無意識日記
宇多田光 word:i_
 



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ヒカルの2020年最後のアウトプットは昨夜のこのツイートになるのかな?

@utadahikaru : 2月にオーダーして、パンデミックによる諸事情により11月にやっと届いたApogeeのSymphony Desktop... セットアップして繋げたものの、電源ケーブル部分にかすかに触れただけで電源落ちることがあるんだけど、これってどうにか固定するステップがあって私が知らないだけなのかな、初期不良なのかな…🧐 posted at 21:30:08

@utadahikaru : あああああこれだ!よく見たら今まで見たことない変な形のプラグで、穴の形状に合わせて奥まで入れて回転させて固定する仕組みだったんだ!ありがとうございます!🙏 安心したらなぜか急にイクラが食べたい…(リンク先リンク切れ) posted at 21:46:11


要は機材の電源プラグの正式な挿入方法がわかってなかったというやや天然の入った話。年末の忙しい時期にほっこりした人も多かろう。こういうツイートをここでしてくれるって、本当にありがたい。いつもと違う年末で不安を抱える人も多い中で、ね。

ただ、ヒカルのこの「天然」なところをどう捉えればいいかというのは案外難しい。この天然は天然ボケの略だが、宇多田ヒカルって頭の回転が速いタイプなのは皆知っているところ。極端にいえば、天然に見えるように敢えて振る舞う事も可能かもしれない、と疑う人が出てきてもおかしくはない。

こういった疑義に対して、100%反論する気もないし、かといって100%同意する気もない。もうちょっと微妙な問題だと思う。

あれだけの圧倒的な迫力を誇るパフォーマンスを繰り広げた『Laughter In The Dark Tour 2018』でのステージですら、ヒカルのMCは天然だった。あれだけの歌を歌った人が喋り始めると途端に辿々しい。そのギャップがまた聴衆を魅了した。

アイドル歌手なら話はそれで終わりだが、宇多田ヒカルという人はコンサートの座長でもある。言わば、ステージの演出の方向性の決定権を持つ人物だ。となると、パフォーマー・宇多田ヒカルがMCで天然を炸裂する芸風を、ライブ座長・宇多田ヒカルが選択して決定したということだ。

コンサートのクォリティの責任を追う立場の人間が「MCは素で行こう」と判断したというのは重い。コンサートのクォリティを上げるためには、MCの内容やタイミングを一字一句予め決めておいてそれを喋る、なんていう方法論を選択する事も出来たはず。ヒカルにそれを実践するくらいの能力はあるだろう。しかし、そうはしなかった。そちらの方が聴衆が喜ぶだろうという“計算”が、そこにはあった。

つまり、宇多田ヒカルという一人の人物が、「天然」がベターだと「計算」したのだ。これは、きっと本当に難しい。人は結構作為を見抜けるものだ。わざとらしさはしらじらしい。途端に冷めるだろう。単純にわざとボケても形にならない。

思うに、ヒカルは長年に亘って、普段から自分がそうあろうというように振る舞い続けているのではないか。その場その場で自分を作っているというより、人生通してずっと「自然体であろう」と自らに課しているような。

したがって、その成果として、並の天然では辿り着けないような天然ぶりになっている気がする。恐らく、致命的な失敗はしないのだ。ここなら大丈夫という領域を見極めながら天然を発揮出来るように。そうやって自らの人格を“プロデュース”してきたのだ。なんだろう、そんな人生なら、エレベーターでひとりになれた瞬間に安堵するのもよくわかる。


本来のヒカルの能力や知性からしたら、新しい機材を調達した時に、説明書を読んだり検索したりするのはカンタンだし、そもそも異様に仕事が出来る人だ。仕事場のヒカルに巡り会えた人は、ヒカルの仕事の手際の良さに感心する。そんな人間が、本来であれば、機材の電源などで引っ掛ろうはずがない。

多分、もっと長い長い物語なのだ。ヒカルは本気で電源プラグを捻ればいいことに気づけなかったし、それをツイートで訊こうとしたのも素直な行動で、それらは間違いなく天然モノの振る舞いなのだが、それはきっと何十年もかけて「宇多田ヒカルかくあるべし」という理想を追い掛けてきた結果なんだと思う。その理想とは「ヒカルがヒカルとしてそのまま在ること」だ。

要約すれば、宇多田ヒカルは「あえてありのままで」宇多田ヒカルでありつづける。つまり、ただ天然である人より一枚強くその魅力を失わずに前に進んでいってくれる事を、当の本人が調達した時に自らに誓っているのだ。そこらの天然ではとてもこの境地に到れまい。

なので、きっとヒカルは2021年も、我々の我儘な期待に応えて「いつものヒカルちゃん」で在り続けてくれる事だろう。信じる相手として、こんなに心強い人は、ちょっと他に見当たらないよね。疑うのも疲れちゃったよ? そうだね、そんなのは、きっと時間の無駄だろうね。だから Don't Waste Your Time !!

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あれま、来月一日、つまり今週金曜日の深夜25時30分からヒカルがなりくんのラジオ番組に出るのか。あれま。

アテクシなりくんにTwitterブロックされてるから、何言っても構わないんだよねぇ…ってそういや検索避けの為になりくんって呼称にしてたんだからもう小袋成彬って書けばいいのか。うっかりしてたぜ。

ということで、つまりこれは来年出てくれないかなと我々がひたすらに期待しているヒカルの次のアルバムのメイン・プロデューサー二人の対談ということになるな。お互いロンドンに居たから実現した、といったところか。J-Waveの番組ということで放送はローカルになってしまうが今はradikoプレミアムという手があるので熱心な方は是非ご検討を。今後もローカル番組への出演はあるだろうから、慣れておいた方がいいかもね。だが深夜の放送ということで録音する方策もとっておきたいわな。radikoolは今ちゃんと動いてるのだろうか。あたしは目下Ange4を使ってるがパソコン慣れてない人には厳しいわねきっと。あとオフィシャルアカウントが「次回の放送は元旦!」と呟いてるが、元日の朝ではなく深夜、つまり1月2日の早い時間帯の放送なのでお間違えのないように。って自分に言ってますね私ね。


プロデューサー同士のトークとはいえ別に新譜の展望を語る訳ではなくヒカルがインスタライブでも紹介していたジェイ・ハスの「ビッグ・コンスピラシー」を一緒に聴いてあれやこれやということらしい。二人でラップするんだって。まぁ仲睦まじいこと。前の『丸之内サディスティック』のカラオケは名演だったので今回も期待しよう。


って、あー何を書いても白々しくなるな。小袋成彬が炎上しそうな話しをしやしないかが心配なんですよ私。相変わらず。最近彼のトークを聴いてないので、幾らか改善されていればいいなという期待は持っているのだけど。照實さんや三宅さん同様、もう「宇多田ヒカルサイドの一員」と受け取られていくだろうから、その発言はどうやったって取り上げられる。今回はヒカル本人がゲスト出演なんだから尚更ね。あ、前みたいに三週連続とかはないのですかね?

単に二人が仲良さそうに喋ってるのを嫉妬するだけで済んでたら平和だったのだけどな。やれやれ。

それに、ヒカル自身の活動の話はあんまりしないだろうからね。2020年の音楽シーンの総括と2021年の展望を語ったらもう時間が来てしまうだろうし。ヒカルの楽しそうな話し声が新年一発目から聴けるというその一点が麗しい。なんとか深夜1時半のHalf HEART STATION TIMEまで起きていられれば、その夜は1月2日なので、いい初夢がみられるのでだと思っておこう。「イチ藤圭子サンHikki」と言いますからね。(言いません)(ニはどこ行った)(そもそも意味がわからない)

確かに、二日の朝起きた時に「あれは夢だったのではないか」と思いかねないので(笑)、再びの念押しになりますが、皆さんきっちり録音しておきましょうね。ってこれ完全に俺が録音失敗するフラグ立ててる感じになってるな。ようよう気をつけておこうっと。

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『One Last Kiss』をフィーチャーした「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の本予告動画の音声がモノラルなのが未だに引っかかっていてね。ビットレートも低いし。

まず考えられるのは発売前音源だからネットで出回っても構わないクォリティという解釈。ただ今のご時世音質はティーザーから高い方がプロモーション的にはベターな筈で、そんな戦略がとられるともあんまり思えない。

単純に、曲が強いから音質云々は大丈夫だろうということか。それならまだわかりやすい。

昔この日記で宮崎駿監督の「風立ちぬ」を特集した時にこのモノラル音声について論じた事がある。今の映画は音声が7.1chで映画館の鑑賞では四方八方から音が浴びせられるのに対して、銀幕のサイズは昔のまま(多少縦横バランスに変化はあったりするかな)だから、どうにも印象として視覚の世界が聴覚の世界より手狭く感じられ視覚による迫力を相対的に減じている結果となっている。4DXも人気を博し映画館がテーマパークのアトラクションと化してくればそこに触覚や体感まで加わりますます視覚の認識割合は減る。

宮崎駿はアニメーター出身の監督だ。とことんアニメ、視覚刺激に拘りたい。ならば、視覚による世界の広がりの為に音声をモノラルにすればいいという結論に達して「風立ちぬ」の音声をモノラルにしたのだろう、と私は推測した。同作で主演声優として参加した庵野総監督は、その効果の程を身に染みて感じていたのではないか。

シンエヴァ本編が全編モノラル音声だと言うつもりはないけれど、今回の本予告でもモノラル音声はある程度視覚の広がりに貢献している筈。そこらへんの印象は今現在劇場で流れている本予告を御覧になった方々に訊いてみたいところ。

実際、『桜流し』の時にも指摘したのだが、「Q」本編の終局で同曲が流れ出した時、それまでの広がりのある5.1chのサウンドから2chの音楽に移行したせいで急に音の広がりが少なくなったと感じられた。歌の強さが凄まじかったのでそれはさして負の印象ではなかったものの、やはり場合によっては映画の主題歌には5.1chミックス版を用意すべきではと感じた。

その一方で、或いは逆に振り切って、モノラルで押し切れば歌の強さが突き刺さっていいのかもしれない、とも論じた。どのような手法が効果的なのかは素人にはなかなかわからないところだが、もしこの本予告動画が今劇場でもモノラル音声で流れているとすれば、その効果は観客の皆さんに伝わっているだろうね。

実際、この80秒程の『One Last Kiss』でのサウンドのアレンジはモノラルでもさして気にならない程度の簡潔さと音の隙間なので違和感は殆ど無い。寧ろ低ビットレートの方が気になるだろう。

少しあからさまだが、『One Last Kiss』のフルコーラスでも、モノラルとステレオの差異を利用した構成が無いとも限らない。よくある手と言ってしまえばそれまでだが、映画とリンクしてしまうとインプレッションは強大になる可能性もある。そうそうは侮れない。

ひとまず、本予告動画を繰り返し観た人は皆『忘れたくないことを、ヲ、ヲ、ヲ、ヲ・ヲ〜♪』のフレーズが忘れたくても忘れられない程脳裏に焼き付けられているだろう。今はそれで十分だ。あそこの軽快さとほんのちょっとのノスタルジーが今回の映画のメイン・テイストになる。スタイリッシュで、小気味よく、しかし少しどこか心に引っ掛かるような。でもこういうリズミックな曲、アニメファンには馴染み無いかもな。大体小洒落たエンディング・テーマって、何事も無かったようにスルーされて駄曲認定すらしてもらえない。まぁそれも今はそれでいいか。なんかまだ序の口だよね、映画も歌も。遠慮無くハードルあげときますね。

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「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の新たな予告編動画が公開になってしまった。『One Last Kiss』をフィーチャーして! 90秒足らずの動画、ひたすらエヴァンゲリオンの映像と宇多田ヒカルの声である。YouTubeで「急上昇ランキング#1」だそうな。一日で100万回再生は確実だろう。


ということで無意識日記では『One Last Kiss』の話をとっとと始めてしまうから、まだ聞きたくないという人は今すぐ急いでブラウザを閉じるんだ。いいですか。






ふむ。まさかクリスマスにこんなことをしてくるだなんて夢にも思わず。今回何度も驚かされっぱなしだよ。なんてこったい。おっとろしいクリスマス・プレゼントになったな。

『One Last Kiss』は16ビートの混合拍子、つまり『道』と同じリズムの楽曲で、ややアップテンポで強いビートながら隙間の多いアレンジは『Time』と似ている。つまり如何にも最近のヒカルが書きそうな楽曲だ。毎度ながら歌詞の乗せ方はトリッキーだがメロディー自体は耳馴染みのいいもので、「待ってました」と膝を叩いた人も多かろう。まだ一部分だけではあるものの、基本路線はつまり『Beautiful World』へのオマージュを含ませながら、“今”の宇多田ヒカルで押し切った感じだな。同じ混合拍子のリズムといっても、『One Last Kiss』と『道』は333322で『Beautiful World』は332332だが…ってそんな細かい話はまだいいか。

ビックリしたのは映像とのシンクロ率の高さだ。これを作曲した人は完全に千里眼だとしか思えない。なぜそんな細かいニュアンスがシンクロするのか。確かに、いにしえの「残酷な天使のテーゼ」よりこちら、音楽のリズムに合わせたカット割りはエヴァスタッフの大得意とする所だが、映像と音楽が呼吸を合わせて「洗練された小洒落センス」と「ヲタクの怨念」の両方を同時に感じさせてくるのが、もうなんというか、「結婚しろ」というレベルで合っている。このコラボレーションが大正解だったのだと13年かけて再確認した次第だわ。なんだろう、新曲に対する期待より、映画とのコラボレーションへの期待の方が現時点で上回ってしまうという、自分自身全く予想していなかったフェイズに入ってしまった。これはヤバい。

しかし、色々謎めいているな。なぜ80秒も音源をフィーチャーしていながら低ビットレートでモノラルなのか。どうして予告編で切り取った歌詞がここなのか。Louvreのくだりは、シンエヴァの最初の上映(&場面)がパリだった事を即座に思い起こさせるけども。

サウンドも、なんだろう、引き算で出来た感触が消えなくてな。いや確かに『Time』と同じ発想なんだろうなとは思うものの、今日はヒカルがツイートで『Addicted To You』の"UP-IN-HEAVEN MIX"と"UNDERWATER MIX"の話をしているし、この予告編の『One Last Kiss』ってひょっとしてリミックスの方なんじゃねーの?とか勘繰ってしまう。2004年に先に『Devil Inside』のリミックスを聴いてしまい期待外れを感じていた所にオリジナルを投下されてその素晴らしさに愕然とさせられた恨み(?)が私は未だに消えていないものでねっ! 警戒してしまうのだよっ!

音源がモノラルなのは庵野総監督が主役として出演した「風立ちぬ」を思い出させるが、彼の事だからどこまで何を考えているのやら。ホントにこの予告編、あらゆる意味で謎かけの風味なのにエンターテインメント性の高さを感じさせてくれる。興行収入は別として、内容に関しては、俄然期待が高まってきた。そしてヒカルは千里眼確定。どうやってこんな映画とシンクロする歌が作れたのか? また制作過程を教えて欲しいものですわ。

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Apple Musicはだいぶ前のアップデートから歌詞追尾機能が加わって更に楽しくなった。今歌ってくれてる所の歌詞をなぞってくれるヤツね。

その歌詞の強調の仕方がなんとも英語圏ぽくて。ぐぐんとポップアップさせる感じでぐいぐいと押してくる。なんか既視感があるなと思ったらアレだ、ミュージック・ビデオのない新曲をYouTubeで放流する時に作るリリック・ビデオだこれ。

英語圏の人の作るリリック・ビデオは大抵押しが強い。色を変えたり拡大したり回転させたり。映像加工ソフトの機能が新鮮で遊んでるだけなのかもしれないが、そもそも歌詞というものへの認識が日本語圏と異なる気がする。まぁそれはさておく。


当然、ヒカルの歌でも試してみたが、歌によって効果が異なるのが面白い。

例えば、『あなた』はこの歌詞追尾機能との相性が抜群にいい。視覚的に言葉を前面に押し出してくる感じとメロディー自体の聴覚的な役割が上手い具合に符合している。

ここらへんのバランス感覚がヒカルの特異なところでな。『あなた』が発表された時私ゃ「メロディーのもたつきが『Wait & See 〜リスク』にも通じる」みたいな評を与えた記憶があるが、どちらの曲もヒカルとしては計算済みというか、メロディー自体よりもそれに載った歌詞ががっつりリスナーに届くような、そんな音運びを意図的にしていたのだなぁと、Apple Musicの歌詞追尾機能を眺めながら認識を改めた。実際、アルバム『初恋』でいちばんのヒット曲って『あなた』だしね。歌詞が心に響いたという感想がわんさと目に入ったわ。

逆に『誰にも言わない』なんかは、歌詞追尾機能のせっかちさ&拙速さを嗜めるように堂々とそこに“言葉が在る”感じがして、『あなた』とは正反対ではあるものの、これまた趣深い。『あなた』ではまさに飛び出してくる言葉が心に刺さる感じと歌詞のポップアップがシンクロするのだが、『誰にも言わない』ではただ佇む詩をこちらから迎えに行くような感じで言葉が表示されていく。これはこれで新しい経験で、いやはや音楽再生メディアの進化ってな侮れないものだな。経験の質まで変えてくるとは。それと同時に、この言葉の揺るぎない佇みぶりが、せわしく生きる現代人にとっては、立ち止まって歩み寄らないと読み取れない、少し遠い感じがするんだろうなとまた再確認させられた。


なお、このApple Musicの歌詞追尾機能にはもつひとつ嬉しい権能があって、そのポップアップする歌詞のところをタップするとトラックの該当部分まで即座に飛んでくれるのだ。これがなかなかに便利で重宝している。更に欲張らせて貰うなら、タップ先のパーマネントURLを瞬時に取得出来れば、私も #i_uta & #e_uta で活用させて貰うのにな、とも思う。何れにせよ、音だけのコンテンツで視覚刺激を補ってくれる機能は大歓迎なのだった。


あと、更に余談だが、Apple Musicはアプリをダウンロードしなくてもブラウザからアクセスできる。

https://music.apple.com/

有料登録してなくてもプレビューは聴けると思うので、興味のある方はアクセスしてみるとよいだろう。

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日本人のクリスマス好きっぷりは凄い。キリスト教徒なんてそんなに居ないだろうに本当に皆さんよく乗っかってくれている。無神教だから何のお祭りにも乗っかれるというのは強味だ。ジングルベルとクリスマスツリーを片付けたらすぐさま注連縄と門松を表に出せる。あたしはこの節操のなさが大好きでねぇ。カレーライスもアンパンもこういう文化だから生まれたのだ。日本語ポップスもまた然りだね。今夜はそれは主題じゃないですが。


無神教でクリスマス気分を味わう時に大事なのは視覚的&聴覚的な演出だ。イルミネーションと、何より緑と赤の色の組み合わせがクリスマス気分を盛り上げる。今年は黒と緑のブロックチェックが竈門炭治郎のものになってしまった一年だったが、緑と赤の組み合わせはまだまだクリスマスの独擅場だ。違う季節でもこの組み合わせを見かけるとついつい「クリスマスっぽい」と思ってしまうくらいに。

音楽も同じく「クリスマスっぽさ」として刻み込まれてしまっているサウンドがある。そう、ジングルベル。「鈴の音」である。どんなポップソングも鈴の音を鳴らしてしまうと途端にクリスマス・ソングっぽくなる。つまり、クリスマス・ソングにしたければサウンドにジングルベルを加えなさいってこった。


『Can't Wait 'Til Christmas』は、宇多田ヒカルがクリスマス・ソングを作った事自体が衝撃だった。そもそも、シーズンに合わせて曲をリリースするという事も殆どなかったのだ。三宅プロデューサーは「『Automatic』は冬だ。」という名言とともに同曲を冬季に大ヒットさせたのだが、別に『Automatic』自体は冬の歌じゃない。槇原敬之みたいに「冬がはじまるよ」と直接的に歌った訳ではなかったのよ。

更にヒカルといえばクリスマスに思い入れが薄いことで知られていた。幼い頃年中家にクリスマス・ツリーが飾ってあって逆説的にクリスマスが特別な日ではなくなってしまっていたという。なんちゅう家庭に育っているんや。宇多田照實さんと藤圭子さんのお家だそうで。あら納得。(今更)

そんなヒカルがクリスマス・ソングを! しかも曲調が「如何にもJpopにありそうなクリスマス向けのピアノバラード」だったのだから更に驚き。まるで、あの、昔友達とカラオケに行って歌ったら下手呼ばわりされた即ちヒカルが歌うのが苦手だと思われていたDREAMS COME TRUEを彷彿とさせるような温和な歌詞とメロディー。まぁどちらかというとドリカム風と言うより吉田美和風と言う方が正確なのかもしれないが、まぁそれはさておき、そんな“他流試合”な作風のクリスマスシーズンのCMソングをヒカルが作った。ある意味とんでもなく“譲歩”した作曲だったと言える。

その“譲歩ぶり”を裏付けるのが、『Can't Wait 'Til Christmas』の後半に出てくるジングルベル、鈴の音の伴奏だ。これでこの歌がクリスマス・ソングとして決定的になったと言っていいだろう。完全なる季節曲。本来の宇多田ヒカルの芸風から離れて、こうやってファンを喜ばせる歌も作って唄うことが出来るのだ、ヒカルって人は。

ただ、その鈴の音の音量が控えめなところが、なんというか照れというか奥床しさというか、そんなところを感じさせる。クリスマスっぽさを前面に押し出しきらないというか。歌い出しが『クリスマスまで待たせないで』っていう歌の割に、そこらへんがなんかいいなぁ、と。あとシンバルとウィンドチャイムも鳴ってるがこれは冬の演出だろうかな。最後の最後でヒカルの性格が出てしまったみたいで、そこがそこはかとなく嬉しかった。

なお、『WILD LIFE』でのライヴ・ヴァージョンでは鈴の音は入っていない(と思う)。このヴァージョンでの歌唱はスタジオ・ヴァージョンでのパフォーマンスを上回る悶絶&絶品な逸品なので、今日明日『Can't Wait 'Til Christmas』を聴こうと思っている人は是非『WILD LIFE』の方も忘れずにチェックしてうただきたい。私は実際に当日このパフォーマンスを目の当たりにしたが、映像商品に収録されているのは一切修正の施されていない正真正銘のナマ歌であると断言できる。一発でここまで歌えるって、やっぱ2010年以降のヒカルのライヴ・パフォーマンスのクォリティは、全く以て尋常じゃないですよ、えぇ。

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@utadahikaru : 私も参加させていただいた小田和正さんの「クリスマスの約束」が配信されるそうです!いい経験だったな〜 あと小田さんから出演者へのプレゼントが豪華なものから手の込んだ記念になるものまでいろいろあってびっくりしたな〜 来年は番組再開できるといいね posted at 20:08:05



あらヒカルが自分の出演した番組の宣伝をね。珍し…くもないか。あれか、 @hikki_staffのツイートのリツイートじゃないのがなんか積極的っぽいのかな。

この年(2016年)に発表したシングル曲『花束を君に』についてヒカルはこんな風に述べている。

『「花束を君に」はNHK朝の連続テレビ小説が国民的な番組なので、意識的にいつにも増して間口を広げる作詞をしました。オフコースとかチューリップ、エルトン・ジョンの「タイニーダンサー」をイメージして軽やかな感じに“開いてる”曲を目指して。いろんな状況で、いろんな人に当てはまるといいな、と思います。』
https://okmusic.jp/news/134150


『花束を君に』を発表した2016年のクリスマスにオフコースのヴォーカルだった小田和正が毎年作・演出するテレビ番組に呼ばれた(というか、過去は断っていたのをやっと応諾した)のは、いい流れだった訳だ。

この時に二人が歌ったのはヒカルの『花束を君に』と『Automatic』、そして小田和正の『たしかなこと』だった。パフォーマンスが絶品だったことは言うまでもない。その様子が配信で観れる聴けるのだから価値がある。パッケージで欲しいけどね。

でも、当時も書いたが、やっぱりヒカルが皆と横並びで歌う姿が観れるのがレアで嬉しい。歌ったのは…そうか、ボブ・ディランの「時代は変る〜The Time They Are A-Changing」か。すっかり忘れてたわ。あぁ、普通に横並びになるんだなと、ヒカルの性格からすりゃ、当然なんだが、そこで大物感出したりしないんだなぁと妙に安心した記憶がある。

https://natalie.mu/music/news/213756

集合写真見たら、ひとりだけ白い…(笑)。

パフォーマンスは勿論だが、借りてきた猫状態のヒカルが遠景ながら堪能出来るという意味でもこの番組の視聴はオススメなのでした。あとはParaviのシステムが不興を買わない事を祈るのみ…南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏…。

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今日はBABYMETALの10周年記念ベストアルバムの発売日か。10年といっても結成時からのカウントなので、こちらが足跡を追っているのはメジャーデビューした2013年からだからあんまりピンと来ていないのだが、兎も角まぁとんでもない鰻登りな10年だったなと。誰が10年前に彼女たちが「世界で最も成功した邦楽アーティスト」になると予想したか。紅白にも出るそうで、「イジメ、ダメ、ゼッタイ」を歌うんだってね。頑張って欲しい。サプライズ・ゲストにChristopher Amottが…来ないわね。テレビ的にはサプライズにならんし、第一入国出来んわな。


さてベストアルバムといえば宇多田さんはシングル・コレクションは二回出してるけどベストアルバムという呼び方では『UTADA THE BEST』しかリリースしていない。しかも同盤は本人の同意を得ないリリースだったから、実質「一枚も出していない」というのが正しい。ライト層に対してはシングル・コレクションもベストアルバムみたいなもんだろうが、『Give Me A Reason』も『DISTANCE』も『Deep River』も『BLUE』も『テイク5』も『荒野の狼』も『夕凪』も入ってない作品をベストと呼ぶのはファンには違和感があるだろう。なので、リリースするならシングル・コレクションとは別口になるだろうね。

とはいえ昨今、ストリーミングで聴く人間にとってベストアルバムなんてプレイリストに過ぎない訳で。「初めての宇多田ヒカル」で十分なのよね。なので現実にはCDでリリースする時にどんな豪華な仕様にするかが注目で。BABYMETALなんて今回10周年で10種類出してんだから。

ならば何を付録にしてくるかだが…『First Love』15周年記念盤をリリースしたときには『Luv Live』のDVDをつけたのだからこれに匹敵する内容でないとな。でも、あとオフィシャルでリリースできるライブ映像って何かあるかなぁ。それこそナチュラルブリーズとかのテレビで流したのがついてきたらデカいんだけど、権利処理からして難しそうだわね。

では、違う方向性として、「過去全部のミュージック・ビデオの高画質版(&ハイレゾ音質)を収録したBlu-rayを同梱」あたりが狙い目になるんじゃないでしょうかね。現在のデカい家庭用テレビにも耐えられる画質と現代ならではの高音質。これならフィジカルが欲しくなるんじゃないかな。どうでしょうか。

取り敢えず、でも、そういう企画は、ヒカルが休みたくなった時の繋ぎの為に取っておいて欲しいので、来年とか早々には勘弁してうただきたく。やっぱり新曲新譜ですよ、えぇ。欲張りなんです私たち、はい。

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「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の初号試写があったそうで、関係者の皆さんの感想ツイートがちらほら。どれも感動して泣けた的な言葉が並んでる。正直拍子抜け。

というのも、じゃあ問題作じゃないんだなーと。いやそれを期待するのはどうなのという感じなのだが、20世紀のエヴァはエンターテインメントじゃなかったのだ。制作管理が破綻して第25話と第26話をまるまる犠牲にするという、しっちゃかめっちゃかな話題性が出発点だったのだ。

更に、同時代性というのも大きかった。セカイ系でありながら、その時を生きる人間の感情と絶妙にシンクロした。アニメという制作に時間のかかる媒体を使いながらライブ感を演出したのだ。

それを翻したのが21世紀の新劇序破で、普通にアニメ映画として楽しめるエンターテインメント作品を提示してきた。その路線でQも進むのかと思いきや、というのが2012年までの流れ。

となると、集大成たるシンエヴァは、問題作かつエンタメでないと気が済まない。ワガママなのは重々承知だがそれくらいでないと話題作にならないのよね。感想ツイートの数々からは熱気が伝わってこない。よく出来た作品ではあっても困惑が少なかったからだろう。

エヴァは鑑賞後に考察という娯楽を提供する事で後世に多大な影響を与えた。それが日本のインターネット黎明期と重なった事で「電脳空間で語られる」コンテンツとして支持を継続したのだ。新劇が制作されたのも、そういった背景があったからだ。

シンエヴァは「終局」という枷をつけられた事でこの特性と真っ向から対立する運命にある。ちゃんと内容を終わらせたのならあーでもないこーでもないと鑑賞後に考察と議論が繰り広げられる場面は激減するだろうし、終局だというのに謎を放置したままではそれは流石に許されないだろう。なので本来なら幕引き自体を反故にするのが正しいのだがそんな狼少年をやって今後も支持を得られるかわかったもんじゃない。呆れられるよね。

このように、どう転んでも何か言われる八方塞がりの中で人々を納得させるのに必要なのは理屈抜きの作品自体のパワー感になると思うのだが、それがなさそうというのがな。まぁ観るまでは当然評価は出来ないのだけど、もうちょっと期待感を煽って欲しかったなと。


しかし何より、誰も主題歌についてコメントしてないのがね!? あんまり効果的な使われ方ではなかったのか、初号試写だから省かれていたのか。事情は知らないが、聴いた人の感想はやっぱり気になるので、早々に誰か呟いてくれないかしらん。い、いや、事前の情報は少ない方が嬉しいかな。うぅむ、これは難しい。公開まであと1ヶ月、どうやって過ごしたものやらですわねぇ。

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『あなた』の歌詞は明確に息子に宛てて書かれたと言っていたので、今その『あなた』が自分の事を『わたし』と呼んでいるのだな。綺麗に纏まっている気がする。

『あなた』は映画のエンディング・テーマとしての機能も大したもので、ワンコーラスだけ聴く分にはとてもそれが息子に向けて歌われた歌だとはわからなかった。この時は、ある意味珍しく事前にインタビュー&コメントで「種明かし」をしてくれた訳だ。つまり、他にも息子に向けたコンセプトで書かれた歌が『Fantome』や『初恋』に収録されていても不思議ではない。

例えば、『嫉妬されるべき人生』だって冒頭の『軽いお辞儀と自己紹介』さえ無視してしまえば我が子に生まれてきてくれてありがとう一生見守っていくよと宣言した歌にも捉えられる。いやお辞儀と自己紹介も出産と産声の比喩だと思えば…っていやそれは強引過ぎるけれども…。

まぁそんな事を言い始めたら大人の雰囲気で固めた『残り香』ですら「ワインという小道具を無視すれば…」とかどうとでも言えるようになってしまうのだが、作詞ってそれくらいに自由なのだ。もっと言えば、そういう“目眩し”をひとつ入れてしまえば聴き手を幻惑するのも容易なのである。

ヒカルちゃんはそんな意地悪な(?)ことはしないよと言われそうだが、こう見えても昔プロフィール欄に【特技:「まいっか」でごまかすこと/人を惑わすこと/左足の小指の独立運動】と書いていた結構Sっ気の強いテキトーな人なのだ。いや独立運動は今関係ないけれどな。ヒカルって、ちゃらんぽらんではないけれどちゃらっぽこではあるのだ。なお、「ちゃらっぽこ」とは「口から出まかせのうそ。またはそれを言う人。」のことだ。…あれ?初めて知ったかも?

という事でこと歌詞に関してはこちらも結構自由に大胆に解釈した方がいい。『One Last Kiss』もきっと、それとはわからないやり方で、様々な人への思いを重ねて綴ってくれている筈。今のうちに心と耳を自由にしておきましょう。

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@utadahikaru : 皆さんの反応を見て補足!息子の「わたし」一人称は丁寧な言葉ではなく私の影響みたいで…日本語のインプットがほぼ母親からしかないから女言葉になってそのまま大きくなる、という海外育ちのハーフ(母親が日本人)の男子あるあるらしいです😅 posted at 22:50:19


ということで、ヒカルさんが皆さんの反応をしっかりチェック。ありがたいことです。

一人称については昨今LGBTQへの理解に伴い英語圏ではshe&heよりtheyを使おうという動きがあるようで。寧ろなんでそこで性別が要ったのかというのが中学一年生から英語を学んできた人間の感想なので要らぬ労力を省けるという手前勝手な理由で私は素直に歓迎したい。逆に今迄theyに慣れてきた向きとしてはそれで単数を表現するのに違和感があるかもしれないが、thisやthatから直接繋いで覚え直せばいい気がする。theseもね。てか、単数複数の区別も要らないだろというのが中一から以下略なので、それも無くしてくれても構わない。とはいうものの、この独特の言語体系は幾何学の発展に大いに寄与したと思われるのでそこへの注意は払われるべきだろう。話が逸れた。

ヒカルの息子君も今は息子君だが、今後成人して自らの生き方を選べるようになった時に性自認がどうなっているかはわからない。一昨日のツイートを取り上げた記事に「宇多田ヒカルの娘」と書いたものがあったらしいが、ツイート中に『5歳の息子』とハッキリ書いてあるのにすごい間違いだなとは思うものの、性別という捉え方が今後それぞれの社会でどうなっていくかと共に、関わっている人達が現在どんな認識でいるかも気にかかる。5歳でロンドンに住んでる子が日本語のWeb記事に目を通す機会はないだろうとは思うものの、彼(ってこの文脈でこう書くのムズるなぁ)がもし読んだら娘という誤解をどう捉えるのだろうか。あれくらいの年齢だと自分のことを大人に間違われると泣いたりもするし、だけど、男であることとか女であることに、間違い云々ってどう見えるのだろうな。まぁまだそれに悩むのはもう少し先の話になるだろうか。年齢的にも、時代的にも。

実際、自分の小さい頃などは(昭和末期だな)、男の子が女児向け玩具やアニメに手を出そうとすると奇異に見られる傾向があった。「美少女戦士セーラームーン」あたりからそこらへんの空気を打破する下地が作られ始めてた気はするがちょいと世代的に恩恵は受けていない。作品を楽しむのに性別で隔てられいてはもう半分の層からの取り込みを阻害するだけでメリットは乏しいように思われる。ただ、当時の社会構造への適応という意味でそういった教育には効能があったのだろう。今後どうなるか、少子高齢化社会では正直余り期待出来ない気はしているが、彼が成人する15年後とか(時期はその時居る国の法律によりますな)にどうなっているやら、あれやこれやと妄想が捗るのでありました。願わくば少数派にも多数派にも暮らしやすい世界でありますように。

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昨日からロンドンはまたも最高レベルのロックダウンに入ったそうで、それで昨夜のヒカルのツイートだ。小さいお子さんが学校に行けないのをお母さんが頑張って&楽しんで相手をしてあげている。頭が下がるわ。

しかし、ここで敢えてドライな事を言えば、つまり日中に宇多田ヒカルが仕事に取り掛れる時間が減るということ。恐らく具体的な予定は立ててはいなかっただろうが(立てても無駄なのでね)、これでまたアルバム発売は先に延びたと考えてよさそうだ。

勿論私自身は愛息の成長と教育が最優先だと考えるので、アルバム発売なんぞ幾らでも先延ばしにすべきだ。もっと言えば、完成してから発売日を告知すべきだと思う。去年から今年にかけて、音楽市場ではニューアルバムを制作・完成させながら所謂“塩漬け”になった状態でリリースを待つケースが幾つも出てきていた。どのタイミングで世に出すべきか、様々な要因が絡み合う為簡単には判断できない。

特に宇多田ヒカルというブランドは、EPICSONYにとって今や看板のひとつだろうから、これを中心に前後のリリースが決まっていく事も考えられる。影響は大きい。故に、まず完成品を作り上げてから、時節と時機を見極めつつリリースを決めていく事にした方がいいのではないか。

我々は、決して焦らない事だ。『One Last Kiss』からまた暫く間が空くかもしれない。タイアップが絡むと本当にどうなるかわからない。そういう未来も見据えて充実の8曲入りEPにしてくれたのかもしれない。そうだとしたら非常にありがたい。

日本はどうしても政策的に感染症禍に対する態度が緩みがちになっているが、英語記事を読む限り、米国や英国は全くテンションが違うようだ。それが市民レベルでどうなっているかまでは知らないけれど、ヒカルは、子を育てる親として、最大限慎重に動くだろう。

毎度、宇多田ブランドにおいては目先の収益より長期的な視野に基づいた評判戦略を重視していると書いている。実際、『Fantome』で実行した『通常盤仕様1形態』なんて大技はそういった視野がないと出来ないだろう。ファン層を考えるまでもなく、子育て最優先でスケジュールを組み立てるのが、評判戦略上最も適正なのではないかと判断する。

社会構造からしてどうしたって育児が軽視される風潮は見て取れるが、そこを踏み込んでしまうのが最適行動だろう。こどもの為に一年アルバム発売を延ばしました位言える世の中の方が、僕はいい。そっちにベットしておくね。

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@utadahikaru : 5歳の息子が日本語を話す時の一人称が「わたし」でたまらんばい posted at 22:01:06

@utadahikaru : 今ロンドンでは屋外でさえ他の家庭との交流が禁止されてて、学校が冬休みに入って友達に会えないのがほんと可哀想だけど、家でひたすら一緒にごっこ遊びしたり人生ゲームやったり、数少ない天気の良い日は公園で追いかけっこしたり、最近与えたポラロイドカメラで写真撮ったりして過ごしております posted at 22:15:39


日本では「僕っ娘(ぼくっこ)」という、一人称が「ぼく」な女子を慈しむ習慣があるが、対照的に「私っ息(…読み不明)」なる、一人称が「わたし」な男子を愛でる習慣は不肖私寡聞にして聞いた事がなく。ヒカルさんなかなか新しい萌えポイントを開拓していらっしゃる。

元々二次元で愛でられるような属性の数々は最初を辿れば三次元に具体的なモデルがいる事が多い訳でね。いや綾波レイやヴァイオレット・エヴァーガーデンみたいな人間が実在したかはまぁ別として。抽出化された属性を組み合わせてキャラは造形され進化していくものだから。


とはいえ、今回のヒカルの愛息の一人称「わたし」案件は、そもそも

『夢に「ダヌパ」って名乗る人が出てきて「変な名前!」と印象深くて』
『昨日、夢の中で、私の息子らしき幼い少年に「僕の名前はダヌパです!」って自己紹介されたんす。』

というヒカルの発言から照らし合わせて、なんだろう、彼の、いや夢の中での彼のキャラクターに合っているというかね。いや一人称はこの時「僕」なんだけど、この夢が日本語だった保証もなく、実は「私」でもハマってたんじゃないかな、なんて事も思ったり。如何にもダヌパなエピソードというか。

といっても、実際は、彼の生活圏で日本語話者が母親しかおらず、一人称というものを「わたし」しか知らないということも大いにありそうでな。ここらへん、例えば日本語圏では男児が見知らぬ大人に話し掛けられる時に「ボク、どうしたの?」と言われたりするような、そういう経験が彼にないというか。一人称が最初直接自分の名前になるのも周りがそう呼ぶからだし、父と母がお互いをパパママと呼ぶようになるのも子に合わせての事だし、斯様に一人称というのは他者との相互認識の過程を反映する象徴であって、となると彼の一人称が「わたし」なのは彼の実存感覚が母親と分かち難い事の証左であるかもしれず、一方で確固たる自我の確立を以ての「わたし」かもしれず、いずれにせよ興味深い事態だとは思うものの、ヒカルさんが愛息に激萌えしているのが伝わってくるだけでこの案件の報告の価値は既に確定しているので後は各々の勝手な妄想に任せるとしよう。しかしリプライでダヌパ呼びはなかなかに度胸があるなっ。

そして、ロンドンは4月の状態に逆戻りだそうな。本当に大変だろうけど、こうやってツイートしてくれると色々と落ち着いて、いいもんだ。有難いことなのです。

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ヒカルが子育てをするときいて、結構期待していたのが「子守唄」のリリースだったんだけど、未だに無いねぇ。そもそも童謡の『ぼくはくま』からして『夜はおやすみまくらさん』なので子守唄的な要素もあるし、『嵐の女神』なんかは『小さなベッドでおやすみ』で曲を〆るからこれまた少し子守唄的でもあるのだけど、昔から「眠り」が歌詞の重要なテーマのひとつとして扱われてきたから改めてさぁこれが宇多田ヒカルの歌う子守唄だと前に出してくるのも少し違うのかもしれないな。

子守唄を歌って我が子を寝かしつけるの、何歳くらいまであるんだろうな……自分は6歳くらいまであったような。もし宇多田家でも似たようなものだとすれば、そろそろそういうこともなくなっていくのかな。絵本の文字からメロディを創ってみせたヒカルママがオリジナルのララバイを創って歌う可能性は決して低くはないと思うんだが……。

『Good Night』ってタイトルを見た時は期待したんだよね、そのものズバリじゃないですか。でも蓋を開けてみると『Goodbye』を主体とした別れの歌でねぇ。それでガッカリした訳でなく、あ、そっちじゃなかったなと。この日記を読んでる方ならわかる通り、ありとあらゆる妄想を繰り広げながらいつも新曲を出迎えてますのでね。

で無理矢理、でもないか、その期待を繋ぐ手立てとして、『One Last Kiss』のKissが“Good Night Kiss”になりやしないかと勝手に考えてる訳ですよね。『Beautiful World』で『もしも願い一つだけ叶うなら君の側で眠らせて』と歌っているのだし、その一つだけの願いが叶う瞬間が『One Last』だったりしないのかなぁと。とはいえ、この単語の並びだと「永遠のおやすみ」「永遠の別れ」のラストキスになってしまう訳ですけれども。そこは映画のエンディングの流れ次第だわね。

『ぼくはくま』がくまちゃんと戯れていた時に自然に口をついて出た歌なのだから、愛息を寝かしつける時にヒカルが即興で歌った子守唄もあるはずだ……とまでは勝手に強弁出来ても、いざそれがリリースされるかというと全く別問題だしね。くまちゃんは世間で目立ってもいいけれど、こちらは生身の、これから先長い人生を歩む実在の人物に向かって歌っている唄になるので、そこはプライベートはプライベートなままにしておく、というのは考え方として一つあってもいいわね。

となると、例えば彼が大人になった時に「あの時の子守唄、レコーディングしてみたら」と進言すれば或いは世に出る事もあるかもしれないよね。そんな十何年後、何十年後の話を夢想しながら、その日を待つとしますか。いやはや、気の長い話ですね。

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