う。暗闇を手探りながら、心の中に導きの灯火が絶える事はなかったのだ。

これからのHikaruは何をするにも初めてではないかもしれない。厄介なもので、今後例えばバンド・デビューするとかアイドルをプロデュースするとか言ったって、確かに初めてかもしれないが新鮮な瑞々しさはまるで違う。というか無い。小説を書こうともマラソンを走ろうとも、この作品の出発点の「わけのわからなさと確信」のコーンポタージュスープには敵わない。なんだそれ。

だから、そっちを向く必要はない。それは、もう次に生まれてくる世代に任せればいい。彼らの未来は、たとえ過酷であろうと薔薇色であろうと、驚きに満ちている事だけは疑いがない。それを隣で眺めていればいい。

ただ、だからと言って"新しい何か"が生み出せないかというとそれは全く逆である。彼らのワンダーはただ無知に立脚しているだけで、裏を返せば総ての人たちが通ってきた道であり、世界の立場からみれば新しくも何ともなく、最もありふれたシリーズだろう。そっちではないのである。

Hikaruは、ただ自分自身を伝えればよい。これ程難しい事はない。俺にすら伝わってない、とでも言えば重大さが伝わるかな。難しいな。その為には、世界にとってとても新しいものを生み出さねばならない。Hikaruにとって自分自身は、24時間常に一緒に居る最もよく知る、最もありふれた、最も新鮮味のない存在かもしれないが、それを人の人生にぶっこむだけで総てが変わる。それはつまり「光」であり、世界に世界自身を気付かせる鍵である。最後を光で飾ったあのアルバムから12年、まだまだ先は長いに決まってるんだから、もたもたしてないでとっとと曲書きなさい。はい。

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