天啓更新を始めてから人に会う度に一番よく言われるセリフが「よくネタが続くねぇ」というものだ。自分でもそう思う。ソレもコレも一重に私の光に対する情熱の為せる業だ、とまずは枕詞代わりに恥ずかしい常套句は吐いておくとして、さて。
実際、連載を始める前は自分でも懐疑的だった。しかしやってみればそうでもなかった。それは当初の心づもりとは全く真逆に新曲連発メッセ怒濤の更新でその日その日に書く事に事欠かなかった、という今年一年の状況が一番大きかったのは言うまでもないが、それに加えてもうひとつ書き始めてから気が付いた点があった。
「自分が過去に書いたコラムも話のネタに(タネに)なる。」ということだった。
光について語る為の頭の中のストックは、連載当初はせいぜい一ヶ月くらいだろうと踏んでいた。その時点で「さぁタップリ時間をやるから今から何も考えず頭の中にあるネタを書き下してみろ」と言われたとして書けるのが40本位だったろう、ということだ。
しかし、週に10本のペースで実際に書き綴っていってみると、自分の書いた文章を読み直したときに「ん。ということは…」と話の続きや派生や別バージョンを思いつくことが増えていった。恐らく、アイディア(着眼点や発想やなんやかんや)を頭に溜め込んだままでいては気がつかなかった様な事ばかりだと思う。今それを振り返ってみたところでその推測が真実か否かは最早わからないことであるけれども、「書く」という行為が思考自体に与える影響が、自分がもともと考えていたより更にずっと大きかったかもしれない、と漠然と思えてきてしまうのは事実だ。
これまでにも、自分の書いた文章に触発される様な事も勿論あった。しかし天啓の最大の特徴は、そこからもっと踏み込んで、自分の書いたものをまるで他人事の様に楽しんで読めた事だった。その楽しさが次に繋がる力となっていった。わかりやすくいえば、他人の書いた文章に触発されて何か書きたくなるのと全く変わらなかったのである。
その、今までにない特徴をもたらしたのが初めて導入した「字数制限」であった。これまでは、i_といえばヒカチュウきっての長文書きで知られていた(…筈)。書き手としての私にとって、長い(といっても数千字単位だが)文章を書くのは難儀な事ではなかった。ただ頭の中に出来上がった文章をそのまま打ち込むだけだったからだ。その為、自分の書いた文章を読み返すことは少なかったし、今思えばそんなに楽しいことでもなかった、ということだろうか。
しかし、天啓では字数制限によってこの様相がガラリと変わる。まず、短いから読みやすい。時に表現が抽象的になりすぎ意味不明なリズムになっていたりはするものの1分も要らずに全部読めてしまう。CMとか4コママンガのレベルである。書き方によっては不明瞭な響きがしても概ね内容の要点は定まっており何かが言いたかったんだろうな、という読後感は必ず残った。文章を短くまとめることにより得られる効用は多少の差はあれ確実にあったといえる。
しかしそれ以上に字数制限の効果が現れたのは、それに伴う編集作業の過程に費やす時間の割合が大幅に増大したことである。話を絞り込んで短く書こうとするから最初の草稿の時点でかなり短い文章が書かれているのだが、それでもやはり全角250文字というのは予めの想像以上に少ない字数だった為に必ずその制限を超えた。決められた文字数に収める為に最初の草稿を書き下すのの何倍もの時間を編集と推敲に費やした。
そうなってくると“価値の転換”が起こる。天啓を書く作業のメインが編集と推敲になったのだ。いわば最初の草稿は料理でいえばキッチンに必要な材料を並べる段階。そこから切ったり混ぜたり煮たり焼いたり、といった調理の過程こそが編集と推敲だった。趣味が買い物から料理に変わったのである。
(つづく…かもしれない;)
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