無意識日記
宇多田光 word:i_
 



光がワガママだったらどんなにいいかと毎度思う。ファンに対してああしろこうしろと口うるさくしてくれれば、「仕方ねぇなぁ」と苦笑いしながらどこまでもついていきますのに。

でも現実は勿論違っていて。あの人ほどワガママから程遠い人も珍しい。かといって利他的な訳でもなく、公共性を重視するでもなく、正義を振りかざしたりもしない。一体我々は彼女の何に共感しているのか、私は時々わからなくなる。

「ぼくはくま」に込められた思いは端的に纏めれば『ママ』である。嵐の女神も「お母さんに会いたい」だ。ワガママを押し殺した、という言い方が違うならいちばんの願いを口にするまで時間のかかる女、という言い方でもしてみるかな。

これは、小さい頃に満たされなかった思いが未だにくすぶっているのか、それとも単純に母が好きなのか、結構判断が難しい。言い換えれば、どうにかして"母に会う"事が出来たなら、この想いは昇華されて雲散霧消し次の段階にでも進むのか、それとも、どうせなら母と一緒に暮らしたいくらいなのか、みたいな感じだ。

後者の母とはシンプルに純子さんの事だが、前者の"母に会う"に確定的な意味を付与するのは慎重になる。それは例えば、小さい頃に見た母の背中を今度は自らが表現する番だという解釈も出来るし、或いは、小さい頃に感じた"母性"の再現を、何らかの表現を通じて獲得したいのかもしれない。すごくありていにいえば、母親になるか、母性を感じさせる曲を書くか、といった所か。

ここらへんは、光の"母親像"がどんなものかによって変わってくる、のかな。寂しさなのか、幸せなのか、不安や恐怖なのか、安心と信頼なのか。年齢毎にも違うだろうし、まだまだ情報は足りてないといえる。

世には様々な人がいて、母親を頼る人、頼れない人、そもそも(もう)居ない人、等々母親像はその有無も含めて千差万別である。光の『ママ』の響きはそのどこらへんからくるのか。絵本のコンセプトに沿うならば、なんだろう、案外「"怒り"の源泉」なのかもしれない。

光が「私制作中は怒ってばっかり!?」というメッセを書いたのは16の時だったか。それは産みの苦しみともいえるし、あるべき姿に辿り着けない、あるべき姿を見いだせない自分に対する苛立ちと憤りなのかもしれない。

絵本でのくまちゃんは、自分の中に生まれた感情が何なのか把握できなくて苛立っていた。ただ親子に嫉妬していたというだけでない、仮にその感情が嫉妬であったとしても、それが何なのか表現する術を持たない段階なのだ。ここらへんのもどかしさは、あるべき姿の存在は感じてるのにその適切且つ具体的な表現方法がわからない制作段階のそれに似ている気がする。

光が、ワガママ・利己的でも利他的でもない性格なのは、ここらへんに適応したせいなのではないか。ただ自分の理想像を押し付ける事をせず、あるべき姿という"外の存在"を感じ取りながらそれに"出会う"為に徹底的に自分自身を掘り下げる。自分以外に出会う為に自分自身を掘り起こすのだ。エゴともパブとも違う奇妙な世界観。これがもしかしたら真の「ミュージシャンらしさ」なのかもしれない。

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前々回、光は幼少時の堅実な性格から、成長するにつれ"いきあたりばったり"な性向に変わっていったみたいだなぁ、なんて話をしたが、これは詰まるところ両親(或いはいずれか)の生き方に感化・同調していったプロセスでもあったかもしれない。

それは、職業としての音楽に対する態度の変化の過程でもあった。小学生の頃までは、いきあたりばったりな両親の生き方に反発心をもつと共に"ミュージシャンになんかならない"というマニフェストでもあったはずだ。それがいつのまにか、"歌ってみてくれない?"と声を掛けられて以降ミュージシャンとしての人生を驀進してしまい今に至る。と同時に、両親の生き方に同調するようになってゆく。車を売る必要はなかったが、私生活が破綻しようが作品は完成させるという執念は見事に受け継がれた。

光の両親への思いの変遷は、そのまま職業としての音楽に対する思いの変遷である。何しろ、音楽に携わる事即ち"家業を継ぐ事"だったのだから。職人の世襲は他の業界でも珍しい事ではないだろうが(梨園なんて大変である)、光にとって音楽と家族は切っても切れない関係にある。

だからこそ、光は曲の歌詞のテーマに家族の肖像を映し出す事を厭わないし(躊躇いがないともいえないが)、あまつさえ歌詞のメインテーマである事も隠さない。明喩された父性と暗喩された母性の組み合わせで構成されたEVAはまさに、誰あろう宇多田光個人の人生のメインテーマてもあった。

もう少し冷めた目線で言い直すならば、音楽に携わるという選択自体が、人の性向に傾向を与えているともいえる。絶対音楽的な"今"を最重要視する観点からも、計画的な人生観よりいきあたりばったりな人生観の方が音楽的な品質に資する、という考え方だ。この考え方に沿うならば、車を売ってスタジオ代を稼ぐ事は、そういった発想や性向自体がミュージシャン的なのであり、よい音楽はそういう人間の許にやってくるのである。作詞作曲とレコーディングを繰り返しているうちに光も、プロフェッショナリズムの観点から当然のように音楽に高品質を求めるようになり、自身の哲学も変化していったとも考えられるのだ。適応である。

となれば、ここで人間活動において重要なのは音楽から離れる事というより、職業として、家業として音楽に携わる事から離れる事なのかもしれない。生き方に関わってくるのは、あクマでプロフェッショナリズムを貫徹するかどうかの話だからだ。暇な時にIvoryIIをインストールしていても、それが仕事でない限り、人間活動には全く支障がないのである。

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