無意識日記
宇多田光 word:i_
 



もう一度、母娘の性格の話について纏めておく。要点はほぼ同じだからただの復習に過ぎないのだが。

母は19歳だかの頃にインタビューでこんな風に答えている。「私は自分からあれがしたいだとかこれがしたいだとかいうことはない。まわりからあれをしろこれをしろと言われたらそうするけれど」と。(何となく私の今の気分で標準語口調に変えておいた)

主体性が無い、といえばそうかもしれない。常に受け身なのかと。ヒカルも同様である。彼女はミュージシャンなんて未来の見えない職業に就く気はサラサラなかったのに、親に「ちょっと歌ってみてよ」と言われて歌ってみているうちにレコードが出来上がり、三宅さんに「日本語で歌ってみない?」と提案されて日本史上に残る歌手になった。リオ・コーエンに「ちょっと契約せえへんか?」と言われてUtadaの歴史は始まっている。この全体の流れ、上述のお母さんの台詞がピッタリと嵌る感じである。

彼女たちがただの受け身な人たちと大きく異なっていたのは「やるからにはいいものにする」という"本能"である。特に、歌手として、2人とも抜群に耳がよかった。諸悪の根源(?)はそれである。ヒカルはミュージシャンなんかになるつもりはなかったのに、耳が良すぎた為に、音楽の粗がどうしても聞こえてしまう。そこから目を逸らせない性格こそが2人の人生を決定づけたと言っていい。ヒカルの言葉を借りればそれは「正義感」である。よくないところはなおさずにいられない、もっとよくしようと思わずには居られない、目に入ったもの、耳が捉えたものに対して嘘が吐けないのだ。

「あれがしたい」「これがしたい」と言う人は、今あれもしていないしこれも出来ていない。頭の中にイメージがあって、それを現実の中で充足させようという意識がはたらいている。故に、物事に対してそのイメージに近付けようとする。

2人は、似ているようでちょっと違う。そこにまず現実があって、それを本能的な感覚に基づいて磨き上げていくのだ。事前のイメージがある訳ではない。しかし、例えば圭子さんは曲を渡されたら自分なりにこう歌うべきだ、こういう声が必要だ、という事を理解しただろう。それに基づいて歌っていったからあんなに歌が上手くなった。

2人が揃って「勉強が好き」と言うのも、ここらへんの性格に起因する。勉強が嫌いな人というのは、文字通り「机の前に縛り付けられるのを勉めて強いられる」事こそが嫌いなのだ。つまり、他にやりたい事があるのである。しかし、積極的にあれがやりたいこれがやりたいというのを言わない2人にとってはこれとこれをやりなさい、と言われてそれをするのは至って普通の事だし、いざ問題や宿題が出されたらよい回答や返答をしようと躍起になるからどうしたって成果は出るし誉められる。好循環が始まる。勉強好きになる訳である。

前に書いたように、この"カイゼン(改善)"の精神に終わりはない。始めた時にまず渡された曲だとかさとされたコンセプトだとかが先にあって、それを磨き上げていっているだけだから到達点がどこにもない。あれがしたいこれがしたいと言って始めた人は現実にあれやこれが出来たらそこで試合終了である。2人はそうはならなかった。周りの人間が、ここまで来てくれれば大丈夫だよとか、締め切りはここまでね、とか言ってくれれば、形になってやっと"残せる"のだ。

事前に到達点のイメージがない為、2人のカイゼンのプロセスには際限がない。その間に、あれがしたいこれがしたいと言って初めて終えた人たちを、能力やレベルの上で次から次へと抜き去っていく。これが出来たのも、2人とも耳がよかったからだが、それはいいとして、これが、2人がぶっちぎりのセールスを記録出来る程の高いレベルに到達できたカラクリである。なぜやる気のない人間が頂点に立てたか。それは、この、耳のよさと妥協を許さない正義感の発露にあるのだ。

妥協がない、というのは生きていて苦しい。ネガティブに言えばしゃんしゃん、中立的にいえばほどほど、ポジティブにいえば十分、というのが妥協だが、人は妥協した時に溜め息をつけるのだ。それまで緊張して、深呼吸するのを忘れてしまっているくらいだった。しかし、そこまで苦しくても"正義感"を引っ込める事はしなかった。生きづらかっただろうな、と勝手に想像する。

いろんな人を抜き去って孤高に来たはいいが、そこからが違う。最初からヴィジョンをもって頂点に立った人は、その業界自体を牽引しようとするし、代表になろうとする。横綱の白鵬なんかがいい例で、彼は常に相撲界全体の中で自分がどう振る舞えば大相撲が盛り上がるかを考えながら発言・行動している。実際、今の角界を引っ張っているのは彼であり断じて理事長ではない。何の話だよそれ(笑)。

まぁいいや、この話の続きはするんだかしないんだか自分でもわからない。長くなり過ぎたから今夜はここらへんで。

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死生観と時空観は密接に繋がりあっている。サザエさん時空の本質は、キャラクターが死なない事だ。これは別にアニメや漫画に限った事ではなく、実写の水戸黄門だって同じ思想の下に作られてきた。それが視聴者のニーズであったから。

宇多田ヒカルが宇多田ヒカルのファンであるかどうかは、少なくともこの名前の下において、生きていたいから生きているかどうかという問題と同義である。そして、その名前が生命としてどういう特質を持つのか、はじまりはどうなっているのか、終わりはどうなっているのか、という問題と繋がってくる。

日本の伝統文化、歌舞伎や落語や大相撲の世界には「名前を継ぐ」行為がある。いわば、その名前の下に芸は死なない、つまりその"芸能人"(凄く本来の意味で)は永遠に生き続ける水戸黄門の世界に入り込む。水戸黄門自体、役どころとはいえ何代目水戸黄門というような言い方をするから落語の世界と変わらない。

歌舞伎の世界だと世襲が多い為、果たしてその世界で生きたくて生きているのか、外からは判断が難しい。商家で屋号を継ぐのと同じ感覚だろうか。小学生の頃「いいなぁお前んちは就職グチ決まってて」と言われるパターン。生命が概念化されその世界を生き続ける、という構図はアニメ漫画だけでなく普段の生活の至る所にみられるものだ。

なので、別にヒカルがヒカルのファンである必要はないし、理由なんてどうでもいいのかもしれない。音楽家なのだから、自ら望んでだろうが他者に請われたからだろうが、いい曲作っていい歌聴かせてくれるならそれでいい。ただ現在の状況が違うのは、その名前に戻るモチベーションが今どこの誰にあるか、という問題が横たわっている事だ。

照實さんのニュアンスだと、未だに一定量のオファーはあるらしい。ならばそれを断らなくなれば復帰復活ではある。そして、ひとたび受ければ、母親譲りの妥協無い集中力で見事な作品を作り上げるだろう。前述の通り、はじまりとおわりは他者との関係性に基づいて生まれてくるものだからそれはそれでいい。ただ、じゃあそれっていつ、何が原因で「オファーを受けてもいい」と思えるものなのか、そこがわからない。

KH&EVAの場合は、断る事が周囲から想定されていない。その為、桜流しは人間活動の真っ只中にあってもオファーを受け見事な作品に仕上げた。極端な話、ずっとこの状態を続けるというのも"伝説のアーティスト"としてはアリである。普段は隠遁生活を送っていて、ほんのたまに厳選されたオファーのみを受け付けそれを(近影を見せる事なしに)発表しまた隠遁に戻る、みたいな。隠れキャラっぽいな。それはそれで成立するだろう。桜流しスタイルが宇多田ヒカルスタイルになるのだ。

それを突破するものといえば結局ライブしかない。ヒカルが様々なアーティストのライブに行く中で「俺にもステージに上がらせろ」と思い始めればチャンスではある。ライブ=LIVE、即ち生きる事、生(ナマ)、生命。そこは何か理屈じゃなく衝動な気がする。それ以上に興行だし商道な気もするけど、そこがどうなるかが、分かれ目になるだろう。来月もWOWOWでLIVEDVDの放送があるらしいよ。

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まぁ話は単純で、「宇多田ヒカルは普段の生活で宇多田ヒカルというブランドを消費しているか」という事だ。ズバリ、Noだろう。

人の仕事は様々だ。自分の作り出した売り出した商品やサービスを普段から消費する人としない人と。カップヌードルを作っている人は普段から食べているかもしれないし、まだ一度も食べた事がないかもしれない。医者として患者を治している人は、当然の事ながら自分による治療サービスを受けた事がない。いや、怪我をした時の応急処置をしたとか、自分の為に胃腸薬を処方したりするかもしれない。養豚を生業にしている人も案外毎日晩御飯が豚肉かもしれない。兎に角様々である。

従って、ヒカルがヒカルの音楽を普段全然聴かないからといってそれがどうという事はない。プロとして顧客を満足させられていればそれでよいだろう。

いや、音楽はヒカルによってプロだアマだとかいう区別を超えた生きていく中での必然的な営みだ…というのが私の本音なのだがこう毎日暑いのにそんな暑苦しい話をする気にもなれないので今回は省略しよう。

もう少しドライな方向で考えてみようか。マーケティングという面でみれば、宇多田ヒカルの歌をどんな時に聴きたくなるか、買いたくなるか、それによってどんな効果があるか、それを肌で感じ取っているかどうかで大分違う。先程カップヌードルの話をしたが、あれは美味しければいいという問題ではない。食べる時のシチュエーションや人に与える印象や値段やイメージや食べ合わせやデザインや何から何まで、実際に消費する人たちをリサーチして、或いは時には想像して、商品を作っている。ならば、普段からカップヌードルを消費している人が開発や製作に携わるのはかなりの場合アドバンテージがある。リサーチをしなくても、自分が欲しい味と値段を追究すればいい。勿論、それが"偏った顧客"である可能性はいつもあるのだけれど。

ヒカルは、自分の歌がどう聴かれているか、メールなどでリサーチするだろう。或いは想像をはたらかせるだろう。しかし、自分自身が宇多田ヒカルブランドの消費者として実際に"それがどんな感じがするか"を知らないのである。言わば、普段の彼女の生活には宇多田ヒカルは居ないのである。

それは歌手なのだから、有名人なのだから当然だろうと思う事なかれ。皆さん明石家さんまをご存知だろう。彼は家に帰ってから自分の番組の録画を見て「うわ~さんちゃんやっぱりおもろいわ~!」と楽しんでいるらしい。勿論仕事の出来映えのチェックという意味合いもあるだろうけれど、明石家さんまは明石家さんまのファンであり消費者なのだ。その感覚。彼は、テレビに明石家さんまがどう映っているかを熟知しているし、彼の番組を観た時にどう楽しいかをよくよく知っている。想像ではなく、自らの実体験として経験しているのである。

性格もある、かもしれない。自分の姿を見るのが恥ずかしいとか、シャイな性格。でも、ヒカルに関していえばそれは誤解だ。彼女は自分自身に対するプロデューサー/ディレクターだから、自らを客観視する術に長けている。恥ずかしいとか、言わずに居る事も可能な筈だ。

「プロだからそれで構わない」と敢えてもう一度言おう。言った上でたたみかけよう、「自分が買いたいと思わないモノを皆に売っているのか?」と。大きなお世話だよ全く。買った人が満足していればそれでいいじゃないかと。それはそうなのだが、宇多田ヒカルっていうブランドは、そこまでストイックにプロフェッショナルに徹する事を求められているっけ? いや、何か違うだろう。

もうひとつ、こちらの都合で重大な問題がある。作り手自身が消費者でない場合、長期休暇をとった後に復帰する為の大きな動機のひとつ、「そろそろ宇多田ヒカルの新曲が聴きたいなぁ」という感情が生まれてこないのである。自分自身が自らのファンである場合、休むのに飽きるのより、「ファンとしての飢え」が先に来る場合もあるかもしれない。明石家さんまは60歳で引退しようかなどと言っているらしいが(ほんまかいな)、もし仮に彼が引退して暇になってテレビをつけた時に「さんちゃんの番組が観たいなぁ」と思うのは他ならぬ彼自身だろう。彼が引退するのは、だから、彼がさんまファンとしてテレビを観ている時におもろいと感じられなくなった時なんじゃないかなと。

なんか話が歪に膨らんだ気がするが、ヒカルがヒカル自身のファンであれば、そもそもそんなに休んでいる気分にならないのである。普段の生活の中で、宇多田ヒカルの歌を聴いているのであれば。そこが、今はない。それはそれでヒカルのスタイルだから何の問題もないのだが、復活の理由が「私が私の新曲を聴きたくなったから」だと、なんだろう、我々は気楽だ。何故なら、それがただのワガママだから。もし、「ファンからの復帰要望が多かったので」が理由だったら「すまんのぉ、我々の為に…もっとあんたは休んでいたかったのかもしれへんのに」と申し訳ない気分になるだろうな…ってこの前もそう書いた気がするけど。ま、取り敢えず今までのヒカルはそんな感じではなかったので、今回の話は思考実験に留まりそうだわいさ。うん。

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一般ファンからすれば宇多田ヒカルはドラえもんでいえば出木杉君みたいなもんで、レギュラーじゃないんだけどたまに現れては誰も文句を言えない事をして去っていく、みたいなキャラクターな気がする。ハレー彗星みたいなもんだろうか。ラジオでたまに昔の曲がかかるけど、あれだけ売れたのに市場のリーダーとかではなくて…という立ち位置。そもそも、なんていうんだろ、普段の計算に入ってないよね。

それを言うなら80年代のユーミンだって"他の追随を許さない"孤高の存在だった訳だが、彼女の場合毎年のアルバムリリースとツアーのサイクルをキッチリと遂行していたので、存在自体がひとつの産業として成立していた。そこが違う。あの徹底した産業化路線が90年代のJpopの礎になったし、彼女も後からそれに乗っかれたのだ。

そんな構図なので…一般のファンは宇多田ヒカルにさして何の期待もしていない、ような気がしてきた。関心の埒外というか、"アテにされていない"ような。こういうと変だが、仮にまたFlavor Of Life級の特大ヒットが生まれても"宇多田ってやっぱ凄いな"と言われて、それだけのような。結局出木杉君扱いだな。英才である事は間違いないんだが…。

私のよく言う「宇多田待望論」は、つまり他人事なのだ。それで何かが変わる訳ではない。水戸黄門やサザエさんが与えている最大のものは"安心感"で、これはヒカルが最も提供出来ないもの。かといってじゃあその生き方がスリリングで目が離せないか、というと別に…「今度は何をやらかしてくれるんだろうか」みたいな下世話な期待感も無い。そしてファンはといえばいつも心身の健康に気を揉んでいる始末。出木杉君に病弱設定はないんだが。それは三杉君だっけ。

音楽的に期待されているのは毎度お馴染みKH&EVAで(ってこれ毎回書いてるからなんだかユニット名みたいになってきたな)、これに関しては見事にファンに安心感を与える事に成功している。作風としても、世界観に合致するものが期待されている。ここにおいでは、宇多田ヒカルは重要なレギュラー出演者だし過去と現在と未来があり、商業的にもサイクルが成立している。ただ、EVAも含め、あんまりヒカルは顔を出さない。例えばテレビや雑誌に出て「今度のEVA観てくださいね~」とは絶対にやらない。キャラじゃないってだけだけど、制作陣の一員かといえば少し距離がある。水戸黄門でいえば風車の弥七ポジションだろうか。出てこなくてもそれはそれで。助さん格さんとはちと違う。ウルトラマンでいえばゾフィのような。

やれやれ。ドラえもん時空と対比する筈が出木杉君扱いをして終わるとは。難しいなこの話題。次回は更にもうひとひねりしてみるか。「宇多田ヒカルは宇多田ヒカルのファンなのか?」で書いてみよう。

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ヒカルの形成してきた時空は、強いて言うなら件の「ドラえもん時空」にいちばん近い。

私が最初に"time will tell"を聴いた時の感想は「既に一度人生を生きた老人が15歳の少女の姿と声を借りて歌っている」というものだった。達観した歌詞の世界観と本来なら紆余曲折の末最後に辿り着くバランス感覚を、彼女は最初から持ち合わせていた。有り体に言えば、そこには老人と少女が同居していたのだ。

以後もヒカルは、超越的な視点と等身大の視点を自在に行き来してきた。その末に、Passionの折にヒカルはこう言い切る。「22歳の今の私には、12歳の私も42歳の私も居る」と。これには本当に衝撃を受けた(のでこの日記でも何度も書いている)。過去の自分が今の自分を助けてくれる感覚までは理解出来るが、ヒカルにかかっては未来の自分すら今の自分自身の一部なのだ。"不定"にすら手が届く。発想の埒外だった。

ここらへんの感覚が「ドラえもん時空」に近い。今という時空と過去という時空と未来という時空が各々独立に存在し、その間をタイムマシンが行き来する。それはまるでヒカルの持つ世界観のようだ。そこでは、未来も過去も現在も等しく其処に在る。

決定的な違いは、勿論、ヒカルは生身の人間なので歳をとり、現在から未来に実際に辿り着いてしまう事だ。もし話を音楽や歌の歌詞に絞るならばそれは特に気にしなくても構わないかもしれない。31歳のヒカルは11歳のような瑞々しい感性の歌も歌えれば61歳のような老成した歌も歌えるだろう。それは今までとは変わらない。

そういった考え方を、ファンとアーティストとの関係にまで押し広げてみよう。水戸黄門ファンはいつも変わらないエピソードを観たくてチャンネルを合わせる。コナンを観たい人の中には、黒の組織との戦いが進展する回だけチェックする人も居るかもしれない。ワンピースの続きが気になって仕方のない人、はい私ですね。単行本派なので我慢の連続。というかワンピースを一気読みしたいがために週間少年ジャンプの毎週購読を止めた人間だったりします。いやそんな話は今はいい。

で、ファンとの関係を考えてみたのだが、コアなファンであればあるほど、ヒカルに要求するものはシンプルになっていく。「体調を崩さず元気で」「家族と仲良く幸せに」―つまり、変わって欲しい欲しくないとか、成長や進化を見せて欲しいとかそんな事ではなく、要求は健康と幸福である。ここの読者でも4割くらいの人が「せやせや」と言っているのではないか。「喉を潰すくらいならライブ延期してくれよ」と、高い交通費と宿泊費を払いながらも思うファンが多い。いやどうせ休むなら当日午後じゃなく前日午前までに決めてね、程度は思いますけれどね。

なので、ヒカルのファンは音楽的にどうのこうのというより、まずその時の年齢なりの健康と幸福を望んでいる。もういい歳なんだしそろそろこどもを生んで…なんて言うとヒカルは鬱陶しがるだろうが、昔の日本ではそれくらいお節介に他者の幸福を提案していたのだ。そこらへんは文化の違いなので互いに歩み寄るしかないのだが。

という訳で、困った。ドラえもん時空の話を用いて今後の音楽性の変遷や進化について語ろうと思っていたのだが、自分を含めてファンの方にそういうニーズが…無いとは言わないまでもプライオリティじゃないんだな、うん。健康や人生を犠牲にして、或いは捧げて音楽を…だなんて思っている割合は凄く少なく、寧ろ健康と幸福を反映させた歌を聴かせてもらうのがいちばんなのか。困りつつも結論に納得してしまうなぁもぉ。実際、"要求"するならそれだなぁ。じゃあもうちょっとファンの方をライトな領域にシフトさせて考えてみるか。それでまた違う景色が見れるかもしれない。どーれどれ……。

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サザエさん時空と対極にあるのは、作品の中の登場人物が読者や視聴者とともに年月を重ねる物語なのだが、こちらはサザエさんのような代名詞となる"決定的な作品"というのがない。というのも、このタイプの作品はそのまま各世代に散らばっているからだ。なのでネーミングには困る訳だがまぁ暫く「アンチ・サザエさん時空」とでも呼んでおくか。

このテのミュージシャンは結構多い。ずっと同じ世代を相手にしている為ファン数は目減りしていくのだが、一方で年齢層が高くなる為購買力が飛躍的に上がる。日本の歌謡曲歌手はその手法をとる人が多い。早い話が、コンサートをディナーショーなどに切り替えて客単価を上げるのである。あの人ここ数年テレビ出てないね~人気が落ちたのかな?と思っていたらテレビ以上に稼いでいた、というのはよく見掛ける話。これはこれでアリだ。

前述の通り、この2つの魅力を両方取り込もうという試みも進化している。「名探偵コナン」はその代表格で、サザエさん時空に縦糸の物語を織り込む事で一度ファンになった人間を離さず、一方で新しい世代のファンも着実に取り込んでいる。これが更に進化したのが「ワンピース」で、サザエさん時空ではない癖に物語の進行が極端に遅く、連載も放送も17年に達するというのに劇中の年月は途中すっとばした二年を入れなければ半年程度しか経っていない。なんかもうそれぞれ凄い。


さて、こんな考察を続けていると読むのが面倒になってくるので主題に移ろう。宇多田ヒカルファンは、どの時空に住みたがっているか?という話。

これがさっぱりわからん。ヒカルの歌詞が"年相応"と感じられたのは1st、よくて2ndアルバムくらいまでで、それ以降は年齢不詳というか何でもありになっている。単純に、学生やってた頃のライフスタイルと専業音楽家のライフスタイルとの差なのだろうが、それ故歌詞から全体の"物語"を推察するのは難しい。これがグループだったりアイドルだったりすれば歌手は役者とばかりに歌詞は歌詞と割り切れるのだがシンガーソングライターはどうしても私小説的に捉えられてしまうというのは毎度指摘している問題点である。次の曲はどうしたって母との関係や結婚との関連に探りを入れられる。サザエさんを観ている人は長谷川町子の描いてる時の境遇なんて考えた事もないだろうに顔出し自作自演屋は何とも因果な商売である。

この、独特な「ヒカルさん時空」について来れてる人間だけが今ファンをやっている、という見方も出来る。その内容とは…という話の展開にしていくとまた長くなりそうなので続きは次回のお楽しみ。

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熊淡を聴いてると、31歳になっても昔からの繊細な心根は全然変わらんなぁと痛感する。ほんとにこっちの心がちくちく痛く感じる。キュンキュンと紙一重と申しますか。今は寧ろ心を覆う壁が筋肉質にマッチョなり過ぎてその繊細な神経を圧迫しちゃってるんじゃないかと思うくらい。無邪気なままでは居られはしないが、大人になるのも、何というか、不恰好なものだな。こんな神経の人がマスメディアと触れ合うのがそもそも間違っているのだが…

…面白い話になりそうにないので、筋を元に戻そう。我々はミュージシャンに、どんな"時空"を求めるのか、という話。


20世紀最大の"サザエさん時空"を形作ったのはオーストラリアのロックバンドAC/DCだ。1975年とかデビュー(国によって違うのだ)だからまさに40年にわたって彼らは(途中メンバーチェンジを挟みながらも)ずーっと同じ音楽性を貫き続けた。ニューアルバムを出すたびにその音楽性の変化が話題になるアーティストも多いが、AC/DCに限ってはひとつもそういう話題が出た事がない。プロデューサーによって音作りが多少違う程度だ。

彼らの何が凄いって、兎に角凄まじく売れたのだ。どれ位桁外れかというと、彼らの代表作「バック・イン・ブラック」は、アメリカでは長らくマイケル・ジャクソンの「スリラー」に続く歴代総レコード売上第2位の座に居座り続けてきた程。(今は知らない。ボディガードのサントラやらイーグルスのベストに抜かれたとか何とか。それでも4位だけど)

そして、勿論このアルバムに限らず、彼らは出すアルバム出すアルバム軒並みヒットさせている。なによりいちばん圧倒的なのはLIVEのスケールが一向に落ちない事だ。何が言いたいかといえば、40年間ずっと音楽性を変化させなかったロックバンドを大衆が支持し続けてきたという事実。これである。いつ買ってもAC/DC。いつ観に行ってもAC/DC。そこには何のサプライズもない。いつも通りのヘヴィ・ロックとかわりばえのしないロック・ショウ。それがずっと40年間求められてきた。今も彼らは新譜リリースの準備を進めている。現役バリバリである。

しかし、では40年間本当に何も変化がないかといえばそんな事はない。まず、ファン層が分厚くなった。AC/DCのLIVEは親子孫3世代がやってくるというので海外では有名である。ここ日本では残念ながらそういう雰囲気ではなかったが。長年同じ事を続ける事で、音楽はずっと同じでも観客の方が歳をとり、ファン層が成長していく。これは大きな変化である。

もうひとつ、音楽の流行との関係である。AC/DCにとって、その時々の流行は追い風にも向かい風にもなった。その都度、彼らは市場の中での立ち位置、いわば相対的な価値を示し続けてきた。向かい風の時は頼れる最後の砦として、追い風の時はシーンを代表する王者として、その時々で見方が、見られる角度が変わっていったのである。つまり、彼らは、自らが全く変わらない事で、ファン層や評論家や市場を変化させてきたともいえるのである。日本では全く人気はない(さいたまスーパーアリーナを埋められる程度)のだが、明らかに20世紀を代表する"金太郎飴"バンド、不変の美学を貫き通したミュージシャンである。

さて次回は、何時空タイプのミュージシャンの話をしたものか。いいのかこんな内容で? ま、いっか。

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アニメには「サザエさん時空」という言葉がある。登場人物が歳をとらず、同じ年齢のまま何度も何度も永遠に春夏秋冬を繰り返す、というものだ。お陰で視聴者の方は途中で年上だったキャラクターの年齢を追い越したりするようになる。これは実写ドラマも同様で、くまちゃんの好きな「水戸黄門」も、水戸の御老公は永遠に年をとらず諸国を漫遊し続ける。もっともこちらは役者さんの方が歳をとってしまうので途中で何度か代替わりがあった。それはアニメも同じで、上記のサザエさんやルパン三世などは中の人が亡くなったりで何人かが代替わりしている。ドラえもんなどは四半世紀を契機にメインキャストを総とっかえした。

そのドラえもん、同じく登場人物が歳をとらないサザエさん時空の作品と分類されているが、ほんのちょっとそれは違う。というのは、タイムマシンというひみつ道具によって、未来と過去という存在がある為だ。そもそもドラえもん自体が未来からの使者なのだが、通常の時空と違うところは、どれだけエピソードを積み重ねても"現在"がいつまで経ってもその未来に辿り着かない点である。即ち、現実の世界のように現在の行き着く先に未来があるのではなく、未来は未来の世界として、過去は過去の世界として時間軸方向にパラレルに存在して、それらの間を行き来するツールとしてタイムマシンが存在する、という構造になっている。そして、各時点の時空はそれぞれでサザエさん時空を形成している。私はこの構造を勝手に「ドラえもん時空」と呼んでいる。(なお、短いエピソード、例えば「ドラえもんだらけ」のような話では現在と近未来が繋がっているが、それはサザエさん時空を破らない程度の時間幅にしか適用されていない)

他にも、アニメ/漫画には、これも「名探偵コナン時空」と呼ばれるものなんかがある。こちらは、一応建て前としては連載開始から半年しか経過していない事になっていたりいなかったりだったのが最早あやふやになり完全にサザエさん時空と呼べる世界を形成しているのだが、黒の組織との戦いに関しては連載と放送の縦糸として延々とエピソードが時系列順に組み立てられていっている。サザエさん時空をベースにしながら、物語の縦糸においては時間が経過していっているというハイブリッド。それが「名探偵コナン時空」だ。

あと、物語の中の時間経過と実世界での連載期間の経過による年数表記が作品中で混在するという奇想天外な「キン肉マン時空」なんていうのもあるが、流石にその話はマニアックになりすぎるのでスルーしておこう。


こんな話を延々としたのは他でもない、「日本人はどの時空が好きか」という観点からみて、文化的な活動をどのような時間感覚で構成するのがよいかという問題提起をしたかったからだ。「笑点」のように延々同じ事を繰り返す番組作りはどこらへんの層に受け入れられているか、という話。こちらも中の人は代替わりし続けているがコンセプトとしては「サザエさん時空」に分類される。では、ミュージシャンについてはどうなのかという話からまた次回なのでございます。

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その7では光が生まれる。それ以上書く事はない。以下はあとがきである。

父と母から子が生まれる、というのは生物の仕組みのひとつだが、それが人間の精神に何を及ぼしてきたかを考えると難しい。非対称。生んだ母は特定できるが生ませた父は誰だかわからない。それを破るDNA鑑定を宗教が赦しているのはどう解釈すればいいのやら。進化論ですら否定したがる向きが居るというのに。

技術的だったり精神的だったりで煩わしい。話の焦点を絞ろうか。光にはじまりをあたえたのは父と母だ。母は間違いがない。父を疑うのは一般常識から考えて凄まじく非礼だし私もこの具体例に関しては疑ってないが(だってあの生まれたての写真を見たらソックリなんだもん、父親に)、そういう話である事は心に留め置こう。なぜなら、それが父性にとっての救いだからだ。他人事。恐怖を与えられるのはそこしかない。そうやって振る舞う事を許される。つくづく、子は光だと思わざるを得ない。

母も生き方を子に肯定される。自己犠牲的と言われそうだが、死に方について積極的な考察ができる女性は大抵母親である。「この子の為なら命を投げ出してでも」というのは如何にも母性だ。父親だってそう思っているんだけどその迫力にはかなわない。最初に身を切っているのだから敵うはずもないんだが。

子をもつ事で、人は死について、生について改めて考える。やっぱり、その7に関しては自分がそうなってから書くべきだな。タイトルに「(仮)」と付け加えておいてここでぶっつり切ってしまおう。また来週。

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私は父親になった事がない。その為、気の利いた話はできそうもない。ならば母の話は一層無理な気がするが、どう転んでも母親にはなれないので気楽なのかもしれない。それなら本質を突く話も出来るかもと。父親になら、なれる。血が繋がっていなくとも、父親役になら就ける。全う出来るかどうかは別として。だから切ない。こればっかりは、どうしようもない。

なので、面白くも何ともないかもしれないが、父性の話をしよう。母性が与えるのが安心ならば、父性が与えるべきなのは恐怖だろう。世界は広い。思い通りにはならない。いつ死ぬかわからない。それを教えるのは父の、父性の役目だ。フェミニストさんたちから文句を言われそうだな。別にそれを誰が与えてもいい。ひとりで安心と恐怖を与えられるならそれでいい。親が2人とも男性だったり2人とも女性だったりするなら、どちらか一方がその役割を担うとか。やり方は色々ある。話を引き伸ばしても面白くなりそうにないので要約すると飴と鞭だな。

母性は子をひたすら守る。食事を与え睡眠を与え体温を与え居場所を与え安心を与える。何がいいかを教える役割だ。父性はつまり、何がいけないかを教える役割である。これは本質的な誤謬である。正解が1つしかない問いを作る事は出来るが、正解でない答が1つしかない問いはない。間違いは常に無限だ。「はいかいいえで答えてください」と問うても「あっちょんぷりけっ!」と答えるだけだ。明らかに間違いである。つまり、父は子に何かを教えきる事はない。ただひたすらに、有限の経験から、生に失敗は許されないこと(一度死んだら死ぬこと)を、教えなければならない。その"完璧"の為の誤謬。「生きる」を構成するのは「生きたい」だけでなく「死にたくない」も、なのだ。恐怖は一生残る。例外無くトラウマである。しかし、それによって守られる、支えられる生命もあるはずだという信念が父性だ。

恐怖は怒りを生む。修羅の道だなぁと思う。地球が小さくなればなるほど、余計な機能だなぁと思う事が多い。それでも、相変わらず人は、一度死んだら死ぬのだ。それを知っていなければならないし、教えなければならない。私はいい父親になれるだろうか。そんな機会が来るとして、だが。


やっぱり面白い話にはならない。照實さんについて何か言うべきかなとも思ったが、自分が父親になったとしてあんな娘を持つようになったらちゃんと叱れるか甚だ自信が無い。情けない。せめて赤信号は渡るなくらいは身に付けさせてあげないと。嗚呼、この不安が、恐怖をつくるのか。それもまた命の印。

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死生観というからには死と生の話だ。が、はじまりとおわりというものを、私たちは知らない。生まれた時の事なんて誰一人覚えていない。稀に産道を通ってきた事を記憶していると言う人が居るが、その時点での話ではない。この世に生を受けた瞬間と"それ以前"の話だ。気が付いたら今ココに居た、というのが真実だ。いつからだなんてわかる訳がない。死はもっとわからない。生き返った人が本当に居るか居ないかはわからないが、少なくともあなたも私も"おわり"を知らないだろう。

なのに"死生観"なんてものが語られ得るのは何故かといえば自明も自明、他者が存在するからだ。他人が生まれてくる場面や亡くなってゆく様子を知る事によって、「自分もああやって生まれてきたのかなぁ」「自分もああやって死んでいくのかなぁ」と想像力をはたらかせる事が出来るのだ。

即ち個にとっての死と生は想像の産物でありいわば錯覚みたいなものだ。他者の存在があって初めて意味をもつ。つまり、はじまりとおわりは他者との関係性の中で生まれてくる。はじまりとおわりのない世界は孤独である。そういう名前がつけられている。

だから、実はヒカルがはじまりを他者から与えられているのは、そちらの方が自然なのだ。それは、本来与えられ合うものなのである。

ならばおわりとは一体…? ここが問題になる。多くの才能ある人たちが"自らの引き際"について語る。ちょっと話を勉学や仕事に絞ろうか。入学も卒業も、時には落第も他者に与えられるものだ。自分で勝ち取るといえば聞こえはいいが、結局は自由とは言わない。たったひとつ自由といえるのは自主退学だけだろう。職も同じである。自主退職以外は、そもそも需要がなくなればどうにもならない。幾ら労働力や作品を売りたくても買ってくれる人が居なければどうしようもない。勉学も仕事も、その世界で他者に認めてもらえなければ、そこに入れないし、生きていけない。

今の"自由"という言葉の使い方はやや卑怯だったかもしれない。こういう使い方をしなくなるのはひとえに自由の欺瞞性によるものである。やや卑怯、というのはオブラートにくるんだ。直接書くなら、その意味で本当の自由とは自殺以外に有り得ない。この結論を導く以上その自由は欺瞞である。

それは違う。自由とは無限の広がりではなく、ひとつに決まる事だ。点なのである。その錯覚は、我々が世界そのものではない事から生ずる。言葉の生まれる場所である。

話が難しくなり過ぎた。10年経って、ヒカルが初めて"休みたい"と言ったのが人間活動の始まりだった―という風にまとめるのを、ヒカルは嫌うだろう。ヒカルは、頑なに「これは充電期間とかではない」と言い張った。ただの言葉の選択の話に聞こえるが、言葉の生まれる場所から一端終わらせてみる場所まで線を引こうとしていたのだからそれが大切だったのだ。これはおわりではなく何かの…何かの願い。そう言うしかない。残念な話だが、お母さんはそこを知らなかった。貴方は知っている。自由の生まれ変われる場所を。

次にどうするべきかも、自然に生まれてくる筈だ。それを母と呼ぶ。父の話もするのが死生観その6である。

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@utadahikaru ちっさい鍵拾った Found a tiny key on the street

EVAだKHだと推測が広がるが、やっぱり私も考える。どういう意味だろうかと。

でも答なんてわからない。ひかるがそういうやり方が好きなのは知っている。そういうコミュニケーション方法。何の比喩だろう。どういうメッセージなのだろう。考えても、でも、答なんてわからない。

何かよいヒントを得たという合図。小さいが打開策が閃いた印。なぞなぞを解く鍵が欲しいのはこちらの方になってしまった。

ただ、何かポジティヴな感じはする。物事を二分して片方を選んだだけでしかないが、何故か"前向き"って望ましい。鍵は、使って、開いて、一歩踏み出して部屋に入る/部屋を出る事の示唆、暗示、比喩。鍵を手に入れたのに使わない、使ったのに踏み出さない、のは、無いかな。

或いは、大切なものを仕舞う箱。それを封ずる鍵かもしれない。開ける鍵と、閉ざす鍵。また、オルゴールを鳴らすネジ巻きなのかもしれない。はてさて、はてさて。

ひかるが大事なものを仕舞うとしたら、何なのだろう、どこにだろう。いつからだろう、いつまでだろう。かけた鍵を捨ててしまえば、もう誰にも開けられない。壊すしかない。

おっと。鍵は拾ったんだったな。或いは拾った事になっているんだった。やはり、前向きの印かなという風が吹いてくる、空気が漂ってくる。これはただの先入観かもしれない。ロールプレイングゲームでいつも事態を打開するアイテムは鍵だ。宝箱を開けたり、扉を開けたり。開けたら呪われたりもするけどね。でも、だいたいは、いい兆しなんだよ。

だから少しホッとした、安堵した。絶好調という訳ではないけれど、よくなってきた。何の話をしているのかな?


死生観の話に戻ろう。我々は、自らが寿命で死なないとして…例えば、今の時点から不老だとして、どうするか。たぶん、大体の大人は「永遠に働き続けないといけないなぁ」とうんざりするだろう。老後に向かって蓄えて、死ぬ前はゆっくりするんだと思えるから頑張れる、と人は思う。或いは、老いずに元気なまんまだったらずっと働いていけばいいじゃないか、という逞しい人も居るかもしれない。20年ガーッと働いて、次の5年はたっぷりまるまる休んで、また次の20年は新しい仕事に就き、またその蓄えで5年間世界を旅行して回る…とかな。これを永遠に続けられたら…

つまらないサイエンスフィクションを出してきたのは、ひとえに、「あなたの頑張る理由」を炙り出したいからだ。いつか休めるから頑張れるのか、どんなサイクルなら"永遠"を受け入れられる、つまりは持続可能なのか。「皆いつかは死ぬのだから」の"だから"にはたくさんのものが詰まっている。人は、いつ死ぬかわからない…

…話を変えよう。ひかるははじまりとおわりに自我がない。エゴがないと言ってもいい。だから、スコットランドに辿り着くまでルーツやアイデンティティ、或いは人生のキャリア、生きていり間に成し遂げたい事など、そういった欲望に無頓着で居られた。きりやんにはそれがよくわかっていなかったようだ。

私は気にしない。特に、ひかるが音楽家である事がどこまでも大きい。クリエイターとして、「いい曲が出来ればそれでいい」と考える事が出来るならば、どちらの死生観も等しい。或いは、大して違いはない。私は言う。望みが叶う事で出来る曲もあるし、望みが叶わなかった事で出来る曲もある。諦めたから出来た曲もあるし、諦めなかったから出来る曲もある。怯んだから出来た曲、勇気を振り絞ったから出来た曲、何もかもが有り得る。私に言わせれば、いい曲を書く為に絶対に必要だと言えるのは「曲を書く」以外にない。なるほど、いい曲を書く為には曲を書かないとな。これを論理学では必要条件&十分条件と言う。そして、それ以上は言えない。

だから、ひかるが自らを音楽家であると捉え、某かの方法で曲を書いている(鼻歌を携帯で録音するだけで十分だ!…十分条件だ…)のであれば、好きに生きればいいと思う。これが結論である。鍵を拾ったというので、結論を先に書いた。その5では、間を埋めていく事にしようか。

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「その話の続き」に戻ろう。

『いつか結ばれるより今夜一時間会いたい』や『約束事よりも今の気持ちをききたくて』といった歌詞に見られるように、ヒカルは"今"を大切にする価値観を度々表明している。世間一般では刹那主義と言われそうなところだが、こと音楽家という生業に関していえばこれはとても大事な感性だ。

言葉は未来と過去を今と結びつけるものだが、音楽にあるのは今だけである。奏でられ響き溶けて消えていくだけのものだ。勿論今ある音楽と過去の音楽を比較参照する事は出来る。しかし、そうやって再生機で再生される過去の音楽は今再生機によって奏でられて響いて消えていくものだ。もっと言えば、その参照性を取り払っても音楽は音楽としてのアイデンティティを失わない。言葉は参照性を奪われたら途端に迷子になってしまう。そこを把握した上でないとこの価値観は刹那主義だと誤解を与えてしまうのだ。

この、音楽家に対して要求される感覚が母娘二代にわたって継承されているのは驚くべき事だ。2人の間には似ているところもあるし似ていないところもあるが、歌手として成功する為のエッセンスは悉く継承している。そりゃあ遺伝子と言いたくもなるわな。大抵はただのキャッチフレーズだけれども。

しかし、だからこそその才能を発揮させるには、市場に流通させるには、周囲の協力が必要だ。ヒカルに関しては、一度乗っかってしまえばマネージメント能力或いはプロデュース能力を発揮出来るので心配は要らないが、そもそも「さぁ始めよう」と言い出せるかどうかというのは未知数だ。宇多田ヒカルというアーティストは、三宅さんがCubic Uを見つけて「日本語の歌作らない?」と焚き付けたから始まった。その"史実"は案外存外意外に大事だ。ヒカルが自分からレコード会社にデモテープを送りつけたとかではないのである。

それを考えると、次のヒカルの復帰も"自らの意志で"というのは…果たしてそれが彼女に"できる"かどうか。多分、やった事がないんじゃないかと。自分の意志で頼まれたものを"やらない"と言う事はあっても、頼まれてもいないのに"やる"と言い出した事は多分ない。あるとしたら"ぼくはくま"かな…

となれば、復帰に必要なのは"絶え間ないオファー"なのかもしれない。たくさん断っているうちに、"あぁそれやろうかな"とヒカルが思えるものがあれば、そこでするりと復帰が決まるとかではないだろうか。本来なら、レコード会社が大々的なキャンペーンをはって"宇多田ヒカル復活祭り"を展開しそうなものだが、そのヒカルからの"YES" がいつ来るかわからない為、今は様子見なのかもしれない。こうなったら確実にオファーを得られるだろうEVAに期待したいところだが、桜流しのようにワンポイントリリーフ的にまたすぐ引っ込まないとも限らない。はてさてどうなりますことやらですわ。関係各所は兎に角怯まずにオファーを出し続けてくださいね~☆

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「その話」をする前に、少しだけ話を戻してみる。今や壊滅的と言われている日本の大衆音楽市場、つまり一般的に言う邦楽市場の事である。

私は自分の予想を忘れていた。あと2~3年もすれば、邦楽市場、いや、"日本語の歌"の集まりは、再び勢いを取り戻すかもしれない、というものだ。理由は単純明白で、日本でVocaloidが本格的に売り出されて10年が経とうとしているから。初音ミクが10歳になるのです。

ここで書いた事があるかわからないが、常々、Vocaloidが"本格始動"をするのは生まれてから10年、つまり2016年とか2017年になるのではないかと思っていた。

両面がある。片面は、まずVocaloidの開発技術とそれを使いこなす技術の両方が成熟するまでにそれ位はかかるだろうということ。もう片面が、その技術の成熟によって元々作曲家だった人たちが容易にVocaloidを使える環境が整うこと。この両面がともに揃うのにちょうど10年掛かるだろう、というのが私の8年前からの見立てなのです。

現時点でも、例えばTVCMにも起用されカラオケで圧倒的な強さをみせる"千本桜"などは既に日本のスタンダード・ナンバーである。しかし、踏み込んでいえば、まだあの程度の曲しか生まれていないのである。もっといい曲が生まれ始めるまであと2~3年、という予想。はてさてどうなるか。

懸念はある。Vocaloidが、その文化の出発点としてあまり商業的ではない、という点だ。実は既にボカロのCDは多くのリアルな歌手たちを上回る売上を出し始めている。しかし、あクマでまだまだ補助という感触が強い。この世界が成熟してきたとして、それが商売になるか、そこに市場が出来るのかというのがひとつの鍵だ。無料で聴ける動画サイトの恩恵を受けて育ってきた10代の子たちが社会人にりつつある。それも大体10年なわけだ。

そこさえクリアすれば、邦楽市場はまた活性化する。いや、ことVocaloidに関しては、日本が世界を牽引するかもしれない。極論すれば、Vocaloidの国際標準が日本語になるかもしれない。柔道の技が日本語のローマ字表記なように、フェンシングの技の名前がフランス語(だっけ?)なように、Vocaloidの歌詞はまず日本語、という事が起こるかもしれない。実際、アニソン歌手などは欧米で公演をする時、英語で歌うより日本語のままで歌う方が喜ばれるそうな。それが文化を敷衍するという事なのだが。

何故そんな大言壮語な予想を立てるか。理由はこれまた至極単純明快、Vocaloidと最も相性のいい言語が日本語なのだ。

日本語はどういう言語か。音声学的には、必ず子音と母音は1対1で組み合わされていて、それがひとつの音素を形成する。従って、それを歌に乗せる場合は基本的に1音符について1音素を当てればよい。英語だとこうはいかない。1音符につき1単語、或いは1音節。習熟すれば当てはめられるようにはなるものの、敷居は凄く高い。日本語はその入り口が凄く入りやすいのである。Vocaloidが(ってこれたぶんクリプトンの商標だよね、でもきっと"ウォークマン"や"ホッチキス"みたいに一般名詞になっていくんじゃないか)日本で人気なのはそういうき根本的な理由からだ。

同じ理由でドイツ語もVocaloidと相性がよさそうだ。もしかしたらイタリア語もかもしれない。そういった、音符と言葉の関係がシンプルな言語ほどVocaloidは普及しやすい。だから、ほどなくしてこの"機械歌手"の世界は日本がリードすることになる―これは予想というほどでもないのだけどな。


で、我々に興味があるのは、そういった全世界的な展開の方ではなく(それはどっちに転んでもどうでもいい)、純粋に日本語の歌の世界の話だ。Vocaloidを利用して、強力な楽曲を作る作曲家が複数、次々と現れる。純粋に、ひっさびさに、いや、初めてかもしれない、ヒカルにとってライバルともいうべきクラスのソングライターが現れる可能性があるのだ。というかこのチャンスを逃したら本当に邦楽市場は終わりだろうな。

そうやって再活性化された邦楽市場が生まれれば、ヒカルが戻ってきて"勝負をする"甲斐も出てくるというもの。それまで待ってみるのもひとつのテだろうね。


さて、次こそは前回の最後に触れた「その話」の続きをしますかね。(という毎度お馴染みオシシ仮面詐欺)

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問題なのは「じゃあ光はそうしたいの?」という点だ。日本では一度馬鹿売れしてしまった為、最早あのレベルになる事は不可能だ―本来なら、史上唯一あのレベルに達した者として挑戦権獲得第一人者として扱われるべきなのだが肝心の市場の方が存在しない。1999年といえば"音楽(CD)を買う"という行為が過去最高に"普通"になっていた時期だった。その追い風がなければあそこまでの成功はなかったのだ。

一方、海外ではこれから幾らでも成長できる。地味に地道に、ではあるだろうが"広げていく事の楽しみ"がある。勿論保証はないが、やってみるだけの可能性と価値はあるってこった。

しかし、光本人はどう思っているのか、というのが重要だ。こちらからみればあれだけ英語が喋れるんだし、英語圏及び第二公用語が英語な国でならどこでも暮らしていけるし活動していけると思う。更に今はイタリア語も習得しつつあるかもしれない。しかし、光は思った以上に日本と日本語に対する愛着が強い。ハナから、この国を後回しにするような発想はのぼってきていないように思われる。

毎度言っているように、ヒカルの立場は「邦楽市場そのものを成長させる」べきものだ。通常であれば、まだ少々早いかもしれないが、新しいレーベルを立ち上げて若手を育成しにかかるようなポジション。例えばX JAPANがLUNA SEAやGLAYを連れてきたように。そこまではいかなくても、EMIのレーベルを牽引し若手に投資出来る環境をレコード会社に与えられれば理想的…なんだが、アーティストのキャラクター的に、なんかそんな感じは薄いか。何よりもやっぱり、まだ本人にそういう発想がなさそうだし。

「どうしたの?」と訊かれた時に「ううん、なんでもない」と答えるのはいいが、「どうしたいの?」と訊かれた時に「うーん、なんもない」と答えられるとこちらは窮する。頂点に立った母娘揃ってこう答えるのだからこれはある意味本質的な問題ではある。こんな風に"やる気がない"ようにみせておいていざ仕事が始まると誰よりも妥協を許さずとことんクォリティーを追究する。これは一見矛盾しているようにみえるがそうでもない。したいことが最初にある人間は、その目標に達すればそこで満足してしまい、いわばそこで妥協して終わらせてしまうのだが、最初にヴィジョンが無い場合、ただひたすら目の前にある現実のクォリティーを上げようと努力し続けて終わりが一向に来ない。つまり、彼女たちを活動させるにはこちらからオファーと締め切りを―始まりと終わりを与えてあげないと何も始まらないし何も与えてくれない。最初と最後の区切りを外挿に頼らなければならない―一足飛びに言ってしまえば、彼女たちは"死生観が違う"のである。人は生ま
れて死ぬので、生きているうちに何かを、という風に考えて人は目標を立て夢を見るのだが、それとは一風変わった世界観なのだ。ハマればすぐさま皆を抜き去るが、そこにどうやって持っていくかが鍵なのである。"周囲"の力は、想像以上に重要なのだ―次回はその話から、かな?

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