相模
さがみ
998頃 - 1061以降か
平安時代後期の歌人。
中古三十六歌仙、
女房三十六歌仙の一人。
実父は不詳、
摂津源氏但馬守頼光の養女。
母は能登守慶滋保章の娘。
初名は乙侍従(おとじじゅう)。
十代の頃、橘則長の妻となるが離別、
1020以前に大江公資の妻となり、
「相模」の女房名で呼ばれるようになる。
夫の任地相模国に随行したものの、
結婚生活が破綻し、
1025頃離別した。
この頃、四条大納言藤原公任の
息男の中納言藤原定頼との恋愛も
知られている。
一条天皇の第1皇女
(入道一品宮)脩子内親王に出仕。
1049内親王薨去後は、
さらに後朱雀天皇の皇女
祐子内親王に仕えた。
この間、数々の歌合に名をつらね、
後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍した。
(ウィキペディアより)
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さがみ
998頃 - 1061以降か
平安時代後期の歌人。
中古三十六歌仙、
女房三十六歌仙の一人。
実父は不詳、
摂津源氏但馬守頼光の養女。
母は能登守慶滋保章の娘。
初名は乙侍従(おとじじゅう)。
十代の頃、橘則長の妻となるが離別、
1020以前に大江公資の妻となり、
「相模」の女房名で呼ばれるようになる。
夫の任地相模国に随行したものの、
結婚生活が破綻し、
1025頃離別した。
この頃、四条大納言藤原公任の
息男の中納言藤原定頼との恋愛も
知られている。
一条天皇の第1皇女
(入道一品宮)脩子内親王に出仕。
1049内親王薨去後は、
さらに後朱雀天皇の皇女
祐子内親王に仕えた。
この間、数々の歌合に名をつらね、
後朱雀・後冷泉朝の歌壇で活躍した。
(ウィキペディアより)
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