無意識日記
宇多田光 word:i_
 



勿論そんな事言われなくったっていいんだけど。ここに居るのは自らの意志と、それではどうにもならない力に与えられた素敵な運命たちへの感謝の気持ちからだが。てか、あんまり言わせたくないくらいかも。言われたらそれはそれでうれしいくせにね。

UU06DVDを見ながら「悔しいなぁ」と思う。素晴らしい楽曲群、エモーショナル極まりない唄、熟達者ばかりな個々の演奏陣、的確なライティング、圧倒的な高い技術と個性の映像美、どれもこれも耳目を引くものばかりだが、それらを単なる雑音程度においやってしまってるのではないかと危惧してしまう程、宇多田光本人が桁違いにカワイイ。これは光本人含むクリエイターたちにとっては悔しいことこのうえないに違いない。どれだけ頑張って最高の仕事をしても、彼女の落とす視線ひとつに敵わない。力を結集して総てをひとつにしようが、彼女の煌めく笑顔ひとつの前には輝きも褪せる。逆にいえば、それだけのひとだからこれだけたくさんのひとたちがUNITEするんだけど。

昨年や今年や来年に限ったことではなく、光永遠にして最大の課題は、光本人の魅力に伍する作品を残すこと、カタチにすることである。それは、光が自身の魅力をまだまだ理解・把握・表現できていないことを意味する。それこそ、彼女自身が生きている間には成し遂げられないことかもしれない。しかし、だからこそ彼女にとって最も挑戦しがいのあるテーマでありつづけるだろう。

僕らは、光本人も含めて、いつまでもどこまでも宇多田光の魅力を追求しつづける存在である、また、そうであってほしく、そうでありたい、そうあるべきだ、そうでなければならなくなってきた、、、


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 天啓更新を始めてから人に会う度に一番よく言われるセリフが「よくネタが続くねぇ」というものだ。自分でもそう思う。ソレもコレも一重に私の光に対する情熱の為せる業だ、とまずは枕詞代わりに恥ずかしい常套句は吐いておくとして、さて。


 実際、連載を始める前は自分でも懐疑的だった。しかしやってみればそうでもなかった。それは当初の心づもりとは全く真逆に新曲連発メッセ怒濤の更新でその日その日に書く事に事欠かなかった、という今年一年の状況が一番大きかったのは言うまでもないが、それに加えてもうひとつ書き始めてから気が付いた点があった。

 「自分が過去に書いたコラムも話のネタに(タネに)なる。」ということだった。

 光について語る為の頭の中のストックは、連載当初はせいぜい一ヶ月くらいだろうと踏んでいた。その時点で「さぁタップリ時間をやるから今から何も考えず頭の中にあるネタを書き下してみろ」と言われたとして書けるのが40本位だったろう、ということだ。

 しかし、週に10本のペースで実際に書き綴っていってみると、自分の書いた文章を読み直したときに「ん。ということは…」と話の続きや派生や別バージョンを思いつくことが増えていった。恐らく、アイディア(着眼点や発想やなんやかんや)を頭に溜め込んだままでいては気がつかなかった様な事ばかりだと思う。今それを振り返ってみたところでその推測が真実か否かは最早わからないことであるけれども、「書く」という行為が思考自体に与える影響が、自分がもともと考えていたより更にずっと大きかったかもしれない、と漠然と思えてきてしまうのは事実だ。

 これまでにも、自分の書いた文章に触発される様な事も勿論あった。しかし天啓の最大の特徴は、そこからもっと踏み込んで、自分の書いたものをまるで他人事の様に楽しんで読めた事だった。その楽しさが次に繋がる力となっていった。わかりやすくいえば、他人の書いた文章に触発されて何か書きたくなるのと全く変わらなかったのである。

 その、今までにない特徴をもたらしたのが初めて導入した「字数制限」であった。これまでは、i_といえばヒカチュウきっての長文書きで知られていた(…筈)。書き手としての私にとって、長い(といっても数千字単位だが)文章を書くのは難儀な事ではなかった。ただ頭の中に出来上がった文章をそのまま打ち込むだけだったからだ。その為、自分の書いた文章を読み返すことは少なかったし、今思えばそんなに楽しいことでもなかった、ということだろうか。

 しかし、天啓では字数制限によってこの様相がガラリと変わる。まず、短いから読みやすい。時に表現が抽象的になりすぎ意味不明なリズムになっていたりはするものの1分も要らずに全部読めてしまう。CMとか4コママンガのレベルである。書き方によっては不明瞭な響きがしても概ね内容の要点は定まっており何かが言いたかったんだろうな、という読後感は必ず残った。文章を短くまとめることにより得られる効用は多少の差はあれ確実にあったといえる。

 しかしそれ以上に字数制限の効果が現れたのは、それに伴う編集作業の過程に費やす時間の割合が大幅に増大したことである。話を絞り込んで短く書こうとするから最初の草稿の時点でかなり短い文章が書かれているのだが、それでもやはり全角250文字というのは予めの想像以上に少ない字数だった為に必ずその制限を超えた。決められた文字数に収める為に最初の草稿を書き下すのの何倍もの時間を編集と推敲に費やした。

 そうなってくると“価値の転換”が起こる。天啓を書く作業のメインが編集と推敲になったのだ。いわば最初の草稿は料理でいえばキッチンに必要な材料を並べる段階。そこから切ったり混ぜたり煮たり焼いたり、といった調理の過程こそが編集と推敲だった。趣味が買い物から料理に変わったのである。


(つづく…かもしれない;)


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音楽は"圧倒的に素晴らしい"といいたくなる。が、それは飽クマでも比喩表現。ソレで実際に誰かを圧倒しようとはしない。音楽がソコに在って、贈る人と受け取る人、私とあなたが居て、好きになったりならなかったりする、それだけだ。だから、光の音楽は必ず「あなた」に向けられる。予備知識は何も必要ない。過去光が誰よりもCDを売ったとかも関係ない。ひとが称えるからと称える必要もない。誰の評判に揺れる事もない。ただその音楽と向き合い、光と向き合い、自分の感じるままを大切に受け容れればいい。その普遍の過程を音楽に託せるのが、宇多田光という人なのだ。


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mintmanics(blogリンク集からドーゾ)12.13付を見ると、光の新作に冨田サンが参加してるのは確実の様だ。12.10にシャンパンを飲んではる。1日遅れのサプライズバースデイ。トラベのリミックスから4thでは光に次ぐメインアレンジャーになった人だ。一方、ヒカル最初の3枚でのアレンジは河野圭サンが多かった。何故アレンジ役の人選が変わったのか。スケジュール等実際的な理由もあるだろうが、音楽的には光のアレンジャーとしての成長が原因だろう。未熟だった初期はなるたけ自分好みの仕事をしてくれる人を選び、成熟していくにつれ自分にないモノを持つ人をチョイスしていった。その結果が圭→謙の遷移という訳だ。


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あんまり使わない"!マーク"を添えたくなる程ワクワクしている。着うたリリースから1ヶ月、漸くフルで聴けるのだ。今迄にない曲調、詞の世界観、想像が勝手に増殖してゆく。興奮と抑制、愛情と理性が波打つ様に襲ってくる。この解禁を皮切りに怒濤の如くアルバム発売に雪崩れ込むだろう。雑誌露出TVラジオ出演DLスタートと毎週々々情報の渦に巻き込まれてゆくのだ。何しろ、あのFirstLoveとDistanceとDEEPRIVERとULTRABLUEを作った人の、ニューアルバムなのである。60年代、ビートルズの新譜を待つ人々はこんな気分だったのだろうか。得も言われぬ期待感。待ち遠しくて待ち遠しくてタマラナイよ。


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第1弾ボーカロイド初音ミクが人気だ。詞とメロを打ち込めば歌を唄ってくれるソフト。PC1台だけあれば演奏も歌も創作出来る時代になった。元になってる音声自体はホンモノの声優サンの声でありソレを緻密に組み合わせて"歌"を創作する訳だが、それなら宇多田ヒカルの声でボーカロイドを作る事も原理的には可能な筈。ファンが自作曲を光に唄って貰える夢の様なソフトになり得る。が、光自身も使えるかもしれない。光の唄は年々変化する。24歳44歳64歳で各々味わいが違う筈。ボーカロイドがあればその時の新曲で24歳の光と64歳の光の共演なんて事が出来るのだ。40年後も作曲は楽しそうである。


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キッカケは「納豆が食べたい」というシンプルな動機であっても、後半は何だか今年時事ネタであり続けた食品偽装騒動の感想みたいに思える(クマチャンもニュース見て呟いてたしね)。χmasに和食な話、R&Bに民謡の歌心みたいなもんか。光にとっては自然な事なのかも。美世界の折「今の光のテーマは"和"か?」と呟いた事も思い出す。メッセ時刻も何気なく17:39…イナサクだし(ワザとじゃないからスゴイんだよw)。ご飯に納豆和の心。そういえば7/10に作曲していたDayOfNattow、光の目論見通りスタッフ皆デーオブナットーと連呼したのかが気になる。毎年Xmasオワリのメッセを読むと年越し気分になってくるなぁ。


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書いてはみたものの、ちょっと心許ない。元々日本人は80年代初頭迄ロックコンサートであっても座って観賞していた位(全部じゃないが)。聴衆を巻き込んで皆で盛り上がるオールスタンディング会場のハシリ・クラブチッタができたのは87年、丁度20年前の事。K&Cが"盛り上がる"と書いたのは、欧米のアリーナで皆総立ちになってミッドテンポ&グルーヴィな曲にノる場面を想定しての事。クイーンのWeWillRockYouやエアロスミスのWalkThisWayみたいにね。日本ではアップテンポで騒ぎバラードでシットリという文法は確立されているけどミッドテンポに関しては漸くココ10年て感じ。K&Cがウケるか否かは観客の慣れも左右しそうだ。


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業務連絡っす。
BBS1の返信を(半年振りに(驚呆苦笑))してきましたw
えっと、まぁ、そゆことっす。うん(^-^;
↓こちらのURLからどぞ~。

http://6609.teacup.com/aishadow/bbs

携帯からだと、i_0Uのトップから行った方が早いかな?

http://ishadow.nobody.jp/mobile/menu.htm

てか、なぜか↑このURL、ワタシの携帯からは見れないのよね~
同じ症状のひと、報告してくれれば嬉しいっす。
携帯からの閲覧、なんとか方法考えないとな。
gooblogはハイパーリンクができないのが難だよね~(^^;

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「今迄で最もアーティスト宇多田ヒカルを凝縮した曲」ではなかったろうか。多種多様な音楽性を網羅する(=あらゆる音楽から等距離で居たい)のがヒカルの真骨頂だがコレ迄は飽クマで楽曲毎のバリエーションを増やす事でソレを表現してきた。しかしK&Cでは1曲の中に3曲4曲分のアイディアを盛り込んだ。Bメロは他の自曲からの引用だし、イントロはジャズ、アレンジはコンピュータ、グルーヴはバスドラ&ハイハット、歌詞には商品名迄入っていた。しかしそれでもとっちらからずに皆の評価得られたのはメロディがこれでもかの切なさ満載ウタダ節の王道だったからだ。コレは絶対ライブで盛り上がる。ツアーが待ち遠しくなる曲だ!


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前に作詞中とメッセ報告あったので3月アルバムの線が濃いとみる。製作過程は人により作品により様々だが、光の場合作曲プリプロダクション演奏録音と来て作詞は歌入れ前最後の作業な事が多い。COLORSもEternallyもそうだった。ギリギリ迄詞を練り出来立てホヤホヤで歌を録音する。FoLの時プリントアウトした詞が中々出回らなかったのを考えると毎回発売延期の危機を背負っているのではないか。1日ズレるだけで損害が数億円単位になる世界。ソレ以上にアーティストの、レーベルの、レコード会社の信用に関わる。そんな状況でも「悪い予感がするとワクワクしちゃうな♪」とか歌ってそうなのが光だが。


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離婚の話題は避けたい様な徹底的に議論したい様な不思議な気持ちになる。実際、結婚といっても子も居なければ(知る限り)豪邸を建てた訳でもない。交際と破局を役所に届け出たに過ぎない。離婚と書くとセンセーショナルだが4年半付き合ってた彼氏と別れただけ、とも云えた。が、光の気持ちはどうだったのか。恋人なら「もしダメだったら別れよう」と付き合い始める事もあろうが「もしダメだったら離婚すればいいか」と考えて結婚したのだろうか? そうは思えない。「ずっと2人で」って歌ってるもの。一体いつから綻び始めたのだろう。アッサリ納得してしまえる答えが欲しい。


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鏡に写った像は、左右を除き(本当は前後だが)自分と全く同じ動きをする。021130メッセで光は「他の動物と違って人は鏡を見ても驚かなくなった」と書いている。そしてもう1ッ、人と人を隔てるもの("Distance"の和訳、"距離"より"隔たり"の方がよりイメージが膨らむだろうか)は皮膚1枚に過ぎないとも書いている。擬人化されたくまであるクマチャンの毛並に光が注ぐ愛情は並大抵ではない。うたではエビフライに喩えメッセではナミブ砂漠を引き合いに出した位に(両方とも光がフェチなものだ)。クマチャンと自分を隔てるものを愛おしむ気持ち。隔たりがあるから愛を抱き締められるンだな。


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ぼくはくまの絵本ではくまちゃんには「対話相手」が居ない。居るのは、自分の匂い("Flavor"かな)の染み付いたまくらさんだけ。兄弟や親といった"相手"という概念の存在に対する認識からして希薄だから、絵本のくまちゃんは「さみしい」という感情を知らない。只々目の前の熊の親子を見て自分の知らない感情が涌き出てくるのに戸惑うだけだ。ぽんぽんして帰っちゃったもんね。その前段、くまちゃんは水溜まりに写った自分の姿に挨拶している。鏡の存在を知らないのだ。つまり人は、鏡に居るのが自分自身だと知って初めて、さみしさを、孤独を知るのであろう。


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贈られた当初は贈り主の写し身という側面が強かった筈。UBUBlogに登場した頃は「光のもう1ッの口/人格」の様でもあった。普段の光のキャラでは言えない様な事もクマチャンの口を通してならいえる、と。次第にメッセで2人の(1熊&1人の)会話が増えるに従い読者もクマチャンを1ッの独立した人格(熊格)として捉える様になる。一方で光はキグルミによってクマチャンとの一体化を図る。しかし、「ぼくはくま」の時点でこの一体化は示唆されていた。クマチャンの1人称で歌われてるんだもの。2年掛けて光は自らが書いた歌に追いついたのだ。最高傑作の名に相応しい未来を先取りした歌なのである。


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